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ノウルズ人事管理論に関する一考察

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ノウルズ人事管理論に関する一考察

r  労使関係は広く産業経営における使用者と労働者の関係一般を意味する。いうまでもなくこの関係は、近代的な産業制 度の生成以来つねに意識せられてぎた問題であり、問題そのものは決して新らしいものではない。それが今日特に重視せ られるに至った所以は、明らかに労働組合の目覚しい発展に起因している。すなわち今日の労使の関係は、もはや従来の 温情主義的乃至権力主義的な方式では処理し得ない段階にぎており、しかもそれは現在の自由企業制度の運命にもかかわ る重大な意味を内蔵しているのである。  他方産業における労働者を対象とする管理は人喜管理乃至労務管理︵冒9,ωo表面巴巨㊤ロ凋①日。b叶︶と称せられる。したがって 労使関係も当然それに含まれる。しかし労使関係が人事管理の領域に入ることに即題はないとしても、それがどのような 形でとり上げられ、どのように位置づけられるべきかは必ずしも明らかでない。  周知の如く従来の人事管理論では、表現は異っても概ね労使関係に相当する問題が、入事部の一職能として技術的な側        面が考察されているにすぎない。しかし乍ら、産業経営における労使関係の重要性を理解するならば、もはやこのような ゆぎ方に組することはできないであろう。現実の産業経営においても、対組合関係の問題の重要性が認識せられるにつれ      ノウルズ人事管理論に関する一考察       三九

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     ノウルズ人事管理論に関する﹁考察      四〇 て、専ら組合関係の問題を取扱う労働関係部が新たに設けられ、人事部と二本立とする傾向が支配的である。さらに人事 部の職能にも従来みられなかった人間関係的思考に基づく従業員関係管理の問題が大きくとり上げられてぎている。もち ろんこれらの問題自体は別にこと新らしいものではなく、従来ともひとしくラインの管理者によって処理せられてきたの であるが、これら両者に関してそれぞれ専門的なスタッフ職能が確立せられ、組織上で重要な地位が与えられている点が 注意せられねばならぬ。それはいうまでもなく労使関係の重要性についての認識を示すものではあるが、それと同時に、 これら両者がそれぞれ異なれる範疇に属し、異なれる方法原理にもとづいて処.漉せらるべきであるという論えが前提せら れていると解せられる。  労使関係一般を対内的な従業員関係と、対外的な労働関係に区分し、各々を異なった方法で処理しようとする態度は、 たしかに労使園係に対する認識の前進を示すものである。しかしこの段階にとどまる限りなお問題は残る。例えば二重の 忠誠︵館田=。罷工︶の問題の如きはその端的な現れといえよう。いうまでもなく分化は統合を前提とする。統合なき分化 は混乱を免れないであろう。かくして労使関係に対する一貫した、基礎的な指導原理は何か乏いうより根本的な問題が問 われなければならない。         ここで取上げたノウルズの﹁入事管理論﹂は労働関係を中心に労使関係の統一的把握を目指すものとして注目される。        ③ ノウルズは、﹁労使関係の健全な哲学︵ωOβ口q 冒匡一〇召qOb身︶を提供する﹂ことを同書の狙いとしている。それは一言にしてい えば、権威主義︵窪夢。気圧臥§喜ぎ。。。b耳︶を排して民主主義の哲学︵q.暮。・夢誌。娼冨。。,8ξ︶を人事管理の基調とすべしとい         うに他ならない。同書は六部に分たれ可成り広い範囲に亘っているが、その中核をなしているのは、人闇関係的アプロー チ論と、人事哲学に関する見解である。  ①例えば、日①巴きq自①け8最。。8菖99ぼ霞9巳の豪富瞬ωrを.暮。。貯。・爵画∪。&などの人事管理論があげられよう。

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② ≦.邑匿目国・閑ロ。乱β勺。窃Q巨邑窩騨轟σq。日。艮⋮b国琿雪色昌国①冨鉱。諾b℃鷲。鴛F一〇盟・な.お副田満輝氏は、全書を﹁科学的管理・  人事管理および人間関係のそれぞれについて独自の立場から一貫して批判的に論述している﹂著書の一つに挙げている。副田満輝氏  稿 経営労務︵経営学文献の学び方第四回︶PR昭・三三・四月号参照。 ③国8乱β8●。罫鷺Φ賦。ρ苺ド ④ 全書の構成は次のようになっている。 一序論、二人事管理へのアプローチ、三人目管理の理論と哲学、四組合関係管理、五賃金管  理、六政府と人事管理。 二  ノウルズは人事管理へのアプローチとして、産業工学的・産業心理学的・産業社会学的・人間関係的の四つのアプロー チをあげている。.そして前三者は、協力の問題に対する機械論的︵bP㊦Oげ騨ロ一〇〇け一〇︶ないし操縦論的︵日餌巳も9器く。︶アプローチ の域を超え得ないものとして、それぞれの限界を鋭く追求し、真に有効な人事管理へのアプローチは、インタ、デシプリネ ァリィ・アプローチ︵首§象段嘗嚢蔓曹b屑8。げ︶ としての人聞関係的アプローチであると主張する。それは所謂人間関係 的アプローチとは趣を異にする独自の性格を有するアプローチである。それはぎ器同象ω。書中昆蔓なる語からも推測され  ノ       るように、﹁諸々の社会科学を結合する﹂アプローチである。しかしそれだけにとどまらない。﹁産業倫理︵一自自.酔、一鱒 。匿。           融︶の研究を.も含む﹂ものである。すなわち科学的アプローチであると同時に倫理的アプローチであるというところに其 の特質が見られる。  ノウルズは..犀信日㊤口器巨δ匿、.なる用語が、ぎわめて恣意的且多義的に用いられていることに注目する。そしてこれら を①無意味なレッテル︵白窪ほ愚。。・ω一側匡︶として、②コミュニクィションの研究︵窮悪婆。輪。§暮巳。器。ロ︶として、③産 業社会学の同意語︵’・菩。身目助。屑ぎ0量琶9の8巨。鶏︶として、④労使闘係に対するインターデシプリネァリィ・アプローチ       ノウルズ人事管理論に関する一考察      四一

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     ノウルズ人事管理論に関する一考察       四二 として、⑤人事問題に対する倫理的アプローチとして、の五つの範疇に分けている。そして後の二者が薯者の抱壊する人 間関係アプローチを形成しているのである。  いうまでもなく人事管理への人間関係的アプローチは、産業経営における人間関係の科学的法則の発見を第一の目的と するものである。しかしそれは単なる機械論的人間、心理学的人間、社会学的人間、経済学的人間を超えた、全体として の人間︵書。冨巨山臥含&を問題とすべぎものであることか注意せられねばならぬ。著者がインターデシプリネァリー・ア プローチとしての人間関係論を主張する所以である。すなわちノウルズは次のように云う。 ﹁社会科学の一分科の研究を 以てしては、労使関係の多くの面について完全な理解を与えることはでぎない。人事管理論は、あらゆる社会科学からそ の成果を借用する折衷的な学問︵臣8獣。。。ε身︶である。これらの諸学問︵量身ぎ。・︶の綜合としての人間関係論こそ稔り        多きアプローチである﹂と。  インクーデシプリネァリィ・アプローチは異なれる研究分野.に属する多くの社会科学者から成るリサーチ・チーム︵目霧 ⑦騨器げぎ百︶を前提とする。換言すれぽぎ8巳尻。ぢ出自訪露話ωΦ錠。7によるアプローチの方式である。 ﹁今日未だ探究され ていないのは諸々の研究の中間にある限界領域である。そのために生化学のような複合科学︵げ気bげO口塑叶Φ幽 のO一①口OOの︶が存在 するのである。リサーチ・チーム方式は自然科学においてはもはや一般化している。それは多額の費用を要するが多くの         成果を生んでいる。⋮⋮人事管理の研究においても、より進んだ調査はこの方法によってのみ可能となろう。﹂  もちろんこの方法にも欠点はある。一般に﹁人聞関係的アプローチは齢しい事例研究を産み出しているが、みるべき結        論は乏しい︵薗9些。轟。隔8ωΦ。。言象⑦ω讐幽餌葛β。芽・。而8邑βのざ臣︶﹂ と評される。人間関係の問題は実験室におけるように凡 ゆる変数をコントロールすることは不可能であるし、又ティーム構成員間の概念上、方法論上の意見の相異も避け得ない であろう。さらに時間的、情況的な制約の存することも否定し得まい。たしかにこのような欠陥は存在する。そしてこれ

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らを完全に拭い去ることは不可能であろう。しかしこのことが直ちにインターデシプリネァリィ・アプロコチの価値を減 ずることにはなるまい。けだし如上の欠陥は程度のちがいはあっても、すべての社会科学に共通するものであると考えら れるからである。したがって観察技術の一層の洗練と、統計射分析方法の改善が今後の課題となろう。  次にノウルズは人間関係的アプローチが、右に述べたような科学的方法のみに頼って果して産業経営における人間問題 ないし労使関係の全貌をよくとらえ得るか否かを問題とする。ノウルズが人聞関係の科学的法則の発見と並んで倫理的・ イデオロギー的諸問題の究明を、人間関係的アプローチの課題として措定する所以である。すなわち﹁人事管理論は社会         ヘ  ヘ  ヘ       ヘ  へ 諸科学の措定する経済人に類似の種々の人間︵<餌且。訂ω=日。コ、︺O馬尾げΦ。Ωo包筥。璽禽。昌8。盛帥冨90090弼。2紳。爵①=Φoo口O巨ざ日①昌、”︶だけでな      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ く、同様に倫理的人間︵①叶ぼ09一 dP⑳口︶にも関係する。人事管理論における大部分の問題は、科学的分析と並んで倫理や道徳 的判断を含むものである﹂というのがノウルズの見解である。かくしてノウルズの人間関係的アプローチは、科学的アプ ローチとしての性格と、倫理的アプローチとしての性格の、二重の性格が与えられる。       ヘ  ヘ  へ  ところでノウルズの措定する倫理的人間とは一体どのような性格のものか。イデオロギー的問題とは何か。ノウルズは いう。 ﹁資本主義は財産権に由来する経営権、組織の繁栄への個人の縦属、労働の細分化を強調する。民主主義は、組織 の問題に対し各人に発言の機会を与え、且、協力は被治者の同意によるものでなければならぬとしている。キリスト教倫理 ︵q9忌引ΦOIQげ骨腫ロΩけ一目匿 Φ酔国幣Oリコ︶は個人の固有の価値と尊厳に関係する。そして産業上の紛争は一部これら諸見解の対立矛盾に起        ヘ ヘ ヘ      ヘ ヘ へ 因する﹂と。人間の独自性︵9昌HρβΦ]POωoロ︶と尊厳性︵巳退学︶はノウルズの倫理的アプローチを支える基本概念をなしてい る。それは自由企業イデオロギーの志向する徹底個人主義︵昌器巴ぎ幽く缶望診日︶とは異なる。自己主張、自己決定、恣意 的統制からの自由の権利を主張する個人主義である。そして﹁人間の尊厳性が重んぜられるならば、紛争の解決は産業へ        人間を適応させるというよりも寧ろ人聞の本性に合うように産業社会を調整するという方式をとらなければならぬ﹂であ      ノウルズ人事管理論に関する一考察       四三 ’

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     ノウルズ人事管理論に関する一考察       四四 ろう。ノウルズはこの問題を④資本主義制度、②労使関係、③伝統的なアメリカ人の理想主義の三つの問題に分けて論じ ている。  第一の問題から見てゆこう。自由放任の資本主義社会でも、巨大会社や巨大組合が支配する資本主義社会でも、産業上        へ  な   ヘ      ヘ   ヘ   へ の紛争は多く倫理的な性格を含んでいる。すなわちそれは人間の独自性・尊厳性にかかわるものと考えられる。しかもこ のことは、単に一般的な社会問題として丈でなく、すぐれて個々の産業経営自体の問題として、就中、人事管理の問題と して慎重に考慮せらるべきものである。そしてこのような認識がノウルズをして倫理的アプローチの必要を強調せしめた 理由の一つであると理解される。ところでノウルズの主張する倫理は所謂キリスト教倫理である。したがρて﹁人間の本        ヘ  へ  ヘ  へ 性への倫理的アプローチは、入無関係論が同胞精神︵ぴ弓O骨げの匿びOOq O臣 日蝉目︶の概念を基調とすべぎであるという結論に達す    る。﹂そしてこのような考は、必然的にキリスト教精神と資本主義をいかに調和させるかという困難な問題に導く。もち ろんノウルズの志両するのは、キリスト教社会主義︵O一H訪日〇g幹一減摩 o慶OO一挙一一〇瞠目P︶ではない。ノウルズはいう。 ﹁人間関係論の倫理 的アプローチは経済制度における急進的変革に替るものとして推進せられている。それは資本主義の改革を支持する。資 本主義は経済人概念の限定として同胞概念を導入することによって修正せられる。改革された資本主義は、人聞関係を通 して、産業上の紛争・国家統制・急進主義を回避するだろう。資本主義は外部勢力による改革の替りに、キリスト教原理        の実践によって自らを改革することが出来る﹂と。  第二は日量β巴嘗塁審①。。ぼ。の問題である。ここではノウルズのキリスト教倫理が労使関係の問題に向けられている。 そして産業経営の権威主義的性格の解明が中心をなしている。 ﹁権威は知識と技能から生ずる。それを除けば労働者と経       コ 営者は平等と看倣される﹂というのが権威に対するノウルズの見解である。それはまさに権威の実体を意解するものであ         り、権威主義における権威の概念と同一視することはできない。周知の如く、現実の産業経営においては、権威は形式化

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され、抽象化されている。そしてややもすると、権威の名の下に独断や専制の正当性が主張され勝ちである。いおばそれ は経営者エリート観︵日9昌塑Qω巨①弾け ①一一酔0     0︶と表裏をなしているといえよう。そしてノウルズはこのような認識にもとづいて、 産業民主主義︵首貯。。貯邑密日。電9。Φ団︶を唱え、資本と労働の旨葺q巴誤字8Φωぽ口ないし慰舘ヨ典ωぼ℃を主張しているので ある。  最後に、ノウルズは﹁産業活動.の実体ヘアメリ怪人の理想主義を関係づけようとしている点が、人間関係的アプローチ         ゆ の特質の一つである﹂といっている。周知の如く、アメリカ人の伝統的な理想主義は、広大な土地と豊富な資源に支えら れた徹底個人主義であったみもちろん今日のアメリカ社会でば、このような理想主義がそのまま受け容れられないことは 明らかであるが、しかもなおそれはアメリカ人の心に深く根をおろしているものと考えられる。アメリカ産業における人. 聞問題、就中労働関係の諸問題は、ある意味では、この充されない理想主義への欲求が形をかえて現われているものとも 解せられよう。  以上がノウルズの人士関係的アプローチの大要である。つぎにこれら二つのアプローチがどのような関係にあり、どの ように調整され、統合せられるかが問題となる。そしてこれに答えるのが氏の人事哲学であると解せられる。章を.辱めて その主張をみょう。 ①②囚巳乱β。や露玉や=刈  リサーチ・チ⋮ムによる調査研究は、ぎ叶電象。。色b鼠轟受唇ω①胃。F。早9の。琶ぽ舘.唄・・貯亀鐸霞。器−鼠の鼠b口冨曼  唇器胃魯など種々よばれている。但しこれらがノウルズのいう倫理的アプローチを含まぬのは勿論である。例えば、○響車・oQぎ巨。蕊  ”昌角﹄■b.⇔署グ冒言轟ヨ。ぎゴ日田賢Oo=讐冨鵠。ロ一口旨。暮憂目百諺ω閑。ω①舘。∬目δbヨ。匡昌昌職。扇胃=巴。㎞尊ρ099009暴くOピ■ビ切目同12p  ω・三〇<。日9♪一〇雪・ U・網。塗♪勺。冨。目9℃ほまぜ幽きq℃&。霧・一8NOぽ書け図図図など参照。 ③ 国巳乱。9。や簿;や一〇G。  ④⑤謹q‘サ一〇駆 ⑥︸瓦qごマ一〇ひ ⑦一瓢画;や一〇刈  ⑥邑創‘娼・一〇ひ  ⑨ぎ一Pマ一〇〇  ⑩一び達・層b・=o     ノウルズ人事管理論に関する一考察      四五

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    ノウルズ人事管理論に関する︸考察 ⑪筐q・噂や幽。。一 ⑫権威に関する代表的見解としてバーナードの権威の理論を挙げることができよう。  Oα渦O匿琶叶.図目参照 ⑬国ロ。乱β8●隻■嘘や=戯 四六 9 d.剛・頃㊤邑胃P日冨国守bo自。ロ。南嘗①頃図Φ。9才ρ一 三  ノウルズはヘブナi︵︼H■均.閏O唱昌Φ弓︶の著書から引用して、人事管理の哲学の必要を強調する。ノウルズはいう。 ﹁科学        ヘ  ヘ     ヘ  へ と技術は哲学との調和を得てはじめて意味と目的︵菖$巳凝自画隠壱。ωΦ︶が与えられる。⋮⋮倫理を欠いた知識や権力は、 濫用と専断に陥り易いし、⋮⋮利潤∵生産・能率・拡張は、それ自体が目的となる危険を有する故、意味を与えられなけ ればならぬ。そして労働者は、政治上の自由、物的な福祉の向上にも.拘らす、他律的な、低い、不安定な、はつぎりと物         も云えないような地位に放置される傾向にある﹂と。かくしてノウルズは、労使間の紛争の解決には人事哲学によるはっ きりした方向づけが必要であると考える。そしてそれは次の三つの問題として提起される。すなわち、④科学と人事哲学、 ②社会的価値︵醜OO一帥一 く帥一畳O吻︶と人事哲学、③従業員価値︵§覧留8︿。冒。。。︶と人事哲学がそれである。  ところで、ノウルズは自らの主張する人事哲学を民主主義の哲学と称する。それは権威主義の哲学に対して名づけられ たもので、ノウルズはこれら両者を対比させてその主張を展開している。順を追うてみてゆこう。

       1科学と人事哲学

 いかなる哲学も科学的知識と矛盾撞着するものであってはならないが、しかし逆に科学が完全に哲学を証明し尽せる ものではないというのがノウルズの根本的見解である。哲学は実証し得ない価値の問題に関係すると事えるからである。 そしてノウルズは、同一の科学的事実︵釜女寺。隔襲︶からも、互に矛盾対立する哲学的推論︵b巨霧。嘗冨=隠・屡ロ。Φ・︶が行わ

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れていると主張する。﹁すなわち、科学的事実とそれから引きだされる推論は、明確に区別せらるべき異なった範疇に属す るものであるという認識が前提をなしているのである。  ノウルズは十箇の科学的事実をあげて、対立する二群の推論をきわめて模式的に提示している。その要点は次のような ものである。  時間研寅.動作研究・職務評価などの産業工学的技術・行動心理学によって明らかにされた人問行動の法則・心理テス トの結果、インフォーマル集団・ユミュ昌クィション・労使協力などの諸問題に対する産業社会学的アプローチの成果が ノウルズのいう科学的事実である。そしてこれらの事実は、一方では経営大権︵§冨σqΦ要目酔覧①見。σq蝕く霧︶や経営者エリート 観を正当化する論拠となり、他方では、労働者の人間としての独自性・尊厳性を重視する民主主義哲学の・王張を正当化す る根拠とされていると解する。すなわち前者においては、科学的な技術と心理的・社会的な操縦技能の必要が強調されて、 産業経営組織の権威主義的な形成と運営を当然とする結論が導き出されていると解する。これに対して後者では、科学的 な技術や操縦的な技能の有効性の限界に焦点をおいて、そこから自己主張・自己決定・恣意的統制からの自由を志向する 民主主義哲学の優位性をひき出していると考える。  之を要するに、 ﹁人事哲学は科学と調和するものでなければならぬが、科学のみを以ては哲学の正当性を証明すること ができない。民主主義哲学も権威主義哲学も共に労使関係の科学的研究からそれぞれの哲学を支える推論を抽ぎ出してい るが、その結果は決定的なものとはいえない。それは価値の間題が包含されているからである﹂というのがノウルズの主 張である。かくして社会的価値・従業員価値の問題が重視せられるに至る。

       2社会的価値と人事哲学

 産業経営の価値が一般社会︵8白言き芽︶の価値と調和を保ちうるものでなければならぬことはいうまでもない。社会は      ノウルズ人事管理論に関する一考察      四七

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     ノウルズ人事管理論に関する一考察       四八 多年に亘ってはぐくんで来た多くの価値をもっている。これらの諸価値と、経営の人事方針を規定する人事哲学が、果して 矛盾しないかどうかがここでの問題点となる。ノウルズは人事哲学との関連においてとくに序題となる社会的価値として、 ④民主主義、②能率、③小キリスト教的道徳︵“び① 言一目O周 ︵踊に目一〇◎幹一帥目 く陣甥叶q①o◎︶の三つをあげる。  いうまでもなく民主主義は近代社会におけるすぐれた政治形体であるが、さらにその理念が政治の分野をこえて産業経 営の統治、就中、労使関係の処理にも及ぼし得るものか否かが問題となる。現代の資本主義社会では、政治的民主制の有効 性は否定し得ないとしても、それを産業経営の統治にまで及ぼすことは、却って経営の能率的な活動を阻害し、産業が社会 から課せられた任務を果し得ないことにな為だろうというのが経営指導者の一般的な見解といえる。そしてこのような考 えの底には、﹁政府は恐れらるべぎ権ヵであるから⋮⋮牽制均衡の制度が必要なのである。しかるに事業は有用なものであ り、恐れられる必要がない。それはいわば金の卵を産む鷲鳥であり、調節せられる必要はない。したがって経営者は企業を        ③ 適切に運営するための絶対的な権限をもたねばならぬ﹂といった権威主義的な経営観がひそんでいる。明らかに社会にと っても産業にとっても、問題はよき経営︵σq。&轟轟鳴墓5はいかにして可能かということに帰着する。そしてかれらはそ れを完全に科学的なエンジニィアリングの問題であり、専門家による操縦の問題であると考える。したがって産業経営は このような問題を解決するに必要な科学的知識と、心理的・社会的な操縦技能を身につけている、選ばれた人︵o嵩8︶にす べてを委ねらるべきであり、それが社会にとっても産業にとっても利益であると主張する。﹁かれらは労使間の斗争を許容 しようとはしない。⋮⋮それは生産経営を片輪にし、国民の不幸をまねくものと見る。民主主義における無政府主義的傾        向は、社会それ自体の存続すら危殆に陥らしめる﹂と老えるのである。  これに対して民・王主義哲学を信奉する人々は、﹁民主主義は最高の価値であり⋮⋮社会の存続は民主的価値に依存する﹂ と信じている。かれらは自らをエリートとは看倣さない。多種多様な意見や考えが却って経営の将来の発展を産みだすも

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ととなると考える。かくして﹁労使間の紛争は決して純粋な悪ではなく、平和が純粋の善でもない。﹂﹁紛.争は民主的な制         度が、いかにして協力してゆくかを習得する教育過程︵き巴g薮8旦鷺。。霧︶﹂と看徹される。しかしこのような老えは、そ れが直ちに労使間の問題処理に、国家統治と同じ方式が有効であることを意味するものではない。いわゆるライチ・プラ   ン︵日げOピ㊥騨Oげ ℃一型目︶のような素朴な形の産業民主制が成功をもたらさなかったのは、産業経営のもつ特殊な社会構造を無 視しだ結果に他ならない。むしろ﹁労働組合によって発展せしめられた民主主義方式こそ実行可能なものなのである。産 業民主制の団体交渉型は、無秩序︵茸弩。ξ︶を意帯するものではなく、経費者は依然として権限を保持している。しかしそ れは権威主義者によって要求される絶対的権力ではない。認められた枢内での権限であり、誤用にば責任をもっというこ         とを前提としての権限なのである。﹂     ・  .第二の問題は社会的価値としての能率をどのように理解するか、それは果して民主的な人事哲学と矛盾しないかという ことである。産業経営において、能率が価値体系の第一位に置かれるのは当然であろう。そして社会もまた産業が能率的に 運営せられることを期待する。しかし個々の産業経営にとっての能率が、必ずしも社会的価値としての能率と一致するもの とはいえないだろう。例えば、国民経済からみての入的資源の能率的利用と、個別経営における労働力の能率的利用の一致 しないことは、少年労働についてみても明らかであろう。つまり社会の要求する能率は、全体的・長期的能率であるのに 対し、個別経営では個別的・短期的な能率が要求せられ勝ちなのである。しかも問題はこれ点けにとどまらない。社会は 能率以外の多くの価値を保有しており、個別経瞠は屡々それらの価値の犠牲において能率要求の実現を企図する。之に対し て、﹁社会の価値実現計画が、労働者の肉体的精神的発展のための時論、リクリエーシ.ン、社会生活、家庭生活の時間、よぎ 市民であるための時間、などを包含するものであれぽ、ある程度の能率の犠牲は避け得ないだろう。﹂そしてこのような矛盾 は、個別経堂が能率を唯一最高の価値として信奉する権威主義的経営者の手に委ねられる時は、もはや容易に解消し得      ノウルズ人事管理論に國する一考察      .四九 タ

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     ノウルズ人事管理論に関する﹁考察       五〇 ざるものとなろう。労使の対立はまさにその端的な現れであり、しかもそれは何れか、一方が他方を屈服せしめなければ解 決し得ない対立とならざるを得ないのである。これに対して、労働者の人間としての尊厳性を尊重する民主主義的経営者 は、能率問題をより社会的・長期的観点から理解し、労使の対立をも協調への教育的な一過程として処理しようと努める だろうつけだしかれらにとってはへ人聞の尊厳性の尊重こそ、個別経営の長期的な能率増進と社会的諸価値の実現を同時 に可能ならしめる唯一の方向と考えられるからである。     ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ  最後に小キリスト教徳目についてみよう。ノウルズはいう。﹁人事哲学が公衆の認容を得るには、一般に受け容れられて いる社会の倫理基準と調和するものでなければならぬ。﹂ところで﹁同胞精神という倫理の中心理念の含意は、資本主義や         経済活動一般に適用するのが困難であるため、より低位のキリスト教徳目が屡々あげられる。﹂倹約・正直・節制・揚縁厳守・ 権限の尊重.紀律・義務の遵守がすなわちそれである。このような徳目は社会的に認められた価値として社会生活の倫理 的基準を形成するのである。ところで産業経営も一の人間社会であり、労働者は一般社会の一員であると同時に産業社会        ヘ  ヘ  へ の一員である。したがって産業社会のあり方を規定する人事哲学は、右にあげた倫理的基準と矛盾するものであってはな らない。しかし乍ら、労働者の行動が倫理的基準に合致しているか否かの判断は、当然価値判断を伴うものであり、ここ に誰がこれを判断するかという問題が生ずる。﹁権威・王義哲学は経営者を支配人・恩恵者︵。。話≦窪・qきqび。対客。ぎ弓︶の地位に 置く。﹂そして﹁科学的な知識を有する経営のエリートは、自然何が他人に対して善であるかを決定するのにりーグーシッ        プをとることになる。﹂かくしてエリートとしての経営者は、 一方においては﹁科学の名において価値判断を行い﹂、他面 においては、恩恵者として労働者の精神昂揚運動︵自忌嘩き蒔︶の推進考となる。もちろん科学的人事管理と恩恵的な福祉 活動︵ミ一¢隔僧門Φ 笥O国犀︶は、もともと異なれる歴典的背景をもつ、異なれる性格の人事活動として登魅して来たのであるが、権 威主義の哲学は前者に対してだけでなく、後者に対しても、その正当性を主張する根拠を提供していると解せられる。か

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ぐして労働者の行動の倫理的基準は経営のエリートの手中に収められ、自己否定、服従、個性の抑圧が不可避となる。こ        へ れに対して民主主義の見地に立つ経営者は、エリート観を斥け、何が善︵晦。&︶であるかの判断は、労働者自らが決すべき       ⑪ ものと考える。かくして﹁職揚規則や行動基準は団体交渉過程を通して発展せしめられ﹂、一市民としての誤れる行為は、 一般社会の批判に委ねて関与しない。また従業員サービスは賃金契約︵自凋。冨亭主昼︶の一部として提供されるもので、感 謝︵σq罫鼻鼠Φ︶を期待してなされる贈物︵言寿巳蔓︶西目さるべきではないと主張する。

       3従業員価値と人事哲学

 ノウルズは産業経営の目標と価値とを従業員の目標や価値と調和せしめるには、制度的民主主義︵一目。。雲譲ざ口9畠日8冨畠︶ に立脚した産業民主制︵冒曾。・猷舘9目。。臥竜︶をとらねぽならぬと主張する。けだし従業員価値は、産業社会の基本的制度. としての労働組合を通してのみ正しく具現せられ得ると考えるからである。ところでノウルズのいう制度的民主主義は、 アルクス民主主義︵寓母凪き負窪8壁ミ︶・サンヂカリズム︵・,遇象。騨類。。日︶・民主社会主義︵qφ暮。目讐。・,。。一餌属。,目︶などの志向す る階級なぎ民主主義︵。一節澱。。一、。,。,q、日。。弓㊤。団︶と、 自由放任の民主主義︵一帥一の。,.、島節一目、臼.旨。。弓き。。網︶との中間に位するものと解さ .れ 驕B、﹁それは私有財産制や資本主義組織の急進的な改革を目指すものではない。自由企業は制約を受けるが、その理念は 保持さ﹁れる。⋮⋮制度的民・王主義は不道徳な者を抑圧し、弱者を保護する秩序ある方法を求める。⋮⋮われわれの社会に おいて個人の尊厳を擁護してゆけるのは、制度的民主主義の経済的多元論︵8。ロ。巨。鳥影昌ω5︶である﹂と主張している。 かくして人事哲学は、産業社会の制度的枢組︵一部q慶汁一け目口O口塑一 隔日暫彗O≦O弓犀︶のなかで、従業員価値の実現を可能とする方策の樹 立に、理論的根拠を与えるものでなければならぬ。  前述の如く、民主主義の哲.学は、従業員価値が自己主張・自己決定.恣意的統制からの宮由を基調之すべきものである. との見地に立っている。そしてそれは、具体的には、従業員の経営参加︵嘔践昌騨“ごロ︶の問題に帰着しよう。まころで経営      ノウルズ人事管理論に関する一考察       五一

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      ノ・ウルズ人事管理論に関する一考察       .五二 参加の有効性を科学的に立証しようとする.試みも多く見られるか、しかし﹁その研究成果は決定的なものではない。どの         ような形の産業民主制が、科学的に正当なものであるかが明らかにされていない﹂と考える。かくして産業倫理︵言含。,慧譜 Φ疑$︶の問題が重要な意味を与えられる。けだしノウルズにおいては、科学的な技術の限界の認識が、倫理問題展開の契 機をなしているからである。ノウルズは産業倫理の問題として、人間の尊厳性の擁護と産業的自由︵政治的自由に対する︶ の保障を挙げる。すなわち﹁従業員は人間の権利として専断的な権限の濫用から護られねばならぬし、さらに自らの福祉        に関、係する事項については発言の権利が与えられねばならない﹂と考える。このような前提に基づいて、ノウルズは真の経 営参加を保障する産業民主制の基本的要素として、①同意︵8房。邑、②地位︵。・§諺︶、③歩み寄り︵8ξ勇者器︶の三つを ・挙げている。  同意は集.団︵σ。目。ξ︶の,同意を意味し、個々人としての従業員の同意を意味する・ものではない。ノウルズはいう。 ﹁個入 としての従業員は協議をもとめる権利を放棄しているのであるが、集団としての従業員は、自らの福祉に関係する事項につ いては、意見を徴せられ、同意をもとめられねばならぬ。そして集団の同意を得るということは、従業員の自由な、自律       ⑮ 的な集団との団体交渉を意味するものである。﹂また従業員の地位の問題も、同様社会集団の一員としての地位の問題と 解せられる。もちろん現在の制度を前提とする限り、従業員の賃金労働者︵二巴σ々① Φ9目昌①憎︶たる地位を否定することはできな い。賃金労働者にして㈲人間としての尊厳性を護持してゆくには、自由且自律的な集団の一員としての地位を与えられ、 集団を通して自らの意見を表明し、経営に参加することが必要なのである。そして産業民主制の二つの基本的要素が、こ のような従業員集団の存在を前提として措定せられる限り、その具体的運営が政治的な性格のものとなることは避けるこ とがでぎない。すなわち﹁産業上の紛争においては、使用者側も、従業員側も、共に相手側を完全に屈服せしめることも        絶滅ぜしめることも不可能であり、﹂かくして実行性のある歩み寄り︵司。弓冨露。8日箕。巨紹︶が不可欠とせられるに至る。

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 しかし乍らノウルズの措定する自由にして自律的な従業員集団というのは、一般に理解されているような経営内的存在 としての従業員集団を指すものではない。いなそれは寧ろ労働組合そのものを意味するものと解せられる。そしてノウル        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ ズはそれに非革命的︵ぎ琴①<9島。真字︶なる限定を付している。それは所謂態勢中心的組合主義︵﹄9占。匿。ざ霧ロ巳。日一。,日︶ に立つ労働組合を意味するものに他ならない。ノウルズはいう。 ﹁アメリカにおける支配的な組合哲学は、仕事中心的組 合主義の哲学である。それは仕事の改善と仕事の保障を基調として労働者に訴えるが故に仕事中心的組合主義と称せられ る。⋮⋮アメリカの労働者はもともと社会科学・経済理論・空想的社会改良計画に関心をもたない。よりよき仕事と労働 条件の改善のみが問題なの,である。したがってアメリカの組合主義は、概ね労働条件改善のための団体交渉と、仕事の保       ⑰ 障︵騒9。,。窪、ξ︶に関する苦情処理を基調としている。それがすなわち仕事中心的組合主義なのである。﹂そしてこのよう な組合主義は、アメリカの独自な歴史的発展と深く結びついていることを否定することがでぎない。 ﹁アメリカは無限の 機会に恵まれた土地である﹂という伝統的な理念に反して、現実の産業社会では、仕事の機会︵甘び。薯。匿臨幸①。。︶が甚だし く制約されているという実際の経験が、仕事の保障を最大の目標とする組合主義を生みだすに至ったのである。経済の共 産化を斥け乍らも、仕事の機会の共有化︵OO筥辰口昌一N暫“一〇︼P︶を支持する労働者の態度がそれを物語っている。すなわち﹁仕事 の保障は個人の創意の犠牲において得られ、仕事の所有権︵。類5Φ窃匡娼︶は、集団的な仕事の統制のために個人から集団に移        ヘ ヘ ヘ    ヘ ヘ へ される。﹂ノウルズはこれを仕事の集団的所有︵8菌野Φ﹄。び鷺。嵩言ヤ︶と称する。ノウルズはいう。 ﹁心理学的には、あらゆ る労働者は、自分の仕事を財産と看徹している。社会学的には、労働者集団は仕事を共有財産として集産化する︵。畠・註f 一・。︶。この財産は無形のものであるが、組合が支配権を有する領域をなしている。そして仕事中心の組合の主たる機能は、        仕事を規制する団体協約を結ぶために使用者と交渉するにある。﹂ かくして仕事の合同統治︵︺。ヨご9巴巨巳。。貯薮。ロ︶が 要請せられるに至るのである。      ノウルズ人事管理論に関する二考察      五三

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     ノウルズ人事管理論に関する一考察       五四  以上がノウルズの抱懐する人事哲学の骨子である。ノウルズは続いて従業員の協力確保︵器。母営㈹88。冨まロ︶の問題を とりあげ、民主主義哲学に立つ限り、制度派︵言ωけ穽9陣。昌9箇月α騨︶の見解に組せざるを得ないと述べている。そしてその具体的 方式は、民主的産業統治の機構とその職能に関する所論において展開されている。しかしこれらの問題は人事哲学自体の 問題ではない故省略する。

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国口。自冨の︾oや9ダや一〇刈 一甑麟‘やヨG.  ③観Ωごb.一田  ④一甑2b.一昭 一甑創ご督.一〇G︹ 詳しくは,ρ図.U塑βσ莞げ宥受曽ご9びO月頃曇日の日。。ヨ誤想①賎O讐冒動β。・曾ざち昌昌.唱.ひもΩc◎1ひωO参照 国琴乱β。や葺ごや8c。 ⑧観qごb.ぴ悼 ⑨尋創;b﹄ひN 畳2眉■葛。。 ⑪崔qこづ.心。。一 ⑫量創‘や旨。。 量q‘や悼ホ ⑭謹創ごや悼ホ ⑮転qごや8心

ま2サ8ひ ⑰畳q﹂署。謡α一謡ひ ⑱誠Pや誤O

一び一9 悼αO  一 四  経営目的達成のために従業員の協力を確保してゆくのが人事管理の最大の任務である。そして協力の.問題はつねに広い 意味での労使の関係において発現するものであるから、労使関係はまさに入事管理論の中心問題となる。ノウルズの﹁人        事管理論﹂が労使関係の理論と方策の究明を主題としているのは正鵠を得たものといえよう。ノウルズは特に組合関係を 重視し、賃金管理・選抜・配置・訓練・安全・福祉などに関する技術的な問題は周辺的なもの︵三韓Φ認ρ邑にすぎない と考えている。そして﹁今日の人事管理における主要問題は、団体交渉・苦情処理・職長−職揚代表関係・合同会議の問

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題である﹂と主張する。したがって組合関係を人事管理の別個のものと看倣す狭い見解には強く反対する。       われわれも組合関係の重視には賛成である。しかしそのために経営内における協力関係乃至よき人間関係の問題が不当 に軽視されてはならないと考える。労使関係一般は対内的な従業員関係と対外的な労働関係を内包するものである。われ われはこれら両者のそれぞれの独自な性格と、深い関連とに対する正しい認識を基調としてのみ、両者を包摂する労使関 係一般の指導原理がみいだされ得るものと信ずる。しかるに、ノウルズは意識的に両者を独自な関係領域として設定する ことを避け、専ら労働関係の視点から労使関係一般をとらえようと意図しているかに解される。もしこのような方向が︵ ノウルズの人事哲学に起因するものとすれば、それはまさしく氏の民主主義人事哲学の限界を示すものといわなければな るまい。  第二はアプローチの問題である。応用科学︵き琶嘗露量88︶としての性格を有する人事管理が、問題解決の助けとな る諸科学の貢献を利用するのは当然である。その狙いとするところは産業における入間行動乃至人間関係の法則の発見に ある。人皆行動が複雑多岐に亘る諸要因の合成と解される以上、種々の社会科学の分野でめ専門家が参加するリサーチ・ チームによるインターデシプリネァリィ・アプローチが、もっとも有効なものとされるのは当然のことである。  ところで、ノウルズの人間関係的アプローチを構成しているいま一つのアプローチである倫理的アプローチは如何。ノ ウルズの倫理的アプローチの主張は、氏の科学に対する見解に根ざしている。ノウルズはいう。 ﹁われわれがこの著書で とっている見解は、科学が労使関係の問題に対して正確な解答を与え得るものではないということである。何故ならば複 雑な社会現象に適用される科学的方法には限界が存するからである。⋮⋮労使関係における﹁正﹂﹁否﹂︵..弓㎡ぽ..山野..司目。        凝..︶に対する測定単・位の欠割は科学的方法を制約する。﹂それ故に産業倫理の研究を志向する倫理的アプローチが必要で あると主張している。      ノウルズ人事管理論に関する一考察      五五      、

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     ノウルズ人事管理論に関する一考察      、   五六  倫理的アプローチが、価値的視点に立って人間行動の倫理的基準を明らかにしょうとするものであることはいうまでも なかろう。問題はそれが生産の能率的遂行を目ざす産業の労使関係において、どのような形で、どのような方法によって 具現せられ得るかにかかっている。ノウルズは労働者の人間としての尊厳性と独自性を基調として人事哲学を展開してい・ る。それは自己主張・自己決定・恣意的統制からの自由を目指すものであり、具体的には社会的価値並びに従業員価値と してとらえられる。しかし乍ら、ノウルズはこれらの諸価値が専ら労働関係を通して実現せられうるものとしている。そ れは果して正しい方向といえるであろうか。  いうまでもなく人事管理は、経営目的達成のために従業員の協力の確保を目指すものであり、実践科学としての性格.を有 する。したがって目的に対する手段の適合性の問題は、つねに意識せられねぽならぬ。労働力の能率的利用を最大の目標と した従来の人事管理が、技術的合理性を主たるの判定の基準としてぎたことはよく知られるところである。しかし乍ら、産. 業社会の一構成要素であり、同時に自らも一の社会を形づくっている産業経営が、発展を持続してゆくには、社会的要因へ. の配慮が不可欠であろう。ここに技術的合理性を超えた、より高次の民主的合理性が要請せられる所以がある。それは技 術的合理化によってもたらされた労働の非人問化を、人間の尊厳性を基調とする民主化原理によって克服しようとするも のである。勿論民主化は技術的合理化を否定するものであってはならない。 ﹁合理化従って技術的進歩はいわば不可逆的 であって、近代経営における合理性を更に促進するところに意義があり、そして民主化こそまさにそのような作用を持つ       べぎである。﹂しかし乍ら、ややもすると組合主義は民主化の名において反合理化を、経営者は合理化に名をかりて権威主義 を強調し勝ちである。しかしわれわれは真の民主化がひろく労使関係一般に通ずる民主的合理化でなければならないと老 える。そしてそのためには、労使関係は、それぞれ独自の性格を有する労働関係、従業員関係を包摂する高次の概念とし て正しくとらえられねばなら、ぬ。われわれがノウルズの労働関係中心主義に批判的たらざるを得ない所以である。

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 之を要するに、ノウルズの﹁人事管理論﹂の特質は、倫理的アプローチに基づく民主主義の人事哲学と、労働関係中心 主義にもとめることができよう。そしてわれわれは、ノウルズの労働関係馬指の民主化を超えて、労使関係一般を貫ぬく 民主的合理化への途を追求することこそ、まさに人事管理論の使命であると考える。  ①労使関係を労務管理論の中心問題としているのに淡路博士の近著﹁労務原論﹂がある。全書上巻皿労務管理の本質、参照  ②国口。乱2。o・騨・−b・嵩。。  ③トラヅカーは労働組合とは別個に、経営内に従業員の自主的統治による工場社会︵撞き酵8銀目琶騨気︶が形成せらるべきであると   主張している。︵勺・円U翌翌①♪日累累Φ朝ω。魯謀り一80︶なお拙稿、工場社会の自主的統治と人事管理、彦根論叢、昭三二・九月参   照。  ④国口。乱β。軍書‘薯.晶刈刈一禽。。科学と倫理、科学的アプローチと倫理的アプローチ、人事問題に対する科学的方法の限界など   の問題はなお検討を要しよう。科学的方法に関しては、國・を.・詔爵ロ。・噛自き凋。日①導琶q昏のω。一Φ黒崔。自。爵。Pb⇔H目・・<Oり・客。・同・   ω”角き葛噸ちα。。参照。  ⑤山本教授、経営管理論、三〇頁。 ノウルズ人事管理論に関する一考察 五七

参照

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