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仙台藩武家社会における一門の存在意義

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仙台藩武家社会における一門の存在意義

著者

浅井 陽子

雑誌名

国史談話会雑誌

55

ページ

1-25

発行年

2014-11-10

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129367

(2)

~ 員同 文

仙台藩武

における

門の

意義

はじめに 仙 台 務 の 最 竹 川 家 絡 で あ る 一 門は、務の官僚機榊に包摂され 一 ・奉行への諌 言 っ て明らかにされている。 し か し 、 一 門に関係した先行研究は、ほとんどが単に務政 出 来事を明らかにする文脈の中で行われたもので、 一 一 門が関与し っている。限定された事例の 一 面的な分析を根拠に 、 一 門の

F

僚に対抗する勢力のように見倣されているところがある。 この認識は適切なのだろうか。 一 門の存在と行動には、為 政者に反発して滞政の停滞や頓挫をもたらすものとしてだけ ではない、他の側面もあ っ たのではないか。この可能性を念 頭に、これまで注目されてこなか っ た事例も分析しながら、 一 門を具体的に掘り起こしていく必要があると考える。 一 門 という勢力の 再 評仰の必要性を喚起すると共に、ここで実際 に従来の 一 門 像を前提としない新たな 一 門の評 価 を 試 み た い 。 また、近世には 一 般的に官僚機構の整 備 を伴う幕藩制や帯 制が作られていったとされるが、近世官僚制は 、 身分制が昇 進制に制限を 加 えていたという点等において近代宵僚制とは 大きく性格を異にしている。近世武家社会においては、官僚 制と身分 制 、 家絡制が複合的に存在していたのである。従来 の近世政治構造の研究においては、官僚制に注目した研究が

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2 多数を占めて一定の到達点にある。しかし、官僚 制 の他にも 身 分 制 、 家 格制が権力 の源あるい は制約としてはた らき得た ことを近 世社 会の特質として 踏ま え る な ら ば 、 官僚制 ばかり に注目しては近世的な政治権力のあり様を理解することがで きないのではないか。仙台藩一 門 のように、官僚機構の外側 にあっても権力を持ち、藩政に影響を与える存在があり得た こ と が当然想定される。彼らの行 動 が官 僚 の主噂する政治の 中 で持った意義を 検 討し、こ れと官僚機構 の双方を政治 構造 の一部として捉えることは 、近世的政 治 構造の実態 に迫る試 みとしての意義を持つと言えるだろう。本稿では、仙台務一 門 を藩政 構造 の 中 に位 置付 け 、 こ れ を事 例 として官僚機 構外 の存夜が政治に対して果たし得た 役割 について一定の指 摘 を 試 みたい。本 稿の目的は これらの 点に あ る 。 尚 、 本稿で主に扱うのは、仙台藩 一 門と仙台帯政 との関係 で あ る 。 一 門 は務主家族への御機 嫌伺、各極務内 行がへの参 加、帯 主名代や将軍への御 礼使、前代 大名との 燃州 などをよ く行っており、儀 礼 や交際の場でも 重要 な役 割 を担っていた ことが窺われる。これを考察対象に含まないこと は 、 一 門 の 存在芯義を明らかにすることを

H

的 のひとつとする木前にと って豆大な 欠陥となってしまうことは疑いないが、唱者の力 量 不 足から 内容に感 り込めないことをあらかじめ 断 っ て お く 。 扱 う 時代は、官僚機構 とその 外部 の存在の 関係 を分析する 本稿の目的上、仙台藩において官僚制を含む藩政の基盤が確 立する時期である四代藩主綱 村 ・ 五代帯主吉 村 の 治 世 ( 万 治 三年(一六六

O)1

究保 三 年 ( 一 七 四 三 ) ) 以降を小心とす る 。 ま た 、 仙台藩 一 門 の 中 には名字 に伊達を名 乗 る家 、同 一 の 通称 を名 乗る人物 がそ れ ぞ れ復数 あるため 、便 宜 的 に 一 門の 名字・通称に折弧占きで突名と各知行地名を添え、各家と人 物を区別することにする。 第一章 仙台藩一門と先行研究の傾向 ここでは 、 次立以降の前 挺 と し て 、 仙台滞 と 一 門 の 特色 を 先行 研 究の 成果 に依りながら 述 べる。併せて 、仙 台 滞 一 門 に ついての 先行研究 に係る傾 向 や問題点の 指摘を行 う 。 仙台藩 は 、 天正十八年( 一 五 九

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)

か ら の奥羽仕置により 伊 達氏が居 減 を岩出 山 へ 曲 修 さ れ た こ と に 伴い、領減 がほぼ 確 定 し た 。 一 門 を含む家臣問の 創出 は、戦同 期 に伊達氏によっ て 征服 さ れた領 主とその家臣を伊達家 臣団に編 入していくこ とでなされ、これが藩体 制確 立以後も巨大な家臣団として残 存 し て い く 。 このうち 本稿 で 主 に 抜 う 一 門 は 、紋日位 の家栴として政宗 則 に設けら れ た家絡である。一門には広大な 知行地 を 拝領し て支配する家が多く 、 多数の 陪 臣を 抱 え て い た 。 一 門 の多く

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はもともと伊達氏近隣の戦国大名やそれに準ずる国人などで ある。戦国朋の政治 的常 套手段として、伊達氏はこれらの諸 家 と 捌戚関 係を結んだため、一門の大部分は政宗と血縁関係 にある。戦国大名の系譜と政宗との血縁関係は一 門 の地位を 強め、五代藩主士口村の治世となっても﹁御下臣とも客人とも つかぬ様成御あしらゐ﹂と、他の家臣とは一線を画した地位 のあいまいさがあったことが指摘されている。一万で、政宗 捌から務の役職には就 くことのない存在であった 。 で は 、仙台藩に闘す るこれまでの主要な先行研究の中で、 一 門はどのような評価を受けてきたのか 。 まず. 門 に注目が集まる事件として、冗文十一年(一六七 一 ) の 究 文 明 件 が あ る 。 一 九 六 六 年 刊 行の﹃宮城服史﹄はこ の 事 件 の一因を﹁藩主以外の強大な一門勢力の存 在 ﹂ に 求 め 、 次のように考察する。すなわち 、 一 門 は仙台領内であたかも 独立大名の観を呈し、帯政に与からないが伊達家の藩際とし てつねに隠然たる勢力を持っており、伊達家の重大事には怠 見を述べた。この 一 門が藩主後見になると、同様の権力を持 っ た 他 の一門が容易にこれに反撃できるので、そもそも大波 紋な家中騒動へ繋がりゃすい体制だったのだという。 吏に、元禄 六年(一六九三)の 四代藩主綱村諒 言 に 関連し て一門が注目されている。これは綱村の近習重 用政治 に反発 する奉行・一門が連署して諌言状を提 出 したもので、綱村は 態度を改める旨の直筆書状を認めている。﹃宮城牒史﹄は、 これを﹁綱村が一門衆の圧力に屈した﹂と解しており、﹁ 仙 台市怖における一門勢力の独特な存在広義を示す﹂ものとして いる。また 、綱村政 権そのものについて、綱 村 は務主権力集 中、官僚機構育成に努めたが、一門以下の保守勢力がきわめ て強く、﹁綱村の能力不足から一門勢力との対決において常 に屈服を余儀なく され﹂た 側面がある と す る 。 また、次の五 代 務 主 土 口 村 の 治 此 に つ い て ﹃ 宮 城 脱 史 ﹄ は 、 ﹁一門衆の反撃﹂をよく抑えて財政の再建に全力を尽くした と評価する。さらに吉村の試みた大改(領内総検地)が一門 を含む各方面の反対を受けて中止となったこと(享保十年 ( 一 七

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五 ) ) に つ い て は 、仙 台務におけるご 門 を牙城とす る保守勢力の根強さしを示すものとする。﹃仙台市史﹄は吉 村の政治について、﹁ 一 門 衆 に 対しては家臣というより﹁客 人﹂として過することを心がけ﹂、悦直に対処したとしてい る 。 吉村期以降では、宝暦六年こ七五六 )の三奉行の更迭 、 安永 二 年 ご七七三)の安 永事件への 一 門の深い関与が注目 さ れ て い る 。 前者は、七代務主重村への代替わり直後、後見の 一 関滞主 田村村隆が奉行らと 一 門伊達安房 ( 村 実 、

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理)の協力を得 て奉行衆の人事刷新を断行しようとし、他の一 門 も人事刷新

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案を提出するなどして、結局 刷 新の 一 環として 三 人の奉行が 罷免された事件である。これについて﹃宮減収史﹄は、﹁非 常時における一 川 勢力の発言は、後期においてもきわめて強 力で 、 藩政を左右﹂したとする。﹃ 仙 台市 史 ﹄は、これを一 門が﹁事行衆の対立に乗じ るかのように 、部数に介入 ﹂して きたものと解釈する。 後 者 の 安 永 事 件 は 、 w 右老葛西三郎と番頭 川 島勘兵術が 一 門 伊達安房(村好、亘理)、伊達数馬(村宮、岩谷堂)と結託 して当時の奉行らを罷免し、しかし最終的には奉行職を望む 詰問らの陰謀事件として処断された事件である。﹃ 仙 台 市 史 ﹄ はこれについて、葛西らには数十名の同志がいたことを指摘 し 、 安 、 氷 事 件 は 家 臣 聞 の 一 部 が 一 門 衆の力を借りて準行衆の 責任を 間 い、務政の転換をはかろうとしたものとして理解す べきとの指摘をしている。 以上のような各事件における一門の評何から、先行研究は 一門を以下のように説 明 す る 。 ﹃ 宮 城 牒 史 ﹄ は 、 仙 台藩一門 は帝政の役職に就かず、前接務政に参与することがなかった が、いわゆる 伊 達家の帯扉として重きをなし、藩政の非常時 にはもっとも強力な発言権を発却し、しばしば帯主権力を制 肘したとする。そして 一 門は﹁伝統的に保守的な性絡をも ち 、 仙 台藩の保守勢力の根元でもあ っ た ﹂ という。﹃仙台市 史 ﹄の評 価もこれ と大きく異なら ず 、 一 門は役職に就かない が家 中 騒動や務主専横に際しては発言し 、 ﹁藩政に大きな影 酬 習 を 与 え 、 と く に 江 戸 時 代中 ・ 後別には滞政改革に反対する こともあり、保守的立場に立つことが多かった﹂としている。 また、一門そのものに焦点を当ててなされた数少ない先学 としては、吉田点夫氏の研究がある。吉 田 氏 は 、 一 門を務政 に関与しない存在と見倣してきたそれまでの仙台藩研究、さ らには、官僚組織の外部にあって幕府や滞を支えた御 三 家や 一 門衆等の役割を看過してきたことをお務政治史研究 の 問題 として指摘している。これについて、氏は先述した元禄六年 の諌言を事例に、一 門 の役割について ご 門 衆は官僚組織の 外にあって帯主と官僚達を監視し、﹁御家しの安泰を危うく するような務主や、職分を果たしていない官僚に対して、諌 一 一 = ロ ・ 江見をして藩政を正常化し、﹁御家﹂安泰をはかる役割 を負っている﹂ことが務主と家臣聞の共通認識としてあった との挑測を述べている。同氏の研究は、それまでお過されて きた一門の役割に注目し、これについて一定の指摘をした点 で 意 義 が あ る 。 先行研究における 一 門の拙かれ方は、おおむね以上 の よう である。まず指摘できる傾向として、 一 門 が藩主や奉行に対 . して反発するかのような行 動を取 っ た 事件への注目が目立 つ ことが挙げられる。さらに、 一 門の政治的行動を為政者との 対決とする見万、政治運営 の 場に 一 門権力が介入することは

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異常であるとする見方が常に考察の前提に横たわっているこ とが指摘できる。これらが考察の視野を狭め、一門の政治的 行動について為政者との対立的な 側 面ばかりが注目され、他 への注目が疎かになっている。この 前提 を取り除けば、一 門 の行動のより多くの側面が明らかになる可能性が考えられよ

以上のように、一門が藩政の中で持った存在意義について は 、 研究 の 余地 が多分に残さ れ て い る。次章以降の論述は 、 このような 研究 状況を背対に行うものである。 第二章 一門の存在意義 一 門 は しばしば藩政に大きな影響を与えたが、藩官 僚機構 には包摂さ れ ず 、 帯 政 に携わる資 格を官僚制 によって保 証 さ れているわけではなかった。では 、 一 門 はどのような立場と 論理で務政に 関 与する存在であり、それは藩政の中でどのよ うな役割を果たしたのか。本平ではこれを史料から読み取っ て い く 。 第 一 節藩政に参与する存在として こ こ で は、先 行研究で注目されがちであった藩主諌言 、 奉 行更迭など特妹性が向いと考えられる事例だけではなく、 一 門 がより頗繁に行っていた務政への 批判 や意見の提示を考 ・摂 す る 。 一 門が務政 への関与を志 向 するきっかけや関わり方 、 さらにそれがどのような効果を持ったのかを明らかにし、務 政 に と っ て 一 門 がどういう存在であったのかに迫りたい。 史料①は、平保十年(一ヒ二五)に 仙台 務五代務主伊達吉 村 が試みた﹁大改﹂ 、 すなわち似 内 総検 地 を話題とした二人 の 一 門 聞 の 文 也 で あ る 。 ︻ 史料① ︼ 別て致啓達候、此度御分領中大改と申儀被仰付候由に付、思 召之品﹁に﹂(々カ)委制被 仰聞悠 一 々 致及知、御尤之歪御 同意(ニ脱カ)が存候、(中略)右 仰出候苫付 を以見 申 候仰 は無余 儀事に御座候 へ共、如仰 御国中 之蝶動 御 為に相成 間敷 候様に計被存候 、 先頃在府之節より此儀は唱上候も御座候様 に、御分領 中江御 竿被相入儀には無之 、 不分明之処計被 相 札 御竿被相入との儀に候 、 ( 中 略 )も はや栗原郡より始りと相 みへ、息知行所へも 御 代官より家来共へ之附屈も有之候、 ( ・ 中 略 ) 先以当分は 一 国 中之喋動至て士民之痛に罷成候儀不 可﹁紛﹂(然カ)候、左候得は却て 御国制之 害にも可相成と 存候 、 ( 中略)年貢等被召上候得は畢克上之御利欲之方より 発 、此度改 て 御園中 へ 御 竿 被 相 入との気味合に段々ひびき 、 末には公儀江 御伺 等不被相連不相成訳にも成行、勿論先きに 中儀申候御伺之 筋 後にも龍成、御さわりにも可相成候哉、将

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6 文 上江御 達 候上は御むす び高にも 相成候は L 、此段共に御 為 御不為 之方も 可 有 之 、 ( 中略 ) 内 々 は 御仲間衆中より 一 応 奉 行衆へ被 相 違万かと色々了間仕候 、 ( 中略)駿河雌 ( 石川村 満、角 田)安房殿( 村 成 、 亘 理 ) へ は 此方 よ り 直 々 申 達 候 問 、 左兵衛殿(村隆、岩谷堂)主殿々(村隆の子村常 、 岩谷堂) へ は貴様 より此段 被仰通候僚に と存 候 、 ( 後 略 ) 三 月 八 日 蝉 正 け 最 . & 創 刊 -出 羽 織 文中に﹁此度御分領中大改と申儀被仰付候由に付﹂、﹁もはや 架原郡より始りと相みへ﹂などとあり、この文川の発給時点 で 既 に 大改の実行が発表され 、 実際の 作 業も 一 部開始されて いることが分かる。この時点で、 伊尋弾正 は大改が﹁圏 中之 燥動﹂をもたらす危険性を指摘して 、 ﹁ 御 仲 間衆中より一応 奉行衆へ被相達方かと色々了間仕候﹂、すなわち大改の問題 性を奉行に伝えようと考えていることを明らかにする。文末 ではこの議題について蝉正、出羽から他の 一 門 へ伝達されよ うとしていることが分かり、この吟味への参加者の拡大が企 図されている。伝達がこの通りに実行されたことが確認でき る史料も見え 、史料 ①における伊達部正らの発議によ っ て 、 一 門内 で大改に 閲 す る意見提 出 の 吟味 が 開始 さ れ た ことが確 認でき る 。 こ の 吟味 の 結果、大改 へ の 意 見 が 公 式 に 一 門 の意見とし て 藩首脳部に提 出 された綴子を読み 取 ることができる史料は 、 管見の限り残っていない。ただし、あくまで個人の意見とし て 提 出 さ れ た も の で あ る が 、 伊 達弾正(村泰、岩 出山 ) か ら 奉行の

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理石見へ内々に伝えられた大改への立見として史料 ②が残っている。一門の 中に大改 反対の 動き があることは奉 行らの了解の範間にあ っ た だ ろ う 。 ︻ 史料② ︼ ( 前略 )不分 明 の地計り 御 竿 相入れ候 筈と 御座候 へ共、右の 通り、村々告人前切に水帳へ引き合せ申し侠織にと御座候 問、御 問中残らず、何からにても水帳へ 引 き合せ申す儀に候 へば、御国 中残 らず竿を 相入れ申 さず候ては 、切 添余計等 相 知れ申さざる筈に御座候(中略)若し又 、 公儀へも御内々に 仰せ 述せられ 、相 改め ら る 儀 に も 御 座候哉 、 ( 中略 ) 公儀ま で 仰 せ連せらる儀とは相聞え中さず候へば、土民共に何万に ても帰服 仕 らざる鎌子に御座鉄、( 中略 ) 切添 等、自分とし て仕り候儀は罷りならざる御大法に候へば相札され、切添余 計これある分召し上げられ候共、其の段余儀なき御事に 相聞 え 巾 し 候 へ 共 、

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姓は余計の 地 これある所を以て、凶年に 御 座候共渇々相続、尤も年目、使役等も滞りなく相済し申すべ き儀に御座 候 、 ( 中 略 ) 百 姓、給 人に切添余 計を御領地に遊

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ばされ、年貢を召し上げらる儀に候はば、畢寛、上の御勝手 計りを専に遊ばされ候儀、(中略)御利慾を御企て遊ばされ 候方に相聞え 、 土民なげき申し候様子各線御存知なられまじ き 哉 と 存 じ 奉 り 候 、 一 水帳へ引き合せ申すと御座候ても、御学相入れらると の こ とに相聞え、末には大改め仰せ付けられ候節、公儀へも御内 々に相伺はれ候方に躍りなり侠はば、( 中 略 ) 余計地 の 分 如 何様に公儀御沙汰申し来るべく快哉、文御伺なく斯様の大儀 遊ばされ候ては、如何御座あるべき哉、此の段存ぜざる御事 に候へば、至って御為御大切の御事と存じ奉り候、 一 斯 様 の 儀は、御役目柄に御座候賞鉢線へも申し上げ がたき 筋に御座候へ共、士民の様子、存入りは委細相通詞かね候事 も御座あるべき哉、押へ置きて喋動安 心 仕らず候犠、御心得 にも罷りなるべきかと申し 上 げ候 、 ( 中 略 ) -什袋、日出山 ヤ 三 月 十 一 日 伊達弾正 石見様

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結局、この大改は各万面からの反対に辿って享保 ト 年ヒ月八 日 に中止となったが、史料①の史料に見られる一門内での大 改反対の気運も背景に含まれていたものと考えられよう。こ のように、一門が自発的に生み 出 すな見が務政に影轡するこ とがあったのである。 事例をもうひとつ見てみよう。史料①は、享保 一 五 年 ( 一 七 二 一

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)

から 十七年 (一七三二)ごろの文 苫で、内容は家中 への手伝金の賦課方法を工夫すべき旨を進言することについ て の 一 門 内での発議である。 ︻ 史料③ ︼ 此度も定て白上御手伝可被仰付哉と血中存候、然処数十年何や かやと御手伝被 H 口上候御家中に候へは、至て困窮ひしと躍成 候、縦被仰 付 候上にも色々訴等も被相出、御国中之燥動にも 及申犠総計、却て御為にも不相成筋に可能成候哉、一分/¥ 之御手伝へ指上候ても御作事之御間に合申程には罷成間敷 今 d 候、左候得は御家中にも大進小進御座候﹁共﹂(得はカ)、大 進より計被召上小 進何 貫文以下は被相除候は L 御家 中 も相続 可仕と申上候方可然哉、(中略 ) 、御家中小進之輩大勢に 御 座 候得は被相救候様に被 ﹁ 存 ﹂ ( 遊 カ ) 候可然御事と可被仰 上 候哉、此段御了間可有御座儀と存候(中略)、此末不服之御 用等之節御手伝被仰付為にも、此度之儀は先は経き者御容 始、御家巾之相立候様に不被遊侠得は御為に不相成候と乍仰 存市首之儀申上候と被仰上万にも可有之哉、御手伝折上可申と 申上候よりは上之御為、且は御家小之為に吋龍成所と専一に 中上度儀と 州 者共はお中存候、色々吟味仕候 へ 共 中 ム ベ 以 早 速 鰍 相極め何様に中上候方 可 然哉、(中略)各様﹁御商売﹂(御内

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8 立カ)之趣被仰聞可被下候、上野事頃日岩出山へ龍越相談仕 候 条 、 以 連 名 ・ 申 達 候 事 御 座 候 、 恐 憧 謹 言 、 内 U H H . 氏 恥 コ 白河上野 二 月十六日 伊達弾正 伊

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伊IJf:Jl~伊口 達司述・

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殴き京的羽I(江主 様 綴 様 様 人 ・4 御 中 追 一得、近江殿御伝所は御近所に候故、近江殿迄今日以飛脚中 連候、段々近江蹴より被仰近候織にと奉存候、以上 文中に﹁数十年何やかやと御手伝被召上候御家中に候へ は、至て困窮ひしと罷成候﹂と見え、この発議は 、 度重なる 手伝金で、家中が困窮している状況を踏まえて行われたもの 四 ﹄ であることが分かる。 ここまでの二つの事例を見ると 、 一門は政策が発表或いは 実行された後で、その時の状況を見て政策に対するな見提 出 の 検 討 を 始 め て い る 。 一 門は、離政の運営は基木的に滞 主 や 務官僚に委ね、発表された政策および実行されつつある政策 について問題を発見した時にその指摘や意見提出に踏み切る ょ う で あ る 。 さらに、史料③では、﹁ 此 末不雌之御用等之節御手伝被 仰 付為にも、此度之儀は先は峰き者御山廿捨、御門家中之初立候 様﹂とし、今後の必要に耐えて今回は 小身 の者には手伝金を 容赦することを提案しようとしている。一門は単に政策につ いて問題を 指摘 し反対するだけでな く 、改善策 の提案をする ことがあ っ たのだ。これは後 山 の 史 料 ④ 、 史料 ⑤ にも見られ る 。 次に、史料④に注目する。年 代 は宝永から正徳年間

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1

一 七二ハ )の も の と 思 量 さ れ る 。 七 ︻ 史 料③ ︼ ( 前 略 ) 一 奉行衆より宿継を以過る 十 一 日 ノ夜到来 申候紙面 井御返答 候 写 被指越 品 々 ﹁ 下並之 ﹂( 被 一 不 問 カ ) 通 致 及 知 候 、 松 山 別 総 阿 当 地 へ 館下我等に被中 間候 段々無存知候分御後拶之旨尤に 存候、先 日申進 ﹁ 之 ﹂( 候カ)通松岡 へ も 申 含奉行衆へ我等 存念申達候 処、催合 米 一 円被合返 候様には先立考之通にては 成液中候、何色々出入司衆へも吟味被申付候得 ﹁ 共 ﹂ ( ハ カ ) 十年切取立十 一 ヶ 年 め に被相返候様に永々辿仕候 へ は 一 円に 相 返 候 儀 罷 成 侠 由 、 ﹁ 仇て ﹂( 只々カ ) 考奉行衆へ相達候処 一 段可然候 、我 等共 同列 衆 中へも申 達候処(ニ 脱カ ) 何 も奉 行

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中了簡御同意候、我等は如何存候哉、又以承度由奉行衆被申 付候由にて、松岡方より過ル 十 日 申 来候、就夫了間申候処、 十年切被相改候得は被相返候儀は﹁仕﹂(能カ)候へ共、 ト 年 相出候 さへ不軽儀絡 可 申 候 処 、 永 ん え 泊 右 之 通 と 有 之 候 儀 、 連々御家中も姉、其上、氷々と有之候へは御先代﹁へ﹂(にカ) も無之 一 役御家に被附世と 申 す儀御為不可然様ボ存候、最 ﹁ 善 ﹂ ( 品 川 カ ) 之 考 之 通 に て は 十 年 分 一 円被相返 と申儀不相成 候 は は 一 一 三 ヶ年分は不被 相 返 候 共 無 是 非 候 、 若文繰合不罷成 ﹁ 継 ﹂ ( 縦 カ ) 十 年 分 一 円 不 被 相返候共、永 々 と 有 之候よりは 御家中摘 も軽 、尤異儀 も 有之間敷と拙子は愚案放 か存候旨品 々文以松岡方へも致返答候 、 ( 後 略 ) h H 疋 ・ A 開 ο -伊達安芸 ( 花 押 ) )¥、 伊

A

月 達手十 六本七 郎さ日 殿 ここでは、﹁催合米﹂という政策が話題になっている。安 芸によれば、﹁最前怯岡当地へ健下、我等に被申間候﹂﹁松岡 へ も 申 含移行衆へ我等存念 申達候処 ﹂とあり、総岡という役 人が涌谷を訪れ催合米について伝えており、安芸はこれに対 する立見を絞岡に託した。さらに、この安芸の立見を受けた 出入司 が催合米の詳 細 を吟 味 し 直 し 、 その結果が奉行の了解 を得たことも分かる。その後﹁ 我等共御同列中 へも申達候 処 、 何 も奉行 中了間 御同立候﹂とあり、奉行の了解を得た案 が 一 門に伝えられ、同意を得た と い う 。 注目されるのは次である。さらにこの後、﹁我等は如 何 存 候哉、又以承度候白血中行衆被申付候由にて、絞岡方より過る 十日中来候﹂とあり、安芸の意見を 附 くよう本行衆から命じ られた絞岡が 澗谷 へ連絡したことが述べられているのであ る。また 、文明には ﹁事行衆より宿継を以過る十 一 日の夜到 来中候紙而汗御返答候写被指越﹂とあり、安芸のみならず伊 達六郎へも 催合米に ついて手紙による伝達があり、六郎も何 らかの返答をしていたことが分かる。 こ の 事 例では、催合米に ついて奉行 ・ 出 入 司 側 か ら 一 門の 意見を収集しようとする姿勢が見られるのだ。 さらに 、後 の経過を読み取ることができる史料①に注目し て み よ う 。 ︻ 史料⑤ ︼ 先頃以川 状 委 細御相談仕候御 家中催合之儀 ( 小略 )右之有 地 安芸殿え新左 衛門万よ り中達候、以後猶吏私共吟味仕候処、 姶 ヶ年切にて不成被 相返快方は能有 之候得共、又以 打返 / ¥ 永々催合相 出 快儀如何可有御座と儀定不仕候処へ、安芸殿よ り新左衛 門所 へ 被 仰下侠 口 問 ん て私共追て心付吟 味仕候通え 出 合申候般、兎角両様共に奉伺可然と吟味仕、(中略)右似合

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之仕形之儀に付て最前各様え御相談仕候趣井追て吟味仕候両 品共に委細に被聞召属候、(中略)姶ヶ年程にて一 ニ ヶ年分計 被相返候儀は如何敷被思召候得共、其段は不及是非候、捻ヶ 年程候へは、年数之限り有之事故、御家中之痛も蒋可有之様 に被思召候、其上 無之儀永 々御家 中 よ り 相 出 候 様 に 被 仰 付 候儀は不宜被思召候条、 一 向最初之吟味之通十ヶ年内外に て 非 相止候 方 可 然 被 思 召 候 、 ( 中 略 ) 恐憧謹 告 一 回 、 八月廿日 ハ U ( 中略 ) 六

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様 大町将監 頼直 ( 花押) 葦名刑部 盛連 ( 花押) これは奉行衆より伊達六郎宛の書状だが、史料④時点で伊 達安芸が松岡へ提出した意見のその後を知ることができる。 まず史料④によれば 、伊達安 芸は 、 つ氷々と有之候へは御先 代 ﹁ へ ﹂ ( に カ ) も 無 之 一 役御 家に被 附置 と申す儀御為不可 然儀奉存候 ﹂ 、 すなわち永続的な催合米は先代には無かった 役を家中に課すことになるから問題であるということを指摘 した上、﹁十年分一円被相返と申儀不相成候はは 一 三 一 ヶ年分 は不被相返候共無是非候、若又繰ム同 一 小罷成 ﹁ 継 ﹂( 縦カ)十 年分 一 円不被相返候共、永々と有之候よりは御家中痛も軽、 尤呉儀も有之間敷 L 、すなわち 、 たとえ家 中 の支 出分全額の 返済が叶わなくても、催合米の徴収は長引かせない方が家中 のためであるとのな見を奉行に提出した。 史料⑤によると、この意見は務主吉村による吟味の場へ提 出 さ れ 、 士 口 村 は ﹁ 、永んベ御家中より相出候様に被仰付候儀は不 宜被思召﹂﹁ 十 ヶ年内外にて被相止候方可然 ﹂、すなわち、長 く家中に支 出 を強いるのは良くないので、 催 合米は十年前後 で停 止 すべきという考えを示した。伊達安芸が提出した意見 が採用されたのである。奉行から 一 門への藩政に閲する諮問 と、それに対して提出された意見が、最終的な務政の展開に 反映された事例と言えよう。 本節では大きく さ 一つの事例を見てきた。これらにおいて注 目されることは、 ( 一 )一門は政策が発表されてからこれを 審 議 し 、 問 題があると判断すれば芯見提出へと動いたこと ( 二 )一門は反対ばかりでなく改善策の提案をすることがあ っ た こ と 、 ( 三 )藩役人側から一門へ政策の実施前に諮問す る場合があ っ たこと、(四)これらが政策のあり方を左右し、 落政に影響を与えたこと、の四点であろう。藩政はいつも一 門に注視されており、問題があれば意見を受け、あるいは意 見を求める可能性の中で運営されていたのである。 一 門は官

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僚として藩政を主導することはないが、政策の内容または実 行の是 非 の決定に参与し 、また 参 与を求め られ得る存在であ っ た と 言 え る 。 第二節﹁公儀﹂の規範に基づく藩政批判 前節 で 見 た よ う に 、 一 門 はな 見捉山 や諮 問 へ の 応 答 に よ っ て仙台務政に参与する存在であった。では、一 門 はどのよう な基準や規範に基づいて務政を見ていたのだろうか。これ は 、 一 門 が立見を提出することで 仙 台務政に及ほされていた 規制や影仰の基本的な性格を決定するものであったはずであ る。本節では、一門の意 見 の 中 に見られる特徴に注目して、 その一端を 明 ら か に し た い 。 今 一 度 史料①を見てみよう。この中で差出人の伊達弾正 は、告知された大改の内容と実際に行われている大改の内容 に阻餅があること 、 上の 利欲 か ら 出 た政策のように見えかね ないこと 、 大改の実施が 幕府 の知るところとなった場合帯の 地役に つながること等を大 改の問題点として挙げている 。 弾 正がこれらを問題とする理 由 に は 一 打 性がある。それぞれ の 箇所 で 言 葉 は 多 少 異 な る が 、 抑正は こ れ らの政策が﹁土民之 桁 ﹂となり﹁ 御問中之

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動﹂に繋がることが﹁不成御為 ﹂ で あるという趣旨の主張を繰り返し 、 懸念を述べているのであ る。これは、奉行に 提出 さ れ た 文 市 円 である史料②の 中 でも同 様 に 述 べ ら れ て い る 。 手伝金の 賦課 方法が話題となっている史料①でも 、 家 中の 深刻な困窮によって﹁訴﹂が起き﹁御国中之喋動﹂となる 可 能性を危恨している。後に挙げる史料@にむ同僚の論法が見 ら れ る 。 一 門 が滞政 批判 の際にこの点に拘る 背景 には、近世社会に おいて武 士 を支配者たらしめていた、天道思想に基づく﹁公 儀﹂慨念と、これに伴う﹁仁政﹂ の 思 想があるように忠われ る 。 ﹁ 公 儀 ﹂ ﹁ 仁 政 ﹂﹁御家﹂の思想については、 田 原 嗣 郎 氏 、 朝尾直弘氏、深谷克己氏の研究に詳しい。近世において﹁公 儀﹂と呼ばれた幕府や大名家は、﹁天﹂から国や領国を預か っ て お り 、人民に ﹁ 仁 政 ﹂ を 施 す 義 務 を ﹁ 天 L に 対 し て 負 う 。 大名家の場合 、 さらに幕府からも領国を頒かっているので 、 ﹁天﹂だけでなく 幕府 に対しても 同 様の 占 任 を 負 っ て い る 。 領内騒憂があれば大名は﹁仁政 ﹂を鈍していないものと 見倣 さ れ 、 ﹁ 公 儀 ﹂としての資絡を失いその地位を追われる理 由 が 成 立 す る 。 大名家にとって、これは 松 も回避すべき 恨態 であったと考 え ら れ る 。 一 門 の主張は、﹁御国中之蝶動﹂を引き金とした 大名家の﹁公儀﹂の資 絡 喪失という、誰にも軽んじることの できない危険 性 に訴えることで正当性を獲得していたのであ

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12 る。これが 一 門の主張が ﹁ 公儀﹂の規範に基 づ いている第 一 の背景として指摘できる。 さらに 、 以下のような 田原氏 の指摘がある。自らの仕える ﹁ 御家 ﹂ と運命を共にする近世の大名家家臣にとってみれば、 ﹁ 御 家 ﹂ が ﹁ 公儀﹂の資格を失うことは、則ち自らの武士身 分の喪失をも意味したということである。 ﹁ 御家 ﹂ が ﹁ 公儀 L の 規範 を犯していると見倣されかねない行動を取ろうとして い る 時 、 仙台 帯一門を含む近 世 の家 臣 にはこれを止める必要 が発生するのである。 一 門 が ﹁ 公 儀 ﹂ の 規 範 に 訴 え る こ と は 、 主張実現のための正当性の担保としての解釈もできるが、田 原氏の指摘を踏まえれば、必ずしもそれだけではない。 一 門 は家臣として、自らの帰属する﹁御家﹂の存続そのものを求 めており 、 これが﹁公儀﹂の規範に基づいた務政 批判 を行う 背景のもうひとつとしであ っ た の で あ る 。 以上のような背景から、一門は基本的に寸公儀﹂の規範に 則って務政を批判していたと考えられる。一門による藩政批 判は、﹁公儀 ﹂ の規範やそこから派生する ﹁ 仁政 ﹂ の思想に 沿うよう藩政を 制 約 し 、 一定の軌道修正をもたらす装置とし ての性格を持っていたのではないだろうか。特に、務官僚機 構に包摂されず、役職上要求される現実的な責務や昇進志向 から自由な 一 門は、藩官僚よりも純粋に﹁公儀 ﹂ の規範に沿 った批判ができた可能 性 がある。これは、家 中と 領民の困窮 や反発、幕府からの後めに繋がると予想される政策をある程 度 抑止 していたと考 え られよう。この点で 、 務官僚機構の外 側にある一門からの意見は、単なる為政者への反発に終わら ない側面を持 っ ていたと評価することができる。 し か し 一 方 で 、 ﹁ 公 儀 し の 規範に基 づ く 一 門 の 意 見 は 、 一 定のリスクを負 っ ても実行する価値のある大胆な政策の実行 をも制約してしまう側面があっただろう。 一 門の行動や意見 を ﹁ 保守﹂的とする評価は、この点に つ いてなされていると 言 え る 。 ところで、仙台藩とは異なり、他務では最高家格の家臣も 官僚機構に包摂 さ れ、官僚としての義務を負う立場にあ っ た 例も多い。片や仙台藩では、最高家格家臣である 一 門が官僚 的な義務から自由であり、比較的純粋な﹁公儀﹂の規範に基 づいた務政批判を、一定の権力をむ っ て 行 っ て い た 。 こ の 点 に注目すると、仙台帯は他の多くの務よりも ﹁ 公儀 ﹂ の規範 による制約を強く受ける構造を持 っ ていたという こ とができ るかもしれない。本稿では 他 藩の事例との比較研究にまで踏 み込むことができず、これを 仙 台藩独自の特徴として明 言 す ることはできないので、指摘のみに留めておく。 第三節一門の自己認識 一 門 は 、 ﹁ 公 儀 ﹂ の規範をひとつの基準として藩政を批判

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し 、 仙台藩政に一定の制約や軌道修正を加える存在であっ た。では一門自身は自らのな見行為にどのような独自の意義 があると認識し、どこに自らの存 在 意義を見 出 していたのだ ろうか。一門はこの存在立義を保てる行動を選択していたこ とが予想され、これは一門の政治的行動を決定する要素の一 つとなるものと考える。本 節ではこの点に注目して史料を読 み 解 く 。 史料⑤は、四代帯主綱村への諌言が話題とな っ て い る 史料 で、年代は元禄ト 一 年 ( 一 六 九八)から元禄十六年 ご 七

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一 ニ ) の も の で あ る 。 ︻ 史 料 @ ︼ ( 訪 問 略)奉行衆へ先以御 出 会御繰合之事承候上に、上えも被 仰上方可然かには存候得共 、 若上えも 申 上候に不及事に罷成 候は与、却て御為にも不罷成 、 むなしく罷下候様にも龍り成 候はた御為不宜事も可有之候哉 、此 段決定不罷成候、併何 も線御上府被成、御繰合之品々 一 桜町御問、其迄にて御下被成 候ても御為之 K M に相聞可 申 候は L 、 御 上 府 被 成 、 向 山 慨 に も 御 吟味被成可然と本存供、左悌候ては 御 以下にて御 一 門 小 御上 府、捌ん吋能事と可申候所、龍下以後 何 之 持 市 中 も 無 之 時 ハ 、 御 一 門中何に御堂候哉、今時金を泣に御登候哉、御 一 門中内福 と柑見候なと L 明中候時ハ、御一 門中 御身分ハ免も角もニ候 得共、左様候てハ 何 事も御座候節者、御一 門 衆 / ¥ と 何 も 申 居候所二、御一 門 衆之甲斐も無之と申時者御為不宜方ニ可有 之哉、( 中 略 ) 十 二月二十五日 川 V 4 k d , 比 M 幽 F あ き 係

穏 正r;t この文 小 で伊達制作正は、一門による諌言が務政を改められ なかった場合について 、 ﹁ 御 一 門衆之巾斐も無之﹂という評 価を人々によって下され得るという危快を述べている。すな わち、伊達弾正は務主の意向や務放を変えることができると い う 点 こ そ 一 門 による諌言の﹁甲斐﹂だと認識しているので あ る 。 ま た 、 伊 達 弾 正 は 一 門 による諌言の﹁甲斐﹂なく藩政が変 わらなかった場合、﹁御為不宣﹂ではないかとも述べている。 士民の不安堵は 、前 節で言及した﹁領内騒憂﹂、帯主家の公 儀としての資 絡 喪失の火種として危供されているものと考え ら れ る 。 一 門 は、現行の藩政が﹁御家﹂に危機をもたらす可 能性がある時、自らが帯政の軌道修正を実現し﹁御・家 ﹂を 守 る力を持つことを主要と与え、向らの存在意義のひとつと捉 えていたのではないだろうか。 次に、史料②に注目する。ここには、もうひと つ の 興味深 い 一 門 の芯識が表れている。大改の問題性を指摘するこの文

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14 書の中で 、 伊達蝉正は奉行 一 回 一 理 石 見 に 対 し 、 ﹁ 諸 士 、国民の はなれ 申 す儀を御取立てなられ候ては、由夫、御為にはこれあ るまじく 、 畢克、御利慾を御企て遊ばされ候方に相聞え、士 民なげき申し候様子各様御存知なられまじき哉と存じ奉り 候﹂、また別の箇所では﹁斯様の儀は、御役目柄に御座候貴 鉢様へ申し上げがたき筋に御座候へ共、土民の様子、存入り は委細相通じかね候事も御座あるべき哉﹂とし、 亘 理石見を はじめとする奉行らは士民の様子や考えを理解していないの ではないかと述べるのである。 仙 台藩は地方知行制を採る藩である。一門は基本的に自ら の知行地に滞在し、その領 主 として在地支配に当た っ て い た。奉行よりも自分たちの方が ﹁ 士民の様子 ﹂ を知っている ことを灰めかすようなごの 一 文には、士民に援しながら知行 地で実際の支配に 当 たる領主としての一門の自負が表れてい る。同時に、仙台に駐在する藩官僚は地方の土民の様子に陥 いという 一 門の認識も読み取れる。一門は、このような自負 と役人に対する認識を背封に、仙台駐在の藩官僚に対して土 民に近い者の 目 から見た立見を提 出 できるという点を、自ら の意見に特有の意義として認識していたのではないだろうか。 以上の考察から 一 門は、必要な時に藩政を変える力を持 つ 存在であること、在地領主から見た 土 民の様子や考えを踏ま え た意見を藩官僚に提示する存在であることを自らの存在意 義として認識していたと 言 える。一門はこのような自己認識 をひとつの指針として自らの行動ゃな見の内容を決定してい たと考えられる。 第 四 節 奉 行 を動かし得る権 力 として 一門は、土民に近い立場からの意見を務政に届けること、 藩政に必要な軌道修正もたらす力を持 つ ことを 自 ら の存在意 義とし、藩政への意見提出をしていた。本節ではさらに、 一 門の存在が仙台藩の武土等にとってどのような意義を持って いたのかに注目する。 史料 ⑦ は、宝暦六年 関わる文書である。 ( 一 七五六 ) ︹ N 習 の 三 奉行の更迭の準備に ︻ 史 料 ⑦ ︺ ( 前略 ) 然は、御当地御奉行中之様子、次第に不宜、日夜 心 労絶候事も無御座候、私儀昨日より思中にて引能罷有候処、 段土乎-寄之者私宅え招候て、様 子 承候へは、弥増募威品々手 を廻し、自分之立を立候様に相聞得候、一日も打捨置可申機 子に無御座候、然は急に飛脚相立得民立候、(中略 ) 何卒御 目付衆被致若候には無御構、 一 日も早ク御登リ被成候様奉存 候、尤も其節中島伊勢御同道可被成候、尤貴公にも決て御引 立被成候事には無御座候問、随分御人数不足にて穏便に被成

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御堂、御物入等も無之、無滞御用御 仕 廻被成候こそ、此上之 御忠勤不過之奉存候、 ( 中略) 閏 伊日十 達古一 安Iτ月 房空朔 様 日 田 村下総守 村隆(花押) 田 村村隆は江戸で 一 部奉行の処断を実行しよう 伊達安一房に対して江戸へ上 っ て これに参加して くれるように要請していることが分かる。伊達安房は最終的 に 江 戸へ上 ることを決め、間十 一 月の奉行罷免の際、伊達安 房の参加は実現している。 この事例において、田村村隆らは奉行と後見人に 加 え 、 ﹁貴公にても決て御引立候事には無御座候﹂として 、 特 に 一 門伊達安房の参加を求めている。当時襲封したばかりの藩主 重村は 十 五歳と若年であり、この時仙台務は事実上の藩主権 力不在の状態にあ っ たと言える。この状況で、帯官僚機構の 頂点に立つ奉行を処断することは 、 後見人と 言えど 容易では なかったであろう。そこで田村村隆らは 、 一 門を自らの味方 として同席させることで権威と正当性の強化を図ったのでは ないだろうか。一門は奉行の罷免を正当化する存 在 として期 待され、その権力を利用されているのである。 先述の安永事件も、 一 門以外の武士が奉行の弾劾、 こ の 中 で 、 としており 、 罷免の ために一門の権威を利用した例として挙げられる。 次に、少し性格の異なる事例として、史料③に注目してみ よう。これは党政九年(一七九七)六月二五日 、 一 門伊達安 芸(村常、涌谷)、伊達式部(村幸、登米)の仙台屋敷に投 げ込まれた落文である。 落:史 文;料

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伊達ノ御家御譜代御家 中 共 { 村 常 、 涌 U -安芸殴 A HV 佳本-式部殴 乍恐奉願候御事 (中略)御政体之儀、皆以士口実之外之儀は御奉行衆方御存慮 のみ専ニ被相行、(中略)善悪ニ付拙者体之諸願極 困 窮之次 第之儀は夢にむ屋形様奉達御開ニ候儀辿は骨て無之、品々御 奉行衆 ・ 出入司とも之相続むき繰合安キ様に計り御取計被為 成候ニ心なきものは相心得居申候、拙者体申上候儀は柳御取 揚無之、渇死仕候をも不被相考、無拠是則前文之姿ニて残懐 至極に候得共、御譜代之儀こも候得は歯をくいしはり居、是 迄打過候 、 此上如何様とも家 内 ヲ養 可 申 様 相 聞 之 、 無 拠 仕 合 御 座候処、安芸世 田 式部殿にてハ当時御登仙中之儀、第壱御家 願 書

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16 随 一 之御譜代之儀に候得は、此節捌者体父母妻子まて之極難 渋ヲ被 相 救被下世候様急度御吟味被成下度 奉存 候、仰は屋形 様達御耳ニ候も同様奉存候て奉願候、御自分様方御吟味も被 相尽、江戸表え急速御登被成下、御貢献之御親類様かたえ被 仰上、如何様 こ か 拙者体御救被成下、父母妻 子迄ヲ義 、何様 ニ か 渇死も不為仕、御国家喋勤 こ も 不相 至 様仕候て、御家 二 御奉公申 上 、永ク家内安堵仕居候様被成下度奉願候、 ( 中略 ) 家 列 有 之 者 六 拾 壱 人 党政九年六月廿五日 在仙大番組 御給 主組 ( 後 略 ) 八百弐拾人 弐拾弐人 差出人は、﹁家列有之者六拾壱人﹂を初めとする大変な数 の家臣らがこの落文に同心していることを訴えている。文書 の内容は、奉行衆 ・ 出入司らによる現行の務政への不満と、 これによって家中が深刻な困窮の中にあることの訴えであ る。この文中に、﹁安芸殿、式部般にては当時御登仙中之儀、 第 一 御家随一之御譜代之儀に候得は ( 中略 ) 難渋を被相救被 下置候様急度御吟味被成下度奉存 ﹂とあり 、落文の受取手と し て 一 門伊達安芸、伊達式部が特に選ばれて いることが分か る。この落文を作成した武士らは、奉行らの主導する藩政の 転換を実現できる存在として一門に期待しているのである。 また、彼らは伊達安芸・式部を頼る根拠を﹁御家随一之御 譜代 ﹂である 由緒に求めている。さらに、﹁御屋形様達御耳 に候も同様奉存候て奉願候、御自分様方吟味も被相尽、江戸 表え急速御登被成下、御後見之親類様かたえ被仰上、如何様 にか拙者体御救被成下﹂とも述べられており、一門が務主や 親類大名に働きかけることのできる存在であることも、藩政 を動かす権力として一門が期待される理由のひとつとして読 み 取 れ る 。 この点からは、一門はその由緒や家格の高さ、藩 主家や 親 類大名との関係の近 さなどを 権力源とする勢力と見倣されて い た こ と が 分 か る 。 一 門は官僚制によって権力を保 自証されて はいなか っ たものの、それ以外の要素を背景に、官僚制に依 存することなくカを持つことができる存在とされていたので あ る 。 一 門のこのような特徴が、務官僚機構を外側から動か すことを可能にしたのではないだろうか。 奉行ら帯役人の主導する務政に対して、他の家中が不満を 持ち、藩政の変革 や奉行の罷 免などを望み主張する時、 一 門 の権力は彼らの主張の正当性の板拠として働いた。藩政の変 革を望む家中は、これを利用することで 一 定の権威や正当性 を獲得し、有効な政治行動や主張をすることができたと考え られる。時に奉行の罷免という形さえ取って務政の変革を促

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進できる権力として一門が存在し、これが自ら意見を発信す る だ け で な く 、 他 の家中の権力源としても利用され得るとい う事実は 、帯 首脳部への家 巾 の意見反映の可能性を広げ、家 中の反発を伴う政策の断行を抑制したと考え られる。ここ に、もう一つの一 門 の存在意義を指摘することができよう。 ところで 、 ここで上げた事例の年代のうち、宝暦六年(一 七五六) 、 寛政九 年(一七九七) はいずれ も 仙台藩にと っ て 若年藩主 期に 当たる。一門の権力は 、若年 藩主などにより滞 主権力が事実上欠落しているとき、 最 高執政権力となる奉行 を動かすことのできる数少ない権力となったはずである。重 村 の後 見人とな っ た 田 村村隆が 一 門 の権威を用いて奉行の人 事刷新を実行したのが好例であるが 、 一 般に帯主権力不在期 は 、 奉 行ら の暴走を防ぐ装置としての一 門権力 の重要性が 増 す時期であったと考えられる。 第三章 吉村期以降の一 門 さて、本 刷 での考 ・ 祭は、吉村 則 とその周辺の史料を論 拠 と した指摘が多くなってしまったところがある。よって、本稿 で 指 摘した 一 門 の姿は 、吉村期前後に特有 のものであり 、こ れ以降に変化していった可能性が当然考えられる。そこで、 本章で吉 村期以降 の 一 門 について不十分なりとも一定の展望 と可能性を示して本論を 閉 じるこ とと し た い 。 士 口 村 期以後 の 一 門 のあり方の変 化に ついて言及した先 行研 究として 、吉田真 夫氏の研究がある。氏は 、 享保十七年(一 七 三ニ)ごろ に発生した右京様格式 一 件に注目した考・祭の中 で史料⑨を 引 き 、 以 下のような指摘をしている。 ︻ 史料⑨ ︼ (前略)右京 様え御格式被仰出候に付 当 春 一 旦理石見よ り各 様 御心得にも可相成と告付写進上候に付何も御寄合被成候時分 御手前々々之 御格 式をも御吟味 可被成候、先 以 何 も致承知居 候様にと頃悶以 御廻 状被 仰問 委 細 致承知候、(中略)併いっ とても御登合之時分俄に御取立被成候ては何も無欠に御 揃御 登城被成候儀も稀にて御座候 、儲私存候者是非御吟味可被成 思召候はは大体御吟味筋も相知申事に候問、銘々御留守居共 に被仰付御家々之御格御苫立集め被指世、各様思召次第夫え 御了間古被相添被相廻被指位、御 登之 節 は決定之 御吟味被成 候はは早速弁可申様に存候 、 ( 中略 ) H m . 仰 向 休 伊達肥前 七 月 伊川伊

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伊日伊日二 連民連吋連平達主十 将1II~~);;安曲和水九 監き正出芸さ泉ぎ日 機 係 線 様

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18 な お / ¥ 此書状御仲間中不残可被相廻候、以上 追啓、私存念申達候、各様にては格式と申候ても 一 式一線に 可被成思召候哉、私は左様には不存候、公儀何え引張候儀井 当 時指 当御用に入候儀を御吟味被成候はは可然存候、或者上 より御使者等御座候時分之儀、御奉苫等之御詩文言又は拝領 物之御礼、総て上え指上候岐路文言、右之類御吟味可被成儀 か と 存 候 、 ( 中 山 崎 )右京様之 儀は別段之儀に御座候間只御 一 門衆中御絡 式に不相応と無之様に御吟味被成候筋可然存候、 心 附 申候間申達候、以上 、 七月 廿九日 御仲間中 ~ 主に傍線部に関わって、氏は次のような解釈と指摘をして い る 。 ﹁ 村興 の 意 見 を 総 出 納 すれば、( 中 川 町 )自分が不 相応であると思 う者だけがそれを改めればよいのであ っ て 、 一 門の格 式が全 て 一 律である必要はないというものになろう。(中略 )かつ て綱村別において 一 門がそ の序 列 や知行の 高低にかかわらず 一 致団結して行動を共にした姿とは大 きな 相違点を認める こ と が で き る 。 ﹂ 右京様絡式 一 件の時 の一門と綱村期の一門のあり方が異な 氏の傍線部の解釈には疑義 史料 @の意 見状 。 か認められる るのではないかという指摘だが 、 がある。次に錫げる史料から、 ま で の 経 緋 を 凡 て 勾 か よ う 。 ︻ 史料 ⑪ ︼ 和泉殿安芸蹴蝉正殿将監殿より御連名にて当月 三 日 御廻状 上 野殿より当月廿 一 円御日付にて以飛脚被相応岐、 ( 中略)正 月和 泉殿安芸殿弾正般将肢殿亘理石見宅へ 御見舞被成候節石 見申聞候は、右京様へ別紙御吉立之通御絡式被仰出候、各様 御心得にも可罷成候、右古 付 写 相渡申候処 当三月御参勤の節 も布苫付御仲間中御吟味被成侠哉と中 間候得共、聞 も無之御 相談も不被成候出御侠拶被成候、 六月 御法引に付御仲間 中 御 寄合之節御直談可被成と思召候処、和泉殿蝉正股御病気御差 支にて御登不被成御直談も不被成候 、此己後何時御出 合も難 計候問、何も御上府の節追は延引之間為御知被成候由、併何 も 一 向に御待合御直 談も不 被成侠はは能成間数品々委細欽承 知 候 、 ( 中略 ) 御仲間中む大勢之儀故御身分不相応之御絡式 有之間敷物にも無御座候問、(中略 ) 御直談之節とくと御吟 味被成可然儀と泰存候、恐位理 百 、 H 制 官 u 山 -伊達肥前 ー七 月 伊品廿 達平八 和水日 泉主 様

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安a 監崎正,~芸r 様 傑 様 ( 後 略 ) これを見ると、右京織の絡式に関する吟味を全員参加のも とで行う必要があり、六月の法事で 一 門が仙台に伺う時に突 施しようとしたが欠席者があって笑行できず、次に 一 門が全 員 揃 うのはいつになるか分からないので知らせのみ文書で行 うこととした旨が、﹁当月(七月)三日﹂の 一 門廻状 に よ っ て伝えられたという。 つまり、この時 間 題となっていたのは、一門が全員揃う機 会が稀であるために格式吟味が延 引 していることだったので ある。これを踏まえれば、史料⑨は伊達肥前がその解決策を 提案した文市円であることが分かる。 すると、史料⑨傍線部は、 ( 吟味作業の間紫化、迅速化の ため)あらゆる場面の格式を一度に吟味し改める必要はな い 、 と解釈するのが妥当であろう。このように解釈すれば 、 この直後に﹁公儀何え引張候儀井当時指当御用に入候儀を御 吟味被成候はは可然存候、或新上より御使者等御座候時分之 儀、御奉書等之御詩文言又は拝領物之御礼:Lと続く文の意 図も明らかになる。すなわち、ひとまずいくつかの格式につ いてだけ話し合い 、吟味作業 を前に進めようというのであ る。前述の志田氏の解釈を適用すると、この部分の自然な解 釈が困般になる。 以上のような解釈に立っと、 ﹁ かつて綱村別において 一 門 がその序列や知行の高低にかかわらず一致団結して行動を共 にした姿とは大きな相違点を認めることができる﹂という吉 旧氏の指摘は成り立たない。さらに、氏が自ら述べる通り、 綱村期の一門は﹁その序列や知行の古川低にかかわらず 一 致団 結して行動を共にした﹂(傍点引用者)のである。重要なの は 、 一 門が序列等の燦々な差異を度外視して団結するという 点であり、例え 一 門 の絡式が全員一律でなかったとしても、 一 門 が政治的主張をする際の団結を不可能にする理由にはな らないだろう。 さらに氏は 、 吉村の 一 門政策がその後の一門に大きな影轡 を与えたという舵測の下、 一 門による﹁政治的攻態﹂の対象 が楼主 ( 諌言や強制隠居 ) から務官僚(罷免 ) へと変容して いる点を指摘する。この背景として務の官僚機構の整備が完 了し、官僚への攻撃が功を奏するようになったことを想定し つつ・も、﹁それだけでは説明に窮するように忠われる﹂とし て い る 。 この指摘は適切であろうか。確かに、藩主への諌言のよう な事例は三代務主綱宗・四代務主綱村以降見られなくなる

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一門による奉行部劾の事例は寛文期から見られるのであ 一門による﹁政治的攻脚本﹂の対象が帯主から務官僚へ ﹁変容﹂したと評価することには疑問を感じざるを得ない。 本稿での考察を踏まえれば、一門が政治的な行動を起こす目 的は現行の藩政を改めさせることにあったはずであり、吏法 の対象もその問的の達成に鑑みた有効性、必要性に応じて選 ばれたと考えられる。二一代帯主綱宗と四代藩主綱村の隠居の 際は、帯主の意向が帯政に強く反映されており、務主が変わ らなければ藩政も変わらないと 判 断されたために、更迭の対 象が藩主となったのである。士口 村 より後の務主には幼君も多 く、務政前期の帯主たちほど専制的な姿勢で務政に臨む者は ないと 言 って良い。このような背長から、務政に変革を迫る 場合に藩主を変える意義は小さくなっていったと考えられよ う。藩主の交代を迫る姿を 一 門の通常の姿として捉え、これ が見られなくなる時期に特殊性を見出し、﹁政治的攻繋﹂対 象の﹁変容﹂に一門のあり方の変化を求めることは、灘しい よ う に 恩 わ れ る 。 しかし唯者もまた、現時点では後期 の 一 門のあり方に つ い て十分な議論をできる立場にない。ひとまず本稿では、指摘 できる限りの可能性と展望を、 拙 くはありながらも以下に述 べ る こ と に す る 。 まず、木稿で多く取り上げた藩政への意見提出の画策や、 り が 務 官 僚 か ら 一 門 へ の 諮 問 のような行為を明らかに読み取るこ とができる史料は、管見の史料群においては綱宗期から吉村 則の特定の事件に集中する形で多く残 っ ており、これ以降減 少する。この点から、吉 村 期より後の 一 門は藩政への積 極的 な怠見提出をしなくな っ て い っ た可能性を指 ・ 摘することがで き る 。 一 方で、後期 一 門の自己認識を読み取ることができる 次のような史料がある。 ︻ 史料

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︼ ︽ 伊 也 m a d -町 山 山 立 政 八 年 村 義 勤 録 写 ( 中略 ) 一 御幼少様之御事御座候へ共、此末執政之脇被相出候儀は至 極御吟味被為有人物御撰挙大切之御 時 と奉存候、思案短才之 私共に候へとも執政之儀は本重キ儀にて、御評議至極御大 切 之御儀車中存侠刷、御同快挙之節は私共同席にて、在府之内え御 内々一被仰知候様致度候、余之儀と連、か様之筋及相談候は、 甚遠慮至極候へ共、段々御家政御頼之御方様等之儀も被相尋 侠末之儀ニ御座候問、対御為心付候備、不願述雌及御相談 候 、 ( 中略 ) 右書 付 ハ私共連名を以、御奉行中迄及相談候 、 ( 後略 ) 史料⑪は、究政八年 ( 一 七九六 ) の九代藩主政千代 ( の ち

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の周宗)襲封に際して一 門衆 の提 出 した意見状である。ここ で、﹁執政之職﹂の﹁撰挙﹂に一 門 が同席することを提案し ている。同時にこれに関する遠慮も示しているが、この提案 からは 、落政に関与する資格を持ち、責任 を負う者としての 一 門 の自己認識が垣間見える。 また、先述のように 、 先政九年 ( 一 七九七 )の 務文 ( 史料 ③)で は 、 一 門は務官僚の主導する務政を変 えることがで き る存在として認識され、頼られている。 これら務政後 期 の特徴を踏まえると、後 期 の 一 門は、綱 宗 則 か ら 士 口 村 期に顕著に見 ら れるような務政 参与への杭極性を 弱めてい っ た可能性はあるものの、滞政に参与し得る力を持 った存在として 自 らを認識し 、他者にもそのよう に認識さ れ、利用され得る点は継続していた。一門は藩政後期に至っ ても、藩政を動かすことのできる権力体としての性格を維持 し 、これ を自ら行使、或いは 他 者に利用される可能性は有し て い た と 言 え よ う 。 おわりに 本誌では 、 一 門がど のような立幼と論理で務政に関与し、 それが務政に対してどのような役割を果たしたのかに注目し て 考 察 を 行 っ て き た 。 一 門は自発的な意見提出、藩役人側から の諮 問への答 申 に よって藩政に参与する存在であった。これら意見は﹁公儀﹂ の規範に 基 づ いてな されており 、これに違背 した藩 政が行わ れることを防いで﹁御家﹂の存続を図る側面を持っていた。 さ ら に 一 門 は 、

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政に必要な変革をもた ら す存在であるこ と、土民の事情に通じる者の観点からの意見を藩首脳部へ提 出できる存在であることを自ら の 存在意義と考え、これに沿 っ た行動を選択していたと思われる。また 一 門は、務官僚 の 主導する帯政の変革を望む家中にとっては 、 最高官僚である 奉行に対抗するための権力源としてはたらき、利用されるこ と が あ っ た 。 仙 台藩において一 門 は 、 ﹁ 公 儀 ﹂の 規範と土民の意思を反 映した意見を藩中枢に届け、或 い は 届かせるための権力源と なることで 、 これに反した藩政が行われないよう一定の調整 を行う装置として 働いたと言うこと ができよう。また 、 一 門 の藩政に対する影響力は 、 士 口 村 期 以 後 もある程度継続したも の と 考 え ら れ る 。 ところで、先述のように、 一 門は これまで帯主や藩官 僚 の 対抗勢力のように認識されてきたとこ ろ が ある。本草の考察 を 踏 まえたとき 、 こ のような理解は成り立つだろうか。 一 門は務政の変革 を実現できる権力を持つ存在であること を自己の存在意義と認識し、 他 の家中も一門のこの点を 頗

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り 、 利用し ていた。さらに 、 一 門 は 基本的に藩政運宮を 役人 に任せており、意見提出等の行 動に出 るのは基本的に帯政の 問題点を指摘する場合に限られることになる。このような性 絡 か ら 、 一 門 が藩政に対して符定 的 なな見 を 提出することが 多か っ たのは判然であ っ たとも言える。確かに、五代締主吉 村が 一 門について﹁御先代より政事に口入仕、かまいたかり 候人も有之候﹂と漏らしているように、為政者にとっては一 門 のこのような性格と権力が 目 の上のたんこぶともなりえた だろう。しかし 、 これはあくまで為政者の視点からの評 価 の 一 つと見るべきで、本稿で見てきたように、 一 門 の権力には 異なる 側而 も指摘できる。また、ここまでの考察を見るに、 一 門そのものが基本的に落首脳部と対決しようとする立図を 持つ勢力であったと考えられるような要素はない。はじめか ら 一 門 を為 政者 に 対 抗 する者として捉えることは不適 切だ と 言 えるし 、 それを前提に考察を行えば、 一 門 の 持 つ 他 の 側面 を見失うことになってしまうのである。 さて、先述のように本・制は、務官僚機構の外にあ っ て都政 に影轡を及ぼす存在の一例として 仙 台務 一 門を扱い、このよ うな存在が官僚に主導される 近世政 治の 中 で果たした政治 的 役割の 一 端を明 らかにすることを 目的 のひとつとしている。 本章での考察をふまえると、藩官僚機構の整備が進んだ後で も 、 仙台滞 一 門のそれのように官僚制に依存しない権力のあ り方が依然 と して存在し、藩政に対して影響力を保持する 可 能性があったことが分かる。 官僚機 梢外 の存在は、務官僚としての 脇 立や昇進志 向 か ら 自 由 であるため、これらに囚われない観点から政治を批 判 し、影響を与えることができた。また、 下 級武士が滞政の改 革を望む時、或いは帯主権力不在の時には、最高執政権力者 を 動 かし、または制約、対抗するための権力源となることも できた。彼らは藩政に対して 、 官僚とは異なる役割を果たす 可能性を持 っ ており、実際にそれを実行することがあった。 近世政治 構 造の 中 にはこのような権 刀 による調整や 制約 が

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し得たのであり、近世の政治は必ずしも滞主と官僚によっ てのみ完結するものではなかったと 言 え よ う 。 このような意 味 で、務主でも官僚でもない 仙 台藩 一 門のよ うな勢力を 、従来 の語られ方や先入 観 を取り払って帯主権 力・官僚制と共に近世政治構造の中に位置付け直していくこ とには、やはり大きな意義がある。本 航 で は 、 仙 台帯 一 門 を 一 つ の事 例 としてこれを試みたにすぎないが、今後より多く の事例と 視 点から包括的に明らかにさ れ ていくべき 問 題だと 考える。官僚機構外の存在でも権 力 を持ち得るところに近 世 武家社会の特質があるとするならば、彼らの働きが見えては じめて、近 世政治構 造の全貌が明らかになるのではないだろ う か 。

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( l ) 鈴 一 首 参 照 。 ( 2 ) 仙台務の ﹁ 奉 行 除 ﹂ は他務の家老にあたり、務政執行の最高 立 任者 。執政または国老とも 呼ばれ る 。 一 門以外 の家格から選 ばれる ( ﹃ 仙台務歴史事典﹄(仙台郷土研究会 、 ニ

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一 一 ) 八 六

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八九頁 ) 。 ( 3 ) 水林彪 ﹃ 日本通史 H 近世封建制の再編と日本的社 会 の 確 立 ﹄ ( 山 川出版 社 、 一 九八七 )二八七頁 、藤 井議治﹃蒜務領主の権力 構造 ﹄( 岩波書庖、二

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-一 ) 三 九九頁 ( 4 ) 仙台市史編 さん委員会﹃ 仙 台市史﹄通史編 4 近世 2 ( 仙台市 、 ニ

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三)二 1 三 頁 ( 執笠分担 一 平川新 ) ( 5 ) なお、人物の特定や文古の年代比定は、本田勇﹃史料仙台伊 達氏家臣同事典 ﹄( 東北 掌 印刷株式 会 社 、 三

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一 ニ ) に 拠り、各 人物の通称とそれを名乗った時期をもとに行った。 ( 6 ) 仙 台市 史編 さん委員会﹃ 仙台市史 ﹄ 通史編 3 近世 l ( 仙 台 市 、 三

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一)二頁(執 筆 分 担 斎 藤 鋭 雄 ) (7 ) 斎藤鋭雄﹁仙台務の家臣団椛成 │ 成立期の考察

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﹂ ( ﹃ 日本歴 史 ﹄ 一 一 一 九 号、一九九六) ( 8 ) ﹃ 伊達家世 臣 録 ﹄ ( ﹃ 仙 台務庇 史事典 ﹄( 仙台郷 土 研究 会 、 ニ

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ニ ) 三 一 七頁 ) によれば、一門十一家のうち六家は一万石以上、 うち 三家は二万 石以上 の知行 地を 支 配 し て い た 。 ( 9 ) 前拘 ﹁ 仙 台滞の家 臣団構成

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成立則の考察﹂

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)

寛文事 件 三 代務 主 伊 達綱宗が不行跡により逼塞、幼君亀 千 代 ( の ち の 四代務主綱村 )が家替 相 続 し 、 一 門 の伊達 兵部 大 楠 宗 勝、岩沼務 の 田 村 右京亮宗良が後見人となる。この 時 一 門伊 達安芸(宗主、涌谷)と伊達式部 ( 宗倫、登米 )の 聞で所領の 境界 をめぐった争論が発生 、 こ れ に対す る務の裁定に不 服 の伊 達安 芸が幕 府 老 中 宛の口上古で幕府へ訴え出た。これを受けて 幕府 老 中 による審 問 が行われるが 、 こ こ で旗色の怒くなった奉 行の原田甲斐宗輔が伊達安芸に斬りかかり 、 同席した奉行、老 中の家臣らが混乱の中で斬り合いとなり大惨事となった。後見 人はこの事件の責任を問われ、伊達兵部は土佐御預、 田 村 右京 克は開門とされた。領地没収家名断絶に相当する事態であっ たが 、 務主若年のため ﹁ 御宥免 ﹂ と な っ た ( 前掲 ﹃ 仙 台 市 史 ﹄ 通史編 4 近世 2 第 一 章 (執筆分担平 川新 ) ) 。 ( 日 )宮城 県史編 纂委員会﹃宮城県 史 ﹄ 2 近世 荊(執筆 一 佐 々 木慶 市 ) ( 宮 城 県 史 刊 行 会 、 一 九六六 ) 四

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二 1 凶

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二 一 頁 ( ロ ) 前掲﹃宮城豚史 ﹄ 2 、 凶一九 頁 ( ) 前 回 向 ﹃ 宮 城 脱 史 ﹄ 2 、間二

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頁 ( ) 前伺 ﹃ 宮 城 町 肺 史 ﹄ 2 、四五九頁 ( 日 ) 一関藩・仙台務の支落。 田 村氏は仙台藩六十一 一 万 石の内から 三 万石を分地された内分分家大名。田 村氏 の組宗良は仙台落に 代藩 主 忠 宗の三男で、政宗正室協徳院の遺言による 忠宗 の命で 田村氏を名乗る ( 木村礎ほか ﹃務史大辞典﹄第一巻北海道東 北編 ( 雄山閑出版株 式会社 、 一 九 八 八 ) ) 。 ( 凶 ) 前拘 ﹃ 宮 城 脈 史 ﹄ 2 、五九六頁 ( げ ) 仙台市史編 さん委員会﹃ 仙 台 市 史﹄通史 編 5 近世 3 ( 仙 台 市 、 二

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四 ) 二二頁 ( 執 筆 分 担 平 川 新 ) ( ) 前掲 ﹃ 仙 台 市史 ﹄通史編 5 近位 3 、 一 一 九

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二 一

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一良 ( 執 筆 分 担 一 平川新 ) ( ) 前掲 ﹃ 宮 城鯨史 ﹄ 2 、 六 七 頁 i ( 却 ) 前掲 ﹃ 仙台市史 ﹄通史編 3 近 世 l 、 一 五 七頁 ( 幻 )吉 田良夫﹁近世大名家における諌百の実態│元禄六年、仙台 務一門衆の諌 f一 回 を 題材 に │ ﹂ ( ﹃ 日 本隆史 ﹄ 第六

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五号 、 一 九九 八 )

参照

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