序 フランス革命以降、フランスは国家言語としてフランス語を掲げる統一国家としての道 を歩むが、今日では諸地方が保有する多様な文化、とりわけ歴史のなかで受け継がれてき た地方言語が公的に認められる1 。言語の状況については、まさにジオルダンが「一体性と 多様性の矛盾した混合」と指摘したような様相を呈している2 。本稿が扱うプロヴァンスを 包含するオック地方3 は、19 世紀には既に言語のみならず 30 程の県ごとに異なる社会政治 情勢と固有の文化を構成しており4 、極めて多様な様相が見出される。 フランスの近代国民国家形成は革命理念の下に推進された。中谷猛氏が述べているよう に、19 世紀フランス社会は「祖国」の概念を基盤として国民統合がなされ、「自由」の観 念とナショナリズムへの情熱によって革命原理が受容されていく5 。そのようにして国民国 家を構成する新たな共同体として「国民」が組織され、統合され、国家形成が進展してい くのである。そのなかで、フランス語教育政策も国民国家形成の一環として構想された。 近代的な国民という観念は国家の「伝統」や「アイデンティティ」の形成によって支え られてきた。歴史家と考古学者たちによって地域の伝承や偉人が発見され、国民共通の「遺 産」となる対象とそれへの「崇拝」という意識が形成され、確固たるナショナル・アイデ ンティティとして新たな価値が付加された6 。こうして地域の伝統文化からフランス国家に 1 1951 年のデクソンヌ法によって公教育における地域言語(ブルターニュ語、バスク語、 カタルーニャ語、オック語)の教育が認められた。1992 年の第五共和政憲法にて「共和国 の言語はフランス語である」ことが定められるが、2008 年の改定によって「地域言語はフ ランス語の遺産の一部」という条項が付加されるに至っている。Yan Lespoux, “Foreigners from within? French school and regional languages between the 19th and 21st centuries”,
Civilization, 2020, pp. 10-11. 2 アンリ・ジオルダン『虐げられた言語の復権 : フランスにおける少数言語の教育運動』 原聖訳、批評社、1987 年、8 頁。 3 オック地方(Occitanie)はフランスのロワール川以南のオック語で総称される方言を有す る地域を指し、プロヴァンスはそのなかのプロヴァンス語地域圏を指す。ミストラルの辞書 『フェリブリージュ宝典』ではオック語としてプロヴァンス、ラングドック、ガスコーニュ、 アキテーヌ、リムーザン、オーベルニュ、ドーフィネの各方言が記されている。Domergue Sumien, “Classificacion dei dialèctes occitans”, Linguistica Occitana , 7 (setembre de 2009), pp.1-2. 4 Philippe Martel, Les félibres et leur temps. Renaissance d’oc et opinion (1850-1914), France, Universitaires de Bordeaux, 2010, p. 16. 5 中谷猛『近代フランスの自由とナショナリズム』法律文化社、1996 年、2 頁。 6 アンヌ=マリ・ティエス『国民アイデンティティの創造十八〜十九世紀のヨーロッパ』斎 藤かぐみ訳、工藤庸子解説、勁草書房、2013 年、3-9、173-176 頁。 論 文
フェリブリージュにおける地域主義の生成と展開
―綴字法論争をめぐるルーマニーユとミストラル―
安 達 未 菜相応しいものを見出すという動きが活発になる。すなわち、地域文化や固有言語に対して も国家の民族的源泉としての歴史が再評価されるのである7 。 他方で国家の統一化政策は、啓蒙思想の下での合理的精神とその普遍性に対する批判と も相まって、地域におけるロマン主義思潮の広がりを生じさせる。それに伴う民族意識の 高揚は地域の伝統的、歴史的固有性への尊重から地域の言語、文化の復興運動の発露となる。 すなわち、「地域ナショナリズム」を推し進める柱となるのである8 。結果として、19 世紀 フランスでは近代国民国家形成を推進するナショナリズムが拡大していく一方で、固有の 言語、文化、歴史を根底とする諸地域の主張が顕在化することになる9 。 本稿は、こうした国家ナショナリズムが展開を見せるなか、1854 年に創設されたプロヴ ァンスの文化言語復興運動団体「フェリブリージュ(Félibrige)」を対象に、その創設につ いて考察する。フェリブリージュ創設の経緯をめぐっては、文化言語復興運動を構想する うえで綴字法に関する論争があった。この綴字法論争は単に「綴り方」の問題ではなく、 プロヴァンスの文化、言語に対する主張と意志を内包していたと考えられる。本稿ではフ ェリブリージュの主要人物であるジョゼフ・ルーマニーユ(Joseph Roumanille, 1818-1891) とフレデリック・ミストラル(Frédéric Mistral, 1830-1914)を中心に、綴字法論争の内容 を分析し、そこから論争の根底にはルーマニーユとミストラルの「地域意識」の相違があ ることを明らかにし、フェリブリージュ創設の意義について一つの見方を提示する。 第一章 フェリブリージュ創設に至る背景 第一節 プロヴァンス語をめぐる歴史的経緯 フェリブリージュは活動目的の一つに「オック語」の再建を掲げている。徹底したフラ ンス語教育の普及は第三共和政期以降であったにせよ、プロヴァンスの詩人たちは既に 1840 年代後半には南フランスの言語の衰退を危惧していた。実際、同時代のプロヴァンス の歴史家ファーブル(Augustin Jules Esprit Fabre)は「今日、プロヴァンス語は通俗のパ
トワと同様に扱われその精神が軽んじられている」10 と述べている。ここには、プロヴァ ンス語、すなわち中世以来文学作品を生成してきたオック語が書記言語の役割を担ってき たという認識が窺える。フェリブリージュ研究の第一人者の一人であるマルテル(Philippe Martel)はオック語の歴史的経緯に関して次のように記している。 7 清水祐美子『19 世紀フランスにおける民謡収集と地域意識の形成 : 地域と国家との間で』 東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士論文、2013 年。清水は公教育大臣フォルトゥ ールの主導で実施された民謡調査を介して、地方エリートのアイデンティティが形成された ことを詳述している。 8 ネアン(Tom Nairn)は地域社会からネイションとナショナリズムが発生することを初め て定義した。中澤達哉「ネイション・ナショナリズム研究の現状と課題」『早稲田大学大学 院文学研究科紀要』第 47 輯、2002 年、39 頁。 9 地域アイデンティティ(regional identity)については、1983 年以降に注目され、研究さ れる。Joshua A. Fishman, Handbook of Language and Ethnic Identity, Oxford New York, Oxford University Press, 1999, p. 343.
10 Joseph Roumanille, Li Margarideto, Paris, Techener, Libraire, 1847, p. 174. 原典から の引用の日本語訳、傍点は筆者自身による(以下同様)。
「オック語は[…]幾人かの地域の権力者によって日々の管理に用いられる言語で あり、場合によっては、公証人の言語であり、さらに、ある時代までは王立の行政 機関との公式の通信に使用された言語でもあった。1500 年に王国は、書記言語に関 して 3 つの言語を有していた。ラテン語および通俗の 2 つの言語、すなわちフラン ス語とオック語が将来の公文書となるべき資料の紙面を覆っていた。」 11 フランソワ 1 世によるヴィレル=コトレ勅令が 1539 年に発布されるまで、オック語は公 文書において使用される書記言語であった。この事実は、プロヴァンスの詩人たちのプロ ヴァンス語再建の動機の一つとなったと推察される。 オック語(オクシタン語)とプロヴァンス語の変遷は以下のとおりである。ガリアへの ローマ人の移入に伴って浸透した俗ラテン語は、ローマ帝国崩壊後、ロマンス語の諸派へ と分化し、展開する。フランスの書誌学者ペニョによれば、フランスにおけるロマンス諸 語は、北部のガロ・ロマンス語と南部のオクシタン語に大別され、前者にオイル語が、後 者にフランコ・プロヴァンス語12 とオック語が位置付けられる13 。オック語は 9 世紀頃に は既に「完全に洗練された最初の言語」14 とも称され、11 世紀はじめ以降、とくに 11 世紀 末から 12 世紀に「宮廷風恋愛」を主題とする抒情詩人トルバドゥールによって、ロマンス 諸語における最初の文語に高められた15 。詩人ダンテは、トゥルバドゥール詩人たちがオ ック語で詩作したことについて、「あたかも雄弁家や古代の作家たちが、俗語ではあるが極 めて完成され優雅であるプロヴァンス語で初めて詩を書いたことに並べられる」、と讃美し た16 。ダンテとペトラルカは、文学的作品を紡ぎ出すオック語を「プロヴァンス語」と呼んだ。 プロヴァンス語を文語として確立させたトルバドゥールの潮流は 12 世紀ごろに北部に伝播 して、トルヴェールが生まれ17 、後にヨーロッパにおける叙情詩の祖型となった。この点 で、オイル語の展開とフランス語の形成にはオック語の影響があったことは否定できない し、むしろ歴史的に重要な意味を有している。
11 Philippe Martel, Études de langue et d’histoire occitanes Textes réunis et présentés par
Marie-Jeanne Verny et Yan Lespoux, Limoges, Lambert-Lucas, 2015, p. 91.
12 フランコ・プロヴァンス語はオイル語とオック語の間の地域の言語として 1878 年にイタ リアの言語学者アスコリによって位置付けられた。Graziadio Isaia Ascoli, Schizzi
Franco-provenzali. Archivio glottologico italiano, III, Ermanno Loescher, 1878, pp. 61-120. 13 ペニョは、ロマンス語がロワール河を境として2つの方言に分かれ、以北の言語をワ ロン・ロマンス語、以南の言語をプロヴァンス・ロマンス語と称し、さらに、それぞれの 地域の言語に対してオイル語(langue d’oïl)およびオック語(langue d’oc)の名称を付し ている。Gabriel Peignot, Essai analytique sur l’origine de la langue française, Dijon, Victor Lagier, 1835, pp. 20-36. 14 多田和子『現代オック語文法』大学書林、1989 年、3-4 頁。 15 小林標『ロマンスという言語―フランス語は、スペイン語は、イタリア語は、いかに生 まれたか―』大阪公立大学共同出版会、2019 年、21-22 頁。 16 ダンテ『俗語論』中山昌樹訳、『ダンテ全集』第 7 巻、新生堂、1925 年、36 頁。 17 Piegnot, op.cit., p.27.
11 世紀以来のフランス王室における「フランス語」文化の形成は、12 世紀半ばの宮廷学 校などの設立とその後の王国における官僚機構と公文書の保存整備の動きなども相まって、 13 世紀末には「フランス語」が唯一の宮廷言語とされることにつながる18 。中世フランス において中心的役割を担い、栄えていたオック語も、13 世紀にアルビジョア十字軍による 異端カタリ派の討伐によってトルバドゥール詩人たちを支えてきた貴族勢力が衰えるとと もに翳りを見せることになった。 第二節 言語の政治性 前節で述べた歴史経緯のなか、プロヴァンスでは 19 世紀半ばから新たな文芸活動が展開 した19 が、それは専らプロヴァンス語への危機意識を背景としていた。 ルーマニーユの処女詩集『雛菊』(Li Margarideto, 1847)において、歴史家ファーブルは プロヴァンス語の歴史的経緯について、次のように語っている。 「15 世紀後半にプロヴァンス伯の遺言によってフランス王権にその領土が譲渡され て以来、[…]プロヴァンスは政治的な独立も、ナシオンとしての個性(individualité nationale)も失った。それでも、プロヴァンスはその独自の特質、独特の風習や古 来のしきたりを維持してきた。[…]プロヴァンスの全ての地域言語は、見事な文法、 活力ある成句、趣に富んだ言葉、独創的な表現、心をとらえる印象的なイメージを 備えていたが、[…]国家の法令の施行によって、支配言語の優位を認めざるをえな くなった。」 20 ここには、フランスとその言語の浸透によって、プロヴァンスの「くに」(ナシオン)と しての権利とプロヴァンス語の公的言語としての地位が徐々に薄弱になったという歴史認 識が窺える。ファーブルは「プロヴァンスの都市とその近郊におけるフランス語の広範な 浸透」、「単独の政治機構の強化」および「行政の中央集権化とその国民への導入」がもた らされたのは、フランス革命とその政治勢力の影響下においてであったと指摘する。 たしかに、革命派司祭グレゴワールの言語調査によって、フランス全土においてフラン ス語話者はむしろ少数派であることが浮き彫りになり21 、他方で非フランス語話者と大革命 に対する反乱を関係づける考え方が支配的イデオロギーの一つとして急速に立ち上った22 。 18 原聖「多言語社会生成の歴史的条件について、ヨーロッパにおける長期的展望」『多言語 社会生成の歴史的条件に関する総合的研究』発行責任者 原聖、2007 年、26 頁。
19 Philippe Blanchet, Langues, Cultures et Identités regionals en Provence, 2019, p.176. ブランシ ュはプロヴァンスにおける文芸活動を 14 世紀(ペトラルカ)、17 世紀(エクス・マルセイ ユを中心に)、19 世紀半ばの 3 段階あると説明している。
20 Roumanille, op.cit., pp. 174-178.
21 Archive parlementaires, Première série, Tome XCI, Centre national de la recherche scientifique, 1976, pp. 318-327. 1793 年 9 月 30 日の報告によれば、当時のフランス国民と される 2300 万人のうちフランス語話者は 1100 万人しかいなかった。
グレゴワールは「封建的言語が消えゆく時代の到来」 23を目論み、公教育委員会の下でフラ ンス語を「自由のための言語」と定義し、言語統一化政策を提示した。歴史学者レスプ(Yan Lespoux)は、こうしたフランス語教育政策の方針には「共通言語が地域言語と共存しうる のではなく、「パトワ」は国家言語に道を譲るために消滅する必要がある」 24という特徴が あったと述べている。この方針は革命期にすぐに実行に移されたわけではなかったが、口 語をも含む言語の政治性 — 言語を政治支配の道具ととらえる見方 — が初めて確立され、後 にフランス語は言語の真正性というイデオロギーに支えられ、国民国家形成に利用される ことになる25 。第一帝政下には、地域言語に対して地理的空間を南北に二分するような「領 域性」を見出す認識が生まれるが26 、そこにも言語に対する政治性が見てとれる。 この傾向は地域言語にも影響を及ぼす。初等公教育が本格的に実施されるのは王政復古 期の 1816 年 2 月 29 日「フランス初等教育の憲章」の勅令以降である。その後、ギゾー法 の制定により公立の男子初等学校においてフランス語教育が進み、ファルー法では住民数 800 人以上の市町村に一校の女子初等学校の設立が規定されるなど27 、初等教育におけるフ ランス語教育が普及した。こうした状況下で、日常生活の言葉と暮らし方にも変化がもた らされる。実際、同時期には、地域の言語は「低俗な主題や滑稽な内容にしか適していない」 28 という考え方が民衆と地域の文芸家の間で信じ込まれていた。第二帝政期には、公教育大 臣フォルトゥールによって全公務員への政治的宣誓が要求され、公教育学校の教師の管理 がなされ、また、高等教育での哲学者や歴史学者の粛清がなされたが29 、これも思想統一化 に向けた動きとして捉えることができる。 他方では王政復古期頃から起こるロマン主義の潮流のなかで地域言語の探究と整理が行 われ、語源学と史料学に基づいて言語が体系化され、辞書編纂が行われている。例えば、 レヌアールはロマンス語の研究においてトルバドゥールの詩文を収集し、そこに記された言 語をラテン語やロマンス語と比較し、辞書の編纂を試みている30 。彼の研究は、後に述べる オノラの研究とともに、当時のプロヴァンス語の語源や綴字法の確立に関する検討であった。 23 Archive parlementaires, Première série, Tome XCI, Centre national de la recherche scientifique, 1976, pp. 318-327. 1795 年革命暦雨月(5 月 ; pluviose)10 日、小学校教員の 組織化の発令にて。
24 Yan Lespoux, Foreigners from within? French school and regional languages between the 19th and 21st centuries, Civilization, 2020, p. 6.
25 ルイ=ジャン・カルヴェ『言語学と植民地主義』砂野幸稔訳、三元社、2006 年、189-191 頁。カルヴェは「フランス国民は、フランス語の拡大をとおして形成され、[…]フランス 語だけが真正な言語とみなされ得る」と述べている。 26 佐野直子「ヨーロッパにおける「言語の領域性」バスク語境界地域のバイヨンヌ市の 事例から」『2010 京都研究大会 多言語社会研究会 年報 6 号』多言語社会研究会、2011 年、 108-110 頁。
27 Yan Lespoux, op.cit., p. 8.
28 Frédéric Mistral, Mes Origines Mémoires et Récits, Mayenne, Aubéron, 2010, p. 99. 29 小山勉「フランス近代国民形成と知の権力性の集権的制覇:第二帝政期における教育闘 争をめぐって」、『法政研究』(九州大学学術情報リポジトリ)、1994 年、462 頁。
30 ルーマニーユの Li Margarideto の巻末にあるオノラの注には、レヌアールの辞書編纂の 特徴が 11 項目に整理されている。Roumanille, op.cit., p. 231.
第二章 プロヴァンス詩人の連携 第一節 二つの文芸活動の成立と綴字法 18 世紀後半から展開したロマン主義思想は、19 世紀半ば以降の国民意識の形成過程にお いては地域の伝統文化への回帰を目覚めさせる。その一方で、プロヴァンスにおける 1840 年代以降の詩人たちの動きには、こうしたロマン主義文学の影響を受けながらも、それと は性格を異にする文芸活動の展開が見られる。それは地方に侵出するフランス語に対抗す る活動であり、プロヴァンス地域の詩人の統合を促すことになる。 フェリブリージュ創設以前の文芸活動は、労働者詩人31(poètes ouvriers)たちによって、 マルセイユを中心に展開されていたが、その活動は個人による傾向が強く、地域を越えた詩 人たちの交流は必ずしも盛んではなかった。例えば、1823 年には、プロヴァンスの詩人に呼
びかけて詩集『プロヴァンスの花束』(Lou Bouquet prouvençaou)を刊行する動きがみられるが、
出版はすぐに打ち切りとなる32 。実際にプロヴァンス地方の詩人たちが初めて結集するのは 1841 年であった。この年、マルセイユの詩人ピエール・ベロ (Pierre Bellot)が詩人たちを招 集し、定期刊行雑誌『タンブリネール』(Tambourinaire)の発行を計画したのである。しか し、この試みは成功したとはいえず、結果的にはプロヴァンス地方の文芸活動をエクス=ア ン=プロヴァンスおよびマルセイユの一派とアヴィニョンの一派とに二分させることとなっ た。それでも、この呼びかけ以来、両派の会合と年刊の雑誌が設けられ33 、各地域で詩人た ちの連携が強められた。これら二つの文芸集団において共同制作された刊行雑誌は、プロヴ ァンスにおける文学や詩文に対する賛美、共感、関心を喚起することとなったが、これに関 してはミストラル自身も「中央文化一辺倒の当時にあっては、快挙である」 34と称賛している。 1840 年代には、ドローム県ニヨンでの詩文会において「プロヴァンス愛好者たち」 (provençalisants)が標準フランス語の義務化と地方言語の保護のための今後の詩文活動 について議論を行なっている35 。この会合は、私立中等学校の校長を務めるイヤサント・デ ュピュイ(Hyacinthe Dupuy)36が開催した。デュピュイ寄宿学校では、プロヴァンス語で 詩作する詩人たちの養成に注力していた。この学校の教師と生徒、卒業生のネットワーク37
31 理容師ジャスマン(Jacques Boé Jasmin)、パン屋ルブール(Jean Reboul)といった職 人兼詩人のこと。Emile Ripert, Le Félibrige, Librairie Armand Colin, Paris, 1924, p. 28. 32 Ibid., p. 59.
33 René Jouveau, Histoire du Félibrige, 1854-1876, Nîmes, Imprimerie Bené, 1984, pp.29-30. 一方はマルセイユの週刊紙『ブイヤベッソ』(Lou Bouiabaisso)、他方プロヴァ ンスではルーマニーユ監修の『プロヴァンサロ』(Li Prouvençalo)。ルーマニーユとレイボ ーも『ブイヤベッソ』に詩を投稿しているが、彼らは雑誌における綴りの不統一や労働者 詩人たちの詩の内容などに対して批判している。 34 Mistral, op.cit., 2010, p. 98. フレデリック・ミストラル『ミストラル『青春の想い出』と その研究』杉富士雄訳、福武書店、1984 年、139 頁。 35 Ripert, op.cit., p. 54. 36 共和主義者であったデュピュイは青少年の公教育に専心し、当時の新聞などに数多くの 寄稿をしている。1871 年には国民議会議員を務めている。Ernest Glaeser, Biographie nationale
des contemporains, Paris, Glaeser et Cie, 1878, p. 219.
がアヴィニョンの文芸団体を形成する。実際に、会合にはデュピュイの教え子である詩人 カミーユ・レイボー(Camille Raybaud)と、この寄宿学校で教師を務めるルーマニーユ が参加している。ミストラルをはじめとする詩人たちが後に「フェリブリージュ揺籃の地」38 と称するように、ニヨンでフェリブリージュへと引き継がれる文芸活動の精神が育まれた のであった。ルーマニーユはデュピュイとレイボーとの交流をとおして、プロヴァンス語 による詩作に励むようになる。1845 年以後、ルーマニーユはデュピュイがアヴィニョンに 創設した寄宿学校に移り学監を務めるが、そこで、ミストラルとマチユ(Anselm Mathieu) と出会う。すなわち、文芸復興の理念の下に活動を行う寄宿学校において、将来のフェリ ーブルが成長したのである。 ところで、ニヨンにおける会合は、その後のルーマニーユの綴字法の主張にも影響を与 えている。この時期のプロヴァンス語の文芸活動では綴り字の統一表記はなく、継続的に 議論がなされていた。とくに、1830 年以降はラテン語の語源を尊重する語源式綴字法が主 流であった。これに対し、レイボーは語源を重視せずに発音(音韻)に特化した発音式綴 字法を主張し、それによって表現されるプロヴァンス文学と言語の再興に取り組んだ。レ イボーを師と仰ぐルーマニーユも彼に倣って発音式綴字法を押し進めていくのである。 語源式綴字法は、1846 年から翌年にかけてシモン・ジュドゥ・オノラ(Simon-Jude Honnorat)が刊行した 3 巻から成る『プロヴァンス語 — フランス語辞典』によって体系化 される39 。語源式綴字法は、ロマンス語を参照して作られ、複数を示す「s」や語尾の子音 などの語尾変化を残すという特徴をもつ。すなわち、この綴字法では明確に語意を読者へ 伝達することが可能となる。オノラは、日常で用いられる言葉の「発音」に対して時代や 地域に左右されない規準であるという理由で、歴史的綴り方に準拠した語源式の採用を主 張した40 。これに異を唱えたのがレイボーである。1848 年、彼は語源式綴字法に対し、語 源を規準にし過ぎるあまりフランス語より難解な綴字法になってしまっていると批判し、 プロヴァンス語が農民や民衆など多くの人々に容易に理解され使用されるためには、語尾 変化を省略し発音を尊重する発音式綴字法を採用すべきだと主張した。 レイボーの綴字法はフェリブリージュにも大きな影響を与える。実際、彼の主張は 13 歳 年下の弟子であるルーマニーユに継承される。ルーマニーユはニヨンでの会合をとおして 郷土への想いを高め、発音式綴字法に則ったプロヴァンス語で文芸活動を行うようになる。 その後、ルーマニーユはアヴィニョンで彼の弟子となるミストラルと郷土への想いを共有 し、プロヴァンス語とその文学の再興に向けて議論を重ねることとなる。しかし、それは 同時に綴字法の議論を含むものであった。それは、二人の復興活動の理念とフェリブリー 38 Ripert, op.cit., p. 55.
39 Raynouard François Just Marie, Lexique Roman ou Dictionnaire, Tome 1, Chez Silvestre, Paris, 1844, p. 9(ix), p.43(xliii). オノラは 1841 年以降辞書編纂に励むが、同時期の 1830 年から 1844 年にレヌアールは『ロマンス語辞典』6 巻本を刊行している。
40 杉冨士雄「フェリブリージュの創設と表記法の確立―ルーマニーユとミストラルを巡 って―」ミストラル(杉訳)前掲書、613 頁 -645 頁。オノラが主張する綴字法は音韻に縛 られないため、ラングドックにおいても使用可能となる。Alfred Artaud, Jeux floraux d'Apt
ジュの創設とに密接に関わっていくのである。 第二節 ルーマニーユとミストラルの郷土意識 ― 綴字法主張の相違 教師と生徒、卒業生との会合をとおしてルーマニーユの郷土への想いはより強くなってい った。彼は詩集『雛菊』において、プロヴァンスを「王冠を奪われ年老いた哀れな女王」と 形容し、トルヴェールの言語が次第に力をもつようになり、かつての高貴な恵みと豊かな音 を残すトルバドゥールたちのオック語が徐々に滅ぼされていると記している41 。そこには、 オック地方へのフランス語の侵入すなわちガリシスム(Gallicism)42に対する彼の非難が見 られる。彼はガリシスムを排し、プロヴァンス語の綴りを純化することを主張するのである。 他方、ミストラルは幼少の頃より両親から韻文や散文のおとぎ話を聞いてプロヴァンス 語を覚え、8 歳にして既にプロヴァンス語の詩作を試みている。そこには幼少期から育ま れた彼の郷土への想いが見出される43 。ミストラルのプロヴァンス人としての意識は、フ ランス語を話すパリのブルジョワジーと、彼らに対して自らを卑下するプロヴァンスの人々 への反感によってますます強まり、後のプロヴァンス語復興への強い動機となった。 実際、ミストラルは自叙伝のなかで、当時のプロヴァンスの子どもたちが「プロヴァン ス気質を捨てざるを得なくされている」と嘆き、次のように記している。 「ブルジョワたち4 4 4 4 4 4 4 の模倣と偏見が広く流布するにつれて、プロヴァンスの大衆もプ ロヴァンス語の内容豊かな表現を「品がない」と決めつけて顧みなくなっていた。 そればかりか、私たちフェリブリージュの詩人の先駆と目される著名な詩人さえ、 巷にはびこるフランス語によってかなり毒されていた。[…]フランスの支配者たち4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 が、プロヴァンスの名誉をないがしろにし、プロヴァンスの言葉を、あたかも従僕 に等しい地位に落としめたことは嘆かわしいかぎりである。」44 こうした意識の下でミストラルは、1851 年、21 歳のときに三つの信念を掲げて復興活動 に一層専念することを決心する。 「第一にプロヴァンスの民族的感情の再建と復活である。私は誤った教育と全ての 学校の異常さの下でそれが失われていくのを見てきた。第二に、郷土生来の言葉と 歴史の再興によってこの復活を引き起こすことである。今やどの学校もひどく躍起 になってそれを絶滅しようとしている。第三に、素晴らしい詩の創成に努め、詩の 熱意と影響力によってプロヴァンス地方の評判を回復させることである。」 45 41 Roumanille, op.cit., pp. 227-233. 42 ルーマニーユは、ガリシスムを地域言語がフランス語化していく意味で用いている。ミ ストラル(杉訳)前掲書、621 頁。 43 Mistral, op.cit., 2010, p. 37. ミストラル(杉訳)前掲書、57 頁。 44 Mistral, op.cit., 2010, p. 99, 182. ミストラル(杉訳)前掲書、142、261 頁。 45 Mistral, op.cit., 2010, p. 160. ミストラル(杉訳)前掲書、227 頁。
ルーマニーユは教師デュピュイと詩人たちとの交流の過程で、他方ミストラルは幼少期 の体験とプロヴァンス語による詩作、さらにはルーマニーユとの交流をとおして、それぞ れの郷土への想いを強くしていった。彼らは、この想いを基盤としてプロヴァンス語と詩 文の復興を目指し、文芸団体の結成を企図するのであるが、差し迫った課題が綴字法の刷 新であった。実際、文芸活動の統合の試みは常に綴字法の問題を浮上させ、詩人たちを統 合するのは容易ではなかった。ルーマニーユとミストラルは文芸活動と綴字法の統一を根 気強く目指したが、ルーマニーユはレイボーを踏襲して発音式綴字法を主張するのに対し、 ミストラルは語源式綴字法を支持していた。それ故に、1850 年以降、フェリブリージュ創 設に向けて綴字法に関して激論を展開したのである。 1850 年 12 月、ミストラルはルーマニーユ宛ての書簡で語源式綴字法の正当性を主張し、 発音式綴字法を以下のように批判する。 「語源式の方が、プロヴァンス語に慣れ親しんでいない人々にとってもより合理的 で平易です。それ故に、これは我々の詩の言葉を一つに集約する上での唯一の方法 です。プロヴァンス語を理解しやすいものにするために、論理的にも語源的にも、 可能な限り[発音式を語源式に]一致させましょう。[…]もしトルバドゥールたち4 4 4 4 4 4 4 4 4 が作品をそれぞれの村の方言にしたがって記述するならば、それはバベルの塔の二4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 の舞になる4 4 4 4 4 でしょう。私の意見を聞いていただきたい。[…]そうしないとあなたは 非常識に見られますよ。」 46 ミストラルは発音式綴字法の使用によってプロヴァンスやオック地方全体における文芸 活動が地域ごとに分割されてしまうことを危惧し、語源式綴字法の重要性を主張した。そ れに対するルーマニーユの主張は、マルセイユの詩人ゴー(Jean-Baptiste Gaut)に宛てた 書簡のなかに記されている。 「多くの協力者たちに支持された私の綴字法が非難されていることは承知していま す。[…]もし、[語源式で]書かなければならないとすれば、[…]我々の方言(dialecte) がもつあらゆる表情は消えてしまうでしょうし、その音韻はすべての優美さと心地 よい調べをなくしてしまうでしょう。[…]熟慮の末、我々は徹底的に[文字を]改 変する決意をもてなかったし、学識ばった綴字法に無理に従わせて、アルルやコン タ地方の言葉に固有な特徴、穏やかな音の調和、繊細さと優雅さを完全に消し去る 決心もできませんでした。」 47 ルーマニーユは、学識的な表記よりも諸地方固有の言葉の表情を尊重し、音韻上のたく ましさ、素朴さが十分発揮されることを重視していた。それに対し、ミストラルは発音式 46 1850 年 12 月 21 日書簡、Mistral, Frédéric, Mes Origines Mémoires et Récits;
Correspondance, R. Berenguie, Aix-en-Provence, 1969, p. 54.
綴字法が地域固有の音韻を保有しうる反面、ほかの地域の音韻を反映しえないことに納得 しかねていた。1851 年 7 月、ミストラルはルーマニーユにラングドックの詩人たちが使用 する語源式綴字法を紹介し、それが理解しやすく翻訳可能なものであることを強調した48 。 結論の出ないままに綴字法に関する議論は続き、1852 年には、当時ともに活動していた詩 人クルージャ(Antoine-Blaise Crousillat)が語源式綴字法で編集していた用語集をめぐっ て双方の対立が激化する。ルーマニーユは、クルージャに対し、多数派である我々の「学 派」の綴りを台無しにしていると批判し、ミストラルにそれを修正するように依頼した。 しかし、ミストラルの方はむしろ、ルーマニーユの主張する綴字法の曖昧さを指摘し、以 下のように主張する。 「この単数も複数も存在しない曖昧な言語[発音式綴字法]は、[…]あらゆる規則 を軽んじています。我々の美しい言語をおぞましいパトワに変えてしまうでしょう。 すなわち作者だけでなく、すべての人々にとって4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 理解しがたいものになります。[…] 私はそのことに髪をかきむしるほど絶望しているのです。」 49 ミストラルは発音式綴字法を使用することで文意を不明瞭にさせる恐れがあると指摘し、 クルージャの編集が誠実なものであると、強く反論した。最終的に、用語集はルーマニー ユの独断で書き直された。 綴字法をめぐっては、ルーマニーユは地域言語の音韻や表現を尊重し、ミストラルは文 意が明確に理解される綴りを重視していることが窺える。それは、彼らがそれぞれに文芸 活動によって存続させたいと願う対象の違いであり、それぞれが考える読者層や志向する 文芸活動範囲の表れでもあった。 第三章 プロヴァンス詩人の結集 第一節 綴字法をめぐる二派の対立と統合 ― フェリブリージュ創設 1852 年 8 月 29 日、ルーマニーユはエクス・マルセイユとアヴィニョンの詩人たちを招
集し、アルルで詩文会(Roumavàgi deis Troubaires)を開催する50 。ルーマニーユとゴー
によって企画されたこの会合では、プロヴァンスの詩人たちの親睦を深めることが目指さ れた。すなわち、「ガリアにとってのローマ」 51であるアルルで、プロヴァンス詩人たちお よびその活動を統合する試みが推進されたのである。招集された詩人たちのなかには、後 にフェリブリージュの創設メンバーとなるミストラル、オーバネル、ジエラ、マチユの 4 名がいた。この詩文会は盛況に終わり、第二回目の詩文会が計画されるに至った。また、 48 1851 年 7 月 30 日書簡、Mistral, op.cit., 1969, p. 73. 49 1852 年 1 月 9 日書簡、ibid., p. 85. 同書簡でミストラルは、ルーマニーユの主張する綴 りでは aimer、aimé、vous aimez の表記が全て “ama” となると指摘している。
50 Fe, No.18, 1941. “Fe” は 1940 年から 1968 年まで刊行された新聞に類する刊行物(当初 は A4 版 4 頁刷り)。ゴーの没後 50 周年を記念する記事のなかでこの詩文会が回想されている。 51 Jouveau, op.cit., p. 29. このルーマニーユの発言には、プロヴァンスの歴史的起源をロー マ帝国に求め、その中心都市(ここではアルル)を文芸活動の拠点に置く意志が見られる。
ルーマニーユが計画してきたプロヴァンスの詩人たちの共同執筆による詩集『プロヴァン スの娘たち』(Li Prouvençalo)が刊行された。 1853 年 8 月 21 日、エクスで第二回詩文会が、ルーマニーユの指揮下、ゴーによって開 催された。第一回目の詩文会以上に、プロヴァンス文芸活動および詩人たちの統合、さら にはプロヴァンスの地域アイデンティティの高揚を目指して綿密に準備がなされた。その 結果、エクスのリゴー(Rigaud)市長が司会を務め、地方の多くの名士が列席する「文学
的式典」(la cérémonie littéraire) 52となった。さらに、地域の復興すなわちプロヴァンス・
ルネサンスの最初の輝かしい一歩としてプロヴァンスの人々への周知をはかるため、ジャ ーナリストの参加も仰いだ。 同時に、綴字法の統一についても話し合われたが、発音式綴字法を主張するルーマニー ユが率いるアヴィニョン派の詩人たちに対し、語源式綴字法を主張するエクス・マルセイ ユ派の詩人たちが対立する。結局、綴字法をめぐる議論に解決の糸口を見出せぬままに詩 文会は閉会し、詩文を中心とする文芸活動の統合という当初の目的は果たされなかった。 第二回詩文会の収録詩集がゴーの計らいによって両派の綴字法を折衷する方式で表記され たが、この綴りについてルーマニーユが承諾したわけではない。 綴字法論争はルーマニーユが刊行した『プロヴァンスの娘たち』をめぐって激化した。 共同執筆による詩集はプロヴァンスの詩人たちによる「壮大なプロヴァンス・ルネサンス の動き」 53の成果であり、後には、そこに「幼年期のフェリブリージュ」 54を見ることができ ると回想されるが、これによってプロヴァンス詩人たちの統合が果たされたわけではなか った。論争の火種は、ルーマニーユが寄稿された詩を独断で発音式綴字法に統一したことに ある。これに対し、エクス・マルセイユ派の詩人カジミール・ブスケ(Casimir Bousquet) は、1853 年 8 月の同学派の会合で「レイボーたちの綴字法の主張は後退する。勝利するの はわれわれマルセイユ派の綴字法である」 55と述べている。既に、同年 1 月に、ブスケは正 統王朝派新聞『ガゼット・デュ・ミディ』(Gazette du Midi)で語尾抹消について抗議し ている。彼は語源と語法を探究し、トルバドゥールたちの綴字法の継承こそが「明瞭かつ 決定的である」 56と主張した。こうして、二派の統合の試みは挫折し、プロヴァンスの文芸 活動は決定的に二分されることとなる。 綴字法をめぐる激論は、ミストラルとルーマニーユの間においても交わされた。ルーマ ニーユはブスケに反論するためミストラルに後援を求めたが、ミストラルはルーマニーユ の主張する発音式綴字法が「純正な言語を早晩消滅させる」ものであると批判し「私は語 源学によって文学を立て直します」 57と返答したのである。1853 年 7 月 15 日にルーマニー ユはミストラルに次のような辛辣な書簡を送っている。 52 Ripert, op.cit., p. 65.
53 Lo Gai Saber -Revista de l’Escola Occitana, Toulouse, No.244, 1952, p.444. 54 Jouveau, op.cit., p. 28.
55 Ibid., p. 48.
56 彼の主張する綴字法では、例えば ar を伴う不定法、複数形の s などを排除しない。 57 1853 年 7 月 14 日書簡、Mistral, op.cit., 1969, p. 124.
「綴字法の偽善者たる君は猫かぶりの文法家だ[…]君は武器と全作品をもって敵 方に入るのだね!」 58 ミストラルは綴字法に関しては一部譲歩した上で、語源式綴字法による文芸活動を、直 ちに進めることをルーマニーユに求めている。 「あなたはなぜ私にプロヴァンス語の綴りの修正を望むのですか[…]私は綴字法 に関してあらん限りの思考力をつくして何度も譲歩を試みてきました。[…]いつも その繰り返しです。進みましょう!」 59 「私はアルル界隈に住むわずかな人々に理解されるだけでなく、広く南仏4 4 4 4 (Midi) 全域で理解されることば4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 で語りたいのです。」 60 フェリブリージュは、1854 年 5 月 21 日に先導者ルーマニーユとミストラルを含む 7 名 からなる小規模なプロヴァンス文芸愛好家の団体として創設される。創設当初の目的はプ ロヴァンスの言語、文芸、文化の復興であったが、その背景には、ルーマニーユやミスト ラルが感じていた当時のプロヴァンス語衰退への懸念や、プロヴァンス地域の歴史や伝統 文化の軽視への不満があった。こうした懸念や不満の下で、ルーマニーユはプロヴァンス・ ルネサンスを提唱し、プロヴァンスの地域アイデンティティの高揚を推し進めたのである。 それでも、実際には詩人たちの分裂に加えて、ルーマニーユとミストラルの綴字法をめ ぐる対立があった。結局、フェリブリージュの創設は二人の綴字法の対立を乗り越えると ころに見出される。フェリブリージュは 1862 年になって団体規約が制定され、50 名を超 える会員の名簿が作成され、組織化がなされる。当初は専らアヴィニョン派によって構成 されていたが、会員名簿には対立していたエクス・マルセイユ派の詩人も名を連ね、この 時、プロヴァンス詩人の統合が果たされる。実際、後にフェリブレンヌ(félibréenne)、次 第にミストラリエンヌ(mistralienne)と呼ばれる発音式綴字法やプロヴァンス語とオック 語、フランス語との辞書である『フェリブリージュ宝典』(Lou Trésor dou Félibrige)の刊 行がなされるが、これらはプロヴァンス詩人の団結の成果であるということができる。 それでは、ルーマニーユとミストラルはどのようにして綴字法の合意に至ったのであろ うか。二人の綴字法をめぐる和解は、ミストラルの譲歩によるものであった。第二回詩文 会の 3 日後、1853 年 8 月 24 日付の書簡でミストラルはルーマニーユに謝罪し、初めて歩 み寄りを見せている。 「私は涙をたたえて憂鬱な気持ちであなたへの手紙を綴っています。今日、私は漸 く固い友情、つまり我々の断ち難い絆に気づいたのです。[…]私は間違っていました。 58 Jouveau, op.cit., p. 46. 59 1853 年 7 月末日書簡、Mistral, op.cit., 1969, p. 126. 60 1853 年 8 月 13 日書簡、ibid., p. 130.
そうですとも、いくつかの点に関して、あなたを見捨てたことは間違いでした。」 61 ミストラルはルーマニーユの綴字法に対立する意見の表明を放棄する意思を示したので ある。ここには、ミストラルが恩師ルーマニーユとアヴィニョン派の詩人たちとともに文 芸活動を推進する意思が表されている。その後ミストラルはエクス・マルセイユ派の詩人 たちを非難し62 、ミストラルは当時執筆中であった叙事詩『ミレイオ』(Mireio)を恩師の 支持する発音式綴字法で書き換えた。このように綴字法論争を経て、ルーマニーユを筆頭 とするアヴィニョン派の詩人たちはフェリブリージュを結成した。 第二節 ルーマニーユとミストラルの地域意識の形成と相違 ルーマニーユとミストラルの綴字法論争はフェリブリージュ創設を目指した動きのなか で展開した。志を共有する彼らが早々に綴りを統一し、活動を開始しなかったのはなぜで あろうか。綴字法をめぐる主張からは、地域衰退の原因としてルーマニーユは中央一辺倒 の政治体制に、ミストラルは言語教育とそれによる民族意識の薄弱化に見ていたことがわ かる。それ故に、1850 年より続く二人の綴字法論争には文芸復興や郷土への想いに留まら ず、その後のフェリブリージュの規模や方向性に関わる彼ら自身の意思を内包しているこ とが窺える。以下では、プロヴァンス地方の保護と地位回復を信念とする彼ら自身の活動 の動機となる意識を「地域意識」と呼んで検討する。 実際、ルーマニーユとミストラルの綴字法論争の背景には、何よりも彼らの地域意識の 相違があった。 ルーマニーユは、オック地方へのフランス語とパリの文化の浸透―ガリシスム(Gallicism) ―がプロヴァンスにおける文芸および地域復興の課題であると捉えていた。それ故に、吟 遊詩人トルバドゥールの伝統と、ダンテやペトラルカにより讃えられたオック語を継承す る63という歴史認識を重視していた。しかし、こうした伝統の尊重に従えば、トルバドゥー ルの筆記言語を規範とした語源式綴字法を主張するはずである。しかし、実際には、彼は とくにアルル周辺地域の固有で豊かな音韻、音調を保持しうる発音式綴字法を主張した。 このことは、彼がプロヴァンスの第一都市マルセイユ、第二都市トゥールーズに対して、 アヴィニョンとアルルを中心とした文芸活動の興隆を構想していたことを意味している。 彼は「ガリアにとってのローマ」と称したアルルに南仏の伝統文化と地域アイデンティテ ィの源泉を見出した。さらに言えば、王党派の熱心なカトリック信奉者であったために、 彼が歴史的にも教皇領であったアヴィニョンをプロヴァンスの中心と自負していた可能性 は否定できない。いずれにしても、彼は、アヴィニョンとアルルを中心に歴史や伝統文化 61 1853 年 8 月 24 日書簡、ibid., pp. 131-132. 62 1853 年 9 月 1 日書簡、ibid., p. 133. ミストラルは、エクス・マルセイユ派がリエゾンを 避けるために「r」を発音することを恥じていると批判し、「改革者は発音式だけに基づく」 と述べて音韻の価値を強調した。ただし、ミストラルの語源式綴字法を重視する姿勢は容 易には放棄されず、再びルーマニーユに検討を求めている。1853 年 9 月 27 日書簡、ibid., p. 141.
を核として人々の自尊心を高め、さらに、彼らが活動を推進できる発音式綴字法を主張した。 他方、ミストラルは、フランスの中央政府の支配者層やそれに連なるパリのブルジョワ たちによる地方への偏見や地方言語の軽視を問題としていた。とくに、その要因が公教育 にあると考え、明晰とされるフランス語に対抗しうる語源式綴字法を主張した。この主張 は、単にトルバドゥールの綴りを規範とするだけではない。ミストラルは「南仏全域」で 理解されることを望んでいた。ミストラルが 1851 年に掲げた三つの信念(第二章第二節参 照)には、教育において地方の言語、歴史の知識を養うことで、民族的感情4 4 4 4 4 を再建し、プ ロヴァンス地方の地位回復を目指すことが提唱されている。それこそがミストラルの「地 域意識」の表明と捉えることができる。 上で見たように、ルーマニーユとミストラルは相異なる「地域意識」を抱いていた。そ して、両者の綴字法の主張はそれぞれの「地域意識」の相違に起因していた。それは、プ ロヴァンス地域の権利回復を実現する両者の方針や展望の相違でもあった。ルーマニーユ は地域固有性の存続を主張し(愛郷主義)、他方でミストラルは民族の連繋に見る固有性の 保持を見据えている(地域主義)。これは同時に、文芸活動において地域復興を訴えかける 活動基盤の相違と考えることができる。ルーマニーユがアヴィニョンとアルルを中心地と したプロヴァンス西部(現在のヴォークリューズ県、ブーシュ・デュ・ローヌ県など)を 対象とするのに対し、ミストラルはオック地方全体を対象とするが、後者にはプロヴァン スの民族自決に繋がる可能性が認められる。とくに、ミストラルの「地域意識」の根底に は「民族(race)的意識の共有」が見られ、この点ではルーマニーユとは異なっている。ミ ストラルは、活動の展望として、オック地方固有の言語、文化、歴史を共有する「地縁的」 繋がり―「エスニック」―を見出していた。実際、1860 年代以降にカタルーニャの詩人た ちとの積極的な交流を深めている点を考えれば、ミストラルの対象がプロヴァンスという 枠内に留まるのではなく、国家の枠をも越えた地域までにも及ぶことがわかる。 ルーマニーユとミストラルの「地域意識」には、19 世紀パリを中心に普及するフランス 語と国民意識に対する地方文化と社会の地位回復の希求が見てとれる。その意味で、彼ら の思考する地域復興の展望には政治意識も反映されていると考えられる。既に述べたよう に、ルーマニーユは文芸活動拠点をアヴィニョンやアルルに集中させることを望んでいた が、王党派である彼には地域言語と国家との関係について考えるうえで、地域言語や地方 文化の固有性への尊重が見られた王政の時代を懐かしむ傾向が見られる64 。 その一方で、ミストラルは共和主義を標榜していたが、秩序派と王党派を主な支持基盤 におく大統領ルイ・ナポレオンの下での共和政を「偽り」として、真の共和政を貶めるもの であると批判している65 。さらに、1852 年 3 月 9 日のデクレにより、1854 年 6 月までの第 二帝政初期には「公的教育高等評議会」から共和主義者が排除される可能性が続いていた 66 。 こうした状況下で、教育に関心を抱いていたミストラルは、パリの中央政府への対抗意識を 強め、オック地方の強固な共同体制を必要としたのである。彼が支持した語源式綴字法は、 64 Jeuveau, op.cit. p. 53. 65 Mistral, op.cit., 1969, p. 33. 66 シャバヌ『フランス近代公法史(1979 年〜 1875 年)』塙浩訳著、信山社出版、1998 年、485 頁。
オック語を祖語とする広い地域で意思疎通や文芸活動を図ることができ、民族意識の共有 化を可能とする。彼は「南仏のすべての人々」に理解される言葉を希望していたのである。 それはプロヴァンスのみならずオック地方全体に関わる問題であり、ミストラルの地域主 義として理解することができる。こうした彼の地域主義は、1862 年の団体規約制定時にフ ェリブリージュの会長(Capoulié)に就任すると、その政治意識とともに表面化すること となる。すなわち、その意識は 1860 年代のカタルーニャの詩人たちとの交流を経て連邦主 義構想へと展開するが、この問題は本稿を超えるので別稿で検討する67 。 結論 1854 年にルーマニーユを中心に結成されたフェリブリージュはどのような意義をもつの であろうか。本稿で示したように、1840 年代以降にはプロヴァンスの文芸活動や詩人の統 合が模索されていたが、フェリブリージュの創設は詩人たちの団結を促し、まさに一つの 文芸ネットワークを形成する方向へと向かわせたのである。 フェリブリージュ創設の経緯において展開したルーマニーユとミストラルの綴字法論争 は、単に綴字法にとどまるのではなく、その根底にあるそれぞれの「地域意識」―プロヴァ ンス地方の保護と地位回復を信念とする活動の動機となる意識―に関わるものであった。彼 らのプロヴァンスに対する地域意識の相違が綴字法論争として表れるが、その対立の克服 ―結果的にはミストラルの譲歩―により、アヴィニョン派の教師と生徒を中心とした詩人 たちの結束を生み、フェリブリージュ創設へと結実する。これは同時に、フェリブリージ ュ創設のもう一つの意義となる。すなわち、フェリブリージュはフランス・ナショナリズ ムに対する「地域意識」の高揚の結果であり、ルーマニーユの言葉を借りるならば、プロ ヴァンス・ルネサンスへと向かう最初の成果であったのである。 それでは、なぜ語源式を譲らなかったミストラルがその主張を変えたのであろうか。1853 年後半以降、ミストラルが自らの主張する綴字法を放棄した理由は、上で述べた文芸ネット ワークにおける師弟関係や地域社会的枠組み、すなわち、諸地域共同体の強化を優先させた こともあるが、他に大きな理由があったと考えられる。すなわち彼らの文芸活動の根底には、 ナポレオン三世の権威帝政と近代化の下でフェリブリージュの創設を急がざるをえないとい う差し迫った事情があったのではないだろうか。実際、ミストラルがルーマニーユに対して 謝罪と譲歩の意思を伝えたすぐその翌年にフェリブリージュは創設された。体調不良で主役 の一人であるルーマニーユが不在であったにもかかわらずである。ミストラルは綴字法に関 する自らの主張を放棄してまで、フェリブリージュの創設を急いだのである。 ミストラルがアヴィニョン派に留まったのは、ルーマニーユとの間に復興理念の共有が あったからである。マルセイユのゴーによる第二回詩文会の収録詩集には復興理念が明記 されておらず、プロヴァンス・ルネサンスを意図するミストラルにとって、詩人たちを統 合する意味はもとより活動推進の目的も見出せない。他方、ルーマニーユとは、文芸活動 の方向性の違いはあるが、地域言語と伝統文化の再興という目的意識を保持する点で、ミ 67 安達未菜「ミストラルの連邦主義思想の展開と変動―プロヴァンスとカタルーニャの詩 人たちの交流―」『文明研究』38 号、2020 年、109-129 頁。
ストラルの理念と意図に合致するものがあった。ミストラルは確かに語源式を主張してい たが、彼が視野に入れていたのは「学識」層だけではなかった。実際、フェリブリージュ 創設期の構成員のうち唯一の農民であるタヴァン(Alphonse Tavan)は、ルーマニーユや ミストラルの会合に通って詩作を行い、作品『魔法使い』(Li Masc)を執筆するまでに至 っている。この点で、ミストラルは、ルーマニーユと同様に中流ブルジョワと農民の二つ の階級が手を携えて活動を推進することを目指していたのである。 結局、地域の言語と文化や民族的意識の弱体化に危機を覚えていたミストラルは、恩師 ルーマニーユと活動をともにすることを決意した。この後、ミストラルは、1859 年に『ミ レイユ』(Mireille)を発表するまで、色彩豊かにプロヴァンスの風土を描き出し、地域文 化と文芸の良さを示すことに力を注ぐのであった。こうした姿勢には、プロヴァンスを超 えてオック地方全体の将来像を見据えたミストラルの「地域意識」が見出される。このよ うな「地域意識」は、その後のミストラルの活動をも支えていると考えられる。実際、ミ ストラルは、1862 年に団体の統率者となって以降も農民や大衆(peuple)に対して語りか ける内容の演説を行っている68 。そこには、オック地方全体が階級を越えて団結すること へのミストラルの強い意志が見てとれる。 さらに、ミストラルが志向した民族的意識と文芸活動を結びつける試みは、モンペリエ 大学教授サン・ルネ・タイヤンディエが詩人たちの運動を「国民主義運動」と性格づけた ように、同時代の知識人によってフェリブリージュ創設が高く評価された所似でもあった。 タイヤンディエはミストラルにプロヴァンス詩人を率いる役割を提言し69 、これを受けて、 ルーマニーユもミストラルの活躍に期待を寄せた。また、フランスにおけるプロヴァンス 地域の相対的な地位低下という事情も存在していた。これには、ギゾー法以降の初等教育 普及によるフランス語の識字率の向上70も影響していると考えられる。このためミストラル は、地域言語および文化、民族的意識の勃興を目指し、フェリブリージュの団体結成を急 ぐことにしたのである。 1855 年にフェリブリージュの定期刊行雑誌『アルマーナ・プロヴァンソ』(Armana Prouvençau)が発刊されるが、そのなかでは発音式綴字法が共通の筆記言語として定着する。 それはルーマニーユとミストラルの地域意識がプロヴァンスに留まらずオック地方に展開 されたことを意味する。彼らの地域意識は、フェリブリージュの組織化、拡大とともに多 くの団体構成員たちに共有され、彼らの詩文や祭典によって人々にプロヴァンス人として の尊厳を蘇らせる。それは、彼らが描いた「地域意識」がフェリブリージュ全体の「地域 主義」として展開され、プロヴァンス・ルネサンスとして結実することを意味するのである。 68 Mina Adachi & Yoichi Hirano, “The Modernity of Félibrige Movement in the 19th Century – f rom a Viewpoint of Language and Culture in Human Society”, ICIC Express Letters
Part B: Applications, ICIC International, Volume 11, Number 2, February 2020, pp.181-187.
69 Ripert, op.cit., pp. 61-63.
70 ジャン・ヴィアル『教育の歴史』高村昌憲訳、白水社、2007 年、78 頁。1827 年には過 半数(58 パーセント)が完全文盲者であり、1845 年に 38 パーセント、1868 年に 20 パーセ ントと 40 年で人口の 8 割が識字者となったことがわかる。
Il est souvent dit que la modernisation commence en France juste après la Révolution de 1789. Depuis lors, et durant tout le 19ème siècle, a lieu un processus d’unification nationale par la langue française dont l’objectif est de transformer le pays en État-nation moderne. D’un autre côté, on voit surgir des mouvements de valorisation des langues et cultures traditionnelles dans les diverses régions de province. Un des mouvements emblématique de ce type est celui du Félibrige, fondé en Provence en 1854. Ce sont d’abord J. Roumanille et F. Mistral qui jouent un rôle dans la première étape de sa fondation. Cependant, le Félibrige est créé après toute une série de péripéties qui ont lieu au sein des relations complexes qu’entretiennent les régions méridionales. D’ailleurs, même entre Roumanille et Mistral, éclate un conflit passionné sur l’orthographe de la langue provençale. Ces évènements signalent véritablement la situation dans laquelle se trouvent les poètes provençaux de ce temps. Pour la comprendre, nous voudrions poser les deux questions suivantes : (1) Que signifie la fondation du Félibrige dans l’histoire de la France au 19ème siècle? ; (2) Que visent Roumanille et Mistral à travers sa fondation?
Afin d’y répondre, nous présenterons dans cet article la notion de « consciences régionales » portée par les deux fondateurs. Nous verrons comment ces consciences servent de moteur aux activités mises en œuvre pour la valorisation de la position historique de la Provence et la protection de cette région. A vrai dire, avant la fondation du Félibrige, il existe deux écoles de poètes (celles de Marseille et celle d’Avignon), qui sont en désaccord sur la versification et surtout l’orthographe. Cette divergence est ce qui sépare précisément Roumanille et Mistral : tandis que celui-là essaie d’adopter l’ orthographe phonématique, celui-ci préfère recourir à l’orthographe étymologique. Roumanille attache de l’importance à la compréhension historique et à la tradition propre de sa région. Sa conscience peut être considérée comme une forme d’amour pour sa région natale, et son point de vue se limite à la Provence. Au contraire, Mistral s’intéresse plus largement à toutes les régions de l’Occitan. En outre, il tente de maintenir la langue d’oc en rivalité avec la langue française. Finalement, Mistral accepte la position de Roumanille sur l’orthographe et le Félibrige parvient à être fondé. La fondation du Félibrige procède donc d’une fusion des deux écoles de Provence nées des consciences régionales de Roumanille et Mistral. Quant à Mistral, il étend le développement de ses idées aux champs culturel, voire politique. En aménageant l’orthographe phonétique, d’une part il peut enfin achever « Le Trésor du Félibrige », qui s’applique à toutes les régions d’oc, et, d’autre part concevoir une forme de fédéralisme au contact des poètes catalans après l’année 1865. En conséquence, c’est avant tout la conscience régionale de Mistral qui se diffuse non seulement en Provence mais aussi dans le Midi et fournit la
La formation et le développement du régionalisme chez le Félibrige
— du point de vue du conflit sur l’orthographe entre Roumanille et Mistral
Mina Adachi Résumé