Title
エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」
Author(s)
小西, 吉呂(訳)
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(19-20): 91-169
Issue Date
1997-06-27
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6616
翻訳 (-) 訳者は、フランスの刑事責任論を概観し、過去にいくつかの論考を公表した。また、現在はその立法史的変遷を研究 (2) しつつあいソ、やはりその一部を公にしている。 これら一連の研究においてキーワードとなったのが、帰責性(旨]で三四豆]】誌)である。帰責性は、フランスの刑事責 任をめぐる諸課題において、その根幹と本質を形成している。そこで今回、この帰責性を明快に整理した古典的論文の (3五4) 訳出・紹介を試みることにIした。 本論文の特徴として、以下の諸点を指摘できるであろう。 論文全体については、判例の動向に立ち入った分析を加え、これをもとに統一的な理論構成を試みている点、犯罪学 や精神医学といった経験科学や臨床科学の成果を積極的に議論のベースにしようと試みつつ、なおかつ刑法学の規範学
エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」
エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」訳者はしがき
小西吉呂
九 一なお、こうした論文の特徴に関連してさらに付言すれば、著者は、|般化論(平均人説)を採用するが、そこに登場 する通常人あるいは平均人という概念は必ずしもはっきりしない点や、責任を非常に一般化。規範化し、これを被告人 自身の具体的状況下での心理状態から離れた低社会性として把握している点などは、かなり疑問の残るところであろう。 最後に、本論文は、フランス刑法の犯罪論体系の一端を理解するうえでも、貴重な示唆を与えてくれる。たとえば、 故意・過失、錯誤、強制(あるいは期待可能性)、因果関係などに関して、非常に詳細な記述がなされている。また、 著者はドイツ語圏の刑法学にも注意しており、たとえば、評価規範と命令規範の区別、規範的責任論、期待可能性論、 平均人思想などから多くの示唆を受けて、本論文をまとめたことが窺われる。さらに、本論文では、他行為可能性、決 定論と非決定論、責任と予防といった帰貢性と密接に関わる刑法学や刑事政策学の根本問題にも、多くの興味深い分析 がみられる。こうした意味においても、本論文の価値は少なくないと思われる。 ところで、本論文はかなりの分量に達するため、訳出に先立ちその概略を提示しておくことが有益であると思われる。 これにより、内容の理解が容易になれば幸いである。 ている点、 の社会復帰(再社会化)を刑罰あるいは制裁の目的としながらも、精神障害者に対する保安処分に消極的な態度を示し 点、自由意思の問題について不可知論に依拠している点、道義的応報的非難を責任の内容から排除している点、犯罪者 る点、人権への配慮から実証主義を排除すると同時に、犯罪対策の不備から古典主義にも組せず、折衷主義を採用した としての地位を保持しようとしている点、などである。また、個別的には、故意の内容を犯罪事実の認識に限定してい 沖大法学第十九・二十合併号 (再社会化) などである。 九 一 一
序章 第一章帰責性の内容
1帰責性とは、ある事柄をある者のせいにする可能性である。この定義から、帰責性と以下の諸概念との関係
帰責性は犯罪の構成要素となりうるか。帰責性は刑法上の有益な観念たりうるか。
(1)因果関係(2)責任(3)有責性 2帰責性の内容の具体的検討(イ)多数説::(a)理解し意欲する能力、および(b)意思と行為との間の心理的な結びつき
(ロ)言①1①‐雲三の説::(a)刑罰能力(8℃四三のごg巴①)、および多数説の(b)と同じ
(2)実務(とくに(b)との関連について) (イ)過失犯(ロ)強制六)法律の錯誤 3帰責性と意思の自由 4帰責性と法規範の構造l法規範宣言説I エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 (1)学説 帰責性とは、 が問題になる。 九 =  ̄第三章帰責性 1精神能力 第二章帰實性の対象 (1)精神の健康な状態(2)精神の成熟した状態 2法律にしたがう人間の可能性
(1)犯罪が行われた際に存在する諸事情に、平均人の意思が抵抗する可能性
(2)被告人が法律の不知のためにまたはその正確な内容の錯誤のために違背した法律を、正常人が知る可能性
3帰責性を排除する理由 (1)精神能力を排除する事由 2「行為への移行(百mの侭の凶】国R①)」の理論 (1)近代学派(実証主義)(2)古典学派(古典主義) 1諸学派の批判的検討 沖大法学第十九・二十合併号 (ロ)一三歳未満の未成年 (2)法律にしたがう人間の可能性を排除する事由 (イ)正常人の抵抗しえない強制 (イ)心神喪失 帰責性の要素 (3)折衷的見解 九四(1)拙稿「フランスにおける刑事責任能力論」法と政治一一一一一一巻三号一四七頁(一九八一一)、同「フランス刑法における責任能力論 の変遷と限定責任能力問題」法と政治三六巻一号一二一頁(一九八五)、同「フランスにおける精神病者の刑事「責任化」 (『のgoロの四宮一】の貝】。□)をめぐる動向」法と政治一一一八巻一号一六九頁(’九八七)、同「「精神障害」者に対する刑事「責任化」 について」沖大法学八号一頁二九八九)など。 (2)拙稿「フランスにおける触法精神障害者問題をめぐる立法史的展開(|)、(二)、(三)」沖大法学一六号一頁(一九九五)、 一七号一頁(’九九六)、一八号一頁(一九九六)。 (3)巴の○餌の丙巴口冨・已目已巨白亘宮の己のロ巳の.Q自切露悪回の凶・ロ:巨二口『8℃・ロ⑪呂三のでs巴の』①ゴロ弓・の‐望.この論文は、 二部から成る著書の第一部に相当する(第二部のタイトルは、巳のqのロ『Qの号・芹のロロ『・」芹己のロ巴となっている)。著者について は、残念ながら詳細は不明であるものの、本書がパリ大学出版部から公表され、席ぐ四m⑪の貝の序文が付されているところから、 好著であることは疑いないであろう。 (4)原文では各頁の下段に注が付されているが、訳出に際しては、それらを末尾において一括表記した。また、ごく一部の原注 は、煩雑を避けるため、論旨に影響を与えない範囲で割愛した。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 (ロ)過失犯に関し、損害を予見しまた予見された損害を避けることが正常人にとって不可能であったこと (C免れえない法律の錯誤 九五
方法論上の伝統からすれば、あらゆる法的観念の分析は、分析されるべき概念の基本的な定義そのものから始まるこ とが望まれる。しかし、帰責性の観念を分析するという問題に関しては、この伝統にしたがわないからといって、革新 的であると主張するにはおよばない。つまり、ア・プリオリに何らかの定義を与える可能性を、この問題そのものが禁 じているのである。なぜならば、このような定義は、この観念の何らかの内容に当然に言及しなければならないが、そ の内容は、現在のところ最も大きな学説上の議論の対象となっているからである。 一世紀前には、帰責性の観念は今日よりもずっと明確であったように思われる。この観念を定義したいと欲する刑法 学者は、ゆるぎない真実にしたがって、決して確認の対象とはならない自由意思に基づく道徳的非難に言及するだけで あった。しかし当時からすれば、様々の事情が変化している。すなわち、実証主義者の考えが、かつて帰責性の内容と して一致して認められてきた事柄に対して、重大な打撃を加えたのである。その結果、刑法において最も議論のあるこ の問題は、今日、刑法学の一番あいまいな領域になったように思われる。 新しい考えが広まるにつれて、その考えが帰責性の内容を修正しつつ、帰責性の古典的な概念にとって代わることを 十分に予想することができるであろう。しかし、そうするのではなくて、つまり帰責性の観念の内容を、事物の現状を 序章
二エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」
沖大法学第十九・二十合併号 九 六犯罪とは刑事構成要件の構成要素を充足し、正当化事由によって正当化されない人間の活動であり、それは行為者を 刑罰なり保安処分なりの特定の制裁にさらすものであるということを人々は知っている。形式的な観点からみれば、刑 法上の犯罪を他のあらゆる不当な行為(民事上の不法行為、行政上のフォートなど)から区別するのは、まさにこの制 裁の特定性にほかならない。したがって、刑事制裁を適用する可能性、つまりその制裁の適用を条件づける可能性の全 体は、犯罪概念の一部を形成する。というのも、犯罪行為を行った者を非難する可能性が欠けている場合には、この行 為は犯罪を特徴づける一定の性向を示さないからである。したがって、制裁適用の諸条件すべてを包摂する観念として 理解されている帰責性は、(ある特定の刑法制度のもとで、それらの条件がどういうものであろうと)犯罪の観念を構 る現代の刑法学者について、観察しうる。 構成するものに適応させるのではなくて、帰責性の制度そのものを刑法の領域から排除する傾向を、実証主義を信奉す 帰責性を敵視するこのような傾向は、とりわけ二つの点においてあらわれる。すなわち、一方では犯罪概念の構造上、 帰責性が占める位置に関してであり、他方では今日の刑法においてそれがもつ効用に関してである。 事態がこのようなものである以上、帰責性の分析に着手する前に、これら二つの問題を解決しなければならないのは、 明らかである。なぜならば、ある観念が時代遅れであったり、あるいはその効用が疑わしいものである場合に、この観 念に関心を払うのは、ばかげているだろうからである。したがって、われわれはこの二つの問題に対して、何らかのイ ントロ的な展開を確認する必要がある。 第一の問題は、帰貴性の法的性格の問題を提起する。つまり、帰責性は犯罪概念の構造上その構成要素となるか否か 第三 である。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 九七
成すろ要素の一つとなる。このことは、立法者が刑法第六四条において、心神喪失あるいは強制のために帰責性が欠け る場合には、犯罪は成立しないと規定したとき、刑法典の立法者の目には何らの疑いもなかった。そして、この場合、 「重罪または軽罪とならない」とする定式は、判例上違警罪にも適用されている。 したがって、帰責性の法的性格の問題にとどまる必要はないであろう。たとえ有力な学説の一部が、この第六四条の 法形式は個別的対人的に働きかけ、それが犯罪自体はそのままにして行為者の責任を排除する帰責性不可能事由を混乱 (-- に追い込むものであるがゆえに適切でないと主張し、第一ハ四条の法形式を無視するとしてもである。 帰貴性不可能事由が個別的対人的に働くという事実は、帰責性が犯罪の構成要素でないという解決を強いるものでは ないとわれわれは信じる。正当化事由も帰責性不可能事由も、犯罪を消滅させる。ただ、それぞれのカテゴリーは異な った段階で作用するのである。正当化事由は活動の反社会性を消滅させる。この結果、その活動は社会的に是認され、 重要でなくなるがゆえに、その活動に対して行為者の人的条件を吟味する必要性は何ら存在しないのである。反対に、 帰責性不可能事由は反社会的活動を行った者に制裁を適用する可能性を排除するものである。しかし、これら二つの場 合には、活動は制裁、つまり犯罪の効果と結びつきえない。したがって、これら二つの場合には「重罪または軽罪とな らない」のである。前者の場合には、不法な行為すら存在しない。 帰責性が犯罪の構成要素ではないとの意見に組する学者は、共犯制度から彼らの論証を援用する。つまり、正犯者に 認められる帰責性不可能事由の存在は、他の関与者の責任を排除するものではないという点に注意を喚起するのである。 この点は何ら異論の余地がない。しかし、この議論は、犯罪の構成要素から帰責性を排除するうえで決定的なものでは ないとわれわれは考えろ。 沖大法学第十九・二十合併号 九八
実際、関与行為の事例に関して、法が刑法上非難に値する行為、換言すれば刑法上の違法行為に加担した共犯者の刑
事責任を吟味する際、正犯者の行為が正犯者の人格について帰責性の条件を満たしていることは必要でない。つまり、
その行為が正犯者の人格上、完全な犯罪を実現しなければならないということはない。それが構成要件を充足し、正当
化事由によって正当化されないものであれば十分である。
この解決は、共犯者に欠けているのは帰責性ではなくて、それ自体において独立して考えられる所為の犯罪性である
という事実から説明される。したがってその者の責任が約束されるためには、正犯者から所為の犯罪性を借用するだ
けで十分である。しかし、このことは、帰責性をもたない正犯者が完全な犯罪を実行したとか、あるいは、共犯が法律
上成立するうえで共犯者が帰責される必要はないとかを意味するものではない。
そのうえ、帰責性は犯罪の構成要素として犯罪の一部を形成するという考えは、裁判官および陪審員に課せられる主
設問に関する刑事訴訟法第一一一四九条において補足的な支持を発見する。そうわれわれは考える。この規定によれば、
起訴された犯罪の諸要素はすべて、主設問の一部を構成する。帰責性はその諸要素に含まれる。この設問に否定の返答
をするということは、たとえ欠けている要素がどれであっても(客観性、反社会性、帰責性)、起訴された犯罪の法律
をするということは、. 上の不存在を意味する。帰責性の法的性格に関するこの見解は、国際的な学説において、権威ある非常に多数の学者によって支持されている。
○四q日四はすでに刑法上の犯罪を「道徳的に帰責されうる人間の外部的な行為(これが積極的なものであれ消極的なも
(2)のであれ)から生じる、市民の安全を守るために制定された国家の法律に対する犯罪である」と定義した。
今日でも、の【ず己‐席ぐ;の①巨『が帰責性を犯罪の定義の中に含め、「刑事制裁をともなう法律によって規定・処罰ざ
エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 九九事象をより一層正確にながめてみると、帰責性の純粋かつ単純な削除がこの問題を解決するようには思われない。保
安処分の適用は、帰責不可能な人間によって客観的に犯罪とされる行為が行われたことを唯一の条件としているのでは
ない。実際、強制下で行為した者に保安処分を適用するなどということは、考えられたこともなかった。心神喪失者や
未成年者については別であるとしてもである。これは、彼らが何らかの行為をしたという事実だけがもっぱら考慮され
るばかりでなく、彼らの人格の諸条件がとくに考慮されるということのためである。
したがって、制裁を言い渡すには、それが保安処分であろうと刑罰であろうと、行為の単なる反社会性だけでは十分
でない。行為者の人格の評価もまた必要である。ところで、この評価の「中身」を指示するために、人々がどのような
沖大法学第十九・二十合併号 一○○ (3)れる、正犯者に帰責しうる作為または不作為」として犯罪を定義している。
さらにわれわれは、昌日の目の国Qの.シ呂四を引用しておこう。彼は、危険性に関する講演において、帰責しえない者に
(4)よって犯された違法行為を犯罪と考える一」とをしりぞけ、それを単なる有害行為とみなしたのである。
しかし、ここでわれわれは第一一の問題にたどりつく。こちらの問題は、先の問題よりもはるかにデリケートである。
つまり、近代刑法は、違法行為者に刑罰を適用するためには、彼が「帰責可能な」人間である場合に限られると言って
いるだけでなく、彼に保安処分を適用するためには、行為が「帰責不可能な」人間の仕業である場合であるとも言って
いる。この場合、制裁の適用は、もはや帰責性によって条件づけられるのではない。したがって、犯罪概念は反社会的
な行為だけで論じつくされるかどうかを吟味しなければならない。今曰、帰責性が示す効果に関して何人かの学者が疑問を抱くようになったのは、まさにこの点を考慮してのことであ
ろ5.-(6) 語句を用いようともl‐実証主義者にとっては危険性であり他の学者にとっては刑罰能力であるlそれはつねに制 裁にとっての必要条件であり、したがって犯罪の構成要素である。 われわれは、この行為者の評価を、以下の論述において、帰責性ということばで表現したい。そうすることによって、 われわれは決して保守主義者の精神を表明しようとするのではない。そればかりか、この用語の代わりに他の語を用い ても何らの不都合も生じないと考えている。帰責性ということばは、正確な内容をもたない。それは会計用語から借用 (7) されたものであいソ、学者の一般的な告白によれば「ある事柄をある者のせいにする可能性」を意味する。したがって、 人々が帰責性と呼んでいるのものの役割を決定するのは、用語自体ではなくて、次のような諸条件である。そして、あ る者のせいにするかどうかは、この諸条件に依拠している。 帰責性の観念の分析は、当然に以下の三つの段階を経過しなければならない。第一に、この観念がどのようなものか ら成立しているかを考えなければならない。つまり、帰責性の内容を決めることである。次に、犯罪行為者にまさに帰 責されるものが明らかにされなければならない。それは行為であるのか、それとも行為によって示される危険性である のか。これは帰責性の対象を決定することである。最後に、この観念の分析は、帰責性の存在を確認しうるところの 様々な基準の確立によって論じつくされることになろう。これは帰責性を構成する要素の決定である。ここから、以後 に三つの章が続く。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 ロ 一 ○  ̄
則の助けを借りて、実一 解するように努めたい。 帰貴性の観念を分析しようとする者は、|歩踏みだすや、その作業が二つのレヴェルの困難にぶつかることを知るで あろう。第一は、微妙さに満ちあふれているこの観念の性格に本来備わっているものである。すなわち、その本質およ び内容は、ある特定の時代に刑事制裁に与えられた目的に応じて変化しうるのである。第二のレヴェルの困難は、第一 のものより克服し難いものであろう。学者は、実に様々な観念を示すために学説上「帰責性」という語を用いており、 この結果、一見すると議論の共通した土台が欠けているように思われる。したがって、われわれが分析を始めなければ ならないのは、まさにこの議論の共通した基礎の探究からである。これが一たび発見されたならば、われわれは論理規 則の助けを借りて、実定法の領域において、その内容を決定する第三の場所に到達するべく、帰貴性の観念の本質を理 (8) この帰責性という語の起源は、ある者のせいにすることを意味する〔ヨ【〕{』曰『⑯というラテン語の動詞にさかのぼる点 に注意をうながしつつ、すべての学者が最初は語源上の考察によって帰責性の観念に近づくということを、われわれは すでに指摘しておいた。かくして、帰責性は一見すると、ある事柄をある者のせいにする可能性、刑事帰責性では違法 (9) な所為をその行為者のせいすフC可能性のように思われたのである。 すべての学者に共通したこの帰責性の一般的な考え方は、さらに、この観念の内容を分析するうえにおいて、出発点 として役立ちうる。事実、帰責性の内容を獲得するためには違法行為が行為者のせいにされる諸条件を決定するだけで
十分だろう。しかしこの諸条件の決定は、この問題に関してまったく正反対に対立する様々の意見を吟味するとすれば、
第一章帰責性の内容 沖大法学第十九・二十合併号 ○容易なことではないだろう。
かくして学説の一部にとっては、行為をその行為を為した者のせいにする可能性は、行為と本人との間の因果関係が
(川}確立される瞬間から存在する。われわれが吟味するように、帰責性は、一」の見解にしたえば、因果関係と同一視される
か、せいぜい因果関係が帰貴性の内容を構成するものである。この理論の正確さに関しては態度を留保せざるをえないが、われわれの意見によれば、この見解は因果関係の真の性
格を無視する誤りを犯すものである。因果関係は、ある事態が、他の事態の結果であるということを主張しうる論理的
判断にすぎない。したがって、それはつねに具体的な結果の存在をまって初めて行われる帰納的な判断である。換言す
(Ⅱ) れば、純粋な事実の問題である。 したがって刑法においては、この判断は次の場合に役立ちうるにすぎない。すなわち、ある一定の結果がある一定の行為に帰属されうるかどうかを、つまり、ある違法な行為が犯されたということを結論づける目的で知ろうとする場合
である。かくして、たとえば頭部に弾丸を受けた死体の場合に、自殺が問題なのか他者の行為が問題なのかを検討する
ことによって、調査は死因を決定しようと努める。不意の死が刑法の領域となるのは、後者の場合だけである。したが
って、刑法における因果関係は、現に発生した事実が実体法の領域に属するか否かを決定するうえで、またその事実が
違法行為を構成するか何か別の行為を構成するかを知るうえで、広い意味で裁判官に役立つものであるとわれわれは考
える。反対に、実体法は事実の確立に関わるものではなくて、ある一定の事実が与えられていると考えた場合に、その 状態に法的根拠を与えるものである。そこで、実体法がわれわれに違法行為について語るとき、それはある人の活動に よって生みだされた外部的世界の修正を意味するのである。したがって、因果関係は、違法行為の観念の中に暗黙のう エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 ○ならない。 この解釈は何と無価値なものであろう。この解釈は何らの疑いもないのである。
ければならない。つまり、「違法行為が罰せられるためには、それが違法行為でなければならない」ということである。
同じことである。ところで、帰責性を因果関係性と同一視するこの理論に基づけば、この法規は次のように解釈されな
行為が罰せられるためには、それが行為者に帰責されなければならない」と命じる実体法規の場合についても、やはり
ちに含まれており、原則として、実体法がこの観念について語るときはいつでも、われわれに与えられている。「違法
以上から、行為者に対する行為の帰責性は、因果関係を意味するものではないということになる。なぜならば、行為
者と生じた結果との間のこの結びつきは、違法行為の観念の一部を構成する要素だからである。したがって、論理的必
然性によって行為を行為者に対して帰責するという観念は、生じた結果に対する原因としての行為者l原因の性質
は行為の観念に属するのであるlに依拠するのではなくて人間人格としての行為者に依拠すると結論づけなければ
ならない。したがって、この人格のもとにおいてこそ、帰責性の諸条件は検討されなければならない。以上の確認によって、われわれは帰責性を単なる因果関係と同視する見解を議論の中から排除しなければならない。
帰責性は、ある者が犯罪の行為者であるという論理的な判断ではなくて、本来的に、犯罪の行為者としての主体の人格
(厄)評価である。そして、学説上の代表的な学者が帰責性を考えるのは、まさに}」のような意味においてである。しかし、
帰責性の呼称を引き受ける観念として因果関係を遠ざけることは、われわれにとっては、あらゆる誤解にアリバイを提
供するうえで十分ではない。なぜならば、学説上、責任および有責性の観念がさらに存在するからである。そして、そ
のめいめいの領域が帰責性と呼ばれるものを明確にするために、帰責性の観念との関係において、一線を画さなければ
沖大法学第十九・二十合併号 一○四ここでわれわれの出発点を思い起こそう。誰もが帰責性を、行為をその行為者のせいにする可能性として理解する点 で一致しているということを、われわれはすでにみてきた。しかも、この可能性は、行為者人格の評価に開かれている ということが結論づけられたのである.けれど負このような対象の位置決定l評価はそれに関わるl住この評 価の意味について何も語っていない。したがって、検討されなければならない人格の諸側面について何も語っていない のである。ところで、何人も疑わないように、あらゆる作業の意味は、その作業が掲げる目的から決定されるというこ とが真実であるとするならば、次のような帰結が導かれるであろう。つまり、行為を行為者のせいにするということが どういう意味か理解されたならば、この評価の射程範囲は決定されるであろうということである。この問題に関し、学 説は一致した方法で答えている。つまり、行為を行為者のせいにしようとすれば、それは、その行為のゆえに彼を様々 (、} な結果に服させるということである。 したがって、帰責性を構成する評価は、違法行為を行った行為者に制裁を適用しうるという評価であるとわれわれは 考える。この結果、帰貴性はその内容において、次のようなあらゆる条件を含んでいる。つまり、行為者に制裁を適用 するための諸条件、換一一一一口すれば、刑事責任を宣言するための諸条件である。 このような検討から、われわれは帰責性の観念と責任の観念との間の関係を決定しうる。というのは、帰責性の観念 は、行為者が制裁に服することによって、その行為に応じて義務を創造する諸要素をすべて含んでおり、責任は帰責性 自身とは別の内容をもつものではないという結果になるからである。換言すれば、責任は行為がその行為者に帰責され うるという主張を構成するにすぎないのである。辺の司已‐巨当Pの印の日が、責任とは単なる効果であり、法的帰結である (川》 と注意をうながすとき、彼らが主張しているのは一」の意味においてである。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 一○五
したがって「帰責性」と「責任」という一一つの用語の間には、観念的な相違は存在しないということになる・両者
を区別する唯一のニュアンスは、帰責性が責任の論理的前提を構成するという点である。○耳・]目は、次のように教え
る。「したがって、責任の観念は帰責性の観念と密接に関連している。この責任は決着をつけるよう要求する声に応じ
る義務である。さらに的確に表現するならば、これら一一つの観念は、両者を区別する微妙なニュアンスにもかかわらず、
{眠)一」とばの同じ表象、つまり解決するという表象に依拠しており、相互に両者を含み《ロう関係にある」・
したがって、良識を損ねることなく、どちらか一方の語を自由に用いることができる。というのは、両者が共通した
内容の観念を表現しているからである。このような視座のもとでは、われわれの吟味の対象は決定されるように思われ
る。なぜならば、たとえ帰責性の内容に関して学説が多様に分岐しているとしても、責任の内容に関しては学説は極め
て接近しているからである。したがって一一つの表現の類似性に関する上述のわれわれの結論によって、多数説によれ
ば責任の内容を構成するのは何かを、われわれが決定しても不都合はないであろう。そして、その責任の内容によって、
同時に帰責性の内容の限界が設定されたことにもなる。しかしながら、共通の基盤に達するまでに、なすべきことばの整理が残っている。人々はそれによって了解し合える
であろう。何人かの学者については、責任の一一つの意味、つまり厳密な意味と広い意味を区別する傾向がみられる。狭
い意味の責任は、行為者の主観的な要素すべて、帰責性評価の内容を構成する人格的な条件すべてを含むものである。
広い意味の責任は、厳密な意味の責任に加えて行為の反社会性を包摂する。
このような傾向は、の局毎昌‐席ぐmmmの■『の考えにみいだしうる。事実、この一一人の学者は次のように有力に主張して
いる。「厳密な意味における刑事責任が存在したというためには」犯罪者がフォートを犯したということ、そしてこの
沖大法学第十九・二十合併号 一○六(脆》 フォートがその者に帰責されうるということがなければならないと主張している。‐)たがって、厳密な意味における責 任の中には、犯罪者の主観的な要素すべてが含まれているということになる。しかし、彼らの論述を読んでみると、次 のことが了解されるであろう。つまり三人の教授が責任を排除する事由を扱う場合、彼らはその中に正当化事由l (、} 彼らによればそれは無答責性の客観的事由とされる-を含ませ、かくしてそれらの事由が、より広い意味における 責任lこれは行為者の人格的条件を越えて行為の反社会性をも含むlを排除するものであるということを、納得さ 思うに、責任を理解しなければならないのは、まさにこのような意味においてだけである。責任の観念が、帰責性と の関連で、そのあらゆる自律を獲得するのは、まさしくこのような意味においてのみである。責任の観念は、行為者を 制裁にしたがう義務へと導く主観的・客観的諸条件をすべて含む。これに対して、帰責性は、人格的条件、行為者の責
任を決める主観的な要素だけを含むものである。したがって、このような視座からすれば、帰責性は責任の中に含まれ
るが、責任はそれのみにつきるのではない。なぜならば、帰責性の他に、反社会性のための場所が存在するからである。 多数説によって、責任が犯罪者の主観的要素に限定されてきたという事実は、われわれの考えるところでは、刑事責 任を道義的責任と完全に同一視するところに原因がある。事実、道徳上、罪は心理的な態度・義務に対する心の状態に 上述のような視座は、少しのためらいもなく受け入れることができる。責任とは自己の行為に応答する義務であるか ら、この義務は単に行為者の主観に依拠するばかりでなく、所為の特徴にも依拠するのである。行為者が殺人の際に意 識明断であったとしても、不正な侵害から身を守るために行為したならば、本人はその行為に応じる義務は少しもない せようとしている点である。 のである。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 一○七行為者人格に対する否定的な評価である帰責性のこうした特性は、刑法制度がこの評価に対して認めている内容に関 係なく、この観念の性質に内在するものである点に注目すべきである。犯罪行為が発生すればただちに制裁を自動的に 適用することを刑法が断念したときから、行為者人格の評価は、制裁の、したがって刑事犯罪の観念の必要不可欠な条 件である。したがって、刑法制度上、その内容がどのようなものであろうとも、帰責性、すなわち行為者人格の否定的 評価は、つねに必要である。かくして、たとえば、実証主義者の理念に基づく刑法制度も、やはり行為者に制裁を適用 するために、このような行為者の評価を要求しているのである。犯罪者の危険性は、違法行為が行われたということか (Ⅲ} ら自動的に導きだされるのではなくて、行為者が再犯をする可能性から生じるのである。もしも人格の評価が再犯の可 れぱならない。 的な意味を有する外部的活動を含む。したがって、刑事責任はこうした要素すべてを含まなければならない。 ある。罪人はこのような心の状態にのみ、応答しなければならない。反対に、刑法上、犯罪は心理的要素以外に反社会 このような結論にしたがえば、われわれはそれ以後の展開において、責任および帰責性によって理解されるものを正 確に述べることができる。責任は反社会性と帰責性を含む。帰責性は、制裁の適用を条件づける行為者の人格的要素す べてを含む。有責性に関しては、その場所は帰貴性に認められる内容にしたがって決定されるであろう。この点をわれ われはずっと後で検討することにしよう。 問題をこのように限定することは、先立つ結論を考慮することによって、われわれに帰責性の一般的な輪郭を把握さ せる。それは犯罪者の人格の評価から成り、そしてこのような評価は、その者に制裁を適用することを目的として行わ れるのであるから、それはその人間の否定的な評価、つまり、その人格の不利な判断であると、そこから結論づけなけ 沖大法学第十九・二十合併号 一○八
能性を示さないならば、すなわち、もしも行為者が危険でないならば、その者は放免されなければならない。同日】8
再ョが、彼の目からすれば何らの危険性も示さない機会犯人を刑法の領域から排除したのは、まさにこの理由のため
したがって、われわれは次のように考える。すなわち、現代文明の実状に照らしてどのような刑法制度が重要である
かに関係なく、制裁を犯罪者人格の事前の評価にしたがわせることは、つねに価値あることなのである。われわれはこ
の点を強調しておく。なぜならば、後にみるように、学者の中には、帰責性の観念は当然に自由意思を意味し、もしも
刑法を「神聖化しない」ように望むのであれば、この観念を遠ざけなければならないと考える者がいるからである。だ
が、自由意思は帰責性の観念そのものを構成するものではなく、この観念の特定の内容を構成するものである。それは、
ちょうど実証主義の見解によれば危険性が帰責性の内容を構成するのと同じようなものである。したがって別のこと
ばを帰責性ということばに置換するというだけでは、事柄の性格を変化させるうえで十分ではない。
帰貴性の内容を検証すべきときがきた。われわれは、この観念の特色が行為者の否定的評価にあるということをみてきた。「否定的」という形容詞そのもの
は、次の事柄を意味する。つまり、この評価によって、人々は一定の社会的秩序によって保護される社会的価値の体系
を免れえない限りにおいて、行為者人格の否定的価値を認めたということである。しかし、違法行為の行為者に関して、
社会的な秩序によって表明されるこのような不利な判断は、彼と彼の行為との心理的な関係の存在を確認することから
もl法は不利な結果をそれに結びつけるl行為者が社会的な要求に適合するよう行動しなければならなかったとき
にそうしなかったと評価することからも生じてくる。この後者の場合においては、不利な結果は、行為者が違法行為の
帛司H1が、 (仰) である。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 一○九精神的な原因であったという事実に関係しているのではなくて、彼が違法行為の実現を避けるためにしなければならな
かったことを、全然しなかったということに関係しているのである。評価の内容を吟味するこれら二つの方向の違いは、
はっきりしている。前者の場合においては、評価は行為者とその者の行為との間の精神的な結びつきの確認から成る現
実性の判断であるのに対して、後者の場合においては、評価は価値の判断としてあらわれる。そして、この場合には、
事実の存在を確認することが問題になるのではなく、事実を評価と比較すること、行為者の態度を法主体の義務論的態
度と比較することが問題となるのである。 この問題に対して、実定法はどのような立場を採用しているであろうか。まず、学説がわれわれに教えるところをみてみよう。帰責性ということばに与えられる意味に関しては、学説上、極めて多様性が存在するものの、それが厳密な
意味における責任という表現の同義として受け取られるときは、その内容はほぼ完全な一致の対象となる。したがって、われわれはそれぞれの学者によって与えらる個別特殊な定義に依拠することなく、学説の視点を統一することができる。
というのも、学者ごとに表現のニュアンスが変化するにすぎないからである。学説によれば、違法な活動の行為者が、帰責性あり、したがって責任ありと宣言されるためには、対象となるその者
の評価には、一一つの要素が存在する。その一つは、行為者が違法な活動をした場合に、その者の人格の静的な状態、す なわち、行為時の多少なりとも正常な心神の状態を考えるものである。もう一つは、その行為の対象に関する行為者人 格の精神力学、別言すれば、行為者の「自我」とその活動との間の心理的な結びつきを対象とするものである。これら の要素を指称するために、それぞれの学者が用いる語がどのようなものかに関係なく、はっきりしているのは、学説を 代表するすべての者は、われわれが帰責性と呼んできた観念の内容の中に、これらの要素が存在するのを一致して認め 沖大法学第十九・二十合併号  ̄ ○ていることである。かくして、あらゆる学説にとって、第一の要素は理解し意欲する能力から成り、有責性を構成する
(帥) ところの第一一の要素は、行為者の意思と処罰される行為との間の関係から成る。 とりわけ、言①1①‐二三によって代表される一つの新しい傾向が学説にあらわれたのは事実である。それは、帰責性の第一の要素すなわち行為時における行為者人格の正常性菱別の要素つまり、刑罰能力lこれは裁判時におけ
(幻ヱヱ) ろ主体の制裁に対する感受性の評価を含むものであるIによって置換しようとするものである.われわれは、この観念が帰責性の観念にとって代わるうえで、十分なものではないと考えている。それは、この観念
が論理的に帰責性に関する問題に続くものだからであり、より正確に言うならば、それが場合によっては帰責性に認め
られてきたある一定の内容の役割を構成するという単純な理由のためである。事実、主体の制裁にしたがう能力につい て、あるいはその資質に最も適した制裁の選択について意見を述べる前に、本人が制裁に服さねばならないかどうかを、 つまり、帰責性に依拠する問題を考えなければならない。ずっと以前の箇所で、制裁はつねに行為者人格の否定的な評 価lその評価の内容がどのようなものであるかはともかくlに依存するということ、ざ二行為者が自己の行為 の自由な原因であったという事実なり自己の危険性なりに基づいて、その評価を根拠づけることが重要であるというこ とを、われわれは主張してきた。ここから、この刑罰能力の観念は、たとえそれがいかに有用であろうとも、帰責性の内容すべてを論じつくしうるものではないということが帰結される。すなわち、それは単に帰責性の要素の一つを構成
するにすぎない。そして、その要素は責任の基礎に関係するのではなくて、その程度に関係するのである。 いずれにせよ、当面重要なことは、二人の学者が、この刑罰能力の要素は別にして、やはり次の点を認めていたこと である。すなわち、行為が行為者に帰責されうるためには、行為者と行為との間に心理的な結びつきがさらに必要だと エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」いう点である。故意と過失を含むこの心理的な結びつきは、彼ら二人の学者によれば、有責性の側面の一つを構成する。
(幻〉 もう一つは、行為と結果との間の客観的な因果関係である。われわれはかくして学説の態度決定を次のように要約することができる。つまり、帰責性は、違法行為を犯した者が
そこから生じた事態の精神的な原因であったという判断を含むものである。結果として彼は、制裁をともなう不利な評
価の対象とならなければならない。なぜならば、彼は自らの意思によって人と違法行為との間に心理的な因果関係の結
びつきを成立させたからである。しかしこの心理的な結びつきは、それが制裁へと達しうるためには、完全な知能およ
び心理的な機能を有する人間の結果であったことがなければならない。行為者人格の心神の正常な構成は、学説の目か
らすれば根本の仮説であり、帰責性の、したがって、刑事責任の必要不可欠の条件である。この要素は違法行為には何
(型)ら依拠することなく、行為者自身を対象としている。それは、の(の毎口】‐席ご口切、の日によれば「本人自身の資格」であり、
(西) 可【日】O巨曰○三によれば「行為能力」である。しかしながら、理解し意欲する能力を含む人格構造のこのような状態は、制裁を基礎づけるうえでは十分でない。さ
らにこの能力の有効な行使、すなわちわれわれがすでに述べた論理的な結びつきがなければならない。これはまさに有
責性の要素である。この要素は行為者の行為に対する深い結びつきのために、制裁への道を開く人格に対する不利な評
価を惹起する。第一の要素は、次のような意味で、単に有責性の素材を構成するというにすぎない。つまり、この要素
がなければ、主体の行為に対する心理的な結びつきが中断したままになっているがゆえに有責性は存在しえないという
がなければ、主体の涙 意味においてである。このような学説の考察によれば、行為者の否定的な評価は、健全で成熟し、かつ自主的に決定を行う意思から結果す
沖大法学第十九・二十合併号 |’ろ、行為者とその行為との間の心理的な関係の存在を確認することに基づいている。
にもかかわらず、人々は次の点を疑うことができる。つまり、実務の解決は、つねにこのようにして解明された帰責
性の内容と一致するかという点である。事実、実務のもとでは、行為者の責任が、主体とその者によって行われた犯罪
との間の心理的な結びつきの存在にかかわりなく問われる場合がみられる。ある一連の事例において、行為者はこのよ
うな関係が欠けているにもかかわらず有責である。他の事例においては、無答責となるのにである。しかもこの場合に
は、その者と違法行為との間の心理的な関係は、まったくはっきりしているにもかかわらずである。したがって、こう
した事例の影響力が、学説によって区画されている帰責性の内容の限界中にみいだされるかどうかを検討してみる必要
一観察者の目にとまる第一のケースは、過失犯のケースである。この事例に関しては、行為者の責任は、主体と損
害結果との間の心理的な関係から帰結するのではなくて、まったく逆に、このような犯罪の行為者が、その者と結果発
生の蓋然性との間に心理的な関係を確立しなかったという事実、もしもそのような関係が確立したならば、損害は避け
られたであろうという関係を確立しなかったという事実に応答しなければならないのである。事実、学説は次のように
考えている。つまり、行為者の人格的態度の非難されるべき点は、その者の意思の不活動にあり、これが原因となって、
(亜)その者は通常人が予見しえた一」とを予見しなかったと考えているのである。しかしながら、意思の不活動は、行為者を
結果に対する心理的な原因とする精神的な結びつきとしてはイメージできない。このような観察は、o具)己の一重肖号の
注意を免れるものではない。彼は「過失犯は行為者の肉体としての人に由来するのであって、行為者の心理的、社会的
(刀} な人格から生じてくるものではない」という一」とを理由に、過失犯の不可罰を強く主張した。}」の視点は、帰責性の内 がある。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 一一一容に関する学説においてみられた考えと完全に一致するものであった。というのは、帰責性は行為の結果と行為者の意
思との関係にあるのであり、このような関係がない場合にはlそれがまきに過失犯の場合であるl帰貢性および制
裁は存在しないのである。しかしながら、このような立論は、立法者に対しては十分に説得力をもつものではなかった。
というのは、立法者は過失犯を処罰するのをやめなかったからである。したがって、われわれはまずこの点に関し、帰
責性の内容を吟味しなければならない。すべての学説は、次のような二つの事例において過失犯が問題になると考えている。
第一の事例では、過失は、損害を発生させた行為者が自己の行為の起こりうべき結果を考えず、そのために、自己の
活動の影響を統制するために必要な注意を払わなかったという事実から生じる。第二の事例では、行為者は自己の活動
の起こりうべき結果を十分に考え、その結果を監視する可能性を予見したのであるが、その結果を避けられるだろうと
誤信して行為の計画をあきらめなかったものである。第一の事例は、学説上、認識なき過失と呼ばれているものを構成する。第二の事例は、認識ある過失と呼ばれている
(醜}ものを構成する。認識なき過失においては、生じた結果との精神的な関係の欠如は、何ら疑うべくもない。行為者は、
自らの行為によって、そこから生じた結果とはまったく異なる結果を得ようと欲していたのであるが、自己の行為のそ
のような結果を予見するために、何らの注意も払わなかったのである。たとえば、踏切の遮断機を降ろし忘れ、かくし
(汐} て自動車事故の原因をもたらした踏切番の事例がそうである。認識ある過失の事例では、問題はもっとデリケートなように思われる。行為者が事故をもたらす行為の結果を予見し
ていたという事実は、その者の意思と生じた結果との間の関係をつねに証明するものである。われわれは次のように考
沖大法学第十九・二十合併号える。行為者の一一つの精神的態度の間に区別を設けなければならず、それらは、共通の要素つまり結果の予見をともな
うものであっても、基本的な相違を示すものであると考える。第一の事例においては、行為者は結果が生じることはな
いであろうことを消極的に欲して事柄に臨んでいる。この場合には、行為者は望ましくない結果を避けるために、目的
的な活動を何らとっていないが、しかし自らが犯罪者になるか否かを決定することを偶然に委ねている。その結果、彼
は結果の発生を望まかつたとはいえ、それを遠ざけるのと同じ程度にそれを受け入れている。事実、その者は偶然を信
用することによって、結果の不発生を確信するために何らの措置も講じていないのであるから、その者は損害の発生に
対して心理的中立の立場を選んでいる。それはあたかも、その者が「損害が発生しようとしまいと、私の知ったことで
はない」と言っているかのようである。したがって、この場合には、受動的ではあるものの、彼は結果の発生を受け入
れているのである。すなわち、本人の内心では、結果は、自らの行動によって実現しようとする外部的世界修正の危険
な一部として反映しているのである。それゆえ、この場合には、行為者と結果との間には、精神的な結びつきが存在す
ると結論づけなければならない。前記とは反対に、第二のケースにおいては、行為者は結果発生の蓋然性に関する自己の認識が、警告の前に活動せず
にあったのではない。つまり、本人は損害の発生を避けるうえでよき運命に身を任せず、様々な状況の評価に基づい
て自己の確信を基礎づけるが、やがてそれが誤りであると知るのである。これは、ちょうど次のような自動車運転手の
場合がそうである。すなわち、ブレーキのききが悪い状態にあることを知っていながら、自動車を使用する運転手の例
である。その者は生じる事故の蓋然性を予見していたが、自らの運転技術を過大評価することによって、危険な場合に
おいても、器用な操作や手動ブレーキを利用することによって、その危険を払いのけることができると考えたのである。
エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 一 五したがってこの場合には、行為者は結果を少しも受け入れていない。まったく逆に、その者は結果を発生させること
はないと考えており、ただその考えが、誤った評価に基づいているのである。この評価は、もしもその者が現実の諸事
情を配慮するに際して、もっと注意を払っていたならば避けられえたであろうものである。それゆえ、行為者は、結果
との間に精神的な関係を有しないのである。このように、われわれは一一つの事例を分離する相違を知るのである。たとえ結果の予見が二つの事例に共通する要素
を構成するとしても、それらははっきりと区別される。すなわち、第一は、結果が行為者によって受け入れられ、さら
に認容されているという事実から、故意の領域に位置づけられる。そして第二は、過失の領域に位置づけられる。
認識ある過失は、注意不足によって、行為者が予見された結果を回避しうると誤信した事例にのみ限定される。反対
に、行為者が結果の予見があるにもかかわらず、結果発生を避けられるだろうと受動的に期待して活動したケースは、
未必の故意と呼ばれるものを構成する。どS三]口が正当にも注意を喚起しているように、「未必の故意と認識ある過失
{列) は似ているが、前者が故意の領域にあるのに対して、後者は過失の領域にある」。以上の省察から導きだしうる結論は、過失犯においては行為者と損害結果との間には、何らの精神的な結びつきも存
在しないという点である。一一つの過失の事例に共通する点があるとすれば、それは結果を予見しなかった(認識なき過
失)か、一度予見した結果を回避しなかった(認識ある過失)という行為者の側の不注意である。したがって、過失の
重大性は結果発生に対する不注意の程度に依拠するということになる。そして、この不注意は認識なき過失においてよ
りも、認識ある過失においてずっと重大であるとは、必ずしも言えない。たとえば、孫のひたいに向けられた銃を、事
故の蓋然性を何ら考えずに放置しておく猟師は、あらゆる危険を回避しうると愚かにも信じ込んで、荷馬車を坂道で迫
沖大法学第十九・二十合併号 ’一ハ過失犯において行為者の精神的態度を特徴づけるものは、自己の活動から生じうる諸結果の範囲に関する注意の欠如、 無頓着であることをわれわれはみてきた。一定の目的を実現しようとして、行為者は、その活動によって自らが目的を 実現するのに寄与する原因を設定する。しかし、彼はそこから生じうる類似の結果を何ら配慮していない。あるいは、 配慮している場合ですら、そのような結果を避けうるために、その活動に十分に目的的な意味を与えてはいない。 しかしながら、心理的な状態として考えられるこのような注意の欠如は、何ら非難しうるものではない。怠慢である
ことときびきびしていることとの間には、人間の瞬間のあるいは永続的な心理状態の特性が存在するにすぎない。それ
は、ちょうど人間の精神状態の変調が大きいこともあれば、小さいこともあるようにである。したがって、ある尺度に 照らして比較を行った後に、このような精神的態度が気のゆるんだものであると理解したときに限り、制裁を招く不利 な評価を、ある者の不注意に加えることができるのである。したがって、過失犯を特徴づける注意の欠如は、次のよう な理由に基づいてのみ、過失の側面を明らかにする。つまり、その不注意が損害結果を回避するために社会生活におい い抜く運転手よりも軽率である。したがって、われわれは、ア・プリオリに認識なき過失においてよりも認識ある過失 {別) において、ずっと重い過失を考える学説の無視しえない一部と見解を異にする。われわれは次のように考える。つまり、 過失の二つの事例は、過失の重要度を確立するものではなくて、過失の領域の限界を画するものであると考える。すな わち、認識ある過失は、過失を故意から分かつぎりぎりの限界である。同様に、認識なき過失は過失と不可抗力の事故 との間に境界を引くものである。かくして、軽率の過失は、これら二つの限界の間に位置するあらゆる不注意を含む。 したがって、過失の重大性、すなわち不注意の程度は、ア・プリオリに評価されるのではなくて、それぞれの事情に応 したがって、過失の重大性、一 (犯) じて評価される一」とになろう。 エリ・ダスカラキス「刑事帰責性」 一 七したがって、行為者に対する過失犯の帰責性がはたす機能は、その者の反社会的活動をもたらした様々な状況を考慮 しつつ、主体の実際の態度と主体が取りうることのできた態度との比較を意味するものである。そして、行為者の帰責 性は、次のような場合に考慮されねばならない。行為者が別の仕方で行動することができたであろうと評価される場合、 (卿} 彼が実際にとったよりももっと注意を払うことができたであろうと評価される場谷口である。しかし、払うべき注意はど のような尺度で測られるのか。この質問は、上記の行為者の他行為可能性がどのようにして評価されなければならない れば、人は、怠慢であったからではなく、社会的要請が課すのと同じきびきびしたところを示さなかったから、過失犯 て要求される通常の注意と比較した場合、行為者の気のゆるみを示しているという理由に基づいてのみである。別言す な い 。 学説上、現実に評価ができるとみる有力な流れがある。つまり、主体の個性、心理、体調を考慮することによって、 (巧} それが可能であるとするのである。この思考レヴェルにしたがえば、次のような目的のために、判断は被告人の、心の深 いところを探索するよう求められるであろう。つまり、被告人の勤勉さの可能性がどのあたりまで及んでいるかを知り、 その後で、行為者が原因となる活動を実行した際に、その可能性を完全に使いつくしていたかどうかを評価するために である。これに肯定の答えが示されたならば、帰責性が欠けているのであるから、無罪放免が言い渡されなければなら かを知ることに帰着する。 学説上、現実に評価が一 具体的に評価が可能であるとすることに賛成の者たちが、自分たちの議論の支えとして、刑法の今曰的方向を援用す るのを確認することは奇妙である。このような概念がすでに刑法においては乗り越えられた自由意思や非難の考えの評 (刀) の責任を問われヱ)のである。 沖大法学第十九・二十合併号 八
価を構成しうるにすぎないのは明らかであるにもかかわらず、そうするのを確認することは、奇妙なのである。実際、
行為者人格の評価を、選択の自由以外の行動可能性に従属させることが、どうしてできようか。人は、なしえたことを
なさなかったという理由によってのみ、非難されうる。しかし、刑法の今日的方向は非難に向けられているのではなく、
社会防衛に向けられているl社会は正常人の社会的注意を示さないあらゆる者によって危険にさらされうる1.わ
れわれは、もう少し後でこの問題に立ち戻ろう。帰責性についての判断によって行為者に対して表明される不利益が、
正確にどのようなものであるかについて検討する際にである。ここで、われわれに興味をいだかせるのは、フランス実
務の立場をみることである。一九一一一年一一一月一九日の民事部判決によって示された判例の急激な変化から今日まで、判例は民事上および刑事上
のフォートを同一性の概念でとらえ続けている。そこから導きだされる実際上の帰結は、規則および判決を受ける事柄
の権威に依拠するばかりでなく、フォート評価の基準にも依拠する。ところで、民事法においてフォートは抽象的に評
価されるように、刑事裁判官は、軽率の過失を同じ仕方で評価する。かくして、実務においては、フォートを評価する
ために裁判官は被告人の能力に依拠するのではなくて、行為者と同じ状況下におかれた社会の平均的タイプの通常人の
能力に依拠するのである。したがって、被告人の個々の能力を検討する必要はない。もしもその者の勤勉さの可能性が
どこにでもいる平均人の可能性のレヴエルに達していないならば、この場合、その者は自らが身を委ねた活動を遂行す
ることができないというにすぎないであろう。その者自身の無能さは、やはりフォートおよび危険の大きな根源を構成
するものである。 したがって、, エリ・タスカラキス「刑事帰責性」われわれには次のことが理解される。すなわち、裁判所によって適用される実定法によれば、帰責性の
一 九評価は、行為時の行為者の人格的諸条件の吟味を意味するということである。すなわち、行為者は、自ら行動したよう に行動しないでおくことができたかどうかという質問が課せられるのである。しかし、この可能性はその人格的能力に 基づいてではなく、平均人の能力に基づいて測定されることになろう。かくして、もしも行為者が、平均人でもやはり 抵抗することができなかったであろう強制に屈したために、軽率な活動をしたならば、この活動は彼に帰貴されないで あろう。なぜならば、何人も反社会的な活動を避けることができなかったであろうがゆえに、行為者が平均人として行 動したという評価は明白になっているからである。慎重に振舞うために現実の状況に抵抗する正常人の可能性が限界に 達し、その限界の向こうでは、社会秩序は被告人に軽率行為の釈明を求めることはできない。 過失犯に関する帰責性の検討によって、われわれは結論としていくつかの指摘を行うことができる。過失犯について は、帰責性は、行為者と処罰されるべき結果との精神的な結びつきの存在を確認する現実の判断を何ら構成するもので はない。それは、価値の判断、平均的な社会の構成員との関係において、劣っていると判断された行為者に対する価値 論的な評価を構成するものである。 後に残されているのは、過失犯に関しての帰責性の内容が、学説によって導きだされるところの一般的な準則に対す る例外にすぎないのか、あるいは実定法の他の解決においてもみられるものであるのかを知ることである。 二強制が、刑法第六四条によれば帰責性不可能事由を構成することは、よく知られている。この免責事由は、法の 目からすればy行為者が「抵抗することのできなかった」力に屈して、違法行為をした場合に存在する。学説は、この 力が違法行為を押しつける物理的諸条件の設定によって、あるいは行為者の心に対する影響の行使によって、違法を不 可能にしたことに対応して強制の二事例として物理的強制と心理的強制を区別している。 沖大法学第十九・二十合併号  ̄ ■■■■■■■■■■■、 ○
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