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いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例 (江頭恒治博士還暦記念論文集)

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いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例

 明治憲法下のわが国では、司法権は民事および刑事の裁判を行うものとせられ、かつ行政事件については、行政訴 訟事項として定められた一定範囲の事項一租税の賦課・租税滞納処分・営業免許の拒否叉は取消・水利および土木 ・土地の官民有区分の査定などに関する事件一のみが行政裁判所によって裁判せられるとととなっていた。しかる に現行憲法は、英米法の影響をうけて司法権の範囲を拡大し、民事刑事のほかに行政事件を含めて一切の法律上の争 訟の裁判を司法裁判所の権限内におき、ととに米法の影響をうけてコ切の法律、命令、規則叉は処分が憲法に適合 するかしないかを決定する権限L︵憲法第八一条︶iいわゆる違憲審査権一をも司法裁判所に与えた。このことはわ が国の司法制度に劃期的な変革をもたらしたわけであるが、特に問題となるのは、すべての立法器よび行政の行為 が、法律上の争訟となった限りにおいては、違憲審査をも含めて司法裁判所の裁判に服するとととなる結果、明治憲 法下では司法裁判は勿論、行政裁判でも争われなかったような高度の政治性を具える事案が司法裁判所に出訴される 可能性が生じたことである。  右のような事態は、現行憲法の基本的な建前の一つである﹁司法権の優位﹂の当然の結論であるとも言える。しか

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し乍ら、他面から考えると、司法裁判所が高度の政治性を具える問題に介入して、それに最終的な決断を与えるとな ると、さまざまな弊害が予想される。とりわけ、司法裁判所を政治的紛争の中にまき込み、国民をして司法裁判に対 する信頼を失わしめる危険がある。また、政治が友敵関係と規定されるような激しい対立を本質的に内包する以上、 司法裁判所があまりに深く政治的紛争に介入することは、司法権の独立を困難にする危険もある。その意味では、司 法裁判所の政治的中立は、司法権独立のための一の実体的な条件とも言えよう。  そこで民主主義諸国においては、主として裁判判例を通じて、高度の政治性を具える問題を裁判所の審理の範囲外 に置とうとする試みがなされている。この種の問題は、第一次的には立法府叉は行政府において、最終的には選挙を 通じて表明される国民意思によって、その結論が出さるべきで、裁判所によって結論が出さるべきではないというの である。この考え方は、いわゆる統治行為論としてわが学界においても問題とせられ、日本公法学会も昭和三〇年五 月の第十五回総会の研究テーマとしてとれを採り上げたのであるが、昨年十二月十六日の砂川事件判決に潔いて、初 めて最高裁判所がとれに類する考え方を採用し、更に本年六月八日、 いわゆる抜き打ち解散の無効を主張した﹁衆議 院議員資格確認ならびに歳費請求事件﹂についての判決においても、同様の見解を示した。  本稿では、右の意味でリーディング・ケースとなった砂川事件判決に器いて、統治行為の思想がどのような姿で採       ① り入れられているかを見、それについて若干の私見をつけ加えたいと思う。  ① 尤も本件判決.の統治行為に関する部分には矛盾があり、統治行為説をとったとは言えないという学者もある。例えば長谷川正安名   大教授・判決はなにを確定したか︵ジユリスト臨時増刊、砂川事件上告審判決特集二二頁︶。なお砂川事件判決ではこのほかに、憲   法九条と自衛権との関係、同条の戦力の意味、憲法三一条は単に刑事手続の法律による規整を意味するのか、又は刑事手続を定めた   法律の実質的内容の適正をも要求するのか、条約の違憲審査は憲法上可能か、などわが憲法学上年無な幾多の問題が含まれている   が、本稿では統治行為の聞題だけに限定する。     いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例︵森︶      二六五

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      二六六  ます統治行為について概観しておく。秀ともと統治行為とは、 フランスの行政裁判所であるコンセイユ・デタ ︵OOβo励〇一一 山、回国89δ叶︶の判例によって認められた概念である。即ち同裁判所は、取消訴訟であれ、損害賠償請求の訴訟であ れ、如何なる訴訟の対象にもならない高度の政治性を有する︸群の国家行為があるとし、 とれを統治行為︵四臼①号 碧ロく。ヨ①鴬①具︶と呼んでその裁判を拒否したのであって、かかる国家行為の類型としては、学者の説くところは必ず しも一致しないが、議会との関係における政府の行為、外交上の政府の行為、戦争に関する行為などがあげられる。  イギリスでも、国王の大権︵只曾£四二く。︶に属する行為のうち特定のものは日讐8腎ohQり欝8と呼ばれて国内裁判 所の権限外におかれるほか、外交関係についての国王の大権の多くの行為が国。瞥○粘ω什暮①と呼ばれて裁判所の干渉 すべからざるものとされ、更に国会主権の原則に伴う国会特権︵唱胃ド日①昇㊤蔓旦邑。ひQ①︶との関連で、議院の内部手続 に関する事項と、議院がその院に対する侮辱者を勾留し処罰する行為についても、国内裁判所は裁判権をもたないと 考えられている。  アメリカにおいても、判例は政治問題︵Oo俸ざ巴ρ話ω島8︶という概念を認め、とれについては司法権は裁判権を有 しないという考え方が確立しているが、その雨芽は司法権の優位を初めて宣言したマールペリー対マジソン事件 ︵冨銭9曙ぐ’竃巴δopH。。Oも。︶判決において既に窺われ、次でルーサー対ボーデン事件︵いロ野葭ぐ・切。留PH。。お︶判決に語 いて連邦最高裁判所が、反乱の際の民兵の行為から生じた損害賠償請求に対し、前提問題として州主権の行為の効力 を審査するととを拒否して以来、不動のものとなっている。  また第二次大戦後、西ドイツの行政裁判制度が訴訟事項を限定せす、行政行為について一般的に出訴を認めるに至 った結果、西ドイツでも統治行為︵図①ぴq一①N=昌αQω国難︶叉は高権行為︵国。冨冨p。犀叶︶という概念を認めて、とれに属する行政 行為を行政裁判所の審査権の外に置く必要があるという学説が強くなりつつある。

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 以上のような諸国に誌ける統治行為の考え方は、いすれも判例叉は学説によるものであるが、他方学説としては、 法治主義の原理に反するという理由から統治行為の概念を認むべきでないとするものも少くない。殊に注目されるの は、統治行為論の母国とも言うべきフランスにおいてさえ、統治行為を否認してこれを自由裁量行為の概念によって 置き換えるべきであるという主張や、統治行為の取消訴訟は認め得ないとしても、少くともその行為によって生じた 損害賠償.は認むべきであるという主張が行われているととである。更にまた、統治行為を認める学説にしても、その 理論的根拠をどういう点に求めるか、その範囲はどうか、などについては、なお学説は一致したものは存しない。  以上の如き諸国の状態を反映して、わが国の学界においても、統治行為についての学説は一致していない。今はそ れらについて詳細に記述する余裕はないが、概括的に言って、これを肯定する学者が多いと言える。例えば宮沢俊義 山田準次郎、入江俊郎、田中二郎、雄川一郎、金子宏などの諸氏がとれである。とれに対し磯崎辰五郎、小島和司な        どの諸氏は否定論者である。  とういう空気の中で最高裁判所は、砂川事件判決で、 ﹁統治行為﹂という概念を用いはしなかったが、少くともそ れに類する考え方を揉貸した。とれはわが国の判例としては劃期的なととである。そして、前述の諸国の統治行為の        思想が成丈法の規定に基くものではなく、主として判例によって確立されたものであるととを思えば、愈々その意義 が重要であると言わざるを得ない。  ②わが国における統治行為に関する文献は極めて多いが、その主なものに例えば次の如ぎがある。宮沢俊義・行政裁判と統治作用   ︵佐々木博士還暦記念論文集憲法及行政法の諸問題所収︶、同・フランスの判例法に於ける統治行為︵野村教授還暦祝賀論文集所   収︶、山[田準次郎・衆議院の解散と統治行為︵政治問題︶i衆議院解散無効の判決に関連して︵法律論叢二七巻四号︶、同・民主   主義諸国における統治行為︵法律論叢二七巻五・六号︶、同・統治行為に関する最近のフランス法学説︵法律論叢二八巻二.三号︶   同・統治行為について︵公法研究ニニ号︶、市原昌三郎・司法的審査の限界︵一橋論叢三一巻五号︶、雄馬一郎・統治行為論︵国家      いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例︵森︶       二六七

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鴇 二六八  学会雑誌六八巻三・四号、九・一〇号、七〇巻一・二号︶、同・フランスにおけろ統治行為の動向︵公法研究=二号︶、入江俊郎・  統治行為︵公法研究一三号︶、久保田きぬ子・アメリカ憲法における﹁政治問題﹂ ︵公法研究一三号︶、金子宏・統治行為の研究  一司法権の限界に関する一考察   ︵国家学会雑誌七.一巻八号、一一号、七二巻二号、九号︶、同・独逸における統治行為論の動  向︵公法研究一二号︶、小島和司・東京地裁の衆議院解散無効判決について︵自治研究二〇巻四号︶、橋本公宣・司法権と政治問題  ︵法学新報五九巻九号︶、西尾昭・統治行為について︵同志社法学三三号︶、磯崎辰五郎・いわゆる統治行為を肯定する学説の批判、  ︵阪大法学三一号︶、同・目ず。ωoIo巴δ島円oo霞−国。一︵9。08α⑦αQo旨く。ヨΦ日〇三︶p。昌α聾①Oo房捧=甑。昌oho¢厭Oo自艮曙・︵○ωp押p。  d巳く①誘岡蔓U帥≦菊Φ識①≦.HΦ㎝OZO.刈︶、野川一郎・小沢文雄・兼子一・田中二郎・田中真次・豊水道祐・三ケ月旦・行政事件訴訟  特例法逐条研究︵総論四、統治行為︶、宮沢俊義・佐藤功・中村哲・金子一・解散無効判決の含む問題︵ジユリスト四六号︶、その  ほか砂川事件上告審判決特集ジユリスト臨時増刊 ︵昭和三五年一月号︶ および最高裁をめぐる法と政治  砂川事件判決を中心に    法律時報臨時増刊︵昭和三五年二月号︶所収の諸氏の論文。 ③この点で注目されるのは一九四九年のインド憲法が明文をもつて諸種の部面で司法的審査を拒否していることである。例えば七四  条二項﹁大統領に対し大臣が助言を行ったか否か、▽︿はいかなる助言を行ったかは、裁判所により審査されることはない。﹂一ニニ  条一項﹁国会における議事の効力は、手続上嵌疵があったことを理由として裁判所により審査されることはない。﹂同第二項﹁この  憲法により叉はこれに基いて国会におけ.る手続若しくは任務の執行を規制し、又は秩序を維持する権限を与えられた国会の役員又は  議員は、その権限行使に関し、裁判所の管轄権に服することはない。﹂=ハ三条三項﹁州知事に対し州大臣が助言を行ったか否か、  又は如何なる助言を行ったかは、裁判所により審査されることはない。﹂二=一条一項・二項−州議会について前記一二二条一項  二項と同趣旨の規定  、などの如きがこれであり、統治行為を明文化したものと言える。  砂川事件上告審判決は、いわゆる伊達判決を破棄し原審差戻をした。伊達判決は、昭和三二年六月から七月にかけ て砂川町における基地拡張反対闘争に参加した七名の被告人達が、立入を禁止されている飛行場内へ深さ約三ないし 四米侵入したのに対し、安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法第二条違反として起訴された事案につ いて﹁もし合衆国軍隊の駐留がわが憲法の規定上許すべからざるものであるならば、刑事特別法第二条は国民に対し

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て何等正当な理由なく軽犯罪法に規定された﹁般の場合よりも特に重い刑罰を以て臨む不当な規定となり、何人も適 正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三一条に違反し無効である﹂とする見地から、合衆国軍隊 の駐留[とわが憲法との関係をとり上げ、 ﹁わが国が現実的にはその安全と生存の維持を信託している国際連合の機関 による勧告叉は命令に基いて、わが国に対する武力攻撃を防禦するためにその軍隊を駐留ぜしめるということであれ ばあるいは憲法第九条下二項前段によって禁止されている戦.力の保持に該当しないかもしれない﹂が、合衆国軍隊の 場合は、その駐留を許容したわが政府の行為は﹁政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決 意﹂したわが憲法の精神に塗るという疑念があり、更に、実質的に考察するとき、わが国が合衆国軍隊の駐留[を許容 しているととは、日本国憲法第九条第二項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するもの といわざるを得す、 ﹁結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるもの﹂とし、よって刑 事特別法第二条は憲法第三﹁条に違反する無効な規定であるが故に、被告人達は全員無罪であると判示した。  右の判決に対し、検察側からいわゆる跳躍上告がなされ、最高裁判所の判決が出されたわけであるが、その中で、         統治行為に関係があるのは判決要旨として掲げられた次の如き第五点と第六点である。   第五点、安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否か  の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違  憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。 ︵反対意見がある︶   第六点、安保条約︵またはこれに基く政府の行為︶が違憲であるか否かが、本件のよ弓に︵行政協定に伴う刑事特別法第二条が違憲  であるか否かの︶前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。 ︵反対意見がある︶  右のうち、中核的な重要さをもつのは、言うまでもなく第五点であるが、判決は理由中においてこれを敷衛して ﹁本件安全保障条約は、⋮⋮主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するも     いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例︵森︶      二六九

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      二七〇 のというべきであって、その内容が違一思なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびとれを承認した国 会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。しとし、それ故にそれが違憲であるか否か の法的判断は﹁﹁見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは裁判所の司法審査権の範囲外のもの﹂であっ て﹁第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびとれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的 には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。﹂と述べている。  右の判決は、統治行為、ないし少くともそれに類する考え方を認めるものである。しかしとれを認める法的根拠な いし理論は必らすしも明白に示されていない。小谷勝重裁判官の意見中にも﹁多数意見のいう本件安保条約に対して は違憲審査権は原則としてなじまないものであるとするのは如何なる法的根拠によるものであるのか、少しもその理 由が説明されておらす、理由不備の判決といわなければならない。﹂という激しい評言が見られる。  統治行為を認める法的根拠について判決が何等触れるととろがなかったのは、裁判官の間に意見の﹁致をみなかっ たからであろうと察せられる。そのことは、各裁判官の意見の中に示されている。それらを通覧すると、右の法的根 拠について二種の異った見解がある。 ︼は政治的自由裁量を理由とするもので、以下の各裁判官の意見がそれであ る。  島保裁判官﹁︵憲法九条二項にいう戦力とは、わが国の指揮管理下にある戦力を意味し、外国軍隊の戦力をいうものではないと解す るが︶憲法九条二項を以上の趣旨に解する以上、わが国がその指揮管理下に戦力を保有すること以外のいかなる手段方法によってわが 国の存立をまっと5すべきかとい5ことについては、わが憲法は、直接これを規定することなく、政治部門の裁量決定に委ねる趣旨と 解さざるを得ない。もとより・::政治部門の裁量権には一定の限界があり、明白に平和主義・国際協調主義の精神を裏切るよ弓な決定 は許されないものと解すべきであるが、その反面において、いやしくも、政治部門の政策決定が裁量権の限界を超えるものではないと 認められる以上、本来政治に関与すべきでない裁判所が、右政策決定の当否に立ち入ってこれを問議すべきでないことは当然である。

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 ⋮問題は、現下の世界情勢の下で、でぎるかぎり平和主義・国際協調主義の精神に添いつ㌧わが国の平和と安全とをまワと弓する方 法として、いずれの外国の軍隊をもわが国に駐留させない方式と、安保条約を締結して合衆国軍隊を駐留させる方式と、いずれの方式 がいっそ5有効適切であるかということにあり、われわれは、後の方式が前の方式に比して明確に不適切なものであると断定すべき手 掛を発見し得ない以上、わが国の政治部門が後の方式を決定したことをもって、裁量権の限界を超えるものと断定することは許されな いものといわねばならない。﹂  河村大助裁判官の意見も、大体において右の島裁判官のそれと同様である。なお田中耕太郎裁判官の意見中にも、 自衛は国家の本源的な任務と機能の一であり、そのためいかなる方策を選ぶべきかの判断は﹁これ一つにその時々の 世界情勢その他の事情を考慮に入れた、政府の裁量にかかる純然たる政治的性質の問題である。﹂とあり、安保条約 の締結を自由裁量行為とせられるものの如くである。  次に右の諸裁判官と異なる見地から、統治行為を認めるものに、以下の如き各裁判官の意見がある。  藤田八郎・入江俊郎両裁判官﹁日本国憲法は、立法、行政、司法の三権の分立を確立し、司法権はすべて裁判所の行うところとし た。また ⋮国の立法、行政の行為は、それが法律上の争訟となるかぎり、違憲審査を含めて、すべて裁判所の裁判権に服することx なったのである。これがいわゆる司法権の優位として、司法権に、立法、行政に優越する権力をみとめるものとせられ、日本国憲法の 一特徴とされるところである。しかしながら、司法権の優位にも限度がある。憲法の三権分立の構想において、その根幹を為すものは 三権の確たる分立と共に、三権相互のチエヅク︵oゴΦo貯︶とバランス︵σ巴雪8︶であって、司法権優位といっても、憲法は決して司法 権の万能をみとめたものでないことに深く留意しなければならない。たとえば、直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家 行為は、たとえ、法律上の争訟となる場合においても、従ってこれに対する有効無効の法律判断が法律上可能である場合であっても、 か司る国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門 の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものといわなければならない。この司法権に対する制約は、結局三権分 立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんが み、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきである。⋮:われわれは日本国憲法の いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例︵森︶ 二七一

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二七二 下においても、司法権の本質に由来する司法権の限界とし﹁ていわゆる統治行為の観念を是認すべきものと考えるのであるが:⋮統治行 為なる観念を認める以上、本件日米安全保障条約のごときものこそこれに該当するものと考えざるか得ないのである。⋮:︵しかし︶ 当該行為が統治行為の範晦に属するものとせられた場合においても、若しその行為が実は実体上不存在であるとか、またはその行為が あきらかに憲法の条章に違反するがごとき︷ 一見明白にその違憲性が顕著なる場合には、 ︵かくのごときことは実際問題としては、停 とんど考えられないことであろうけれども︶例外として、裁判所によって、その不存在、若しくは違憲を宣明することができる⋮:。 かくのごとき場合にも、筒かつ裁判所の審査を除外すべき何等の合理的理由はないからである。﹂  垂水克己裁判官﹁わが憲法の三権分立の理念、司法権の性質、行使の仕方、その効果に照らし、例外として、ある種の国会各院の行 為または政府の行為で、裁判所によってそれが進憲であると決定されるに適しないため裁判所の審査権の対象から除外されるべきもの がある。 ・:・前記のような高度の政治性を持つ条約については、 一般の条約その他一般の法律と異り、その内容が違憲か否かの判断は 一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは裁判所の審査権の範囲外のものであって、それは内閣および国会の判断に従らほかな い。﹂  右にあげた二種の考え方のうち、統治行為という特別の概念を理論づけるのは、厳密に言えば、後者、即ち三権分 立論に基く司法権の内在的制限を説くもののみであると言えよう。その意味で藤田・入江両裁判官の意見はすぐれた 理論づけである。統治行為を政治部門による自由裁量という点で理論づけようとする学説もあるが、もともと、自由 裁量の行為は、それが政治的裁量であれ、技術的裁量であれ、いすれも司法権による審査の対象たり得ないことは、 従来から広く認められている之とである。即ち自由裁量の行為については、その内容について法規による規整は存し ないのであるから、当・不当の問題はあっても、適法・違法の問題は本来起り得ない。しかし、言うまでもなく、自 由裁量の行為というのは、行為の内容について自由裁量が認められているということであって、行為の形式的・手続 的な部面にまで、それが認められているわけではない。従って自由裁量の行為についても、形式的な手続の面で蝦疵 があれば、当然、司法権の対象となる。即ち司法権は、実質的審査権はないが、形式的審査権をもつ・わけである。と

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れに対し三権分立の原理に基く司法権の内在的制限として統治行為があるとする立場に立てば、それに対する形式的 審査権も、少くともある程度制限せられることになるだろう。  ところで本件判決は、安保条約について司法権が及ばない理由として、自由裁量説をとるのか、三権分立に基く司 法権の内在的制限があるという立場に立つのか、明らかではない。理由中に﹁高度の政治的ないし自由裁量的判断と 表裏をなす点がすくなくない﹂とあるのから察すると、 双方を採り入れているとも考えられる。裁判官の意見申で も、石坂修一裁判官は﹁かかる事項︵国家の防衛手段の形態や規模など  筆者註︶は元来政治に干与すべからざる裁判所 の判断になじまないものである。これは、専ら、政府および国会の政治上の責任において決定せらるべきものであっ て裁判所の審査すべき法的領域ではない。とのととは、わが憲法が、三権分立を基本として居ることよりする極めて 当然なる帰結である。﹂と述べ、双方の考え方を共に採り入れられているように見える。統治行為を認める学説にも その根拠として三等分立をあげるものや、自由裁量をあげるものなど種々あるわけであり、本件裁判官の見解も一致 しなかったのであろう。  とれに対し、判決の主文には賛成するが、高度の政治性を有する行為には司法権が及ばないとナる判決理由に真向 から反対するの億小谷勝重裁判官である。同裁判官の意見には次の如き言葉が見出される。   ﹁条約に限らず法律の弓ちでも国の存立に極めて重大な関係を持ち、したがって高度の政治性を有するものは数多くあることは言弓  をまたないのであるが、多数意見はこの場合も条約の場合と同様、違憲審査権の行使は一見極めて明白な違憲の場合に限るとい弓ので  あろ弓か。そうでなければ論理が⋮卸しないこと明らかである。⋮⋮要すろに多数意見の到達するところは、違憲審査権は立法行政二  権によってなされる国の重大事項には及ばない、とするものであって、わが新憲法が指向する力よりも法の支配による民主的平和的国  家の存立理念と 右法の支配の実現を憲法より信託された裁判所の使命とに甚だしく背馳するものであることは明らかである。かくて  わが憲法上の三権分立の5ち、立法行政二権に対する司法権唯一の抑制の権能たる違憲審査権は、国の重大事項には全く及ばないこと     いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例︵森︶      一一七三

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二七四  となり︵多数意見のいう﹁一見極めて明白なる違憲無効﹂というようなものは殆んどあるものではない。すなわち有名無実のものであ  る︶わが三権分立の制度を根本から脅かすものと思5。L  右の小谷裁判官の意見は、わが憲法の基本原則としての法治主義と、殊に八一条の違憲審査権を論拠とした統治行 為否定論であって、当然成り立ちうる優れた一つの見解と言わねばならない。 ﹁高度の政治性﹂というととを広く解 すると、小谷裁判官の指摘されるようにそれは、 ﹁国の重大事項と憲法との関係に器いて、憲法を軽視するものであ って、それはやがて力︵権力︶を重しとし法︵憲法︶を軽しとする思想に通する﹂ということになるであろう。  次に奥野健︸・高橋潔両裁判官の意見は、小谷裁判官ほど徹底的ではなく﹁司法審査権の限界について、われわれ は、いわゆる統治行為ないし政治問題として審査権の及ばない或る部面のあることは必ずしも否定しない﹂としなが ら、本件の多数意見には反対し、次の如く述べられる。  ﹁しかし問題が政治性が高いとか、国の重大政策に関する問題.であるからとい弓だけの理由で、当然これに該当するとすることに は、われわれは賛同できない。けだし、元来、法律の制定とか条約の締結の如き行為は、概ね国の重大政策に関する政治性の高い事項 であり、従って、これに対する違憲審査は当然政治性の高い判断を必要とするものであるから、単に、政治性が高いとか、国の重大政 策に関する問題であるとい弓だけの理由で裁判所の違憲審査権が及ばないとすると、政治的問題となった重要法律等の多くは裁判所が 違憲審査ができないこと\なり、わが憲法が、特に八一条の明文ウ.設けて、裁判所に法律以下の一切の国内法規並びに処分についての 違憲審査権を賦与し、以って、国会や政府の行為によって憲法が侵犯されないよ5に配慮した憲法の精神に副わないのみならず、同七 六条、九九条により特に憲法擁護の義務を課せられた裁判官の職責を完弓する所以でもないと信ずる。⋮−われわれは、安保条約の国 内法的効力が憲法九条その他の条章に反しないか否かは、司法裁判所として純法律的に審査することは可能であるのみならず、特に、 いわゆる統治行為として裁判所がその審査判断を回避しなければならない特段の理由も発見できない。: ・安保条約は憲法九条及びそ の精神並びに憲法前文に反するものとはい瓦えない。﹂ 奥野・高橋両裁判官が﹁必ずしも存在を否定しない﹂とされる統治行為ないし政治問題とは如何なるものを指すか

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は、必ずしも明白ではないが、意見中に﹁日本が武力攻撃を受ける危険があるか否かの国際情勢の判断については、 いわゆる政治問題として裁判所の審査判断すべきところではなく﹂とか﹁臼本の平和と安全とが極東の平和と安全と 密接不可分であるとの判断の是非は、国際情勢ないし軍事情勢等に対する判断の如何にかかるものであって、政府や 国会の判定すべきいわゆる政治問題に属し﹂とあるととうから、 ぼぼその意図されるととろが察知できると言えよ う。両裁判官は﹁高度の政治性﹂というようなメルクマールを以て統治行為ないし政治問題という観念が不当に拡大 適用される危険性を警戒され、 これを自由裁量的な情勢の判断という所に限局しようと試みられるのである。  以上、統治行為に関する裁判官の各意見を見ても窺われるように、この問題は、憲法学における難問中の難問に属 する。その所以は立憲主義の基本理論から言って、肯定と否定の両方の主張が共に成立しうるという所にあると言え よう。統治行為を肯定する立場の理論的根拠は、藤田・入江両裁判官の意見にあるように、三権分立論であり、司法 権が他の二型に絶対的に優位することのないように、司法権の内在的制限を認めようとするものである。これも確か に有力な考え方である。しかしとれに対して統治行為を否定する立場から言えば、司法権は本来争訟に対する判断作 用という消極的な機能のみをいとなむという点で既に他の二丁に対する均衡を保っているのであって、 ﹁政治的問 題﹂についての司法審査を放棄することは、その範囲に器ける立法権と行政権の暴走を認めることになると言えよう。 ことにわが憲法八一条のように司法権の違憲審査権を認めている場合には、小谷裁判官の意見に示されているように、 統治行為を否定する方が論理の筋道が通るということも出来る。  立憲主義の一般理論からみて、右のような二つの異なる準え方が成立する場合、具体的にわが憲法の解釈として、 そのいすれを採るのが正しいかは、極めて難かしい問題である。おそらく、憲法八一条の忠実な文理解釈という立場 に立てば、統治行為の存在を否定するほかないであろう。しかし、もう少し視野を広くし、わが憲法の全体的構造の     いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例︵森︶      二七五

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       二七六 中で、出来得る限ψ司法権の非政治性を確保してその独立性を強固に保持する必要がある、という見地からすれば、 司法権は統治行為について審査権をもたないと言うべきであろう。そしてとの後の方の考え方によって統治行為を認 める立場の理論構成の仕方としては、大西教授の主張が示唆に富むと思う。同教授によれば、わが憲法の根幹には国 民主権主義と権力抑制主義という矛盾した二つの原理があるから、権力抑制主義の結果あらわれる裁判所の審査権 も、国民主権主義の側から何程かの限定を加えられざるを得す、 との限定が統治行為の問題である、 というのであ    る。国民主権の立場から言えば、国家の最も重要な政治問題に関する究極の意思決定は国民意思の判定に委ねるべき であり、司法権といえども、これを審査し得ない。  私自身は、わが憲法の解釈上、統治行為を認めるべきであると思う。しかし、そうは言っても、力が添法を敢て行 いがちなわが国の現状に照せば、統治行為を認めることは、政治部門による憲法軽視を招く危険性が多いから、統治 行為の範囲は出来るだけ圧縮すべきであろう。そして自由裁量の理論で解決できるものは、それによるべきであると 思う。しかし本件の安保条約については、それが憲法九条や憲法を貫く根本精神に反するか否かが争われているので あるから、自由裁量の理論によるととには無理があり、説得力も乏しい。安保条約の締結を政治部門の自由裁量とす る考え方は、憲法に直接それを林示する規定がないということを一つの論拠とするが、憲法に直接規定がないことを直 ちに自由裁量と解するのは正しくない。直接規定がなくても、憲法の全糖神から見て許されないことは、違憲なので ある。その意味で安保条約が合憲か違憲かは法律問題であり、その国内法的効力については、奥野・高橋両裁判官の 意見にあるように﹁司法裁判所として純法律的に審査することは可能である﹂と言わざるを得ない。また或程度譲っ て、自衛のため政治部門の裁量に委ねられている処置の一つと認めるとしても、憲法の根本精神に照して裁量権の限 界を逸脱した違法があるのではないか、というととが問題となろう。そとで私としては、安保条約が講和条約と直結

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している專実を強調し、一i講和条約が最高度の政治性をもち、それについて司法審査が及ばないととは何入も否定 し得ない一との事実の上に立って安保条約の高度の政治性を認め、 その締結を一の統治行為と論定するのが、本件 の解決として最も妥当であったのではないかと思う。  本件判決に対しては多くの学者の賛否の意見があるが、その中で﹁私自身竜、司法権が政治的渦中にまきとまれる のをなるべく防止するという政策的考慮から、統治行為ないし政治問題の理論に心を動かされ、とれを容認するに傾 いたけれども、今やそれを再検討する必要を痛感している。﹂ として、わが国の現状では統治行為の観念を容認する ことなく、法の支配する分野を出来るだけ広くする方が妥当であると結論される斉藤秀夫東北大教授の卒直な改説が     ⑥       ⑦ 注目される。その他、本件判決を機縁として統治行為の概念を否定する立場を明らかにした学者も多い。しかし複雑 極まる政治と法律の世界では、将来も、司法審査になじまないような政治性の高い法律問題が起り得ないと断定する         ことも出来ないであろう。そこで伊藤教授ほか四氏の共同研究の結論のように、 ﹁あくまでも厳格に限定された特殊 なケース﹂に限って統治行為︵又は政治問題︶を認めるが﹁抽象的・包括的に統治行為を認める結果、違憲審査権の内 容を無意味にするような、安易な適用の.可能性を許してはならない。﹂とするのが妥当な考え方と言えるであろう。        ら 同様の老え方は、原則として統治行為を否定し乍らコ司法権に内在する機能的限界をも無視し得ないとすれば、極度 に例外的な場合においてのみ、統治行為の存在を認めることができるのではないかと思われる。L とされる今村北大         教授によっても採られている。  始めにも述べたように、最高裁判所は、衆議院の解散の問題についても本年六月八日、統治行為の思想を詣り入れ        てその審査権の無いことを判示したと新聞紙は伝えている。これについては、判例集がまだ凡ていないので明確なと とは分らない。しかし統治行為はへ国民意思の判定に委ねることが合理的であり、必要でもある高度の政治的問題に     いわゆる統治行為と最高裁判所の最初の判例︵森︶     −      二七七

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二七八 限定ぜらるべきで、これを無暗に拡げるととは、最高裁判所の違憲審査権を不当に限局し、 を放棄する結果になるととを銘記する必要があると思う。 ﹁憲法の番[人﹂たる役割 ④本件判決は最高裁判所刑事判例集第=二巻第コ四号に登載されているが、その要点は三点ある。第一点は、憲法九条は自衛権を否  定.したものではなく、また自衛のため他国に安全保障を求めることは憲法の禁ずるところではなく、更にわが国が指揮権・管理権を  行使し得ない外国軍隊は、わが国に駐留するとしても、九条二項の﹁戦力﹂には該当しないこと。第二点は本稿で採り上げた問題。  第三点は安保条約が一見極めて明白に違憲とけ認められないということ。判決は、九条二項について﹁自衛のための戦力の保持をも  禁じたものであるか否かは別として﹂と述べてこれについての判断を将来に持ち越した。       ・ ⑤大西芳雄・﹁統治行為﹂論の混乱︵法律時報臨時増刊一六一頁︶。 ⑥齊藤秀夫・憲法の番人のあり方︵ジユリスト臨時増刊五一頁︶。なお同教授・法の支配の範囲を拡げよ︵法律時報同上一九九頁︶  参照。 ⑦例えば杉村敏正京大教授・砂川事件判決について︵ジユリスト同上八二頁︶、林田和博九大教授・砂川判決について︵同上一’四  頁︶、恒藤恭・最高裁判決の欠陥と矛盾︵法律時報臨時増刊一〇頁︶、木村標津東北大教授・砂川事件破棄判決と憲法︵同上’七頁︶  など。 ⑧ 伊藤正己東大教授.小林直樹・寺沢一の両東大助教授・橋本公課中大教授・和田英夫明大教授の飯氏共同研究による﹁砂川判決の  法律的問題点﹂ ︵ジユリスト臨時増刊穴六頁以下︶。 ⑨今村成和・砂川判決と統治行為論など︵法律時報臨時増刊三四頁︶。

⑩昭三五・六・九附各紙朝刊。       1一九六〇・八・一〇1

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