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カントとヤスパースにおける認識と自由: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

カントとヤスパースにおける認識と自由

Author(s)

山里, 将輝

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(1): 85-105

Issue Date

1980-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5662

(2)

カントとヤスパースにおける認識と自由

山里将輝

序 1カントにおける認識の構造 2.道徳法則と自由 3.ヤスパースにおける認識の構造と哲学的世界定位 4.実存と自由 結ぴ 序

現代社会は高度な技術文明に支えられ、我々の日常生活はかかる技術文明を抜き

にしては成立しえない状況にまで至っていろ。日常生活の全領域に根差している技

術文明は近代自然科学の発展の成果であることは言うまでもない事実である。

18世紀後半、近代自然科学の興隆期にあって、宗教・倫理・道徳および形而上

学的思想等を中心とする実践的な伝統的精神文化と自然科学を母胎として発展する

技術的知識、技術文明とが接触する時代でありまさにカントの時代である。かかる

時代状況のもとで、カントは自然科学的、客観的知識と実践的、伝統的精神文化を

対比的に分析し、調和的に解決する試みをなした先駆者の一人である。

たとえば「純粋理性批判」における先験的弁証論は、古典的形而上学的世界観と

近代の自然科学的世界観の対比としてみなすことも可能であろうし、また科学的認

識の領域において活動する理論理性に対し、道徳的領域において指導的原理として

活動する実践理性の優位性の確立は調和的な解決方法の一例である。

-85-

(3)

もちろん現代社会をとりまく諸状況はカントの時代とは比較にならぬほど複雑化

し、多くの点で異なろであろうが、しかし根本的な事柄においては共通性があるロ

カントが哲学の課題として提起した事柄は、同時に現代社会の直面する課題である。

それは科学と人間性、ないしは科学技術と道徳の問題である。

カント哲学の中心的テーマは、人間理性の両面、すなわち理論理性と実践理性の

問題である。理論理性は客観的・合理的・科学的。必然的認識の指導原理であり、

『純粋理性批判」においては、その構造が認識論として解明される。一方、実践理

性は道徳的実践における指導原理であり、本質的に人間の自由と関係すると同時に

自己実現の問題と関係する。

この問題は現代の状況に照らして、より日常的・具体的レベルの領域に置き換え

てみろと科学技術文明と伝統的精神文化の問題に対比されよう。現代社会は高度に

発達し、複雑化した科学技術文明と精神文化をいかに調和させるか、という問題に

直面し苦慮していろ。科学技術は伝統的精神文化を根とそぎにし、圧倒的に勝利し

た観を呈している。科学技術の圧倒的な勝利は同時に人間に-つの不幸をもたらし

たことも事実である。それは高度に複雑化した技術社会における人間性の喪失の問

題である。技術はその本来性において人間性に奉仕すべきものである。したがって

技術の本来的なあり方は、人間が主体的に人間性にふさわしいあり方で技術を操作

し、支配し管理しなければならない。しかるに現代の社会状況においては、伝統的

精神文化が衰退することにおいて、人間の本来的なあり方が見失われ、価値の転倒

が生じ、技術が人間と人間性に先行し、人間が強制的に技術に操作ざれ管理され、

人間性の喪失と人間の主体性が危機にさらされている、ということは周知のことで

ある。

また我々は科学技術それ自体は善でも悪でもなく、価値的に中立であることを承

認するがもしかるに科学技術はそれを操作する人間との関わりにおいて道徳的・価

値的問題が生じろ。たとえば人間と人間社会、ひいては人類全体にとって幸福と利

益をもたらす科学技術は当然、道徳的に善であろうし、不幸と不利益をもたらすも

のは悪である。現代社会における原子力の問題は技術が人間社会・人類全体の利益.

-86-

(4)

不利益の問題に直面させる代表的例である。

かかる観点から今日の技術社会は、技術が人間と人間性に奉仕しなければならな

い、という原点を明確に確認し、かつ道徳的諸問題に対する明確な配慮が必要であ

る。今日、問題となっているところの原子力の利用・公害等は人類の生存と人間性

の問題に直結する。科学的認識と道徳的実践に関するカントの哲学思想は現代の我

々に多くの示唆を与えるものであり、また人間性の喪失に直面する現代社会におい

て、カントの問題提起を継承する実存哲学者、ヤスパースの自由論を科学的認識と の関連性において把握することによって、人間の自己実現の問題を考察する。 1カントにおける認識の構造 西欧における近世の出発点は一般にルネサンスに求められろ。ルネサンスの本質 は人間性を本来の姿に取り戻そうとする人間の自覚運動であり、ヒューマニズム (Humanism)として規定され、その運動の理想像はギリシア・ローマの古代文化で あり、したがって著しく現実的人間性の肯定であり、現世的欲求の主体としての個 性的自我の肯定である。このようにしてルネサンスにおいて確立された近代的自我 は、さまざまな発展の形態をとりつつ、現実世界の中心的立場を占める事となった。 学問が現実世界の反省的意識であり、かつ理性的認識に基づく現実世界に関する 体系的把握であるとすると、近世哲学の祖としてのデカルト哲学は中世哲学と近世 哲学の転回点として多くの中世的伝統を残こしていろと言われるが、学問的認識の 根拠を自我に求めた、という点で近代精神の典型に他ならない。このようにして、 現実世界および学問の中心を自我が占めろ、ということが近代の特質である。デカ ルトにおいて把握された自我は近世哲学の中心テーマとなり、カントにおいては悟 性、および理性として徹底的に深化され、のちのドイツ観念論の精神の立場へと発 展してゆく。近代における人間の自己実現の問題を、カントにおける人間理性の理 論的使用との関係において取り上げてみよう。 カント哲学の特性は批判主義(Kritisismus)であり、理性の認識能力の吟味 検討であり、それに基づいて形而上学の可能性の根拠を間うていろ。カントは、自 -87-

(5)

然科学と自然科学の基礎となる数学とに関して、科学的認識ないしは学問的認識の

規準としてこれらを承認し、これらの認識の成立する条件と権利を問うことを批判

と称した。そのさい、カントにとって科学的認識の典型となっているのはユークリ

ッド幾可学とニュートン物理学に他ならない。カントによると、認識の由来は経験

を基礎とする。認識の対象が我々の感覚を触発して対象の表象を造り、これが対象

の感覚的印象として我々に与えられる。しかしカントにとって経験とは、単に感覚

器官を通して対象の印象が与えられろ、という受容的立場にとどまるのみでなく、

人間の自発的な思惟作用が付け加えられて始めて成立する。(註1)すなわち経験

とは、対象によって触発される受容的感性と能動的。自発的思惟としての悟性の総

合である。

さらに認識が単なる主観性にとどまることなく、客観的妥当性を有するためには

ア・プリオリな契機が必要とされろ。カントの批判哲学における先天的(a・pri-

ori)とは、心理学的な認識の発生に関して一般的に言われているような経験によ

って生じる後天的(aoposteriori=ア。ポステリオリ)に対比されるところ

の時間的前後の問題ではなくて、論理的意味で使用されろ。すなわち個々の主観的済

験の有する特殊的で偶然的な要素にかかわることなく、むしろ経験一般を可能にし、

普遍的認識が成立するための条件としての論理的法則性である。カントは我々の理

性にこのア・プリオリな法則性を承認した。

すなわち理論理性の領域においては、感性(直観)の形成としての空間と時間が

あげられ(註2)、悟性(思惟)のア.プリオリな形式として純粋悟性概念、すな

わちカテゴリー(Kategorie)が存する。したがって認識の対象は単なる感性的

知覚のみでは成立しない。認識が成立するためには直観に基づいて対象が空間・時

間の形式でもって所与として把握され、所与としての対象はカテゴリーでもって統

一的に整理されねばならない。それによって認識における主観と客観の分離が遂行

されろ。このように認識が可能となるためには、先験的観念としてのカテゴリーが

前提され、それによって始めて対象は実在的対象物となる。実在的対象とは単に私

にとってのみ妥当するような主観的なものではなくて、すべての人々に対して妥当

-88-

(6)

するような客観的対象物である。要するに、認識における客観性は、ア・プリオリ な法則性が前提されて始めて保証されろ。かかる立場をカントは先験的観念論と称 した。(註3) 先験的観念論の立場では、空間および時間は対象そのものに属する性質ではなく て、人間の感性的形式としての直観とみなされる。(註4)外的直観の対象は空間 において直観せられる通りに現実的にも存在するし、また時間における一切の変化 は内感がそれを表象する通りに現実的にも存在することを認めろ。(註5)したが ってカントの立場は外的世界も内的意識も同等の資格でもって実在する、という点 において内的意識のみを確実とするデカルトよりもより実在的立場にあり、外的な 物の実在を疑い、あるいは否定するところの一般の観念論から区別されろ。(註6) しかるに、空間および時間において直観され、思惟において構成された認識の対 象物は対象それ自体ではなくて、認識主観との関りにおける対象の表象としての現 象である。(註7)それゆえ認識の領域は認識主観との関りにおいて成立する現象 的世界に制限される。人間的直観を離れて、即自的に存在すると考えられる物自体 (Dingansich)は先験的対象ともよばれ、現象の根底にあって現象の起源 となって我々の感性を触発させる役割として考えられろ。(註8)しかし物自体は 決して現象ではないから認識の領域外にあり、したがって物自体は不可知である。 もし仮に人間的認識が神のごとく知的直観を有するならば、物自体の認識は可能と されよう。しかるに人間の認識は感性的直観に制約され、したがって現象界に制限 されろ。物自体は限界概念としてあり、不可知であることは人間的認識の限界を指 示する。(註9) 以上のごとく、認識とは感性と悟性の総合であり、感性に関して一切の直観を可 能ならしめる最高原則は空間。時間という形式的条件に従うことであり、また悟性 に関しては悟性の機能を判断作用として規定し、判断が客観的認識として成立する ためには悟性の最高原則としての悟性概念、別名、範囑(Kategorie)によづて 把握されねばならない。かくして感性的直観に与えられた多様な表象は判断の論理 的機能としての悟性概念によって秩序づけられ、ここにおいて客観的認識として統 -89-

(7)

一的に把握される。

このとき、認識が統一的に把握されるための論理的な前提条件として、「我思う,

(Ichdenke)」という意識のポノ浄-響があらゆる認識の根底に伴なわなければならな

い、と考える。もし、そうでないとすれば我々の認識は、日々の単なる断片的経験

の寄せ集めにとどまり、客観的統一性を失なうからである。「我思う」という意識

の統一作用において始めて我々の多様な経験は、統一的に把握されうるのである。

認識において、必然的(論理的)に前提せざるをえない、かかる意識の統一作用を

カントは純粋統覚(reinenApperzeption)、別名、先験的統覚(tra-

nszendentaleApperzeption)と称した。(註10)

純粋統覚は一切の認識に必然的に伴わねばならないところの認識の最高原理であ

り、自己意識の統一の原理である。純粋統覚はすべての経験的認識が統一的に把握

されるための論理的な前提条件であり、したがって認識が普遍妥当的。客観的であ

るための最高の根拠は純粋統覚に存することになる。要するに、純粋統覚とは認識

の主観であり、一般者としての自己意識である。換言すると、純粋統覚とは、認識

の構造における主観として前提される普遍的。理性的自己である。それゆえ、感性

のア・プリオリな形式としての時間。空間と悟性のア・プリオリな形式としての範

囑は純粋統覚において統一されろ。この箇所を「純粋理性批判」の先験的演鐸から

引用しておこう。「感性的直観において与えられた多様なものは必然的に統覚の根

源的・総合的統一のもとにある。というのは直観の統一はかかる統一によってのみ

可能だからである。(それが直観であろうと概念であろうと,)所与の表象に含ま

れている多様なものは悟性の作用によって統覚一般のもとにあり、かかる悟性作用

が判断の論理的機能なのである。それだから一切の多様なものは、それが繰験的lllI観

のうちに与えられているかぎり、判断の,論Ill1lW機能の一つとして規定されていろ。

つまりこの機能によって意識一般にもたらされるのである。」(註11)

かくして、純粋統覚は認識主観として前提される論II1的主体であり、カント以前

の合理的心理学におけるごとく霊魂としての形1,上学的な実体的存在ではない。と

いうのは、「我思う」の鮫我,'を実体として認識するには、《、我,'に関する感I性的

-90-

(8)

直観が必要とされるが、我々にはかかる直観が与えられてはいない。一方、カント

以前の古典的。合理的形而上学においては、この、、我,'は思惟する実体として取り

扱われている、かかる立場の代表はデカルト哲学である。しかるに、カントにお

いては認識は感性的直観を不可欠のものとする。(註12)

したがって、認識が感性的直観という制約のもとに成立するとするならば、認識

主体としての噸我”はあくまでも論理的に前提とされるのみで、決して認識の対象

にはなりえないとされる。物自体と同じく、ここにおいてもまた理論理性の限界が

あきらかとなった。すなわち、理論理性(認識)の領域において、。、我”および主

体的自己は認識の対象とはなりえないから認識不可能である。したがって積極的に

自己を実現することはできない、と考察されろ。

2道徳法則と自由

カントの批判哲学は人間の認識能力を吟味することによって認識の妥当性と客観

性の条件、および認識の対象と領域を規定する。認識とは、カントにおいて、対象

の直観から出発する。対象が我々の感性を触発することにおいて直観は成立す

るゆえに、人間の直観は感性的。受容的直観である。感性的直観は対象物

に制約されていることにおいて有限的直観である。というのは、他のものの制約の

もとにある、ということが有限者の特質である。たとえば、人間の生命は誕生と死

という制約のもとにある、という点で有限者である。感性的直観の有限性が人間の

認識の有限性を規定している。同時に、認識の領域は人間的感性に制約された現象

界である。

カントは、カント以前の合理的・伝統的形而上学といったものが、神・霊魂・宇宙

といった人WUの認識能ノ]を越える領域を独断的に把握するものである、として批判する。

というのは、人間的認識は感性的・経験的認識であり、これを無視して無限者や超感

性的存在者を対象とすると独断に陥入らざるをえない。『純粋理性批判』は独断

的形而上学を否定するものであるが、しかし形而上学一般を否定するものではな

く、むしろ将来の形而上学の基礎づけとみなされる。(註13)カントは「純粋理

-91-

(9)

性批判』第二序文で次のように述べていることは周知の事柄である。「。.・・・そ

れだから私は、信仰を受容れる場所を獲得するために知識を取り上げなければなら

なかった。」かくして、理性の理論的使用、すなわち理論理性は数学的認識、およ

び自然科学的認識をモデルとして認識の領域を現象界に制限する。

他方において、理性の実践的使用、すなわち実践理性は道徳的行為を媒介として、

物自体としての英知界を開示する。ここにおいて、認識としての理論理性に対し、

行為としての実践理性の優位性が確立されろ。というのは理論理性は事実的・現象

的世界に関する客観的認識であり、これに対し実践理性は行為によって実現すべき

価値的・英知的。無制約的世界をめざすものである。科学的認識は事実的世界の

客観的。必然的認識であり、その規準は事実的世界を因果関係という範囑でもっ

て客観的に説明することである。かくして、カントはニュートン物理学に倣って、

自然科学的認識の対象としての自然界は因果関係と法則によって説明されるべき必

然的世界であり、ある意味では決定論的世界である。したがって科学的認識をモデ

ルとする理論理性の領域においては自由はその積極的な意味を見い出せない。とい

うのは自由の概念を科学的認識の領域に導入すると、因果関係としての認識の必然

性を混乱させることに他ならない、とカントは考える。要するに科学的認識は人間

の自由を説明することができない。これに対し道徳的行為は自由を前提とし、人間

にふさわしいあるべき世界、すなわち当為としての価値的世界の実現をめざす実践

である。

道徳的行為の原理に関して、カントは次のように述べていろ。実践理性の法則は

道徳法則であり、これは理性の事実(einFaktumderVernunft)(註14)

としてすべての理性的存在者に所与の法則である。このようにしてカントの倫理学

は、我々における道徳法則の存在の意識から出発させ、かかる意識を理性の事実と

して所与のものとしていろ。自然界にも法則性があるどとく、我々の実践の領域に

も法則性が存在することを、カントは確信した。道徳法則は法則としてすべての理

性的存在者に妥当するために普遍妥当性を有しなければならないし(註15)、かつ無

条件的に道徳的行為を実践するために命令として作用するものでなければならない。

-92-

(10)

かかる点を考慮すると、道徳法則は普遍的な実践法則として、単に主観的規則に

とどまる格率(Maxime)から区別されねばならないし、同時に幸福を目的とする

仮言的命令(einhypothetischenlmperativ)から区別されねばな

らない。格率とは、主観的な意志の規定根拠であり、仮言的命令とは、「もし~し

たければ、汝~すべし」という形式で表現され、一般に快・不快の原理に制約され

た相対的命令形として個人的レベルに還元され、最終的には自愛もしくは主観的な

自己の幸福と結びつき、したがって実践においてすべての人に妥当するような普遍

的な命令とはなりえない。(註16)

これに対し道徳法則は「汝~すべし」として表現されるところの端的に無条件的

な法則としてすべての人に妥当する定言命法(Kategorischerlmperativ)

でなければならない。かくして、純粋実践理性の原則は定言的命法であり、道徳的

行為は道徳法則としての定言的命法に従って実現されそ.かかる定言的命法を命題

形式で表現すると「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しう

るように行為せよ。」(註17)となり、これが道徳的行為の根本構造であり、根本

法則である。

この根本法則におけるごとく、カントの道徳的行為の根拠は意志の自律的自己決

定にあり、自己が定言的命法に従って、自己の意志を規定することにおいて道徳的

行為が成立する。そのさい意志が定言的命法に従って、自律的に自己規定ができる、

という能力、これがカントにおける意志の自由の概念である。道徳法則が存在し、

それに従って自己が自律的に自已の意志を自己決定できるためには、自己が自発性

として自由でなければならない。すなわち道徳を主体的に実践するには、それがで

きる能力としての自由が前提される。「自由による原因」という観念は理論理性に

おいては二律背反にみられるごとく単に可能性にとどまるものであるが、実践理性

においては積極的に前提される。すなわち自由は道徳律の存在根拠であり、道徳律

は自由の認識根拠である。(註18)

かくして自由は道徳の実践において不可欠であり、かかる実践において自己が自

発性として自由であることを自覚する。自由とは、自己が自律的に定言的命法に従

-93-

(11)

って自己決定できる能力としての意志の自由であり、それによって道徳的実践は可

能となる。つまり、自由とは道徳的実践の可能性の根拠として前提されねばならな

い、かかるカント的な自由の概念を先験的自由という。

ここでもし仮に、自由を道徳律を無視したところの勝手気ままな行為と解するな

らばどうであろうか。この場合、自己はむしろ不自由となり、自己実現は不可能と

なろう。というのは、ホップスも指摘するごとく、国家や秩序のない世界でば、万

人の万人に対する闘争”が生じ各自はむしろ不自由となるからである。人間に道徳意

識が存在する、ということは人間が共同体的存在であることに他ならない。人間の自己

実現の場は、この共同体において一定の秩序に従ってのみ実現可能である。かかる

自己実現を可能にする原理が道徳法則であり、カントによると道徳法則は実践理性

の事実としてすべての理性的存在者に与えられていろ。道徳法則の実践を通して実

現される自己とは、道徳的自己・普遍的自己・理性的自己。共同体的自己・英知的

自己である。

道徳的行為は個別的自己において普遍的。理性的自己を実現する行為である。個

人は道徳法則を媒介し、普遍的人類の立場へ止揚する。かかる道徳的行為は理論理

性におけるごとく所与の事実の認識として受身的立場にとどまるものではなく、道

徳律に従って自律的な自己規定としての主体的な自己創造である。人間の自己実現

とは、いかなる自己を目的として自己を規定するかにかかっていろ。道徳的行為の

実践を通して、自己は自己を英知的・理性的自己として規定し、かかる自己を実現

する。この意味において、道徳的行為の目的は英知的・理性的自己の実現である。

これに対し、科学的認識は人生の目的とか、自己実現の目標に関していかなる解

答を与えるものでもない。というのは科学的認識の対象は現象界であり、現象界は

経験的世界として無限に探究すべき課題としてのみ与えられており、完結した答や、

現象界の目的は決して与えられてはいない。科学的認識はそもそも目的という観念

を排除する。現象界はその原因に関しても無限の因果の系列を含むものであり、か

かる現象界の因果的説明が科学的認識を構成するものに他ならないから、科学的認

識は現象の因果関係をたどって無限に探究しなければならない課題となる。

-94-

(12)

この点において科学の前進と発展が約束されろ。かかる科学的認識が無限の可能

性を有し、無限の探究を必要とするのに対し、人間の自己実現の問題は有限の時間

の中で自己を何ものかとして規定し成就せねばならない、という運命を担っていろ。

要するにカントにおいては認識のレベルでの理論理性に基づいて自己を実現する、 ということは不可能である。理論理性においては、いかなる自己となるべきか、と いう自己の目的に関する規定が与えられてはいない。したがって現象的世界に関す る客観的認識としての科学、および科学の成果としての科学技術は人間の自己実現 を可能にする決定的要因ではないと考えられろ。

先に述べたように、現代社会において科学技術は生存を維持するにあたって重要

な役割を有すると同時に人間の生存と人間性を破壊する原因にさえなりうるのであ

る。科学技術の人間社会への導入にさいして、それは人類に貢献するものであるか、 どうかという道徳的配慮が不可欠である。道徳を無視した科学技術、例えば核兵器 の存在、技術の無制限な乱用による自然破壊・公害等々の問題は人間性と人間の生 存へと直接的に関わっている現代社会の問題である。 確かに、かかる問題が単に個々人の道徳の次元で完全に解決できるとはいえない であろう。(そのためには、人間性を実現できるような社会構造と政治といったよ うな客観的条件が必要である。)それにしても、各人が普遍的・人類的立場で行動 するということは、このような深刻な問題の解決の糸口となろう。人間が人類的・ 理性的立場で行動すること、これが道徳に他ならない。カントにおいては人間は理 性を原理とし、理性的行為の規準、すなわち道徳的行為の規準としての道徳法則が 何であるかを主体的に判断することができ、しかも自律的に自己の意志を道徳法則 に従って自己立法しなければならない、という義務を担っていろ。普遍的・理性的・ 道徳的自己を実現すること、これがカントにおける自己実現の中心的課題である。 以上、理性の理論的使用と実践的使用との関連においてカントにおける自己実現 の問題をのべた。要約すると、理性の理論的使用は“現実の世界には何が存在する か。,,すなわち事実の世界に関する客観的認識である。それは現象界に関する科学 的認識の立場である。一方、理性の実践的使用は“人間の世界はいかにあるべきか -95-

(13)

人間はいかに生くべきか,,、すなわち道徳法則と道徳的実践を通して実現される べき当為としての英知的。価値的世界の創造活動としてある。理性の理論的使用は その目的が事実的世界の客観的認識であり、その出発点において、事実的。偶然的 な経験の世界に制約された相対的世界である。これに対し、理性の実践的使用は当 為として実現されるべき価値的な必然的世界を目的とし、その出発点においても理 性の事実としての無制約的な道徳意識に基づいている。ここに実践理性の理論理性 に対する優位性の根拠が存する。したがって、人間の自己実現に関しては、科学的 認識に対する道徳的行為の優位性が確立する。科学的に把握された自己とは、経験 的事実としての自己であり、これに対し道徳的自己とは、実現される・べき価値的自 己に他ならない。 Sヤスパースにおける認識の構造と哲学的世界定位 20世紀の現代社会は科学的成果に基づく技術社会として特徴づけられろ。技術 社会は大衆の扶養と維持を可能にする、という点で積極的意義を有すると同時に多 くの問題を抱えていろ。たとえば技術と人間性の問題である。特に第1次大戦後の 西欧社会の混乱と人間I性の喪失に直面し、機械文明。技術社会に対する反省が生じ、 あらたに人間存在を主題とする実存哲学が台頭した。実存哲学における代表的哲学 者、カール・ヤスパースは人間I性の喪失に直面する現代社会において、人間の本来 的なありかたとしての本来的自己の実現を中心的課題として探究していろ。 ヤスパースにおける人間存在の中心的課題は自己自身(Ich-Selbst)の把握 と実現である。自己自身とは、さしあたって経験的自己として現存在(Dasein) であり、現存在は状況一内一存在(In-Situation-Sein)として規定され ろ。(註19)状況とは、主体との関係において把握される現実である。ヤスパース 哲学の特性の一つは、哲学の出発点を常に彼のおかれている状況から把握している ことである。人間のありかたを寸彼をとりまく諸状況と関係づけることにおいて、 人間の主体的・実践的な面が強調される。

現存在は自己の経験的・現実的側面であり、一つの不確定な自己意識を有すると

-96-

(14)

ころの、この個体としての身体である。(註20)すなわち、現存在は生命を有し、 死によって消滅する。現存在は自己保存の衝動によって自己を維持しようとする配 慮(Sorge)であり、死に対する不安(Angst)である。状況一内一存在としての 現存在は、他の諸事物との関連において存在し、諸事物に関する客観的認識、すな わち科学的認識の所有は現存在がこれらの諸事物を支配し、利用することを可能な らしめろ。科学的認識はベーコンの格言のごとく現実を支配しうる力としての道具 である。ヤスパースは現実世界に関する科学的知識を世界定位(Weltorient- ierung)と称する。ヤスパースは、多くの点でカント的な思考形式を継承するが、 科学的認識の方法論においてもカントの立場を受け継いでいろ。 すなわち、ヤスパースは認識の領域を主観と客観の分裂に基づく現象界に限定し、 (註21)認識の主観は意識一般として、認識の対象の形式を規定するため範囑を構 成する。認識の対象物は知覚の媒介による感性的素材が範囑によって把握されるこ とにおいて客観的。経験的実在性となる。したがって世界定位は意識一般としての 実在性に関する客観的・科学的認識である。 それと共に、経験的実在性の総体が世界の概念として登場する。自己は常に世界 内に存在し、世界内に実在する諸事物の一部分を認識したり所有したりするが、実 在性の総体としての世界を対象的に認識したり、所有したりすることは不可能であ る。(註22) 世界という概念は世界定位において無限に探究を前進せしめる課題としての概念 であり、この意味においてカントと同じく世界とは理念として、諸科学が体系的統 一をめざして前進せしめる役割を担っている。したがって、自己存在が現存在から 意識一般に飛躍することにおいて、状況に関する客観的知識を獲得し、部分的に状 況を操作したり、改革したり、支配したりすることを可能ならしめるものであるが、 究極的に状況の全体を支配するということは不可能である。というのは、状況の総 体、もしくは経験的実在性の総体としての世界はあくまでも理念としてあり、経験 的所与の事実として我々に対象的に存在するものではないから、世界の全体を認識 することは不可能である。人間的認識は世界に関する部分的認識であり、方法論に -97-

(15)

関しても一定の立場からの認識である。ここにおいて世界定位の限界が明らかとな

る、それは同時に科学的認識の限界である。カント的用語で言えば、認識は感性に

制約されるから有限的であり、したがって理論理性は有限的認識である。

しかし、ヤスパースによると、多くの諸科学がその限界を超えて世界の全体を認

識しえるがごとく自己の立場を絶対的なるものとしての世界像を提供しようとす

る傾向性を有すると指摘する。たとえば、歴史的には実証主義とか観念論にかかる

傾向があると。

これに対し、世界定位としての科学的認識の限界を明確にする役割は哲学的世界

定位(philosophischeWeltorientierung)と称する。哲学的世界

定位は現代という科学時代における哲学することの可能性と意義を明らかにしよう

とする。ヤスパースは「実存哲学』において、哲学的世界定位の立場から諸科学の

限界を三つの形式で要約している。(註23)

第1に、科学的認識は存在そのもの(即自存在)の認識ではなく、特定の観点か

ら一定の対象に向けられた特殊な認識である。第2に、科学的認識は人生にとって、

いかなる目標を与えるものではない。第3に、科学はそれ自らの固有の意味を与え

ない。以上の三点は哲学的立場から指摘された科学的認識の有する限界と考えられ

るから、この観点から反対に哲学固有の領域を指示することが可能である。すなわ

ち、科学的認識の第1の限界は科学的認識の対象は現象界であり、それは意識一般

に制約されるかぎりにおいて普遍妥当的で客観的知識を提供する。それは同時に、

科学的認識が意識一般を前提とし、それによって規定された対象に制約される故に、

世界内の有限者に関する相対的知識にとどまる。

これに対し哲学の課題は無制約者、すなわち存在そのものとしての即自存在を探

究する。第2に科学が世界内の諸事物を客観的に認識するのに対し、哲学は人間と

していかに生きるべきか、という倫理の領域、すなわち単に事物的所与としてとど

まるのではなく、主体的・実践的に人生にかかわり、自己の価値を創造し、行為的

に生きる人間、すなわち人間の自由の領域を問題とする。第3に、科学それ自体は

没価値的認識であるが、それをいかに活用するかにおいて価値が生じろ、これは倫

-98-

(16)

理的問題と直結する。

以上のように、ヤスパースは哲学と科学を密接に関連づけ、科学の有する限界か

ら超越することにおいて哲学の本来的課題を把握している。したがって、人間にお

ける自由の問題も科学的認識の限界において生じてくる。

4実存と自由

ヤスパース哲学の中心的テーマは、本来的自己の実現である。さしあたって、我

我が我々自身を把握する方法は、所与としての現実的人間を科学的に認識すること

である。「゜。。。人間は世界内における現存在として認識のできる対象である。」

(註24)すなわち現存在としての人間は科学的認識の対象として人間に関する一

般的・客観的知識を提供する。たとえば生物学的・生理学的。心理学的・経済学的。

政治学的。歴史的等々の観点から人間を科学的に把握することが可能である。

しかし、現存在としての人間が人間存在の全体を構成するものではない。科学的

認識の対象としての人間は人間存在の-側面であり、決してその全体ではない。人

間はその一般的なあり方として科学的認識の対象となりえる側面を有すると同時に

決して一般的には把握することのできない、すなわち科学的認識の対象にはなりえ

ないところの独自で主体的な自由としての可能性を有する。この意味において、人

間とは人間が自己自身について認識しているものよりも以上のものといえる。(註25)

ヤスパースによると、実存とは認識の対象ではなく、実践的な自由の主体として

の自己であり、決して対象化されず、それゆえ認識不可能な自己存在の根源とされ

る。それにもかかわらず、自己は本来的な自己存在としての自己自身、すなわち実

存を意識することができ、自己自身の可能性に関係することができる。つまり、自

己は自己自身を欲し、かつ行為において意志し決断できろ、という可能性を有する。

「このように知識と行為の自由が存在するという可能性として、私は可能的実存

(miciglicheExistenz)である。」(註26)

科学的認識を遂行する主体が意識一般として、現にあるがままの世界の客観的把

握であるのに対し、哲学する主体はヤスパースによると可能的実存であり、可能的

-99-

(17)

実存は自己自身の確認(vergewissern)と実現のために、本来的存在を探究 し、この本来的存在との関係において自己自身を実現する。実存思想の先駆者とし てのキルケゴールにおいては、実存は神との関係において自己を実現するのである が、ヤスパースにおいては本来的存在は超越者と称され、実存は超越者との関係に おいて自己を実現する。この意味において本来的自己とは超越者からの贈りもので あり、(註27)ここに有神論的立場が継承されている。 さらにヤスパースの実存思想の特色は他の実存との実存的交わりである。(キル ケゴールにおいては神と自己との垂直的関係が強調され、自己と他の実存者との関 係が主題的に取り扱われてはいない。)実存的交わりとは、本来的自己の実現をめ ざして、他の可能的実存との愛しながらの闘争であり、連帯である。このように「 実存は他の実存と超越者とに関係している場合にのみ存在する。」(註28)したが って実存とは本来的自己として他者と交換不可能な独自な自己、つまり単独者であ るが、かかる単独者が超越者とか他の実存を排除して単独で自己を実現しようとす ることは不可能であり、それはキルケゴールも指摘するように空虚な可能性として の絶望を意味する。このことは、無神論的実存主義としてのサルトルにおいては、 避けることのできない事柄としてあらわれろ。つまりサルトルにおいては、人間は その本質において全き自由であり、かかる自由は虚無的不安としてあらわれ、この 不安から逃れようとする自己は何か意味あるものとして絶えざる投企であり、究極 的には無意味さと絶望のうちに挫折せざるをえない。すなわち、サルトルにおいて は人間は虚無の中で自由であるべく呪われ、運命づけられていろ。(註29) 一方、ヤスパースにおいても究極的な意味での人間の自己実現は挫折せざるをえ ない。というのは、人間にとって避けることのできない限界状況(Grenzsituation

死。無.苦脳。闘争。罪責)の体験は人間存在の有限性を自覚させ、究極的な自

己実現の不可能性を意味するものである。しかし自己が限界状況をいかに自覚する かにおいて、自己をかかる有限者として措定したところの超越者との出会いを可能 にする。実存の挫折はサルトルのように全くの虚無と絶望に帰すろのではなく、無 制約的な意味を見い出すことにおいて充実する。このようにヤスパースは人間の自 -100-

(18)

己実現を考察するにさいして、ヨーロッパの伝統的精神文化であるところのギリシ

ア悲劇の精神とキリスト教の精神を自己の思想の中に取り入れていろ。(註30)

以上がヤスパースにおける実存の基本的性格である。かかる実存は、行為的自己

としての自由な主体に源泉を有し、したがって事物的対象から区別されるから認識

の対象とはなりえない。要するに、、、実存する”ということと噸自由である”とい

うことは本質的に同義語である。そこで、ヤスパースの実存の理解を補足する意味

で彼の自由論の特性を指摘しておこう。

ヤスパースにおける自由の問題はカントと同様に認識の対象ではなく、行為にお

ける自律性・主体性として考察されろ。つまり「自由が存在するかどうか、という

問は自由が存在することを欲するところの私自身のうちにその根源がある。」(註

31)自由への問は、その問を問うところの主体が自由を欲することにおいて可能

であり、かつ行為において自由は実現する。 このことは、すでに問うことのなかに自由の可能性が先取りされていることを意 味する。自由は自由を欲するものにその可能性が与えられ、それを欲しないものに は自由の可能性は存在しない。実存を問うものは実存を欲しながら、その可能性を 問うことであり、さきに述べたようにヤスパース哲学の特性はこのような可能性に おいて問うことに他ならない。一般に、問うことはそれが正しい問のしかたであるかぎり において、その問の中にすでに解決の見通しが立てられていることを意味する。 さて、ヤスパースの問う本来的自由とは実存的自由(existentielle

Freiheit)に他ならない。実存的自由は知識としての自由、恐意としての自由、

先験的自由、理念としての自由といった自由と区別され、あらゆる自由の中でも最 も根源的自由である、とされろ。

知識としての自由とは、ある事柄を知ることによって事柄に対する自己の可能性

を知ることができるような自由である。窓意の自由とは、自己が知っている無数の 事柄から或る事柄を欲し、選択することができるという自由である。先験的自由と は、先に述べたようにカント的意味での自由である。理念としての自由とは、ヘー ゲルを代表する客観的観念論の立場での自由である。 -101-

(19)

実存的自由はこれらの自由とは区別されるが、しかしこれらの自由の媒介なしに

は不可能である。というのは、このことはヤスパースの哲学の体系的方法論として

の包括者の思想と密接な関係を有するからである。(註32)つまり包括者の一様式

としての実存は他の諸様式、すなわち現存在・意識一般・精神の媒介なしには不可

能である、ということと関連している。したがって実存的自由は知識としての自由・

盗意としての自由・先験的自由・理念としての自由を媒介し、それらの自由の有す

る限界から飛躍することにおいて、本来的自由としての実存的自由を自覚する。実

存的自由は本来的自己としての実存を選択し、決意し、決断するところの無制約的

自由である。それゆえ本来的自己をめざして自己決断することが実存的自由に他な

らないから、この意味において実存の根拠は実存的自由である。

さて一般に自由の諸様式は自由と自由と対抗するものとの関連性において把握さ

れろ。たとえば、自由と不自由・自由と拘束・自由と必然性等々。かかる関連性に

おいて、究極的には、自由は必然性と対立するものとして把握されるか、または

統一するものとして把握されろかのいずれかである。ヤスパースの実存的自由は、

自己が自己自身を選択し、決断したということにおいて決定的な必然性を有し、か

つ決断の結果は自己に責任があるという意味で、自由に基づく責任としての必然性

であり、この必然性は将来においても自己が引きうけねばならないような拘束の性

格を有する必然性である。(註33)また自己が本来的自己を選択するのに、他に

欲しようがないという意味において、最も明断で根源的な決断であるゆえ、実存的

自由は最高の決断であり、必然性との統一として把握される。(Einheitvon

FreiheitundNotwendigkeit)(註34)

かかる実存的自由の根拠をヤスパースは超越者に求めろ。すなわち、実存的自由

は超越者からの贈りものであり、自己は自由に基づいて自己を実現するべき課題が

与えられている。ヤスパースにおいては、自由によって実存と超越者が遭遇する。

結び

カントとヤスパースにおける共通性は両者とも著名な科学者として出発し、それ

-102-

(20)

が科学に対する深い理解と洞察力を培っていろ。両者とも学問における科学的認識 の意義を高く評価するとともに、科学的認識の有限性を指摘することにおいて科学 万能主義の態度に制限を与えろ。科学的認識の限界は同時に哲学の本来的課題とし て人間性の実現という実践的領域とその原理としての自由を開示する。 カントにおいては人間の自己実現とは、自己が自律的に道徳法則に基づいて自己 限定すること、つまり自己と道徳法則が一致することにおいて理性的・道徳的・英: 知的自己となることである。道徳の理想は自己と道徳法則が完全に一致することと しての最上善であり、またそれが幸福に値するものとしての最高善である。実践理 性の課題は最高善の実現であり、それを可能にするための条件として、理論理性で は証明不可能な自由と霊魂の不滅性と神の存在を実践理性の要請(Postulat)と して承認する。ここに理論理性に対する実践理性の優位性が確立する、それは同時に 道徳的実践の立場からの伝統的宗教への接近である。 一方、ヤスパース哲学の中心的課題は、現代の技術社会と大衆社会の中で自己喪 失の危機に直面する人々に対し、自己が可能的実存として本来的自己を実現すべき ことをアピールし、その可能性の根本的条件を究明することである。かかる可能性 の根本的条件は実存と自由が同一であり、また実存は他者との交わりを不可欠のも のとし、さらに実存の根拠としての超越者の存在を承認することに他ならない。こ のようにヤスパースは伝統的形而上学の中心的課題としての存在とのかかわりにお いて実存の可能性を探究する。 以上のようにカントとヤスパースにおいて、人間の自己実現に関していえば、伝

統的精神文化の中心にある宗教、および形而上学的思想と深い関連がある。哲学

と宗教はその方法論において、理性的思考と信仰という形式によって区別されろ。 カントとヤスパースはそれぞれの属する時代状況に応じて、哲学の立場から独自な 形式で哲学と宗教を結合させ、調和させることをめざしていろ。このように哲学( 倫理)と宗教の結合は、人間の全面的な自己実現の回復をめざす試みであり、かつ それによって彼らの時代をのりこえようとする試みであるといえる。

(21)

-103-註 1Kant;KritikderreinenVernunft,B、1~2(慣例どおり第一 版、第二版をそれぞれA,Bと略した。)Phil,BibLBd37al956 2ibid,B、121~122 3ibid,B、519 4ibid,A、369 5ibid,B、520 6ibid,A-519 7ibid,B、158~519 8ibid,B、566,567,B641 D 9ibid,B、345 10ibid,B132 11ibid,B-143 12ibid,B33※「我思う」の我を実体的存在とみなす仮象をカソトは先 験的誤謬推理と称した。 13M.ハイデガーの『カソトと形而上学の問題』はかかる観点からのカソト解 釈としてその代表的例である。 14Kant;KritikderpraktischenVernunt,S36 Phil,BibLBd381967 15ibid,S_37 16ibid,S_42~43 17ibid,s、36 18ibidoS’4,:Anmerk l9Jaspers;Philosophiel,S、56Springer--Verlagl956 20ibid,S、13 21Jaspers;EinfiihrungindiePhilosophie, 、 S75R・PiperMiinchen

(22)

-104-22Jaspers;PhilosophieLS29~30 23Jaspers;Existenzphilosophie,S、7~8 WalterDeGryter&CO,Berlinl964

24Jaspers;EinflihrungindiePhilosophie,S-64

25ibid,S〃2 26Jaspers;Philosophiel・SJ5 27Jaspers;Existenzphilosophie,a51 28Jaspers;PhilosophiemoS223

29サルトル『存在と無』Ⅲ.p、273~280人文書院,サルトル

人文書院,サルトル全集第20巻昭和43年版

30金子武蔵『実存理性の哲学jnl95

清水弘文堂書房昭和42年版 31Jaspers;PhilosophieⅡ.S175

32包括者の思想はヤスパース『理性と実存」以後、体系的に展開されている。

33Jaspers;PhilosophieLS、l95 34ibid,S195 -105-

参照

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