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ナショナルな風景をめぐって : 国立公園選定過程における風景観の交錯

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(1)

における風景観の交錯

著者

長尾 隼

雑誌名

関西学院大学先端社会研究所紀要 = Annual review

of the institute for advanced social research

6

ページ

33-55

発行年

2011-10-31

(2)

33

はじめに

  蓋し内務省案の立案者たる田村博士は、米国などの例に倣って成るべく人為施設の加はってい ない処女地を第一目標として国立公園の選定に当られたから、日本に於ても、山岳地帯のみがそ の選に上ったことは必至の勢であった。 (脇水1937:1 )1932(昭和 7 )年10月 8 日、わが国初の国立公園の候補地として、12ヶ所の風景地が公表された。 北から、阿寒、大雪山、十和田、日光、富士箱根、中部山岳、吉野熊野、大山、瀬戸内海、阿蘇、 雲仙、霧島である。これらの風景地は、1934(昭和 9 )年から1936(昭和11)年にかけ、正式に国 立公園としての指定を受けることとなる(図 1 )。  国立公園の候補地として公表された風景地は、いったいどのような基準にもとづいて選ばれたの だろうか。なにか共通する特徴を有しているというのだろうか。1931(昭和 6 )年に発表された「国 立公園ノ選定ニ関スル方針」という資料を、いま手元に確認することができる。この資料によって、

論 文

ナショナルな風景をめぐって

―国立公園選定過程における風景観の交錯−

長 尾   隼

(島根県古代文化センター 特任研究員)

要   旨

 国立公園とは、単に美しい自然の風景が広がる空間でなく、さまざま な意味や価値が国家によって充填された空間である。この制度がわが国において確立され るのは1930年代のことであり、指定された国立公園の多くは、山岳的な風景を中心とする ものであった。しかし、その選定過程のなかでは、海岸風景地も公園区域に含まれてゆく という現象が生じている。本稿は、この海岸風景地の編入という出来事を事例とし、国立 公園という「ナショナルな風景」が決定されていく場の政治過程を検討してゆくことを目 的とする。海岸風景地の編入に関する議論を検討するなかで、田村剛と脇水鉄五郎という ふたりの専門家のあいだで、意見の食い違いが生じていたことが明らかになった。この意 見の差異は、海岸風景に対してふたりが抱くまなざしの差異を改めて強調するとともに、 互いが理想とする国立公園像の食い違いをも浮かびあがらせる。「ナショナルな風景」が 決定される場の多様な風景観・国立公園観が提示されたとともに、そうした風景が決定さ れてゆく際にいかなる欲望が投影されうるのかも明らかとなった。

キーワード

風景、国立公園、海岸風景、田村剛、脇水鉄五郎

(3)

34 国立公園が当時どのような理念のもとで指定されていたのかが明らかになる1)。「選定方針」は、3 つ の必要条件と 6 つの副次条件を備えていた。そのなかでも、「我が国を代表するに足る自然の風景 地」である、ということが、最も重要な必要条件として求められている。日本という国家を代表す る、「ナショナルな風景」とでもいうものを、先に述べた12ヶ所は共有しているという。  国立公園という理念、あるいはその成立過程については、これまでにも研究が行われてきた2)。ま た、各地の地方自治体史などには、その土地で公園として指定された自然の風景地についての記述 をみることができよう。しかし、こうした研究や記述は、国立公園として指定する、あるいは指定 されるという、きわめて政治的な実践それ自体をなんら問題として取り上げることはない。  「ナショナルな風景」は自明のものとしてそこに存在していたのではない。国立公園として指定 される風景地に、あらかじめその価値が準備されていたわけでもない。国立公園の選定にあたって は、さまざまな専門家たち、たとえば、林学者、造園学者、植物学者、地質学者などが集められた3) 彼らの集合的な学知、それに基づく(と想定される)議論によって、国土空間内から「我が国を代 表するに足る」風景が見出され、選別され、決定されていったのである。  通時的な視点からもこれとは別の指摘を加えることができよう。1931(昭和 6 )年の国立公園法 施行以来80年を経るなかで、国立公園として指定されてゆく風景の特質には変遷が生じている。た とえば、相次ぐ公害被害などで環境問題への注目が集まる1970年代、新設された環境庁に管轄をう つした国立公園行政は、時を同じくして公布された「自然環境保全法」等とあいまって、よりエコ 1)本稿では、環境庁自然保護局編(1981)の巻末資料に掲載されている「国立公園ノ選定ニ関スル方針」を資 料として用いた。以下、「選定方針」と表記する。 2)(1)田中(1981)、(2)丸山(1994)、(3)村串(2005)。 3)村串(2005:96)。 図1 戦前期日本において指定された12国立公園

2

国立公園という理念,あるいはその成立過程については,これまでにも研究が行われてきた2)。また,各地の地方 自治体史などには,その土地で公園として指定された自然の風景地についての記述をみることができよう。しかし, こうした研究や記述は,国立公園として指定する,あるいは指定されるという,きわめて政治的な実践それ自体を, なんら問題として取り上げることはない。 「ナショナルな風景」は自明のものとしてそこに存在していたのではない。国立公園として指定される風景地に, あらかじめその価値が準備されていたわけでもない。国立公園の選定にあたっては,さまざまな専門家たち,た とえば,林学者,造園学者,植物学者,地質学者などが集められた3)。彼らの集合的な学知,それに基づく(と想 定される)議論によって,国土空間内から,「我が国を代表するに足る」風景が見出され,選別され,決定されてい ったのである。 通時的な視点からも,これとは別の指摘を加えることができよう。1931(昭和6)年の国立公園法施行以来80年を 経るなかで,国立公園として指定されてゆく風景の特質には変遷が生じている。たとえば,相次ぐ公害被害など で環境問題への注目が集まる1970年代,新設された環境庁に管轄をうつした国立公園行政は,時を同じくして公 布された「自然環境保全法」等とあいまって,よりエコロジカルな自然環境の保護という方向性を打ち出していった 4)。また,2011年5月には,同年3月に生じた東日本大震災に伴う津波被害を「記念」することを目的として,青森・岩 手・宮城の3県にまたがる海岸一帯を新たな国立公園として再編成するという方針を,環境省は公表している5)。国

2) (1)田中(1981),(2)丸山(1994),(3)村串(2005)。 3) 村串(2005;96)。 4) 環境庁自然保護局編(1981)。 5) 「三陸海岸を新国立公園に 環境省,復興に向け再編」中国新聞,2011 年 5 月 18 日朝刊。 ① ② 阿寒 大雪山 十和田 日光 富士箱根 中部山岳 吉野熊野 大山 瀬戸内海 阿蘇 雲仙 霧島 0 500 ㎞ 図1 戦前期日本において指定された12国立公園

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35 ロジカルな自然環境の保護という方向性を打ち出していった4)。また、2011年 5 月には、同年 3 月 に生じた東日本大震災に伴う津波被害を「記念」することを目的として、青森・岩手・宮城の 3 県 にまたがる海岸一帯を新たな国立公園として再編成するという方針が環境省から公表された5)。国 立公園の風景とは、特定の社会状況のなかで、ときにうつろいをみせながら決定されてきたもので ある。そして、そうした「風景」を国土空間から抽出していくという実践自体が、きわめて政治的 な出来事であることをあらためて確認しておきたい。  この制度がわが国で成立した1930年代には、国立公園としてどのような風景が選び出されていた のか。すでに先行研究において、このとき選ばれた12ヶ所の風景とは、「国家や国民のアイデンティ ティを示すナショナリズムと、きわめて親和的」であり、特に「山岳や渓谷、森林」を共通のもの としていたことが指摘されている(荒山 1998)。確かに、指定された12ヶ所のうち、瀬戸内海を除 いては、山岳風景が中心となるものばかりである。当時の風景の評価に影響を与えたものとして、 志賀重昴『日本風景論』に端緒をもつ新たな風景観、それに伴うアルピニズムの勃興に関する諸事 象などを挙げることができる。こうした山岳風景へのまなざしが、国立公園の選定に大いに影響し ていたことは確かであろう。  しかし一方では、このとき山岳風景に限らず、海岸の風景もまた国立公園の風景として選び出さ れていったことも明らかにされてきている(神田 2008a)。具体的な個所を挙げるならば、吉野熊野 と瀬戸内海、この 2 つの公園である。いずれも、当初は山岳風景を中心とする候補地であったもの が、指定時には海岸の風景を含めたものへと移り変わっていったのである。吉野熊野国立公園の指 定を事例として国立公園とツーリズムの関係を論じた神田(2008b)によれば、こうした海岸風景へ の注目は、「当時の日本の国立公園全体の風景認識の流れのなかで見出されたものであった」とい う。海岸風景へのまなざしが国立公園決定に関する議論の場で全体のコンセンサスを得ていたのか が検証されていないため、この指摘を全面的に首肯することはできない。しかし海岸風景地の追加 という出来事が生じたのは事実であって、このことは、「ナショナルな風景」を決定する議論の場 が、決して山岳的風景に対するまなざしのみに占有されていたわけではなく、それとは異なる風景 へのまなざしが介入する余地もあったであろうことを一方では示唆している。  ただし、そうした議論をへて国立公園に選ばれ指定された風景地には、あまねく「我が国を代表 するに足る自然の風景地」、という表象が節合されてゆく6)。各々の風景地とこうした表象との関係 4)環境庁自然保護局編(1981)。 5)「三陸海岸を新国立公園に 環境省、復興に向け再編」中国新聞、2011年5月18日朝刊。 6)節合あるいは分節化(articulation)という概念は、言語論的転回以降の構造主義、重層的決定の概念をとり こんだマルクス主義、カルチュラル・スタディーズにおいて形成されてきた。ともすれば無関係でありえた 諸要素は、特定の社会的条件のもと、変更可能な構造において絶えず節合あるいは分節化されてゆくのであ る。ラクラウとムフは、節合とは「節合的実践の結果としてそのアイデンティティが変更されるような諸要 素の結果との間に、関係を打ち立てるような実践」であると定義している(ラクラウ・ムフ 2000)。酒井は ラクラウ・ムフが用いた節合という概念を「分節化」と呼び、諸要素を区別することで同一性を表象しよう とするプロセスに注目した(酒井 2007)。こうした節合あるいは分節化の様相を、Morley と Chen は次のと おり的確に説明する。「いわゆる一つの言説の「統一性」とはまさに、異なった別々の諸要素の節合/分節化 であって、それらの諸要素は必然的な「所属」をもたないがゆえに様々な仕方で再節合/分節化可能である。 ここで問題となる「統一性」とは、節合/分節化された言説と社会的諸力との結合である。つまりこれらの 結合によって、それはある特定の歴史的状況のもとで、必然的ではないにしろ連結されうるのだ」(Morley and Chen 1996:141)。

(5)

36 は、国立公園の指定が行われるまさにその時点で、必然的かつ本質的な結びつきを装うのである。 この節合的実践により、それまでに行われていた「ナショナルな風景」の取捨選択という出来事は、 その存在の可能性すら匂わせることなく隠蔽される。こうした一連の実践が、いかなる背景で、ど のような意図のもと行われていたのかという点こそ語られる必要があるのではないか。本稿では、 先に述べた海岸風景地が国立公園に組み込まれてゆくという出来事をひとつの手がかりとしながら、 1930年代初頭における「ナショナルな風景」の決定をめぐる議論がどのような展開を見せていたの か、その一端を明らかにしていきたい。

1.海岸風景地が国立公園候補地に編入されるまで

1.1.わが国における国立公園制度の展開  はじめに、日本の国立公園の成立過程について簡単に述べておくこととする7)1900年代初頭、ア メリカ合衆国に設置されたナショナル・パークに関する情報が日本に紹介された。日本にもこうし た「国設大公園」を設置するよう帝国議会に建議・請願が提出されるのは、1911(明治44)年のこ とであった。その後、1920年前後から内務省衛生局による国立公園設置にむけた調査が開始され、 1927(昭和 2 )年には国立公園協会の設置、1929(昭和 4 )年には機関誌『國立公園』が発刊され る。1931(昭和 6 )年には国立公園法が施行され、翌1932(昭和 7 )年の10月には、前述のとおり 12ヶ所の候補地が決定されたのであった。  国立公園設置に向け実質的に調査が始められたのは1920年前後のことであり、はじめてその候補 地が公にされたのは調査開始 から約 4 年がたった1923(大12)年のことである8)。こ のとき発表された候補地と 1932(昭和 7 )年に公表され た正式な候補地を、表 1 にそ れぞれあげている。1923年に 発表された候補地は16ヶ所で あった。ここから絞り込みが 行われ、最終的に前述の12ヶ 所が決定されていった。候補 地の当否を具体的に追ってみ よう。1923年の時点で候補地 とされていた、「登別」、「大 沼」、「磐梯及吾妻」の 3 ヶ所 は落選していることがわかる。 7)主に丸山(1994)、村串(2005)を参照した。 8)村串(2005:40)。 表1 国立公園候補地区域の変遷 発表された候補地 (1923) 指定された国立公園(1934・1936) 候補地 阿寒湖 → 阿寒 大雪山 登別 落選 大沼 落選 十和田湖 → 十和田 磐梯及吾妻 落選 日光 → 日光 富士 → 富士 上高地 (中部山岳へ統合) 中部山岳 白馬岳 (中部山岳へ統合) 立山 (中部山岳へ統合) 大台ケ原及大峰山 → 吉野熊野 伯耆大山 → 大山 小豆島及屋島 → 瀬戸内海 阿蘇 → 阿蘇 雲仙 → 雲仙 霧島 → 霧島 (丸山(1994)、村串(2005)より作成。)

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37 逆に、1923年の時点では挙げられていなかった「大雪山」が、正式な候補地へと加えられた。なお、 上高地、白馬岳、立山の 3 ヶ所は、「中部山岳」へと一本化された。  本稿において注目しなければならないのは、「小豆島及屋島」が「瀬戸内海」へ、また「大台ケ原 及大峰山」が「吉野熊野」へと変更されているという点である。神田(2008a)が指摘する通り、い ずれの候補地も、山岳的風景を中心としていたものが、海岸の風景を含めた、あるいは海岸の風景 が中心となったものへと変更されているのである。幸いなことに「瀬戸内海」および「吉野熊野」 国立公園の成立過程については、これまでの先行研究において多くが明らかにされてきている9)。こ れらの研究に基づきながら、1923年から1932年にかけ、それぞれの候補地に海岸風景地が加えられ るきっかけとなったであろう出来事を、次節でみていこう。 1.2.瀬戸内海・吉野熊野国立公園の指定と風景の「発見」  瀬戸内海を事例として風景観の変遷を詳述する西田正憲によれば、瀬戸内海国立公園の指定は、 国立公園関係者による多島海景の「発見」がその契機となっているという(西田 1999)。ここでは まず、国立公園関係者という、国立公園の実現を推進した諸主体(アクター)について確認してお きたい。  国立公園に関する調査が開始される際、一人の林学博士 がその任にあたるため、内務省衛生局の嘱託として採用さ れることとなった。後に「国立公園の父」と呼ばれる、田 村剛(1890-1979)である10)(写真 1 )。田村は国立公園制度 の検討や候補地の資料収集、あるいは実地調査など、国立 公園実現に向けた実務を、その萌芽期から担っていく。「ナ ショナルな風景」が決定されてゆく際にも、彼が中心的な 役割を果たしていたであろうことは想定される。  もちろん、国立公園の指定に至るまでのすべてが、田村 ひとりの手によってなされていたというわけではない。1921 (大正10)年からは同じく嘱託として中越延豊が採用されているし、国立公園の実現が現実味を帯び てきた1920年代末から30年代初頭にかけても、多くの職員が新規採用され、実務にあたっている11) また、1927(昭和 2 )年設立の国立公園協会、および1930(昭和 5 )年設立の国立公園調査会(1931 年より国立公園委員会に改組)では、官民双方から専門家や有識者が集まり、協会員や委員をつと めている。彼らもやはり候補地に関する議論や実地調査などを行ったアクターであったし、機関誌 『國立公園』の主要な書き手でもあった。こうした国立公園の実現に向け活動を行っていた諸主体 を、本稿では国立公園関係者としておきたい。  さて、瀬戸内海および吉野熊野国立公園のいずれも、国立公園関係者たちによる実地調査の過程 で、彼らが海岸・海洋の風景を、「発見」あるいは賞賛したことにより、その風景が公園区域に含ま 9)瀬戸内海国立公園については主に西田の一連の研究(1997,1999)を参照した。吉野熊野国立公園について は村串(2005)、神田(2009)を参照した。 10)田村剛の略歴については、日下部(1995)に簡潔にまとめられている。 11)国立公園協会編(1951:42)。 写真1 田村 剛(1890-1979)

1.2. 瀬戸内海・吉野熊野国立公園の指定と風景の「発見」

瀬戸内海を事例として風景観の変遷を詳述する西田正憲によれば,

瀬戸内海国立公園の指定は,国立公園関係者による多島海景の「発

見」が,その契機となっているという(西田 1999)。ここではまず,国立

公園関係者という,国立公園の実現を推進した諸主体(アクター)につ

いて確認しておきたい。

国立公園に関する調査が開始される際,一人の若い林学博士がそ

の任にあたるため,内務省衛生局の嘱託として採用されることとなった。

後に「国立公園の父」と呼ばれる,田村剛(1890-1979)である

10)

(写真

1)。田村は国立公園制度の検討や候補地の資料収集,あるいは実地

調査など,国立公園実現に向けた実務を,その萌芽期から担っていく。

「ナショナルな風景」が決定されてゆく際にも,彼が中心的な役割を果

たしていたであろうことは想定される。

もちろん,資料収集や実地調査,あるいは「ナショナルな風景」の決定に至るまでが,田村ひとりの手によってな

されていたというわけではない。1921(大正10)年からは同じく嘱託として中越延豊が採用されているし,国立公園

の実現が現実味を帯びてきた1920年代末から30年代初頭にかけても,多くの職員が新規採用され,実務にあた

っている

11)

。また,1927(昭和2)年設立の国立公園協会,および1930(昭和5)年設立の国立公園調査会(1931年よ

り国立公園委員会に改組)では,官民双方から専門家や有識者が集まり,協会員や委員をつとめている。彼らも

やはり,候補地に関する議論や実地調査などを行ったアクターであったし,機関紙『國立公園』の主要な書き手で

もあった。こうした国立公園の実現に向け活動を行っていた諸主体を,本稿では国立公園関係者としておきた

い。

さて,瀬戸内海および吉野熊野国立公園のいずれも,国立公園関係者たちによる実地調査の過程で,彼らが海

岸・海洋の風景を,「発見」あるいは賞賛したことにより,その風景が公園区域に含まれることになったというのが,

これまでの先行研究において説明される大まかなストーリーである

12)

。むろん,西田が「発見」と表現する行為,あ

るいはその表現自体が,調査される側という立場の存在を果たして想定しているのかという,時代を違えた双方の

認識自体を問うことも忘れてはならない。1930年代に焦点を合わせるならば,国立公園関係者の風景の「発見」と

いう出来事は,地元の協力者によるしたたかな「準備」がなければ成立し得なかったかもしれないことに,想像力

をめぐらせておくべきであろう(小野 2010)。

10)

田村剛の略歴については,日下部(1995)に簡潔にまとめられている。

11)

国立公園協会編(1951;42)。

12)

西田(1997,1999),神田(2009)。

写真 1 田村剛(1890-1979)

(7)

38 れることになったというのがこれまでの先行研究において説明される大まかなストーリーである12) むろん、西田が「発見」と表現する行為、あるいはその表現自体が、調査される側という立場の存 在を果たして想定しているのかという、時代を違えた双方の認識自体を問うことも忘れてはならな い。1930年代に焦点を合わせるならば、国立公園関係者の風景の「発見」という出来事は地元の協 力者によるしたたかな「準備」がなければ成立し得なかったかもしれないことに、想像力をめぐら せておくべきであろう(小野 2010)。  それでは、瀬戸内海について見ていこう。この国立公園は、当初「小豆島及屋島」という、後に 国立公園として指定される範域よりも面積の小さい候補地として想定されていた。1929(昭和 4 ) 年の時点で、「屋島だけで瀬戸内海を代表せしめるのは、いかにも物足らん感がないでもない」13)と考 えていた田村は、1930(昭和 5 )年 5 月、岡山県下津井の鷲羽山へ実地調査に訪れた。そこから眺 めた多島海の風景を、田村は絶賛する。「鷲羽山に登った、そして私は意外な絶勝を発見して暫くは うっとりとして無言でいた」14)。こうした国立公園関係者による多島海景の「発見」ともいわれる出 来事をきっかけとして、「小豆島及屋島」候補地が「瀬戸内海」国立公園へと変わっていったという (西田 1997、1999)。  事情は異なるものの、「吉野熊野」に関しても、「瀬戸内海」の場合と重複する部分がある。この 国立公園も、当初は「大台ケ原及大峰山」という山岳を中心とする候補地として想定されていた。 神田(2009)によれば、吉野で国立公園誘致運動の中心的な役割を果たしていた岸田日出男という 人物が、この候補地に熊野海岸や瀞峡を有する熊野地方を加えることを考案し、1928(昭和 3 )年 前後からそのための調査および国立公園関係者への交渉を積極的に行っていたという。そのかいも あり、1931(昭和 6 )年11月、田村剛を含めた国立公園関係者による吉野熊野地方の実地調査が実 施された。このとき熊野の海岸を初めて訪れた田村は、「脇水博士も主張されている通り、海は日本 の代表的なものである故、海岸線を包含する国立公園は日本として必要である」15)という発言を残し ている。  田村の発言内にある「脇水博士」とは、明治後期から昭和初期に かけて活躍した地質学者、脇水鉄五郎(1867-1942)のことである (写真 2 )。脇水は自身の専門である地質学に基づいた風景の解説を 行い、特に海岸風景美の重要性の主張を行っていたことが知られて いる(赤坂・石川 1996:13)。また、国立公園協会委員、国立公園 調査会委員をつとめるなど、国立公園風景の決定にも関わっていた 人物であった。脇水は1929(昭和 4 )年の時点で、天然記念物調査 を目的として熊野海岸を訪れており、その風景の価値をすでに認識 していたという(神田 2009)。1932(昭和 7 )年 4 月にも、脇水、田 村を含めた国立公園関係者一行が熊野海岸の調査に訪れた。このよ うに、熊野海岸が区域に付け加えられ、「大台ケ原及大峰山」から 12)西田(1997、1999)、神田(2009)。 13)田村(1929:3)。 14)岡山県史蹟名勝天然記念物調査会編(1932:18-19)。 15)前川(1976:111)。 写真2 脇水鉄五郎(1867-1942)

それでは,瀬戸内海について見ていこう。この国立公園は,当初「小豆島及屋

島」という,後に国立公園として指定される範域よりも面積の小さい候補地として

想定されていた。1929(昭和4)年の時点で,「屋島だけで瀬戸内海を代表せしめ

るのは,いかにも物足らん感がないでもない」

13)

と考えていた田村は,1930(昭

和5)年5月,岡山県下津井の鷲羽山へ実地調査に訪れた。そこから眺めた多島

海の風景を,田村は絶賛する。「鷲羽山に登った,そして私は意外な絶勝を発見

して暫くはうっとりとして無言でいた」

14)

。こうした国立公園関係者による,多島海

の「発見」ともいわれる出来事をきっかけとして,「小豆島及屋島」候補地が「瀬戸

内海」国立公園へと変わっていったという(西田 1997,1999)。

事情は異なるものの,「吉野熊野」に関しても,「瀬戸内海」の場合と重複する部

分がある。この国立公園も,当初は「大台ケ原及大峰山」という,山岳を中心とす

る候補地として想定されていた。神田(2009)によれば,吉野で国立公園誘致運動の中心的な役割を果たしてい

た岸田日出男という人物が,この候補地に熊野海岸や瀞峡を有する熊野地方を加えることを考案し,1928(昭和3)

年前後からそのための調査および国立公園関係者への交渉を,積極的に行っていたという。そのかいもあり,

1931(昭和6)年11月,田村剛を含めた国立公園関係者による吉野熊野地方の実地調査が実施された。このとき熊

野の海岸を初めて訪れた田村は,「脇水博士も主張されている通り,海は日本の代表的なものである故,海岸線

を包含する国立公園は日本として必要である」

15)

という発言を残している。

田村の発言内にある「脇水博士」とは,明治後期から昭和初期にかけて活躍した地質学者,脇水鉄五郎

(1867-1942)のことである(写真2)。脇水は,自身の専門である地質学に基づいた風景の解説を行い,特に海岸

風景美の重要性の主張を行っていたことが知られている(赤坂・石川 1996;13)。また,国立公園協会委員,国立

公園調査会委員をつとめるなど,国立公園風景の決定にも関わっていた人物であった。脇水は1929(昭和4)年の

時点で,天然記念物調査を目的として熊野海岸を訪れており,その風景の価値をすでに認識していたという(神

田 2009)。1932(昭和7)年4月にも,脇水,田村を含めた国立公園関係者一行が熊野海岸の調査に訪れた。この

ように,熊野海岸が区域に付け加えられ,「大台ケ原及大峰山」から「吉野熊野」へと変わっていったという出来事

に関しても,国立公園関係者による風景の「発見」や賞賛が,ひとつの契機となっていることが確認されるのであ

る。

1.3. 国立公園選定時における海岸風景の位置づけ

こうした,国立公園関係者による瀬戸内海および熊野海岸の風景の「発見」が行われていったのは,1920年代後

半から1931年にかけてのことであったといえよう。神田(2008b)も指摘している通り,雑誌『國立公園』の1931年8月

号には「海洋国立公園候補地視察」という記事が掲載され,「国立公園の設定に就ては山岳美や湖沼の美を中心

とする勝景地にのみ偏することなく広く海洋の美を抱擁する地域を選定すべしという輿論は相当強く年々帝国議

会に提出せらるる」状況にあったことが説明される

16)

。この記事ではさらに,「当局にても海洋国立公園計画の必

要を認めた為かその有力なる候補地として一般の首肯する瀬戸内海(香川,岡山,広島関係)につき八月上旬田

村博士を派遣」したことが記された。たしかに,1931年の夏は田村剛が瀬戸内海一帯の調査を行っていた時期で

13)

田村(1929;3)。

14)

岡山県史蹟名勝天然記念物調査会編(1932;18-19)。

15)

前川(1976;111)。

16)

「雑報 海洋国立公園視察」,国立公園3-9(1931),25 頁。

写真 2 脇水鉄五郎

(1867-1942)

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39 「吉野熊野」へと変わっていったという出来事に関しても、国立公園関係者による風景の「発見」や 賞賛が、ひとつの契機となっていることが確認されるのである。 1.3.国立公園選定時における海岸風景の位置づけ  こうした国立公園関係者による瀬戸内海および熊野海岸の風景の「発見」が行われていったのは、 1920年代後半から1931年にかけてのことであったといえよう。神田(2008b)も指摘している通り、 機関誌『國立公園』の1931年 9 月号には「海洋国立公園候補地視察」という記事が掲載され、「国立 公園の設定に就ては山岳美や湖沼の美を中心とする勝景地にのみ偏することなく広く海洋の美を抱 擁する地域を選定すべしという輿論は相当強く年々帝国議会に提出せらるる」状況にあったことが 説明される16)。この記事ではさらに、「当局にても海洋国立公園計画の必要を認めた為かその有力な る候補地として一般の首肯する瀬戸内海(香川、岡山、広島関係)につき八月上旬田村博士を派遣」 したことが記された。たしかに、1931年の夏は田村剛が瀬戸内海一帯の調査を行っていた時期であ る17)。また、同年の11月には、田村、脇水らが熊野海岸の調査を行っていたことも前節で述べたとお りである。海岸風景地の調査が、なんらかの契機をもってこの時期に行われていたのである。  こうした出来事が生じた社会的背景として、何が指摘できるだろうか。ここで、明治以降の主な 風景論における、海岸風景地への言及について確認しておこう。  1894(明治27)年に志賀重昴によって著された『日本風景論』以降、日本の風景に関する論考が 世に出るようになったものの、大方は山岳風景に重点をおくものであり、海の風景を主張するもの は少なかったといえる。1910(明治43)年に伊藤銀月によって著された『日本風景新論』は、『日本 風景論』が主張した山岳風景重視の風潮を批判し、「海湾及び内海」の再評価を促しているが、伊藤 はその風景を「近代的風景」として評価しているわけでなく、歌枕的な「意味の風景」を再主張す るものであったといえる。時代が下った1924(大正13)年には、地理学者渡辺十千郎によって、『風 景の科学』が著された。渡辺は、「風景に対する詩的賛美は夙に廣く行はるゝも、風景に関する科学 的考察は、之を試みられたこと殆ど稀なり」(渡辺1924: 1 )と言及し、地学的な知にもとづいて風 景の科学的な考察を試みようとした。ここでは海岸風景に関しても多少の説明が加えられている。 しかし、1930年代から40年代にかけては、先述の地質学者、脇水鉄五郎による『日本風景誌』(1939) および『日本風景の研究』(1943)が、海洋風景をナショナリスティックな論調で主張しているもの の、同時期に出版された造園学者上原敬二による『日本風景美論』(1943)などを確認してみると、 その取扱いは軽いものといわざるをえない。戦前期の風景論の系譜を辿ってみると、海岸風景への まなざしは、山岳的な風景に向けられたまなざしよりも相対的に低いものであることがわかる。全 体的な風景論の系譜から、国立公園風景としての海岸風景への着目があったという出来事を説明す ることは、いささか困難である。  そこで本稿では、国立公園風景が決定されてゆく場の議論に注目してみたい。先に述べたとおり、 1923(大正12)年に16ヶ所の国立公園候補地がリストアップされ、1932(昭和 7 )年の正式な候補 地の決定に至るまでには、候補地を最終的に12ヶ所まで絞りこんでゆくという過程が存在する。こ 16)「雑報 海洋国立公園候補地視察」,國立公園3-9(1931),25頁。 17)西田(1997:426)。

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40 の絞り込みに関する議論が行われたのが、1931(昭和 6 )年12月 8 日から1932(昭和 7 )年10月 8 日 まで全16回行われたとされる、「国立公園選定に関する特別委員会」という場であった18)。この委員 会の開催にあたって、国立公園委員会から11人の「特別委員」が選ばれ、彼らの意見交換によって、 12ヶ所の「ナショナルな風景」が決定されていったのである19)。こうした「特別委員」たちが有し ていた風景観が、「ナショナルな風景」の決定に対して影響を及ぼした可能性を検討してゆく必要が あると考える。山岳的な風景に対するまなざしが当時の主流となる風景観であったとしても、それ とは異なる風景観をもった専門家たちが「特別委員」に含まれ議論に臨んでいたとしたら、決定さ れる国立公園にもその主張が反映された可能性は十分にあるからである。  これまでの国立公園研究において、この特別委員会での議論についての検討は、資料の不足もあっ てか行われることが無いままであった。筆者は2009年11月、国立公文書館に保存されている『国立 公園審議会一般』という資料のなかに、「国立公園選定ニ関スル特別委員会記事大要(第 1 回∼ 6 回)」、および「委員会発言集」という資料が現存していることを確認した20)。前者の資料は 1 回から第 6 回までの特別委員会の議事録であり、後者は特別委員会(第 1 回から第 7 回)に出 席した委員ごとの発言がまとめられた資料であった。いずれも貴重な一次資料であり、これらの資 料を用いることによって、「ナショナルな風景」が決定されてゆく場、すなわち特別委員会における 議論を再構成してゆくことが可能になる。そして、その議論内における海岸風景の位相も、また明 らかにしていくことができると考える。

2.国立公園候補地選定に関する議論から

2.1.瀬戸内海の候補地編入に関する議論  本章では国立公園候補地の決定が行われた特別委員会の様子を、特に瀬戸内海・吉野熊野につい ての議論を中心に確認していきたい。まず、特別委員会がどのような日程で開かれていたのかを確 認しておこう。表 2 は、資料「記事大要」および「委員会発言集」から明らかになった、特別委員 会の開催日程と審議内容を一覧にしたものである。1931(昭和 6 )年12月 8 日から翌1932(昭和 7 ) 年の 3 月29日に至るまで、7 回にわたって委員会が開かれていたことが確認された。また、この 7 回 にわたる委員会において、全16ヶ所挙げられていた候補地について、ひととおりの議論が行われて いたことも確認された。  続いて、この特別委員会に出席することとなった、11名の「特別委員」についても確認しておこ う。表 3 は、「特別委員」として選出された11名、および当時の役職を一覧化したものである。先に あげた田村や脇水の名前を確認できるほか、林政官僚、国際観光局長なども選ばれている。「ナショ ナルな風景」を決定するために、どういった分野からの「知」が求められていたのかを伺うことが できるだろう。  それでは、「瀬戸内海」についてどのような議論が行われていたのかをみてみよう。1930(昭和 5 ) 18)以下,本稿では「特別委員会」と表記する。 19)村串(2005:105-139)。 20)国立公文書館蔵『国立公園審議会一般』。また,このなかに含まれていた資料「国立公園選定ニ関スル特別 委員会記事大要」を,以下「記事大要」と表記する。

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41 年の夏に、田村剛が鷲羽山からの多島海景を「発見」・賞賛したことは、すでに確認したとおりであ る。彼は翌1931(昭和6)年の夏にも下津井を訪れており、「これを国立公園に編入するとともに備 讃瀬戸一帯に区域を拡張する自信をもつようになった」21)という。この発言にあるとおり、田村は実 地調査の過程で、展望地から眺める多島海の風景を国立公園区域に含める決意を固めていった。  そして、同年11月24日に開かれた第 1 回国立公園総会において、田村は「小豆島及屋島」候補地 を備讃瀬戸一帯へと拡大し「瀬戸内海」候補地とするよう、候補地拡張の提案を行った22)。この提 案に対しては主だった反論も出ず、区域の拡大については一同の賛成を得ることとなった。すなわ ち、特別委員会での議論に入る前に、すでに「小豆島及屋島」から「瀬戸内海」への拡張は了承さ れていたのである。  特別委員会においても「瀬戸内海」に関する質疑応答は行われているが、あくまで議論の進行は スムーズなものであった。12月 8 日に開かれた第 1 回特別委員会では候補地選定の方法について「座 談的」に話し合いが行われたが、そのなかで正木直彦委員が、「瀬戸内海は何故拡張したのですか」 と、田村に質問を向けている。このとき田村は、「従来のものでは海の公園にするには余りに意味が 21)山本(1974:57-58)。 22)村串(2005:132)。 表2 国立公園候補地選定に関する特別委員会の開催日時と審議事項 回次 日程 審議事項 第1回特別委員会 1931年12月 8 日 選定の方法 第2回特別委員会 1932年 1 月29日 阿寒、大沼、登別、(大雪山) 第3回特別委員会 1932年 2 月24日 大雪山、登別及支笏、十和田 第4回特別委員会 1932年 3 月 3 日 日光、富士箱根 第5回特別委員会 1932年 3 月10日 日本アルプス、大台ケ原大峰山 第6回特別委員会 1932年 3 月17日 吉野熊野、瀬戸内海、大山 第7回特別委員会 1932年 3 月29日 阿蘇、霧島、雲仙 ? ? ? 第?回特別委員会 1932年 9 月24日 12候補地の決定 (国立公園協会編(1951)、村串(2005)、雑誌「国立公園」関係記事、および「記事 大要」・「委員会発言集」より作成。)       表3 国立公園候補地選定に関する特別委員会の委員構成 委員 当時の職業・役職 委員長 藤村 義朗 男爵(実業家,政治家) 委 員 三矢 宮松 帝室林野局長官 赤木 朝治 内務省衛生局長 平熊 友秋 農林省山林局長 新井 堯爾 国際観光局長 正木 直彦 東京美術学校校長(美術行政家) 三好  学 東京帝国大学名誉教授(理学) 本多 静六 国立公園協会副会長,東京帝国大学教授(林学) 脇水鉄五郎 東京帝国大学教授(地学) 岡部 長影 子爵,貴族院議員 田村  剛 内務省衛生局嘱託,林学博士 (本表作成にあたっては,「記事大要」・「委員会発表集」より各委員会及懇談会の人員 構成を確認し,各委員が当時つとめていた役職を表記した。)         

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42 少なかったからです」と返答を行っている23)。「瀬戸内海」への拡張には田村の意思が含まれている ことを、このやりとりから改めて確認することができよう。  第 2 回特別委員会以降は、委員会の冒頭に田村が各候補地の概要を説明し、それから質疑応答に 移るというかたちで進行されることとなった。第 2 表からわかるとおり、「瀬戸内海」に関しての議 論が行われたのは第 6 回特別委員会でのことである。このときの主な議論は、提案された備讃瀬戸 一帯案よりもさらに広大な範域を国立公園区域とするか否かということであった。この点に関して も、田村によれば「余りに開けすぎて居ます」という理由から、備讃瀬戸一帯から範域を広げない ことで議論は収束している24)。特別委員会においては瀬戸内海の海岸風景それ自体の取捨選択につ いては議論が行われておらず、海岸風景を国立公園風景として含めることを前提とした議論が行わ れていたのである。 2.2.熊野海岸一帯の候補地編入に関する議論  次に、吉野熊野国立公園に関する議論を確認しよう。この候補地は瀬戸内海とは違い、第1回の特 別委員会がはじまった段階ではまだ「大台ケ原及大峰山」候補地として扱われていた。どのような 議論を経てこの候補地は「吉野熊野」に変更されていったのだろうか。  特別委員会においてこの候補地に関する議論が行われたのは、1932年 3 月10日に開かれた第 5 回 委員会のことであった。まず、候補地の概要説明が田村によって行われる。   本候補地は大変問題の多い所です。区域に就ては地元の希望として和歌山、奈良両県のものが あります。……(中略)……(筆者注:国立公園の区域を)北山川の下流を小口から延長して、 奥瀞、上瀞、瀞峡を新宮迄水路によりて連結し紀州海岸に出て海岸、国有林松並木中の道路とそ の附近の湖沼を含め、更に鬼ケ城より小口に至り、南は国有林及び道路によって勝浦に出て、一 方は那智の滝に連絡し、大島、潮岬を含め古座川をも加えたものにしたいと云うのであります。   之は一つの公園系統として纏めるやり方で点在する一園地を水路及道路によって連絡すると云 う案です。国立公園に就ては此の考え方は今迄はしませんでしたが若し海岸地方の国立公園を考 えるならば此の様にせねばならぬと思います。 (「記事大要(第 5 回)」)  このとき田村は、あくまで和歌山・奈良両県の意見として、熊野海岸一帯を「大台ケ原及大峰山」 候補地に加える案があることを紹介している。そして、もし大台ケ原と熊野海岸を同じ公園区域と するならば、「水路」(北山川)、および「道路」によって、点在する景勝地を同じ公園としてまとめ る必要があると述べる。ただ、「国立公園に就ては此の考え方は今迄はしませんでした」と述べ、「若 し海岸地方の国立公園を考えるならば」、この方法をとらねばならないだろうと、あくまで留保の態 度を示している。  田村の説明後、藤村義朗委員長から「之等の場所に就て脇水委員から専門的な御話を承りたいと 23)「記事大要(第1回)」。 24)「記事大要(第6回)」。

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43 思います」と、脇水に対して候補地一帯の説明が求められた。指名を受けた脇水は、熊野海岸一帯 の風景地について以下の通り述べている。   此所(筆者注:熊野地方)は変化が多く新宮と木本の間には松林があり此の中を通るドライブ ウェーは大変面白く又一方には勝浦の様に絶壁の下に怒濤が打ち寄せる所もあり、華厳に匹敵す る様な那智の滝もあります。勝浦と新宮の間には神武天皇の御史蹟、熊野三社があります。又附 近に温泉が多い。潮岬、大島は海岸が隆起した地形で荒波の特徴が有って黒潮を眺めるには大変 面白い。西の方へは一昨年田辺迄自動車道路が出来ました。 (「記事大要(第 5 回)」)  天然記念物の調査等で熊野海岸一帯を何回も訪れていた脇水に、こうした風景地に関する説明が 求められたのだろう。脇水は海岸風景を含めた熊野地方一帯の利点・風景の情報・史跡の存在・イ ンフラが整備されている点などを次々と説明する。  この意見に対し田村は、「此の案に依て海岸一帯も含むとすれば中心が変って了って山の方と結ぶ のが却って無理になりはしないでしょうか」、「この様な考え方はこの候補地に限る特別な関係によ るものでありますが他の候補地の場合にも起こりうるので国立公園選定上弊害が起り統制がとれな くなるのではないかと懸念されます」と、大台ケ原と熊野海岸を結ぶ形の国立公園区域に懸念を示 すとともに、こうした区域設定を行った場合、他の候補地の区域決定にも影響が出る可能性を指摘 する返答を行っている。しかし、再び脇水が、「山は日本アルプスに劣っておるのですから寧ろ海の 方に重きを置きたいと思います」と返す。脇水にとって、大台ケ原周辺の山岳風景は、日本アルプ スの山岳風景よりも見劣りするものであるという見解を伺うことができる。この後、熊野海岸一帯 の風景地の編入に関し、他の委員も含め意見の交換が行われているが、この第5回特別委員会でその 答えは出ないままであった。  さて、次の委員会、すなわち第 6 回特別委員会は、1 週間後の 3 月17日に開かれた。熊野海岸一 帯の編入問題はどのような決着をみせたのだろうか。  委員会の冒頭、藤村委員長が、「前回御審議願いました大台ケ原及大峰山国立公園候補地の拡張案 が幹事の方で作られているそうですから御説明願います」と発言している。それを受けた田村が、 以下の説明を行った。   私から一応御説明申し上げます。新しい区域は従来の区域の東北部に大杉谷北部の御料林及び 民有林を加え、南方に北山川、熊野川に沿って帯状地帯をもったものであります。その主旨は、 本候補地は渓谷、河川が根本的特徴であることから、北山川沿線から眺望し得る範囲を主として 取り入れたのであります。又熊野海岸も区域に入れましたが海岸地方の風景地としてやむを得ぬ 事情の為連続した一帯とすることが出来ず、瀬戸内海と同様の基準により、どうしても風致上の 保護及び公園施設をせねばならぬ個所を点々と区域に編入したのであります。要するに本候補地 は渓流、河川、海岸に非常な特徴を有する特異の事情によりこの様な区域になったのであります。 (「記事大要(第 6 回)」)

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44  第 5 回特別委員会から第 6 回特別委員会までのあいだに、熊野海岸を国立公園区域に含める案が 作成され、田村によって説明されたのである。田村の説明の後、この新たな区域を含めた候補地の 仮称を「吉野群山及熊野地方国立公園候補地」とすることが報告された。この後、特別委員会では 特に議論が生じている様子も確認されない。「大台ヶ原大峰山」候補地を、熊野海岸一帯を含めた 「吉野群山及熊野地方」へと変更するということが、第 5 会特別委員会から第 6 回特別委員会が開か れるまでに、国立公園関係者のあいだにある程度の了承がなされていたのである。この「了承」に 関する議論こそが重要であるが、資料の不足から現時点では明らかにできていない。 2.3.一致しない海岸風景をめぐる見解  さて、前節において「小豆島及屋島」と「大台ケ原及大峰山」、2 ヶ所の候補地に海岸風景地が追 加され、「瀬戸内海」及び「吉野熊野」候補地と変更されてゆく際の議論を概観してきた。これらの 議論から何が指摘できるだろうか。  「瀬戸内海」に関する議論からみてみよう。この候補地については、特別委員会が開催される前 に備讃瀬戸一帯の海岸風景地を区域に含めるよう田村から提案があり、その案が承認されていたこ とが確認された。また、特別委員会においては、海岸風景の取捨選択自体に関する議論は確認でき なかった。「瀬戸内海」については、海岸風景地の追加が田村によって提案され、この提案が特別委 員会においても了承されていたとみてよいだろう。  それに対し「吉野熊野」に関する議論では、熊野海岸一帯を候補地に含めるかどうかはすぐに決 定されなかった。2 回の特別委員会にわたって議論が行われていたのである。特に第 5 回特別委員 会においては、田村と脇水が、熊野海岸一帯の風景の編入をめぐって異なる見解を示していたこと が確認された。脇水が熊野海岸を国立公園に含めるよう推薦するのに対し、田村はそれを断るよう な発言を繰り返していたのである。結局、熊野海岸一帯は国立公園区域に編入されることとなった のであるが、第 5 回特別委員会での意見の対立をどうとらえたらいいのだろうか。  田村と脇水の熊野海岸についての発言からは、「海」の風景を国立公園に含めるかどうかについ て、ふたりが異なる見解を有していた可能性が示唆される。田村は「瀬戸内海」の海岸風景に関し ては区域編入に積極的であり、拡張の提案も行っている。しかし熊野海岸一帯の海岸風景の編入に 関しては消極的であった。一方脇水は、「瀬戸内海」の拡張に関しては田村の意見と同じく賛成であ り、熊野海岸の編入についても積極的な態度を示していた。ここで論点となるのは、ふたりの海岸 風景に関する認識の差異である。すなわち、ふたりが想定していた「ナショナルな風景」としての 「海」の風景は、異なる位相にあった可能性が示唆されるのである。次章において、田村・脇水のふ たりが当時残した「海」の風景に関するテクストをとりあげて、検証を行ってみたい。

3.ナショナルな風景をめぐって

3.1.脇水鉄五郎の主張―「海国」日本の風景  第 1 章で確認したとおり、脇水は海岸風景美の重要性を主張する風景論を展開した地質学者であ る。しかし、彼がこうした風景観を、いつ、どのようなきっかけで抱くことになったのかについて

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45 は明らかになっていない。ただ、国立公園委員をつとめることになった時期にはすでに海洋風景を 国立公園に含めるよう求めていたようである。  機関誌『國立公園』のなかには、脇水が寄稿した論考もみることができる。こうした論考からは、 当時彼が、海洋風景と国立公園との関係を、どのようにとらえていたのかということを垣間見るこ とができる。   日本の海は波高く、水清らかで、海岸に波蝕を逞ふし、一方に危岩乱立の奇景を生むと同時に 他の一方には白い砂浜を幅広く築造して居り、所謂曲汀線長浦の変化極まりなき海岸風景を至る 所に現出して居るのみならずそれ等の海辺山崖には例の黒松が転生し、或は虹の如く眉の如き林 を造って、いやが上にも風景を美化し、絵画化しているではないか、この日本の特色を最も能く 発揮して居る海岸風景も、日本一の誇りとし、また日本の特色として世界の人に示すべきもので あると思ふ。故に私はこの点も我国の国立公園を選定するに当って大に考慮すべきものであると 考える。 (脇水1929:12)   海と波の美を代表せしむべき候補地がないことは甚だ遺憾とするところで、日本三景をもっと 大きく世界的にしたような候補地を得たいものと心苆に望んでいる次第である (脇水1931:2)  脇水は、自身が専門とする地質学的な学知にもとづき、海岸の風景こそが「日本の特色を最も能 く発揮して居る」風景だと主張する。そして、そうであるがゆえ、その風景を「日本の特色」とし て示すために、国立公園に指定すべきだという論を展開する。  この海岸風景に対する科学的な態度とナショナリスティックな欲望とがないまぜになったかのよ うにみえる風景論は、1943(昭和18)年に出版された『日本風景の研究−名勝の自然科学的考察』 に継承される。ここでもやはり、「名勝の自然科学的考察」、すなわち日本の海岸風景の独自性や審 美性を、地質学的な説明をもって強調するというスタイルがとられている。  この著書で脇水が展開する風景論の特徴は、自身が主張する日本の海岸風景の美なるものを、① 太平洋式、②日本海式、③瀬戸内海式、の 3 つの様式に分け、それぞれの特徴や分布を説明してい ることであるといえよう。この 3 様式を一覧として表したものが表 4 である25)。日本海側に位置す る天の橋立が”太平洋式”のカテゴリーに入っていたりするが、各様式を分ける根拠は、それぞれ の風景を構成する地盤の隆起、沈降、地殻変動の差である。風景の成因を明らかにし、その差から 生じるそれぞれの風景要素を導き、各様式に分類するという手法がとられている。  さて、脇水が展開した風景論は海岸風景の美を強調するものであり、さらにその風景を国立公園 として指定するよう求めていたことが明らかになった。国立公園指定に向けた彼の要望は、どのよ うなかたちで実現、あるいは実現しなかったのだろうか。 25)脇水(1943)、赤坂・石川(1996)より作成。

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46  1937(昭和13)年、風景協会が発行していた機関誌『風景』に、脇水による「紀南風景の基をな すもの」という文章が掲載された。紀伊半島南東部の海岸風景を賛美する文章であるが、ここに、 彼自身が関わった国立公園の選定に関する記述がみられるのである。この文章が書かれた時点では、 すでに熊野海岸を区域に含む吉野熊野国立公園が指定されている。この国立公園の選定にあたった 当時を回顧し、指定の理由について、自身の主張する海岸風景の 3 様式について述べた後、以下の ように脇水は続けた。   海国たる我国では海岸美に優れた土地を公園内に取入れて、我国特有の風景を表微することも 必要であると考えられる…(中略)…日本に若し海岸風景を代表する国立公園を選定せんとする ならば太平洋岸と日本海岸と瀬戸内海とに就て各その代表的風景とを選ぶべきであるが、内務省 原案にはただ瀬戸内海が一つあるのみで、他の二つの型式を表すに足る場所何処も選に入ってい なかった。それで何とかしてこの欠陥を充すことの必要を感じたのである。そして諸処物色した のであったが、種々の事情、就中海岸地方は余りにも拓けすぎて居るという理由で太平洋岸と日 本海岸とに各一個の独立した国立公園を設けることは許されていなかった。それで思付たのが一ヶ 所で両型式を備へて居る海岸を物色することで、その選に当るのは熊野浦沿岸により外はないと いふことになったのである。 (脇水1937:1-2)  日本が「海国」であるという前提のもと、そうであるがゆえに海岸の風景こそが「我国特有の風 景を表微」するものだという主張は、『國立公園』でも繰り返し述べられた論旨である。ここで注目 すべきは、脇水がこの主張にもとづき、太平洋岸・日本海岸それぞれの代表的風景を含む国立公園 を、その選定時に希望したという点である。しかし種々の事情から、瀬戸内海のみは内務省原案に 含まれていたものの、他のふたつの海岸形式を含む独立した国立公園を設けることはできなかった。 そこで、太平洋式・日本海式それぞれの特色を有する熊野海岸を、国立公園区域として編入するよ 表4 脇水鉄五郎が主張する海岸風景の3様式 様式 太平洋式 日本海式 瀬戸内海式 特色 石の色が白い(水成岩)明るさ・暖かさ 女性的美しさ 石の色が黒い(火成岩) 豪宕にして奇抜 男性的強剛味 小規模に両型式を備える 地塊運動 隆起海岸浸食と堆積が平衡状態 沈降海岸堆積より沈降がまさる 不連続陥没 要素 長い砂浜 砂丘・砂州・砂嘴 松林・翠嶽緑丘 農村・漁村の集落 眼界広い 溺れ谷 洞門洞窟 柱状節理 断崖・絶壁 海岸線が垂直水平に複雑 多島海 松林 農耕風景 岩山・禿げ山 海面が狭い(箱庭的) 漁船・帆船の往来 典型例 下総の九十九里浜 駿河の田子ノ浦 駿河湾沿岸 熊野の七里御浜 天の橋立 駿河の三保の松原 兵庫香住海岸 出雲半島北浦 隠岐の白島海岸 佐渡の海府海岸 新潟の笹川流れ 男鹿半島 瀬戸内海 天草の一部 (脇水(1943)、赤坂・石川(1996)より作成。)

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47 う目をつけたのだという。  この回顧を検証してみよう。まず、脇水は国立公園候補地の選定が行われた1930年代初頭の時点 で海岸風景の 3 様式を主張していたのかという点である。これについては、1931(昭和 6 )年12 8 日に開かれた第 1 回特別委員会の席上において、脇水が、「日本の海を大体日本海、瀬戸内海、 太平洋の三つの形に分け」て考え、海岸風景地を国立公園に編入するよう発言していることが「記 事大要」に確認できる26)。『日本風景の研究』などで展開される海岸風景の 3 分類が、1931年の時点 ですでに展開されているのである。  彼が主張する海岸風景の 3 様式のうち、瀬戸内海に関しては、田村の提案により候補地として承 認された。しかし第 1 表からわかるとおり、日本海側、太平洋側それぞれの海岸風景地は当初から 候補地としてリストアップされていたわけではなかった。脇水の回顧によれば、「何とかしてこの欠 陥を充すことの必要」を感じ、海岸の風景を「諸処物色した」という。  さて、この発言も検証してみよう。機関誌『國立公園』には、脇水が太平洋岸・日本海岸の風景 両方の海岸風景を国立公園区域に編入するよう求めていたことを裏付ける記述が見受けられる。  1936(昭和11)年、鳥取県に大山国立公園が指定された際、脇水は「感想と希望」という論題の もと次のように述べてみせた。「島根半島を区域内に編入し以て大山の大観を発揚すると同時に其の 北海岸をして日本海式の海岸風景を代表せしめたし」27)。すなわち、大山国立公園区域の北西側に位 置する島根半島一帯の海岸風景を、日本海岸の風景を代表するものとして国立公園区域に入れるべ きという態度を表明しているのである。たしかに大山国立公園に関する審議が行われた1932(昭 7 )年の第 6 回特別委員会において脇水は、「国立公園を考えるならば大山を除外して中海、宍道 湖、島根半島等を含めたものにしたいと思ひます」と、大山ではなく島根半島一帯を国立公園区域 に含めるよう主張していることを「記事大要」からも確認できる28)。国立公園の決定に関する議論 の際に、すでに脇水は海岸風景の 3 様式にもとづいた主張を行っていたことは確かであろう。  なお、大山候補地に関する議論が行われたこの特別委員会では、島根半島一帯を大山国立公園に 含めるよう提案した委員は脇水のほかにもいた。それにもかかわらず、候補地区域の変更について 特に議論が行われた様子は見て取れない。これは大山候補地に対する特別委員らの評価が影響して いたと考えられる。特別委員会の議論において大山候補地の優位性は相対的に低く、「大山は落第な り」という意見もでるほどであった29)。最終的に正式候補地として内定するものの、田村剛の回顧 によれば、これは「地理的分布の面から拾われることと」なったためだという30)。そのため、もと もと優先順位が低く、正式候補地となる可能性も低かったであろう大山候補地の区域を、あえて議 論することもないという判断が、特別委員の間で共有されていた可能性はあっただろう。  さて、話を戻そう。特別委員会の場において、脇水が熊野海岸一帯の風景地を吉野熊野国立公園 区域に含めるべく主張を繰り返した理由が次第に明らかになってきた。彼が当時展開した風景論と、 国立公園選定という出来事の関わりを改めてまとめてみよう。 26)「記事大要(第1回)」。 27)「指定公園に就ての諸家の感想と希望」、國立公園8-3(1936)、18頁。 28)「記事大要(第6回)」。 29)「委員会発言集」中、藤村義朗の発言。 30)国立公園委員会編(1951:39)。

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48  選定当時、脇水は日本の海岸風景を、瀬戸内海式・太平洋式・日本海式の 3 形式に分けてとらえ、 各形式を代表する国立公園をそれぞれ指定したいと考えていた。脇水にとっては、海の風景こそが 「海国」たる日本を代表する風景であったからである。瀬戸内海については田村の提案による候補地 の拡張というかたちで国立公園指定への道筋が見えたものの、残る 2 形式を満足させる候補地は特 別委員会が開始された時点ではリストアップされていなかった。また、16ヶ所挙げられた候補地の うち唯一日本海側に位置する大山候補地は、議論の場では国立公園としての当否自体が疑問視され る状態であった。こうした状況のなか、脇水は自身の構想する国立公園像により近い国立公園の指 定を目指すために、そこに「一ヶ所で(日本海型・太平洋型)両型式を備へて居る海岸」であると いう論理を持ち出したかどうかはともかく、熊野海岸一帯を国立公園に編入するよう強調したと考 えられる。もちろん、彼自身が早くから熊野海岸一帯の風景の美しさを「発見」していたというこ れまでの指摘を否定するわけではない。  脇水の主張は瀬戸内海と吉野熊野のふたつの国立公園の指定というかたちで実現することになっ た。しかし、日本海岸の風景を擁する国立公園が指定されなかったという点では、完全に実現した わけではなかった。脇水の目に「海国」日本に指定された国立公園はどう映ったろうか。 3.2.田村剛の主張-「利用」されるべき風景  自身が思い描く国立公園を実現したいと考えたのは、脇水だけでなく、田村剛も同じだった。田 村はアメリカ合衆国の国立公園制度を特に手本しつつ、日本の国立公園制度の骨格をつくりあげて いこうとしていた。まず、内務省衛生局嘱託として活動をはじめる1920(大正 9 )年から、田村が どのような国立公園を目標とし構想を練っていったのかを、彼が発表した論考を追うことで簡単に 確認してみよう。  1921(大正10)年に雑誌『庭園』に掲載された「国立公園の本質」は、田村が当時目指していた 国立公園の姿をまとまった文章で発表した初期の論考である。この論考において、田村は自身の理 想とする「国立公園」像を 3 つの項目を掲げて説明する。   一、国土を代表するに足る大風景たること   二、国土国民を記念するに足る史跡天然記念物を有すること   三、国民の体育休養に関する施設を有すること (田村 1921:7)  まず、第一第二の項目で、国立公園には国民国家を象徴する風景がその必要条件として求められ ていることを確認できる。しかし、松田(2008)の指摘によれば、田村がこの論考において最も力 点を置いて補足説明を加えるのは、第三の項目「国民の体育休養に関する施設を有すること」であ るという。   即ち山岳森林で特に湖沼や瀑布や渓流や温泉等の奇勝に富み、且つ狩猟、野営、漁労、船遊び、 その他の自然生活に適する地方が最も理想的である。けれどもその位置たるや、なるべくは汽車

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