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[巻頭論考]琉球の対清外交について : 雍正・乾隆期の一貢免除問題を中心に: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

[巻頭論考]琉球の対清外交について : 雍正・乾隆期の一貢

免除問題を中心に

Author(s)

豊見山, 和行

Citation

琉球王国評定所文書, 3: 6-21

Issue Date

1989-03-20

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19231

Rights

浦添市立図書館

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ノ、 ︹ 巻 頭 論 考 ︺

琉球の対清外交について

│ │ 薙 正 ・ 乾隆期の一貢免除問題を中心にーーー

豊見山

tま じ め ( l ) 近世の琉球王国の対明 ・ 対 清外交は、島津氏、時には幕府をもまきこむ問題がしばしば発生した。このことは、明 ・ 清との 冊封朝 貢関係を保持した琉球が、その関係を基本的に変更することなく幕藩 制 国家に組み込まれていたからに ほかならない。その点に近世琉球外交の特徴が見られると言えよう戸 さて、小稿は以上のような特徴をもっ琉球の外交を主に二貝免除問題からさぐることにある。 一 貢 免除問題とは、 難正帝による頒賜品への答礼として琉球から派遣された謝思の献上品を次期の進貢年に充て 、 そのかわり進貢使者の 派遣を一回免除するという清朝の処遇に端を発した外交問題である。史料の上ではご年之進貢使御用捨﹂あるいは ﹁准作二年一次正貢﹂のように表現される。 ( 3 ) 研究史の上では、すでに宮田俊彦氏がその問題の推移を概観している。しかし、氏の分析はも っ ぱら外交文書(﹃歴 代 宝 案 ﹄ ) にのみ依拠しているため、 その史料的制約から一貢免除問題の全体像を解明したとはいいがたい。すなわ ち 一 貫 免除問題は琉球・清朝間の問題にとどま らず 、琉球 ・ 薩摩聞の問題でもあり 、両 者を統合して表,察する必要

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があるからである。小稿の目的は、清朝との交渉のみならず、琉球 ・ 薩摩聞における一貫免除問題の処理過程を解明 することにある。さらに、 一貢免除を撤回しようとする琉球の外交姿勢のなかから冊封朝貢関係の維持が、 いかなる 意識のもとになされていたかをもあわせて検討するものである。 て 薙 正 帝 慶 賀 の 問 題 一 貫 免 除 の 前 史 │ 康照六 一 年 こ 七 二 二 ) 康照帝の死去にともない薙正帝即位の報に接した琉球は、 さ っ そく慶賀船派遣の準備に とりかか っ た 。 しかし、通常の進貢船 ・ 接貢船の準備と異なり、予期しない突発的な中国皇帝の代替わりへの対応は 容易ではなか っ た。首里王府は自前で渡唐銀 ・ 献 上 品 等を調達しえず、 それらを大きく薩摩藩に依存していたからで ある。そのため王府は玉城親雲上朝薫を同年六月末に鹿児島へ急派し、薙正帝の即位の件 、前年 の進貢頭号船沈没の 件を報告するとともに、慶賀使派遣にともなう具体的要請を次のように行 っ た。すなわち 、先例 に従い﹁金之丸抜太 ( 4 ) 万二腰、銀之丸抜太万二腰﹂と、通常の接貢料銀以外に﹁慶賀使遺銀・賦銀九五貫﹂の調達方を願 っ た。その際、慶 賀船の派遣によ っ て薩藩の御用向を欠くことなく福州での貿易が可能であることをも進言し、例年のようにご番方 ( 5 ) 銀﹂の下達をも要請した。このことは、慶賀船の派遣がたんなる新帝即位の祝賀にとどまらず貿易行為をもあわせも つ使船であることを示している。薩藩への奉公と清朝との冊封朝貢関係を同時に実現することによ っ て、両側面を矛 巻 頭 論 考 盾なく統一しようとする琉球外交の一特質が表現されていると言えよう。 さ て 、琉球側 の要請は、即座に容認されたわけではなか っ た。儀式用の金銀製の太万は、 たとえ﹁礼式太万﹂であ っても異国へ武具を 搬出すること は幕法に抵 触す るとして 、 江戸幕府の許可を得る必要があ っ たからである。ただし 、 七

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j¥、 ( 6 ) その事が露見しないよう指示を下していた。同年八月に ( 7 ) 幕府の許可を得た薩藩は、藩内で調達することを玉城や在番親方へ通達した。 それ以外の献上口聞や渡唐銀の用意については内密に準備し 、 準備を調えた琉球は、同年冬、 王 国 間 ・翁国柱、正議大 夫 ・曽麿を使者 として派遣した。琉球側が慶賀船を緊急に派 遣することを強く薩藩に要請したのは、新帝慶賀のタイミングを逸することを恐れるという理由だけからではなかっ ( 8 ) た。薙正元年(一七二三)九月付の書状によれば、﹁皇帝即位付ぁ、指揮 S 申使者、琉球同一被差渡候儀も有之候問、 早ヒ慶賀使差渡、指揮使之断を決可申遺﹂というように、清朝から新帝即位を報じる指揮使が来琉することを懸念し ていた。右書状に続けて﹁冠船之引続、若指揮使被差渡候あ£猶以難調、 必 至 S 当迫﹂という文言に明示されている よ う に 、 万て指揮使が来琉してきたならば、先年の冊封使の来琉(一七一九年) から数えて四年程しかたっておら ず、財政的逼迫は必歪であるということを恐れていたのである。指揮使の来琉を未然に防ぐためにも緊急に慶賀使を 派遣することが要され、指輝使の断りの要請上、礼式太万以外にも皇帝への献上品の用意方には神経を使っていた。 その表れは、当初中国で購入して献上する予定の﹁胡徹二百斤、すわう千斤、紅花百斤﹂が調達できない場合 、指揮 使の一件につき支障をきたすとして、 その代用として、例年中国へ持ち渡る品目のなかから﹁から紙五千枚、銅五百 斤、錫五百斤﹂を調達してほしい旨、薩藩側へ要求する点に見られる。薩藩側は、通常の場合、余分に携行すること は容認しえないが、今回は慶賀使という﹁重き祝儀﹂であり、 ( 9 ) を 認 め た 。 かつ指揮使断りのため格別であるとして琉球側の要求 王府は、薩藩から琉球検地を突き付けられていたが、前述の冊封使の来琉、近年の不作状況とあわせて慶

(

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)

賀船派遣による﹁物入﹂を理由に、その延期を願 っ ていた。対薩受渉において対清関係を楯の一つとして譲歩を引き 当 該 期 、 出そうとする王府の姿勢が読み取れよう。

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さて、以上の経緯を経て派遣された慶賀使節の首尾は上々であ っ た。薙正帝は、中山王へ例年の頒賜品以外に皇帝 ( け ) の直筆入り扇額(輯瑞球陽)、法部炉瓶食などの器物二五品目、鍛子二

O

本を下賜したからである。この破格の頒賜 に 対 し 、 王府は答 礼 の謝恩使を即刻に派遣しないならば 、中国の﹁格式 ﹂に 叶わず、﹁疎略 ﹂な対応として将来いか なる﹁難題﹂が発生しないとも限らない、 と謝恩使派遣の許可を薩藩に求めた。難正 三 年 ( 一 七二五 ) 八 月 、 問里親 雲上盛債は 、以上の要請とあわせて、例年の接貢料銀以外に中国での﹁遺銀・附ミ持高銀﹂として七九貫 六 百 目、主 要な献上品として﹁金之鶴 一 対﹂の調達方をも願った。献上品のなかには、京都などで調達しなければならない品目 もみられるとして、幕府の許可を得る前から準備することを要請していた。王府の要求はほぼ認められたが、その準 備は公然となされたわけではなか っ た。慶賀使派遣の際と同様に、﹁金之鶴﹂の準備一件も極秘事項として薩藩内で

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)

は取り扱われていたのである。 右の交渉のなかで、﹁渡唐銀之儀ハ御定数有之、柳相重候儀正難成事候得共、使者遺銀 ・ 賦銀ハ格別﹂であるとし て処理されていた点は注目に値する。﹁使者遺銀・賦銀﹂は、幕府の規定した渡唐銀の枠外に位置づけられているか ら で あ る 。 以上が 一 貢 免除問題の前史である。

、 一 貢 免除問題と琉 ・ 薩関係 巻 頭 論 考 薙正 三 年、謝恩使者として渡唐した米次親方朝雅 ( 向得功 ) 等の謝恩行為は、琉球にと っ て予想外の展開とな っ た 。 ( ) 宮田氏がすでに指摘しているように、薙正帝は当初、琉球の献上ロ聞を受納することを固辞したが、結局朝鮮国の先例 九

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に照らし、貢物を収受する代わりにその貢物を次の進貢に充当して一貢を免除する措置を講じた。この薙正帝の勅命 は、琉球にとって打撃であ っ た。なぜなら、薙正四年の進貢を免除するということは、必然的に翌年の接貢船の派遣 理由を失わせることになり、二年間の進貢貿易の空白を生じるからである。この一貢免除問題は容易に解決しえず、 その決着がひとまずつくのは潅正十二年(一七三四 ) で あ っ た。以下、その聞の推移と問題状況をいかなる方法で琉 球が打開しようと図 っ たかを具体的に検討しよう。 一貢免除の一件を薩藩が問題視するようにな っ たのは、難正七年(一七二九)頃と思われる。すなわち 、 同年九月 ( ) 十二日付の書状がその 一 端を伝えている。 ( 務正 三 ) 一去巳年、唐

ω

之謝思使米次親方渡唐之節、献上物之儀慈愛之筋ニあ免許有之候、然共遠国より差渡候を被差返 ( 薙正四 ) 候儀正如何付ぁ、去午年之進貢物に引当被差置候段 、 礼部杏文を以被申越候得共、右杏文琉球民不相違内午年 進貢使田里親雲上致渡唐候故其訳を申立、田里事、例年之通上京被申付候、右ニ付米次持渡候品ハ格護被申付 ( 薙正 六 ) ( 薙正八 ) 置、去申年之進貢-一引当可相納候条、申年使者不及差渡、来氏年之進貢使ぷ表文迄を可差越旨勅詫之段、当三 月田里帰帆ニる、礼部より之容文渡来候由、 すなわち、難正四年の進貢を免除するという内容の礼部容文が琉球に到来する前に、同年の進貢使回里親雲上等はす でに渡唐していた。清朝は進貢使節を受入れ、北京への上京を許可したものの 一 貢免除は解消せず、次回の進貢(薙 正六年 ) に引き充て、その年の進貢使者の派遣は無用であり、次々回の進貢の際 ( 薙正八年 ) に表文のみを呈上する よ う に 、 という勅命が下されたのである。ところが、難正六年の進貢使奥平親雲上等は、 回里等の帰国前に渡唐した ため皇帝の勅命に違背する結果とな っ た。上京願いは田里の前例に従 っ て 許 容 さ れ た が 、 一 貢免除は薙正八年の進貢 に引き充てることが確定したのである。

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( 薙正 八 ) ( 同 九 ) ﹁来成年進貢船井翌亥年接貢船差渡候儀、絶あ不罷成事候﹂という苦況に陥 っ た王府は、薩藩との協議の際、次の ような打開策を図 っ た 。 一 右之通、来戊亥両年波唐船差渡候儀難成筈候付ぁ、滞無之様ニ S 於琉球折角申談候処、外ニ了簡無之候、依之 申談候 ハ 、米次持渡候品慈愛之筋を以被差免、其外例外之賜物等有之、使者ニも例格之外拝領物有之、且又官 ( 潅正 八 ) ( 同九 ) 生首尾能動学仕致帰国候付る、為謝礼来成年謝恩船、翌亥年迎船差渡候へ ハ 、両年共無悌怠相済、唐之礼節 ニも相叶、進貢 ・ 接貫之料銀決御定数之通差渡何そ支之儀も無之、串方可然由吟味仕候段、琉球より申越候趣承 届候、米次ニあ差渡候品物進貢ニ引当被差置、其訳を以一年分之進貢可差免旨段ヒ申渡有之候儀正、先達あ差 越候杏文ニ相見得候、左候得ゑ此上来成年進貢船差渡候様ニ ハ 難致筈 S 相聞得候付、弥琉球吟味之通、来成年 ハ謝恩船、翌亥年ハ右使者迎船差渡、両年渡唐銀も御定数之通可差渡候、 すなわち、進貢使者に対する格別な拝領物と官生の就学・帰国に対する謝礼として謝恩船を薙正八年に派遣し、翌年 はその迎船を差出すことによ っ て二年間の空白を埋めることが可能となり、 かっ中国の礼式にも合致するものである と提言した。薩藩はその提案を了承し、通常の進貢・接貢の渡唐銀の用意を約した。謝恩船という名目での派船は、 ﹁名相替たる造之筋﹂であり、実態においては﹁常例﹂の進貢 ・ 接貢の形態となんら変わるものではなかった。その ( 日 ) ように薩藩も認識していた。 以上の方策のもとに諸準備を -調えていたところ、翌薙正八年、中国から帰国した奥平親雲上のもたらした中山王宛 巻 頭 論 考 の呑文は、琉球の方策を打ち砕く内容となっていた。すなわち、落正八年の進貢使、謝恩使のいずれの派遣をも無用 と通告してきたからである。窮地にたたされた王府は、河口通事の助言を容れ次のように方策の手直しを計った。 ( は 山 ) 薙正八年八月九日付の書状によれば、王府は、薩藩へ対し﹁当年ハ、先年皇帝即位之節度賀使差渡候格重キ使者差

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波 、 常例之進貢物相備、謝恩ニ付 t W 4 献上物受用無之積候問、献上物不及、書翰迄-一あ段ヒ其断ヲ申遣候ハヘ首尾 克相調儀決可有之候問 、 当年ハ右通重キ使者差渡候筋-一被仰付被下度旨﹂を上申した。 つまり、通常の進貢使に比し て格の重い使者を派遣することによ っ て局面を打開しようと図 っ た。その案は了承され、同年冬、王府は高位身分の 王 国 男 に 前 川 親方朝夷 ( 向克済 ) を充て、使者の派遣を強行した。前 川 等 の 任 務 は 、 ( げ ) 絶することなく継続されるよう清朝の諸官人に働きかけることにあ っ た 。 一貫免除の撤回を図り、進貢が断 潅正十年(一七三 二 ) にも使者を派遣して進貢を行 っ た琉球は、清朝から琉球国王の厚礼をつくした要請に鑑み例 年のように使者を派遣してよい、という内容を受けた、と薩藩に報じていた。ところが、薩藩は前 川 親方が携えてき た琉球国王宛の礼部容文と同十年の 礼 部宛の琉球国王杏文の中身を質したところ、例年通り断絶なく進貢使の派遣を 許容するという内容にはな っ て お ら ず 、 一 貢免除が根本的には解決されていないと 、 琉球側の釈明を求めた。翌年六 ( ) 月、事態の紛糾を懸念した王府は前 川 親方 、 識名親方朝栄を鹿児島に送り 、 以下の釈明文を提出した。 進貢使之儀-一付被仰渡候趣承知仕候、右御請申上候 ( 薙正 八 ) 一 去ル成年前川使者相勤候儀£何様可有之哉、太粧之訴訟候故、於福州河口通事・目深頼入、 心之及相働申候処、 差あロ能之儀決無之、使者差渡候儀ハ厚心入之由ニあ首尾能被請付安堵仕候 、 然 共 二 貝 一 被 差 免 候 筋 -一 ぁ 、 薙 正 十年之進責決十 二 年 ニ 差引可有之由候得£、訴訟相済不中筋候故、先キ/¥之儀、折角河口通事 ・目申談承合候 処 一 年之進貢使御用捨之儀ゑ皇帝上意之事 ニ 候、其上唐之作法ニあ、 一度右之通申渡有之候儀£取返不罷成 事候、前川使者被仰付候上£、先キ/¥進貢使差渡候 t w 決 伺 之 故 障 ・ 4 M 有之間敷旨、官人より承候問、其通可相 心得旨、河口通事より申聞落着仕候、 一 番文之内、十 一 年之使者差渡不及由相見得申候、十一年£進貢期ニあ無之間違候故、河口通事竺内ヒ申談候処、

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此儀決上意之事候、其上十一年使者差渡候儀無之候ハ、定期無構、最前β被差免候一年分之貢物差引罷成相済 不及沙汰由、内ミニあ承候、 ( 共 カ ) 一 番 文 之 表 -一 あ 五 、 先 キ / ¥之儀落着不仕候得候 、河口通事存寄迄-一あ決無之、官人 ・ 同 一 得 差 図 、 右 之 通 為 承 事 候 候儀後可有之候、其通候得ゑ幸之事候問、 得五、申渡同前之事候問、何そ故障有之間敷 S 於琉球決段ヒ吟味之上、何れ使者差相候儀£無礼罷成候趣を以、 去年之進貢使決定例之通被差渡候、右之段於御国許御尋之御答可申上旨、於琉球被申付候、此上正何分ニ浅御 差図次第、琉球同決可申越候、右之趣宜被仰上可被下儀奉頼候、以上、 月 識名親方 前川親方 第一条は、福州におレて河口通事へ依頼したところ、前川等の使者の受入れについての紛議は発生せず、その点に ついては安堵した。しかし 一貢免除の件については薙正十年の進貢を同十二年に充て 、琉球側の嘆願は受け容れら れなかったこと。 一貢免除は皇帝の上意であり、中国では一度そのように通達されたならば、撤回は不可能であるこ と。ただし、前川等を受け入れたことから将来的に進貢使者の派遣にはなんら支障はないこと。以上の点を河口通事 を介して清朝官人から確認した、 というものである。 第二条は、容文に薙正十一年の使者を派遣することには及ばないという文言が見られる。 しかし、同年は進貢年に 該当せず、清朝の誤りであるが、このことも皇帝の上意である。以前から懸案問題となっている一貢免除をその年に 巻 頭 論 考 引き充てることができ、その通りであれば琉球にと っては 好都合である。 第三条は、容文そのものには将来的に流球使者の派遣を保証する明確な文言はない。 しかし、以上の清朝官人の指 示から支障はないものと琉球側では吟味し、使者を差し控えることは逆に﹁無礼﹂になると判断して潅正十年の進貢 一 一 一 一

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四 使を定例通り派遣した、というものである。 薩藩側は、以上の琉球の釈明を基本的には了承したものの、今後は間違いが生じないよ う入念に対応すべしと戒め た 。 琉球側の釈明に示されているように、 一 貢 免除問題は清朝が進貢年を誤るという偶然の要素によ っ て 収息すること になった。この清朝の措置はたんなる偶然ではなく、琉球側の執劫な一貢免除撤回の要請行為が産みだした結果であ ると推測することもできよう。ただし、 その点の解明は今後の課題である。 ともあれ琉 ・ 薩 聞 における問題は、表面的には以上の交渉によって一応の解決を見た。 しかし、琉球側は薩藩への 返答とは裏腹に 一貢免除が根本的に解決されたとはみなしていなかった節がある。なぜならば、薙正十二年(一七 三四) において進貢使の派遣を中止していたからである。ここにいたって琉球はようやく清朝の一貢免除を受容した こ と に な る 。 しかし、それは単純に二貝免除を容認したというものではなかった。以下のような状況の下での進貢中 止であ っ た 。 結論を先に示せば、難正十二年の進貢使派遣を断念するかわりに、琉球へ漂着した朝鮮人を同年に福州へ送還する という方法を採 っ たのである。その経緯を摘記すると、潅正十一年十一月二九日、朝鮮人男女十一人が慶良間島へ漂 着 し 、 その報告が王府へ届いたのは同年十二月一日であった。 ( 初 ) っ ていたことは以下の通りである。 一貫免除問題を漂着人の送還に絡めて 解決しよ うと図 ( 前略 ) 朝鮮人漂着及破損候節 ハ 、進貢・接貢便ぷ唐同送越候例候得共、此節之儀

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進貢被差留筈 ニ 付 あ ハ 、 と かく仕立船を以送越不申候あ不叶儀 S 申合事候、進貢使被差留候儀ハ、別あ重キ事候問、低五使者を以御国元位 委曲可申上候、朝鮮人漂着ニ付、仕立船を以送越候段も同前ニ申上筋ニ申談候、(後略)

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すなわち、本来朝鮮人の漂着に際し、船が破損した場合には進貢船 ・ 接貢船のいづれかで中国 ( 福州 ) へ送還するこ と に な っ て い た 。 しかし、今回の場合、進貢使者を差し留められるという一貢免除問題が発生しているため通常の送 還ではなく﹁仕立船﹂で送還せざるをえない状況にある。進貢使を停止されたことは重大事であり、薩藩へその 一 件 の詳細を報じ、﹁仕立船﹂によ っ て送還することを在番奉行と協議した、 というものである。 権推正八年のように再び進貢使の派遣を強行することは事態の悪化を招きかねないとして、王府は難正十二年の進貢 { 引 ) を断念した。しかし、王府は﹁仕立船﹂ではなく、あくまで通常の進貢船による進貢を期待していたが、 つ い に 一 平 貝 免除を撤回する清朝からの連絡はもたらされなか っ た。だが、琉球は本来ならば、 二年間の中国貿易の空白を生じる はずのところを﹁仕立船﹂の派遣によ っ て 一 年の空白にとどめたのである。

、 一 貢 免 除 ・ 四 年 一 貢 ・ 外 藩 意 識 以上検討してきた一貢免除問題は、薙正期で完全に収息したのではなか っ た。乾隆年間にも潅正期とほぼ同様の一 貢免除が発生したからである。要点を摘記すると以下のようになる。 乾 隆 五 年 ご 七 四

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)

、紫巾官 ・ 翁鴻業、正議大夫・察其棟らは乾隆皇帝直筆の扇額 ( 永 一 昨 膚 棚 橋 ) の頒賜に対する 謝恩使として派遣された。ところが、 その謝恩献上品に対して皇帝は、薙正四年の例に照らして次期の正貴(乾隆七 ( 幻 ) に充て一貢免除を下達した。同七年の際には、琉球へ漂着した蘇州商人を送還することでその布達を ( 幻 ) 回避することが可能であった。しかし、 一 七 四 二 ) 巻 頭 論 考 年 一貢免除の撤回要請は受け容れられず、結局同九年(一七四四) の進貢を断 念 せ ざるをえなかった。 ま た 、 同二一年ご七五六) 、冊 封使全魁らに対する謝思使止して派遣された王国関 ・ 馬 宣 哲 、 五

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/ 、 紫金大夫・鄭乗哲らの献上品は、 ( M ) の で あ る 。 同二三年ご七五八) の 正 貢 に 充 て ら れ る 、 というように一貢免除の措置を受けた さて、同様の危機は、同五四年(一七八九) にも訪れる。すなわち 、 同四九年(一七八四)、乾隆帝は通常の頒賜 品以外に御書扇額 ( 海邦済美 ) 、 如 意 一 柄 、薮璃器四件、等々を琉球へ頒賜した。その謝恩として同五三年 ( 一 七 八 八)に紫巾官・向処中、 正議大夫 ・ 鄭永功らが派遣されたのである。ただし、この時の一貢免除問題は旧来のものと はやや異なっていた。すなわち、結論を先に言えば 一貢免除を撤回することに成功したのである。以下それが可能 になった経緯についてやや詳しく検討しよう。 右の状況を比較的詳しく伝えるのが、向処中・鄭永功らと共に渡唐し、 ( ) 鄭作森に対する褒書(口上覚)である。 一 貫免除撤回に功績をあげた北京大通事 それによれば、謝思口聞を献上すると、これまでの慣例に照らして一貢免除を適用されることは﹁天朝御光規﹂との ことで必定であ っ た。そのことを憂慮した鄭作森は、礼部街門主客司の官人たちへ次のように働きかけた。すなわち、 ﹁外務之琉球園、専天朝之奉仰御徳化候処、朝見及中絶候儀、国王始末々至迄別あ残念至極奉存候﹂と、 まず中国に 対する琉球の外藩意識を強調し、その後に具体的要求を次のように提示した。 第一に、琉球の謝思進上物の献上に対し、清朝側からは﹁御返礼物﹂を賜わり、進貢については順次許容してもら えるならば﹁天朝御 悩之思召 ﹂にかなうことになる。もし、 その要求を容れてもらえる場合には 、難正 三年のように 表文のみの呈上とな っ たとしても進貢の断絶だけは避けてほしいこと。第二に、 一時的な一貢免除の撤回ではなく、 将来の支障にならないよう主客司の官人衆にも取り計ら っ てほしいこと。以上の件を許容してもらえるならば、自ら の路銀を傾けて謝 礼に及びたいと贈答工作を仕掛けるなど色々思慮を働かせて要求した 。官人らは、薙正四年から乾

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隆二一年までの先例から見て、その要望は簡単には受容しがたいと拒否の姿勢をみせながらも実際には鄭作森と細か く内談を行い、助言を与えていた。 すなわち、﹁礼部街門、薙正以来之公案、謝恩被差上候次之正貢ニ者表文迄を被差上候、御免之章句相残三貝召留 候趣意之所者、悉書改置候あ奉願候者御取揚-一法可相成哉、臨分出精可相計段能御請込願書・地案等御渡被下、 万端 御内談被仰聞候通願 差上候﹂とあるように、謝恩の次の正貢期には表文のみを進上し、 一 貫免除の箇所はすべて書 き改めるよう要請書を作成していた。その要請書の作成は主客司の官人の指導に基 づ くものであ っ た。その結果、﹁早 速礼部ぷ御取直シ被遊 言上候、進貢ハ例之通被差上貢使致来京候得者、其時謝思之御返礼物被成下候ぁ、進貢ハ断 絶無之旨段ヒ蒙 勅諭、誠以御高恩冥加難有仕合帰朝仕申候﹂とあるように、前述の要請書が礼部から皇帝へ奏上さ れ、進貢許容のこと、謝思への返礼物を賜うこと、以後の進貢においても断絶させないこと、以上が勅諭によ っ て下 されたのである。ここに、権推正三年( 一 七二五)以来、六四年の長期におよんだ一貢免除問題は、基本的に決着を見 た。この問題の解決が琉球にとっていかに長年の懸案事項であったかは、﹁此レ誠ニ千載未ダ有ラザル之奇遇、百世 無窮之栄光也﹂という文言に明示されている。 だが、琉球 ・ 清朝間における貢期問題は、決して盤石なものではなか っ た。たしかに前述の一貢免除問題は、管見 の限りでは乾隆以後には発生していない。 しかしながら、 一貢免除よりもさらに深刻な問題が、 王国末期に清朝から もたらされた。すなわち、道光一ご年二八四二、清朝は琉球の責期をこれまでの二年二貝から四年一貫へ変更す 巻 頭 論 考 る旨を通告してきた。貢期の変更は琉球のみにとどまらなかった。越南(ヴェトナム) は琉球同様四年一 z 貝へ、遅羅 ( シ ャ ム ) は五年一貢へと貢期間隔の拡大が図られていた。このような清朝の冊封体制の一種の手直しについては、 なお詳細な検討を要するが ﹂こでは琉球の問題に限定しておきたい。 七

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人 結論を先に示せば、琉球は同年即座に玉男・向邦正 ( 恩 河 親 方 ) 、 正議大夫 ・ 鄭元偉(伊計親雲上 ) ら を 急 派 し 、 旧来通り二年一貢に復することを嘆願し、 翌年二八四ニ)、 四年一貫は撤回された。ここで問題となるのは責期拡 大を撤回させる際、琉球が用いた論理である。このことは、琉球が冊封朝貢関係をどのように位置づけていたかを知 ( 幻 ) ることにつながる。渡唐直前に向・鄭両名に充てた摂政・三司官の回遠からその点を探ることができる。それによ れば、﹁(前略)於御当国者隔年之進貢サへ間遠、 可成程毎歳表文 ・ 貢物被差上、猶々為蒙 御徳化、御国政目出度被 召行度トノ 御本意我々モ奉願事候処、四年一貢相成候ハ自ラ休 御徳化候儀遠可成行、殊更二百年余最通来候貢期、 至 御当代被召改候テハ第 御本懐不被為叶、対余国御外聞モ如何敷、又候御国許御当地御用物モ是迄之様不相調、 世上ニモ必至ト差支ニ相成事ニテ、芳以国土之難題一一相成事候条、(後略ごとある。すなわち、付琉球は隔年の進貢 (一一年一貢)さえもどかしく、毎年表文・貢物を進上して中国の徳化を蒙ることによって国政の運行を図りたいと国 王ともども思慮していたところ、 四年一貢とな っ ては徳化がおよび難くなること。同とりわけ二百年余におよぶ二年 一貫を当代で変更することは国王の本懐に叶わないこと。 伺 圏外における外聞が懸念されること。同門薩藩に対する御 用物は従前のように調達しえないこと。伺琉球圏内においても物資の支障となることは必然であること。以上のこと か " り 、 四 年 一 貢は﹁国土之難題﹂であり、是非とも撤回せねばならないというものであ っ た。向・鄭らは天朝の徳化 を蒙ることが琉球の﹁治国安民﹂であるという外藩意識を前面に打ち出して交渉・嘆願におよんでいた。その結果、 四年 一 貫を撤回することに成功した点は前述した通りである。琉球は中国の設定した冊封朝貢関係の理念を強力に展 開することで旧制に復したのである。

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む す び に か え て 以 上 一貫免除問題とそれに関連する四年一貫等の 問題を中心 に検討を加えてきた。琉球が一貢免除の撤回を執描 に展開したのは、直接的には朝貢貿易を縮小されまいとする経済的要因が存在したことは確かである。だが、 それと あわせて留意されねばならない点は 一 貢 免 除 問題はたんなる経済的要因 の み に 限定されない要素をは らんでいたと いうことである。すなわち、琉球にとって中国との冊封朝貢関係の維持は、幕藩制国家内に吸収・同化されない異国 性をもっとも顕著にあらわす対外関係であった。そのため中国との冊封朝貢関係を常に安定した強固な関係として維 持しよ うと図っていたのである。 ︹ 註 ︺ ( l ) 真栄平房昭﹁明清動乱期における琉球貿易の一考察│康問慶賀船の派遣を中心に│﹂(﹃九州史学﹄第八

O

号 、 一 九八四年 ) 、紙屋敦之﹁七島郡司考│明清交替と琉球支配│﹂ ( ﹃ 南島史学﹄第 二 五 ・ 二 六 号 、 一 九 八 五 年 ) 、 真栄平房昭﹁近世琉球の対中国外交│明清動乱期を中心に│﹂(﹃地方史研究﹄第一九七号、 一九八五年) 、 上 原兼善﹁明清交替期における幕藩制国家の琉球支配﹂(箭内健二編﹃鎖国日本と国際交流﹄上、吉川弘文館、 一 九八八年)等がある。 巻 頭 論 考

(

2

)

拙稿﹁近世琉球の外交と社会│冊封関係との関連から│﹂ ( ﹃ 歴史学研究﹄第五八六号、 一 九八八年 ) 。 3 宮田俊彦﹃琉球・清国交易史│二集﹁歴代宝案﹂の研究│﹄第三章﹁察温の外交﹂(第一書房、 一 九八四年 ) 。

4

享保八年(漆正元) 八月一八日付、北谷王子等宛友寄親方等連署書状(﹁御条書写﹂﹃旧琉球藩評定所書類﹄ 九

(16)

第三三

O

号、東京大学法学部法制史資料室蔵 ) 。刊本として、﹃琉球王国評定所文 書 ﹄第 一 巻に所収。以下、﹃評 定 所 文 書 ﹄ 一 四四頁のよ う に略す 。 なお、琉球・薩摩聞においては基本的に日本年号表記であるが、煩雑 さを避けるため小稿では行論の便宜上、中国年号で統 一 し た 。

(

5

)

﹁ 向 氏 家 譜 ( 辺土名家 ) ﹂十世朝薫の項 ( ﹃那覇市史﹄資料篇第 一 巻 六 、 二 九 六 頁 ) 。

(

6

)

註 ( 4 ) に 向 。

(

7

)

薙正元年八月 二 七日付、北谷王子等宛友寄親方等連署 書 状 ( ﹃ 評 定 所 文 書 ﹄ 一 四四頁 ) 。

(

8

)

一 四 二 頁 ) 潅正元年九月付、伊集院蔵人宛島津杢等連箸 書 状 ( ﹃ 同 右 ﹄ 、 9 玉城親雲上宛伊集院蔵人書状 ( ﹃ 同 右 ﹄ 一 四 三 頁 )

、 ( 叩 ) 潅正元年十月 二 日付、摂政・ 三 司官宛島津杢等連署 書 状 ( ﹃ 同 右 ﹄ 一 四五頁 ) 。 、 ( 日 ) ﹁ 中山世譜 ﹂ 巻九、難正元年条 ( ﹃ 琉球史料叢 書 ﹄ 四 、 一 三 五頁 ) 。

(

)

難 正 三 年八月付、種子島弾正宛島津中務 書 状 ( 評 定所 文 書 ﹄ 一 五八頁 ) 。 、 ( ) 註

(

3

)

に 向 。

(

H

)

権 推 正 七 年 九 月 一 一 一 日付、種子島弾正宛島 津 大蔵 書 状 ( ﹃ 評 定 所文 書 ﹄ 一 七 二 頁 ) 。 ( ) 薙正七年九月 二 一 日付、種 子 島弾正宛島津大蔵 書 状 ( ﹃ 同 右 ﹄ 一 七 三 頁 ) 。 ( ) 潅正八年八月九日付、種子島弾正宛島津大蔵 書 状 ( ﹃ 同 右 ﹄ 一 七五頁 ) 。 、 ( げ ) 権 推 正 八 年 九 月 二 一 日付、種子島弾正宛島津大蔵等連著 書 状 ( ﹃ 同 右 ﹄ 一 七四頁 ) 。 ( 凶 ) 権 推 正 十 一 年 十 月 一 日付、北 谷王子等 宛識名親方 害 状 ( ﹃ 同 右 ﹄ 一 九 三 頁 ) ( 印 ) 夜 間 正 十 一 年八月十 三 日付、種子島弾正宛島津中務 害 状 ( ﹃ 同 右 ﹄

、 一 九五頁 ) 。

(17)

巻 頭 論 考 ( 却 ) ﹁朝鮮人拾士宮人慶良間島漂着馬艦船を以送越候日記﹂潅正十 一 年十 二 月十 二 日 条 ( ﹃ 同 右 ﹄ ( 幻 )

λ

む 頁 ) 。 潅正十 二 年 二 月 二 一日付、森山親 雲 上等宛北谷王子等連署 書 状 ( 同 右 ﹄ ( 辺 ) 註

(

3

)

に 同 。 ( 幻 ) ﹁中山世譜﹂巻九、乾隆七年条 ( 一 四四頁 ) 。 ( 剖 ) ﹁ 同 右 ﹂ 巻十、乾隆 二 三 年条 こ 五

O

頁 ) ( お ) ﹁鄭姓家譜﹂七世作森の項 ( ﹃那覇市史﹄資料篇 一 巻 六 、 六 九 三 頁 ) 。 ( 部 ) ﹁中山世譜﹂巻十、乾隆五 三 年条 ご 六 四 頁 ) ( ) ﹁ 鄭 氏 家 譜 ( 湖城家 ) ﹂十七世元偉の項 ( ﹃那覇市史﹄資料篇 一 巻 六 、九 三 八 頁 ) 一 、七四頁 )

参照

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