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岡山大学―学びの三十年

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岡山大学一学びの三十年

《特別寄稿》

日 次 1 は じめに 2 研究-その三十年 (1) 日本産業革命研究 (2)明治文学による明治時代研究 (3)明治高等教育制度研究 (4) 農畜一近世農村史研究 (5)農業集落論 3 研究の集約 と展望 (1) 研究の集約 (2)課題 と展望 4 大学院教育 (1)戦後 日本の大学院 (2)岡山大学における人文社会系大学院 (3)大学院教育の成果 5 研究 ・教育の基盤 ・条件 6 おわ りに

1 は じ め に

岡山大学における

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月以来の私の大学教員の仕事は,停年の定めに よ り

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月を もって終了す る。在職期間は

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年に着任 して以来ち よう ど

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年間である。田山花袋の 『東京の三十年』,その手本 となった とい うアル フォンス ・ド-デーの 『パ リの三十年』の ように

,3

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年 とい うのは一つの大 きな区切である。 この

3

0

年 とい う区切は,この間の岡山大学における大学教 員 としての営為を振 り返 り,整理す るよい機会である。

-4

2

(2)

3-1088 ときあたか も,岡 山大学 は 『教 育 と研 究 岡 山大学1999』 を刊行 した。 岡 山大学 に おけ る教 員 の研 究 と教 育 の 内容 の現状 を把 握 し,それ を学 内外 に公 表 す る ことを 目的 と した1994年 の第1回 目につ ぐ第2回 目の もので あ る。 そ れ は全教 員 が教 育 ・研 究活動 につ いて所 定 の書式 に も とづ いてそ の状 況 を記 載す る, とい うもので あ る。2000年度 以降 に こそ活 肝 され る もので あ るが , 本年度 を もって終 了す る私 に とっては ,い ままでの と りま とめ とい う意義 づ け が で きる。 そ こには担 当科 目な どの項 目のあ と,研 究題 目とそ の 内容 ,研 究業績 ,撹 莱 (学 部) の 内容 とそ の方法 ,大学院 生 の教育 ,自己努 力 目標 等 ,の項 目が あ る。 そ の担 当科 目の項 に 日本経 済史 ・日本経 済社 会史論 と記 した後 ,つ ぎ の よ うに記 した。 研究題 目(ResearchSubjects)とその内容 ① 明治期における産業編成 ・地域編成 ・生活編成 :明治期における産業編成につ いての研究 (『明治期農村織物業の展開』1974年,『綿工業都市の成立』'77年共著など),地 域編成についての研究 (『産業革命期における地域編成』'87年,『近代岡山県地域の都市と 農村』'93年,『近代産業地域の形成』'97年 御茶の水書房),生活編成 についての研究 (『明治期の庶民生活の諸相』'99年 同)とい う,産業 ・地域 ・生活の三編成視点か ら 日本産業革命を究明し,近代 日本経済社会史の特質の把捉を試みる。 ② 明治文学による明治時代の研究 :明治文学における明治時代の農村 ・都市 ・時 代相の描写を検討 し,これによって①で対象 とする明治 とい う時代の把捉を試み た (『明治文学における明治の時代性』'99年 御茶の水番房)。 ③ 明治期における高等教育制度の研究 :高等教育制度の展開か ら①で対象 とす る 明治 とい う時代の把握を試みるO ④ 近世農書の研究 :文政年間の-農書について検討 し (「徳山敬猛 『農業子孫養育草』 -原本による翻刻-」'94年など),これを通 じて近代化の歴史的前提 としての近世期 における農業 ・農村の展開を考察す る。 -42

(3)

4-⑤ 農業集落の変貌 :近代 日本の基底にある農業集落の変貌 を村落景観論 とい う視 点か ら研究 し(『戦後村落景観の変貌』'91年),農業集落変貌 の歴 史 的意義 を考察 す る。 研究業綴 (Publications)(1995-1999) 著書 :上掲 中の この間の3冊 の他 ,『大学 図書館図書資料諭』('96年 御茶の水書房) 論文 :この間に著書に結実 した21論文 (掲載省略)のほか,「第六高等学校 ・岡山医学 専門学校 の設立」(『文化科学研究科紀要』 Ⅰ'95年)「明治三十六年度全国高等学校入 学試験状況」 (『経済学会雑誌』2ト 1 '95年) 「岡 山大学 の前 身諸校」 (同 31-2 '99年),「徳 山敬猛 『農業子孫養育草控』 とその成立」 (同30-1 '98年)「近世 の-農書 -.徳山敬猛著 『農業子孫養育草』の成立」 IⅡ (同30-2・3卜 1,'98・'99年) 「明治初期 の蘭延生産」 (同27-3 '95年)「明治中期∼大正期 の蘭蓮生産」 (同 28-3 '96年)な ど。 この間 (1995-1999年) の合計 著書5 ・論文33計38編 (総て単著) 授業 (学部) の内容 とその方法 (Teachingmethods):講義では,日本におけ る資 本主義経済 の確立 -日本産業革命論に収欽す るもの として魁み立ててい る。授業 にあた っては,研究の成果を取 り入れ ,講義資料 には地元岡山県の ものを魁 み入 れ るな ど,具体性を もたせ るように心がけているO図書館資料 の活用を重視 し, 履修生の数に よ り可能な場合は附属図書館におけ る明治大正期 の基本的 な統計 書 を使用す る実習的学習形態を取 り入れた りしているO(1970年度以来の学士課程の教 育の経験を,上掲の 『大学の授業』 に取 りまとめ記した。) 大学院の教育 (Graduatestudents) 修士課程では,研究課題 を設定す ること,それについての修士学位に相応 しい論 文を作成す ることを 目標 とす るO修士論文作成過程 で学会での発表 と修 士論文 の 公表を課す。博士課程 では ,それを発展 させ ,博士学位論文作成 を達成す るo 自己努力 目標 (Selfimprovments)等 友 よ 地は貧 しい - 4 2 5

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-1090 億かな収穫を得 るためにも われ らは数多の種を播かねばな らない (ノヴァー リス) 以下 , こ こに記 入 した こ とを敷 術 しつ つ ,研 究 と教 育 とい う学 び の30年 間 を 回顧 し,整 理 して お きた い。 な お ,学 部 レベ ル の教 育 につ い て は ,す で に 『大 学 の授 業 一岡山大学における実践の記録-

』(

1

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9

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年 大学教育出版) と して整 理 して あ るの で ,省 略 す る。

2

研究-その三十年

(1) 産 業 革 命 研 究 日本 近 代 経 済 史 担 当者 と して の私 の主研 究 題 目は① で あ る。 これ を テ ーマ と して設 定 し,研 究 に至 った経 緯 につ い て は

,

『岡大広 報 』第

8

3

(

1

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月)に,「私 の研 究 - これ まで ・これ か ら」 とい うつ ぎの よ うな小文 に記 して あ る。 私の研究- これまで ・これか ら 学部 も大学院 も大学では一貫 して農学系で学んだのになぜ経済学部のス タ ッフな のか ?,それ も農業経済論の ような政策系統の科 目ではな く,なぜ経済史講座 の 日 本経済史の担当者なのか ?,この ような ことを よく訊ね られ る。 この問いかけに答 えなが ら,私のこれまでの研究 と今後について記 してみ よう。 学部 ,大学院を通 じて農業経済学を専攻す る学科に属 していたが,それ は農業経 済学に関心があってのことではなかったo高校時代にダソネマンの 『大 自然科学史』 (安田徳太郎 ・加藤正訳)を古書で買い求めた り,折か ら刊行 され始めた加茂儀一 らに よる 『科学史大系』全11巻 (中教出版)の一部を購入 した りしていて,科学史の よう なことを勉強 したい,そのためには 自然科学 を学 ばなけれ ばな らない と思 ってい -42

(5)

6-た。 しか し,当時は,色覚に多少 とも異常がある者に対 して大学はかな り制限的で, 理系では農業経済学科がそれが制約 とならない数少ないところであった。 この よ う なことか らの結果であったので,経済学関係の授業にはあま り積極的になれず ,農 業史をや ることで,所期の望みをみたそ うとしたOやがて卒業論文の作成 が頭をか すめるようになった頃 ,埼玉県のある家に残 されていた文書に巡 りあい,それ と取 り組む ことを通 じて農村史研究に入 りこんでいったQ江戸時代に名主をつ とめた こ の家の文書の多 くは行政末端文書であ り,この卒業研究は江戸時代の基盤 であ る農 村を見るとい う貴重な経験 となった。 農村 ・農業を基盤 として,そ こか ら生ず る近代的萌芽を追究することは歴史研究 の一つの重要な課題である。修士課程か らは,この農村 .農業を基盤 として展 開す る農村工業史を研究す ることとなる。農民は農業以外のさまざまの仕事を もつが , 江戸時代は余業 とい う,何かを営業 した り,副業的に何かをつ くった り,農業 以外 の賃稼 ぎを した りして,生活を成 り立た しめてきた。近代になってか らも,農家 の それはいっそ う広汎 となった。研究対象 としたのは,この農家副業 としての農村家 内工業の研究であったO戦前期 ,ことに明治期の最 も広汎な農村家内工業 は織物業 であった。そ こでこの農村に広汎に存在 した織物業 もやがて手織機か ら小型 ではあ るが動力織機を使用す る小工場形態に移行 してい くo もちろん手織機での副業 的な ものも広汎に残存す るとともに,新たに生みだ されてもいった。 この農村家 内工業 の発展は,経済史における近代産業の発展の重要なプロセスであ り,まさ し く経済 史の主要な課題である。 初めは埼玉県の北部の利根川辺 りの地域の棉織物業の研究であった。 しか しここ は問屋制的家内工業の形態が広汎に存続 し,新 しい動 きを積極的にみせることが少 ないところであって,この時期の小工場化 とい う積極的展開の要因を究明す る対象 としては適切なものではなか ったD明治期に最 も発展的な様相を見せたものの一つ が輸出羽二重業で,福井県や石川県が第-の産地であったO この福井県 ,石川県 の 輸出羽二重業は,農村部に基盤を置 き,その農村が水田地帯であるとい うことにお いて,農業史サイ ドか らみた興味ある問題点であった。そ こで,つぎに,この福井 , -42

(6)

7-1092 石川両県を対象 とした研究を行ない,その展開がその特異な農村構造 と深 く関わ っ ていることを明らかに した。『明治期農村織物業の展開』(1974年 東京大学出版会)は, これ らの研究の成果を刊行 した ものである。 ところで,当時 ,日本経済史の研究動向は産業革命研究が主要な課題 とな ってい たこ私 もこの研究を通 じて経済史が重要 な課題 として設定 していた産業革命研究 に,ほか らず も関わ ることとなったのであるOなお,当時の研究は方法論 的には産 業金融史的分析視角が導入 され ,大方がその方法に よっていた。東京大学経済学部 の山口和雄先生を中心 とした研究会に結集 した多 くの大学院生に よる共同研究 の成 果は著 しく,その視角か らの研究成果は 日本経済史の主流を形成 した。私 の研究 は それ とは異なるアプローチの仕方に よる,きわめてささやかなものであった。 しか し私の方法は農村構造論的視角か らのものとい う,もう一つの方法 として位置づけ られているが,学問はまことに多様な視角 ・方法に よることこそが重要である。 この私の視角 ・方法に産業金融史的方法を取 り入れた研究を行ないたい と思い , 岡山大学着任後 ,それを愛媛県今治地方の綿ネル業について試みたoそれ は地理学 教室の蔦西大和氏 との共同研究であったが,この優れた地理学者 との研究は ,自然 条件の重視 とい う地域的研究における重要な問題に立ちかえったO共著 『綿工業都 市の成立-今治綿工業発展の歴史地理的条件-』 (1977古今書院)はその成果である。 ところで産業革命 とい うのは,たんなる産業編成替えの問題ではないoそれ は , 地域的な編成替え,民衆生活の編成替えの問題でもある。着任 した この岡山県 とい う地は 日本の近代化を研究す る上での一つの恰好の研究対象であったOそ こで 日本 全体の状況を意識 しながら,この岡山県地域における産業 ・流通な どの変容 とそれ にともな う地域編成を検討 し,その成果 である多 くの論文 に もとづ き作成 した の が,『産業革命期における地域編成』(1987年 御茶の永書房)であるOこの書物は,近代 史研究に ようや くみられつつある地域史的研究の成果 としての位置づけを与 え られ ている。 人 々の生活は,その程度には大小はあるが,いつの時代 も変容す るのであ り,特 に明治 とい う時代は近代産業の発展 ・資本主義の成立に よって大 きな変化 が もた ら -42

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8-された。一見変 らない ような農村に も変化があらわれているのであ り,この よ うな 都市や農村での人 々の生活様式 の変化 を明らかに してい くとい う課題がある。最近 上梓 した 『近代岡山県地域の都市 と農村』(1993年 御茶の水書房)も,この一連の研究 の成果を取 りまとめた ものである。明治期 の岡山県下に生起 した都市 と農村 の諸 問 題を検討 した この事は ,その時代の民衆 の存在 状況 を知 るため の試 み とな ってい る。さらに ,民衆の生活状況を把握す るために ,その ころ作成 された ,消費資料を も 含む 「町村是」な どの資料に よ り,検討 しつつある。それ らを取 りまとめて 『明治期 におけ る国民経済生活』 (仮題)としたいO この ように産業編成 ・地域編成 ・生活編成 とい う三つの側面か ら統一的 に産業革 命 といわれ る寸卜態 ,そのt)!j=Jt刷 の 日本的状況を検討 してい くとい うことを課題 と し てきた,,そ して これが これか ら0)[経過で もある,, 研究の過程 は,それを行 な う

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法をy)り捌 く過即 で もあるo以上の ような研 究 を さらに進めてい くうえで,文学作品に もとづ く検.対を.試みているo かつて研究 した 埼玉県の織物業の研究の対象 とした場所 ・時代 は,m H花袋の小説 『田舎教 師』 の 舞台 と同一 であったO さまざまの文献や買継商の帳簿の分析 な どに よって 当時 の織 物業についての検討を行な ったが ,その当時の状況を最 もよく祐沸 させて くれ た の は この 『田舎教師』におけ る描写 であったO近年 の 「田山花袋 『田舎教師』におけ る 北埼玉地方 の農村」(『岡山大学経済学会雑誌』掲載)なる論文はその よ うな観点か らの ものであるが ,このほかに これ までに文学作品に よる時代描写 ・時代把握 に関す る い くつかの論文を執筆 した。これ らを集成 して 『明治文学 にあ らわれた明治の時代』 (仮題)として取 りまとめたい と思 っている。 歴史研究は,現代において生起 しつつある諸問題 の一刻 も早い解決 とい うことに 直 ちに応 え られ るとい うものではないが ,しか し,たえず よ り斬新 な研究課題 ,分 析視角 ・方法が要請 され るO とはいえ個 々の研究者は 目ま くやる しくそれに対応 で き るとい うものではない0-度設定 した課題 に忍耐づ よく,長期にわた り取 り組 むO それは孤独で,厳 しいが , しか しそ こには新たな発見や創造があるOそ こに研 究 の 悦びがあるのである。 -42

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9-1094 上の文章に記す ように,学部時代は卒業研究を近世期を対象 とした もので あったが,修士課程からは明治期の農村工業を対象 とし,具体的には農村織 物業であった。折か ら日本経済史の主研究対象期が明治後半期のいわゆる産 業革命期であったとい う状況にあって,私の研究 もその一環に阻み入れ られ た。 ところで産業革命研究はたんに産業編成論に とどまるのではな く,生活編 成論を終局の課題 とし,両者の媒介 として地域編成論をたてるとい う構想の もとに,それ らに関するものを作成 しつつあった。そ して,1994年の上記の 文章執筆その後 ,そのい くつかのものを実現 した。 まず ,『近代産業地域の形成』(1997年)紘,地域編成論 として刊行 した 『産 業革命期における地域編成』(1987年)で前提 とした全国 レベルについてのも のである。 また,一課題 とした生活編成論に関す る一連のものをとりまとめて 『明治 期における国民経済生活』(仮題)としたいと記 したが,それは昨年末に 『明 治期の庶民生活の諸相』(1999年)として公刊 したO この生活編成論にあたるものを出 した ことにより,産業編成 ・地域編成 ・ 生活編成の三視点か らのものが一応は形 となってきた といえるのであるO このように して形は出来てきた とはいえ,いずれの分野 も,そ して,相互 連関的にも不十分であることはい うまでもない。そ して,各分野について よ り深め,相互の連関を明らかに してい くことが今後の課題 といえよう。 ところで,三部構成論 とい う観点か らの不十分 さとい うことでいえば,そ もそ も,農村織物業を対象 とした研究は,このような構想のもとで行なった のではな く,三部構成論 との連関は不十分である。 したがってこの観点か ら の産業編成そのものの研究が必要であ り,い くつかの個別産業史についての 検討を行なっている。 その一つは,明治期の蘭延業に関するものである。 蘭草を原料 としす るて蘭蓮は住生活に不可欠の物である。畳床に装着する -430

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-畳表 ,アメ リカにおいて敷物 として使用 され る花延がそれであるが ,国内需 要に よ り生産が展開す る畳表 の生産 の量的拡大 は大 き くないのに対 して,ア メ リカ-の輸 出の拡大に よった花延は きわめて発展的であ った。 この蘭定業 については地方産業 の一例 として早 くか ら注 目していたが ,岡山大学-着任 した後 に

,

「明治期輸 出花延業 の展開過程」 (『岡山大学産業経営研究会研究報告 書 第6集』1973年)を作成 した。その後 ,それをひ きつづ き検討す ることがで きないままであ ったが ,やがて主要蘭業地 の一つである早 島町の町史の編纂 に関わ ることにな り,この蘭延業について再 び検討す る こ とに な った。『教 育 と研究 岡山大学1999』 に記 した ものな どの 7論文 を作成 したが ,これ ら を と りま とめて ,最近 ,『近代蘭延業 の展開』 (2000年 御茶の水書房)を上梓 し た。 その二つめは,児島織物業史 である。 岡山県 の児島地方 の織物業 はわが国 の主要 な産地織物業 の一つ である。岡山大学に着任後 ,それ以前 の研究の延 長線上で今治綿織物業地 の検討を行な ったが ,地元の児島織物業については で きないままでいた。やがて倉敷市 の新 しい市史 を編纂す るために設置 され た市史研究会に参加 して ,近代 の産業部分を担当す るなか で ,『新修 倉敷 市 史

5

近代 (上編)』 (2000年 倉敷市役所)の第6章第2節 「綿織物業 の展開」 とい う12ページの小 さい ものを執筆 した。 ここ児島地方 の織物業は産地間の 競争 のなかで ,その主要地 である南児島の機業 は中国向けの帯腿子 とい う特 殊製 品に特化 してい くが ,中国でその製品の生産が展開 され るなかで後退を 余儀 な くされ ,他 品種-の転換 もな らず ,行 き詰 って しまい,やがて この地 域は縫製業へ と転換す る。 この ような道筋を立てたが ,それを十分明 らかに してい くことが課題 とな っている。 この織物業 の織機 について ,織機生産 についての もの (「明治期における力織 1992年3月)と,織物業 の展開 と織機生産 の関連 についての もの (「明治後期にお ける織物業の発展と力織機生産の成立-その産業編成上の意義」同誌第23巻第3号 - 4 3 1

(10)

-1096 1991年12月)を作成 した。産業資本の確立 の基準においては,二部門定置説 と 綿工業主軸説 とがあるが,前者の立場に立つ場合の問題点は,第一部門 と第 二部門の連結であるQ二部門定置説である以上は この連関は重要であるD こ の点について,私は織物業 (第二部門) と織機生産 (第一部門)の連結が重 要であると考えている。 この織機生産の動 向の検討が課題 とな る。 これ らは明治期におけ る産業史の発展過程の具体的検討であ り,それを通 じて認識は深 まるが ,いずれに して も産業編成論にふ さわ しい産業史研究が 課題である。地域編成論 ,生活編成論に して も然 りである。 そ して ここで浮かびあがる課題は,これ らを統合 した 日本産業革命史論の 作成である。 (2)明治文学による明治時代研究 引用文に記 した ように,文学作品を素材 とした明治期の研究は,上述の産 業革命研究 と深 く関わ り,それについての別 の側面か らの取 りまとめである といえるものである。そ こにおいて 『明治文学にあらわれた明治の時代』(仮 堰)として取 りまとめたい とした ものは,『明治文学におけ る明治の時代性』 (1999年)として公刊 した。 1986年2月に文学作品を素材 とした ものの最初のものを発表 して以来, 8 論文を作成 した。素材 としたのは,徳富塵花 『み ゝすのたはごと』,田山花袋 『田舎教師』,島崎藤村 『千曲川のスケッチ』,宮崎湖処子編 『拝情詩』,田山 花袋 『東京の三十年』,尾崎紅葉 『金色夜叉』,徳冨産花 『不如帰』で,本書 は これ らを取 りまとめた ものである。文学作品の検討を通 じて明治 とい う時 代の時代的特質の把捉を試みた ものであるO (3)明治高等教育制度史 ③ とした ものは,『教育 と研究 岡山大学1999』であげた ものでは,「第六 高等学校 ・岡山医学専門学校の設立」 (『岡山大学文化科学研究科紀要』第1号 -43

(11)

2-'95年)「明治三十六年度全 国高等学校 入学試験状況- 旧々山口高等学校の進退 窮まるをみる

-

」(『岡山大学経済学会雑誌』第27巻第 1号'95年)「岡山大学 の前身 諸校一 日本近代高等教育展開の一地域事例

-

」(同 第

3

1

巻一第2号'99年)である。 この研究は ,大学 に職を持つ者 として 自ず と大学 について ,その在 り方 に ついて考 えることと,日本近代を研究対象 としていることとが結 びついて , 課題 とな って きた ものである。国家 の統制 の冠た る 日本 の こと,大学 ,こと に国立大学 は文部省の枠 の内 ,掌中にあ り,国家的な秩序の もとにある。現 在の99の国立大学には様 々の階層 ・序列があ り,各大学 はそれに相 当す る位 置 にあるOその階層 .序列 を乗 り越 え られ ることはあ り得 ないoただ一つ例 外が あった。それは最古 ともいえる歴史のある大学 が ,国家的なプ ロジェク トにあわせてみずか ら閉学 して ,全 く異 なる形 の大学 に転換す るとい うこと に よってな された ところである。大学 の序列はその大学 の長 の位置づけにあ るのであ り,この転換が もた らした ことはそれ に よって確 認 で きるo Lか し,この例外的な こととて もかつての地位 の回復 とい うこととの関連におい てあ りえた ことであ った ともいえる。 岡山大学 の この30年間は ,改鼠に続 く改組 のそれであったが ,この改組に よる制度整備 ・拡充は全国的にみ ると,ある 「法則性」 に もとづいて行なわ れて きた。それは戦後改革 に よる新制度 として発足す る段階での母体校 の位 置 ・格付 であるが ,それは明治期 の国家体 制 確立 の時 点 まで遡 る。 ま さ し く,近代 の高等教育制度確立に遡及す る問題 である。 近代化過程 において教育は極 めて重要 な問題 であるO近代化 を一挙に進め なければな らなか った後発資本主義国 日本に とってほ ,国家 の須要 の人材 の 養成が緊急 の課題 であ ったQそれは官僚 であ り,教員であ り,軍人であるo 高等教育機関は この よ うな国家 目的の学校 として設立 されたoそのための も のが ,帝国大学 ,高等師範学校 ,陸軍士官学校 ・海軍兵学校 な どであ った。 これ らの学校 は ,近代 国家 目的 とい う意味において ,フランスが先進 イギ リ スを追 いつ くために設けた ダラン ・ゼ コール とい う学校群に類似 していると

-4

3

(12)

3-1098 思われ る。 この高等教育機関の設立 と展開は 日本近代史の特質を端的に表現 す るといえる。か くして ,高等教育制度研究は明治期研究の重要な一環 とな るのである。 この ような ことか ら,この岡山大学の前身諸校についての検討な どに よっ て近代 日本の高等教育に関す る研究を行 な って きた。 岡山大学 が刊行 した 『岡山大学五十年小史』(1999年)の 「第-部前身諸校」 もその一環 として担 当 した。 この問題についてはなおい くつかの検討対象があるが ,それ らにつ いての検討にもとづいて,『明治高等教育制度史の一考察』 (仮題) と して ま とめたい。それができたな らば私の明治時代認識はさらに深 まるであろ う。 (4)農書一近世農村史研究 『研究 と教育 岡山大学1999』の研究題 目の-つに④近世農書の研究 :文 政年間の-農書について検討 し (「徳山敬猛 『農業子孫養育草』一原本による翻刻 一」『岡山大学経済学会雑誌』第26巻第1号 '94年な ど),これを通 じて近代化の歴史的 前操 としての近世期におけ る農業 ・農村の展開を考察す る、がある。 この間 のこれに関す るもの としてあげたのは,「徳山敬猛 『農業子孫養育草控』とそ の成立」 (同第30巻第 1号 '98年)「近世の-農書 :徳 山敬猛著 『農業子孫養 育 草』の成立」 IⅠ (同第30巻第2号 ・第31巻第1号,'98・'99年)である。この よ うに農書研究を一研究題 目としていることについて記そ う。 引用 した 「私の研究- これまで ・これか ら」に記 した ように,学部段階で は近世農村史に連なる卒業研究を行なっている。現在は埼玉県幸手市に属す る,当時 ,武州葛飾郡上舌羽村の代 々名主を勤めた石塚義英家の文書にめ ぐ り合い,それに取 り阻んだ。それは近世初期か ら後 の文書が残 っていた。「検 地帳」の集計に よる村人の土地所有状況 ,文化期以降の 「宗門人別帳」に よ る家族構成 ,その石高の記載に よる石高別階層構成 ,各家 ごとの変化,「年貢 割付」「年貢皆済 目録」に よる年貢収取の状況 ,な どの検討を行なった。 当時 ,農業史をベースとしなが ら,近世 ・近代の社会経済史研究を切 り開 一 434

(13)

-いていたのは古島敏雄先生であった。畿内農村についての実証的研究の成果 杏,編著 『寄生地主制の生成 と展開』 (1952年 岩波書店),共編著 『商品生産の 展開 と地主制』 (1954年 東京大学出版会)な どとして世に問われていたが ,そ こ で行なわれた ことを この関東農村について行な ってみ ようとしたOそれは無 謀 ともい うべ き取 り阻みであったoその研究は大 き く進展すべ くもな く,乏 しい成果の一端を,後に,日本農業経済学会で発表 し,それを 「近世-関東 農村における 『共有地』分割についての一考察一貞享 ・寛保間にみられる分割 方法の変化をめぐって

-

」 (『白梅学園短期大学紀要』第3号 1972年)としたに とど まった。 この研究は 1編の論文をその成果 として公表 す るに とどまったが , しか し,この石塚家文書 との取 り魁みは,江戸時代の基盤である農村をみること に通ず る貴重な経験であった。最近にな って,この石塚家文書にある川除御 普請所の坑木流失事件の取調べ書の写である 『一件 口書写』 2冊なる文書を 翻刻 し,それをめ ぐる事柄を解説 した 「[武州着飾郡上舌羽村]一件 口書写 天保八酉年十二月 儀助

」 Ⅰ ・Ⅰ・Ⅲ (『岡山大学経済学会雑誌』第28巻第3号, 第29巻第 1号,第31巻第2号,1996,97,99年)を発表 したo当時作成 した もの を,いまようや く印刷に付 したが ,抱 きつづけてきた この石塚家文書 と取 り 組んだ ことへの こだわ りがなさしめた といえ よう。 論文 「元禄時代に於ける農学の発達 とその地盤」 (上 ・中 ・下)をも とに し た古島敏雄先生の学位論文 『日本農学史 第一巻』 (1946年 日本評論社)は,い まなおそれを越 えるものはな く,数多 くの分野にわたる古島先生の研究足跡 のなかでいまなお追従を許 さないのは 日本農学史 ・日本農業技術史の研究で ある,といわれているQ古島先生のもとでは,莫然 と,農学史を研究 したい と思 っていたが ,明治期の農村工業史を検討す ることとな り,そ して,やが て産業革命 ・産業革命期の研究を主 とす るもの とな り,経済史研究者 となっ た。 しか し,その手法は,農業史をベースとす るものであ り,さらに,どこ かに農業史そのものに対す る関心は潜み続けていて,それがたまたま関わ っ - 4 3 5

(14)

-1100 た-農書の研究へ と駆 り立てていったのである0 1983(昭和56)年に完結 した 「日本農書全集」全35巻 (農山漁村文化協会) 紘 ,江戸時代の多 くの鹿妻を斬刻 し,現代語訳 ,注解を付 して収録 した もの であるが,その過程 で,『農業子孫養育草』もその対象 となったOこの書は岡 山県北部 ,現在の真庭郡川上村の徳 山敬猛の作であるが,これを私が担当す ることとな ったO進めてい く内に ,それは宮崎安貞の 『農業全書』の引用が 多 く,オ リジナ リテ ィーが きわめて小 さいことがわか り,除外す ることを提 言 した。結局 ,それはそのなかに補論 として解説す ることに とどまった。 し か しオ リジナ リテ ィーが小 さい とはいえその価値は別であると考え,私はそ の研究を行なった。 これが④ とした ものである。 1826(文政9)年に徳山敬猛に よって作成 された この 「農業子孫養育草」 は,夙に世に知 られている慶喜である。『国書総 目録 第六巻』(1960年 岩波書 店)には,「農業子孫養育草 の うぎ ょうしそんや しない ぐさ ㊨徳山敬猛 ㊥文政九年 ⑳近世地方経済史料四」(468ページ)とあって,すでに小野武夫 編 『近世地方経済史料 第四巻』(1932年 近世地方史料刊行会)に収録 されてい る。この書について,そ こには,「文政九年丙戊六月 ,美作の人 ,徳 山敬猛の 著す所に して ,農事の沿革概要 より,麦の陽 ,稲の陰なるを説 き,夫 より種 芸 ,節気 ,分限 ,男女子の使用法 ,種籾の選択 ,耕作方等を記 したる有用の 書な り。其の父情延に も椎子道教抄の著あ りと云へ りo原本は岡山県 よ り農 商務省に進達す る所に して,美作国徳山村徳山馬太郎の蔵書 よ り借写せ しも のに係 る」 (4ページ),との解説がある。 この借写 し,農商務省に進達 された この農書は,同様に進達 された他の農 書 とともに,関東大喪災で灰塵に帰 して しま うが,幸いに も農商務省に勤務 していた小野武夫が1920(大正9)年か ら1923(大正12)年に至 る間に,同 省文庫に保管 されていた農書類のかな りのものを筆写 していた とい うことで あるO『近世地方経済史料 第四巻』 のものは この小野筆写本を底本 とした も のであるo Lか し,この小野筆写本そのものは今はないO ところが ,もう一

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一436-人 ,この農書を筆写 した者がいた。それは福島県の一436-人 ,初瀬川健増で,彼は 1919(大正8)年に農商務省において筆写 している0 日本農畜全集は 「農業 子孫養育草」を この初瀬川健増の筆写本を底本 として,翻刻 ・現代語訳を し ようとしたのである。 この農書は,農書全集には収録 されなか ったが,しか しその価値は別であ ると考 えた私は,この初瀬川健増筆写本に もとづ きそれを翻刻 し,あわせて 『農業全書』 との比較を行なった。 さらにその後 ,徳 山家 よ り敬猛直筆の原 本が姻戚関係にある家で発見 された とい う連絡を受けた。そ こでその敬猛直 筆の原本に よって,再度 ,翻刻

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『農業全書』 との比較対照を行なったO ところで,この1826(文政9)年に先立つ1824(文政 7)年に敬猛は 「農 業子孫養育草控」 とい う控 とい う文字をを除けば この年のものと類似の名称 の農書を作成 している。そ こでこの控の翻刻 と1926(文政9)年のもの との 比較対照を行な った。 また ,この徳 山敬猛家は存続 し,現在 もその地に居住 している。そ してこ の徳山敬猛家には文書類が残 され ,それは 「徳 山家文書」 として岡山大学附 属図書館に所蔵 されている。 この文書類に よって,当時の同家やその地域の 状況を検討す ることができたQ これ らの ことを通 じてつ ぎのことが明らか となった。1824(文政 7)年 と 1826(文政9)年 とは類似の標題に もかかわ らず内容的には全 く異なるもの であるOそ して1826(文政9)年 のものは 『農業全書』か らの大幅などック ア ヅプで成 り立 っている。 しか し僅かではあるが独 自の内容の項 目があ り, ピックア ップの仕方 とあいまって,それは独 自の農畜 とな っているといえる のである。 この ような ことを明らかに している。 この時代には,少なか らぬ農畜が作成 されている。 しか し,この書の よう に,その著者の身許が明確で,かつ ,その子孫が判明 し,しか もその地に居 住 していること,かつその家の文書が残 され ,利用できるな どとい う状況に あるものは稀である。その上に

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年前の同類 の標題であ りなが ら内容が異 -

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437-1102 なるものさえもあるとい うことが加わ る。 これ らに よって農書の成立の経緯 な どを検討す ることができる稀な農書である。 なお,農書は各地で作成 された。それはこの農書の ように,流布 していた 『農業全書』を ピックア ップした ,あるいはそれに似た ,似せ農書が少な く ないQ Lか しそ こには独 自のものが僅かでもつけ加わ っていることや ,ピッ クア ップの仕方その ものにそれな りの工夫があるとすれば,それはある意味 での創作である。 しか もそれが百姓身分 の者 に よってい る ものが少 な くな い。 ここに近世期におけ る農業 ・農村の変化を,その進歩 ・発展 とい う側面 の反映をみることができるといえ よう。 かつて古島敏雄先生は,宮崎安貞の 『農業全書』は,一つには,中国の農 書 『農政全書』に多 く依拠す るとともに,自らの体験に よることを明らかに されたが,以後 ,わが国には この 『農業全書』に依拠す る多 くの地方農書が 現われた。 この 『農業子孫養育草』 もまさしくその一つである。似せて書い た似せ農書であるが,その体験や地域の実情にもとづ くその引用の仕方 ,そ して僅かではあるが独 自の記述のあるこの ような似せ農書は,しか しまさし く一つの創作物であるO この ような ものが百姓身分の者に よって書かれた こ とに,近世 日本農村の特質 ,あるいは,その発展性をみることができる。 この ように してめ ぐり合 った この-農書についての これ までの研究成果を 取 りまとめて 『近世 の-農書の成立』(仮題)としたい と思 っている。この研 究に よって,冒頭の引用文に記 した高校 の頃に抱いた志が僅かで も満た され た ような思いであるが ,一書 とす ることに よって,なおそ うなるであろ うO そ して この一書ができることに よって,日本の近代に先立つ時代についての 私の認識が深 まるであろ うと思 っている。 (5)農業集落論 私の-著作に,『戦後村落景観の変貌』(1991年 御茶の水書房)とい うものが ある。『教育 と研究 岡山大学1999』で研究題名の一つ としてあげた⑤農業集

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-落の変貌 :近代 日本の基底にある農業集-落の変貌を村落景観論 とい う視点か ら研究 し,農業集落変貌の歴史的意義を考察す る,とい う農業集落論 として 位置づけた ものであるo この景観 とい う切 り口か らの農業集落の変貌につい ての研究は,木村礎氏の構想に基づ く 「日本村落史講座」 (全8巻 雄山階)の 景観編の一つである 『日本村落史講座第3巻 景観 Ⅱ 近世 ・近現代』(1991 午)の 「戦後村落景観 の変貌」 とい う一文の執筆依頼を契機に進展 した もの である。 私が岡山大学に着任 した1970年 の頃は,新聞は連 日,いわゆる過疎に関わ る記事を掲載 していた。近代 日本に至 って も日本社会の基盤であ りつづけて きた農業集落が変貌 ・解体す るとい う日本歴史上の大 きな事態が進行 しつつ あった。歴史研究に携わ る者 として これに無関心ではい られなか った。着任 した年に,農林業 センサスに もとづ き,岡山県の市町村別の検討を行な うな どして,この時期の動 きの激 しい人 口流失 ,農家減少が見 られ る町村の諸類 型を兄い出 し,農業基盤があ りなが ら大 き く揺 れ てい る村 を摘 出 した りし た。そ して1971年の夏か ら秋にかけて,その一つの加茂川町を訪れてその典 型的な地区を対象 とした調査研究を行なお うとした。 この調査研究は実施できなか ったが ,その頃 ,たまたま他にその機会があ り,農村調査を行な った。農林省の 「農地賃貸借推進特別調査」 として児良 郡灘崎町の調査 (1972年7・8月),農林省の 「農業集落農地動態調査」を引 き つ いだ全 国農地保 有合理化 協会 の岡山県児 島郡灘 崎町川張地 区 の 同調 査 (1973年)である。前者の調査報告書は 「岡山県児島郡灘崎町における農地移 動の実態 と規模拡大の展望」をタイ トル としたが,そ こに示 されているよう に規模拡大の展望の検討が課題であ り,そのために川張四区の全農家20戸 と 西高崎地区2ha以上農家13戸を対象 とす る調査を行なった。集落農家の悉皆 調査に よ り階層に よる状況をみ ることと,上層農家の動 きをみることとい う 二つのことを行な った。 この ように岡山大学着任当初に,農村をみる試みを し,その機会 もあった -43

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9-1104 が ,しか し,日本経済史の担当者 としての教育 と研究に忙殺 されて農業集落 の変貌についての検討を行な うことができなか った。 この ように関心を持ち つづけなが ら取 り阻む ことができないままであったが ,産業革命研究の地域 編成論にあたる一書を公刊 し,一息いれ る ことが で きる頃で あ ったので , 1987年 の 「戦後村落景観」の執筆を引 き受けたのである。 その ような時 ,農林水産省構造改善局の 「農業構造改善基礎調査」 の全国 10カ所調査 の うちの中国四国地区のそれを担当す ることとな った。1989年は 岡山県賀陽町,1990年は鳥取県西伯郡名和町,1991年は高知県土佐郡土佐町 であったO これ らに よって農村の実態に触れ ることができたOなお,鳥取県 名和町の調査には当時学部学生4年次生の相原克麿が参加 し,調査書の執筆 も行なった。 また岡山県川上郡川上町の町史編纂事業の一環 として農村調査 にゼ ミナール として参加す る機会に恵 まれた。三つの集落を選び,その総て の農家を対象 とす る調査をゼ ミナール生が行ない,分担 して報告書を作成 し たが,その編集は相原克暦が行な ったo この ような経験を重ねた相原は大学 院修士課程を経て,現在 ,農林水産省北海道農業試験場において研究に従事 している。 いずれに しても,農業集落調査の分析や1989年 の調査 の成果 な どに よっ て

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「戦後村落景観の変貌」を執筆す ることができた。そ して,そのために行 なった農林業センサスの農業集落調査や農村調査の分析に よるい くつかの論 文を もとに,『戦後村落景観の変貌』とい う著書を出 した。11ページの論文の 執筆を契機に,い くつかの論文を作成 し,一冊の書物を書いた ことになる。

3 研究の集約 と展望

(1) 研究の集約 『研究 と教育 岡山大学1999』にあげた五つの研究題 目の研究は,その う ちの,(丑と② と③ ほ一つのまとま りとな るOすなわち,(Dの産業革命研究を 144

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0-軸 としつつ ,②はそれを展開す る うちに文学作品を素材 として とい う,別 の 観点 ・側面か らのアプローチである。 また,③はさらに産業革命の対象 とす る時期の明治 とい う時代の,産業革命の展開に よる資本主義経済社会の成立 とその特質についての高等教育制度面 か らの検討 であ るO これ らが一体 と なって明治 とい う時代についての認識を深めるとい うものである。 これ らにおいて もい くつかの問題があ りなが らも,とにか くこの群の研究 は個別的には-応 のまとま りの見通 しがついた といって よいO 研究題 目の④ と⑤ は これ らの群のもの とは異な るものである。そ して,一 つは近世期 ,-つは戦後 とい う,お よそ媒介な しには結び付かない時期のも のであるこの④ と⑤は ,ある共通の基盤の上にある。それは農村史 としてで あるOそ して,これは,実は私が本来 ,強 く引かれ ,志 していた分野 であ るo大学院での研究成果は

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『明治期農村織物業の展開』とな り,産業革命研 究に ドッキングし,その一端を担 うもの となったが ,それがその後の独 自の 産業革命研究の始点 とな ったのは,その後 ,明治期の織物業を再び追 うこと に し,継続 したか らであるo Lか し,元来は 「近代農村工業史の基礎過程」 とい う論題で,基礎 ,すなわち農村の特質 との関連 を問題 とした ものであ り,農業史研究 となるべ きものであった。 この農業史 ・農村史 との関連 とい うことは,以後 の研究に も一貫 して もちつづけていることであるが,しか し 農村史そのものは閉 じこもって しまった。それが ,形を変えて現 らわれたの が④ と⑤ といえるO農村史研究志 向は私のなかに潜み続けていたのであるO

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課題 と新たな展望 それぞれの箇所であげた ことを完成す ることが ,これ までの延長線上での 課題であるo ここではそれ とは別個の新たな展望を記そ うO 『戦後村落景観の変貌』を刊行 した後,「中山間地域の農村景観」(『地方史 研究事典』1997年 弘文堂)を執筆 した。 しか しこれを も含めてこれ までのもの は,あ くまでもこの高度成長期に一挙に進展 した農業集落の変化を景観 とい - 4 4 1

(20)

-1106 う切 り口か ら検討す るとい う,農業集落論であったのである。 ところで,私の明治期の研究 も,産業その ものか ら次第に時代そのものへ と移行 しつつあ り,その方法 も文学作 品を通 じた描写 の検討 ともな って き た。そ こでは当時の地図や写真な どとい う文字文献以外のものも手掛 りとな り,ある種 の景観観察 ともいえるもの となってきているO この私の主研究題 目である産業革命研究が多様化す るとともに ,潜 んでいた農村史研究志 向 が,一つには江戸時代 ,一つには戦後 とい う時期を対象に して現われてきて いる。明治期を軸 として これ らの時期を繋 ぐことが新 しい課題 となって くる ように思える。折か ら 「近代 日本の景観の変化」「現代 日本の景観の変化」と い う二つの項 目を 『地方史研究の新方法』 (2000年 八木書店)に執筆 したCそ れを進めるなかで,この景観視点を上記の新 しい課題 と結びつけることが今 後の課題 として浮かびあが ってきた。すなわち,この景観を軸に した 日本近 代史である。それはたんに近代に とどまらない,日本歴史を通ず る,少な く とも近世か ら近現代に至 る歴史を景観 を軸 に把捉す る とい う,歴史認識 -「景観史学」 の可能性である。 この 「景観史学」を追究す ること,これが新 たな-課題 となってきたのである。

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大学院教育

(1) 戦後 日本の大学院

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年度以来の学部 レベルの教育については,それまでに執筆 したい くつ かの文章をまとめて 『大学の授業一岡山大学における実践の記録-』(1998年)と して刊行 した。それ以後 のものが残 されているが,増補版の機会な どに追録 したいo ここでは大学院教育について記すO 岡山大学には医学部を除いて,大学院が長 ら くなか ったが ,この ことと関 連 して,まず ,戦後の大学における大学院について整理 してお く。 戦後の

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年公布の学校教育法は,大学 に大学 院 を置 くことがで きる と

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-し,1948年に新制大学12(公立 1・私立11)に大学院を設置 したが,国立大学 には1953年12校に設置 した。それは北海道 ・東北 ・東京 ・東京教 育 (現筑 波) ・東京工業 ・一橋 ・名古屋 ・京都 ・大 阪 ・神戸 ・広 島 ・九州 で ,旧帝 国 ・商科 ・文理科 ・工業 とい う旧制大学である。 しか も旧帝国以外は,大学 院は旧制部分のみで,その旧高等学校 ・専門学校 レベルの学校 の後身学部に はそれは設置 されなか った。ただ し,1955年に旧帝国 ・旧医科 と東京医科歯 科 ・徳 島に医学研究科 (博士課程)が設置 され ,以後それは1958年の弘前 ・ 信州 ・鳥取 ,と以降順次設置 されてい く,とい うように,医学部にはすべて に大学院が設置 された。 1963年に至 り,ようや く東京芸術 ・お茶の水女子 ・横浜国立 ・富山に修士 課程が設置 された。同時に医学部 ,あるいは旧制大学を母体 とした学部に博 士課程が設置 されていた金沢に理学研究科が,広 島に工学研究科が設置 され た。要す るに新制 の大学 ,あるいは学部に大学院が設置 されは じめたの1963 年である。そ して1966年に東京学芸大学に修士課程が設置 され ,ここには じ めて教員養成大学 ・学部に大学院が設置 されたのである。 旧制大学を母体 としない大学 ・学部に初めて博士課程 の研究科が設置 され たのは,1975年のお茶の水女子の人間文化 と静岡の電子科学で,総合 ・独立 研究科 とい うものである。1980年神戸 に文化学,1981年に奈良女子に人間文 化科学 ,神戸に 自然科学 と続 く。1985年には東京農工大学に博士課程連合農 学研究科 とい う,複数の大学にまたがる大学院博士課程が設置 されたO この 年に広島大学に生物圏科学が,翌年社会科学が設置 されたoそ して1987年に 岡山 ・新潟 ・金沢に 自然科学研究科が設置 され ,以後 ,千葉 ・熊本に 自然科 学 ,長崎に海洋生産科学が設置 されてい く。そ して,1993年に新潟 ・金沢 と ともに岡山に人文社会系の博士課程が設置 され る。岡山は文化科学研究科で ある。 以上が国立大学における大学院の設置の推移であるが ,それは,まず母体 が旧制大学である大学に設置 され ,それ以外は修士課程 も設置 しなか った。 -4

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43-1108 後者には じめて修士を設置 したのは1963年 で ,教員養成学部 は1966年 であっ た。 旧制大学 を母体 としない大学 には じめて博士課程が設置 されたのは1975 年 であるO長期にわた り博士課程 は特定 の大学 のみに設置 されただけである が ,入部社会系についていえば ,課程 修 了 で の学位 授 与 には極 め て消極 的 で ,大学院制度 は大 き く歪 んだ ままであ った といえる。

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2

)

岡山大学 における人文社会系大学院 この ような格付に よって ,岡山大学 に文学 ・法学 の修士課程 が設置 された のは1971年 ,経済学 のそれは1977年 であ り,人文社会系 の博士課程 は1993年 であった。博士課程 でいえば旧制母体 の大学か ら40年 も遅れて , しか もその 形態 も組合 ・独立 とい うもの として ,ようや く設置 されたのである。 大学 の大学た る所 以は大学が学位授与権を もつ ことにある。新制度 の大学 の学位授与権は大学院に移 された。大学院がなければ学位 は授与で きず ,そ の博士課程がなければ ,博士学位 は授与で きない。国立大学 の多 くは,当初 は修士課程す らな く,ま して博士課程 は設置 されなか ったo スター ト時 ,全 国60余の国立大学 のすべてに大学院を置 くことの当否 には議論 のあるところ であろ うが ,少な くともそれが大学間の格差 を固定 ・拡大 した ことは間違 い ないo 岡山大学 には ,いまなお人文社会系の博士課程 の少ないなかで,それ も設置 され ,大学 としての形 は よ うや く完成 したのである。 (3)大学院教育の成果 岡山大学 に大学院が設置 された とはいえ,研究拠点 ・研究者養成 としての 大学院を当初か ら設置 されていた大学 とは ,多 くの点で異な っていた。 さま ざまな種類 の有職者 ,定年退職者 ,留学生か らなる院生を受け入れたが ,い ま大学院をめ ぐって議論 されてい る研究者養成か高度職業人養成か とい うよ うな ことに関わ りな く, しっか りした課程修了論文を書 くこと,それを通 じ て研究の方法を体得す ること,これを 目標 に して きた。 -44

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4-1977年に設置 された経済学研究科修士課程では

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年3月の 3人の修了 者 までの17人の指導学生が修士学位を取得 した。1993年4月に設置 された文 化科学研究科博士課程においては,最初の博士学位授与の1996年か ら99年3 月 までの間に, 5人が博士学位を取得 し,2000年3月 までに 2人 ,2000年度 中に1人がその見込である。その学位論文題 目等は付表 のごとくである。

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研究 ・教育の基盤 ・条件

この ようにみて くると,この岡山大学におけ る30年は,大学教員 としての 研究 と教育 とい う仕事を,それな りにで きた充実 した30年であった。その よ うにできた基盤 ・条件をあげてみ よう。 第-は,この岡山大学その ものである。 いわゆ る新制の,地方にある大学であるが,日本でも最多数の学部を擁す る大学 の一つであ り,多 くの専門分野の,す ぐれた研究者がいるところであ る。多 くの研究者のいることの便益は大 きい。私の専門の経済史に しても, 経済学部は5人のスタ ッフを もっている。 また ,私の分野 と関係の深い 日本 史や地理学のスタ ッフとの交流 もある。文学作品を素材 とす る研究 も,文学 関係のスタッフが購入 して くれている図書を図書館でみることができるQ私 が研究を進めるには,この ような ことが有益であった。 図書館 とい うと,岡山大学附属図書館は全国の大学図書館で も有数のもの の一つである。 この附属図書館については

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『大学図書館図書資料論』(1996 年 御茶の水書房)において記 し,また,『大学 の授業-岡山大学における実践の記 録-』(1998年 大学教育出版)にも記 した ように,学部の各種授業 ,大学院にお け る指導において,附属図書館を大いに活用す ることができた。 第二は,研究対象の多 くを岡山県に求めた ことである。 日本近代の地域事 例的研究には岡山県は一つの格好の所 である。『産業革命期 におけ る地域編 成』は岡山県域を主対象 とし,また 『近代岡山県地域の都市 と農村』

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『近代 -44

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5-1110 蘭輩業の展開』はまさしくそのものである。徳山敬猛の農書 も岡山県域 のも のである。『戦後村落景観 の変貌』 も岡山県についてのものに収赦 しているO 近代史の研究の方法 としてほ

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『岡山県統計書』を駆使 してお り,「府県統計 書」に よる近代史研究を切 り開いた とみずか ら言 うことができる。 地元を研究の手かが りにす るとい うことでいえば,図書館についても岡山 大学の図書館について検討す ることに よって , 日本 の大学 図書館 の問題 と 個 々の図書館の問題点を知 ることができるようになった。 また ,岡山大学 と い う個別大学の諸問題を通 じて 日本の大学問題を知 ることがで き,また前身 諸校 の歴史をみ ることに よって戦前期 の高等教育制 度史 を知 る ことがで き た。 さらに,自分の授業そのものさえも検討の対象になった。個別的事例は 一般的な ものに通ず るのであ り,研究の手かが りは足下にい くらでもある。 第三は,地域の研究者 との結びつ きである。歴史の分野は,研究機関に属 さない研究者が多数いる分野である。それ らの人 々に よって学問的な拡が り と深 ま りが もた らされているが,大学におけ る研究 と教育においてそれ らの 人 々との連係が重要である。私の場合その一つの,そ して重要な場は岡山近 代史研究会である。 1977年4月の大学院経済学研究科の発足に先立つ ,その前年の1976年12月 17日に岡山大学 日本経済史研究会を結成 し,そ の第 1回の研究例会 を もっ た。1990年 4月25日の第100回 目の研究例会の後に岡山近代史研究会に改め, 以後毎月1回の研究例会を もち,2000年3月は第215回 となる。 この1976年 12月の発足以来今 日まで,ここには多 くの大学院生が参加 し,ここを学習の 場 とした。現役 ・元の小中高の教員ほかの職業人 ,退職者な どで研究機関で ない ところで研究を続けている老若の人 々が多 く参加 し,報告 しあ うこの研 究会は,お互いが ,そ してなに よりも大学院生が多 くの刺激を受け るところ となった。そ してまた ,研究会参加者か ら大学院に入学す るとい うことに も なった。交互に ここで研究報告を し,それをベースに,さらに,社会経済史 学会中国四国部会 ,地方史研究協議会な どの大会において発表す るな どして 1446

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-きた。大学院生 の教育 ,学習の場 として意義 のある研究会 である。 第四は ,地方 にあ り,中央 とは一定 の長 さの距離があって,間隔のあるこ とである。分野に もよるが ,私の場合 は 自ら設 定 した研 究 を進 め て い くに は,中央か ら離れていてい っこ う差支 えがない。め ま ぐるしく変 る最近 の状 況に ともすれば惑わ され る,とい うこともな く,自ら設定 したテーマでの研 究を時間をかけて取 り阻む ことがで きる。静 に沈潜 で きることは非常 に大 き い利点である。 第五 として研究発表 の場 としての岡山大学経済学会雑誌 ・研究叢書の活用 である。 『岡山大学経済学会雑誌』 は1969年 に年 4回で創刊 された。私 の在職期中 は第 2巻か ら第31巻で ,この間の発行回数 は107で あ る。 120回 の管 で あ る が ,退官記念号は合併号 として きた ことに よるが ,それ のみでな く,原稿が 集 まらな くて合併 に した ケースが初期に少な くないo この間に投稿 ・掲載 さ れた雑誌回数 と私の論文本数 を5年期 ごとに示す とつ ぎの ようにな る。 各5年度 第 Ⅰ・5年期 第 Ⅰ・5年期 第Ⅲ ・5年期 第Ⅳ ・5年期 第

・5年期 第Ⅵ ・5年期 合計 (経済学会誌巻) 1970-74年 (第 2-第 6巻) 1975-79年 (第 7-第11巻) 1980-84年 (第12-第16巻) 1985-89年 (第17-第21巻) 1990-94年 (第22-第26巻) 1995-99年 (第27-第31巻) 発行 掲載 掲載 回数 回数 本数 15 2 2 18 9 9 19 18 18 18 18 18 17 17 20 20 20 36 107 84 103 この30年間の107回の雑誌 に84回誌に投稿 して ,掲載 され ,掲載 論文 本数 は102であるO連続 ものを 1論文 とした実論文数は92であ るO この間 の年平 均で ,発行回数3.6,掲載 回数2.8,掲載本数3.4とな る。 各 5年期 ごとにみ ると,第 15年期は少な く,第 Ⅱ5年期は発行の半分近

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-447-1112 く,そ して第Ⅲ5年期は1回だけ掲載欠で ,以後 はすべての5年期は 1回 も 欠け ることな く掲載 してい るO掲載本数は第Ⅳ5年期 までほ掲載誌数 と一致 す るが ,第V5年期 は上 回 り,第 Ⅵ 5年期 は20誌に対 して36本を掲載 してい る。着任 当初 は年に

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回を原則 とす ると言われたが ,やがて連続掲載 も可 と な り,さらに第

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5

巻か らは ジ ャンルが異なれば

1

回に

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本 出 して もよくな っ た。第V5年期 ,第 Ⅵ5年期 の本数はその ことの反映である。 なお ,第12巻第4号 (1981年3月)か ら第31巻第4号(2000年3月)まで総て に71回連続 して投稿 し,論文87本が掲載 されたo この ように,掲載 で きる雑誌があれば こそ ,多 くの論文 を公表 で きた。そ してそれをまとめて書物 とす ることがで きた。私 の書物 のほ とん どの ものは この ように して出来た。雑誌 を十分に活用 させていただいたのである0 研究成果を単行本 として公刊す ることは ,きわめて困難 である。昨年末の 『明治文学 におけ る明治 の時代性』がその一つ として刊行 された岡山大学経 済学研究叢書の刊行 のい きさつについては

,

『春 の 日は-田中生夫先生追悼文 集-』 (建部和弘 ・一ノ瀬篤編,1998年 西日本法規出版)に記 してあるO この叢書 は田中生夫先生の発案で生 まれた ものであるが ,それを御茶 の水書房か ら改 めて刊行す るとい うことについては ,私が大 き く関わ った。一種 の 自費 出版 である学部 出版 では本 としてのひろが りを もたず ,十分生 きない。折角 の学 部か らの刊行本を生かすために ,出版社か ら改めて刊行 して貰 うことを考 え て ,御茶の水書房 と交渉 して,工夫の上 で実現で きた。 これ までの刊行は

2

4

冊で ,その第

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冊 目と第

2

4

冊 目の

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冊が私の ものである。

6

お わ り に この30年 間を私は大学 のなかで生活 した。住 いは,着任 した2年度 目か ら 29年間は大学宿舎住 いであ った。その うちの5年 ほ どは鹿 田キ ャンパス (医 学部)前の街中で,津 島キ ャンパスか ら離れていたが ,あ とは附属図書館 の -448

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-裏手の宿舎な どのキ ャンパス内,あるいは元来はキ ャンパスの一角であった 隣接の3カ所 であ り,職住 まさしく極接近であった。附属図書館は土曜 ・日 曜 も開館 ,そ して平 日は夜間 も開館 し,閲覧席 を書斎机代わ りに活用 で き たo研究室は休 日も終 日過す ことが多か ったO この大学 内での 日常の生活の 完結 とい う得難い30年間であった。 この ように して過 した岡山大学におけるこの30年 ,私が生み出 した ものは ささやかな ものである。結果はささやか とはいえ,しか し,この30年は大学 教員 としての研究 と教育 とい う仕事に うちこめた ,まさしく,学びの30年で あった。 この ように過す ことができた ことは,まことに有難い ことであ り、 この ことについて多 くの方 々に感謝 したい。 最後 に

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『教育 と研究 岡山大学1999』にあげた ,ノバ- リスの詩を再度あ げ よう。これはノバ- リスの著作 『雑録集』の冒頭にあるものである。(『ドイ ツ .ロマ ン派全集 第2巻』1983年 国書刊行会 292ページ). 友 よ,大地は貧 しい。 ささやかな収穫に恵 まれんがために も, われわ らはた くさん種を播かねばな らない。 (園 田宗人訳)

-4

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-1114 付表 修士 ・博士学位取得者論文題 目一覧 修士 1979年3月 奥 須磨子 日本資本主義成立期 の都市住民構成 -一 地方工業都市今治の事例-合 一一 1986年3月 谷 美之 1930年イセの我 国の造船業一船舶改善助成施設を中心として-玉井 康之 中国山地地域におけ る地域複合農業 の展開 と発展条件 1989年3月 佐藤 雄一 戦前期 日本資本主義経済 の展 開におけ る遊廓業 (岡山県) 徐 頼 明治後期 ・大正初期 におけ る農 村 民 の生 活 状 況 - 「町村是調査 書 」による地域比較-士 別 生 豊 勝 振 田 口 内 山 李 月 月 3 3 年 年 0 1 9 9 9 9 = 日 日 合繊企業 グル ープの生産構造の多角的展開に関す る一考察 近代化過程 におけ る在来産業一一重要輸出品としての麦樺真田を事例 として- -1993年3月 相原 克磨 高度成長期以降におけ る地域農業 の担 い手問題一一岡山県川上郡川 上町を事例として一 有 田真理子 岡山県 におけ る朝鮮人労働力につ いての一考察-1910-1947年 1994年3月 前 田 昌義 後発地域 におけ る蚕糸業 の導入 と展開一一近代における岡山県蚕糸 業の一側面-1996年3月 上 田 賢一 近代交通網 の形成 に ともな う地域 の動 向一主に湊町玉島の考察を 中心として 一 捷 昭 子 志 利 尚 篤 壕 贋 川 李 大 上 大 月 月 3 3 年 年 7 9 9 9 9 9 1 ・-I 博士 1996年3月 森元 辰昭 1997年3月 古川 昭 1999年3月 鞠 玉華 戦後 日本の農地減少 について 近代 イギ リスにおけ る田園都市構想 とその社会的背景 について 大正期 におけ る鳥取県 の産業構成 -第 1回国勢調査を中心に-近代 日本におけ る中小地主 の存在形態一岡山県南地域の地主経常 を 中心に一一 朝鮮開港後 の開港地 におけ る 日本人の経済活動 熊谷 正文 わが国近代漁業 の地域的展開 中野美智子 近世史料 の整理法 とその利用形態 の研究 博士課程在学者 の学位請求論文 、 または学位予備論文題 目 .\ F1 木村須磨子 近代 日本近郊農村民 の生産 と消費H-1918年島根県下一集落の事例を 中心に一一一 佐藤 正志 両大戦間期 におけ る農村社会 の変容 と農会 証 1)修士学位取得者のうち.谷英之,山口勝則は,重化学工業に関する論文であり.下野克己教授が主 任となった。 2)なお,修士課樫を就職のため退学 1人(NAKANOSATOSHI)0 -450

参照

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