W・R・ランバスにおける宣教思想の一考察 : 特
に、朝鮮認識を中心に
著者
洪 ?基
雑誌名
関西学院史紀要
号
20
ページ
61-94
発行年
2014-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/12041
はじめに 本 論 文 は、 一 九 世 紀 後 半 か ら 二 〇 世 紀 初 頭 に 亘 っ て、 米 国 の 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 の 宣 教 師 で あ り、 宣 教 局 の 主 事 及 び 監 督 な ど を 歴 任 し た W ・ R ・ ラ ン バ ス︵ Walter Russell Lambuth 、 一八五四 ― 一九二一︶の朝鮮認識と理解に関して、考察することを目標とする。ランバスの宣教 の痕跡は今も世界の所々に残っているが、彼は東アジアにおいて、日中韓の三国すべてと関係を 結び続けた。しかし、その中でもランバスが朝鮮に残した宣教活動と痕跡はまだ十分に解明され なかった点が少なくない 。 ここでは、ランバスが朝鮮に ついて、どのように 理解したのか、ラン バス自身が残した文書や当時の新聞などを通して検討する。そして、急速に変化している今日の 時代の中で、ランバスにおける宣教思想を吟味し、彼の宣教思想の意義は何であったのかについ て考察しようとするものである。
W
・
R
・ランバスにおける宣教思想の一考察
―
特に、朝鮮認識を中心に
―
洪
珉基
︵関西学院大学大学院
博士課程後期課程︶
ランバスにおける朝鮮に対する認識と理解 1 .単純な認識から具体的な関心に 一般的に人間の行動はその人の心を通し、外に表れる。それ故、ランバスが朝鮮で残した宣教 活 動 の 跡 も 彼 が 朝 鮮 に つ い て 抱 い て い た 理 解、 そ し て 行 動 認 識 の 結 果 だ と 見 ら れ る。 そ れ で は、 ランバスは朝鮮についてどのような認識と理解を持っていたのか。 元 々、 ラ ン バ ス に と っ て、 朝 鮮 と は、 東 ア ジ ア の 中 国 と 日 本 の 間 に あ る 一 つ の 国 と い う 単 純 な自覚にとどまっていたと思われる。このことは尹致昊が書いた日記などを通して、確認するこ とができる。ランバスが最初に出会った朝鮮人は尹致昊であり、二人の関係は一八八五年から始 まった。それ以後にも、ランバスは彼と親密な関係を維持し続けた。それにもかかわらず、長い 間、ランバスにとって、朝鮮への関心度は外のエリアのような国であった。即ち、朝鮮という国 は認識していたが、宣教地として具体的な対象国には至らなかったということである。ランバス が直接に朝鮮に関する関心を持ち、公式的なところで初めて、朝鮮宣教の必要性を主張すること になったのは、一八九四年の南メソ ヂ スト監督教会が発行した機関紙 The Methodist Review の 一一 ― 一二月号に おいてであった 。 それまで、ランバスは尹致昊との友好関係はあったが、互い に朝鮮の宣教に関して、長い期間密度の濃い対話をしなかったようである。この点は、尹致昊の 日記から推察できる。一八九四年の夏頃まで、尹致昊の日記に出てくるランバスに関する記録を 参考すれ ば 、その両者の関係を次のようにまとめられる 。
第一は、ランバスはほとんど尹致昊との食事会に よって、対話の機会を得たことである 。 勿論、 このような交わりによって朝鮮以外に中国及び日本などの二カ国をめぐる内容が話題になったこ ともあった 。 しかし、朝鮮に対する具体的な宣教方策とその内容は全く出てこない。 第 二 は、 尹 致 昊 は 宣 教 に 関 す る 学 習 会 や 講 座 な ど で、 ラ ン バ ス の 講 義 を 聞 い た こ と が あ る が、 これは直接朝鮮宣教に関することではなく、 ﹁宣教師を派遣している米国側の教会の関心を促す﹂ ことや﹁宣教報告の具体的な方法﹂などの一般的な事項に関する内容が主なことであった 。 そ し て 最 後 に、 ラ ン バ ス は こ の 時 ま で、 米 国 人 た ち に 朝 鮮 に 対 す る 関 心 を 喚 起 す る こ と よ り、 アフリカ宣教の当為性を力説したり 、 あるいは自分が宣教師として活動した日本に 対して、一層 大きな関心を与え、これに よる一般の理解を呼びかけた。朝鮮はあまり関心の対象となっていた 国ではなかったわけである。以下は、尹致昊の日記の一八九一年一〇月二三日の内容である。 午 前 九 時 に ヒ ュ ー プ ラ イ ス ヒ ュ ー ズ︵ Hugh Price Hughes ︶ 牧 師 が、 大 学 の 教 会 に て 学 生 た ち に 講 演 し た。 午 後 の 会 で は、 い つ も の よ う に、 ラ ン バ ス 博 士 が 誠 実 で、 明 確 に 日 本 と 宣 教 使 命 に つ い て 話 し た。 ラ ン バ ス 博 士 の 次 に 、 ア ン ダ ー ウ ッ ド︵ Horace G. Underwood ︶ 牧 師 が 朝 鮮 に つ い て 話 し た。 そ の 次 に 、 中 国 の 宣 教 地 か ら戻ってきた宣教師であり、神学博士のビーチ︵ H. P. Beach ︶牧師が短く話した 。 勿論、二人同士で書簡などが交わされたことは尹致昊の日記に よって判明されているが 、 現在 残されている資料で、書簡の中に朝鮮宣教に関する細かい事項などが論議されたのかは確認が難 しい。しかし、ランバスが尹致昊と交わした手紙の中に、朝鮮あるいは朝鮮宣教をめぐる内容が
具体的に記録されていれ ば 、尹致昊の日記にもその内容の一部が言及されるはずであるが、その ような気持ちが全く日記に書かれていなかったのは、ランバスがこの時まで、朝鮮と朝鮮宣教に 関して具体的な計画と関心を持っていなかったと推測することができる。その後、先に言及した よ う に、 ラ ン バ ス は The Methodist Re vie w の 一 八 九 四 年 一 一 ― 一 二 月 号 に K or ea: Past and Pr esent という題目の文章を寄稿し、南メソ ヂ スト監督教会の信徒たちに朝鮮についての関心を喚起した のである。 それでは、ランバスが朝鮮について関心を持つようになったことはどのような理由であったの か。ここには、ランバスが明らかに記述したところはないが、当時の状況と雰囲気によれ ば 、大 きく、次のような二つに整理することができる。一つは、これまで論述したように、尹致昊とい う朝鮮人との出会いと交際によって、彼が朝鮮に対する関心を呼び起こされたと推測できる。時 折、尹致昊との食事と交流などを通して、断片的に朝鮮及び朝鮮人に対する理解と知識を得るこ とができただろう。もう一つは、彼が南メソ ヂ スト監督教会の宣教局主事の任務を担当していた ため、朝鮮について関心を持たなけれ ば ならないこともあったと推測される。一八九四年までに 限定したとしても、北メソ ヂ スト監督教会や長老派などによって、朝鮮に宣教師が派遣されてい たが 、 南メソヂ スト監督教会の立場からみると、派遣宣教師が一人もいない宣教地だったのであ る。そのようなわけで、南メソ ヂ スト監督教会の海外宣教の責任を持っていたランバスの立場か らみれ ば 、朝鮮は開拓宣教の可能性を検討することが十分に できる国となれたわけである。従っ て、彼は朝鮮を知るため、当時の西欧に紹介されていた東アジア、その中でも、朝鮮に関する関 係書籍を閲読し、朝鮮に 対する理解をより深くし、その宣教に おける可能性も検討していった 。
このように、ランバスは朝鮮という国が東アジアにある国の中の一つという単純な認識から、南 メソ ヂ スト監督教会が福音を伝える宣教地としてその関心のエリアに入り、これによって、検討 の対象となったわけである 。 2 .独自の気質と伝統文化を所有した国 最初に、ランバスが朝鮮について興味を持ち始めた時、彼は朝鮮人をいわゆる文化人類学の枠 組で分析しようとした。一八九四年の宣教局の主事として在任した時に、彼は次のような文章を 書いている。 朝 鮮 人 た ち も 日 本 人 た ち の よ う に 混 血 の 血 統 で あ る。 頭 蓋 骨 の 輪 郭、 民 俗 文 化、 宗 教、 そ し て、 特 に 言 語 は このような結論の証拠となる。朝鮮半島の地域の歴史学者たちは私たちに [朝鮮が] 恐らく東アジアのツングー ス 人 種︵ Tungusic race ︶ に 属 し て い る が、 そ の 起 源 が わ か ら な い 原 始 的 な 土 着 部 族 た ち に よ っ て、 支 配 さ れ た と語っている。 B C 一一二二年頃、 学者であり、 政治家であった箕子︵ Ki Tsz ︶の指揮の下で、 中国から移住し、 この土着民たちを大勢圧迫し、侵入した 。 ここでは、朝鮮人の始祖を中国から渡ってきた箕子であるとみているが、朝鮮人が、単一の民 族ではなく混血の民族かどうかについては異論の余地がある。彼が朝鮮側の文書ではなく、西洋 人によって書かれた書籍を参考したことは、既に中国と日本宣教師を歴任した彼の経験からすれ
ば 、このように理解することは無理はないと考えられる。このように、初期において、彼の朝鮮 及び朝鮮人の理解は東アジアという大きな範囲の中で、理解しようと試みた痕跡が見られる。彼 はまた、朝鮮人の気質を周りの環境との相関関係の中で調べ、理解している。 一 一 月 の 秋、 日 出︵ sun rise ︶ と 日 没︵ sun set ︶ で、 ご つ ご つ の 古 い 山 々 が 鮮 紅 色 の 色 を 帯 び、 そ の 後、 赤 色 を 見 せ る 際 に 、 こ れ を 見 る 自 身 が 神 に 真 っ す ぐ 進 む 道 に 上 り、 も っ と 高 い こ と を 思 う よ う に 創 ら れ る。 私 は 朝鮮人たちが持っている強い気質︵ the strength of character ︶の中の一部が、彼ら自身の頭の上の最も高い所 に 位 置 し た 要 塞 が あ る 巨 大 な 山 々 に 由 来 し て い る と 思 う。 し か し、 つ い に そ の 精 神 は 心 を 変 え、 人 生 を 清 く す る永遠の坂道を提供してくれる 。 ランバスは険しい山脈が多い朝鮮の自然環境を見ながら、朝鮮人の気質が自然によって影響を 受け、形成されたとみた。しかも彼が言及したいわゆる、強い気質の中の一つはまさに独立の精 神である。 く ね く ね し つ つ も、 ぐ っ と そ び え 立 っ た 山 脈 は こ の 王 国 の 全 体 の 枠 と 規 模 を 示 し て い る が、 短 い 東 部 と 長 い 西 部 の 流 域 と し て 分 れ、 色 々 な 川 に 流 れ、 谷 を 豊 か に し、 豊 か な 産 物 を も た ら し、 三 〇 〇 〇 年 の 間 に、 外 勢 の 継続 的 な 侵 略 の 中 で も 、 こ の 国 民 た ち の 中 に 生 き て い る 独 立 の 精 神 ︵ sp irit o f in de pe nd en ce︶ を 支 え て く れた 。 昔から朝鮮人は険しい自然環境の中で、独立精神という強い気質が形成され、この気質を本質
的に持っているので、外勢に抵抗しようとする意志が誰より強かったことをランバスはよく理解 していたわけである。従って、彼は後により具体的に叙述するが、朝鮮人の外勢に向かう抵抗と 独立の精神をよく理解することができた。 一方、 独立の精神以外に彼が見出した朝鮮人の他の姿は、 相互に助け合おうとする民族でもあっ た。 こ の よ う に 純 真 な︵ simple-hearted ︶ 人 々[ 朝 鮮 人 た ち ] は 互 い に 助 け 合 い、 働 く こ と が 好 き だ。 春 に、 田 植 え を す る 時 や、 秋 に 刈 り 入 れ を す る 時 に、 彼 ら は 互 い に 助 け 合 い、 共 に 働 い た。 長 い シ ャ ベ ル で 土 を 掘 る 時 に も、 彼 ら は た び た び 共 に 働 く が、 八 人 あ る い は 一 〇 人 の 作 業 員 が 共 に 働 く 時 に、 ち ょ う ど 一 人 が シ ャ ベ ル を 掘 るようである。ところが、 この際に 、 四人あるいは五人以上の人々がそれぞれ横に 稲のような物に よって、 しっ かりくくられている稲束を持っているが、 彼らはリー ダ ーが四音節の歌を歌うまで待っていて、 作業場にて引っ 張り、 振り、 投げることを繰り返す。⋮リー ダ ーは初小節を繰り返し、 すると、 人々はそれをまた繰り返し、 次に 、 彼らは共に合唱する。このような方法で、朝鮮人たちは多くの大変な仕事を軽くして行く 。 ランバスが朝鮮を訪ね、純真な朝鮮人たちの協同の精神を称えたのは、田舎で互に助け合う姿 を見たからである。しかし、彼が褒め称えた朝鮮の文化はそれだけではなかった。彼は京城︵今 日のソウル︶の主な通りを行き来しながら、その風景を細かく観察したが、彼は市場が繰り広げ られている形に中国の北京の街との類似性を見出しながらも、いわゆる、荷物を運ぶチゲックン たちが行き来す光景は朝鮮の街独特の点として描写している 。 市場で韓紙 ︵ Korea paper ︶ を売っ
ている店に彼は立ち寄り、販売されている品などを見て次のような印象を描写している。 道 に 沿 っ て い く 内 に 、[ 京 城 に あ る ] 我 が 宣 教 部︵ mission house ︶ か ら 遠 く な い 所 に は 韓 紙 の 店 が あ る。 朝 鮮 人 た ち は、 そ の 優 れ た オ イ ル ペ ー パ ー に 文 を 書 く の で あ る。 そ の 大 き な ペ ー パ ー は 板 の 床 に 敷 か れ 部 屋 の 全 体をいっぱい上張りされるほどのサイズもある。この品は垢が軽く落とされ、 綺麗によく維持される。扇︵ fan ︶ も 同 じ 材 料 で 作 ら れ る が、 良 い 竹 の 細 く て、 長 い も の の 上 に 糊 を つ け て 用 い ら れ る。 扇 は 本 当 に 堅 固 で、 紙 は 非常に良いオイルをつけて用いるが、 ほどほどに水に少しつけても良く、 店の前、 あるいは、 裏庭や板の間のため、 ス プ リ ン ク ラ ー︵ sprinkler ︶ の 役 割 と し て 愛 用 さ れ て い る。 朝 鮮 人 た ち は こ の よ う な 紙 の 製 作 技 術 を 日 本 人 た ちに教示した 。 ランバスは、南メソ ヂ スト監督教会へ行く途中宣教部の近所にある韓紙の店にし ば らく立ち寄 り、朝鮮人たちが得意とする多種多様な文化を観て、その優秀性を認めた。そして、このような 優れた紙の製作技術が既に日本に渡って行き、日本文化にも影響を及ぼしたということも認めて いる。 [ 新 羅 時 代 に お け る 朝 鮮 半 島 の ] 東 部 の 海 岸 か ら 仏 教 の 僧 た ち と 儒 学 者 た ち が 日 本 に 渡 っ て い き、 自 分 た ち の 信仰を紹介した。従って、 宗教と哲学は中国の芸術や科学、 朝鮮半島の政治のシステム、 法制︵ jurisprudence ︶、 音楽、医学、穀物、茶、そして、シルク文化︵ silk culture ︶が朝鮮という架け橋を通して、紹介され、 [朝鮮半 島は]日中の強力な媒介となった 。
朝鮮は自分たちの技術と文化を直接日本に教示したこともあるが、中国の文化も勿論、朝鮮が 架け橋の役割を担い、伝えたことをランバスは既に知っていたわけである。 このように、ランバスは朝鮮に関する書籍により、すでに朝鮮を訪問することにより、福音を 宣べ伝えるために、朝鮮人に関する日常の朝鮮文化と理解を深め、努力した姿が見られる。そし て、時折、朝鮮の伝統文化や技術などに優れたものを見出せ ば 、これを卒直に認めるのであった。 3 .歴史的な痛みを抱えている国 ランバスは、朝鮮文化と歴史を理解する中で、彼が見出した朝鮮は歴史的な痛みを抱えている 国であった。この点は朝鮮の女性たち、いわゆるスゲチマ︵被り物スカート︶をめぐる文化の由 来を調べ、記述した彼の言及から明らかである。 こ の こ と は、 私 が 昔 朝 鮮 が 敵 か ら 続 け て 侵 略 を 受 け た と い う 物 語 を 聞 い て、 知 る よ う に な っ た 内 容 で あ る。 中 国 の 軍 人 た ち が 朝 鮮 の あ る と こ ろ を 侵 略 し て く る と、 日 本 は そ の 反 対 の と こ ろ を 侵 略 し て き た。 す る と、 朝 鮮 人 た ち は 彼 ら に 対 抗 し な が ら 戦 っ た。 朝 鮮 人 た ち は 戦 闘 に 参 加 す る た め、 鎧 を 着 て、 弓 と 矢、 そ し て、 槍 を 持 ち 戦 っ た。 彼 ら が 毎 回 に 鎧 を 着 ら れ な く な り、 民 を 保 護 し た り 土 地 を 守 ら れ な く な っ た の で、 女 性 た ち が 万 一 の 場 合 に は、 彼 女 ら の 旦 那 と 息 子 た ち に 、 素 手 で 準 備 し た 戦 争 の 武 器 を 伝 え よ う と し た。 そ の 際 に、 女 性 た ち は ま る で、 一 つ の 鎧 と な っ て い る よ う に 、 彼 女 ら の 頭 に 緑 色、 あ る い は 赤 紫 色 の 長 い チ マ︵ ス カ ー ト ︶ を 被 り 始 め た が、 彼 女 ら の あ ま り に 古 く、 い つ も の 癖 の よ う に な っ て い た こ の 習 慣 的 な 方 法 が、 自 分 た ち を 守 る
た め の 方 法 と な っ た わ け で あ る。 こ れ は 非 常 に 奇 妙 で あ り、 な か な か 信 じ ら れ な い 物 語 り︵ queer story and hard to believe ︶である 。 朝 鮮 時 代 に 、 朝 鮮 の 女 性 た ち が 外 に 出 掛 け る 度 に、 被 っ た ス ゲ チ マ に つ い て の 内 容 で あ る が、 ラ ン バ ス は 中 国 及 び 日 本 か ら 侵 略 さ れ た 朝 鮮 の 歴 史 の 中 に、 い わ ゆ る、 ﹁ 奇 妙 で あ り、 な か な か 信じられない物語り﹂を知るようになったのである。ランバスが知るようになった朝鮮文化の内 には、このように朝鮮が外勢に侵略されたことによって、形成された文化的な要素があった。そ れほど、ランバスは朝鮮を理解する時、外勢によって侵略された歴史的な痛みと苦痛を無視する ことができなかったわけである。そのようなわけで、ランバスは自分が書いた朝鮮に関する文章 の中に、朝鮮の民族が経験した外勢からの侵略の歴史をよく言及した。何より、前の引用文でわ かるように、朝鮮の隣国、すなわち、中国と日本によって受けた侵略の痛みをランバスは十分に 理解していたのである。 歴 史 的 な 事 件 は 大 き な 円 の 中 で 循 環 す る。 ア ジ ア の 歴 史 の 中 で も、 こ れ が 繰 り 返 さ れ る 傾 向 が あ る。 中 国 と その反対側の日本という強力な敵の侵略によって、 朝鮮半島は昔から揺らいできた。⋮本当に 、 この東方のポー ランドと言えるここ[朝鮮半島]は非公式的な隣人たち、 そして、 保護膜となる勢力の下で、 受けた苦痛よりも、 むしろ自然の手による苦痛の規模がもっと弱かったと言える 。 ランバスは、朝鮮をアジアのポーランドとして比喩した。西洋、特に、米国人たちに朝鮮を説
明するため、ヨーロッパの列強の中、長い間侵略によって、苦しんだポーランドがどのような比 喩よりも適切な指摘であった。続いてランバスの言及である。 ど の よ う な こ と も 比 較 で き な い 国 家 的 な 苦 痛 が 残 さ れ た 記 録 の 痕 跡 を、 ち ょ う ど﹁ 中 国 と 日 本 と い う 上 下 の 挽き臼の間に置かれた一握りの穀物﹂ ︵ the grist between the upper and lower millstones of China and Japan ︶ の よ う な 貧 困 な 朝 鮮 を も う 一 度 調 べ て 見 る よ う に、 も う 一 度 言 及 す る 必 要 が あ る。 豊 臣 秀 吉、 あ る い は 太 閤 様 と い う 人 は 一 六 世 紀 に 貧 し い と こ ろ で 生 ま れ、 田 舎 で 育 っ た 人 で あ る。 傲 慢 な 意 欲 に 捕 わ れ、 貪 欲 な 野 望 と 生 ま れ つ き の 勝 負 の 気 質 を 持 っ て い た 彼 は、 日 本 の 軍 事 的 な 指 導 者 と し て 起 こ し た。 彼 は 続 け て プ レ ゼ ン ト︵ 恐 ら く、 公 物 で あ る。 ︶ を 渡 す 朝 鮮 の 使 節 団︵ envoys ︶ が 怒 る よ う に 、 刺 激 で あ り、 中 国 を 征 伐 す る た め、 最 善 を 尽 く す 方 法 と し て、 朝 鮮 半 島 を 利 用 す る た め の 彼 の 目 的 を 公 言 し て、 日 本 が 正 当 な 理 由 が な い 無 慈 悲 な 侵 略 の 戦 争 を 目 指 す た め、 刺 激 し た。 ま ず、 選 ば れ た 約 八 万 人 の 軍 隊 を 導 い て い た 豊 臣 秀 吉 の 将 軍 た ち は、 は じ め に 、 朝 鮮 の 山 城 を 成 功 的 に 圧 迫 し、 鴨 緑 江︵ Yalu River ︶ ま で 進 め た。 ⋮ 日 本 の 京 都 を 訪 ね た 旅 人 た ち は ヤ ア ミ ホ テ ル︵ Ya-ami Hotel ︶ の 1 マ イ ル の 南 の 中 央 に、 ざ っ と 枠 組 み だ け あ り、 碑 文 が 書 い て い る 石 碑 が 立 て ら れ て い る 丸 み の 土 の 墓 を 見 ら れ る と 思 う。 そ れ は 耳 塚 と い う 物 で、 野 蛮 的 な 戦 闘 の 残 忍 な こ と を 思 い 出 さ れ る よ う に さ せ る。 戦 利 品 と し て、 南 原 城 を 取 り 囲 み、 攻 撃 し て 殺 し た 三、 七 二 三 人 の 中 国 人 た ち と 朝 鮮 人 た ち の 首 を 切 っ た よ う に 、 切 っ た 耳 は 石 灰 水︵ lime ︶ と 塩 に 漬 け に し て、 壺 に 入 れ、 豊 臣 秀 吉 の 侵 略 戦 争 を 自 慢 す る た め の 残 酷な成果として、捧げられたが、この物が日本から取り戻すことができなかった 。 ランバスは文禄・慶長の役の時、日本が朝鮮を侵略し、朝鮮民族が受けた苦痛についてもよく
わかっていた。特に、朝鮮人たちの耳を切り、戦利品として、豊臣秀吉に捧げた日本人の残酷性、 逆に、朝鮮人の痛みを共感していたわけである。そのような意味で、ランバスが理解していた朝 鮮とは歴史的な痛みを抱えていた国であり、これは﹁中国と日本という上下の挽き臼の間に置か れた一握りの穀物﹂という表現として、適切に解釈された。彼は、このような表現を晩年まで用 いた。 朝鮮人たちは多くの苦痛を耐えてきた。何世紀の間に、彼らは上の反と臼の間の搗く穀物︵ as grist between the upper and neither millstone ︶ の よ う に、 置 か れ て い た の で あ る。 朝 鮮 人 た ち は 彼 ら の 官 吏 た ち に よ っ て、 レ モ ン を 絞 る よ う に 、 圧 迫 さ れ て き た し 、 あ る 時 点 か ら は 、 中 国 人 た ち と 日 本 人 た ち に よ っ て 、 搾 取 さ れ て きた 。 さらに、ランバスが生きていた時点︵一八九四年︶にも、朝鮮は日本と中国によって、干渉と 侵略を受けている国として見られた。 中 国 は 朝 鮮 に 完 全 な 自 治 権 を 付 与 す る と い う 声 を 出 し て い る が、 彼 ら が 東 京[ ベ ト ナ ム の ハ ノ イ の 昔 の 名 称 ] と 安 南[ ベ ト ナ ム の 中 部 に あ っ た 昔 の 王 国 の 名 称 ] に 対 し て そ う で あ っ た よ う に、 ﹁ 好 意 的 な 宗 主 権 者 ﹂ ︵ benevolent suzerainty ︶ と い う 態 度 を と る。 一 方、 日 本 は 商 業 的 な 利 権 の 保 護 を 首 都[ 京 城 ] に て、 彼 ら の 一 定 の 目 的 を 達 成 し、 多 数 の 軍 隊 を 上 陸 さ せ、 [ 朝 鮮 の ] 王 の 個 人 の 安 全 を 守 る と い う 名 分 の 下 に あ る。 こ の す べ て の こ と の 裏 で、 ま る で、 日 本 が 二 〇 年 間、 互 い に 敵 意 を 抱 え、 睨 み 合 い、 あ る い は、 向 か い 合 い︵ vis-a-vis ︶ な が ら、 彼 ら が 東 方 の 波︵ eastern waters ︶ の 中 で、 覇 権 を 握 る た め の 戦 い を 静 か に 準 備 し て い た よ う に、 [ 中
国と日本]両方は そ のようにいたわけである 。 勿論、ランバスが注視した昨今の朝鮮とは、中国と日本の間だけで、苦痛に遭うそのような国 ではなかった。一八八五年から八七年まで、 巨文島︵ Port Hamilton ︶を侵略し、 占領した英国と、 朝鮮半島の周りで勢力を戦ったロシアの間の軋轢 、 一八六六年と七一年に 、それぞれ江華島を侵 略したフランスと米国に言及しつつ、西洋の列強によって続けられた侵略の中で自由にすること ができなかったし、苦痛を耐えなけれ ば ならない朝鮮の現実を、彼は十分共感していたのである。 そのようなことが朝鮮に対するランバスの主な認識の中の一つであった。ランバスがまさにその よ う な 認 識 を 抱 い て い た の で、 彼 は 朝 鮮 民 族 と 朝 鮮 教 会 を 慰 め る こ と が で き た。 特 に、 三 ・ 一 独 立運動のため、ひどい苦痛を味わっていた朝鮮人たちを誰より積極的に慰めることに おいて躊躇 しなかった。次は、これに関連してランバスが言及されている尹致昊の日記である。 咸 鏡 南 道 の 元 山 に 来 て い た。 午 前 に 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 の 朝 鮮 年 会 が 続 開 さ れ た。 ロ ー リ ン グ ス 博 士 と 話 し 合 っ た 午 後 三 時 か ら、 雨 が 降 っ た。 道 は ぬ か る み と な っ た。 ラ ン バ ス 監 督 ら は 年 会 の 朝 鮮 人 の 代 表 た ち と の 懇 談 会 で、 建 議 事 項 を 要 請 し た。 あ る 人 々 は 独 立 運 動 が 発 生 し た 後、 地 方 の 警 察 に 受 け た 迫 害 に つ い て 話 し た。 ⋮ あ る 二 人 が 監 獄 に て 苦 痛 に 苛 ま れ て い る 人 々 の た め、 祈 ろ う と い う 話 を 切 り 出 し た と た ん、 部 屋 中 が 涕 涙 雨 のごとしの状況に一変した 。 ラ ン バ ス は 朝 鮮 教 会 の 教 職 者 お よ び 指 導 者 た ち と 会 っ た と こ ろ で、 三 ・ 一 独 立 運 動 の た め、 受
けていた苦痛を直接聞いた。朝鮮人たちが泣きながら、大声で祈っている姿が、ランバスにとっ ては非常に衝撃的であっただろう。従って、ランバスは朝鮮総督府による苦痛の只中にいる朝鮮 人たちと朝鮮教会の姿を東洋の担当監督として、ただ無視することができなかった。しかも、彼 は 朝 鮮 民 族 が 受 け た 苦 痛 の 歴 史 を 十 分 知 っ て い た わ け で あ る。 彼 は 朝 鮮 教 会 の 要 請 な ど を 聞 き、 これを自ら実践することに した。 二 五 日、 [ ク ラ ム ] 博 士 と ラ ン バ ス 博 士 は サ ン フ ラ ン シ ス コ の 朝 鮮 人 教 会 で 説 教 し た が、 真 理 と 愛 と 服 役 は 勝 利 の 唯 一 の 要 素 と 前 提 と い う こ と を は っ き り 証 明 し、 内 地 で 行 わ れ た 苦 痛 の 中 に お い て、 日 増 し に 、 真 理 と 愛 のため服役する同胞らのために、祈ってくださいとアドバイスしたそうだ 。 彼は翌年に開かれる第三回の南メソ ヂ スト監督教会の朝鮮年会を主宰するため、朝鮮に向かっ て出発する前に、まずサンフランシスコにある朝鮮人教会に寄り、祖国にて独立運動などで、服 役され、苦痛の中にいる同胞らのため、激励や︵信仰的な︶アドバイスとしての説教をしたので ある。そして、朝鮮に着いても、独立運動のため、苦痛の中にいる朝鮮人たちと教会に対する慰 めのメッセージも忘れなかった。次は、 ﹃東亜日報﹄の記事である。 歓迎会にて、ランバス監督の断想 一 七 日 の 夜 八 時 に 、 宗 橋 礼 拝 堂 に て、 今 回 の 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 の[ 朝 鮮 ] 年 会 に 参 加 す る た め に、 米 国 か ら 来 た ラ ン バ ス 監 督 と﹁ デ ィ キ ン ソ ン ﹂、 ﹁ ス チ ュ ワ ー ド ﹂ と い う 二 人 の 博 士 を 歓 迎 す る た め、 市 内 の 南 メ ソ
ヂ ス ト 監 督 教 会 の 各 教 会 が そ ろ い 盛 況 と な っ た。 具 滋 玉 氏 の 司 会 で、 張 錫 煥 氏 の 歓 迎 辞 が あ っ た し、 お 客 様 に 記念品を与えたし、 ⋮その後、 ランバス監督の講演があり、 彼の雄弁は一般の聴衆を感動させたが、 その内容は、 現 今 の 朝 鮮 人 は 過 去 に 通 っ た 歴 史 の 道 筋 を 後 に し て、 未 来 と い う 前 に 向 っ て 心 が 開 か れ る よ う に な っ て、 学 習 意 欲 を 向 上 さ せ、 男 女 学 校 が そ の 志 願 者 を す べ て 収 容 す る こ と が で き な い こ の 時 に 、 で あ る。 こ の よ う な 有 望 な 時 代 は、 朝 鮮 の 歴 史 に お い て、 最 初 と な る わ け で あ る。 [ ラ ン バ ス ] 自 分 が い つ の 日 か 近 い 未 来 に 朝 鮮 に ま た 戻 れ ば 、[ 朝 鮮 教 会 が ] 満 州、 シ ベ リ ア、 ア フ リ カ の よ う な 外 国 に 行 き、 伝 道 に 熱 意 の あ る 人 々 が 多 い こ と を 見 た い と 言 っ た が、 朝 鮮 人 の よ う に 苦 難 を 経 験 し た 人 々 が 他 に ど こ に い る の か。 シ ベ リ ア に 行 け ば 、 容 易 に 逮 捕 さ れ、 刑 務 所 に 行 く 場 合 も あ り、 朝 鮮 人 の よ う に 入 獄 し た 経 験 が 多 す ぎ る の は 他 国 に な い。 ア フ リ カ に 行 き、 伝 道 す れ ば 、 八、 九 〇 〇 マ イ ル を 歩 き、 猛 獣 と 戦 わ な け れ ば な ら な い。 だ が、 朝 鮮 人 の よ う に 潔 く、 虎 を よ く と る 人 が 一 体 ど こ に い る か。 あ の 信 者 の 金 氏[ 金 イ ン ウ ォ ン ] は 一 生 涯 自 分 の 手 で 一 〇 頭 の 虎 を 獲 っ た と い う こ とを聞いたそうだ 。 朝鮮教会の歓迎会の席で、彼はある感想を言った。これまで、朝鮮人たちが受けた歴史的な痛 みを共感し、 特に、 三 ・ 一独立運動によって、 まだ刑務所で苦痛の中にいる兄弟たちを慰めた。ただ、 朝鮮教会の要求を聞いたことだけではなく、公の場で積極的に慰めの一言に言及したわけである。 この日、参加した朝鮮人たちはランバスの講演を聞き、多くの慰めをもらった。ランバスのこの ような言及は、翌年にも続いた。次は、一九二一年六月三〇日の﹃新韓民報﹄の記事である。 朝鮮人の信仰は世界の第一
ランバス監督の実験談 本 月 一 九 日 本 港[ サ ン フ ラ ン シ ス コ ] の 朝 鮮 人 礼 拝 堂 に て、 ア ク ト ン[ Acton ] 牧 師 が 説 教 し た が、 そ の 中 で、 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 の 監 督 で あ る ラ ン バ ス 氏 が 朝 鮮 に 行 っ た 時 に、 監 獄 に い た 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 の 信 徒 の 四 人 を 訪 れ た エ ピ ソ ー ド を 伝 え て く れ た。 た と え 言 語 が 互 い に 違 っ て い て も、 我 が 内 地 の 同 胞 ら の キ リ ス ト 教に対する信仰が非常に強く、ある一人は圧迫されてはいるが、教会はますます復興していると 。 当 時、 監 理 師︵ superintendent ︶ と し て、 サ ン フ ラ ン シ ス コ の 地 域 教 会 を 担 当 し て い た ア ク ト ン は 朝 鮮 人 教 会 に て、 昨 年︵ 一 九 二 〇 年 ︶、 朝 鮮 に 行 っ た 時、 監 獄 に い た 信 徒 た ち を 訪 れ た ラ ン バ ス の 経 験 を 伝 え て く れ た。 た と え、 第 三 者 の 口 を 通 し て、 伝 え ら れ た 経 験 談 で あ る が、 実 際 に ラ ン バ ス が 独 立 運 動 に よ っ て、 監 獄 で 苦 痛 の 中 に い る 朝 鮮 人 た ち を 訪 れ、 慰 め た こ と が 明 ら かである。しかし、逆には日本の統治が行われていた只中で、朝鮮人たちを慰めたその行動自体 が、日本の当局を刺激した。そのようなわけで、日本の当局が時折ランバスの行動を注視し、監 視したことも事実である 。 それほど、ランバスは日本に 圧迫されている朝鮮人たちの痛みを理解 し、慰めたのであった。 4 .西欧文物による近代化の必要性 ランバスは、朝鮮文化と歴史を深く理解しようとしたと言える、とりわけ、朝鮮半島が侵略の 激戦地であったので、彼は日本に抵抗しつつ独立をかち取ろうとした朝鮮人たちの心に共感する
だけでなく、監獄にいる朝鮮人たちをし ば し ば 訪れた。このように、ランバスは朝鮮文化の独自 性を認め、その優秀な文化をことの他、積極的に褒め称えた。それと同時に 、朝鮮の伝統文化と 文物は、朝鮮が発展することにおいて限界性があると思った。朝鮮の伝統文化の中に、迷信的で あり非人倫的な要素が入っているという考えを拭うことはできなかったからである。 太 祖 の 李 成 桂 は、 朝 鮮 を 現 在 の 行 政 シ ス テ ム の 基 盤 と な っ て い る 八 つ の 道︵ 区 域 ︶ と し て 分 け た が、 こ の 体 系 は 中 国 を モ デ ル と し、 社 会 と 宗 教 に お い て 改 革 を 推 進 し、 こ れ を 実 行 さ せ た。 仏 教 を 崇 め た 制 度 を 廃 止 さ せ、 僧 と 寺 の 土 地 は 没 収 さ れ た。 呪 術 と 精 霊 に 侵 さ れ た シ ャ ー マ ニ ズ ム が 一 般 大 衆 に 広 が っ て い た 時 に、 一 方、 儒 教 は 国 家 宗 教 と な っ た。 そ の 結 果、 競 争 に よ る 試 験 を 通 し て、 文 武 の 高 位 官 吏 ま で 上 が る こ と が で き、 内 政 シ ス テ ム の 改 革 の ベ ー ス に な っ た。 こ の 王 朝 は 生 き て い る 老 人 を 埋 葬 す る 高 麗 葬 と い う 風 習、 あ る い は、 自 然 の 前 に 生 き て い る 人 間 を 供 え 物 と し て 捧 げ る 人 祭 と い う 慣 習 を 永 久 に 廃 止 さ せ た。 千 年 以 上 の 長 い 時 間 の 間 に 、 仏 教 は 彼 ら に と っ て 慈 悲 と 威 勢 を ふ る っ て い た が、 脅 威 と な っ て い た こ の 国 か ら 悪 習 慣 を 除 去 す る こ と が 出 来 ないでいた 。 たとえ、朝鮮時代に生きている老人を捨てる高麗葬という風習、そして、自然の前に生きてい る人間を供え物として捧げる人祭が廃止されたとしても、朝鮮文化の中に、その痕跡が依然とし て残っていることを見出したランバスにとって、朝鮮は迷信的であり、非人倫的な要素が入って いる未開な国であった。すなわち、当時、西洋社会では女性の社会的地位は男女とも同等であっ たが、朝鮮の女性はランバスの目に、社会的に劣悪な立場に置かれていると映った。
朝 鮮 に は 三 〇 〇 〇 年 前 に 、 三 人 の 賢 者︵ sage ︶ が 分 か れ た 土 地 か ら 出 て き た と い う 昔 の 伝 説 の よ う な 物 語 り が あ る。 こ こ は 濟 州 島︵ Quelpart ︶ と い う と こ ろ で、 最 近 に は 朴 泳 孝 が 流 罪 に 処 さ れ た と こ ろ で あ る。 そ れ ぞ れ の 賢 者 ら は ポ ニ ー、 子 牛、 豚、 犬、 そ し て、 妻 が 入 っ て い る 大 き な 箱 が 南 の 方 に 漂 っ て い る こ と を 見 つ け た。 この物語りで、 ポニーが最初に 選 ば れ、 かわいそうな妻は最後であった。ところが、 このようなことは未開な国々 ︵ heathen countries ︶ で、 よ く 現 れ る 女 性 た ち の 状 況 で あ る。 幼 い 少 女 た ち は 大 概 名 前 を 持 っ て お ら ず、 単 に 一、 二、 三 と い う 数 字 と し て 呼 ば れ る だ け で あ る。 女 性 と し て 成 長 し て も、 ﹁ 誰 々 の 娘 ﹂︵ the daughter of so and so ︶、あるいは、 ﹁誰々の姉妹﹂ ︵
the sister of so and so
︶と呼 ば れるだけである 。 動物にも劣る女性の状況を皮肉るような朝鮮の昔の物語り、そして名前すらない朝鮮の女性た ちの位置に言及し、彼は朝鮮を未開な国々︵ heathen countries ︶ の一つであると見ている。さら に、朝鮮社会の党争いによって、一般の民衆が苦しんでいることにも言及している。 ア ジ ア の 患 者︵ the sick man of Asia ︶ と い う 朝 鮮 は、 党 派 争 い に よ っ て、 苦 痛 と 涙 の 中 に い る。 [ 朝 鮮 の ] 内 政 は 進 歩 派 と 保 守 派 が 王 権 の 周 り で 互 い に 争 っ た よ う に 、 極 め て 無 秩 序 の 中 に あ る。 朝 鮮 人 の 官 吏 た ち の 失 政と不当な要求は、東学党の指導者の下で、朝鮮半島の南の方の農民暴動の原因に なった 。 ランバスは朝鮮を ﹁アジアの患者﹂ と表現した。彼は官吏たちの不正と腐敗も非常に多いと思っ た。続く彼の言及である。
あ る 地 方 に 、 若 干 の 土 地 と 牛 の 一 頭 を 持 っ て い た あ る 農 民 が い た。 彼 に つ い て 聞 い た こ と が あ る 道 知 事 は 彼 を 地 方︵ district ︶ の 名 誉 官 吏 と し て 任 命 し た。 高 位 官 吏︵ magistrate ︶ の 部 下 た ち は そ の 農 民 に 任 務 を 任 せ、 彼に何かのおもてなしを強要した。鶏と卵を全部食べてしまったし、 道知事に捧げるための賄賂を要求した。 む し ろ、 そ の 貧 し い 農 民 は 非 常 に 苦 し み を 受 け な が ら、 そ の 不 当 な 要 求 に 応 え る た め、 土 地 と 牛 を 売 ら な け れ ば な ら な か っ た。 愚 か に も、 土 地 と 牛 を 売 っ た 彼 は、 道 知 事 の 貪 欲 の 中 に 置 か れ た し、 道 知 事 は ま た 他 の 財 物 を摂るため、同じような方法で、彼に 繰り返して苦しめた 。 こ の よ う な 状 況 の た め、 ラ ン バ ス の 目 に 見 え た 朝 鮮 社 会 は ま す ま す 疲 弊 し て い く だ け で あ る。 し か も、 ︵ 西 欧 文 物 に よ っ て ︶ 近 代 化 さ れ て い る 要 素 も 朝 鮮 社 会 に は 見 出 さ れ な か っ た。 次 は、 彼が一九〇七年頃に京城の街を歩きながら、感じた感想の一部である。 こ こ に 笠︵ high-top hat ︶ を 被 り、 韓 服︵ long linen robe ︶ を 着 て、 キ セ ル を 吸 っ て い る あ る 老 人 が 営 ん で い る 店 が あ る が、 彼 は 座 っ て、 医 薬 品 を 売 っ て い た。 老 人 の 前 に 置 か れ て い る テ ー ブ ル の 上 に は あ ら ゆ る 種 類 の 根︵ root ︶ と 薬 草︵ herb ︶ が あ っ た。 あ な た が 来 て、 よ く 見 る と、 も し、 あ な た が 怖 が り 人 で あ り、 小 心 な 性 格 を 持 っ て い る 人 だ っ た ら、 あ な た に 勇 気 を 与 え る た め の 虎 の 骨 も 勿 論 見 ら れ る し、 も し、 あ な た が リ ュ ー マ チ ス の た め、 苦 し ん で い れ ば 、 元 気 に す る た め、 用 い ら れ て い る[ 虎 の ] 栄 養 粉 末︵ antelope powder ︶ を、 そ し て、 も し、 腹 痛︵ stomach ache ︶ の た め、 苦 し ん で い れ ば 、 お 湯 に 入 れ て、 混 ぜ て か ら、 飲 む ム カ デ の 粉 末 ︵ powdered centipedes ︶ を 見 ら れ る と 思 う。 こ の よ う な も の は 一 般 人 が 医 者 の よ う な 役 割 を 行 っ て い る 朝 鮮 の 伝統治療法である 。
虎の骨とムカデの粉末などが朝鮮で、医薬品として用いられていることと、しかも、熟練な医 者ではなく一般人によって、薬品販売と医術が行われていることが、医者でもあったランバスに とって非常に衝撃的なことであった。そのようなことが朝鮮を未開な国として見るしかない理由 となった。しかし、彼は朝鮮が常にいわゆる、未開な国に留まらないだろうと予想した。続く彼 の文章である。 こ の 街 の 奥 に あ る 城 郭 の 門 を 通 し て 行 け ば 、 ア ビ ー ソ ン︵ Dr. Avison ︶ 博 士 が 営 ん で い る ミ ッ シ ョ ン 病 院 ︵ Mission Hospital ︶ が あ る が、 そ こ に は 貧 乏 な 朝 鮮 人 の 患 者 た ち が ム カ デ や 虎 の 骨 な ど が な く て も、 最 高 の 診 療 と 外 科 手 術 を 受 け る こ と が で き る。 向 こ う の 所 々 に 入 っ て み た が、 熟 練 な 看 護 師 た ち が ベ ッ ド の 周 り を 静 か に 行 き 来 し な が ら、 看 護 し て い る し、 キ リ ス ト 者 の 医 者 が[ 患 者 た ち の ] 痛 み を 止 め さ せ、 病 気 で 苦 し ん で い る朝鮮人の患者たちの命を助けるため、喜んで頑張り、手伝ってあげていることが、大きな幸いであった 。 この引用文で、言及されているミッション病院は当時の京城の南大門のすぐ外にあったセブラ ン ス 病 院︵ Severance Hospital ︶ を 示 す。 ラ ン バ ス の 目 に は、 非 常 に 野 蛮 と 思 え る 朝 鮮 の 薬 局 と 西洋の医学技術として、 患者たちを治療していたセブランス病院を例えとして比較しながら、 ︵た とえ、意図したことではないが︶朝鮮の非近代的な要素を間接的に批判している。ランバス自身 も 医 者 な の で、 医 術 を 見 て い る 目 は 誰 よ り 深 か っ た だ ろ う。 し か し、 こ こ に は 医 学 技 術 を 含 め、 西欧文物が相対的に優秀だという考えが無意識的に入っていると言える。 一般的に、当時の西欧の宣教師たちはアングロサクソンの世界に普遍的に広がっていた人種的
な偏見と西欧及びキリスト教中心の世界観などを持っていた。これを他の表現として言ってみる と、東洋を劣等な﹁他者﹂として取り扱いながら、東洋に対する西洋のヘゲモニーを確立する機 能 を 遂 行 す る と 主 張 し た、 い わ ゆ る、 オ リ エ ン タ リ ズ ム︵ Orientalism ︶ と 同 じ で あ る 。 ラ ン バ スが朝鮮文化を尊重し、朝鮮の歴史を理解しようとした姿勢を示していたので、必ずしも露骨な オリエンタリズムの中にいたわけではないが、西洋人のベースとして、西欧文物の優越的な観念 があったと言えるであろう。 し か し、 前 に 言 及 し た よ う に、 ラ ン バ ス は 朝 鮮 の 伝 統 文 化 を 理 解 し よ う と 努 力 し、 そ の 内 に、 自分が観察し、迷信的な要素、非人倫的、非近代的な要素を西洋文物によって、改善しようとし たので、オリエンタリズムに入っていた程度の大きさは非常に少なかったと言える。それにもか かわらず、その程度の差があるだけで、朝鮮の中に西欧文物を加え、近代化を果たすべきだとい う彼の考えは変わらなかった。 5 . キ リスト教の福音が必要な国 ランバスが宣教局の主事として在任していた一八九四年、朝鮮を米国の南メソ ヂ スト監督教会 に紹介するために書いた文章を読んでみると、最後のところに朝鮮をめぐって次のように言及し ていることがわかる。 朝 鮮 は 何 も 言 わ な い 処 方 を 必 要 と す る。 そ の 混 乱 は 慢 性 で あ り、 た ま に 、 急 性 の 悪 化 の 症 状 を 見 せ る こ と
も あ る。 効 力 な し の 彼 ら の 医 者 た ち に よ る 果 敢 な 措 置 が 前 の 何 世 紀 の 間 に 試 み ら れ て き た。 い わ ゆ る、 外 科 ︵ surgical ︶ 的 な 手 順[ 手 術 ] に よ る[ 列 強 た ち の 朝 鮮 半 島 の ] 分 割 は 関 係 が あ る 皆 に 大 き な 失 敗 を 与 え ら れ る ことを証明するだろう。ロシアという熊は永興湾︵ Port Lazareff ︶の根拠地を出してくれ、 そのロシアという熊 は 捕 獲 物 の 手 段 を 探 し な が ら、 ア ジ ア の 東 方 の 全 体 の あ た り を 分 割 す る だ ろ う。 ⋮ 東 洋 の 明 朗 な 性 格 の フ ラ ン ス と 言 え る が、 き め が き れ い で、 細 か く 構 成 さ れ て い る[ 朝 鮮 は ] 取 り 扱 い に く い 重 さ と 豊 か な 資 源 を 持 っ て いるのに、仕方なく無気力な気質とのんきな精神の﹁力のない巨人﹂として、彼ら自らを疲弊させている 。 迷 信 的 な 要 素 を 持 っ て い る し、 近 代 化 さ れ な か っ た 朝 鮮。 し か も、 外 勢 の 侵 略 の た め、 苦 し んでいる朝鮮。従って、急変している当時の時代的な潮流の中で、朝鮮は変化を要すると思った。 勿論、朝鮮の指導者と国民が自ら多様な措置と方法を取り扱いながら、変えようとしても、ラン バスはその間に、変化しようとした朝鮮のあがきが結局失敗してしまったと見なしている。それ で、彼は引き続き自分が考えている解決策を次のように提示する。 キ リ ス ト 教 の 国 々 に よ る 仲 裁︵ arbitration ︶ が 一 つ 目 の 機 会 を 与 え る こ と が で き る と 思 う。 ア ジ ア の 国 々 は 西欧文明の背景にある福音の伝道︵ the gospel forces ︶の具体的な表現の内に与えられている。朝鮮は十字架の 宣 教 師 た ち に よ っ て、 移 植 さ れ て い る た め そ の 根 源 か ら 新 た な 命 を 促 進 さ せ、 そ の 政 策 に よ っ て、 国 民 を 無 理 なく導くことになるだろうし、古い文明の中心点︵ hinge ︶となり、近代化への道を辿ることに なる、と思う 。 要約してみると、キリスト教国による仲裁がベースになることが必要であり、そのベースの上
に、西欧文明と福音伝道が行われるべきだと主張する。自然に近代化も成されるように なると見 たのである。これは程度の差があるだけで、当時に、東洋に来た西洋︵米国中心の︶宣教師たち の 典 型 的 な 姿 で あ っ た。 と こ ろ が、 元 々 の ラ ン バ ス の 見 解 で は、 朝 鮮 は﹁ heathen ﹂ 国 の 中 の 一 つ で あ っ た 。 こ れ は 二 つ の 意 味 を 持 っ て い る が、 一 つ 目 は、 ﹁ 未 開 な ﹂ 国 と い う 意 味 で あ り、 二 つ 目 は、 ﹁ 異 教 徒 ﹂ の 国 を 示 す。 す な わ ち、 西 欧 文 物 を 通 し て、 朝 鮮 の 文 明 化 と い う 観 点 で 見 て み れ ば 、﹁ 未 開 な ﹂ 国 で あ る と 解 釈 で き る が、 二 つ 目 の 見 解 で は、 朝 鮮 に キ リ ス ト 教 の 福 音 が 要 る状況を示す表現であると見える。この両方が朝鮮に必要な要素であると彼は主張する。しかし、 ランバスが晩年に見た朝鮮はむしろ朝鮮人の方が自らキリスト教に目を向け、福音に興味を持つ ことになると思った。次は、彼が一九二一年八月に東洋に出発する前、朝鮮をめぐって、書いた 文章の一部である。 宗 教 的 な ア ニ ミ ズ ム に 大 き な 力 量 を 持 っ て い る 朝 鮮 人 は 崇 拝 に お い て、 彼 ら は 原 始 的 な 努 力 を す る。 こ れ は 悪霊︵ evil spirits ︶の贖罪から、 彼らを何世紀の間に 導き、 彼らを多くの迷信的な行為として締めてきた。彼ら は 仏 教 に 熱 心 だ っ た が、 僧 た ち は 不 正 と 腐 敗 の た め、 悪 名 が 高 か っ た し、 生 活 と 民 衆 の 中 心 部 か ら 追 い 出 さ れ た 理 由 で、 悲 観 主 義 か ら 希 望 に、 そ し て 不 道 徳 か ら 正 義 に 変 え た い と 思 っ た 彼 ら の 欲 求 が つ づ い て い る。 結 局、 失 敗 し て し ま っ た。 彼 ら は 儒 教 に も 力 を 合 わ せ た が、 そ れ は 活 力 を 吹 き 入 れ る ど こ ろ か、 た だ 崇 拝 す る こ と に 終 わ っ て し ま っ た。 今、 朝 鮮 人 た ち は キ リ ス ト 教 に 目 を 向 け、 ﹁ 何 か 良 い こ と が あ る の か。 も し、 そ う だ っ た ら、 僕 を そ こ ま で、 連 れ て 行 き な さ い。 飢 え る 僕 の 心 を 満 た す こ と が で き る よ う な、 何 か を 見 つ け る べ き で あ る。 ﹂ と言う 。
この文章はランバスが晩年に残した朝鮮に関する最後の公式的なもので、彼は朝鮮の歴史と社 会の中で、アニミズム、仏教、儒教が成せず、結局、失敗をしてしまったと判断した。その結果、 朝鮮人たちはキリスト教に興味を持つようになったと見たわけである。このように、ランバスは 朝鮮の社会の中で、キリスト教の役割が重要であると見たので、彼は次のようないくつかの姿勢 を頼み、提示する。 こ の[ 宣 教 ] 現 場 が 収 穫 ま で 至 る こ と は 本 当 に 確 実 で あ る が、 こ の 時 間 の 中 に 我 々 が す べ き な 義 務 と は 何 な の か。 と り あ え ず、 罪 か ら 救 わ れ る 福 音 宣 教 を 続 け、 も っ と 広 く 説 教 す る こ と で あ る。 二 つ 目、 男 女 の 若 者 た ち が 自 ら の 人 生 を 献 げ る こ と が き る よ う に、 イ エ ス・ キ リ ス ト の 御 言 葉 を 強 調 す る。 三 つ 目、 効 率 的 な 使 命 が 行 わ れ る よ う に、 説 教 と 教 え に よ っ て、 切 に 人 々 に 訴 え る こ と で あ る。 四 つ 目、 聖 霊 の 臨 在 と 御 業 の た め、 祈 る こ と が で き る よ う に、 す べ て の 教 会 に 願 う。 そ し て、 五 つ 目、 イ エ ス は 皆 を 救 う こ と が で き る し、 必 ず 救 う と い う こ と を、 皆 が 聞 き、 わ か る よ う に、 そ の 十 分 な 機 会 を 我 が 宣 教 部 の 区 域︵ territory ︶ の 成 人 男 女 の 大 人 たちと子供たちに至るまで、この福音伝道の運動を止めないように計画し、強調すべきである 。 ランバスは朝鮮に福音を順調に伝えるため、罪から救われる福音、イエス・キリストの御言葉 の強調、説教と教えによる切なる訴え、聖霊の臨在と御業のための祈り、皆が救われるような事 実の強調など、この五つを大事に考えなけれ ば ならないと見た。このように、ランバスは晩年ま で、朝鮮にキリストの福音の伝道と拡張が要るし、これからこのため、力を注いでいく立場を堅 持した。朝鮮にとっては必要不可欠のものは福音そのものであると彼は確信した。
6 .朝鮮教会の熱心と自立に関する評価 ランバスが晩年まで、朝鮮に関する関心を持つことができたのは朝鮮教会の可能性に注視した ためであった。特に、彼は朝鮮教会の熱意を高く評価した。ところが、それは元々朝鮮の自然環 境 と共に 続いてきた外勢の侵略に よる苦痛を経験したことの中に、朝鮮人の独立精神が宿ってい ると見ていた。 朝 鮮 人 た ち は 多 く の 苦 痛 を 耐 え て き た。 ⋮ 苦 痛 は[ 私 た ち を ] も っ と 訓 練 さ せ る 先 生 の よ う な こ と で あ る が、 万 一、 心 を 開 示 し て、 学 生 た ち に 苦 難 に 耐 え る 教 育 訓 練 を め ざ し て い れ ば 指 導 し 易 く な る こ と は、 自 明 の 理 で あ る。 ﹁ 彼 ら は 国 が な い 人 で あ る。 ﹂ し か し、 も し、 彼 ら の 市 民 権 が 天 に あ る と い う 表 現 は あ ま り 良 く な い! 朝 鮮 人 た ち の 教 育 と 進 歩 に 向 か う 欲 求 は 成 長 し て く る。 何 ゆ え の 自 己 表 現︵ self-expression ︶ か も 身 に つ く し、 真 理 は 人 を 自 由 に し、 相 互 に 尊 敬 の 念 を 抱 く に 至 る。 こ れ は、 最 初 か ら 宣 教 師 が 持 つ 有 利 な 点 と 言 え る。 政 治 と 交 易︵ commerce ︶ の 面 で の 国 家 表 現 と し て 他 の 手 段 は 朝 鮮 自 ら ほ と ん ど 遮 断 さ れ て し ま っ た、 と 言 っ て よ い。 朝 鮮 の 民 衆 は 心 中 か ら 、 霊 的 な 欲 求 を 満 た す だ け で な く 、 そ の 向 上 心 を 保 持 す る よ う 最 大 の 努 力 を 払 っ て い る 。 長い間、苦痛を耐えてきた朝鮮人たちは、その中に、独立精神が育ち、同時に、教育と進歩に 対する関心と欲求、つまり、朝鮮人たちの熱心がますます成長していたと考えた。ところが、そ の熱心は世のことではなく、いわゆる、上を向く熱心の渇望として現れたのである。ランバスは、 これがキリスト教につながる時に現れる可能性であると期待した。
朝 鮮 人 た ち が キ リ ス ト 者 と な れ ば 、 す ぐ 彼 ら の 中 に 悟 り を 開 き、 学 び の 欲 求 を 持 つ よ う に な る だ ろ う。 も し、 文 字 も 読 め な い 無 学 な 者 だ っ た ら、 彼 は 聖 書 を 理 解 す る た め、 読 む こ と を 学 ぼ う と す る だ ろ う。 彼 は 真 面 目 に 聖 書 を 勉 強 し、 [ そ の 御 言 葉 を ] 愛 す る よ う に な る だ ろ う。 こ れ は 彼 に と っ て、 一 つ の 偉 大 な 本 で あ る。 聖 書 勉 強 会︵ Bible classes ︶ を 組 織 し、 学 び 続 け る の も、 大 き な 問 題 と な ら な い だ ろ う。 聖 書 協 会 の 職 員︵ Bible Society Agent ︶ と 宣 教 師 た ち の 協 力 は 御 言 葉 が 広 く 普 及 さ れ る よ う に で き る。 従 っ て、 行 き に く い 所 々 の 町 に も福音伝道の道が浸透するのである 。 単に、キリスト者となることだけではなく、聖書を探求する熱心に続き、さらに、聖書勉強会 の組織、聖書協会の働きが盛んになり、伝道への熱意が伸びてゆく朝鮮人たちの姿をみてランバ スは称賛している。時折、朝鮮教会の信徒がわざわざ自分に会うため、遠いところから歩いてき たことも、ランバスに とっては朝鮮教会の驚くべき熱心の表れと見ている 。 このように、朝鮮教 会の熱心さと自発的なボランティア精神は、ランバスにとってことの他印象的に心に刻まれたの であった。一九一九年頃から推進されてきた米国の南北メソ ヂ スト監督教会の宣教百年記念運動 が、朝鮮で行われていく状況を見て、朝鮮教会が積極的に献身している姿に誰よりも肯定的に評 価した。 宣 教 百 年 記 念 運 動 の プ ロ グ ラ ム に 協 力 す る こ と に お い て、 朝 鮮 の キ リ ス ト 者 た ち が 喜 ん で 自 ら 願 い 出 て、 献 身 す る 心 は 非 常 に 意 味 が あ る。 こ れ は 私 た ち に 与 え ら れ た[ 宣 教 の ] 現 場 に 囲 ま れ て い る 努 力 が 結 実 し、 平 和 裡 に 福 音 を 伝 え る 貴 い 証 し を 立 て て い る 共 同 の 働 き が 熱 心 に な さ れ、 信 徒 た ち の 信 仰 と 熱 意 に よ っ て、 初 心 者
た ち が 喜 ん で 自 ら 願 い 出 る こ と に よ っ て、 積 極 的 に そ の 働 き を 嘱 望 し、 教 会 を 建 て る た め に 、 時 々 一 ド ル あ る いは二ドルを献金したり、 時には全財産を捧げる篤志家が現れるのも珍しくない。自由に献金することによって、 [キリスト教の]学校教育の発展に関心を抱き、教育訓練に 喜んで参与することを喜びとしているのである 。 ランバスが見た朝鮮教会の熱心な姿は喜んで献身する姿であり、さらに、朝鮮教会が宣教師を 含め、他人に頼るより、自ら問題を解決しようとする姿に他ならなかったのである。自らの信仰 の共同体、そして、教会を建てるために、一,二ドルという小さなお金から、時折、全財産を捧 げる朝鮮教会の姿がランバスに とっては、衝撃的だったわけである。そのように 、朝鮮教会の熱 心は自立意識を喚起し、そのベースになった。中でも、ランバスが見た朝鮮教会の女性たちは自 立意識が強い女性であった。ランバスが朝鮮でのスケジュールを終え、米国に戻る時に、朝鮮教 会の女性たちに頼まれたことがあった。 [ ラ ン バ ス に よ る と ] 朝 鮮 の あ る と こ ろ で、 礼 拝 堂 を 建 て る た め、 寄 付 金 を 要 請 し た が、 朝 鮮 教 会 の 婦 人 た ち が 銀 指 環 の 七 つ を く れ た が、 そ れ を 米 国 に 持 ち 帰 り、 そ の 事 情 を 言 っ た と こ ろ、 一 つ は 一、 〇 〇 〇 円、 も う 一 つ は五〇〇円の代価で買い取ってくれて、朝鮮に送ったし、五つはまだあるそうだ 。 朝鮮教会がランバスに礼拝堂の建築を頼んだことではなく、むしろ、ランバスが朝鮮教会に礼 拝堂の建築を頼んだのである。元々、宣教地の人々は宣教師とその背後にある本国教会の豊かな 財力に頼ることが普通であるが、ランバスは朝鮮で、その逆の状況を見ていたのである。それほ
ど、ランバスが朝鮮教会の自立意識が芽生えていることがわかっていたので、それは可能なこと であった。従って、彼は朝鮮教会の女性たちが自らの教会の建築基金を準備するため、自分にく れた銀指環を米国に持って戻り、それを売り、お金を朝鮮にまた送ったのである。このような朝 鮮教会の自立意識について、ランバスは米国で発行されていた南メソ ヂ スト監督教会の機関紙を 通して積極的に紹介している。 朝 鮮 教 会 に お け る す べ て の[ 宣 教 ] 事 業 は も は や 自 力 運 営︵ self-supporting ︶ の 状 態 で あ る。 ま だ、 朝 鮮 人 の 多 く が 肉 の 一 切 れ す ら 食 べ ら れ ず に、 か な り 苦 労 し て 生 活 し て い る の に、 教 会 の す べ て の 献 金 は 毎 年 の 総 額 の 一 二 五, 〇 〇 〇 ド ル を 超 過 し て い る。 朝 鮮 の 男 性 た ち は、 耕 す 牛 を 売 れ ば 、 礼 拝 堂 を 建 て る こ と が で き る と い う こ と を 知 っ て い る。 ま た、 朝 鮮 の 女 性 た ち は、 自 ら の 結 婚 指 輪 を 献 げ た り、 髪 を 切 っ て 売 っ た り す る が、 そ れ は 福 音 を 伝 え る た め に 使 わ れ る。 そ し て、 朝 鮮 教 会 の 信 徒 の 1 / 6 が 完 全 に 信 仰 訓 練 会︵ Bible training classes ︶ に 入 っ て い る が、 彼 ら は キ リ ス ト の た め、 勝 利 の 証 し を 立 て る た め 与 え ら れ た こ の 世 の 仕 事 に 精 一 杯 働き、個人的にも使命を感得するようになる 。 教 会 を 建 て る た め に 大 事 な 財 産 の 牛 を 売 っ た り、 福 音 の 伝 道 に 効 果 的 に 用 い ら れ る よ う な 資 金を準備するため、自らの貴重な結婚指輪を献げたり、髪を切って売ったりする朝鮮教会の姿は、 ランバスが米国教会に紹介しても誇りとなるものであった。まさに、これらすべてのことが朝鮮 人 た ち の 独 立 意 識 を 掻 き た て、 熱 心 で 持 続 的 な 信 仰 生 活 が 自 立 意 識 に つ な が っ て い た の で あ る。 そのようなわけで、ランバスが﹁朝鮮人たちのキリスト教の信仰は世界の一番であり、朝鮮で復
興しているキリスト教の状況を直接見ても、朝鮮人は神が選 ば れ、将来的に東洋を救済に導くも のとなる ﹂ と神への賛美を高唱するのであった。 結び 今日、韓国で、ランバスの研究は皆無といっても過言ではない。それにもかかわらず、ランバ スと韓国︵朝鮮︶の関係を研究する必要性があるのは、彼が南メソ ヂ スト監督教会宣教局の主事 として、 そして、 ︵東洋担当︶監督として、 朝鮮と一貫した関係を結んでいるからである。このため、 彼は朝鮮が単にアジアの一つの国、つまり、中国と日本の間にある国としての認識から抜け出し て、キリストの福音を伝えるため、かなり関心を持つことができるようになった。 確 か に 、 彼 は 西 欧 文 物 が 優 秀 で あ り、 優 越 観 を 持 っ て い た 西 洋 人 の 側 面 が な く は な か っ た が、 その考えの程度は他の一般の西洋人に比べて格段に弱く、できるだけ朝鮮の歴史と文化を理解し ようとしたと言える。すなわち、 彼は可能な限り、 宣教師として良心的な観点を維持しようとした。 それ故、日本の植民地の時代に、総督府の官吏たちの顔色を気にせずに、独立運動のため、苦し みに喘いでいた朝鮮人たちを慰めることができたし、直接、刑務所を訪れる姿も見せることがで きた。このように、朝鮮と朝鮮人たちに関する深い理解が行動として明らかに現れるようになっ たとも言えるのである。 また、ランバスは朝鮮教会の熱心と自立意識を見て、大きな感動を受け、このことを米国に紹 介し、本国教会を鼓舞しようとしたこともある。この意味で、彼は一方的に何かを与えるだけの
宣教師ではなく、互いに影響を与え、受け取るような形の宣教の姿を示したと言える。このよう に、ランバスが朝鮮と朝鮮人に関して持っていた認識と理解は、今日の世界の各地で活動してい る宣教師たちに、宣教地と宣教地の人々に接する正しい態度と行動がいかなるものかを改めて問 い直し、 海中に眠る真珠よりも貴い神の知恵と、 その深い意味を教えてくれているのである。 ︵終︶ ︻注︼ ︵ 1 ︶ ラ ン バ ス と 朝 鮮 と の 関 係 を テ ー マ と し て 研 究 し た 論 文 は、 洪 伊 杓 の﹁ W ・ R ・ ラ ン バ ス 宣 教 師 と 朝 鮮 半 島 ― 永 遠 な る 東 ア ジ ア の 友 ﹂ が 唯 一 で あ る。 ︵﹃ 関 西 学 院 史 紀 要 ﹄ 第 十 七 号、 二 〇 一 一 年、 九一 ― 一三二頁︶ 。 ︵ 2 ︶ W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, The Methodist Re vie w ︵以下 MR ), Nov-Dem, 1894, pp. 204-210. ︵ 3 ︶ 尹 致 昊 の 日 記に ラ ン バ ス が 出 て く る 部 分 は 一 八 八 八 年 一 〇 月 三 日、 八 八 年 一 〇 月 四 日、 九 〇 年 二 月 一 七 日、 九 一 年 四 月 一 〇 日、 九 一 年 四 月 一 四 日、 九 一 年 一 〇 月 二 三 日、 九 一 年 一 〇 月 二 四 日、 九三年九月一四日、九三年九月一五日、九四年六月二五日などがある。 ︵ 4 ︶﹃ 尹 致 昊 日 記 ﹄︵ 一 八 八 八 年 一 〇 月 三 日 、 九 一 年 一 〇 月 二 四 日 、 九 三 年 九 月 一 五 日 ︶。 ︵5 ︶ 尹 致 昊 は 日 記 で、 彼 が ラ ン バ ス 夫 婦 と 共 に 食 事 し な が ら、 ラ ン バ ス 夫 人 が 話 し た 内 容 を 記 録 し て い る が、 こ の 際 に 共 に い た 三 人 の 対 話 の テ ー マ が 中 国 あ る い は 日 本 と な っ た こ と は 推 測 で き る。従って、 その意味で、 ランバスやはりこの際に 、 尹致昊と共に 関連のテーマで対話しながら、 食事したはずである。
︵ 6 ︶﹃尹致昊日記﹄ ︵一八九一年四月一〇日、九一年四月一四日︶ 。 ︵ 7 ︶﹃尹致昊日記﹄ ︵一八九一年四月一〇日︶ 。 ︵ 8 ︶ 洪 伊 杓 は、 そ の 論 文 で、 こ の 際 に ラ ン バ ス が ア ン ダ ー ウ ッ ド と 共 に 朝 鮮 宣 教 の た め、 支 援 講 演 を し た と 言 及 し て い る が、 こ れ は 事 実 で は な い。 こ の 日、 ラ ン バ ス は 日 本 と 日 本 の 宣 教 活 動 に つ い て 言 及 し た だ け で、 朝 鮮 を テ ー マ で 講 演 し た こ と で は な か っ た。 ︵ 洪 伊 杓﹁ W ・ R ・ ラ ン バ ス 宣 教 師 と 朝 鮮 半 島 ― 永 遠 な る 東 ア ジ ア の 友 ― ﹂、 一 〇 一 ― 一 〇 四 頁 ︶。 ﹃ 尹 致 昊 日 記 ﹄ の 原 文は次のようである。 Rev. Hugh Price Hughes addressed the students in the chapel at 9 a.m. In the afternoon session Dr. Lambuth spoke on Japan and its missionary works with his usual earnestness and clearness. Rev. Underwood, Corea, followed Dr. Lambuth. Then a short talk by
Rev. H. P. Beach, Doctor of Divinity, a returned missionary from Ch
ina. ﹃尹致昊日記﹄ ︵一八九一 年一〇月二三日︶ 。 ︵ 9 ︶ 尹 致 昊 の 日 記に よ る と、 一 八 九 四 年 の 夏 頃 ま で、 ラ ン バ ス と 尹 致 昊 の 間に、 手 紙 が 交 わ さ れ た こ と は 一 八 八 八 年 一 〇 月 三 日 と 九 〇 年 二 月 一 七 日、 た だ 二 回 し か な か っ た。 勿 論、 一 定 の よ し み を 維 持 し て い た 二 人 の 関 係 を 考 慮 す れ ば 、 何 回 か の 手 紙 が 互 い に 交 わ さ れ た と 考 え ら れ る。 ﹃ 尹 致昊日記﹄ ︵一八八八年一〇月三日、九〇年二月一七日︶ 。 ︵ 10︶ 代 表 的 に 米 長 老 派 ︵ Pr es by te ria n C hu rc h of U SA ︶ と 北 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 ︵ M eth od ist E pis co pa l C hu rc h ︶が 、既 に 一 八 八 四 ― 一 八 八 五 年 の 間 に ア レ ン︵ H or ac e N . A lle n ︶と ア ン ダ ー ウ ッ ド︵ H or ac e G . U nd er w oo d ︶、 ア ッ ペ ン ツ ェ ラ ー ︵ H en ry G . A pp en ze lle r ︶、 ス ク ラ ン ト ン ︵ W illia m B . S cr an to n ︶ な ど の 開 拓 宣 教 師 を 派 遣 し 、 宣 教 活 動 を 始 め て い た 。 ︵ 11︶勿論当時に彼が参考にした朝鮮をめぐる書籍はグリフィス︵ W. E. Griffis ︶やレイン︵ J. J. Rein ︶ や ス テ ィ ー ブ ン ス︵ D. W. Stevens ︶ な ど の 日 本 で 活 動 し た 宣 教 師 あ る い は 駐 在 員 に よ っ て、 著 述された書籍などが主になった。そのようなわけで、 初期に 、 彼が持っていた朝鮮をめぐる知識
と理解は日本偏向的な理解が一部見られる。 W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, MR, Nov-Dem, 1894, pp. 205-206, 208-209. ︵ 12︶ そ の 関 心 が 結 果 と し て 表 出 さ れ た の が、 The Methodist Re vie w に 掲 載 さ れ た Korea: Past and Present という彼の文章である。 Ibid, pp. 204-210. ︵ 13︶ Ibid, 1894, p. 206. ︵ 14︶ W . R . L am bu th , Sid e L ig hts o n th e O rie nt, N as hv ille : P ub lis hin g H ou se o f t he M eth od ist E pis co pa l C hu rc h, 19 08 , p .10 8. ︵ 15︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present,
MR
, Nov-Dem, 1894, pp. 205-206.
︵
16︶
W. R. Lambuth,
Side Lights on the Orient
, pp.94-95. ︵ 17︶ Ibid, pp.96-97. ︵ 18︶ Ibid, pp.99-100. ︵ 19︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, p. 207.
︵
20︶
W. R. Lambuth,
Side Lights on the Orient
, pp.99-100.
︵
21︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, p. 206.
︵ 22︶ Ibid, pp. 207-208. ︵ 23︶ W . R . L am bu th , K or ea R ip e f or E va ng elis m , T he K or ea M iss io n F ield︵ 以 下 K M F ), F eb , 1 92 2, p . 2 5. ︵ 24︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, pp. 209-210.
︵ 25︶ Ibid, p. 204. ︵ 26︶﹃尹致昊日記﹄ ︵一九一九年九月八日︶ 。 ︵ 27︶﹃新韓民報﹄ ︵一九二〇年七月二九日︶ 。 ︵ 28︶﹃東亜日報﹄ ︵一九二〇年九月一九日︶ 。 ︵ 29︶﹃新韓民報﹄ ︵一九二一年六月三〇日︶ 。
︵ 30︶ 渡 辺 理 恵︵ ウ ラ ジ オ ス ト ク の 総 領 事 代 理 領 事 ︶ が 内 田 康︵ 外 務 大 臣 ︶に 届 け た 文 章︵ 一 九 二 一 年 八月三一日の発送︶ 。 ︵ 31︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, p. 207.
︵
32︶
W. R. Lambuth,
Side Lights on the Orient
, p.90. ︵ 33︶﹁ heathen ﹂という言葉は、 ﹁未開な﹂という意味の以外に も、 ﹁異教徒﹂という意味もあるが、 文 脈で読め ば 、﹁未開だ﹂の意味も十分入っていることがわかる。 ︵ 34︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, p. 210.
︵ 35︶ Ibid, p. 210. ︵ 36︶ W. R. Lambuth,
Side Lights on the Orient
, p.97. ︵ 37︶ Ibid, p.97. ︵ 38︶ Edward W. Said, Orientalism
, New York: Vintage Book, 1979.
︵
39︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, p. 210.
︵ 40︶ Ibid, p. 210. ︵ 41︶ W. R. Lambuth,
Side Lights on the Orient
, p.97.
︵
42︶
W. R. Lambuth, Korea Ripe for Evangelism, p. 25.
︵
43︶
Ibid, pp. 25-26.
︵
44︶
W. R. Lambuth, Korea: Past and Present, p. 214; W. R. Lambuth,
Side Lights on the Orient
, p.108.
︵
45︶
W. R. Lambuth, Korea Ripe for Evangelism, 1922, p. 25.
︵ 46︶ Ibid, pp. 25. ︵ 47︶ W. R. Lambuth,
Side Lights on the Orient
, pp.103-104.
︵
48︶
W. R. Lambuth, Korea Ripe for Evangelism, pp. 25.
︵
49︶﹃公立新報﹄
︵一九〇八年八月二六日︶
︵ 50︶ W. R. Lambuth, Book Reviews‒Men and Mission, The Methodist Re vie w Quarterly , Apr, 1910, pp. 382-383. ︵ 51︶﹃新韓民報﹄ ︵一九二一年六月三〇日︶ 。