Title
『沖縄教育』にみる「沖縄人」意識の形成 : 1910年代の
親泊朝擢の言論に着目して
Author(s)
照屋, 信治
Citation
歴史学研究 = Journal of historical studies(876): 1-19
Issue Date
2011-02-15
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/19063
蹟 文
『沖縄教育』にみる「沖縄人」意識の形成
ー-
1
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1
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年代の親泊朝摺の言論に着目して一一
はじめに1 1
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1
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年代の沖縄教育をとりまく状況 E 親泊朝掘の編集担当就任の経緯E
親i
白靭tlJlの編集担当期の町中純教育』 おわりには じ め に
2
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世紀初頭.沖縄の帝国日本への統合が進むにつ れ.沖縄人の帝国臣民としての権利の獲得は段階的 に実現されつつあった。この点で.沖縄をめぐる状 況は r外地」として位置づけられた台湾・朝鮮とは 異なった様相を呈することになる。すなわち.徴兵 制の施行(18
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年).土地整理事業(18
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年上 市町村制度の施行(特別制1叩8年.一般制 1921~手). 府県制度の施行(特別制1
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年.一般制19
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年).衆 鵠院選挙法施行(19
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年,宮古人霊山では19
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年) などを経て.1
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年代初頭には帝国憲法に定める権 利・義務関係において.沖縄は明確に「内地』と位 置づけられることになった。台湾や朝鮮では.衆議 院誕員選挙法もアジア太平洋戦争の末期になって. 総励貝体制に組み込む代償としてようやく延長施行 されたことや.台湾の州・庁制や朝鮮の遺制のよう に.地方制度という点でも「内地Jと明確に異なる 制度が設けられたことを考えても r内地」と「外 地Jの違いは明らかである。こうした「内地J絹 入 のプロセスで,近代教育を受けた沖縄人は沖縄社会 の要験に進出し.政治的な発言権をわずかながらも 獲得してゆくことになる。しかしそのプロセスは また.社会の中核を担う大和人と沖縄人の聞の確執 が顕現するプロセスでもあった。 俳人の河東碧梧桐は.1
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1
0
年に沖縄を訪れた際の f奇1 旅行記に r台湾.朝鮮には目下土著人を如何に馴致 すべきかの重大な問題が何人の頭をも重圧しっ、あ!
照
屋
{
書
治
る。琉球のように多年親日の歴史ある土地に.きょ うな社会問題があらうとは夢想だもせぬ所であっ た})C!::の感想を述べr
日本及日本人」に寄稿して いる。そこにはまた.当時沖縄県立図書館館長で あった伊波普猷(18
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・1
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年)と会談した折に.伊 波が語った内容が.次のように記されている。 殊に我々は縄人だといふ自覚の上に.この ま、単に内地人の模倣に終るべきであろうかと いふ問題がある。つまらぬ棋のようであるけれ ども.島i孝氏に対する祖先伝来の一種の嫌悪心 も手伝うて来る。さらばというて固より沖縄県 庁に対して謀反を計るなどもいふ馬鹿なことも ないが.それらの暗々裡の不平は.いつか妙な 方向に定せて.背'if.に社会主義の脅物や.露西 亜小説の惣痛な物ゃなど読む物が多くなった。 若しこの気風が段々助長して行けば,践は人種 上の恐るべき争ひとならぬとも限らぬの。 伊i庄は.当時の沖縄社会の背年層に「縄人だとい ふ自覚J.つまりr
i
l
l
'
純人」意脱が存在しておりr
内 地人」への「暗々裡の不平」から r人組上の恐るべ き争lJ-Jにつながりかねないと語っているわけであ る。この伊波の発言は.どのような現実に根ざした ものなのだろうか。 河東に対する伊i皮の発言は.彼の周辺に集う1
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年代の沖縄の背年知路層の動向を表現したもので あった。そうした青年の例として.たとえば.伊i
皮 月城0
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年).比嘉春潮(1飽3-
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年).島 袋全発(1槌8-
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年)といった人々をあげることが できる。そのような人々を比屋根照夫は「新人世 代」3hと呼んでいる。沖縄における「大正デモクラ シー」を担うこれらの人々の雷簡には.激しい社会 批判制神と深い自己省察が確認できる。それと同時 に f沖縄人」意融 (f純人だといふ自党J) も看取さ ri中何U'f1J にみる qlþtl百人」怠1誌の形成(p.~股) Jれる。 そのような「沖縄人」意識を「沖縄ナショナリズ ム」という官策で捉えようとする研究もある。小熊 英二は.伊波普猷を「沖縄ナショナリズムの創造」 いる。つまり「台湾人」意酷をあらかじめ存在する ものとしてではなく.状況に応じた流動的・可変的 なものとして捉える視点を提起している。また近代 沖縄思想史研究においても.屋高比収7)は,島袋全 者とし r大日本帝国のマイノリテイたちがとった 発の「沖縄民族」意識を分析し島袋は「民族Jの 戦術の.ある主の先駆をなすものであった」とする。 客観的側面でなく主観的な側面を重視しており.琉 そして伊波における「沖縄ナショナリズム」の陥葬 としてアイヌ民族と台湾原住民族への蔑視を指摘す る4)。しかしアイヌ民族や台湾原住民族への蔑視 は確かに問題であるにしても,それは ri中縄人」意 識に否定的な論者(たとえば沖縄教育の原型を形 作った新日韓噂)にも顕著に表れており riljl縄ナ ショナリズム」のみの問題ではない。慎重な考察を 要するが.アイヌ民族や台湾原住民族に対する排除 の構造は.沖縄と大和
ω
との文化的な類似性を主張 する日琉同祖論にこそ論理的に組み込まれているの ではないか。さらに.そもそも伊波を中心とした動 向をナショナリズムという言葉で括ってしまってよ いのかという疑問も生じる。 「縄人だといふ自覚」という表現にみられる「我々 意識」の表明は.大和との制度的統合以降もi'!1縄社 会における大和人勢力の優位が変わらない状況の中 で見られるようになっても、ったものである。これに ともなって.沖縄の歴史手文化が注目され.沖縄人 自身によって.それらの研究が深められてゆくこと になる。そこでは.もはや政治的帰属や制度的格差 は問題なのではなく.文化的次元におけるアイデン ティティや自己決定権といったものが主題として鰭 られることになる。すなわち.エスニシティに関わ る領域が識論の中心となるのである。そして.それ は.政治的帰属や制度的格差という問題への意般を さらに高めることになるのである。 こうした事態を分析するには.それを「i
中縄ナ ショナリズム」とL寸言葉で括ってしまうのではな く rエスニシティの政治化」というより動態的な概 念で把指すべきだと考える。「エスニシティの政治 化Jとは.何我麟が「台湾人J意識の成立にかんし て提起した概念だが.何は「台湾におけるエスニシ ティの政治化は反f
質的に起きたものであり.その境 界も岡定的なものではなく.政治的・経済的・社会 的な状況に応じて変化したものである}Iと論じて 2 校 史 学 研 究 第8i6号ー 球人は大和民族に対して「異民族」であると捉えて いたと指摘し沖縄人の生活感覚に根ざした.大和 人からの「名指L.Jとそれを踏まえた「名乗り」と しての民族意識という視点から「沖縄人」意識を分 析している。それは.さしあたってエスニシティに 閑わる意識であると同時に.ナショナリズムへと転 化していく可能性も備えたものと筆者は考える。こ のような「エスニシティの政治化Jという視点から fj中縄人」意識を把握する際に重要なことは.それを 流動的・可変的なものとして捉えることであり.ま た.「客観的」学術の規定とは別に.あるいはそれに 抗しつつ模索された沖縄人自身の自意識や未来構想 を考察することである。 以上のような展望のもと,本稿では沖縄教育会機 関紙町中縄教育J(19
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年?)の編集にあたった 親泊朝摺(18
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年)を主な分析対象として.1
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年代の「沖縄人J意識の形成を論じる。後述す るように親泊も伊波と親交があり.この時期を分析 するのに伊波の思想を分析する必要は費言を要しな い。伊波普猷については.すでに比屋根照夫・鹿野 政直・冨山一郎などの貴重な研究が積み重ねられて いる8)。これらの研究は.伊波個人の思想にとどま らず,同時代の思想状況を描こうとする視点をも有 する。しかし頂点的な思想家個人のテキストの分 析を主としたものであるため.社会的な広がりの中 で「沖縄人」意識の動向を十分に跡づけてはいない。 本稿が教育界に着目し.親泊朝掘という.ほとんど 知られていない教背者を取り上げるのは.個人の思 想に還元されない.時代の趨勢としての rj中縄人J 意識の動向を描くためである。教育とは.ある集団 の未来を創ろうとする営みでもあり.そこでは.そ の集団の未来への脱出i
が踊られる。頂点的な思想家 のテキストのような納税さには欠けるが.それゆえ に明瞭な言葉で諮られ.教貝・生徒を含む広範な 人々によって共有されることを目指した言論が紡が表1 r沖縄教育』の編集者・発行人一覧 編集人 発行人 号
n
発行年月 発行所 印刷所 JlU号 平均"t(・6 宮減Ill. 官峻Ifl 1-36 1906. 3-1筑>9.12沖縄教育会 沖縄続l1li1:士・2 19 14.8m
是亀 g純亀 45-59 1910. 1-1911.3 沖縄教育会事務所 三秀舎{東京) 7 66.0 fJli自制ts 貌泊朝1; ω-102 1911.4-1915. 7 沖縄教育会穆務所 三秀舎(東京} 32 61.7 波溢侶i台 波lil日i台 103-111 1915. 9-1917. 5 沖縄県教育会事務所・! 三笑企印刷創l(百日朝} ‘.町 68.4 又吉1If狗 沖縄県教育会 1ぬ,-1471923.11-1925.9 沖縄県教育会事務所 大岡印刷株式会社(熊本市}・3 17 103.0 閣官民曾 沖縄県欽育会 149-166 1925.12-1927.12沖縄県絵育会事務所 大同印悶徐式会社(熊本i!i) 18 85.1 比護m
6!! 沖縄県教育会 Iωー
196 1928. 9-1932. 8 沖縄県数育会事務所 鹿児島県教育会印刷自主.~ 17 96.1 島 袋i原一郎 ぬ袋i原一郎 198-205 1933. 1-1933. 9 沖縄県教育会 向春商会印0J$(百f>1II市) 6 1(路.0 有It興目Z 有銘興BB 224-309 19.お.4-1942. 5 沖縄県数育会 向春商会印刷協(E1>8lI市} 4-1 84.7 武tr良途 ~1!f良途 318 1943.-1 沖縄県数育会 向春i省会印刷郎(tis覇市} 82.0 S青湿勝一 S時I量聴1- 328 1944. 2 沖縄県数育会 向審商会印刷節(sIl覇市} 68.0 Btlη・5 8ti6.2 it1 : liIl03号11沖縄民町会IJlf事柄。 2:窃1-21*}までは9プロイド既約S買e第22--14号までは小島子約16買 と 鍵5日,自由31号 4特 別 号 } の み 三 秀u. 3:続1301}11盛休盆{熊本県" .j:栴198号11向曜匹前会印鴎1$1窃岡市1, 5: I司自民人不明の窃115号091i年'11月上 1922年9月と10月発行の将軍j号b含む. 6 : J'Hll:g 次より印 131俄併買まで。 U i.I:が欠f置してる IJ!含 1 頁を加えた。買f寺号のないロ主主・ fHllS ・凡例・正t;~・広告絡も n えた.伎宇"分欠庖で 1mが筒ltしえない号Hi1l8.~5. ~j. 53.82.183.友渇号}の7号 分1:平均頁に加えていない.寸ベて飢製本で隠IZL.た た め む 干 のm
訟はありうる。 飼う培 ω22年9月臨時号1:個集21T'1日付渇.発行局・i中縄県紋育会事箆所.印刷所.fJ殴栓 t東 京'
0
1922年10月号.liIl39号.liIl55ザ.向者163号は将司暗号。 れる場である。従来.近代沖縄史・沖縄教育史研究 では教育は「同化Jr皇民化J の場であったと概括 されがちだが.録者は教育をめぐる議論の中に時代 の趨勢としての「沖縄人」意識を見出すことができ ると考える例。 本稿では.以下のように分析の対象を設定する。 沖縄県教育会10)の機関誌r
沖縄教育J(1906-1944 年?)は.『琉球教育J (1895-1叩6年)を前身として. 1906年3月に創刊号が発行された。 1944年2月発行 の第328号までの刊行が確起きれ.このうちの約170 号分が現存する。本稿の分析対象時期は.創刊号 0906年3月)から渡過信治の編集担当期(-第111 号.-1917年5月)までとし特に親泊朝抱の編集 担当期(第60-102号.1911年4月-1915年5月)を 主に分析する。時期設定の理由は.表1から分かる ようにi
度遣の編集担当期と又吉康和の編集担当期 の聞の4年11カ月は特別号以外に残存号がなく.ま た.又吉時期以降は誌面の構成に変化が確認でき. 別稿で論じる必要があるためである111。そして,親 泊に着目するのは.改組以降.第111号(1917年5 月)までの問で最も顕著な特債を誌面に確認できる のが.i
,度の編集担当期だからである。同時期は.大 正デモクラシーの潮流が沖縄にも流入し r同化』 「良民化Jとは異質の思想像があったと思われ.沖縄 教育史の先行研究に新たな知見を加えうると思われ るからである。r
i
中縄教育』は「慨してその時代を反映.同化・皇 民化・国家主義的な教育思想の普及といった思潮が 底流をなしている」聞とみなされてきた。しかし 2∞
9年より刊行が開始された復刻事業にともなう研 究の進捗により.同誌は「狭義の教育史にとどまら ない帽を持つJ13)と評価されるようになった。たし かに伊波普猷ら刈哨i
学の先人も同誌に多数執錐して いることに着目するならば「同化・皐民化」以外の 側面にも留意すべきであろう。また.親泊朝抑のよ うな人物が縮集主任となったことに稲田する必要も あろう。かつて拙稿(4)で論じたように.親泊家は尚 家との姻戚関係も有し.父の朝啓は.沖縄の「特別 自治構想」ともいえる公同会運動では司法大臣とも 目された人物でもあった。朝摘は1
卯1
年に幻歳(数 え年.以下問}で沖縄人初の小学校長になるがr
琉 球教育』誌上で.長〈沖縄教育界の指噂的存在だっ た新田義尊の議論に違和感を表明し.新田が編集に 携わっていた時期のr
琉球教育』を『忠孝仁義を説 くべき講義録のようなもので地方教育会雑誌の形を 備えて居ない}5
】と評していた。本稿では r琉涼教 育J誌上では違和感の表明にとどまっていた親泊が. どのようにr
i
中縄教育」の実質的な組終怖を獲得し. 誌上でいかなる沖縄教育像を展開し.どのようなf
i
中縄人」意識を語ったのか.そして.それが「人観 rj中縄紋'f1J にみる「沖縄人』窓ぬの形成 (~(Uぼ, 3上の恐るべき争ひ」の可能性とどう繋がるのかを論 ずることとしたい。 1 ) 河東懇梧桐「続-8-
f
M
Jr日本及日本人』第日7号.1
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1
0
年7
月1
5
日.5
6
-
5
7
頁。 2) 阿上。 3 ) 比屋根照男 rr新人世代Jの悲哀一一議飯島袋会発話 各舎一一Jr新沖縄文学』第お号.沖縄タイムス社.19i6 1ド 10 月.同 r近代沖縄の精神史』社会評論社 • 1996l,手 所収。 4) 小熊英二 r(日本人〉の境界』新昭社.199811~. 引 用は順に3
.3
1
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頁。 5) 本稿では r内地Jr他府県・Jr本土Jr大和Jr日本」 という用語の中で合意の浮いと思われる r大和」を用 いる。『大和人』についても問機。 6) 例議官書 r二・二人事件一一『台湾人」形成のエスノ ポリティックス一一』東京大学出版会.2
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0
3
年.7
頁。 7) 屋嘉比収 rr琉球民族」への視点一一伊i
皮普猷と島袋 会発との差異ーーJr浦添市立悶舎館紀要』第8号.1
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7
年3
月.同 r(近代沖縄〉の知践人一ー島袋全発の 軌跡ーっ吉JII弘文館.却1
0
年。8
)
比座視照夫 r近代日本と伊波普猷』三一容房.1
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8
1
年.鹿野政直行中純の泊』岩波書信.1
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3
年.冨山一 郎 r暴力の予感』岩波書庖.2∞
2年。また伊佐挺ーは. 総力戦体制下の新史料の発栂により.伊波普猷評価に 問題を提起している(向 r伊i皮普猷批判序説』修書房.2ω7
年)0 • 9) 近代沖縄教育史研究の動向 l ;t.&~健一『近代沖縄 教育史の視角』社会員干論社. 2(別年.近総健一郎 r近 代沖縄における教育と国民統合』北海道大学出版会.2
α
旧日年. を参照のこと。1
0
)
同会の名称は数度変更される。1
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年に沖縄私立 教育会として発足して以後.沖縄県私立教育会(18
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1
年上社団法人沖縄教育会(18
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!f).沖縄教育会(
1
卯4
年).沖縄県教育会(
1
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1
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年)と変遷した。 11) 拙穏 rr県文化運動の後関』としての fj中純教育』 一ー1
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2
3
年から1
9
3
3
年までの誌面分析ーっ r京都大学 大学院教育学研究科紀要』第5
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号.2
0
1
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年.容照。1
2
)
ri中縄大百科事典』上巻.W
純タイムス社.1
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3
年. 阿波恨直読執録。1
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)
臨海健一・近ilfj 健一郎「解説 J. 復刻版 riq'~沼教育』 別冊 r解説・総目次・索引』不二出版.2∞
9年.5
1
用 は藤i事健一執鍛随所。1
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)
拙稿 rr琉球教育J(18
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-
1
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)
にみる沖縄教育の I!;{!\~-新回義郎の沖縄教 T1 論とそれへの対応一つ r歴史評論』第683号.2∞
7年3月。1
5
)
税泊朝銀「本県教育の組勢Jr疏球教育』指~99号. J 聡 史 学 研 究 第8i6号1
9
0
4
年9
月,復刻版 r琉球教育』本邦曾t
f
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. 1
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年. 第1
0
巻.4
5
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頁。以下同雑lLtからの引用はすべて復刻 版による。1 1
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年代の沖縄教育をとりまく状況
1 日露磯争後の状況と新しい世代の登場 日露戦争後.沖縄の小学校の就学率は90%
を超え るが.同時に「大和化」にともなう問題も明らかに なりつつあった。まず.軍国主義的・帝国主義的な 気運の高まりを指摘できょう。日露戦争では2
∞
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人 あまりの沖縄出身兵士が従軍し.2
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5
人の職死者が 出た。 r琉球教育』誌上では戦死者が顕彰され,その 経歴が伝えられ.生徒たちの教材となることが勧奨 さ れ て い る 九 そ の よ う な 「 兵 士 の 戟 場 体 験 は . ロ シアや韓国朝鮮,中国に対する帝国主義的な征服欲 や.偏見と差別観も眼成})したとされる。また教育 内容に関しでもr
沖縄人」意識の重要な要因となる 歴史観は厳しく統制されていた。1
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6
年時点で r琉 球新報』の論説は過去の沖純への政策を評し「人民 等の父母を忘れしめ彼等の歴史的記憶を隠滅し去っ て而して其の人民の上に政治を施行せんと欲す}' るものだと批判しているが このような風潮を比屋 根照夫はr
歴史隠滅政策」と呼んでいる4)。 そのような中.伊波普猷が東京帝国大学を卒業しi
'
T
純に戻り啓競活動をはじめた。l
伺7
年8
月の沖縄 教育会における演説は,後に r琉球史の趨勢J(1911 年)としてまとめられるが.その際には rこの小冊 子を沖縄の教育家諸君にさ、ぐ」と記された。同書 でf~i,皮は.沖縄の「個性」を噂重するべきことを強 閥し.「天は沖縄人ならざる他の人によっては決し て自己を発現せざる所を沖縄人によって発現するの であります。(中略)個性とは斯くの如きものであ りますl
)
と述べている。その主張は r歴史隠滅政 策J の中にあった多くの ì~1縄人には街繋をもって受 け止められた。 ただし.伊i皮の帰郷と同じ1
9
0
6
年の3
月に『沖縄 教育』と改題された誌面に.大きな思想的変化は指 摘できない6' 。第 15号 (l90ï年~5 月)に.伊波の「琉 球史の梗概並に社会化(承jjiI)})と題する講演筆記 が拘被されてはいる。だが r個性」尊1[(論は後景に :il!き.同化 (r社 会 化J)のJf(要性が強調され.同時}切の教育会の世論に適合的な側面が.続記者により 強関され掲載されている。 また誌面の状況も.貌泊朝摘が編集担当に就任す る以前の f~rþ縄教育』は.全体として頁数が減り. 振るわない状況であった。創刊号から第
2
1
号までは タプロイド版で8-10
頁ほどである。第2
2
号から第5
5
号までの3
3
号中で残存しているのは6
号分のみで あり.特別号の第3
1
号を例外とし.第3
6
号が1
6
頁. 第5
5
号が5
0
頁.その他は雑誌の後半が欠落している。 編集人の宮城亀も師範学校の使丁であり.編集に携 わっていない。このような状態は.後述するように. 会費値下げによる雑誌規模縮小に関連するものと思 われる。 fi中縄教育』が「雑誌らしい面目をみせたの は長註貌泊朝摺氏の編集主任時代であったP
と回 想されるが.実際に.教育会の機関誌に「編輯室だ よりJ欄が設けられ.編集方針が明確に読み取れる ようになるのは親泊の時期からである91。 ただし親泊の編集主任就任に先立ち,沖縄の思 想界には新しい潮流が着実に育まれていた。前述の ように.この時期.伊i皮を中心に「新人J世代が活 蹄しており.それらの人々は町中縄毎日新聞』を拠 点としていた。同新聞はl
依)8年に創刊された沖縄で 三番目の新聞であり.那覇に基盤をおく「民衆の機 関誌J10)と評された日刊紙である。伊波普猷の実 弟・伊j皮月峻や末吉愛門冬.山成翠香などが記者を していた。沖縄における「大正デモクラシー」の風 潮を担うこれらの人々と親泊は.伊i
皮を介して個人 的にも親交があった。1
9
1
3
年3
月から1
9
1
4
年初頭ま で毎日昭日に伊波宅で「子供の会Jが飽きれるが. そこで親泊は伊i皮.比嘉春i朝.比嘉賀秀らとともに 講師を務め.閉会会誌『おきなわ』にも多数執iit.し ている山。 fi中縄教育』第邸号0913
.
i
F
8
月)の巻頭 の口絵には r子供の会」の写真が掲絞されている。 また.1
9
1
3
年7
月2
4
日.伊i邸主比嘉春潮らとともに 「エヌ・エム(
N
e
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.
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a
n
)会
Jを結成しr
本県思想 界に青年の旅臓を朗し延いて社会の進歩改良」をは かることを企図した121。金城芳子山によれば r伊i
皮JAJr
比嘉塾Jr
L
l
I国製J(IIJ回有幹.後の無産迎動 家}といった学習グループがあり.相E
に人の行き 米があったという。この時期.f
1li
皮を中心に思想界 の新しい潮流が形成されていたが.親泊もその-
.
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I
を担っていたといえよう。 これらの人々は伊淡から大きな影響を受けつつも. 伊波とは異なる思想的傾向を有し.それぞれに突出 した面を有していた。たとえば伊波月機は r日鋭 戦後の社会に微行する拝金主義.物質主義.軍事的 な大国主義などの価値に対し.それらの価値を全面 的に否定し}・0たとされる人物であり.1
9
1
1
年の河 上聾舌禍事件では河上を擁護した新聞人である。ま た比嘉春i甥も社会主義への援近により.伊i皮の認識 への懐疑を抱くことになる。貌泊は.月城や比嘉に 比べ.思想的に穏健であったともいえる。それは. 彼が.教職という立場にあったことも一因と考えら れるのだが.親泊の果たした役割の重要性も看過す べきではない。親泊は.教育会の要聡に就きながら. 「新人』世代の沖縄人の教員に積極的に発言の機会 を与え.内地への留学経験も持つ知詩人と.学校に 通う児量生徒やその保護者・教貝との仲介役を果た したといえる。2
沖縄の教育界の状況 上述した伊波の登場と「新人」世代の活躍という 思想界の状況は.諸制度の大和との同一化が進展す る中.沖縄人の社会進出が進んだことを背景とする ものであった。沖縄人の社会進出は.沖縄社会の中 艇を占める大和人との確執を生み.その過程で.激 しい識論がなされ r沖縄人」意識が表明されるよう になったのである。そのような対立構図は.当然な がら.沖縄社会全体を覆うものであり,一部の知識 人のみの問題ではなかった。教育界においても.沖 縄人と大和人との札繰や暗闘は繰り広げられており. 「人種上の恐るべき争ひ」の火種は.いたるところt
こ 確認できる。 たとえば.河東碧悟桐が沖縄を訪れた同年の1
9
1
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年1
1
月には.佐敷尋常小学校で「御真影焼失事件」 が発生した。学校長・本山万吉と.当日宿直してい たi佳訓導・束恩納盛恐が「御真影」焼失の責任を問 われて懲戒免殺となった。しかし問題はこれで終わ らなかった。免職に際して.大和人の本山校長にの み島尻郡教育部会の教員相互団より金1
5
円が支給さ れたからである15)。また島尻群小学校の学用品開 迎の消費組合は組合規程を変更して.免職された本 ij中縄f.i'(IJにみる『沖縄人」意践の形成(照尽) 5山を理事に迎え.その結果.沖縄人事務員が解雇さ れた。さらに本山は
l
年後に久米向で小学校長とな り.そのことで r沖縄毎日新聞』に批判されてい る16)。すなわち.大和出身の校長に対してだけは処 分を実質的に軽減する措置がとられたわけである。 これらの決定を島尻郡書記として目の当たりにした 比嘉春湖は日記に「鳴呼。脱黒き内地人等のたくめ る芝居を見て.音無しく見物したる沖縄人の意気地 なし奴}7lと記している。大和人と沖縄人との不平 等に対する不満感の一端を示すものである。 この事件にも表れているように.教育界において 一般の教員の多くは沖縄人だったが.校長には少な からず大和人がおり.県や郡の視学の多くは大和人 に占められていた。翌1
9
1
1
年には県綿会織員の仲宗 恨滑(沖縄県尋常師範学校出身.元英越尋常小学校 側部)が県議会において r教育者聞に札傑の頒発す る事J.r
師範学校か二十余年間に鎚多の人物を出し たるに拘わらず県郡視学其他重要の地位にあるもの なきは力の堪へざる為か登用宜しきを得ざる為め か」聞という問題提起をした。 r琉~新銀』はこの質 疑を報道すると同時に.さらに質問の趣旨を敷街し て.小学校長にかんして全小学校「百三十六校中四 十人は今尚他県の人を任知せりJとし r本県の教育 界には故らに他府県出身看を交るの必要ある乎」と 論じている。また.この記事に先立ち.教員からの 匿名投稿記事として「校長輸入の理由如何}9Jとい う問題もとりあげられていた。1
3
6
校中4
0
校の校長 が大和からの『輸入Jとみなされていたわけである。 もっとも.逆にいえば.他の9
6
人が沖縄人だという のは.1
9
0
1
年に親泊朝抱が沖縄人初の小学校長と なって以来.10年間で沖縄人の進出がいかに急速で あったかを示しでもいる。これは.植民地の状況と 大きく異なっていた。たとえば.朝鮮においては1
9
1
9
年に初めて1
8
人の朝鮮人校長が誕生するが20)1
9
3
9
年段階でも全体の1
3.
4
9
6
(
3
2
4
7
校中4
3
4
人)にす ぎなかった21)。これに比べれば.1
中縄県における沖 縄人校長の比率は高かった。しかし沖縄人が校長 に採用される割合が増加するにつれて.沖縄人と大 和人の待遇の違いへの不平等感は減少するどころか. むしろ強まっていった。 このような大和人とi
中縄人との社会的不平等感は. 6 歴 史 学 研 究 費~Sí6 号 翌1
9
1
2
年6
月1
7
日から1
9
日にかけ.教育界に衝撃を 与える事件を生むことになる。沖縄県師範学校スト ライキ事件である。このストライキは本田亀三教諭 排斥のために生徒が同盟休校を行ったものだが.事 件の背後には森山辰之助校長の露骨な教員人事への 不満があったようである。森山校長は2
年間で3
1
人 中1
8
人を解職しており.その中には同校および同校 付属小学校に長期制務し沖縄の状況に明るい教員が 多く含まれていた。また.音楽の園山民平教諭がq
中縄人はグウタラの意気地無しであるからピシピ シと圧へ付けるに限る。聞かぬ時は榔ってやるべl
J
と発言したことへの怒りもあった220森山校長 自身も「琉球人は矢張り駄目だから.手厳しく.教 授して貰いたいJと新任教員に話していたという却。r
i
中縄毎日新聞』の記者であった伊波月械は.この 事件についてやや興奮気味に次のように述べている。 「師範学校のストライキは吾競をして十八年前の県 立中学のストライキを想起させる。げにあのストラ イキがなかったら.県人は奴織の境遇口甘んじて牛 馬問機の生涯を送ってゐたかも知れない。学生の身 としてストライキなどをやるのはよくないが.それ をやる位の元気がなくっては此の新時代には聞に合 はないと思ふ。盲従は即ち死である }4)。月械は. 自らも参加したであろう.沖縄県尋常中学ストライ キ事件{l8
9
5
-
1
8
9
6
年)と同様の問題の構図,つまり 沖縄人への差別的な処遇を.今回の事件にも感じ 取ったのである。幸か不幸か.このストライキは短 期間で沈静化した。生徒全員が復技した上で数日間 の停学処分となり.本多・固山両教諭は9月4日に. 森山校長は10月2日にその肢を去った。沖縄県師範 学校の卒業生の一人として親泊もその仲裁に労を とっていた却。「人組上の恐るべき争'(}Jは.さし あたって爆発することなく鎖静化されたわけである。 しかしさまざまな格差と蔑視への憤りが水面下に 蓄積されつつあったことは確かである。 このような1
11'純人と大和人との確執は.思想界・ 教育界にとどまらず.当時の沖縄社会全般にみられ る現象であった。「琉球処分」以降.71'1純社会の政 治・社会の主嬰な地位は大和人によって占められて いたが.住民の自治怖が拡大するにつれ.沖縄社会 の主要な地位にj
'
l
'
縄人が参入し.社会の中枢を占める 大 和 人 と の 葛 藤 が 生 じ た の で あ る 。 比 嘉 孝 潮 に よ れ ば , 地 方 自 治 制 度 の 整 備 に と も な い . 村 会 が 予 算 を 決 定 し . そ の 織 限 が 強 く な る と r大 和 人 全 盛 の 事 態 へ の 反 動 カ ラ あ ら わ れ た 」 と い う 。 つ ま り . か ね て か ら 郡 中 央 と の な れ あ い で 給 料 を つ り あ げ て い た 大 和 人 の 給 与 に 制 限 を つ け る こ と で . 自 発 的 な 退 聡 を 促 し た の で あ る 。 「 現 在 取 っ て い る 額 よ り も 低 い 金 額 で 給 料 予 算 を 組 む と い う の は . じ ゃ ま も の を 除 く 時 の 常 套 手 段 で . 町 村 政 治 で は よ く あ る 手 だ 。 こ の 措 置 も 他 府 県 人 排 斥 の た め に と ら れ た 」 と
ν
う加。 こ の 場 合 の 「 排 斥 」 の 対 象 は 大 和 人 だ が . そ の 前 提 に は 給 料 の 格 差 と い う 事 態 が あ っ た こ と を 見 逃 す べ きではない。1
9
0
9
年 に 発 足 し た 沖 縄 県 会 で も . 最 初 の 選 挙 の 当 選 考3
0
人 中1
2
人 が 仲 宗 根i
青 と 同 様 に 師 範 学 校 出 身 の 沖 縄 人 で あ っ た が27) 先 の 県 会 に お け る 線 論 に も 明 ら か な よ う に . 沖 縄 人 の 一 定 の 社 会 進 出 は . 沖 縄 人 と 大 和 人 と の 対 立 を 沈 静 化 さ せ る の で は な く . 別 の 局 面 で の 格 差 の 発 見 と . さ ら な る 寓 藤 を 引 き 起 こ す の で あ る 。 こ の よ う な 沖 縄 社 会 の 動 向 に 向 き 合 い つ つ . 親 泊 は 行 中 純 教 育 』 の 編 集 に あ た り , 沖 縄 教 育 の あ り 方 を 慌 索 す る こ と と な る 。1
)
r自主我鮒少尉の経歴J'琉球教育』第1
0
3
号.1
9
0
5
年 1月.前掲復刻版 r琉球教育』第10巻B.269頁。 2 ) 又 吉 盛 治 F日露夜争百年一一沖縄入と中国の総t,
g
-ー』同時代社.笈ぬ5年.7
4
頁。3
)
r過去の沖縄県治Jr琉球新報J1
卯6
1
手6
月8
目。 4 ) 比屋恨照夫『戦後沖縄の精神と思想』明石併脂.2
α
)91
手.3
2
頁。5
)
伊波留ー飲 r琉球史の趨勢』小i
l
l
l
t
専従裳.1
9
1
1
年.3
1
-
3
2
頁.原文の傍点は削除した。 6 ) 宮級官L
編集人期に.伊波は教育会に入会し (fj中純 教育』第7
号.凶001
f
-9
月.9
頁).第1
0
号(1卸6
年1
2
月. 6頁)では雑誌編集委員に名を連ねているが.そ の後の編集委員会に参加した記録はなく.同総第20・日(
1
9
0
7
年1
0
J'J.7
頁}には退会の記録があり.この時l聞 の編集に伊i皮の影響があったとは断定できない。のち jIf入会したとみえ.1
9
1
1
年度の得議員改選では伊i皮もi
専務している{同誌.第6
5
号.1911í~9 月.回頁)。 i) 伊i皮省r
S
J:f琉主主史の梗概並に社会化{承前)J r沖縄 教育』第1
5
号.1
卯7
i
手5
月.1
頁。 8) 宮平艇行「本誌をして県文化速動の機関たらしめ よJr沖縄教育』第1
ぬ号.1
9
2
3
年1
1
月.8
7
資。 9)前縄『復刻版『i中純教育JJの「解説J(近厳健一郎 執銃箇所}では.貌i自の編集担当就任の意縫を指摘し. その特徴として.若手中堅の小学校教員に投稿を促し たこと.郷土史の重視.編集後日己欄の新放をあげてい る。・鋒者はその指摘に同意するが.それらの特徴がど のような社会背景から生まれ.どのような意味を有す るのかを問う必要があると考える。本絡では.そのJ点 を跨まえ分析を進める。1
0
)
大田昌秀 rj中純の民衆意後』新泉佐.1
9
7
6
1
手.2
1
4
頁。 11) 際木喜美子r近代沖縄における児m
文化・児童文学 の研究』風間曾房.却04年.69-田頁。1
2
)
r年総J'伊i皮普猷全集』第1
1
巻.平凡社.1
9
7
6
年。1
3
)
金械芳子『なはおんな一代記』沖縄タイムス社.1
9
7
7
1
ド.1
6
8
-
1
6
9
頁e1
4
)
比屋恨照夫『アジアへの架橋』沖縄タイムス社.1
9
9
4
年,1
0
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頁。1
5
)
rぬ尻郡数員相護団J'琉球新報J1
9
1
0
年1
1
月28目。1
6
)
r本山氏の就聡を開きて{ー)J ,沖縄毎日新聞』1
9
1
0
年1
2
月2
5
目。1
7
)
r大洋子の目録J1
9
1
0
年1
2
月2
5
日 , 比 嘉 春i
伺全集』 第5
巻.沖縄タイムス社.1
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7
3
年,2
3
6
頁。1
8
)
r教育界の疑問Jr琉球新報J1
9
1
1
l
F
1
2
月7
目。1
9
)
r校長鈎入の理由如何J'琉涼新報J1
9
1
1
.
i
f
.
4
月30目。 20) 本間千祭r鍵固「併合」前後の普通学佼日本人数民 聴用Jr朝鮮史研究会笛文集』第4
3
号.初0
5i
宇1
0
月。2
1
)
古川昭 r公立普通学校の朝鮮人校長査用問題J'ァ ジア教育史研究』第5号.1四6年3月。 22) rストライキ確聞{ニ)J'
i
中縄毎日新聞J1
9
1
2
.
i
f
.
6
月2
4
日.句読点引用者。 しかし園山は近代沖縄音楽 史で功絞を残した人物でもある。三島わかな『沖縄音 楽の近代化と園山民平J'i中縄県立芸術大学紀袈』第1
6
号.2
0
0
8
年.参照。沖縄近代音楽史については三島の 路倫考を参照のこと。2
3
)
r縮んで軍基山校長に塁すJ'
i
中純毎日新聞J1912í~6
月20日。2
4
)
r絹車Itの後J'i中純毎日新聞J1
9
1
2
年6
月1
9
日.句統 点引用者。2
5
)
r師範学校のストライキJr琉球新報J1
9
1
2
.
i
f
.
6
月1
9
目。2
6
)
ltrli春湖町中縄の歳月一一自伝的回~から一一』中央 公鈴子土.1
9
6
9
年.5
1
頁。 幻)r
f
t
!ilF,{阿窓会会報」第2号.1伺91ド.I04J{。E 親泊朝掘の編集担当就任の経緯
1 i見泊朝恨の就任 雑Iltの奥付に編集兼発行者として親泊朝掘の名前 が記載されるのは.第ω
号(19
1
1
年4
月)から第1
0
2
号(19
1
5
年7
月)までであるが.第5
6
号(来発見.1
9
1
0
年1
2
月)から実質的に編集を行っていたものと 推測できる。 f(l9
1
0
年の一一一引用者。以下岡]十一 月において縮纂主任の嘱託を見たるを以て悶来編纂 委員会を廃したり})という記事が見られるからで あるお。貌泊は.
3
6
歳で編集担当となり.以後.約5
年にわたり.47号分の緬集に携わることになる。 親泊の編集担当就任は.従来の編集体制の大晦な 変更を意味した。かつての編集体制では.編集委員 会の委員長・委員は.師範・中学の校長・教諭.県 官吏などが.在職のままで兼務していた。しかし親 泊は.月3
0
円の手当を得て3
¥
編集に専従すること になった4)。この手当は.当時の小学校長の給与と 同じ程度の額であった。また編集主任は.通俗講演 会などにおいて.教育会会長などと並び来賓として 列せられる待遇であった。沖縄人である親泊をこう した要総に就けることに対して.抵抗がなかったわ けではない。1
9
1
1
年の教育会第2
5
因縁会における予 算審部ω
では,この縞桑委員手当をめぐる応酬が あった。滋賀県出身で前年に来県したばかりの蹟田 鉄蔵(IlIi添尋常高等小学校長)ωは次のように論じて いる。「緬集入手当を月三十円も出すのを止めて之 を講習費に宛て械と思ひます。この位の雑誌なら月 五円か十円の手当を出せば十分と思ひます。一部十 銭に設りますから大変高いものになります。東京の 雑誌なら十五銭出せば立派なものが得られます。勿 詰雑誌全廃にあらず。年四回か三四位出す方がよろ しいと思います。沖縄教育は実につまらないもので すおそれに対して.1
9
0
6
年に沖縄人として初めて 教育会会長に就任した岸本賀畠(第ー田県費留学生. 当時県学務課長.翌1
9
1
2
年衆議院議員)はr
成程東 京の雑誌は安くてよいには違ひない。併しillJ縄教育 雑誌は東京では得られますまい」と反論している。 岸本会長の発言からは.彼がf
i
中縄教育』に独自な 意義を偲めていることがわかる。その意義の内実は .具体的には言及されていないが r東京の雑誌」とは '8 !I正 史 学 時 究 第8i6号 異なる内容の雑誌.沖縄という地域の現実に即した 誌面構成が求められていたと考えてよいだろう。2 r
.
沖縄教育』への改題と代随員制の議鎗 親泊の就任以前から.沖縄教育会では教育会の組 織のあり方についても対立が頚在化しつつあった。 編集担当というポストの設置と.親泊の登用は.単 に岸本賀昌の意向によるばかりでなく.教育会内部 における勢力f{t・いの帰結という側面もあったようで ある。具体的には.1
9
0
6
年に行われた r琉球教育』 からr
i
中純教育』への改題も.先行研究では行中縄 は沖縄なり琉球にあらず}>という論考のある新田 義尊の思想的な影響によると解釈されている制。た だし1
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年5
月に休聴になった新田の影響を1
9
0
6
年 の改題に結びつけるのは無理があろう。雑誌が改題 された 1906~手前後は会費減額や雑誌の縮小の主張が なされていた時期でもあったことに着目する必要が ある。阿波根直誠9)が指摘するように「教育会の組 織を代議員制にかえようとの提議があり.その上. 会費減額雑誌縮少などの線論がかわされ.結局l卯6
年(明治39) 3月.雑誌のみは縮少して小型の新聞 紙体となすことに決し」たのである。ここで重要な のは代議員制の意味合いである。 沖縄教育会は予算を含む議案を評議員が作成し;総 会に諮るという仕組みをとっていたが.1
9
0
5
年の総 会では.その辞綿貝制度を廃止し予算の決定格を 持つ代議員制度を採用する主張がなされたのである。 予算の決定権を持つ代織員制への移行は,会員会員 が参加する総会の権能を低下させるものであり.ま た代議員による予算決定権は機関誌発行にも大きな 影響を持つものであった。この問題についてある教 員は次のように発言している。『現在の評議員中ニ モ小学校教員少シ.代部員ニシテモ或ハ然ランカト 心配アリ。之レ迄ノ振合ヲ見テモ多クハ監督者タル 人.中等教育ノ任ニアル人多シ。故ニ代議委員会ニ 於テ予算ヲ議スルハ不賛成ナリ」刷。中等教育諸学 校教員・監録者・のみが従来.会の運営に携わってお り.代議員制により.その傾向が助長されるとの懸 念が表明されているわけであるc1
叩6
年の時点では 評議員は1
5
人で.1県官吏.県視学.郡視学.中学校 校長.中学校教諭.師範学校教諭.弁護士から構成され.その中で沖縄人と確定できるのは商良際徳 (中学校教諭)と仲本政世(県官吏)の二人のみで あ っ た11)。 代 誠 民 会 に 予 算 決 定 檎 を 持 た せ る 仕 組 みは.こうらた大和人中心の体制をさらに強化する 可能性が強かったといえよう。そのためであろうか. 代議員会の設置はこの時点では採用されることはな かった。 その後.岸本が会長にま
E
任し.編集主任というポ ストを設け.親泊を起用することとなる。こうした 事態に対する大和人の側からの反発も強かったよう である。親泊が編集担当に就任した5
カ月後の1911 年4
月,県視学の片山消暁は.「県教育会振興策Jを 『琉球新報』誌上で提案12)するが.そこで「雑誌は是 を縮小し一年二三四の発刊に止めJるべきだとし さらにr[教育会を]代議制となし経費に関すること は代表者に依り議決し一般の教育問題に至りては全 会員是を議決すること」とともにr
幹事の選任」を 慎重に行うべきこと等を提案している。代議員制の 問題をむしかえすと同時に.編集担当の設置という 現実を真っ向から否定するように雑誌の「縮小」を 説いているわけである。視学という立場にある片山 の発言は少なからぬ威嚇効果を持ったであろうが. この時には片山の提言は実現しなかった。そして同 年に片山が職を離れた隙に r琉球新報』は『一極悪 練白腕を振って本県白教育会を荒らして世白物議を " , ) , 惹 起 し た る 片 山 視 学 は 終 い に 放 逐 白 身 と な り ( 中 略)本県教育の為め僅かに刺か喜ぶべき也}3)と批 判している。片山の「県教育会振興策」も.教育会 内外の沖縄人の反発を惹起させたものと考えられる。 この後も.水面下で抗争は継続した。 1914年には ついに代議員制を採用.親泊は第95号(1914年3
月) の「編輯時言Jで「本会定款も代議員制に変更した (中略)代議員会は本月末に聞かれることになって ゐる。本誌の盛衰も亦其意向如何に関することであ ろう}4)と述べている。そして.1914年度予算15)で は雑誌予算は6
カ月分しか組まれておらず.代識貝 会で隔月刊行の決定がなされたようである。親i
自に よる編集作業はこうした状況の中で行われるのであ る。 1) r第廿五回総会記事Jr沖縄教育』第65号.191111ミ9 月.
5
4
頁。 2) また第57号(1911年1月}以降初めて「編集室だよ り」が段置されるが特に税i~1就任に附しての言及はな い。よって第56号に絢集担当就任の挨拶などがあり. その号より編集にあたったと考・えられる。3
)
・「明治四十五年度成入歳出予算Jri中純教育』第6
5
号. 1911年9月.的頁。 4) r明治四十四年度後入歳出予算」祭審議において. J!I.従の編集委員の設置.その手当の納額に関するやり 取りがある (r沖縄教育』第53号.1910年9月.11-14 頁)。 5) r予算案銭事Jri中純教育』筋65号.1911年9月. 62-63頁。以下の引用文中の旬11ft点は引用者。 6)槍原翠邦翁 rj中縄県人事S)~J 沖縄県人事録綴纂月号. 1916~. 516買。 7) r琉球教育』第2. 4, 8-11. 14.17号に連事~, 8) 侭村光郎rr沖縄教育』の性絡に関する研究ーー創刊 の感情と発行状況を手がかり l二一ーJr沖縄教育と近代 学校に関する研究』平成9-11年度科学研究費補助金 研究成果報告舎.2000~。上 m 八郎 rr琉球教育」復刻 版」日本教育学会『教育学研究』第47袋第 4号.19:印 年。9
)
阿波俣直銭「沖縄教育Jj中純県数千f委員会ri中縄県 史』別巻, 1977年。 10) r第十九回総会Jr琉球教育』第III号.1叩5年9月 前縄復刻版 rl定球教育』第11巻.86・87頁。 11) r第二十回車窓会Jr沖縄教育』第 7号. 1叩6年9月. 8頁。 12) r県教育会緩興策Jrl走珠新報J19111手4月9. 10. 11, 12. 13.20日。 13) 秋風生「片山線学口末路Jr琉球新報J19U1j;:1l月 8臼。 14) r編集時冨Jr沖縄教育』鋭部号.1914年3月.49頁. 句読点は引用者。 15) r大正三年度本会総入続出予算Jri中純教育』第97号. 1914年7月.73頁。E
親泊朝擢の編集担当期の『沖縄教育」
1 全鰻的強調 片山視学の離任を報じた『琉球新報』の記事と同 月.rj中縄毎日新聞J(1911年11月17日)に r沖縄教 育』への要望の記事が掲紋される。記事は「学説教 務欄には可成本県に適応したるもの」や「郷土化し たる会員口研究発表」などを掲餓すべきと主張して おり.その理由は「抽象論の如きは東京遅から来る ri中純D:育』にみる『沖縄人J1!ぬの形成(!!R屋) 9表
2
ri中縄教育』主要欄鈴考掲殺頻度①宮城亀編集人時期(第1号-
m
臼号) 回数 氏名 地位・聡察 出身 内容 8 附属小学校 方首鑓正・郷土地総数材・勅E防止綬・教祭 5 締山純一{南陸) ll~ iJl商業学校長 大和(鹿児島) 貨日t産業組合 4 伊波-m<猷 文学士 沖縄 Z定球史 4 鈎峻子 唱歌教授の片々 3 石川於発i1 Dr.籾商業学校教諭 節祭科教』畳法・欽材研究 3 1ft勝利一 師範教愉楽訓噂 大和(広島) 小学佼理科教綬について 3 高総清次郎 師範教t曲 大和(袋知) 朝鮮ー史絞・軒itrM'孝明天皇告書 3 i健口文夫 県宮廷 現今小学校数綬に於ける教綬の欠点 3 天夢山人 研究資科逮依鍵鈴 3 波抱敬E陸明 沖縄 小学校教員の段貨.訓練につきで 3 安村良公 (iま斎} 小学校長 沖縄 孟子の王巡給 問考:CIIEe念号(第31号〉をのぞいた残存する2.i号分の118論考が対忽e 回主主 23 i 6 6 6 5 5 4 4 3 3 3 3 3 3 3 3 3 121r学鋭敏務』聞に相当する伺 (r主型~Jr鈴111.Jr学絞殺務Jr学設Jrn背資終J伺1が対11¥. tお沖縄出身者と著書包できるのは11入。全E考118本中19'事(16.100)ε 表3 ri1t縄教育』主要欄論考掲総額佼② 親泊朝摺編集人時期(筋ω
号 第102号) 氏名 地位・聡m
自身 内容 事 費i自伺tR(編集子・!<<位学入} 編集人 沖縄 沖縄教育・銘り方教綬・校風鈴・批評没録 谷本官r
(竹島生iif記) 京s帝国大学教授 大和{香111) 教育ー絞 比拠能 (1首水) 小学校長 i中縄 沖縄歴史・二郎教綬・沖縄教育 安村良公(迂斎} 小学校長 沖縄 孟子・法制1経済総磁 与JJIi綴堅四L 附属小学佼訊if1. 沖縄 明歌草寺・体線科・E走隷音楽 務ft!・著書温(桑江生侠} 近世tlUlの政治家 沖縄 『中山世絡』の錦択 矢野局緩 高等女学校教授心得 大和{抱伺} 唱歌教授 f草山陶隆(1草山純一} 1Jr.羽前察学校長 大和{鹿児島} 片宙i長銀・水産業 I問i臨機主人 閑~-百題 石川告を兎喜 郎自白商業学校教践 教材研究 上限笠宮 小学校長 沖縄 体t桑・唱歌教綬 金駐車学人 学校財政 金械as
沖縄 作曲研究・疏疎音楽 潟f鳥i骨次郎 師総数紛 大和(愛知) 新嘗祭解説・神武天皇祭・岩手Wllil盤録 富 良i皮響(富良長包} 附属小学校訓導事 沖縄 教育唱歌・沖縄管楽 山内盛彬 師範学t~生 沖縄 唱歌絃授 八巻太一 小学 t~長 大和{山梨} 中靭事実を続む・副総 よし繍生 JJ術教授・文字笥得に関する実験 i肯考:(1)!a念号(情64号)をのぞいた残存する32号分のお8総考が対1Il. 12げ学鋭敏務J欄が対象。 131沖縄出身者と碕包で島るものはお人a金助努お8本中9-1本 (36.4%), W '中山低俗aの悶訳(j沖縄人の敏爺と8UJ. 表4 rill '純教育』主要l問鈴考掲載奴度@ 波法信治編集人時期(第103号 第III号) 図録 氏名 地位・験察 出身 内容 3 il'i泡f!i治 'lrHII.学・稲!t:人 絞育・道徳 3 味H1i告 師筏fU白 大和{京部} 旋球史(羽地申ilJ秀} 3 附儲小学校 発音矯正法 2 ifi村光!M. 京都帝国大学教綬 大和(高知} 地方自治 2 鳥I瓜1[(夫 I¥H支師 大和{宮崎} Ui1F.の織物学的研究 2 広間彼自E 小学校長 大初(滋賀} 他府県?提言3羽!i'i 2 武総長平 第ヒ高等学校教綬 大和(愛知} 信1山間・日*近世史 備考:mrq:1JI.紋JflJ欄に111均するl用(r諭誕JrUl;自}!,詣誕Jr lR~品 Jr研究Jr学説Jr割I;![J側}が対象E 121記念号 t第lω号}をのぞいたお100. 105. 100. 109. 111'T}の5ザ分のJ.1A'i考が対象。 131 沖縄 111身1fとtt:~できるすれ.1 5 人。全治事 3H~II'5 本 (14.Î%) 10 歴 史 学 研 究 第876~;-図書に雑誌に詳細を究めあれば到底其塁を麿するに 錐く多くが其縮様を嘗めをるが如き議論にな」るか らだという1)。中央の雑誌で扱われる教育一般の識 論ではなく.世縄社会に即した議論・研究発表を求 めているといえよう。それに対して.貌泊は「実は 編集子も同方針を採り来り {~i) と答えている。雑 誌の方向性として親泊も『沖縄毎日新聞』も共通の 認雌を有しているといえる。では.親泊朝掘が編集 担当時期の町中縄教育』について.まず会般的な傾 向を見ることにしよう。表
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表3
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表4
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中純 教育』の主要綱「学説教務}
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の詣考を録者別lこ.執 錐頼度!慣に並べ.出身.地位・聡業.論じている内 容を示したものである。 まず親泊編集期は,親泊本人の執筆が群を抜いて いることが確認できる。「編輯室だよりJr
絹綿時 事」などはもとより r文苑
J欄にも親泊の作品があ り.無著名・筆名の歯考が多数を占める「雑報Jr人 物月!
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欄などのほとんどは親泊が執筆している。 また執筆依頼や論考の選択を親泊が行っていること が確認でき4) 他の論者の論考の中にも親泊への応 答が多々見受けられる5)。これらのことから.この 時期に親泊が雑誌の論調を規定した大きな存在で あったことがわかる。 では.親泊が掲紋を決定した.あるいは執畿を依 頼した人々がどのような人物であり.何を論じてい たか確認しよう。まず.他の時期と比べて沖縄人執 録者の多さが指摘できる。沖縄出身者と確認できる 人物の論考は.宮城編集l
聞に1
1
8
本中1
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本で1
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1
9
6
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親泊編集期にお8
本中9
4
本で3
6
.4%.渡遺編集j切に 34本中5本で14.7%ある。現存号数の違いから有効 な比較ではないが.大まかな傾向は把握しえよう。 また.親泊の時期には小学校教員(訓導・校長)の 執tjt者が多いことも特色といえよう。論じている内 容に附しでも.沖縄教育.沖縄音楽.沖縄歴史を扱 う論者が複数名確認できる。 主要欄の論考掲載顎度の表を一瞥するだけでも. 親泊編集期に.沖縄人執従者が増大し小学校教員 が活路し.沖縄関連事項を論ずる者が鴻えたことが. 確認できょう。 親泊iま.第l∞号の節目に自らの仕事を振り返り. 次のように述べる。 十余年問教育の実際に従事して得た経験を以 て.着実飽健に教育界の評簡をしてみたいと考 へてゐた。(中略)時には或る友人から事過激 にE
るとて.訂正或は抹殺を迫られたこともあ る・γ…。(中略)先輩の意見を叩き..fiつは余の 経験に訴へて方針を定めた.而して先鏡の寄稿 を乞ふて本誌の価値を揚ぐるよりも.後進を促 して原稿を集むるは.本誌の発展と去ひ本県教 育の進歩の上にも有効であると信じた。本県教 育界の中堅は何処にあるかと云へば.新進気鋭 の教育者間にあるω
。 ここから.①教育実践に裏打ちされた編集.②若 手教員への期待,③「過激Jとの批判をうけるほど の内容があったこと.などが読み取れる。これらは 47号分を実際に通読すれば誌面に確認しえる。 ①の教育実践に裏打ちされた編集に関しては. r学校参観記」の連総(第57号より)などの学校の具 体的状況や教授と訓練への注目・強調などから明ら かである。また.各中学校教員に向けた研究会への 参加要望なども象能的なものである(第9
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号)。こ れらの点は.新田義線.休職後の『琉球教育』の傾向 を引き継いでいるといえよう7)。新田が編集餐員の 時期の r琉球教育』は r詰説J欄が雑誌の中心であ り.執筆者・の大多数が中学校・師範学校教員・県官 吏であり.大和人であった。しかし.新田休聡後. 「教授と訓練J欄が設置されて以降は.教育技術にか んする記事が繕えてゆき.その担い手である小学校 訓噂の発言の機会がt甘えたが.その多くは沖縄人で あった。親泊編集期のf
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中縄教育』は.従来の「論 説J欄と「教授と訓練」摘を含む「学説教務」欄が 雑誌の中心であったが.そこにおいては.小学校の 教育現場とその担い手が中心に据えられており.師 範・中学の教員が指部的な役割を果たしていた新田 編集期の『琉球教育』とは担い手は対照的である。 ②の若手数貝への期待に関しては.師範学校生の 山内盛彬(19
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年師範卒.沖縄人)の論考の掲載. 宮良長包(19
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年師範卒.沖縄人).比嘉春i
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~師範卒.沖縄人).与那嶺堅亀0
9
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年師範$.沖 縄人).金城義畠(19
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年師範卒.沖縄人)の論考な どをあげることができる。これらは教育実践.学校 論だが.後述するように宮良・与司)
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嶺・金城は沖縄 rj中縄級官』にみる『沖縄人J!i訟の形成{照股) 11の音楽などを論じている。また.比嘉春湖(銃名東 県民族の救済を計られたい」と翁輪づけている。こ 太郎)の論考は権威に対する批判精神に満ち.学校 うした表現には貌泊の近代教育への全幅の信頼や. の状況の停滞,官吏的で教育者的でない多くの校長 「進歩」という観念への懐疑がほとんど見られず. への批判を行っている(第
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号)0rどの学校の校長 「啓観主義J的と評しでもよい傾向が感じられる。 械でも間抜が多いJ8lという発雷まであり.眉をしか そこに「啓蒙主義」に共通の問題点を指摘すること める教育関係者もいたであろう。しかし親泊自身 は可能だが.まずは具体的にどのような危機感が親 も比嘉と同様の批判を展開しており.その上で.背 泊を突き動かしていたか.どのような教育を想定し 年教育者の聞で「教授訓練に関する研究」と「新思 ていたのかを確認する必要があろう。その点に閲し 想の受容 (r宗教哲学の研究J)Jが盛んになったこと で.親泊は次のように述べる。 を「快感に堪へないJと述べている"。 現今の本県を知るには過去の沖縄を知らざる2 r
沖縄民族』窓際と歴史教育の強調 旧世代への批判と新世代への期待は.③のr
過激』 との批判をこうむる要因となったといえよう。しか し旧世代への批判よりもむしろ,親泊の沖縄教育へ の思いそれ自体が「過激」であると捉えられた要因 だったと思われる。親泊は沖縄教育の目的を沖縄の 発展と同時に「沖縄民族』意識の強調においていた ようである。親泊は沖縄教育に関して次のように開 る。 吾人は沖縄民族の前途に就て頗る悲畷に堪へ ぬものである。(中略)実に本県の社会状態は 祭心に堪へぬことか多いのである。然らぱ本県 民族は未来永劫斯の捌く.他府県に劣る底の境 過に安ずべきものであるか。吾人は信ず教育の 力は偉大なるものであると。即ち本県教育者は この憐むべき県民を救ふには.先ず県民の自覚 を促し. 層一層の努力によって幾何級数的発 展を計りたいのである。本県の位置をして他府 県と比肩すべき理想では.決して其進歩に追ひ っくことは出来ない.須らく一躍再臨して其上 を越すべき覚悟が必要であると信ず則。 まず.親泊が.沖縄人を r県民Jと同時に「本県 民族Jr沖縄民族Jという用語で表現している点を確 認すべきであろう。そして.「本県の位置をして他 府県と比肩Jさせるにとどまらず「一躍再開して其 上を越すべき覚悟が必要である」と r本県教育者J に訴えている。ここで表現されているのは.地域的 アイデンティティに解消されるものではないし.単 に「他府県並み」を目標としているわけでもない。 親泊は.この文章に続けて.教育の普及により『本 12 朕 史 学 研 究 第8i6号 べからず。況んや特殊の歴史を有するをや。き れば参考になるべき歴史其他の記録臨笹を蒐集 して之を刊行するの必要あるべし。/ (中略) /要するに郷土誌は民族的自党を促し延いて知 徳の開発に努力せしむるに最も緊要なるものな り。亦この反涯によりて見れば.本県の産業不 振なるも.且つは学校教育の効果比較的挙がら ざるも.慈に原因をおすこと多々あるべし。教 育者は須らく百尺竿頭一歩を進むるの覚悟ある を要すべし11)。 ここで.親泊は「過去の沖縄」を知り r郷土誌」 を学ぶ意識を説いている。「郷土誌は民族的自覚を 促し延いて知徳の開発」を促すものとしているので ある。また.沖縄に対する無知が沖縄の「産業不振」 や r学校教育の効果」があがらないことの原因だと いうのである。このような認識は従来の沖縄の教育 への批判に繋がる。 本県固有の事物とさへ云へば.ーもこも皆抹 殺或は遺却せんとするものあり。而して此の 亜流は延いて教育界に及び.郷土史を陸れて国 民道徳を説き.本県の偉人傑士を逸して.欄神 教育を施さんとす。きれば其説述する処児童の 肺駒に徹底せず.五里霧中に紡僅せしむるの感 あり。是れ近きより遠きに及ぼし.低きより高 きに登るの殺に出でざるに1
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らずんばあち ず12)。
教育会の幹事であり機関誌の組終担当者である人 物がr
同化教育」を批判しているニとが重要である。 その1
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年ほど前に沖縄教育の意義を「旧時の地方的 感情を除去し此沖縄をして今一府国民らしくせし め}3
1ることとした折田義尊の論への反駁ともいえる。沖縄県尋常師範学校での新田の教え子であった の一体感を福袋すること}5)が目指されていたのに 親泊は