トゥラリア」を一つの文書類型として認識していた
のか?-著者
津田 拓郎
雑誌名
ヨーロッパ文化史研究
号
13
ページ
167-198
発行年
2012-03-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/55701
ヨー ロッパ文化史研究 第
13号
(2012年 3月 30日) 167論
文
カロ リング期 の カピ トゥラリア
―― 同時代人は「カピ トゥラリア」 を一つの
文書類型 として認識 していたのか
?―
―
津
田 拓 郎
序論 本論1)ラ
ンス大司教 ヒンクマール著 『宮廷組織論J2)フ
ォン トネル修道院長 ア ンセギスによる Fカ ピ トゥラリア蒐集』3)フ
ェリエール修道院長ルプスによる 『法の書』 結論 と展望1)結
論2)政
治的 コ ミュニケーシ ョンの分析 のために3)テ
クス トの成立段 階 と伝達後の段階の区別の必要性4)時
代 ご との認識の変化 を考慮す る必要性I.序
論
カロリング期の重要史料である「カピトゥラリア」に関しては
,長
年
様々な議論が行われてきたが
,「研究者間で異論が存在 しないのは
,見
解が相違 しているという事実についてのみである」
(1)というモルデクの
言葉からも明らかなように
,こ
の史料類型については多 くの問題が未解
(r)
H. Mordek 'Karolingische Kapihrlarien', Idem, Studien zurfri)nkischen
Herrscherge-setzgebung Aufsiitze ilber Kapitularien und Kapitulariensammlungen ausgewiihlt zum
60. Geburtstag, Frankfurt am Main
-
Berlin-
Bern-
Bruxelles-
New york-
oxford-Wien, 2000, P. 55 (A
'H
ll
H. Mordek(ed..) , Uberlieferung und Geltung normativer Texte
決なままの状況が続いている。伝統的にこの史料類型は
,国
王の立法活
動の産物たる「勅令」 として理解 されてきたが, このような理解は近年
多 くの角度か ら批判 されてお り
,
もはや維持で きない もの となってい
る。
)。しか し
,「カピトウラリア」を巡って非常に多 くの研究がなされた
現在においても,ガ ンスホーフによる包括的研究0)の タイ トルでもある
「カピ トウラリアとは何か」 という根本的な問いに対 してす らも
,研
究
者たちはいまだに一致 した見解を提示することができていない。
「カピ トウラリアとは何か」を考える際には
,同
時代における用語法
と現代の分析概念 としての用語法が合致 していないことに注意を払 う必
要がある④。現在のフランク王国研究において用いられている語「カピ
トウラリア」
(英 capnularメ仏
cap■ulaire,独 Kap■ularien[単数形
Kapitu―lar])に
対応す るラテ ン語 は ε
η′
′
“
Iα″
(複数形 ε
η
:′“
:αriα)で
あるが
,ボレティウス とクラウゼによる
MGH版
6)に 含 まれるテクス トすべて
121 ヵ ピ トゥラ リア を巡 る議論 には きわめ て多様 な論 点 が存 在 して い るが,紙
幅 の 関係 もあ りこ こで そ の研 究 史上 の論 点 す べ て に言 及す る こ とはで きない。 本 稿 と同 時期 に刊 行 予 定 の,西
欧 中世 史 料 論 研 究 会 科 研 報 告 書 『西 欧 中世 文 書 の 史料 論 的研 究:平成23年度研 究 成 果 年 次報 告 書 』(研究 代 表 者:岡崎 敦) にお い て,カ
ピ トウラ リア に関す る近 年 の研 究 動 向 を ま とめ るの で,そ
ち ら を参 照 して い た だ きた い。 (3) RL.Ganshol R`6カθκみ `s sar lθ s C,P,″ “Iα irθs,Paris,1958;Idem,Was″α
““グた んヴrタルrセ “F,Waima島 1961.以 下 本稿 で は ドイツ語版 を用 い る こ と とす る。 “
)カ
ピ トウラ リア を指 す 同時代 の用 語 法 に関 して の本稿 の記 述 は,以
下 の 文 献 に基 づ い てい る,RL.Ganshol Was“ “"″`KapiFa♭″θ4ζ pp.13-16;H.Mordck `Karolingische Kapitularient p.56; A.Biihle島 `Capitularia Relecta: Studien zur Ent―stchung und tberlieferung der Kapitularien Karls des Gro3en und Ludwigs des FЮ m―
men',Ar6カ′νル r Dpro“ ′′′たsc力rッセθSCたたた屹Sttr_夕 "′ wappι“た“″グι32,1986,pp.
321339;TM.Buck,Aグ
″ο “ :r′ο “ 4グ Pttθ′,εα′′ο:Z“r″:りOSフ “′ο″ Jι “D′“θ“s'0“ νο″Kapゴォ “レ″`"“"′たη ゴ′“Jarf`″"α みι “2χた“(50/814),Frankfurt am Main,1997,pp.28f; S.Patzold,`Normen im Buch: ウberlegungen zu Geltungsanspriichen so
genannter Kapitularien',Fr“ たη,irrιJ′rrθ rI:εヵθS′′グi`″41,2007,pp.332f; R.Pokorny
(ed.),MGH Cap′
`“
:αηお60pοr"“Iy Hannover12005,pp.161
(⇒ A.Boretius(ed.),MGH CapF′夕
カロリング期のカピトウラリア
169
が
,同
時代 において ε
η′
′
“
:α″ と呼 ばれていたわけではない。 これ らの
テ クス トは同時代 史料 にお いて は
,εη
:′“
Jα,εη勧
:αttε
ο
“
s′勧″Q′θ
ε
″―
′
“
″
,p″θ
ε
ψ
`““
,θ′
jε′
““
等 の きわめて多様 な語 で呼 ばれてい る。 また
, `″il“′
α
″ という語が「カピ トゥラリア」以外 をもさして用い られるこ
とがある点
“
),「カピトゥラリア」を指 して非常に多 く用いられるε
η
,`―“
ル という語は
,「条項別に書かれたテクス ト」一般を意味 していたとい
う点 も繰 り返 し指摘 されている。 ここか らは
,あ
るテクス トが ε
η
j′“
―
:α″や ε
″′
′
ノαといつた語で呼ばれているからといって
,そ
のテクス ト
が「カピトウラリア」 という一つの類型に属 していると考えてはならな
いことがわかる。
しか し
,同
時代の用語法について詳細に分析 を行った研究者たち自身
も
,「カピ トゥラリア」なる史料類型が明確に同時代にも存在 したこと
をほとんど疑 うことはなかった。近年の「カピトゥラリア」研究に大 き
な貢献を果た したモルデクです らも
,「カロリング期の君主たちは
,そ
の語
[ε″′
′
“
Jα″
]を
ルε
″′
“
“
とともに 779年
(ヘリスタルカピ トゥラリ
ア
)に
おいて初めて用いた。 しか し
,そ
の後 もこの語は決 してこの類型
の排他的な呼称 とはならなかった」。
)と述べ
,多
様な語が用いられるこ
とを指摘 しつつ も
,「カピ トゥラリア」が一つの類型であることを議論
の大前提 としている。 しか し
,「『カピトゥラリア』 という同一類型に属
する史料が様々な語で呼びあらわされている」 と述べる前に, まず「カ
ピトウラリア」なる史料類型が本当に同時代に存在 したのかどうかをま
Klause(eds.),MGII Cap′′ “ルr,α “ 繁″Fra“εοr“ “二Hannove島1897. “)例
えば,6ap′′ “レた の語 は,教
会会議 決議 や教皇書 簡 を指す語 として もあ ら われてい る。 これ らも条項 に区分 け されたテクス トであ る点 に注意が払 われ⑦
る
ご
穏麓
[lil£
靴
Pl:揚
げ篇麟
溺
,散
翌
Ъ
.ェhen und zmぬ,ず問うべ きではないだろうか。
先行研究の傾向としてもう一点指摘できることは
,カ
ロリング期の史
料にあらわれるε
η
ttJαという語を
,特
に説明もなく「カピ トゥラリア」
を意味するものと解釈する態度である。本来単に「条項別に書かれたテ
クス ト」を意味する語が
,あ
たかも一史料類型を指す語であるかのよう
に考えられてきたのである。 しか し
,そ
のような場合 も
,εη
:`ノαの語
とともに特別な一史料類型 としての「カピトゥラリア」が意味されてい
たのかどうかがまず問われるべ きであることは明白である。
)。さらに「カピトゥラリア」に関 しては
,そ
の形式・内容について大 き
な多様性が存在 していることも古 くから指摘 されてきた⑨。用語法に加
えて形式 。内容において「カピトゥラリア」が きわめて多様であること
をはっきりと認識 していなが らも
,「カピ トゥラリア」なる類型の存在
を大前提 とする態度から抜け出せない中で
,従
来の「カピ トゥラリア」
研究は混乱をきたしていたのであった。そ して
,個
別の事例において検
出された特徴 を
,「カピ トゥラリア」 という類型全体に当てはまるもの
として一般化する態度 も
,多
くの先行研究に共通 してみられる問題点で
ある。近年では一部の研究者が
,「カピ トゥラリア」を一様な性質を持
“)こ
こで指摘 した ような先行研究 にみ られ る態度の問題性 は,す
で にポ コル ニ ー に よって指摘 されてい る,R.Pokorny(ed.),MGH Cap′′タルη,S60pοr“ “ry pp.161なお,パ
ッツォル ドは ε″′′滅″ もε"勧
Iα と同 じように,「条項別 に書 かれたテクス ト」一般 を意味する語 と考 えている様子である,S.Patzold,`Normen im Buch,pp.3321し か し,ε″″ “ Iα “の語 は,εη′ ′ “ ιαほ どニ ュー トラルな単語 で はな く,文
脈 に応 じて何 らかの意味 内容 が付与 されて用 い られてい る可能 性 もあ る と考 え られ るため, この点 に関す る筆者 の判 断は保留 としてお きた い。 いずれ に して もε″′r夕 :α も εη″ “Jα“も「 カ ピ トゥラ リア」 とい う一史料 類 型 と明瞭 に対応 す るわ けで は ない とい うこ とは間違 い ない とい って よい。 しか し先行研究は多 くの場合,そ
の ような点 を考慮 に入れて こなかった。 〈9)RL.Ganshol 14階 s″α“"′′ι Kap″“Iαγ′θ″ζ pp.251 pp.114-116;H.Mordck,`Karo‐
lingische Kapitularien',P.61-66; Iden■,`Frankische Kapitularien und Kapitulariens― alnmlungen',Idem,S′
カロリング期のカピ トウラリア 171
つ類型 として理解すべ きではないとして
,帰
納的アプローチを提唱 して
いるものの
(10,このような方向性に従って「カピトウラリア」を考察 し
直す研究はほとんど見当たらず, この多様なテクス ト群を「カピ トゥラ
リア」 という一つの史料類型 として把握する態度は
,現
在でも支配的で
あるといってよい
(11)。この関連においてもう一点指摘 してお くべ きこととして, しばしばみ
られる
,「原本
(オリジナル
)で
残 されているカピ トウラリアは存在 し
ない」という言説の問題がある
(鯰)。すべての「カピトウラリア」には何
らかの形の「原本」が存在 していたということが研究においては大前提
とされてしまっているのである。 もちろんすべての歴史史料には
,そ
れ
が初めに文字にされた時のテクス トという意味での「オリジナル」が想
定できる。 しか し
,「カピ トゥラリアは王国集会において参加者の同意
を経て成立する国王の立法である」という伝統的理解が前提におかれた
場合
,現
存する「カピトゥラリア」のテクス トはすべてそのようにして
成立 した「原本」に由来するかのごとき印象が生 じてしまうのである。
しかし
,MGH版
に含まれるテクス トには
,明
らかにそのような過程を
経て成立したものではないものも多 くみられるし
(1め,繰 り返し指摘され
(10) R.Pokornyp`Eine Brief― Instruktion aus dem Honceis Karls des Grosscn an einen
geistlichen Missus',Dι 夕おεルsAκ力:ック γ Erf。おε力
“暉 グι
s Mirrθ:α:′θ
“
52,1996,pp.
78f; S.Patzold,`Norlnen inl Buch',S.350.
(11)例え ば,M.Costambeys,M.Innes and S.MacLcan(eds.),OrOrれ
″ “ w械眈 Caln_ bridge,20H,pp.182fは ,「カ ピ トゥラリア」の多様性 に注意 を払 う必要性 を正 当 に指摘 しなが らも
,同
時代 人 において も「 カ ピ トゥラ リア」 は一類型 とし て認識 されていた として,過
度 に注意深 くあ る必要 は無 い と述べ てい る。 し か し,ここでその証拠 として挙げ られている,ランスの ヒンクマールによる『宮 廷組織論』 の34条は,「カ ピ トゥラ リア」 とい う類型が カロ リング期 に存在 していた こ とを示す証拠 と しては用 いることがで きない。以下の本論部分 を 参照の こと。 (12)RL.Gansho鳥 い物s″α ““グ′θ Kap″“Iαr″″ζp.63;Ho Mordek,`Karolingische
Kapitularien',pp.321
(1⇒ 集会 とカ ピ トゥラリアを無批判 に結 びつける態度 と
て きた「カピ トゥラリア」の多様性 を考 えるならば
,すべての「カピ トゥ
ラリア」が何 らかの権威 を持 った「原本」に由来す ると考 える態度 も慎
むべ きだ と思われる
(M)。以上で指摘 した ような研究状況 を踏 まえた うえで
,本
稿 では
,「カピ
トゥラリアとは何か」 とい う問題 に迫 るために
,同
時代人が この史料類
型 をどの ように認識 していたのか
,そ
もそ も「 カピ トゥラリア」 を一つ
のテクス ト類型 として認識 していたのか とい う問題 を検討す る。具体的
には
,「集会 におけるカ ピ トゥラリア成立 を叙述 している」 とされて き
た 『宮廷組織論』 と「カピ トウラリアを収録 した」 と考えられて きた同
時代 の
2つ
の蒐集 を分析対象 とす る。「 カピ トウラリア」その ものの内
容 を分析する とい う先行研究が行 って きた方法では
,同
時代人の認識 を
明 らかにす ることは困難 だか らであ る。 これ らの史料の分析 を通 じて
,先行研究における類型理解が どこに由来 しているのか をも明 らかにする
とともに
,今
後の「 カピ トウラリア」研究のた どるべ き道 を示す ことが
本稿 の最終的な目的である。なお本序論 においてすでに
,鍵
括弧付 きで
による立法」 と捉 える理解 はペ ッセルによ り正当に批判 されている,C.Pёssel,つヽuthors and recipients of Carolingian capitularies.779-829',R.Corradini,et.al
(eds。),■χお′″′Iグ
“′′′′θ
s i“Й
“α
rly Miググ
J`浮
、Wien,2006,p.259.(M)ハ
ル トマ ンは, カロ リング期 の教会会議決議 に関 して,一
つの「原本」の 存在 が想定 で きない事例 も存在す るこ とを指摘 してい る。 同一 の教会会議 に 由来す る決議が複 数 の版 で残 され てい る場合 に,そ
れ ら複 数の版が「原本」 か らの筆写 の過程 で生 じたのではな く,教
会会議 自体 にお いてす で に様 々な 形 でテ クス トが作 成 された可 能性 を考 えるべ きだ とい うのであ る。 この指摘 は「 カ ピ トウラリア」研究 に関 して もきわめて重要 な示唆であるといえる。W
Hartmann,`Original und Rekonstruktion eines Archetyps bei den sPalkar01ingischen Konzilsaktent B.Merta ct al.(eds.),y。
“N′rz`″グθs Eグセ““島Wien― Miinchen,2005, p.84,P.89.ま た
,20H年
9月 に名古屋大学で行われた国際研究集会 において は,「カ ピ トゥラリア」 について同様 の指摘が なされている,菊
地重仁 「テ クス トとしてのカロリング期 カピ トウラリア」,『「テ クス ト布置の解釈学的研究 と教育」第 12回 国際研究集会』(報告 内容 は近 日中に報告書 として刊行 され る との ことである)。
カロリング期のカピトウラリア 173
「カピトゥラリア」という語を用いてきた。本稿では「カピトウラリア」
の語を
,「先行研究者が『カピトゥラリア』 という史料類型の中で理解
してきたテクス ト群」一般を意味する語として用いることとする。
Ⅱ。 本論
1)ラ
ンス大司教 ヒンクマール著 『宮廷組織論』
ラ ンス大 司教 ヒ ンクマ ー ルが
882年
に執筆 した 『宮廷 組織 論』
Dθο
〃′
"θ pαJα′
′
,(19は,全
37条
か らなる作 品で
,西
フランク王 カルロマ ンに
ささげ られた ものである。 この作品にみ られる叙述が どの時代の状況 を
反映 しているのかに関 しては明確ではない ものの
(“),先行研究はこの作
(15)本稿 で はT Gross and Ro SchiefFer(eds.),Hi″
`解α r夕sD`ο ″′ “`Pα:α′′・′
MGH
Fo4ras′ “ ris Fr“α″′ `'α″Ja“′′“′ S“″S“θlα″sηα″ `′ 解 `グ ′ri tt HannOve島1980の 版 を用いた。 (“)ヒ
ンクマール 自身が述べ ている ように, この作 品はシャルルマーニュ時代 の官廷 人であ った コル ビー修道院長 ア ダルハ ル ドゥス に よる論考 を もとに, ヒンクマールが加筆・修正 して作 成 した ものであ るが,ア
ダルハ ル ドゥス に よる論考 は失われてお り,ど
の部分が ヒンクマールに よるオ リジナルの叙述 なのかは明言 されていない。本書 に見 られる内容が,実際 にシャルルマーニュ 時代 の状 況 を反映 してい るのか, ヒンクマールが活動 した時代 の西 フラ ンク 王 国の状況 を反映 しているのかに関 しては見解が分かれている。MGH版
の解 題部分 (PP.9-30)に加 えて,S.Patz01d,`Konsens und Konkurrenz.Oberlegungenzu cinenl aktuellen Forschungskonzept dcr Ⅳ【ediavistik',Frタカηl,′″:′Jrθrr′εヵθs′
“′:θ“ 41,2007,pp.77fに この問題 に関す る研究史が まとめ られている。パ ッツォル ド 自身は この作 品全体 の意義 を, ヒンクマールが作 品 を執筆 した時代 に彼がお かれていた政治的状況の中に位置づ けてい る。マキ タリックは, この作 品の 後半 の記述が シ ャルルマーニュ時代 の状 況 と合致 してい る との見解 を提示 し て い る,R.McKiterick,αttrrθ″ ““
.助 θ For“α′′0“げαE“ rapια″″ι
“″r/9 cam_
bridge―New York― Melbourne― Madrid― Cape Town― Singapore― Sao Pau10_
Delhi,2008,pp.149155.筆 者 は この問題 に関 して明確 な回答 を用意で きてい ないが
,ヒ
ンクマールに とっての作 品全体 の意義 と,本
作 品 中で描 かれてい る個別の事例 に関す る叙述が どの時代 の制度 を反映 してい るのかの問題 を区 別 して考察す る必要性 を指摘 してお きたい。 これ らの問題や,本
稿 での分析 の対象 となる集会 に関す る記述 につ い て は,B.S.Bachrach,`AdJhard Of COr―bies's」Dθ οrグJ″θ pα:α′′,: Some MethOdologica1 0bservations Regarding Chapters
品を「カピトゥラリア」の発布の様子を伝える史料として用いてき
た
(1つ。しかし「カピトゥラリア」という史料類型が存在したことを前提
とせずにこの史料を読むなら
,そ
のような理解は修正を迫られることと
なる。
『宮廷組織論』第
8条
は
,「部族法 碗ぃ とカピ トウラリア ε
η
:′“
ι
α
riαを
扱 っている」記述である と考えられて きた
(1の。そ こでは
,聖
職者が教会
法 に従 うべ きことが述べ られた後 に
,「王や国家の役人たちは
,諸
地域
に住 む者たちを統治する際に用いるべ き法 撓ぃ
,そ
して家臣の一般的同
意によ り
,法
とみなすべ きもの として発布 された
,キ
リス ト教徒の王た
ちとその祖先たちの条項 ε
η′
′
“
Jαを持 っている」 とあ り
,彼
らはそれ ら
(撓ぃ と ε
η
:′“
:α)に 従 って裁 きを行 うべ きであるとの内容が続 く
(り)。こ
の部分では
,「カピ トウラリアは王国集会 において参加者の同意 を経て
成立する国王の立法である」 とい う伝統的理解 に完全 に合致す る内容が
記述 されている ように思 われる。 ここで注意が必要 なのは
,εη
:′“
:αと
(1つ 例 え ばRL.Gansh01い物s″αた4′たKap,′夕 JαrFa“,P.62;M.Costambeys,M.Innesand S.MacLean(eds.),CrOι ,4giα
"WarIJ,PP.1821 (18)RL.Gansholい物s″α″ “ ′ 'ι Kap′′ノ′riθ″,p.62.
(19) “Habent eniin reges et reipublicae rninistri leges,quibus in quacunque provincia
degentes regere debent,habent capitula christianorunl regum ac prOgenitOrunl suo―
runl,quae generali consensu fldeliun■ suorum tenere legaliter prOmulgaverunt.",Dθ
ο″′
“θ pαlα′:ちc.8,pp.4649.最後 の “
tenere legal■er promulgaverunt"は 様 々な文
法 的解 釈 が 可 能 で あ り
,現
代 語 訳 にお い て も解 釈 が 分 か れ て い る。MGH版
にお け る ドイ ツ語 の 対 訳 は,“ die Kapitularicn… ,die diesc… zur Befolgung recht―
mttig verkiindet haben"と な って い る,T Grossand R.SchiefFeL D`οrdi″ιpαJαrit P.
49.D.Herlihy(ed.),動θ Hi蒟 ッ げルタ′α:iS“,London,1970,p.218の 英 訳 で は “the
capitularies.¨ which.¨ they have ordered to be lawfully maintained".M.PЮ u,Hi"ι―
“αち
Dθθ〃:“
`pαlα′:′ηiSrorα,Paris,1885,pp.21fの 仏 語 訳 で は “les Capitulaires.¨
promulgu`sl`galement.¨ et qu'1ls doivent observer"と 訳 され て い る。 これ らは ど
れ も本稿 の解 釈 とは異 な って い るが,ここで は “tenere legaliter"を「 法 とみ なす 」 との解 釈 を提 案 した い。 この よ うな意 味 で の tencoと lexの 組 み合 わせ は,2) で扱 うア ンセギス蒐集 に もみ られる ように
,カ
ロ リング期 に しば しばあ らわ れているためである。またはJq″J:セrを p“ “夕lgaνθ r“ “′を修飾する語 と考 え,「法 として発布 した」 と解釈す ることがで きるか もしれない。カロリング期のカピトゥラリア
175
いう単語が
,一
史料類型 としての「カピ トゥラリア」ではなく
,「条項
別に書かれたテクス ト」一般を意味するということである。の。ここで述
べ られているのは
,鍵
ぃ ならびにここで述べ られているごとくに発布 さ
れた ε
η′
′
“
Jαに
,「王や国家の役人たち」が従 うべ きであるということ
であ り
,す
べての ε
η勧レがここで述べ られているごとくに発布 される
ということが述べ られているわけではないのである。先行研究は
,「カ
ピトウラリア」 という類型の存在を大前提 としてこの部分を解釈 し
,こ
こで述べ られている ε
η′
′
ノαこそが「カピ トゥラリア」であると考えて
きた。
1)。確かに
,「カピ トゥラリア」とみなされているテクス トの中には
,見出しや本文中で
,聖
俗貴顕の「同意」 とともに発布 されたものである
ことが明言されているものもみ られる
1221。しか し
,
このことから
,「カ
ピトウラリア」 とみなされてきたテクス トすべてが
,こ
こで述べ られた
ように発布 されたものであると考えることはできない。そのためには「カ
ピトウラリア」すべてが同一の成立事情を持っているということを示す
明確な根拠を提示する必要があるのだから。
さて
,『宮廷組織論』の中で「カピ トゥラリア」について記述 されて
いると考えられてきたのは
,第
8条
だけではない。大小
2種
類の集会 と
。の そ もそ も ヒ ンクマ ー ル 自身が , この作 品 をA′解θ “′′′θ Hi″ε″ari R`“οr夕“ ακ力′ηお60P'α′ηおεOpθ s θr′グ″″″焔rO′ο″α “″“″p`r cap′′タル と呼んでいること か らも,capFr“Iαが「条項別 に分 かれた文書」以上の意味 を持 っていない ことが分かるT Gross and Ro Schie臓,Dιο〃′″
`p′ルォ:ちPrOJ%“sp.32。 それに もかか わ らず
,前
註 で挙 げた現代語訳 はすべ てこの部分の ε″I′ “ル を「カピ トゥラリぃ
FtttTttn岳
彗
累
築
劃
卜
場簿孵
k与
覗承
場
つ
ぁ
′
″
レ
が
「
カ
ピ
ト
ゥ
ラリア」 と訳 されていることからも明らかである。の
1.こ2行
錫兜れ農
;棚
楊Ъ
島鵬
lに蹴非榔蹴
1:〃
厳
)場夕
),
F″
:;篠
ご
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灘質
■
(7ノ
α
tt Bιゆ
″
あ助“
ル
″
励ら■
岨
gart9り&,pp
そ こでの議論 の進め られ方 についてが詳細 に記述 されている第
29条
か
ら第
36条
の うち
,第
34条
において もε
η
`:ノαへ の言及があ り
,こ
れ も
しば し
│ゴ「カピ トウラリア」についての記述であるとされて きたのであ
る
1231。この部分 についてはすでに大久保氏が現代語訳 を行 っているた
め
,や
や長 くなるが原文 とともに引用す ることとす る。。
(下線 は引用
者
)。さて
,上
述の高官たち
(proceres)および王 国の重 だった貴族 たち
(primi senttores)には
,両
方の集会 の際
,彼
等が事件が無いのに召
集 されて出頭す る事 な きよう
,国
王の権限により
,協
議検討 に供す
るため箇 条書 の整理 された規 定
(capitula)―― これ らの規 定 は
,国王が神助 によつて自ら見出 した ものか
,あ
るいは彼等
[貴族
]の
[引用者註
:前
回の集会 か らの
]退
去後各方面 よ り示唆 された もの
である 一一 が交付 され るされる例 であった。 この規定 を受領 した
後
,彼
等 は
,問
題の重要性 に応 じ
,或
いは一 日或いは二 日
,時
には
三 日かそれ以上の期 間
[討議 を行 った]。
その間官廷の役人の中か
ら選 ばれた使者
(domestici plalttii missi)を仲介 に して
,彼
等 は何
な りと欲する諸点について国王 に質問 し
,そ
の回答 を得た。部外者
は何人た りとも
,問
題が夫 々結論 に到達 して栄光輝 く国王の御耳 に
入 り
,そ
の尊眼 を汚 し奉 るに至 り
,且
つ神賦与 し給 うた王の叡智が
(23) I.Nelson,`Lcgislation and consensus in the reign of Charles the Baldt Eadem,Pori―
またsα″グR′
`夕 α:′
“Eαr1/解θグ
:θνヮIE"ropθ,London,1986,pp.103-Hl;M.Costambeys,
M.Innes and S.MacLcan(eds.),Cα rOri4giα″ν%″′,pp.1821
。→ 大久保泰甫「 カ ピ トウラ リアの法 的性格 (二)一 カルル大帝 。ル トウイヒ 敬虔帝時代 に関す る一試論― 」,『法学協会雑誌』85(5),1968年 ,pp.724f(pp.
480。 原文 は漢字 とカタカナで書 かれてい るが
,適
宜 ひ らが なに変 えて引用 し た。カロ リング期のカピ トゥラリア 177
賢 くも選取せ られ し決定 に悉皆の者が同意す る ところとなる迄 は
,[そ
の場 に
]接
近す ることを得 なかった。見 よ
,か
くの如 く
,神
に
セ。
Proceres vero praedicti sive in hoc sive in i1lo praefatO placitO,qui et prilni
senatores regni,ne quasi sine causa convocari viderentutt mox auctOritate
regla
QuibuS Susceptis interdunl die uno,interdunl biduo,interdunl etialn triduo
vel amplius,Prout rerunl pondus expetebat,accepto ex praedictis dOmesti―
CiS Palat五 nlissis intercurrentibus quaeque sibi videbantur interrogantes
responsumque recipientes,taln diu ita nullo extraneo adPropinquante,
donec res singulae ad efFectunl perductae gloriosi principis auditui in sacris eius obtutibus exPOnerentutt et quicquid a lDeo data sapientia eius eligeret,
omnes sequerentun Ecce sicut de unO,ita de duobus,vel quotquot essent
ria expolirentu■
この部分で ε
η
:′“
′
αとい う語があ らわれるのは
,下
線 を引いた
2箇
所
である。 しか しこの部分の記述 を読む限 りでは
,こ
こで言及 されている
ε
η′
`ノαは集会での議論 のたた き台 として用い られる議題 目録の ような
ものであ り
1251,第8条
で言及 されている「家臣の一般的同意により法 と
1251 例 えば,808年
の ε ″′′夕′αε夕 “prれ,scοψ“″あ な どはこの ような用途 に用いみなすべ きものとして発布 された
,キ
リス ト教徒の王たちとその祖先た
ちの条項 ε
η′
′
“
レ」 とは明 らかに異なるものであると思われる。この点
では
,大
久保氏が ここで ε
η″
“
レを「
(箇条書の
)規
定」
,「事案」 と訳
しているのは全 くもって正 しいといえる。
0。なお
,ここで述べ られている「悉皆の者が同意する」は
,第8条
の「家
臣の一般的同意」を想起 させるが
,第
34条 の言い回しは ο
““
“
sθa“θ
κ
“
―
`“rで
あ り
,第
8条
の
r4θ″
I:εο
“
Sι“
s“′′
θ
::““
s“ο
r““
と単純に同一視す
ることはで きない。仮 に同一の手続 きを意味 しているに して も
,そ
れに
引 き続いて行 われることが予想 される国王 による「発布」 は第
34条
で
は言及 されていない。 これほ ど詳細 に集会 における手続 きが記述 されて
い るに もかかわ らず
,言
及 されてい るの は議論 のたた き台 となるべ き
ε
η
jォ“
レのみであ り
,議
論 の成果が何 らかの形 で文書 として確 定 される
作業へ の言及 は
,第
34条
のみな らず
,集
会 を扱 う第
29条
か ら第
36条
までの記述の全体の中で一切あ らわれてこないのである
1271。られたテ クス トであろ う,A.Boretius(ed.),MGH C″′勧Iαriα歿娑″Fra“εοr“燿二
no.51,pp.138亀 この 種 の事 例 はRL.Ganshol 140s Wα ““グ′θ Kap,「 “″ r′ “ζ pp. 25f;A.BthleL Cap勧 レr,α〃θ `れpp.323fに まとめ られている。 (20 なお
,著
者 が確 認 で きた限 りで は,す
べ ての現代語訳 において ここでのcapir“ル は「 カピ トウラリア」 とは訳 されていない。T Gross and R.SchiefFett Dθ
ο″:“Pα:α `',,PP.9193;D.Hcnihy(ed.),ル θ Hisわッ げル “ あ:お解,p.225;M.PЮu, Ifi″ε “αちD`ο rJi“θ pα″ “ :ψ′ヵ レ,pp.85-91.第 34条は, Jo Nelson,`Legidation and
consensus in the reign OfCharles the Bald,p.105において も英訳 されている。ネリレ
ソ ンも訳文中でcapitulary(capitularies)と い う訳語 は用いていない ものの
,そ
れ に もかか わ らず この部分が シ ヤルル禿頭王時代 にお け る集会 と「 カ ピ トウ ラ リア」のあ り方 を反映 してい る と考 えてい る様子 であ る,Ibi′,pp.103-lH. この点については,す
でにBo S.Bachrach,`Adalhard of Corbies's Dιο〃′ “Pαlαr′′, PP.15-23が 正 当な批判 を加 えている。 1271 第8条にみ られ る手続 きが,第
29条∼第36条の部分 にあ らわれて こない 理 由 と して,そ
れぞれの部分が執筆 された年代が異 なる可能性が考 え られ る。 註16で述べ た ように, この作品はシヤルルマーニュ時代の慣行 を記述 したア ダルハ ル ドゥスの作 品 を もとに, ヒンクマールが カロ リング末期 に作成 した もの なのであ る。 この ように考 える と,シ
ヤルルマーニ ュ期 とヒ ンクマール が執筆 を行 つた時期 の間の慣行 の違 いが二つの箇所 で得 られ る印象の違 いにカロリング期のカピトゥラリア
179
以上 の議論 か らは,以
下 の3点
が確 認 で きる。1)こ
の作品の執筆者は
,撓
ぃ
(ここではおそらく
,い
わゆる「部族
法典」を意味する
)と
並置 されうるような
,「家臣の一般的同意
により法 とみなすべ きものとして発布 された
,キ
リス ト教徒の王
たちとその祖先たちの条項 ε
η伽レ」 という類型が存在すると考
えている。
2)集
会 において は
,1で
挙 げた ような手続 きを踏 んで発布 され る
ε
″
:′“
レ とは異 なる
,議
題 目録 と して作成 された ε
η
:′“
ルが用 意
されることがあった。
3)先
行研究が「カピ トゥラリア」とみな して きたテクス トの中には
,1)の
ごとく成立 したことが明言 されているテクス トも
,2)の
よ
うな議題 目録 と思われるテクス トも
,さ
らにはそのいずれ属する
のか不 明なテクス トや
,1)に
も
2)に
も属 さない と思 われるテ
クス ト
(たとえば国王巡察使が用いたメモなど)も 含 まれている。
それ らすべてを「カピ トゥラリア」 とい う一類型概念で把握する
態度 は
,『宮廷組織論』 の中には一切み られない。
2)フ
ォン トネル修道院長アンセギスによる『カビ トゥラ リア蒐集』
次に検討す るのは,フ ォン トネル修道院長アンセギスが作成 した
,「カ
反映 されてい る と理解す ることがで きるか もしれ ない。 しか し,確
定 的 な こ とを述べ るためには更 なる議論が必要 となるため,本
稿 で は この点 には これ 以上立 ち入 らないこととす る。ピ トウラリア克集」である。め。 この蒐集は,ア ンセギスが私的に作成 し
た もの とされてお り
,827年
に成立 した全
4巻
と補足 か らなっている。
第
1巻
と第
3巻
が シャルルマーニュに由来す る史料
,第
2巻
と第
4巻
が
ルイ敬虔帝
(と共同皇帝 ロタール
1世 )に
由来す る史料 を収録 してお り
,それぞれ教会 関係の もの と世俗 関係 の ものに分類 されている。ただ し
,アンセギスの蒐集 には
,
どの条項が何年 にどこで発布 された ものなのか
の情報 は記載 されていない。 また
,教
会 関係の条項 と世俗 関係の条項 を
異 なった巻 に収録す る とい うアンセギス方針 ゆえに
,MGH版
(や他 の
同時代の写本
)で
「一つのカピ トウラリア」 として編集 されている条項
群が
,ば
らば らにされて複数の巻 に収録 されてい る事例 も少 な くない。
「 カピ トウラリア」 に しば しばみ られる
,メ
モ書 きの ようなそれだけで
は意味 をなさない条項 。
"や
,ア
ンセギスが他の条項 と重複 しているな
どの理由で克集本体 に収録すべ きではない と考 えた条項は補足 にまとめ
られている。の。これは官廷の依頼や支援 を受けて作成 された とい う意味
での「公式」の蒐集ではない との見解が現在では有力であるが
01),この
作品が「カピ トウラリア」 を蒐集 した ものであるとい う点において研究
史は一致 している。
"。しか し
,ア
ンセギスは本当に「カピ トウラリア」
(2の本 稿 で は G.Schmitz(ed。),MGH D′θ Kapil“レri`“ sα
““ I“暉 グ “ A″s響島HannOVerD 1996を用 い る 。 1291 例 え ば,二Dι Jθε′:θ “ ib“s.I Dιεα “`“ .な ど と い つ た 条 項 で あ る,Go Schmttz (ed。),DたKapF′夕Jαrた "sα“″ル暉 グ“ Arsをs,P・665. (30) Ibiグ.,p.17. (31)ル
he
law': ・), Ear1/ が 新 た (3の この蒐集 には「 カ ピ トウラリアではないテクス トも収録 されている」 こと が指摘 されてい る ものの,ア
ンセギス は意 図的 にそれ を行 ったので はな く, あ くまで も「 カピ トウラリア」を蒐集 しようと試 みていた と説明 されてい るG. Schmitz(ed.),D′θ Kap:′ “Iαrセ″ sα″ “ J夕4g′ “A4sagts,p.251カロリング期のカピトゥラリア
181
を蒐集 したのであろ うか。アンセギスが何 を集め ようとしたのかは
,彼
自身が執筆 した蒐集の序
文か ら明 らかになる。以下
,試
訳 とともに引用 しよう
(下線 は筆者
)。アンセギススは
,キ
リス ト教徒 たちの偉大 なる皇帝
,故
カロルス陛
下への愛故 に
,そ
して彼の息子である
,大
いに卓越 し敬虔 なるル ド
ヴイクス 。アウグス トゥス陛下
,そ
して敬虔 なるル ドヴィクス帝の
輝か しいご子息
,ロ
タリウス帝への誠実な愛ゆえに
,以
下 に記述 さ
れた条頂群 をまとめた。それ らは
,聖
なる教会の利益のために作 ら
れたのだか ら
,疑
い もな く有益 な法 として固 く理解 されるべ きイ
)のである。
...Ansegisus.“ pro amore bonae inemoriae domni KaroL Inagniimperato―
ris christianorunl atque praecellentissilni ac P五 sSilni domni Hludowici
augusti fllil ipsius sincera dilectiOne necnon et praeclari Hlothar五 caesaris,
fllii p五ssilni HludOwici ilnperatoris,haec subter descripta adunaVl capitula,
quae
■rmier tenenda suntlege.0
アンセギスはここで
,「ヵピ トゥラリア」 を蒐集 した とは述べていない。
彼 は
,3人
の君主 に由来す る条項群 ε
η
j′“
′
αを蒐集 した と述べ てお り
,しか もそれは単 なる ε
η′
′
“
′
αではな く
,「しっか りと有益 な法である と
みなされるべ き条項群 η れレ」である。 ここにみ られる文言は
,『宮廷
組織論』第
8条
で述べ られている「法 とみなすべ きもの として発布 され
(33) Iι′′。,pp.4311た」条項 ε
″″
“
:αを思い起こさせる。「法 とみなすべ き条項 ε
″
j`“Jα」は
,その他の単なる条項
cap伽:αとは異なるものとしてみなされていたよう
であ り
,す
でに同時代において
,何
らかの形での類型理解が存在 したこ
とが想定で きる。 しか しここで
,「ここで言及 されている ε
η′
オ
“
:αこそ
が『カピ トウラリア』なのだ」と考えるのは早計である。少なくとも『宮
廷組織論』第 8条 にみられるε
η″
“
Jαは
,先
行研究が「カピトウラリア」
とみなしてきたテクス ト群 とは一致 していないことを
,す
でにわれわれ
は確認 したのである。ここで
,同
時代史料にあらわれる概念を
,分
析概
念「カピトゥラリア」 と容易に合致させてしまったのでは
,先
行研究 と
同じ過ちを繰 りかえすことになるだけである。
アンセギスの蒐集の分析に戻ろう。実際のところ
,ア
ンセギス蒐集に
は
,「家臣の一般的同意により
,法
とみなすべ きものとして発布 された
条項」というイメージとはかけ離れた
,集
会の議題 目録や国王巡察使が
用いたであろうメモのようなテクス トも非常に多 く含まれている。なぜ
このようなことが起こっているのだろうか。
アンセギスによれば
,彼
が蒐集 したテクス トは
,「様々な時期に様々
な羊皮紙片にばらばらに書かれていた」
1341。ここでは
,『宮廷組織論』第
34条 における
,国
王 を中心 とした集会において用い られえた議題 目録
のようなε
η″
"麟への言及を思い出そう。このような議題 目録以外にも
,国王を中心 とする意思決定 。決定伝達の過程の中で
,
きわめて多様なテ
クス トが作 られたことは
,ボ
レテイウス・クラウゼによる「カピトウラ
リア」の
MGH版
に含まれているテクス トの多様性 をみれば明らかであ
“
L.ユ
鯖
i営;零
葛蹴需服
'湯例
耀
i痘
腸甘
脚
FawT城
軍サ
ンセギス蒐集 中のテクス トの分析 か ら,彼
が既存 の何 らかの蒐集 を用いた形 跡がみ られ ない こ とを明 らか に し,羊
皮紙片 を もとに克集 を作 成 した とい う 陳述 は信頼 に値す る と評価 してい る,ル,グ.,pp.68-70.カロ リング期 のカピ トゥラリア
ろ う。例 えばそ こには
,集
会での成果 を参加者が個別に記録 したテクス
ト。→
,議
論の成果 を君主に提示するために作成 されたテクス ト
00,集
会
での決定 を在地に伝達す る際に伝達者が参照す るために作成 されたテク
ス ト
,君
主周辺の比較的小規模 な集団が作成 して国王巡察使
“
:siあ“
み
“
:ε′に託 したテクス ト。つ
,在
地 レヴェルで中央の決定 を伝達する際に作
成 されるテクス ト
00な
どが含 まれている。それ らの ε
η
:′“
:αは
,そ
のそ
もそ もの役 目を終えたのち
,司
教座や修道院に「羊皮紙片」の状態で雑
多に保管 されていたのであろう。アンセギスが蒐集 を始めた とき
,彼
は
日の前 にあるテクス ト群がそ もそ もどの ような役割 を与 えられていた も
のなのか
,明
確 に区別す ることがで きなかったのではないだろうか。
"。 (35)こ の種のテクス トの一つ として,816年の集会での議論の際に参加者 によっ て作成 され た文書 が残 されてい る,H.Morddに `Karolingische KaPitularien',pp.621
これは一参加者 に よる「私 的 な」記録 とされてい るが,「オ リジナル」 である と考 え られている。●の 夕Jえ│ゴ, 829年 の
EPisε Opθr"解αグHIyグο″′ε “″ ′ “ P`″r確解 ″枡ゴθ,A.Boretius― "γ鶴 譜嘲 贅 基努貿客 壕 篤薯
LT置 11ぞ
瑾 鵠 :程筵 ξ枕 る場合 の み な らず,集
会 の散会後 にテクス トが作成 されて各地 に送付 される事例,君
主周辺 で決定 された内容が巡察使等 を通 じて伝達 され る事例 な ど多様 な形態 を想定すべ きこ とが指摘 されてい る,C.P6ssel,`Authors and recIPients Of CaЮ ―lingian capitularies',pp.259-265.な お
,こ
の問題 を考 える際 に,「カピ トゥラリ アの在地への伝達」 を問題 とす る態度 は適切ではない。「集会や君主周辺での 決定事項 の在地へ の伝 達」 に際 して,そ
の副産物 と して「多様 な性 質 を持 っ た条項 に分 け られたテクス ト」が生 じているのであ り,「多様 なカ ピ トゥラ リ ア」が生 じていることを大前提 と してはな らないのであ る。 この点 について いえば,ガ
ンスホーフが,「文字 に されたテ クス トは もっぱ ら公知のためにの み用 い られた」 と述べ ていることは一定の妥当性 を持 っている,RL.Ganshol
餞2s″α ““グセ Kap′′タルr′ `″ ζ pp.351 しか し,現
在 「 カ ピ トゥラ リア」 とみ な されているテクス トすべてがそ うであった と考 えることもまた誤 りであろ う。 1381 中央か ら何 らかの経路 を通 じて もた らされたテクス トの内容 を在地 に広め るため に複製 した もの に加 え,中
央 での決定 を反映 した大司教 区会議決議や 司教 カ ピ トゥラ リア も,そ
の機能の点 で同種の ものである とい って よぃ。 こ の ような在地へ の意思伝達 に関す るザルッブルク大司教 区の事例 については, 拙論「 カロ リング期教会改革のバ イエル ンにおける展開 ―― ザルッブルク大 司教 アル ノ (785[798]-821)の 時代 を中心 に 一―」,『西洋史研究』新輯第34 号,pp.77109.本
稿 の結論 と展望2)も参照。 (3" この点についてはすでにシュ ミッツが類似の指摘 を行 っている ,G.Schmitz 0 0そのような状況下でアンセギスは
,君
主たちに由来する「聖なる教会の
利益のために作 られた」 と考えられるテクス トすべてを自身の蒐集に収
録 した。この点において
,ア
ンセギスは
,MGH版
の編者ボレテイウス。
クラウゼ
,そ
して現代の研究者たちと同じように
,こ
れらのテクス トす
べてを一つの類型のごとく認識 して しまったのである。
もしかすると
,ア
ンセギスは
,テ
クス トのそもそもの役割の違いを認
識 しつつ も
,国
王に由来 してお り「聖なる教会の利益のために作 られ
た」
(0)と考えられたテクス トすべてが し に相当すると考えた可能性 も
あるに
1)。しか し
,そ
うであったとしても
,そ
のような
'α理解は
,彼
が
蒐集 したテクス トが成立 した段階における君主やその取 り巻 きたちの理
解 とは異なっていただろう。例えば
,ル
イ敬虔帝が 820年 に出した「カ
ピ トゥラリア」には
,「かつて朕が
,全
員の同意 とともにサ リカ法に付
加するようにと命 じておいた条項は
,今
後
,条
項ではなく法 と呼ばれ
,それのみならず法 として理解 されるように」
1421との文言がみられる。こ
こか らは
,君
主に由来するε
η
:′“
:αがすべて自動的に ほ とみなされた
(ed.),DセKap′r夕Iαriθ
“sa″解 I夕暉 グ “ A″望ぃ,p・
25.こ
こで彼 は,「あ るテ クス ト が カ ピ トウラ リア として受 け入 れ られ るべ きなのか どうか を考 える際 に,彼
[アンセギス]は
基本的 に,現
代 の研 究者 たち と同 じような状況 におかれてい た」, と述べ る。 しか しア ンセギス は 目の前 のテ クス トが「 カピ トウラリア」 なのか どうか を考察 したので はない。彼 は「聖 なる教会 の利益 のため に作 ら れたのだか ら,疑
い もな く有益 な法 として固 く理解 されるべ き」 ものに相 当 す るのか どうか を考察 したのである。 “ の なお, この序文 は,教
会 関係 の条項 を収 録 した第1巻,2巻
のみ な らず, 蒐集全体 に対す る ものである。 に1)シ
ュ ミッツは,ア
ンセギスが827年段 階では意味 をな さな くなった条項 な ども収録 してい ることを指摘 し,彼
は蒐集の際 には手 に入 つた ものすべ てを 収録 した と想定 している,肪
とpp.15-17.(42) ``¨.ut capitula que praeterito anno legis Salicac Per omniunl consensunl addenda
esse ccnsuilnus iam non ulterius capitula sed tantum lex dicantur,imino pro lege
teneantun" A.Boretius(ed.),MGH Cap′ ′ “ レriα″ν “ Fra"εοr“ “二nO.143,c.5,p.
295.こ
こで言及 されている `η′`“ レ とは,ib″,nO.142,pp.292f[819/20年]を
指す。 なお,nO.142も nO.143も ア ンセギス蒐集 には収録 されていない。カロリング期のカピトゥラリア
185
わけではない こと
,君
主 自身 も
,
自身が 出 した ε
η′
オ
“
:αすべ てが たχに
相 当するとは考えていなかった ことが垣 間見 える。は じめに君主周辺で
テクス トが成立 した段階においては
,ア
ンセギスが克集 した条項群が一
つの まとまった類型であるとい う認識は存在 しなかったと考えられるの
である。
3)フ
ェリエール修道院長ルプスによる『法の書』
最後 に短 く検討するのは
,フ
リウリ辺境伯エベ ラル ドの依頼でフェリ
エール修道院長ルプスが
830年
代 に作成 した 『法の書』
Libθ r r昭““
でぁ
る
1431。この作品は部族法典 とともに
,シ
ャルルマーニュ
,イ
タリア王 ピ
ピン
(シャルルマ ーニュの息子
),ロ
タール
1世
の「 カ ピ トゥラリア」
を収録 した ものであると考 えられて きた
1441。ここでは
,蒐
集冒頭 におか
れた献辞か ら
,ル
プスが何 を蒐集 しようとしたのかが明 らかになる。そ
こでは
,本
書の内容 に沿って
,サ
リー 。フランク人の図像 と法
,
リブア
リア・フランク人の図像 と法
,
ランゴバ ル ド人の図像 と法
,ア
レマニア
人の図像 と法
,バ
イエル ン人の図像 と法 についてが述べ られ
,そ
れに続
いて「 カピ トゥラリア蒐集」 とみなされてきた部分について叙述が行わ
れる
(下線 は筆者
)。見 よ
,カ
ロルスが ピピヌス と顔 を合わせ
,ど
れだけ輝 くのか
見 よ
,ル
ドヴィクス帝
,そ
して偉大 なロタリウスが
0
こ の 作 品 に つ い て は,0.Minsch,Dιr Lルιr υ “グ“ Lη “ Sソο″ルrrだrθsFranhrtam Main―Berlin―Bern― Bruxeues― New York―C)xford―Wien,2001.
(“
)な
お,ル
イ敬 虔 帝 の「 カ ピ トゥラ リア」 も当初 は収 録 され て い た もの の , 政 治 的状 況 ゆ え に ロ ター ル側 の人物 に よって削 除 され た と考 え られてい る,0. Miinsch,Dar ttibθr r鱈 ““ aes L″ρ “ sッο “Fθ rriυres,pp.11lf; H.MOrdek,,`Frankische
彼らの法をあらゆる地にどれだけとどろかせたのかを
!En Carolus cum Pippino quarn mgetin vultu, En Hludowicus Cesar quanlque Hlotharius heros,
IPSOrum quantum et墜
per Cuncta tonantes!“⇒ル プ ス は こ こで
,彼
が 収 録 した テ クス トを は っ き りと た多sと 呼 ん で おり
,先
行する部族法典のテクス トと同種の類型 とみな している。
ただ し
,君
主 ごとの条項群 を聖俗 に
2分
割 したア ンセギス と異 な り
,ルプスは 目次
Capi′“
:α′
:οにおいて
,シ
ャルルマーニ ュのテ クス トを
6,ピピンの もの を
3,ロ
タールの もの を
4の
条項群 として ま とめてい る。
内容ではな く発布機会 ごとに「勅令」が まとめ られているかの ような印
象が生 まれているのである
(“)。シャルルマーニュに由来す るテクス トの
一つ 目条項群の前 には
,「大 いに卓越 したるカロルス皇帝陛下の
,法
の
条項 ε
η勧
:α:響イ
″が始 まる」
1471との文言がみ られ,以 下に続 くテクス ト
が
「法」
れぃ とみなされていることがここでも明らかになる。しかし
,シャ
ルルマーニュの一つ目のもの以外に関しては
,そ
れぞれの条項群を指し
て
cap′′
“
レ
“
という語が用いられている点が興味深い。
「同じく第
2の
カ
ピトウラーレの表題」
(シャルルマーニュのものの
2つ
目
),「ピピヌス
王のカピトウラーレの表題が始まる」
(ピピンのものの一つ日
),「同じ
くカピトウラーレ」
(ピピンのものの
2つ
目
),「ロタリウス皇帝陛下の
0 0.Miinsch,D`r Libar:箸 ““ グιs Lη “s νο“ル″'26p.100。 現存 す る 2つの写 本 には実際 に君主の図像 も収録 されている,ib″.,PP,82-86. (“)た
だ しルプス蒐集 にみ られる「 カピ トゥラリア」 ごとの切 れ 日は,現
在 の 研 究者 に よって想 定 されてい る「 カ ピ トウラ リア」 の ま とま りと完全 に一致 してい るわけではない,肪
とpp.109-119,pp.225-257.カロリング期のカピトゥラリア
187
カピ トウラーレの表題が始 まる」
(ロタールの ものの一つ 目
),「同 じく
司教たちの諸問題に関するカピトゥラーレ」などの文言がみられるので
ある
1481。ルプスはここで
,εη″ノα
“
という語を単なる「条項に区分 され
たテクス ト」 という意味ではなく
,εη′
′
′
′
α″ν″ とも呼ばれ得るような
,「君主の勅令」のごとき意味で用いている可能性がある。この意味では
,彼の作品のこの部分を「カピトゥラリア蒐集」 と呼ぶことは誤 りではな
いのかもしれない。 しか しこれらのテクス トがルプスによって紛れもな
く健
o(性
)と
みなされていることもまた重要である。ここで ε
η′
′
″
:α“
が どのような意味で用いられているにせ よ
,ル
プスが蒐集 した ものは
,君主に由来する
:釧(鍵ぃ
)な
のである。
"。ところが
,ア
ンセギスにみられたのと同様に
,ル
プスの蒐集にも
,わ
れわれのイメージする法
Jα (撓ぃ
)と
は大いに異なるテクス トも含 まれ
ている。例えばピピンの一つ 目のカピ トゥラーレε
η′
′
“
′
α
″第 23条 とし
て収録 されている 805年 のテクス トは
,「国王の立法」 というイメージ
からはかけ離れたメモ書 きのようなものであるし
60,ピ
ピンの 2つ 目の
カピ トウラーレε
η
:′“
:α″第 23条 か ら25条 は大司教区会議決議からの
にめ “Item tituli capitularis secundi";“
IncIPiunt tituli capitularis Pipini regis";“ Item
ituli r五 ilnperatoris''; ``Itenl capitulare
ル′′ に
9
とし,す
でに従来の「カピ トゥラ リア」研究の中で も何度か行われている (これについては註 4に 挙げた文献 を参照)。 しか し先行研究は,「カピ トゥラリア」 という類型概念の存在 を大 前提 とした うえでcap′′タルra/θη′′タルr′αが史料に登場する個所 を列挙 している認こ
1.1織
薦
tL。):ぽ
議訴懸Ⅷ 滉弯
rfin,fiな
お
こ
↑
び峯瀧盤動鰹‰ξ
聯じ
■
T電
寒
Lζ
寛
鶴為
織
71
L.cansh01 Иtts″αた “′セκpれ
″r″″ζ pp.801 この テ クス トの性 質 につ い て は, Ho MOrdek,`KaЮlingische Kapitularien',p.51;Idem,`Kapitularien und schrin‐吊 懸
,131罐
`d鴻
″μ 雄 ″ 夕″′Rα “ ″″″″吻 夕″″rル4焔
d響
“,抜粋である●
1)。なお
,ル
プスはア ンセギス と異 な り
,既
存の何 らかの蒐
集写本 をもとに自身の作品 を作成 した と想定 されているが
GD,い
ずれに
して も彼が 鍵ぃ として蒐集 したテクス トに も
,そ
の成立時か ら君主や
その取 り巻 きたちに よつて 聰ぃ と見 なされていなか った ものが含 まれ
ていると考えて よいだろう。
Ⅱ
I.結
論 と展望
1)結
論
カロリング期 には
,き
わめて多様 な ε
ηれ
:α,つ
ま り条項別 に書かれ
たテ クス トが作成 された。 この種 のテ クス トは当時の政治的 コミュニ
ケーシ ョンの副産物 として様 々な形で成立 した もの と思われる。 この よ
うなテクス トの多 くは「国王 による立法」 とい うイメージとは程遠い も
のであ り
,こ
れ らすべてに関 して
,何
らかの権威 を付 された「原本」が
存在 した と想定す ることはで きない。「原本」をもとに同一の文言 を持 っ
たテクス トを多数作 りだす ことが
,初
めか ら意図 されていた とは限 らな
いのである
1531。 (51)ここで抜粋 されてい るのは,799年
か ら800年にか けて行 われたザル ツブ ルク大司教 区の大司教 区会議の第13条か ら 15条 である,Oo Minsch,Dθr Lル ar蠍鳳鴛
:l傷I脇
■
.簡
hA陪
賜需
・
L策
野∫
771FIW
(52) O.Miinsch,Dθr Libι r rcrィ “′ gS Ij″p夕s νο “Fθrri夕名`s,pp.266f ←⇒ したが つて,現
在複 数 の写本 中で残 され てい る ε″′′ノαであつて も,そ
れ が 中央 か ら在地へ の伝 達過程ですで に複数筆写 された事例 に加 えて,「一点 も の」 として作成 されて在地へ伝達 された後の段 階で,複
数の写本 に収録 され た 事 例 もあ り得 る こ と を念 頭 に お く必 要 が あ る。D.Zimpel,`UnlicbsalneHerrschererlasse im Frankenreich. Uber die Sabotage von Kapltularien,0.Minsch
i:t瞼
曇 習 縦 や ぅ群笙 鮒 種
カロ リング期のカピ トゥラリア
189
しか しこのような多様なε
η加
:αに加えて
,レ
とみなされるべ きもの
として成立 した ε
η
:`“レ もまた存在 した。テクス ト自体が成立する段階
においては
,そ
のような 腸 とみなされるべ きε
η′
′
ノαと
,そ
れ以外の
条項別に書かれた雑多なテクス トはある程度区別されていたものと思わ
れる。この種のテクス トは
,「国王による立法」のイメージと相当程度
合致 してお り
,ア
ンセギスやルプスがそもそも蒐集 しようと試みたのも
まさにこの種のテクス トだったのか もしれない。彼 らは「カピトゥラリ
ア」ではな く
,カ
ロリングの君主が発布 した
'α (磁ぃ
)を
蒐集 しよう
と試みていたのである。
さて
,上
述のごとく多様な ε
η′
′
′
:αが存在 したことを考えるなら
,そ
れらすべてを「カピトゥラリア」 という一類型 として一括 して把握する
べ きでないのは明白である。では
,先
行研究が「カピ トウラリア」なる
類型を想定 して多様なテクス トを同質のものとみなしてきたのはなぜな
のだろう。アンセギスやルプスのみならず
,わ
れわれに「カピトウラリ
ア」を伝えている写本の作成者たちの多 くは
,
日の前の ε
η′
′
“
:αが
,そ
もそもどのような役割を持っていたものなのかを区別することが困難な
状況におかれていたと考えられる。それゆえに
,アンセギスやルプスは
,′
策 に相当するテクス トを克集すると述べていなが らも
,「国王の立法」
というイメージとは合致 しないテクス トをも
1又録 して しまっているので
の伝達後再筆写 され る段 階で行 われ る可能性 もあることを十分 に考慮 してい ない。再筆写の段階における改変の事例 としては,Go Schmitz,`Intelligente Sch― reiben Beobachtungen aus Ansegis― und KapitularienhandschrifLcn',H.Mordek(ed.),Paps′′ “ ″,KiκЙ `“″′Rι “ ムルsおar′ルr HOrs′動 力r″α ““z““65.Gθ b“γお `¢ 多Tiibin― gen,1991,pp.79-93が 参考 になる。 また