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台湾研究者による日本統治下社会事業の評価

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(1)台湾研究者による日本統治下社会事業の評価                           関西大学非常勤講師 今井孝司 はじめに.  わが国において、日本統治時代台湾社会事業を研究対象とする場合、対象となる文献は、. 一部の中文文献を除き、ほとんどが和文で占められている1。しかしながら台湾の社会福祉 研究の第一人者である林萬憶と古町文は、共に第三国(英語圏)において博士号を取得し、. 英文による台湾社会福祉論文を発表している。本稿が対象とした日本統治時代の社会事業 に関する記述は、著作(林は博士論文の一一部である。彼らの文献はよほど注意を要しない 限り、われわれ日本人研究者の目にとまることはないだろう。.  本稿では台湾の社会福祉研究第一人者が、第三国において日本統治下にあった台湾社会 事業をどのように評しているかを知る手がかりとすることを目的とする。. 1.林萬憶の社会事業評価.  本章では林登算(以下林)が1990年に上梓した、米国バークレー大学博士学位請求論文 ’S㏄ial WbHiare Development hl Taiwan:An integrated theoretical explanation’の Chap艶r 3:Colonial Social Policy in Taiwan,1895・1945から、日本植民地統治下の台湾社. 会政策に対する林の評価を検討する。林は論点を5っ挙げ記述を行なっている。 1・(1)伝統的慈善社会救済が変遷期を迎えた.  日本総督府の社会事業は、当初中国の伝統的な慈善による社会救済を評価しその継続を 企図した。慈善の担い手である地元名士に「栄誉の愉絶」を授与栄し、行政官として登用. した。しかし1920(大正9)年以降慈善事業は救済の中心ではなくなり、影響力のある地 元名士も減少した。代わって自発的慈善組織、たとえば社会主義・人道主義に影響を受け たものなど、新博愛主義に裏付けられた救貧集団が多数結成され、1920・30年代には行政 の長がそれを支援し、社会事業としておよそ130団体が育っていった。  ここで林は、統治の前半部分は伝統的救済を維持し後期は供給者の多様化を進めたこと から、社会救済方法論の近代化を進めたという評価をする。 1・(2)日本伝統社会を拒否せず、近代社会福祉を適応させた.  林はまず日本の近代化の特徴を、①日本社会に固有のものを近代化することと平行し、 「近代化(モダン)」と呼びならいながら西欧諸制度を取り入れたこと、②日本の近代化は. 社会諸制度の発展過程のみならず、常に儒教あるいは民主化(デモクラシー)のいずれか の価値に求めるところにあったと述べる。中でも社会福祉の近代化はいかに道徳の構築が 大切か、家族・近隣扶助が必要か、そして西欧モデルへいかに適応するかが近代化の過程 において明らかにされてきたということから、代表的な例を提供していると指摘する。.  日本人は近代モデルを日本社会の固有事情に適合させるべく修正し取り込むことを試み た。社会福祉分野では住宅提供、児童保護、低利融資、職業紹介、方面事業などにその特. 一41一.

(2) 徴が顕著にあらわれた。地域社会計画の推進者(ソーシャルワーカー)として方面委員が 配置され、台湾の半分以上の市、街、庄を制度に組み込んだ。方面委員は元来ドイツのエ ルバーフェルトにおけるソーシャルワークを参考としたものだが、日本では中国の包家と 日本の五人組制度運営に影響を受けた運営となった。この結果西欧流のソーシャルワーク を模倣したのだが、伝統社会に根ざした方法論で遂行されたため、結果として多くの台湾 伝統的近隣機能が維持されることとなった。.  このように林は日本の近代化の特質が社会事業制度を構成し、その影響下にある方面委 員制度が導入された台湾において、結果的に台湾の伝統的近隣機能が維持されたことを明 らかにした。. 1・(3)社会事業導入の意図は台湾人を慰撫し日本の植民地であることを強調する手段だっ.   た  日本総督府の社会事業は小規模かっ最も極端なケースに対して政策的に行なわれたもの で、総督府にとって気の進まない責任を背負うことでもあった。このため主として宗教な. どのNGOや準NGOといった、民間の社会慈善協会やボランティアが活動するための領域 を残して事業を展開したのであった。結果日本の社会事業は西欧植民地主義者と対して変 わらないものであった。.  林は、総督府が極端な事例を選別してソーシャルワークを行い、その他は民間組織に委 ねるという方法をとったということが、宗主国と植民地民の格差を示すものだという考え 方を示す。. 1・(4)社会事業は天皇家による多額の下賜を誇示する意味を含むものだった.  1899(明治32)年に設立された社会救済機関である仁済院に投下されたファンドは、英 照皇太后の大喪にあたる慈恵救済資金であり、明治天皇から下賜された。以下数次にわた り皇室の「慈悲深さ」を示すものとして下賜され、植民地台湾におけるソーシャルワーク 用途となるだけでなく、社会事業を活発化させる重要な起爆剤ともなる財源となった。.  林の議論は、社会の基層を形成する社会事業に皇室の慈悲を示す下賜が繰り返されたこ とから、社会事業は皇民化政策と連動していた可能性を示唆することを意図したものと考 えられる。. 1・(5)近代社会化政策を台湾へ移植させる上での日本の選好性.  植民地化されたほとんどの地域や国々における近代的社会サービス(たとえば医療サー ビス)は、限定的かっわずかばかりのものが入植者の集中したセツルメント・エリアにお いて行なわれる程度だが、日本は他国と異なり、台湾人に対してある一定水準の近代社会 サービスを提供した。しかしながら植民地台湾ではこれらの事業発展について、台湾人を 援助するという動機は、日本人入植者の福祉ニーズを満たす動機ほど大きくなかった。.  たとえば台東のデイケア・センターは日本人移住者のために設立されたものであり、職 業紹介所は日本人労働者に優先権が与えられ、低利貸出(低金利ローン)は国営企業に向 けられ、また行旅病人及び行旅死亡取扱いの主たる利用者は日本人旅行者であった。さら. 一42一.

(3) に近代社会サービスは、日本人入植者が最も多く済む都市部に集中投下され、加えて健康 保険制度は1922(大正11)年に法案が通過しているが、台湾には適応されなかった。.  台湾では社会事業を含む社会科学において、政治道理は無視され、累積してみれば台湾 人は日本人よりも相対的に少量の社会サービスを受給していたに過ぎず、また日本流の近 代社会事業の普及はゆがんだ形でサービスを受給していたといえる。.  林はこのように例を盛り込みながら論を進め次のように締めくくる。日本の総督府と人 道主義者は、西欧流の社会プログラムを台湾に適用し、社会保障やソーシャルワーク教育 を促進した。同時代の間、日本統治下の台湾の社会福祉発展は、概して大陸よりも先進的 で包括的だったとえ言える。また総督府は1945年以降の台湾社会福祉制度に影響を与えた ことを否定できないと。.  以上林による日本統治時代の社会事業に対する評価を総括すれば、日本人と台湾人との 問に福祉の受益格差があり、支配者と非支配者を明確にする一つの方策であったこと、ま た「社会発展」を軸に考えると日本は台湾に近代化をもたらせたが、「日本固有の近代化」. は結果的に台湾社会の根底にある近隣機能を維持する方向に働いたこと、そして同時代の 他の植民地や中国大陸で行なわれていた社会福祉よりは進んでいたということとなろう。. 2.古杉文の社会事業評価.  古賢文(以下古)は英国マンチェスター大学で博士号を取得しており、米国で研究した 者とは異なる「ネオマルキスト」に研究スタンスをとっている。本章では古が1997年半上 梓した’Wbhiare Capitalism in Taiwan:State, Economy and S㏄ial Policy’から、彼の日本. の社会事業に対する評価を検証していく。.  古は植民地台湾時代の福祉発展を5っの視点から説明する。 2・(1)福祉の原点.  清国統治下の福祉施策は身寄りのない身体障害者や貧困者、病人、浮浪者等を収容する 施設である養済院、孤児及び婦女を対象とした育嬰局など、複数の困窮者救済制度を内在 していたが、地方政府による救済可能な貧困者数には限度があったため、そこからあぶれ た者を地元名士が救済を行なった。台湾領有直後の総督府は清の救済制度を基盤に救済を 中心に福祉事業を展開した。.  清の救貧制度は福祉実践のための構造を行政が包括し設定したものではなく、正式な貧 困定義、および範囲と施策があいまいなまま地方行政官の判断に委ねられていた。古は初 期日本植民地時代の福祉施策はその過去の遺物を引き継ぐ形で導入されたという。 2・(2)国家福祉制度の構造と行政.  台湾にとって台湾総督府は、初の近代構造を有した政府の出現であった。当初総督府は. 抗日勢力を制するため軍事政権的色彩が強かったが、1919(大正8)年に文民統治となり 福祉を扱う文教局は急速な拡大をみせた。福祉施策は総督府では文教局社会課社会事業係 が担当し、各州・庁、市・郡および街・庄・区などの地方行政レベルにおいても教育部門. 一43一.

(4)  (内務部教育課所管)が担当することで、総督によるトップダウン方式の組織形態をとっ た。一方で公衆衛生行政は警察局の管理下に置かれた。.  また行政構造とは別に台湾総督府は、方面委員制度という福祉事業を運営する別途の地 方集団を組織していた。それら集団の長は常時地方行政官を兼任し、組織は事実上公的な 行政部局とかわらなかった。しかしこの組織の福祉事業運営は政府予算によってではなく 地元名士の寄付によって賄われていたこと、その目的を日本式総合的な社会救済の支援の みならず、警察局の公的機能である国勢調査と保釈制度の管理をするという特徴があった。.  台湾領有当初に日本の行政専門官が考えたのは行政システムを確立することであり、ま たできあがった構造は国民党が台湾を領有するにあたりプロトタイプとなったシステムで あったことを古は指摘している。 2・(3)国家福祉の施策.  日本統治下の台湾では「社会福祉」と「国家福祉」は明確には区別されておらず、日本 政府は広義の行政をさす語として、教育と社会統制を含め「社会事業」を常に用いた。社. 会事業は社会行政事業、救護事業、経済保護事業、社会教化事業の4部門から成立。1921 (大正10)年に公布された「社会事業新興に関する依命通達」により、体系だった社会事. 業計画・運営が成されるようになった。また1928(昭和3)年の台湾社会事業協会の設立 は、複数の福祉事業体を傘下に置くことになり機能的で広がりのある行政が可能となった。.  特に下水道などインフラの完備、検疫所の設置など公衆衛生面の完備は注目に値する。. また1919(大正8)年に台湾医学専門学校(後の台湾帝国大学)を設立し台湾人にも高等 教育が受けられる機会を設けた結果、医者の数が飛躍的に増大したことは最も目覚しい発 展をとげた事業であるといえよう。.  しかしながら古の「社会事業新興に関する依命通達」への評価は厳しい。国家の福祉責 任としての定義もされず、また新しい福祉施策として採用されたのでもなく、ただ植民地 台湾における福祉施策の総体的枠組みとその施策として設定されたものに過ぎないと評価 する。. 2・(4)福祉支出.  総督府の支出項目は行政、文化、国勢調査、公共企業、その他の5部門に分かれ、福祉 領域は文化項目に入る(古はここで総督政府の5項目別支出構造を図表にして示している)。. ただし1921(大正6)年までは福祉の範疇である社会執務、教育および公衆衛生支出のた めの予算化はなされておらず、また地方政府からの助成金はあったもののごくわずかで、 もっぱら地元名士の寄付および皇室が支援する財団法人が資金を提供していた。  古は台湾総督府傘下には清政府と同様福祉の主たる支持者が存在していたという。 (5)福祉施策の影響.  1922(大正11)年以降、総督府は日本政府予算から社会事業助成金を恒常的に取り付け、. 台湾の社会事業に大きな影響を与えた。第一に文教支出が1921(大正10)年の3.14%か ら1924(大正13)年には4.03%となり、終戦年を除いて下降することはなかった。第二. 一44一.

(5) に社会課の予算恒常化によって植民地台湾の社会行政構造制度の確立が可能となった。最 終的に日本植:民政府は清の福祉支持をしのぐようになり、国家による福祉介入が始まった。.  しかし総督府が台湾人を日本人としてみなし、国家責任として生活環境改善のニーズに 応えていたとは言い難い。日本の福祉施策は常に社会福祉機能と社会支配が合体しいずれ も日本の統治に貢献してきたのだが、いかなる時でも社会支配が優先された。一方で最も 大きな課題である健康と教育の重視政策の結果、日本は台湾の福祉発展へ大きく寄与した。. 公衆衛生の改善は死亡率を下げ余命を伸張させるという二つの明確な結果をもたらせ、教 育もまた急激に普及した(1943一昭和18年現在公学校入学率99.62%)。  だが他の社:会サービスは断片的であるため台湾人の幸福という点では顕著な影響を与え ず、台湾在住日本人が常にサービスの中心たる受益者であった。たとえば台東のデイケア・. センターは当初から日本人の居住者を救うためのものであった(とはいえ後に台湾人農民 を救済し、台湾人求職者の職業を斡旋したのだが)。商人が必要とする低利貸出の多くは国 営企業に対して行なわれ、台湾人はなかなかそのサービスを手にすることが困難だった。.  このように古は日本統治時代の政策を客観的に論じた上で、福祉施策は主に日本人に対 する福祉サービスの供給を第一に考えたもの、そして台湾人の幸福を充足するよりも社会 支配を企図した傾向が強いものであったと評価している。. 皿 議論の疑問点とデータの示されない記述部分の検討 3.林萬憶の議論に対する疑問.  先述のとおり林は日本人と台湾人の間に福祉受益の格差の存在を強調しているが、デー タの扱いについて以下の疑問が生じる。.  数値データの扱いが断片的である。日本領有期の社会事業に関する資料は、林が本論を 書いた当時は散逸している、あるいは国民党政府が秘匿していたなどの事情により、時系 列に事業項目毎に系統立って編集されていなかったためか、時系列での比較分析に限界が あったものと思われる②。このため根拠となるデータが特定年に偏差してしまう。.  また一方社会事業の取扱い実績だけをみて判断をすると、偏った評価をしてしまうこと もある。たとえば林と古(古は林を引用)は、台東のデイケア・センターは目本人移住者 のために設立されたものと事実だけを述べているが、台東は原住民が多く住み、開墾され ていない土地がほとんどで、台湾人(中国系)の移住希望者は少なく日本人入植者が開墾 にあたった地域である。これら開墾者を対象とした救済施設を建設するにあたり、当初か ら日本人が対象となったことは必然的に導かれた結果であろう。当該施設は客地において 生活困窮となった日本人移住者の救済のために設立されたものであることは間違いない。 しかし問題は設立のきっかけを読み取らなければならないのではないか。.  また近代社会サービスは日本人入植者が多く住む都市部に集中投下されると述べている が、社会事業が緒についたのは、資本主義の進行により生活困窮となった者に対しての救 済事業であったため、必然的に都市細民への事業に加重がかかることとなる。なぜ当該施. 一45一.

(6) 設で台湾人がサービスを受けていないのかを、単に「サービスが受けられない」とはいい 切れないのではないだろうか。.  次に社会事業が展開された期間内において、社会事業の実体が変化していったことにつ いても、考慮が必要であろう。日本帝国の社会事業はおよそ四半世紀にわたり展開された が、導入期と戦時下とでは理念・運営方針など様相が異なる。ある年の事業件数を取り上 げる場合、その年が社会事業においてどのような節目にあったのかを明確にしておかなけ ればならないのではないか。たとえば林は職業紹介事業の実績件数について昭和9(1934). 年をとりあげているが、図表2に表したように昭和13(1938)年あたりから日本人と台湾 人の求職者に対する就職者割合の格差が縮小していく傾向がみられる。.  内地とほぼ同時に導入された台湾の社会事業は、当初事業資金の多くを皇室の下賜をあ てることにより、生活困窮者に対して天皇の慈悲を強調する役割を担っていたのだが、後 に方面委員制度(方面事業)の導入、同制度の機能転換、皇民化思想を内在させた社会教 化事業、社会事業の厚生事業化と変化していった。.  社会事業の導入が始まった当初、教育や労働習慣等の問題もあり、台湾人は基幹労働を 担う労働力として認められず、周辺労働に従事せざるを得なかった。しかし厚生事業へと 移行した昭和16(1941)年頃は、台湾人にも初等教育が行き渡るのと同時に、徴兵により 内地で人材が不足し、台湾在住の日本人が次々と徴用されたことから、台湾では日本人が 担っていた職務を、台湾人が代わりを務めることになり、基幹産業を担う労働者として動 員されていった。このことから職業紹介事業による台湾人の就職率も上昇していったので ある。.  このようにみてくると林の議論は以下のような方向性の下に展開されたものと考えられ る。すなわち目本統治期の社会事業は日本人の福祉を第一目的とした施策であり、台湾人 にはあまり恩恵をもたらせなかったということを証明するための論理フレームをあらかじ めつくりあげ、それに強く糾合させるためデータQ有無に関わらず記述を行なう。  また日本近代化の特性が伝統社会を否定せずして行なわれたという観点から、近代化の 一環である社会事業は台湾社会の基層部分には変化をもたらせず、統治システムだけが次 の国民党政府の為政モデルとなったという論旨を導き出すものであると。.  従って日本の社会事業は、台湾の基層社会に変化をもたらせることはなく、単に他の列 強の植民地や中国大陸のそれよりはましであった。しかし戦後国民党の統治方法に影響を 与えたという点だけは見逃せないということであろう。 4.古允文の議論に対する疑問.  一方古は植民地の本質が何であるかをしっかりとらえ、国家責任による福祉施策として の社会事業について評価すべき点と限界を示している。すなわち公衆衛生改善や教育向上、. 社会救済など予算を計上し国家責任として事業にあたった点を評価しながら、一方で植民 地であるため支配側のエスニックに有利な施策が展開されたこと、福祉は生活を向上させ る機能が社会支配の機能よりも下方におかれることを明示した上で議論が進められている. 一46一.

(7) (3)。.  また日本の統治は台湾の福祉を発展させたという論旨を裏づけるために、清時代との福 祉機関数の比較、総督府の予算構造の変遷、教育機関数の変遷など複数種のデータを用い て当該期の台湾福祉が「発展した」ことを立証している。しかしながら社会事業における サービス取扱い数の変遷を計測することなしに、台湾人の福祉受益は臼本人のそれよりも 低く抑えられていたと述べる。.  古がここで用いているデータは単年度の職業斡旋実績のみで、日本人は4,944人、台湾. 人1,836人制なっている(年度の表記がないが、実績数から判断すると昭和9〈1934)年 度のものである(4))が、図表1からわかるようにこの後台湾人に対する職業紹介数が増加. の軌跡を描いていくのである。つまり日本統治の内実が変化したことを示しながら、一方 で大きな変化が起こる前段階にある単年度のデータを用いて福祉受益の格差構造を指摘す るのは、論旨として説得力に欠けるのではないだろうか。. 5.根拠の示されない記述部分の検討  林・古ともに職業紹介所は日本人労働者に優先権が与えられていたと述べているが、林 はデータを明示せず、古は単年度のデータのみ用いて断定をしている。ここで職業紹介事 業の時系列変化を見てみよう。平成12(2000)年に日本で復刊された「台湾社会事業総覧」. から職業紹介サービス(全島に5か所。全て公立)の実績を抜き出したものが図表1と2 である。. 図表1 日本人・台湾人別職業紹介事業取扱い数の推移 年 度 求職者数. 単位:人・倍. 1925(大正糾) 1929(昭和4) 1932(昭和7) 1934(昭和9) 1938(昭和13) 1940(昭和15) 2,071. 3,395. 5,520. 4,933. 4,425. 2,631. 1.43. 1.05. 1.52. 1.29. α95. α80. 求人数. t447. 3,225. 3,620. 3,822. 4,664. 3,300. 紹介者数. 1,853. 3,146. 4,988. 5,017. 4,949. 2,518. 就職者数. 787. 2,193. 3,396. 3,417. 3β68. 1,756. 求職者数. 645. 1,341. 1,681. 1,833. 2,482. 3,260. 求職/求人(借). aoo. 1.84. 2.90. 2.49. 1.88. t24. 求人数. 215. 729. 580. 736. 1,322. 2,621. 紹介者数. 281. 1,027. 950. 1,193    2,180. 2,769. 就職者数. 203. 559. 求職/求人(倍). 549        724       1」85. 1β84. 出所;永岡正己総合監修  「戦前・戦中期アジア研究資料2 植民地社会事業関係資料集〔台湾編〕」『台. 湾社会事業総覧一社:会事業要覧1∼3、5、7∼8』、近現代資料刊行会、2000年、より作成  ※ 朝鮮人・蕃人・外国人は統計から除いている. 一47一.

(8) 図表2求職者に対する就職者割合の変化. 96 80.0 70.0 60.0 50.0. +日本人 +台湾人. 40.0 30.0. 20.0 10.0 0.0.                        年度. 大正14 昭和4 昭和7 昭和9 昭和13昭和15. 出所:同上.  図表1によれば、昭和13(昭和18)年頃までは求人数、求職者数、就職者数共に日本人 の取扱い数が圧倒的に多く、また求人倍率は日本人の方が低く就職しやすかった様子がう. かがえる。図表2からは台湾人の就職率(求職者に対する就職者の割合)が統治後半に向 かって次第に高くなり、最終的には率にして約9%の差にまで縮まったことがわかる。.  ただしこれらの数値だけではエスニック別の「就職差別」が緩和されたという早急な判 断はできない。変化の過程にある時期の社会型:景を加味して総合的な判断が求められる。. 世界恐慌や満州事変のように日本あるいは世界の政治・経済に照射し検討する必要がある こと、また日本帝国は領有前期、台湾を農業中心の資源供給基地として機能させたため、 昭和10年代に入るまで台湾人を労働者化しなかったことなどである。.  しかし昭和10年代には台湾の経済構造に変化が生じる。昭和11(1936)年に「台湾拓 殖株式会社」設立を機に台湾の「南進基地化」が進み、鉄鋼、化学、金属、機械などの近 代工業化が進んだこと(昭和14(1939)年には台湾の総生産額の45.9%一1位一を工業生 産が占める(5))から、工業分野での求人が増えたことが反映され、結果として台湾人の雇. 用が進み、就職機会の格差が縮小していったと判断できよう。もちろんこの頃には初等教 育に台湾人子女がほぼ全入し労働者化に大きく寄与していたことにも注目しておかなけれ ばならない(6)。. おわりにかえて.  本稿で対象とした林・古の論文は、ともに総督府が記録した二次データに依拠したもの であり、考察にはそれぞれ立脚する主義・主張(あるいは「イデオロギー」)が反映されて いた。帝国主義の支配・従属という軸からの考察であれば、日本人研究者も手がけている。. 今後は手紙や口述記録など1次データと2次データの中間資料(「1.5次データ」とでもい. 一48一.

(9) うべきか)を発掘し、日台研究者の協同作業により、目本統治下台湾の社会事業研究に肉 付けがなされるよう期待したい。. 主要参考文献 【英文】.  L血,wan・1,1990.5b{珈1隔血θ刀θワψρ皿θ嘘血%∫㎜η’オη加ごθ騨a勿ゴ猛θ伽θ顔偬1   θ叩ゐ∼.ηヨ面。鳳University of Cali{bmia, Berkeley:U.M.1 (林萬憶).  Ku, Y∋un・wen,1997.晩1彪∼’θ0鍵ρゴた∼1㎞士魂’㎜丑’3た∼偽励ozlo卿ア冴丑45㎞翰〃わ吻.   London:Macmillan Press (古允文) 【中文】. 林萬憶『福利国家一歴史比較的分析一』、巨流図書、1994年 【和文】. 今井孝司「日本統治下台湾における社会事業の展開一福祉の近代化をもたらした日本統.  治後半期の社会事業」、『現代台湾研究』第25号、2003年 永岡正己総合監修  「戦前・戦中期アジア研究資料2 植民地社会事業関係資料集〔台.  下編〕」『台湾社会事業総覧一社会事業要覧1∼8』、近現代資料刊行会、2000年 【その他参考文献】. 大友昌子「日本統治下台湾における社会事業政策の展開」、永岡正巳総合監修『戦前・戦.  中期アジア研究資料2、植民地社会事業関係資料集〔台湾編〕別冊〔解説〕』、2001年 永岡正巳「旧植民地・占領地における社会事業の展開(1)一一全体像と構造的把握をめぐっ.  て一」、『社会事業研究』第24号、社会事業研究会、1996年 永岡正巳「旧植民地・占領地における社会事業の展開(2)一公私関係と実践の位置をめぐ.  って一」、『社会事業研究』第25号、社会事業研究会、1997年 永岡正巳「日本暦治下台湾社会事業史研究の意義と課題」、永岡正巳総合監修『戦前・戦.  中期アジア研究資料2、植民地社会事業関係資料集〔台湾編〕別冊〔解説〕』、2001年 【注釈】. (1)日本統治下の社会事業については、拙稿「日本統治下台湾における社会事業の展開一福  祉の近代化をもたらした日本統治後半期の社会事業」(『現代台湾研究』第25号、2003  年12,月)pp.22∼41を参照。. (2)2000年、近現代資料刊行会から永岡正己総合監修による「戦前・戦中期アジア研究資料  2 植民地社会事業関係資料集〔台湾編〕」『台湾社会事業総覧一社会事業要覧1∼8』、  が刊行された。このシリーズは朝鮮・台湾などで散逸していた社会事業要覧の各年度版  をシリーズとしてとりまとめたものである。この出版により旧日本植民地で展開された  社会事業について、事業別・時系列的な研究が一気に進められた。 (3)古による本論文は、林を先行研究としているところがら一歩踏み込んだ議論がなされて  いる。逆説的にいえば、林はこの分野のパイオニア的存在であり、大胆な議論を行なっ たと評価されるべきであろう。. 一49一.

(10) (4)図表1の昭和9年のデータは日本人4,933人、台湾人1,833人となっている。しかしこ  こでは日本人の中に含まれる11人の朝鮮人を、台湾人の中に含まれる2人の蕃人、1人  の外国人を除いて算出しており、合算すると古の提示する数値と合致する。  また朝鮮人、蕃人のエスニック呼称は資料内の呼称を用いた。 (5)伊藤潔『台湾』、中央公論社、1993年、pp 128・9を参照 (6)ちなみに職業斡旋を受けた台湾人の就職先職種は、昭和15年現在商業・運送業が37.4%、. 鉱工業が36.4%であり、目本人はそれぞれ20.8%、12.9%(日本人で最も高い就職先職 種は公務・医師・書記のホワイトカラーで28.1%、次に家事使用人で20.9%)であり、  台湾人が労働者化されていった形跡が伺える。. 一50一.

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