エイヤーの哲学
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(2) 2. 川. い」. 村. 仁. 也. (ウ,1ツトゲンシュタイン)のであれば形而上学の否定もやはり形而上学であろう。. -イヤーは,しかし,形而上学の排除は,命題が有意味であるための条件を決定するこ とによって明らかにされな抄ればなら患いという。事実についての命題をテス7.するに. は験証の基準がまずきめられねばならない。命題が事実として有意味であるということ はその鹸証の方法を知っているということである。そこで命題の真偽が明らかにされ ち.レ、かなる観察によっても真偽が明らかにされなV,とき,感情としてほともかく認識 としては擬命題である.鹸託とは何か。まず現実的に鹸証しうることと原則的に験証し うることとが区別される。シュ1)ックがいう「月の向う側には山がある」ギ2という命題 は観察しうる現実的手段をかいているが無意味な命題ではなく,原則的に鹸証しうる命. 麺セぁろう。さらに経験に患いて確定的にその真偽がきめられるばあいのみならす蓋然 的にきめられるときも験証しうるものと解する。有限な系列の観察で仮説を確立できな. いといって,一度の観察で否定されるものでもない。このような広い意味での験証可能 性をももたないとき命題(事実について)はナンセンスであるo. ここから有意味な命題. とは経験的・仮説的なものとアブ1)オ1)なト-トtzジ-とであわ形而上学的命題は無意 味であるということになる。実体,存在等はいすれも形而上学的であり無意味であると. いわれる。哲学は形而上学と区別されねばならない。形而上学は哲学からの追放による 感情的な代償であると。 しばしば哲学は第一原理から漬緯される体系をつくることだといわれてきた.デカル トは明噺にして判明なることから次第によわ複雑なもの-と演緯していくことが哲学の 機首巨であるとしたわけだが,心理的にというよわ,否定すれば自己矛盾する命題(cogito) のうえに知識体系をきずこうとしたのであろう。しかし現に私が思考していることから. 私が存在するという保証は,なにもないからデカル7.の第一原理はとれない。そこでア プリオリな真理をもってこれに代えようとしても,アプリオ1)とはト-トtl汐-である とすれば,そこからはト-トロジーだけが生じてくるのであってそれを以て世界につV, ての真理を構成することはできないであろう。第一原理の学が哲学だという考えには琴 海の学だと払そかに想定されているo V、いかえれば特殊科学とはちがった領域である冥 雇が哲学の対象であると。だが科学の領域をこえる知識はなV,0. 「哲学は諸科学の一つ. ではない」#3哲学は第一原理を求めるのでもなく,また経験科学の妥当性についてアプ リオ1)な根拠を明らかにするものでもなく明瞭にし,分析すること,それだけである. ここでいうところの分析とはいかなるものであろうか。同義な記号によってある記号を. 明瞭にすることはア1)ストテvスの類種による定義(explicit. definitior))であるが,. 用語法による定義が論理的に明らかにすることだといわれる。記号が有意味に用いられ. ている一つのセンテンスをそれと等値で,しかもdefiniendum ふくまないセンテンスに朝訳するのが用語旗による驚義だ。. もその同義なるものも -イヤ-はrこの方法によつ. て存在を記述するセ-/テンスは他のセンテンスによって定義され,しかもそれ以外のセ. 1/テ'/スをはつきわと理解ナるのに有効であるという。薄4すなわち,陵昧に用いられる 言著はセ'/テyスの使用法による定義,あるいは言語の論理的構成,によって明瞭にさ.
(3) ェ-. ヤ. a. ーの哲学. れる。論理的椿或といってもそれはかならずしも丘ctitiousでほ漁Vlo事実についてで はなく言語についていわれているだけ孜のだから.日常用いられる言語はより周瞭な人 為的言語にまって代置される。 経験論でほ事実VCついての命題は†股命題であっても決して必然的ではなく,せいぜ い蓋然自勺仮説にすぎない。もちろんだからといつてそれが非合理的だということにはな らない。経験論が遭遇する難問は論理の真理についてである.科学の命題が蓋戯的であ (i)論理の真理性が必然的 るの紅対して,. ,ここでは必然的であるように思われるから,. でないこと- (そこでなぜ必然的で参ると患われているかが問われる)あるいは(ii)そ れが事実的内容をもたないこと(そこでなぜそうした命題が其でありうるかについて説 明されぬば怒らない). (i) (ii) -の充分忽説明によって合理論-の反駁と患わうるoエ. イヤーは論断数学の命題がミルのいうように多数例による滞節約一般化ではなく,普 た経験的仮設と程度の相差にすぎ急い一般化でもなく,分析的命題(トトロジ←)だ というoカ-/ †ほ分析的判断と綜合的判断とを区別し,いかQ7=して尭天的綜合判断が可 能で参るかを問うことによって,矛盾律のみ把もとづかない兜験的論理学を樹立したの だが,二らの半櫛形式がよく区別されたとはいいがたVloそこで・. 「命題はその妥当性. が,それのふくむ記号の定義にのみ依存するとき分析的で・経験的事冥によって決定さ れるとき綜合田と.いう」舘5分析的命題はなんら事実についての知識を与えないoしか. し形而上学的命題が無意味であるとV,うと草のように分析的命越が無意味である?では 放いo分析的命題は一定の言寄使用に患いてimplicitにいわれていることをexplicit. にしようとするのだ。それは無意味とはVlえなvlo伝統的激論理学は・じつ娃ブ-レ論 理さらにはラ・ッセル・ホワイトッドの命題計算で示されたように,集合の形式的関係 をとりあつかつているのである。思考漁削(同一律・矛盾衝・排申律)と推論海側の区 別は一つの演緯体系のうちV=消失してしまうoすべての論理命題はそれ白身で妥当だと いうことになる。数学もカ,/. Tのいう時間及び空間の直観形式を要しないで純粋に分野. 的な愈題の体系と漁る.ところでこのよう夜分析的命題がなぜ必然的であるかというと それは経験的世界牢ついてなにもふれないし・. 「プ己んに言語を一定の仕方で用いようとす. るわれわれの決意を記録するのにすぎ急いのだからであるo」申6世界が論理の添削に反 するとは考えられないとV,う見解の根拠払われわれには非論理的世界についてはそれ がどのようなものであるかをいえないであろうと′いうことなのだo∵現に用いているのと 襲った言語でトトロジーをのべることがあつ尭と・Lてもトトロジーである限わそれ. は必然的だ。孜ぜならそれを否定することは自己矛盾なのだからoアプサオ1)な理性の 真理とは充だ事業的缶内容を欠いている-一口汐-ということであわ,有限者の理性 #7. の制限によわJとりきめるという決意にすぎないo. ・と乞ろで,種々怒ろ命題の妥当性. ∧が決定される基準を記述することが真-ついて明らかにするこ主であ、わ,すべてP命. 層はアブサオ町であるか経験的であるかであるから経験的命題の妥当性がいかにして決 1)オ1) &命腹の裏当性と周t: 定されるかが次にのペられるo経験的命題の妥当性はア7. !.
(4) 4. 川. 村. 也. 仁. ようVZ:はきめられない.アブ1)オリな命題が偽であるということはそれが自己矛盾であ るということだが,癌験的命題は顛矛盾であっても偽であわうる。すなわち形式的欠陥 のためにではなく,ある巽質的基準を満足させないからであるo実質的基準とは何かo. 経験的命題のなかである種の命題はそれが直接経験を記録するという点で妥当とせられ る。. ("ostensive. propositions")これらの命題は坂説ではなく絶滑に確実なものだと いわれる.これらの命題のみが経験的命題でその他のものは仮説であわ,その妥当性は これらの命題との関係からえられると。だがすべての経験的命顔がこのような直接的な 命題であわうるだろうか。純粋に. oStenSiveな命題が命題でありうるかどうか.潜よ. そ言語にぉいては記述をぬきにしては対象を指示できなv'。記述と呼称とは区別され る。記述することに患いてたんに感覚内容が記入されるだけでなく,それをこえるであ. ろうo直接的な命題も他の経験的命題と同じように確実ではありえなV,。もつ.とも厳密 な意味での直接的なものについてはたしかであるとか疑わしいとかはいえない。それは 生起するだけだ。記述する命題についてのみ,たしかであるとか疑わしV.とかいえる。記 述と呼称の混同が払そかにおこなわれている。. 「経験的命題はすペて現実的な感覚経験. にぉいて確認され否認されるところの仮説である。われわれがこれらの仮翠を鹸証する 観察を記録する命題そのものも将来の感覚経験のテストをうける仮説である。究極的 な命題はないo」. #8仮説が験証されるというとき一つの仮説ではなく仮説系が験証され. るということである。仮説がト-トロ汐-と臭って変更されることができ,しかも慈意 的にではなく変更されるのは,仮説がじつは予見を正確にするという制約をもっている からであるo. 「感覚のコ-スをanticipateする」とェイヤ-はいう.半9予見には過去. の経験が用いられる。未来の予見が過去の経験によってある点で決定されるから,科学 には経験の記述がある程度必要とされる。過去の経験の記述もある意味セは予見的であ るoかくして経験的命題の妥当性をテストする基準とは,それが果すように予定されて. いる機能を現実的に果すかどうかということであわ,経験的仮説の機能は経験を予見で きるかどうかということである。. エイヤーは「経験的知隷の基礎」棚で「言語と真理と論理」をさらにふえんして論 じているo前に紹介したようVZ:-イヤ-ほ,有意味な命題として,分析的命摩と経験的 命題をあ帆それB}外の命題はすべて無意味であるという.形而上学的命題はすべて無 意味だとo うo. われわれは-イヤ-のうちにヒュ-ムの影をみとめることができるであろ. 「もしわれわれが,たとえば神学のあるいは形而上学の書を手にとるなら,あえて. 問う・てそれには量あるいは数についての抽象的推理があるだろうか。ノー。または事実 と存在についてむ穫験的推理があるだろうか.ノ←.しからば火にくべよ.なぜならそ. こには認弁と幻想しかないのだから」 (" Enquiry concerning ing'')すなわちヒュ-ムは論証する理陸の論理(Relations. Hunsan. Unders. tand・. of ldeaa)と論証すると、い うよ抄因果的に推論し期待するところのも・のと生起したところのものとの轟いだに必然. 的な関係がなVl悟性の論理(Matters Vlた期待だとし変のだが;. of. Facts)とを区別し,悟性の論理が習慣把亀とづ. -イヤーの結合的命題,分析的命題,形而上学的命題の区別,.
(5) エ-. ヤ-. の哲学. 5. さらに綜合的命題についての考え方ほヒュ-ム把もとづいているようだoエイヤ′ふは 錯覚静という葦で次のようにのペる. V、わゆる物質は錯覚にぉいて矛盾した現象を呈す ち.たとえば水中の棒ほ曲ってみえる。棒は真底で同時に曲っていることはでき忽Vlo こ51したとき物質の実在の性質を見てVlるとはいえ怒くとも,あれわれは何かを見てVl. る。これを感盤所与とよぶ。ところで正常視でも錯視でもそれは質的には,もし過去の 荏験をぬきにする怒ら,いいかえればそれ自体としては,臭ったものではないであろ. う。われわれが直接に経験するものは感覚所与であって物質ではないo感覚所与は生理 的・心理的状態に因果的に依存しているといわれても,実はかかる因果的恵ものは逆に. 推測されるにすぎないし,ここでもまた正常視,錯視の区別がつかなく怒るo、そして正 常視にぉいて知覚されるものがかならずしも物質ではないなら直接に経験されるものは 物質ではなく,感覚所与で参ろう.そして錯覚とそうでないものとは感覚所与を媒介と. ㌧て間接的把東口識される物質との蹄係によるとされるo以上のごとき問題はしばしば事 冥の問題と考えられてきたが実は言語の問題なのだと-イヤーはいう。物質を値接に知 覚できないというとき,一般に,. (i)錯覚とそうでないものは異つ夜型の対象の知覚な. のか,さもなけれぼそれらが連続した系列に配置しうるかという経験的証明のない仮定 に立っているか, (ii)物質ほ観測常に関係なく存在しうるという仮言命題による伺酌 的根拠から主張されている.このばあVl観測者と関係し直接知覚される対象が物質でな いという結論はでてこないし,かりにそうした結論がでるとしても経験的根拠をもたな い。物質が観測者と無関係であるということは定義の問題となってしまうが同時にわれ われが直接知覚するものはすペて物質でなくなってしまう。問題の論点変更だ。事実の 問題としても言語の問題としても記述される事実は同一であるが,記述のしかたのちが いは参る.. 「われわれは相互に矛盾する二つの仮説の妥当性についてでは急く二つの臭. った言語の選択について論じている」. #Ilだからここでは自己矛盾していなくともその. 音譜使用が不便で頗鎮であるという批判はできるあけだと.知覚経験を貌明するのにそ れがdelusiveだという必要はないo. もちろん,ふつう,そういわれるとき了解れさて. いることを否定するので妊ないが,それ以外に記述する方潅が急いかどうかo対褒が軸 覚されるというとき,それ蜂必ずしも存在するということにはなら忽V,。このさいアポ 1),アが一見象るようにみえるのは,知覚されるものは存在すると考えられてV,るからに すぎなVloだからそれを否定した意味で知覚を解するならアポ1)アは急い。事実の問題. としてと′ると錯覚につVlてはアポ1)アが生ずるo必要なととは知覚をどう解するかとい うことなのだo「というのは知覚について論ずるとせ,われわれの目的はわれわれの感覚. 経験と物質についてのペ潅命題との開係を分析すること漁のだから,それが呈示すると 思われる物質と無線係匠あれわれの経験内容に言及できる用語を用いるのは有用だ」貴12 経験的事実でほ急く用語添が問題だという.錯覚論をもとにして,感性的現象は自己矛 盾しているとか,第二性質の詫観念が第一J陸質のそれに類似していないとか,第一性質 も実在し患いとか,爵るいは物質は直観によって知識されるとかいわれてき挺o現象の. 世界それ自体にはなんら矛盾するとかしなV,とかいうことはなく東象はたんに生起する.
(6) 6. 川. 村. 仁. 也. だ抄であって「矛盾の問題が生ずるのは浅褒を記述するために使用する問題に関連して である」 #13特定の現象の性質によって物質の実在的性質を定義すればよいあけだ。物 質は第二性質を器官に対してのみもつとVlうブラッ-ドレ-の立場は物質を観測されない 物自体としてし萱う。それは参る条件のもとに顕現するという仮言的命題が,その条件 のないときに其だと仮定している.さらにデカル7,のごとく感覚の誤謬から明噺判明放 置観知を主張するのはあたっていない。経験Q7=与える推論の誤謬にすぎなV,のだ.. 感覚所与ほ推論という 意識的過程をふくまない置接知の対象とされる.. #141. 「AはⅩを直. 接知覚する」という命題函数の形で与えられているのだが,その値が感覚所与というの. であれば同義申定義であってなんら明らかになるところがない。そこで感覚の分析が例 示としてもちだされ畠。感覚VZ=は対象と行為とが区別されると。. Ⅹの感覚`とⅩとは同. 義ではないから感覚所与が経験されることに患いてそれは相関的な感覚行為をもってYl るというわけだが,ここではある感覚はその相関的な感覚所与と同一でないということ にすぎない。感覚に二つのファクタ-をみとめるのは′ヾ-クレーの儲念論-の反駁とし て用意されている。エイヤ-は,そこでE8Se. eSt. Percipiについて吟味する。まず,. 存在が物質とされ,現実に知覚されなV,物質が存在するというとき論理的矛盾があると いう意味でいわれるなら,知覚されぬ物質が在るという命藤は其ではあわえないとして も自己矛盾してはいないo. 「物質が存在するというときの基準となるものは,もしあ早. 条件がみたされるなら知覚される,という促音的命題の真偽である」判5これらの命題. はわれわれの現実の知覚の内容を記述する命越から形式的に蹟緯されるのではなく,帰 納推理による。従って促音的命題において,前件が経験的に硯壊する必要はないのだか ら必ずしも知覚されるとはかぎらないといえる。次に存EEが感覚所与であるとすればど うであろうかo l. ′エイヤーは感覚所与をたんに生起するものとすることによって錯覚論か ら生ずる種々怒るアポリアを回避する。そこで感覚所与にぉいては実在と由象の区別は ないという.もちろん,ここでは用語潅が問題だというのだから実在と現象の区別をし たところでさしつかえないが不用な用語のそしわをまぬがれないといわれる。. -イヤ-. は生起する感覚所与を現実的なものに限定する。バークレー′は感性的事物が存在するこ. とから,いゎゆる存在論的証明によって神を証明したo. Tlックの「悟性の直接対頑とし. ての観念は彼によって神の直接対象にまで昇華したのだが,いまその所論をみるに,こ こにも錯覚論が根強く払そんでいる。す恵わち直接的に感覚されるものは外的・物質的 世界の一部分を構成するものでは敦V,から精神めなかにあるのだというo問題は事実の 問題では急く,いかにして感覚所与なる用語によって物質とか精神とかの用語が分析さ れるかということ-だというのが-イヤーの見解である。そして彼は感覚と知識が必ずし も包摂関係にはないとして直接知には感覚所与を,知覚には物質を,知識には命題を対 応させ,領域を限定させることによって混乱をふせぐ。. #16感覚所与を直接知ることは. 一種の知識ではない。では感覚所与の直接知とほいかなる種類の知隷なのかo一般に疑 いえないとされるかかる直接知は分析的でアプリオリ忽命題が疑いえな いというぁとは.
(7) 7、. 土-ヤ-の膏学. 異るoここでは,それを否定すれば自己矛盾に陥るという意味で疑VlえなVlとされるが 分析的で患い感覚所与の商標知のばあV,には参たらなVIoこのような直接知では記述と いう言語的事冥によつて疑V,え急いとされるにすぎなvI.. -イヤーはカルナップの形式. 芸義は論点変更をしているというoカルナップによると経験的命題の真偽は穿極には意 味論と命題構成法によって決定されるといわれるoすなわち形成の規則と変形の規則と によって形式的にきめられる.まったく経験的命題に言及されずに形式的恵計算によつ て決定せられるとoだがプロトコル命題が斉合的な体系からそれに合致して揖緯される としても,あるV,は,さJnうるとしても,事実的真理につVlては事情ほ異るoカルナッ definitionによって与えられるが時間・空間 プでは具体的意味はいわゆるo8tenSive 的記述が必ずしも文脈内容にかわわうるものでもないoまたプT2. Tコル命題といっても. 命題構成港として考えられるものにすぎないo一つの系のなかで無矛眉であれば真であ るというなら相矛盾する系の真偽は何を以て区別されろのか。カルナップの形式主義の もつ難問を-イヤ-は次のごとくいうoまず,記号はどうして意味をもちうるか・とか 記号が意味をもつとは何か,といつた形でとわれるo記号は何を意味するか・について. いえば,意味される特定の事例が不明のとき,聯訳とか同義の表現によって明らかにさ れたり,あるいは例示によったわ,またはo8ten8ive. definitionによったわして解明. される。だが,意味とは記号が何かに対してもつ関係ということが前提とされているだ 抄で,一般的な意味論については何もふれられていなvI.そこで,陳述の意味は経験的 事実であるとすると,次に戟察陳述を直接に押示するものと間接に指示するものとに区 別され,後者は前者に還元しうるといわれる.ところである陳述は経験的に偽なる、もの を有意味に表現するし(つまわ意味は経験的事実でなくなる)さらに意味は蒙現しよう とするものの真偽と無園係でサらある。陳述の意味が表現するものが其であっても偽で あっても同一であわ,またもし意味が偽を表現しているとき経験的事実を意味していな #17こう. いなら,その表現するものが其なるときも経験的事実を意味しないであろうo. して陳述の意味するものは命題だといわれる。すなわち命題は観察されないにもかかわ らず客観的に.)アルなものとされるが,この非経験的な普味での存在の基準は与えられ ることなしに,記号の意味は記号相互の形式的漁関係とされ,ここから形式主義に移行 してVlく。命題のみが意味をもち其で教わ偽であるo意味は二項園係ではないから・蹄 係項を求めることによってではなく関係そのものがいかなるもので象るかを明らかにす ることが意味とは何かについての解明となるo意味はいかなる構造の関係をもっている. か.エイヤ-はここで(i)因果(ラッセル). (ii)対応(ウィットゲ-/シタイン). 形式(カ'L,ナヅプ)のそれぞれの立場からの見解を吟味しているo ぇるo. (iii). (ii)は模写説ともい. (iii)については既述のようにアポ1)アがある。すなわち記号相互間の形式的関. 係によつてではなく,それらが究極にぉいて鹸証される非形式的なものがな抄ればなら ないとエイヤ←はいう.チ18. 「経験的命題臥. すくなくともその一つが直接験証されえ. なければ,その真なることを信ずべきいわれはない.命題が直接験証しうるためには命. 題を表現する陳述が勧察しうる事態と一致するよう-一義的にではないが一-きめら.
(8) 8. 川. 村. 仁. 也. れぬば放らない」瑚実質的語故による哲学の混乱をさけるためにカルナップは形式的 讃法に払きうっして解決しようとするのだが,いわゆるprimitive. data′がまつ潅く命. 題構成港の領域に吸収されてしまうものではなVl。直接経験のエレメントは何かとVlう ことはたんに観察命題でいかなる語があるかということにつきるものではないから,カ ルテップのいう言語の選択によるとはいえないと-イヤーはV,う。慣接所与は事実の問. 題であるとo'直貴所与についての混乱は感覚所与-物質とすることによるが,さらに心 理学的基準よわも生理学的基準によることが多いoそこでわれわれが直接知覚する以上 のものが実は与えられるとされるoあるいはその逆だとされるか,ここでも感覚所与-. 物質とするばあいと同様の混乱が生ずるo直壊所与について生理学的基準によろうとす る所論は心理学の常識とさえなっている恒常現象によって反駁されるであろうoまた過 去の経験による調整があるからそれらを分離すれは直接に与えられる感覚がえられると いわれるが実は感覚がゲシタルトであるとすれば・このような分離は不必要であるoェ イヤーはそこで感覚所与の問題をその記述方法のえらび方であるとして,この領域に促 音的命題をひきいれることは不便だというo 象るy」とo. 「感覚所与の領域では現象はすペて実在で. %20感覚所与の存在及び特徴を決定するにあたっては,現実的に観察される. 亀′のが何であるかということのみを考えるペきであって,どのようにして観察されるよ うになるかは無関係であるoここで生じた問題は知覚と因果律の問題にほかならなvlo. 感覚所与があるならその原因である物質を推論しうるといわれる。物質は直接観察され 恕Vlにもかかわらず感覚所与から推論されうるとされるo錯覚論から直接に物質を観察 するとほいえないから,そこで因果諭に訴えられるo感覚所与は外的な原因に依存す る・そして唯物論にせよ朝念諭にせよ,外的原因のとわ方によるちがいだけであって,. いずれにせよ前損としているものは同じである.すべての出来事には原匪はミある.感覚 所与は出来事であるo感覚所与は意志とかあるいは意識的な精神清動に起因す革もので はないoまた感億所与は相互に原因とならないoよって,直接に観察されない原因があ. るoェイヤーは・このような推論がまず検討さ声べきであるという0日果律についての ■検討をするにあたって,時間的順序とか,原因たる出来事の附帯条件との区別とかをい ち患う次のごとくきめるo原因と結果との関係は時間的な先後関係ではない.また原因・ 牲出来事の集合であるとoヒ--ムは因果律を外宮の模写でもなくあるいは内宮に求め ることもできず,想像力に患いて感ぜられるものというoしかしこのような想像力にぉ いて感ぜられるものから・事実としての因果関係はいかにして基礎づけられるのだろう かo. -イヤ-は因果律についての誤解として(i)アニミズム(ii)アプリオリズムをあ (ii)は(i)の無意隷な合理化にすぎないのであるが○未開社会に患いて因果律. 好るo. はノモスと考えられていたo自然法則はノモスの投影としてとらえられていた。そして. ノモスが神によって定められたものであるから自戯法則も人間の犯しがたい必翻勺法則 であるとo因果律は因果応報に通ずるo次にアプリオリズムは法則の一般命題を分析的. 咋と帽つか患うとする立場であるが一審合的な翻撃体系から-実はそこには「世 如合割勺であBJというアブ-り急白然勧があろo在るところのものについての命.
(9) ヤ-・の哲学. jl-. 9. 題が与えられれば,その法則は推論によって演緯されるといわれるが,いうところの在 るものとは公理を満足させるものにすぎないからpetitio. principiiで参E)同語反覆で. ある。. 因果決定論に関連してしばしば「不確定性原理」が有力な反論の根拠とされるが,そ れは古典物理学の概念的図式が不適当であるということであって`白虎目体が不確定で あるということではない。因果律は確率から考えられる.カントは第一批判のなかで因. 果律についていうo想像力がAを蒐にBを・後に定立することは主緋勺であって客観的 では患い.そこで現象の継起を知覚し,時間関係に関して内宮を限定する構想力の綜合 的所産である主観的なものから,. A,. Bの継起について,それ以外ではあわえないとする. 必然的・客観的恵もの-の移行は,純粋悟性概念である因果縛係によってのみ可能であ るとした(第二の類推)o. -イヤーはかかる純粋悟性概念は感性的出来事の生起の現実的 孜観察にもとづく層約によるものであって確率的だという。田果関係は観察しうる出来 事にのみ適用される。そこから観察不可能な帯域にまで因果律を拡張して適用すること は無意味な仮説を提出するものだと.神について因果律を適用することに払とはしばし. ばカントと共に同音しつつ,物療につい七は何故に同意しなV,のだろうか。-イヤ-が 嶺察可能というのは感覚所与のみで他のものはそこから推論しうるというのでは急く, 「感覚所与」,. 「常識の対象」, 「科学の対象」はそれぞれ異った言語に属するものであb 「臭った種類の実在の物に言及するのではなく現象に臭った仕方で言及する」 *21とい うo混乱は実在一言語とむきめの選択による-のとわ.方による。現象自体としては 感覚所与による記述も,常識忙よる記述も,科学による記述も同一であるか・ら,かわに 原因について考えられるとすれば,観察可能な現象の相国の可静陸としてのみ考えうる. 論理実証主義を分類して(イ)ウイットゲンシタイン,ヴアイスマン(実証主義的) (ロ)ノイラ-I,カルナップ,. -ソベル(物理主義的)と分抄れば-イヤーは前章に. 属するであろうo希22しかしごく一般的にいうことがゆるされるなら定へ-ゲ,i,的患立 場であるとVlえよう#23あるいは反弁証法の立場といえるoそこから悟性的に息惟の 限界が定められ,そのなかでの論理分析がなされるo実在はいいえざるもの,いいうる. ことを明瞭把することによって示されるものとウィットゲ,/シタインはいっているo#24 われわれは,もちろん・安易に弁証法をいうことはできないが,悟性的夜立場に立つな らばという自覚のもとに・論理実証主義を吟味していくことが必要だと思われるo 註 1). A・. J・ Aver:. 2). M・. Schlick:. Feigl. and. Language, Meaning. and. L.ogic in. 1936,以下同年の第二版による。 Readingoin. Philosoplrical. Analysis. ed.. Sellars.. S). LI. Wittgenstein. 4) 5). B・. Russell:. Ayer:. Truth. 良 Veri丘cation. :. TractatusLegico-philosophicus. Introduction,. ibid., p.78. to. Mathematical. 4.. 111. Philosophy蚤15.. Ayer:. ibid.. p. 61. by.
(10) 10. 村. 川 6)㌔ ibid., 7). ibid., p.94. 9). ibidりp.97. 85-87. 8) 10). Ayer:. ll). ibid., p.18. 12). ibid., p.26. 13). Wittgenstein:. 14). G.. 15). Ayer:. 16). ibid., p. 7∂. 17). ibidりp.96. 18). ibid・, p・106. 19). ibid., p.111. 20). ibid". 21). ibidリpp.. 24). 也. p.84. ibid., pp.. 22)甘. 23) M.. 仁. The. Foundations. Empirical. of. Tractatus,. Berkeley:. Three. Knowledge. 1940.. 2,04,061,062 between甘TX:la告. Dialogues. ahd. PhilonollS. i. I. ibid., p.67.. p,123. Feigl. 22ト2 :. Logical. Comfortb:. Wittgenstein:. Empiricism. Science Tractatus,. and. in Readingsin ldealism. 4・ 121. Philosophical. Analysis.
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