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暴力の奥にあるもの : 「最近の写真」と「あの薔薇を見てよ」に見るエリザベス・ボウエンのアイリッシュ・モダニズム

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全文

(1)

薇を見てよ」に見るエリザベス・ボウエンのアイリ

ッシュ・モダニズム

著者

松井 かや

雑誌名

ノートルダム清心女子大学紀要. 外国語・外国文学

編, 文化学編, 日本語・日本文学編 = Notre Dame

Seishin University kiyo

44

1

ページ

25-36

発行年

2020

(2)

暴力の奥にあるもの

― 「最近の写真」と「あの薔薇を見てよ」に見る

エリザベス・ボウエンのアイリッシュ・モダニズム ―

松井 かや

Another World within the World of Violence: Elizabeth Bowen’s Irish

Modernism in “Recent Photograph” and “Look at All Those Roses”

Kaya M

atsui

   Elizabeth Bowen wrote more than a few stories dealing with murders in the 1920s and 1930s and her concern with violence is considered to be related to WWI. At that time, she confronted another harsh reality of her class: the doom of Anglo-Irish Ascendancy in Ireland. This paper shows how she describes these realities in two of her “murder” stories. In “Recent Photograph,” Bowen depicts two worlds: the devastated world caused by sudden violence and the world of constant violence moving slowly toward an ending. While the former evokes the world after WWI, the latter suggests the world of Ascendancy and its decline. In “Look at All Those Roses,” Lou’s revelation paradoxically reveals the vulnerability of a perfectly closed mother-daughter world established through violence, which reminds us of the unstable order Ascendancy made by invading Ireland. While so-called modernist writers were seeking a new style of form for their writings in the “new world” after WWI, Bowen, living in London, watched the vanishing Ascendancy class in the “new country,” the Irish Free State. As an Irish modernist, she tries to capture the things being lost in the new world after WWI.

Keywords: Elizabeth Bowen, Irish Modernism, Anglo-Irish Ascendancy

1.殺人事件を背景とする短篇と時代との関わり

 1920 年代から 30 年代にかけての戦間期に、エリザベス・ボウエン(Elizabeth Bowen) は「死せるメイベル」(“Dead Mabelle”, 1929)や「猫が跳ぶ」(“The Cat Jumps”, 1934) など、殺人事件を背景とする短篇をいくつも発表した。このことについて、アンガス・ウィ

キーワード : エリザベス・ボウエン,アイリッシュ・モダニズム,アングロ・アイリッシュ・アセンダンシー ※ 本学文学部英語英文学科

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ルソン(Angus Wilson)は「時代の雰囲気」(period flavour)との関連を指摘し、当時 は殺人事件、とりわけ女性の殺人者が新聞の見出しを賑わせており、煽情的かつ不気味で あったと回想している(10)。また、ヴィクトリア・スチュワート(Victoria Stewart)は、 新聞に掲載されるなどしたそれらの「犯罪の語り」が、推理小説と同様の役割を果たした 可能性を指摘する(147)。第一次大戦の戦死者の遺族の多くは、亡骸と対面し、葬儀を手 配するといった通常の喪の作業を行うことができなかった。人々が一人ひとりの死者を悼 むことができないまま、あまりにも甚大且つ混沌とした死に向き合わされる中で、悼むべ き死体が存在し、その死にきちんと説明が付される推理小説は、言わば喪の作業の代替を 人々に提供したのである1)  但し、スチュワートはボウエンの短篇における殺人事件が当時実際に起こった事件を想 起させるものであることに触れた上で、ボウエンがそのような推理小説的語りを採用して いないことを強調する。確かに、本論で取り上げる二つの短篇、「最近の写真」(“Recent Photograph”, 1926)と「あの薔薇を見てよ」(“Look at All Those Roses”, 19412))も、ミ

ステリーの要素を色濃く持ちながら、そこに死体は登場せず、謎がすっきりと解き明かさ れることもない。むしろ読むほどに謎は深まり、不可解な世界が立ち上がるのみである。  このような構造を見るだけでも、ボウエンの作品には、大戦という大きな暴力とそれに よる説明不可能な死を終わったこととして安易に片付けまいとするという姿勢、あるいは 大戦後の現在が混沌を抱え込んだままであるというモダニスト的な認識が反映されている と言えそうである。しかしながら、作中に現れるその不可解な世界に足を踏み入れていく と、そこには大戦後というだけでは言い尽くせない、ボウエンの「現在」への独特の認識 が見えてくる。上記の二つの短篇において、不可解さの源と言えるのは殺人事件の現場と なった、あるいは現場となったと思われる家であるが、ボウエンの作中の「家」を考える 際には、それがしばしばアイルランドのビッグ・ハウスの特徴を備えた空間――周囲か ら隔絶され、「それぞれが独自の魔力/呪縛の元に生きているように見える(Each house seems to live under its own spell)」(Bowen, “The Big House” 25)空間、現実から目を 背け、過去のルーティンに固執することで現実の時間を閉め出しているような空間――と して描出されることを忘れてはならない。ビッグ・ハウスとは、そのほとんどが英国にルー ツを持つ地主階級アングロ・アイリッシュ・アセンダンシー(Anglo-Irish Ascendancy) の居住する屋敷であり、アイルランド独立戦争(1919-21)とそれに続く内戦(1922-23) の際には英国の帝国主義の表象と見なされ、多くが IRA(アイルランド共和軍)による 焼き討ちに遭った。ボウエンはこの階級の一員であり、コーク州にあるビッグ・ハウス、 ボウエンズ・コート(Bowen’s Court)の最後の継承者でもあった。1906 年、7 歳で英国 に渡った彼女は、1920 年代から 30 年代にかけて、英国で第一次大戦後の世界を眺めると 同時に、ボウエンズ・コートが IRA に襲撃されるかもしれないという恐れと、アセンダ ンシーという自身の階級がアイルランドでの存在理由を失い、消滅していくという現実に も直面していたのである3)  ボウエンにとって、第一次大戦後の大きな喪失を抱えた「現在」は、今にも失われそう なものをかろうじて維持している危うい「現在」でもあった。この彼女にとっての「現在」 の重層性を踏まえて、ここから短篇二作品の内部にある不可解さに目を向けてみたい。

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2.「最近の写真」―ストーリーの内部に立ち上がる民話めいた世界  「最近の写真」の主人公は、タブロイド紙の記者バートラム・ルーキン(Bertram Lukin)である。話は殺人事件の直後から始まる。ある夜、ジョウゼフ・ブリンドリー(Joseph Brindley)が妻の喉を剃刀で掻っ切り、ガスオーブンに頭を突っ込んで自殺する。センセー ショナルな事件に飢えていたルーキンはすぐに現場に向かい、近隣の住民女性から多くの 情報を得るが、彼女から、自分の娘がミセス・ブリンドリーと親しかったので、頼めばさ らに「きわめて内々の、個人的な印象(quite an inside personal impression)」(216)を 話してくれるだろうと言われ、そこに当の娘が帰宅する。ヴァービーナ(Verbena)とい うこの娘は、最近自身が撮影したというブリンドリー夫妻の一枚の写真を手に話し始める。  それは夫婦が庭で腕を組んで立っている写真で、夫の方は「かろうじて分かる程度に外 側に傾いて(a faintly perceptible outward slant)」(218)おり、口元には絆創膏が貼ら れている。その日に彼が怪我をした経緯と、ヴァービーナが知る夫婦の関係が語られる が、そこに事件に結びつくような要因が全く見当たらず、ルーキンは困惑する。しかしそ の直後、ヴァービーナは、ブリンドリー氏が失職したことを一週間隠しており、それが妻 に露見した日の夜に事件が起こったという決定的な(とルーキンには思われる)事実を口 にする。しかし、間髪入れずヴァービーナの母親が、夫妻には他にも収入があり、またミ セス・ブリンドリー自身が夫もいる前で「彼、 、の仕事は重要ではない(“His work does not worth very much”)(219; 強調原文)と言っていたとして、露見が事件の原因とは思え ないと断言する。ヴァービーナもこれに同意するが、ルーキンの頭の中では「妻への露見 が引き起こした失意の男の悲劇(Wife’s Discovery Precipitates Tragedy of Disappointed Man)」(219)という見出しが即座に完成し、彼はこのストーリーを記事にすべく、写真 を手に喜び勇んで彼らの家を後にする。  タブロイド紙の記者であるルーキンは、初めから事件の「真相」を求めてはいない。し かし、ここで見過ごしてはならないのは、ルーキンが困惑し、自身のストーリーから完全 に排除する、ヴァービーナが最初に語った話の内容である。写真を撮ったその日、ブリン ドリー夫妻の家で、ミセス・ブリンドリーとヴァービーナがブリンドリー氏を追いかけて 庭をぐるぐると回っていたときに、ブリンドリー氏の眼鏡が外れ、彼は林檎の木に激突し て唇を切ってしまう。ヴァービーナは写真を指差しながら、自分が彼と家に入り、絆創膏 を貼ってあげたのだと言う。以下は、話し始める際の彼女の様子と、話の冒頭部分である。     She had a fat little white throat, and she bent back her head and shut her eyes in an ecstasy of reconstruction. Laughter, laughter had been the motive of that day, it seemed. She and Mrs Brindley had laughed as they pursued Mr Brindley round and round the garden. He never smiled, so did not smile then, . . . . (218)(下線引用者) 頭を後ろに反らし、目を閉じ、うっとりと過去の一日の「再構築」を始める彼女の様子は、 事実を語るというより、むしろ物語を語るかのようである。また、「彼は決して笑わない」 とあるように、彼女の語りにはこのような“never” や “would”、“ever so” といった表 現が頻出する。

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    He was a clumsy man; he never laid hands on anything but it broke, or at any rate tumbled over, and then his wife would laugh. She was ever so good-tempered with him, Verbena said; she would only shout, ‘You are an old duffer!’ and sometimes she could hardly speak for laughing . . . . Mr Brindley never said anything; he would just stand there, looking shyly at his wife out of the corner of his eye. (218)(下線引用者) これらの語の繰り返しによって、彼女の語る世界は民話(folk tale)のような様相を帯び てくる。ブリンドリー氏は「常ににこりともせず、手に触れたものはすべて壊すかひっく り返すかしてしまう」不器用な人、対するミセス・ブリンドリーは「夫にものすごく優し くて」、「ものすごく快活(ever so cheerful)」 (218)で、彼がどんな失敗をしても「いつも笑っ ている」といった調子で、夫婦も類型化された登場人物のように語られる。  しかし、このヴァービーナの語る一見仲睦まじい夫婦の関係には不穏な空気が漂う。ミ セス・ブリンドリーは不器用な夫の失敗をいつも盛大に笑い、「あなたって何をしてもだめ ね!(You are an old duffer!)」とからかう。また、彼女が明るく何度も口にする「ジョウ ゼフは決して正しいことをしない(Joseph never does anything right)」という言葉は、彼 女の友人たちの間で笑い種となっている(219)。このような妻の言動に対し、夫はいつも 無言で、引用にあるように「おずおずと横目で」彼女を窺うのみである。ここに妻から夫 への精神的虐待の気配を読み取ることは、それほど的外れではあるまい。ものを壊してし まったときは妻が就寝するまで家に戻らず、また、仕事帰りに自宅前で、それが「怖くて 入れない異様な家(a strange house that he was afraid to go into)」(219)であるかのよ うに中に入るのを躊躇っていたといったエピソードは、彼が妻に追い詰められていたこと を裏付けるだろう。妻の口から繰り返し発せられる「決して正しいことをしない」という 言葉によって、彼は「正しいことを為しえない」世界に閉じ込められているようにも見える。  ミセス・ブリンドリーとともに庭で彼を追いかけたヴァービーナは、ルーキンに写真を 見せながら次のように言う。

     So they had caught Mr Brindley that morning, Verbena continued. Look, you could see in the photograph how he was tugging away. Stupidly―it showed, didn’t it?―like an animal. (219)

  捕らえられ、抵抗するブリンドリー氏の様子を、彼女は「ばかみたい」で「動物のよう」 だと無慈悲に言い放つ。写真の中で、彼は妻から逃れることができない。これが二人の関 係の真実であるならば、彼にとって職を失うこと、そしてそれを妻に知られることは、お そらく致命的な出来事であったはずだ。それは外部との繋がりを断たれ、妻との世界に完 全に閉じ込められることと同義だからである。失職が露見した夜の妻の殺害は、もはや逃 げ場のなくなった彼に残された、「正しいことを為しえない」世界を終わらせるための唯 一の手段であったのではないか。  ヴァービーナの話から浮かび上がる夫婦の世界は、ルーキンが書くであろう「幸福な夫

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婦の生活が突如暗転」という記事とは相容れない。彼はこの事件に「突然の暴力による秩 序の崩壊」という構図を見ており、それ以外の構図を想像できない。しかしながら、ヴァー ビーナの語りからは、夫婦の間にあった秩序らしきものが、そもそも非常に不安定であり、 且つ夫を犠牲にする歪んだものであったこと、殺害という大きな暴力に至るまでに、妻か ら夫への精神的暴力が積み重なっていた可能性があることが見えてくる。  このルーキンとヴァービーナの二つの世界の相違に、エイドリアン・フレイジャー (Adrian Frazier) の言うインターナショナル・モダニズムとアイリッシュ・モダニズム の相違を重ねて見ることができるだろう。彼は両者の発生要因について以下のように述べ ている。

    Non-Irish historians of international Modernism are accustomed to naming as principle causes of the new stylistic features of twentieth-century writing the impact of the decline in faith and moral values during the Victorian period, and, more traumatically, the impact of the First World War. But those are less important to non-English writers, and most of the modernists . . . were not English. For the Irish modernists, the key social transformation was what Michael Davitt called “the fall of feudalism” in Ireland. Wilde, Moore, Yeats, Shaw, Bram Stoker and others turned to literature to forge in new circumstances identities that were no longer secured in material and social realities. (121)

インターナショナル・モダニズムの生まれた背景に「第一次大戦の衝撃」があることは自 明であり、ここに大きな暴力による既存の秩序の崩壊という構図を見て取ることができよ う。それに対して、アイリッシュ・モダニストにとって鍵となる社会変化は「封建制の崩 壊」、すなわちアングロ・アイリッシュ・アセンダンシーの衰退であった。19 世紀末より、 独立運動が高まる中で支配階級であるアセンダンシーは被支配者であるアイルランド人の 反逆に怯え、元々の故国である英国とアイルランドの間で立ち往生し、居場所を失ってい く。これもまた、暴力による秩序の崩壊と見ることが可能であるが、重要なのはそれが緩 やかな崩壊であったという事実である。さらに言えば、彼らのその「居場所」は過去に侵 略という暴力によって不当に獲得されたものであり、彼らがそこに「根付いている」とい う感覚を違和感なく持つことができたとは言い難い。アセンダンシーという秩序そのもの が、そもそも脆さを孕んでいたと言えよう。消えない暴力の気配の中で、それは徐々に崩 れていったのである。  ヴァービーナの語るブリンドリー夫妻の世界は、多くの点でアセンダンシーの世界を彷 彿させる。それは型にはまった言動が繰り返される、外の現実を侵入させない世界であり、 ブリンドリー氏にとってはどう足掻いても歪な現状を変えられず、ただ消滅を待つ世界で ある(ぐるぐると庭を回り、木に激突するというエピソードが、夫妻の生活とその突然の 終わりを暗示する)。民話めいたその世界は、ルーキンが記事に書く一見リアリズム的、 、な 世界と対照を成すように見える。しかし作者ボウエンにとって、この世界が第一次大戦後 のヨーロッパ世界と同様に、あるいはそれ以上に切実な現実性を持つ世界であったことは 想像に難くない。

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 このように、ボウエンは大きな暴力のその奥に、それとは異質な暴力が潜む世界を立ち 上げているのだが、そのさらに奥に空白が残されていることを、見過ごすべきではないだ ろう。それは、ブリンドリー夫妻の家の内部と、ブリンドリー氏の心の内である。家の内 部を知るのは、写真を撮った当日に彼とともに中に入ったヴァービーナただ一人であるが、 彼女はそれについて一切語らない。また、ブリンドリー氏の自殺の理由も依然として不明 である。しかしながら、外界から遮断された、妻との終わりの見えない世界を終わらせた 彼に果たして何が残ったのかを考えるとき、その理由の一端が垣間見えるように思われる。 妻との世界の破壊は彼にとって解放となるはずだが、それはさらなる孤独を意味するだろ う。怯えた様子で外から自分の家を見つめていた彼の孤独、最も身近な他者に追い詰めら れていたかもしれない彼の孤独は、言葉にならない空白としてこの短篇の最奥部に残され ている。そして言うまでもなく、その孤独はアセンダンシーのそれと重なり合うのである。 3.「あの薔薇を見てよ」――再生のストーリーの奥にあるもの  ここまで「最近の写真」における重層的な世界を見てきたが、「あの薔薇を見てよ」もまた、 一種異様な空間を内包する作品である。荒涼とした景色の中、車を走らせるエドワード (Edward)とルー(Lou) の前に、バラに覆われた一軒の家が現れる。直後に車が故障し、 ルーはこの家で修理工場に連絡するために隣の村へ行ったエドワードを数時間待つことに なる。離婚に応じない妻のいる彼に激しく執着し、彼を「めったに視界の外に出さない(she seldom let him out of her sight)」(515)生活をしている彼女は、一時とはいえ彼に置き 去りにされるこの状況に心中穏やかではない。周囲から隔絶され、電話も自転車もない この家には「外界との接触を完全に失ったに違いない(She must have lost contact with the outer world completely)」(514)とされる無表情のミセス・メイザー(Mrs Mather) と、父親の暴力によって背骨を痛め、寝たきりとなった娘のジョゼフィーン(Josephine) が暮らしており、彼女はルーに、父親は家を出たきり戻らないのだと話す。ルーは異様な 生気を帯びて咲く庭のバラの根元にメイザー氏の死体が埋められているという「途方もな い空想(the astounding fancy)」(517)に一瞬ふけるのだが、その後、成り行きで、まさ にその場所に自分が身を横たえることになる。目を閉じ、背骨の下の草の震えを感じる彼 女に、啓示のような瞬間が訪れる。

    There is a moment when silence, no longer resisted, rushes into the mind. She let go, inch by inch, of life, that since she was a child she had been clutching so desperately ―her obsessions about this and that, her obsession about keeping Edward. How anxiously she had run from place to place, wanting to keep everything inside her own power. . . . I feel life myself now. (519)

心に流れ込んでくる静寂と引き換えに様々な執着を手放した彼女は、強い生の感覚を得る。 地面に横たわり、目を閉じるという擬似的な死を通して、言わばルーは再生するのである。  この作品の結末では、戻ってきたエドワードが村で聞いた「メイザー氏の突然の失踪(the abrupt disappearance of Mr Mather)」(520)の噂をルーに話し始めており、ミセス・メ

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イザーによる夫の殺害が匂わされる。真相は不明だが、このバラに覆われた空間に漂う暴 力の気配は濃厚である。大きな暴力、荒涼とした景色、異様な生気を醸し出すバラ、埋め られた死体、死と再生――作品を構成するこれらの要素は、モダニズム文学の金字塔とさ れる T・S・エリオット(T. S. Eliot)の『荒地』(The Waste Land, 1922)を想起させる に十分であろう。

 しかしそれ以上に、過剰な生気の奥に暴力を抱え持つ空間で、一人の女性が見ず知らず の人物の死を追体験し、再生するというこの構図は、同じくモダニズム文学の代表作に数 えられるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)の『ダロウェイ夫人』(Mrs Dalloway, 1925)のそれと似通っている。主人公クラリッサ・ダロウェイ(Clarissa Dalloway)が 歩く 1923 年のロンドンは、木々の葉が生い茂り、花屋の店先には色とりどりの花が溢れ、 「神々しい生命力の波動(waves of that divine vitality)」(7)が感じられる空間であるが、 そこには第一次大戦という大きな暴力の痕跡が生々しく残る。その痕跡の最たるものが、 戦争神経症に苦しむ帰還兵セプティマス(Septimus Warren Smith)であろう。結末で、 クラリッサは自身が主催する華やかなパーティーの最中に一面識もないセプティマスの自 殺を知り、一人小部屋に退いて彼に自身を重ね、その死に意味を見出すことで、新たな自 己を確立する。但し、構図は似ているものの、この作品と「あの薔薇を見てよ」における 「再生」には大きな違いがある。『ダロウェイ夫人』において、「再生」したクラリッサは 堂々たる姿でパーティーの場に戻り、その圧倒的な存在感でこの作品が幕を下ろすのに対 し、「あの薔薇を見てよ」においてルーに訪れる新たな「生」の啓示はほんの束の間であり、 持続しない。啓示の瞬間の後、ルーはそのまま眠ってしまい、その後戻ってきたエドワー ドと共にこの空間を慌ただしく去るときには、彼女はここに来る前の、彼に執着する彼女 に戻っている。果たしてこの作品を、ルーの「再生」のストーリーと読むことは妥当なのか。  まずはルーに啓示をもたらすこのバラの家とその空間について検討したい。そこは、母 と娘のみで完結している閉じた世界である。無表情で何事にも心を乱される様子のない ミセス・メイザーと、鋭い洞察でルーをたじろがせるジョゼフィーンが作り上げる空間 は、現実離れした異界としてこの作品の内部に立ち現れている4)。たった一人の使用人も この日は不在で、「出て行ってそのまま戻ってこない使用人も時々いる(Sometimes our servants never come back at all)」(519)というジョゼフィーンの発言からは、使用人が 長く居着かないことが窺える。同様に戻ってこない人物がもう一人おり、それがジョゼ フィーンの父親であるメイザー氏(Mr Mather)である。母娘は彼の失踪を隠すことな く口にするが、その様子は使用人が去ったことを話すときと何ら変わらない。孤独ではな いかと問うルーに、ミセス・メイザーは「これ以上何も起こらない(Nothing more can happen)」(518)と断言し、常にお互いの居場所がわかるよう、娘も自分も庭などに出る 際にはカウベルを身に着けているのだと説明する。さらに、ルーに去年の李(すもも)の ジャムを勧め、今年の分ももうすぐ作るのだと言う。女性だけのこの空間は、日々の、そ して毎年の習慣を守りながら続いていく、安定した秩序を内包した確固たる世界に見える。  そして、この空間に暮らす母娘は、外に咲くバラに呼応するかのように、一種異様な生 気を感じさせる存在でもある。とりわけミセス・メイザーは、お茶以外口にする気にな れないルーを尻目にパンにジャムを塗り、「平然と、がつがつと(in a calmly voracious way)」(518)貪り食う。血を思わせる李のジャムの赤色と相まって、暴力的なまでの彼

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女の生気が強調される。さらに、この赤のイメージは、可動式寝台に横たわるジョゼフィー ンにも引き継がれる。庭に出て、ロンドンに持ち帰るバラを切った後、もう少しここにい ると言うルーに、ジョゼフィーンは自分も残ると言い、目の上に何か置いてほしいと頼む。     ‘Then I will. But please put something over my eyes.’

     Lou got out her red silk handkerchief and laid this across Josephine’s eyes. This made the mouth more revealing: she looked down at the small resolute smile. ‘If you want to keep on listening,’ the child said, ‘you needn’t talk to me. Lie down and let’s pretend we’re both asleep.’ (519)

ルーがジョゼフィーンの目の上に置いた赤いハンカチは、彼女の口元を際立たせる。そし て、彼女に促され、地面に横たわって「眠ったふり」をするルーに、あの生の啓示の瞬間 が訪れるのである。この空間は、李のジャムに始まり、赤いハンカチ、ジョゼフィーンの 赤い唇、庭の「深紅の(crimson)」(514)バラに至るまで、血を連想させる赤色に満ち ている。“crimson” という語に「血なまぐさい」という意味があることをもはや強調する までもなく、この空間の異様な生気は、その奥にメイザー氏の殺害を強く匂わせるもので ある。そして、ルーが新たな生の感覚を得るのは、「エドワードが戻ってこなくても、も うどうでもいい(He’s not coming and I don’t care, I don’t care)」(519)と思うとき、つ まり、彼の存在を抹殺するときである。ルーは男性を排除し、女性のみで完結しているこ の世界に魅了されている。

 しかしながら、ここで見過ごせないのは、その啓示に続けてルーが思う「白い丸」とそ のヴィジョンである。

    I feel life myself now. No wonder I’ve been tired, only half getting what I don’t realy want. Now I want nothing; I just want a white circle.

     The white circle distended inside her eyelids and she looked into it in an ecstasy of indifference. She knew she was looking at nothing ―then knew nothing . . . (519) 赤と対を成すような白い丸が瞼の裏に広がり、彼女はそれを「無関心という恍惚」の中で 覗き込む。そこにあるのは無である。ここで彼女は眠りに落ちる寸前の状態にあり、実際 眠ってしまうのだが、あらゆる執着を手放し、空っぽになった彼女の内側が白一色になっ ていくようなこの描写は、ルーがメイザー氏の死を思い浮かべる直前に見ていた、この家 の居間の描写と響き合うように思われる。

    This window-ended parlour was lined with objects that looked honest and worn without having antique grace. A faded room should look homely. But extinct paper and phantom cretonnes gave this a gutted air. Rooms can be whitened and gutted by too-intensive living, as they are by a fire. It was the garden, out there, that focused the senses. (517)

(10)

素朴で使い古されたものが並び、家庭的に見えるはずのその部屋は、ルーには「中身を すっぽりと抜き取られた」(gutted)ように感じられる。外の庭の「あまりにも強烈な生」 の内側に、それによって「漂白」されたような、火事で焼き尽くされたかのような無の空 間が存在しているのである。ここで思い出すべきは、まさに「中身を抜かれた」ような印 象を与えるミセス・メイザーその人であろう。彼女はこの作品を通して全くの無表情で、 そこにいかなる感情も見ることはできない。ルーとエドワードは、彼女と初めて対面した 際、「希望、主張、好奇心、願望、少々の貪欲さ(hopes, claims, curiosities, desires, little touches of greed)」といった、その人を判断する材料となるような「外に現れる付属物 (outside attachments)」が一切ないことに戸惑う(514)。もしも彼女の「内側」が、「あ まりにも強烈な生」によって、つまり夫の殺害に至るほどの激しい何かを内包する生によっ て失われたのだとしたら、ルーが体験する、エドワードの存在を抹殺して無を覗き込むあ の瞬間は、ミセス・メイザーの生の追体験という側面を持つのではないか。  殺害の真偽は最後まで不明だが、ミセス・メイザーが結果的にこの家から夫を排除した ことは明白である。それは、娘を守るためであれ、あるいは娘を痛めつけ、寝たきりにし たことへの復讐であれ、母娘が新しい生と秩序を獲得するために必要な行為であったはず だ。しかし、それは同時に家族の形を壊す行為でもあり、何と引き換えにせよ、母娘を間 違いなく孤独にする。実際、ジョゼフィーンはルーに「あなたはこの一年で私が会った 最初の新人(“You’re the first new person I have seen for a year.”)」(516)、「誰も私た ちに会いに来ない。前は来ていたけれど、今は全然。だから私たちはお互いの顔しか見 ていない(“Nobody comes to see us; they used to, they don’t now. So we only see each other.”)」(517)と話している。ルーが魅了される、ミセス・メイザーが作り上げた女性 だけの世界は、そこにある庭と居間のように、生気と虚無が隣り合わせの世界とも捉えら れる。つまり、ルーの経験する生の啓示は、この無の感覚と分かちがたく結びついている のである。  そして、母にとっては一分の隙もなく完結しているこの母娘の空間は、確固たるものに 見えて実は脆さを孕んでいることも見えてくる。彼女は「これ以上何も起こらない」と断

言し、「私、 、 、たちは、静かなのには慣れています」(“We are accustomed to quiet”)(518)(強

調引用者)とも話している。だが、彼女は自分のいないところでジョゼフィーンがルーに 「ロンドンでいちばん賑やかな場所はどこ?(“What are the parts of London with most

traffic?”)」と尋ね、「ピカデリー・サーカスとトラファルガー・スクエア」と答えた彼女 に「ああ、見てみたい(“Oh, I would like to see those.”)」と漏らした(516)ことを知 らない。「諦めてなどいない、生き生きとした顔(unresigned, living face)」のジョゼフィー ンは、ルーとエドワードの乗った車が通り過ぎるのを見て「故障するかもと思っていた(“I wondered whether it [your car] might [break down].”)」のだと言い、ルーは「あなたが 呪いの眼差しで見たせいね(“you put the evil eye on it”)」と冗談めかして応答する(515-6) のだが、動くことのできないジョゼフィーンが自分をこの空間に引き込み、「何も起こら ない」はずの空間に風穴を開けたことを、ルーは信じずにはいられない。庭での啓示の瞬 間に、彼女はその力をはっきりと感じている。

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    I should have stayed still: I shall stay still now, she thought . . . . People who stay still generate power. Josephine stores herself up, and so what she wants happens, because she knows what she wants. (519)

「何も起こらない」ように見えるその空間は、「じっとしている人が生み出す」力、そして「望 むことを生じさせる」力を内に留めた空間でもある。このルーの悟りは、この空間が今は ぎりぎりのところで均衡を保っているものの、いつかそれを失い、崩壊する運命にあるこ とを暗に語るようにも思われる。外への執着の一切を失ったミセス・メイザーと、外に出 たいと切に願うジョゼフィーンの間で、ミセス・メイザーの言う「私たち」という連帯は、 すでに静かに崩れ始めている。  エドワードへの執心を手放し、「これからはじっとしていよう」と考えながら眠りに落 ちたルーは、最終的にエドワードの手でこの空間から慌ただしく連れ出される。バラを地 面に放置し、彼に執着する生活にいそいそと戻る彼女は、再生の啓示も、眠りに落ちる寸 前に見ていたヴィジョンも、おそらくこの先思い出すことはなさそうである。彼女は危う い所で彼に救い出されたのだ。二人の関係は良好とは言えず、ロンドンでの暮らしも楽し いものではない。それでもそれは、外部との繋がりを維持しながら続いていく日常という 現実であり、それこそが「生」である。ルーがバラの庭で体験する束の間の啓示と白一色 のヴィジョンは、この物語において、過剰な生気に満ちたこの空間の堅固さと永続性とい う幻想を崩し、外部から切り離された孤独な現状と脆い連帯を露呈させる。完結している ように見えた「これ以上何も起こらない」世界は、いつか来る終わりを待つ世界であり、 それがアセンダンシーの世界を彷彿させることは、もはや指摘するまでもない。「最近の 写真」と同様に、ボウエンはこの短篇においても、バラに囲まれた異世界に、自身にとっ て切実な現実を埋め込んでいると言えるだろう。 4.秩序の希求というモダニズム  「最近の写真」と「あの薔薇を見てよ」において最後に浮かび上がるのは、ブリンドリー 氏の、そしてミセス・メイザーの内にある空白であり、言葉にならない孤独である。彼ら にとって、家は安定した秩序ある空間にはなり得ていない。作品に現れる、あるいは仄め かされる殺人という大きな暴力は、そこにあった「間違った」秩序を崩すものであると同 時に、彼らが絶望的なまでに「正しい」秩序の確立を求めた結果と見ることができるだろう。  アセンダンシーという支配体制が、そもそもアイルランドへの暴力的な侵入によって作 り上げられた正当性のない秩序であることを、ボウエンは明確に意識していた。一族の歴 史を綴った『ボウエンズ・コート』(Bowen’s Court, 1942)のあとがきに、彼女は次のよ うに記している。

    The stretches of the past I have had to cover have been, on the whole, painful: my family got their position and drew their power from a situation that shows an inherent wrong. (Bowen’s Court 453)

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様々な記録を当たりながら一族の歴史を書き進めたボウエンは、その過程において、自身 を含む一族がアイルランドに居場所を得たその状況に付きまとう「内在的な不正」と向き 合っていた。「最近の写真」において、ブリンドリー氏が妻に「あなたは決して正しいこ とをしない」と言われ続けたこと、そして、「あの薔薇を見てよ」において、ルーに「過 ちを犯した男(a man in the wrong)」(516)と呼ばれるメイザー氏がバラの家の庭に埋 められている(かもしれない)ことは、内にあって消し去ることのできないこの「不正」 を想起させる。ブリンドリー氏は自身が「正しく」いられる居場所をついに得られず、ま た、過ちを犯したメイザー氏を排除したところで、そこはミセス・メイザーにとって恒久 的な居場所とはなり得ない。「不正」の上に作り上げる秩序の脆さを描くこれらの短篇に、 安定した秩序や居場所を望むべくもなかったアングロ・アイリッシュの現実が捉えられて いると言えよう。  1920 年代から 30 年代という第一次大戦後のインターナショナル・モダニズムの隆盛期 に、ボウエンは殺人という大きな暴力のその奥に沈めるような形で、緩慢に、しかし確実 に終わりへと向かう世界を書いた。「封建制の崩壊」を暗示するその世界に、読者は確か にボウエンのアイリッシュ・モダニストとしての眼差しを感じ取ることができるだろう。 この時アイルランドは、独立戦争を経てアイルランド自由国が成立し、さらに内戦を経て 国名がエールとなるという激動期であった。いわゆるモダニストらが第一次大戦後の世界 を捉えるための新しい文体や形式を模索し、作品を発表する中で、ボウエンの目は新しい 国で失われていくものの方に、その現状と終焉に、静かに注がれている。 1  第一次大戦後の喪の作業と推理小説の関連については以下の 2 つの文献において指摘

されており、スチュワートもこれらを引用している。① Gill Plain, Twentieth Century Crime Fiction: Gender, Sexuality and the Body (Edinburgh UP, 2001), p. 42. ② Stacy Gillis, ‘Consoling Fictions: Mourning World War One, and Dorothy L. Sayers’, in Modernism and Mourning, Edited by Patricia Rae (Bucknell UP, 2007), p. 187.

2 この短篇が発表されたのは 1941 年であるが、執筆されたのは 30 年代である。 3  このときボウエンズ・コートは IRA の襲撃を免れたが、ボウエンは経済的理由から これを 1960 年に手放すこととなった。彼女は 2 作目となる長篇『最後の九月』(The Last September, 1929)において、1920 年代のビッグ・ハウス、ダニエルズタウン (Danielstown)を舞台に、その内部の生活や、それを取り巻く状況を活写している。 作中でダニエルズタウンは IRA による焼き討ちに遭うが、そのことについてボウエン は、この作品のアメリカン・エディション第 2 版に寄せた序文において以下のように 述べている。“Bowen’s Court survived–nevertheless, so often in my mind’s eye did I see it burning that the terrible last event in The Last September is more real than anything I have lived through.” (Elizabeth Bowen, “The Last September: preface to second U. S. edition” 126)

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stuff of fairy tales)」と評している(Ellmann 3)。

引用文献

Bowen, Elizabeth. “The Big House.” The Mulberry Tree: Writings of Elizabeth Bowen.   Harcourt Brace Jovanovich, 1987, pp. 25-30.

---. Bowen’s Court and Seven Winters. 1942. Vintage, 1999.

---. “The Last September: preface to second U. S. edition” The Mulberry Tree: Writings of Elizabeth Bowen. Harcourt Brace Jovanovich, 1987, pp. 122-26.

---. “Look at All Those Roses.” The Collected Stories of Elizabeth Bowen. Vintage, 1999, pp. 512-20.

---. “Recent Photograph.” The Collected Stories of Elizabeth Bowen. Vintage, 1999, pp. 211-20.

Ellmann, Maud. Elizabeth Bowen: The Shadow Across the Page. Edinburgh UP, 2003. Frazier, Adrian. “Irish Modernisms, 1880–1930.” The Cambridge Companion to the Irish

Novel. Edited by John Wilson Foster, Cambridge UP, 2005. pp. 113-32.

Gillis, Stacy. “Consoling Fictions: Mourning World War One, and Dorothy L. Sayers.” Modernism and Mourning, edited by Patricia Rae, Bucknell UP, 2007, pp. 185-197. Plain, Gill. Twentieth Century Crime Fiction: Gender, Sexuality and the Body. Edinburgh

UP, 2001.

Stewart, Victoria. “Violence and Representation in Elizabeth Bowen's Interwar Short Stories.” English Vol. 58, no. 221, 2009, pp. 139-59.

Wilson, Angus. Introduction. The Collected Stories of Elizabeth Bowen, by Elizabeth Bowen, London: Vintage, 1999, pp. 512-20.

参照

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