道徳教育研究のためのノート : J.Dewey道徳理論の研究
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(2) . 道徳 教育研究のためのノート. -- J.Dewey 道徳理論の研究. 若. 原. 直. 樹. は じめ に. 筆者はある時, 芥川龍之介の 「蜘妹の糸」 を教材にした道徳授業を参観した. 健陀多力堆P釈迦様 のおろして下さった一本の細いクモの糸をつたって, ただひとり地獄から必死に逃れようとする場 面を教師は問題にして発問した。 「もし, みんなが 健陀多だったらどうする?」これに対する子 ども (小学6年) の回答は3通りで, ① 「健陀多と同じに, 他の罪人たちに 『おりろ, おりろっ』 と叫 ぶ」 , ② 「みんなも逃れたいのだから, 何も言わず-諸にのぼる」 , ③その他 (たとえば 「順番を決 めてひとりずつのぼる」という類の) その人数比 はおよそ3分の1ずつであった. 子どもの挙手を , 見とどけてから教師は, 「利己心を できるだけ捨てて, 他人のことも考えよう.」 という徳目を説い て, 第一の回答をや んわりといましめた. もちろん, その徳目を教えるのがこの授業の ねらい であ る. しかし, 第一の回答を支持した子 どもたちの表情は, 筆者の目には不満そうに見えた.(この場 合, そんな余裕などありません。) (みんなでのぼっ ても切れない糸なの ですか )という疑問はどう , して も わ き お こ る. 教 師 は, 「誰 だ っ て 自 分 の こ と が一 番 た い せ つ だ と 思 っ て い ま す ね でも そ の , . う ち の 5 パ ー セ ン ト でも 10 パ ー セ ン ト でも 他 人 の こ と を 考 え て ほ し い の です,」 と た た み か け る.. それま でちょう ど国語の物語教材の授業風景のように活発だった教室の雰囲気が, 教師のこの発問 と解説によっ て重苦しいものに変わっ てきた. なぜ道徳の授業は こうなりがちなのだろうか。「誰だって自分のことが一番たいせつですね, でも ……」 この接続詞「でも」 が道徳授業の難点を集約的に表現している. 「でも」 -- それは論理の断 絶と飛躍であり, 天下りの説教である。 このような, 子どものホンネをいったん受けいれて, その あとそれをいさめさとすという授業を何度もくりかえしていると, 子どもたちは, 道徳とはタテマ エでありおしつけであり, 非論理的・非知的なるものだと, しだいに認識しはじめるだろう, こう した授業には, 教材に描かれている問題場面と授業のねらい(徳目)との間が不整合であると いう基本的な欠陥をもっているようだ。 換言すれば, ある問題場面をただ一つの観点からだけで解 決しようとする無理である. どうしてもそこに非現実性 がうかんできて, 子どもに実生活との違和 感を感じさせ る。 結論的に言うと, 徳目を適用することよりも, 問題場面 (道徳的状況) を正確に考察することの 方が優先されるべきである. J・デュ ーイの道徳理論に学ぶことが有益だと筆者が考えるのも, この 理由による. 道徳的な人間 を, 世間を達観した聖者のような人間としてではなく, さま ざまに絶え ずちがっ た姿をあらわす社会現実の生活場面に応じてそれに適した正しい行動のし方を自ら選択し 決断し実践していく 人間としてとらえるならば, 人間の行動や経験についての深い研究を一貫して 31.
(3) . 若. 原. 直. 樹. すすめたデュ ーイの所論は積極的な提案を示してくれる. 重要なことは, 徳目の命ずるところにし たがっ て行動することではなく, 徳目を知る知らないに関わらず, その場 合そうすることが最善で あると意識して自主的に行動することのはずである. このようなわけ で, 複雑な現実の状況・具体 的な生活場面においてどう行動することが正しい行動 であるか, その 「判断」 に 焦点をあてて道徳 理論を考察したい. 以下は, デュ ーイ道徳理論についての筆者の理解とその 応用 であっ て, このの ち道徳教育に関して筆者が言及するときに, その発言の 一つの基礎となる研究ノートである. 第一に, 人が道徳的な成長をとげるとは実際に はどのような過程のことをいうのか. 第二に, 道 徳に関わる判断は他の場合の判断と何 がどう違っ ているのか. 第三に, 「善」 とか 「価値」 とか 「徳 目」 とよばれる観念は実際の道徳的探究の場面において どんな効果をもつものか. 以上の点につい て, 筆者は本論のように解釈した.. 1. 道徳的成長の過程 ( 1 ) 習慣による行動 具体的なところから話をは じめよう. 人が, ある道徳的な成長をとげる過程とは どのようなもの か. それをデューイの所論にしたがって吟味する. 道徳的行為に限らず人間の通常の行動一般において, 人はそれぞれいつでも或る 一定の行動 をと hab i t )」とよぶ. 習慣ということばは本来ラテン語 るのがふつう である. それをデュ÷イは「習慣( i l t ) を 意 味 して い た ce tus で, そ の 意 味 は 「安定した性向や行動 ( set ed tendency orpract の habi 一義 て 表面的行動の反復を第 にと が, 現在では一般にそこから離れて人間の っ , 癖とか日常の規則 的行動の意と解さ れている. しかし, デューイの習慣論からすればその見方はまだ皮相的である. 第一に, 習慣はわれわれが行動するときの枠組みである. われわれが火に触れようとしないのは, かつて火傷した実際の経験によっ て 「火は熱い」 という知識を持っているがゆえに 火を避けるとい うことはほとんど習慣になっ ているからであり, 数学の或る問題がおとなには解けて子どもには解 けないのは, おとなが数 を整理 し組織する習慣, 公式を応用する習慣を身につ けているからである. われわれの通常の行動はすべて習慣によっ て成り 立っていて, それゆえに日常無意識に行動するこ とができるのである, どんなことがらに関したものであっ ても人の行動が 「その人らしさ」 をもっ ているのは, それらが均一の安定した習慣をそなえた自我から発するからである. 第二に, われわれの行動がすべて習慣 から成っ ているという 意味は毎日の行動が過去の行動のく りかえしであるという外面的な意 味だけでなく, それが人間性の内部に属していて 内面から行動を 規制しているからである. 幼 児が赤・青・黄などの 色を識別することができるということですら, それま での期間に事物に 積極的な処置を行なっ て獲得した習慣の 成果であっ て, われわれの行動は 既知の観念や行動様式にもとづいてこそ遂行することができる. いわば過去の経験において受けた さま ざまな印象や教訓が知性によって記憶にとどめられていて, われわれはそれをたよりに して行 動 す る こ と が でき る の であ る.. 「習慣はわれわれの考えを支配し, どういう考 えを表面に表わし, どういう考えをおさえるかを 1 } 決定して( 」 行動を方向づける. すなわち習慣は, 「行動に自発的性質を与 える欲求・意図・選択・ 2 ( )自我の構造にま で根 ざしている 通常言うところの「性格」も 性向の構成そのものを含ん でいて」 . 習慣の産物 である. 32.
(4) . 道徳教育研究のためのノート. 3 ) だから「人間は習慣の動物であ って, 理性の動物でもなければいわんや本能 の動物ではない ( .」 デューイのこの言明 には, 人間は環境との交渉の中で生きていくという根本的な人間観 がある 習 . 慣は先天的なもの ではない.「道徳的論議のための合理的基礎を得ようとす れば まず器官作用も習 , 慣も共に, ………環境を使 って環境を自分の一部とする方法であ るという認識から出発 しなけ れば 4 ( )たとえば消化とは胃組織と食物との間の機能 であり 歩行は脚と大地との間 ならない.」 の機能で , あると同じく, 習慣もまた個体と社会環境との相互 作用によっ て形成される , われわれは欲求の生起から目 的達成に至るま での過程において 複数の条件や手段・目的などを , 見わたして最終的には最善と思われるただ一つを選ばなくてはならない その選択においていつで . もわれわれ自身の 「より でのみ」 が発現する 自分のこのみによっ てやすやすと行為 できるのであ . れば, それはまだ問題状況といえる場面ではないが, いま問題にしているのは道徳的状 況における 選択であるから, そこでの行動の選択 が自らの好みによ ってなされることは当然許さ れない 事態 。 の好転をはかるために, 人は, 自分 にとって手近 で容易な目標と 思考によっ て洞察されたむづか , しい目標との間 で葛藤を経験するのではなくてはならない どちらを選ぶに しるその判 断が 主体 。 , の積極性・思慮深さ・社交性 などなどの諸習慣によっ て影響されることは明白 である . ( 2 ) 衝動と知性 さて, われわれは過去の行動習慣や考え方をもっ てしては前進できないという 場面 環境によっ , て習慣が妨害されるという場面に遭遇することがある. それがまさしく問題状況に他ならないので あるが, その場合, 習慣にそっ て行動できないとすればわれわれは何をもっ て行動を起こすの であ ろうか. それは, まだ習慣を身に つけていない嬰児の行動を想起することによっ て明らかとなる 嬰児が , 。 後天的 であるはずの習慣を有していないにもかかわらず 環境に対してはたらきかけることができる のは, 彼が先天的に 「衝動」 をそなえているから である. 嬰児が母乳やその他の快適さを求めるの は衝動の力によっ てである.そしてその衝動はやがて社会の側からの反作用を受けて 食事の時刻・ , 食事のマナー・食事 の好みなどについての一定の習慣を生み出すであろう が 食欲という衝動は . , それ以後も常に潜在 していて,もし何らかの条件で飲 食に関する習慣を妨げられるとその衝動は「欲 求」 という形式 で姿を表し, 再び習慣形成 のための調整を開始する . 人間の生来の自然的本能はすべての行動の出発点 であり貴重な資源であるとして デュ ーイはそ , れを是認にする. 道徳にかか わる問題状況に直面すると, われわれのうちにそれを解決しよう とす る衝動がおきる (も し衝動がおきないとすれば, その状況はまだその人にとっ て道徳的問題状況と いうほどのものではない) 。 そして, その衝動による行動を即刻実行することが何かの理由 でできな 「 いときは, 欲求」となって胸の内にそれが留保される. 実行できないからといって衝動が消滅して しまうわけではない. 人が胸の内に欲求をもっということは, すなわち行動の目的をもっということにほかならない 。 衝動は目的を自覚す る以前の無意識の純粋な生命活動の発露であるが,欲求は目的を意識的にもつ 。 「何らかの欲求に つ ながらない 限り, いかなる観 念も いかなる対象も 目的と してはたらき えな 5 ( )言いかえれば 欲求とはある目的を明確にもった状態のことである い.」 , , しかし, 欲求が目的を決めるといっても欲求のおもむくまま行動すればそれ でよいというのでは もちろんない. いうまでもなく衝動や欲求は自分の直接的満足をみいだそうとしてす ぐ近くの狭い 見とおししかもたないの で, それだけでは道徳 的行為が保証されるとは限らない そこで 「習慣が . 33.
(5) . 若. 原. 直. 樹. 6 ( }知性が 衝動の水先案内人となっ て衝動のもつ 妨害さ れる ごとに, 衝動の双生児として生まれる」 , エネルギーに方向を与える. 知性はそう してよりよい目的を確定する. もし衝動や欲求が 「悪い」 と言われるとすれば, それは知性による思考を経たところの欲求との比較においてである. 衝動と 知性とはどちらが欠落しても道徳的行為を成立させず, 両者の結合こそが真に自発的な 道徳的行為 を確実にする. ) 道徳的成長=習慣の 更新 ( 3 消極的な性格の人物がいたと仮定する. 彼が, ある状況の中 でたて た目的を実現するためにどう しても勇気という手段 を行使する必要があると判断した場合, しかもそれ以外のもくろみでは良い 帰結をもたらすことはできないと判断した場 合に, 勇気をふるいおこすことを彼は決断する. 消極 的な自分の性格からすればそれは確かに 嫌な選択ではあるのだが, そうするより他に解決の 道はな 「勇 いのである. さて, その計画が成功して予想どおりの結果が現実となっ たとき, 勇気という価値( 知 そしてさらに 気」 というコトバを意識するかしないかは別にして) を, 彼はよく知るであろう. 性がその経験を記憶にとどめて, 再び同様の状況に 遭遇したときに以前の経験を想起してそれを一 つの判 断基準とするだろう. そうした経験を何度かくりかえすうちにやがて知性はしだいに自動的 ″ 一 に機 能して, ついに はほとんど無意識のうちに 積極的に 行動する ことが 「習慣」 となるであろ つ.. 勇気ある人間を育てるに は, 「勇気」という徳目をコトバ で教えることよりも, 勇気を出さ ざるを えない状況におくことの方がはるかに本質的で効果的である. そのような状況下 では, 仮に「勇気」 という徳 目を知らないにしても勇気 ある行動をすることが可能となる. こうして 人は自分 の道徳的 状況を観察し, 仮説としての目的を立て, それを実践的に検証することを通じて自主的に善を探究 する. 知性によっ て善を獲得 しながら, 自己と環境との間に 存在する習慣を更新していくのである. 以上のように, 習慣は一度形成されると固定的で機械 的な運動 を続けるので周囲の環境が変化す るにつれて用をなさなくなり, 自らの再構成を余儀なくされてその方向を模索する. 人間の生活し ている世界は不変の静的な世界では なく, 絶えず変化し流動 する世界であるから, そうした世界に おいてはそれと平衡を保とうとする習慣は, 矛盾・混乱した場面を断続的にく ぐらなくてはならな い.そして,そのたびに 人間の習慣は 多かれ少なかれ何らかの変容 を -- 判断基準や価値観の変化, 古い知 識の改修と新知識の習得などなどを -- とげるであろう. こうした習慣の更新が, デューイ がその道徳的教育論において目的としている 「性格の発達」 の具体的 内容である.. 2. 道徳的判断の特徴 ( 1 ) 道徳的状況 前節でのべた 「習慣の更新」 (すなわち道徳的成長) について, さらにやや 厳密な分析を加える. まず, 人の道徳的経験は道徳的問題状況(以下, 「道徳的状況」という)への直面とともにはじまる. 道徳的状況とはどん な事態のことか. 結論から言うと, 人間の行動のあるところに 道徳は常に潜在しているの だから, 道徳的状況とい う,他から隔絶した領域がある わけ ではない.道徳的状況とは決して他とは異なる道徳的な状況では 34.
(6) . 道徳教育研究のためのノート. なくて, 道徳的に問題となる状況のことである。 デュ ーイによれば,「道徳的考慮が他の形成と区別 ( 7 } されるのは, 判断をなして知識に到達する過程としてではなく, 考察される価値の種類において」 である. 価値判断は道徳的探究においてだけではなく社会科学や自然科学に関する探究においても 行われるのであるから価値判断すなわち道徳的探究とは言えないが, デュ ーイ が言うのは 「価値の 種類において」 である. しかし, これを, 諸価値は道徳的探究の対象となる価値とそう でないもの とに分類 できる意味に解してはならない。 デューイの真意は, 道徳的探究に関わる価値とは, 主体 が所有したり手離したりするような観念ではなくて, 主体の自我そのものを内面から変革して規定 have )ものとし するほどの 強い意味をもつ価値である, ということになる. 「その対象が所有する( be ) ものを規定する契機として考えられる てではなく, 自我の中に変化を生じさせて自我である ( 8 ) ( 場合, その対象は道徳的価値を持つ」 のである. こう して, 主体の価値体系や価値意識を揺り動かし, その一部を変容させる効果をもつ, 人間成 長の過程の出発点となる事態, それが道徳的状況である. 2 ) 道徳的判断の二側面 ( したがっ て, 道徳的探究の過程は, 問題状況の解決と主体の自己改造とが同時進行する 二面性 を 有している. 前節で消極的な人間が問題状況の解決を遂行しながら自分の消極的習慣をも改変する という例 で示したとおり, 「倫理的判断は, 判断される状況と判断の行為に表現される性格・性向と 9 } ( の相互決定づけに関わる判断である.」 道徳的状況における判断が, 主体の 習慣によって強い影響を受けることは容易にわかるが, その 逆向きの影響もまた存在するということである. つまり, 道徳的状況はいま定義したとおり, それ ま での自分では前進できなくて何らかの新しい力の発揮が余儀なくされているのを主体に意識させ る場面 であるか ら, そこにおいて主体は自らの性格にあわない行動や 既有の行動能力をこえる行動 をとらねばならず, しかもその行動によっ てもたらされた帰結に責 任をもつことになる. こうして 主体は自らの発揮した力によっ て一定の反作用を受ける. 道徳的経験をくりかえすことによっ て, 主体の習慣は徐々に変容 していくのである. 確かに欲求と知性が道徳的状況の中 でどのよう な行動 目標を選択するかは, とりも直さず自分がどのよう な人間になろうとするのかの選択でもある. た とえばある 組織への加入, 就職・進学の選択, 勤務地の決定などという自分の存在そのものがかかっ ている 重大場面でなされる判断を想定すれば, このことはよくわかる. そうした状況での選択は, l o ( )判断である これが道徳的判 断の固有 「既成の自我を表現すると同時に, 未来の 自我を形成する」 . の特徴である. 以上のよう に, 道徳的判断における状況解決と人間成長との 二側面は, 互いに一方が他方のため の手段 となる相互的な関係, 双方が互いに影響しあう相互作用をもつ関係にある. 「(探究の) 帰結 1 1 ( )(傍点 は道徳的種類に関する限り自我の形成そのものに入りこみ, また自我の帰結に 入りこむ.」. は筆者) 1 )他人から強 道徳的行為はこのように自我に深く根 ざしていなければならないから, したがって( 2 )自分では善行と自覚せずに習慣的に行なう行為も (たとえそれが他人か ら善行 制された善行も,( 3 )いわゆる, タテマエとホンネの分離した行為も, みな道徳的行為の概念 だと評価されようとも) ,( の 外 の も の であ る.. 35.
(7) . 若. 原. 直 樹. ( 3 ) 道徳的判断と科学的判断 生であり,彼は知性の発展による倫理に デュ ーイ が彼の哲学において一貫 して強調したのは人の失ロ ー のみ信頼をおいた.「いくつかの善とみえるものが矛盾しあっている(とき) , 必要なのは行為 の正 し 1 2 ( ) い方向, 正しい善をみいだすことである. そこ で探究が必要になる. ……この探究が知性である.」 失贈性の機能を列挙すると 1 ( )周囲の状態の観察 ( 2 )過去に起こっ た同様の場面や既有知識の回想 ( 3 )観察や回想によっ て 得られたものが何を意味するかの判断 ( 4 )行動目標の設定 ( 5 )目標達成 のための 手段の考慮 ( )目標実現によっ て 生ずる帰結の予想 6 これを前段と後段とに分 けてみると, そこに過去と未来に関わる知性の本質が表現されている. 1 3 ( ) 知性は,「過去の経験を未来において有用 でありうるような形式におきかえるための道具である.」 現在の問題を解決するために過去の経験を材料として未来を予測する機能, そしてその問題を実際 に解決して新しい未来を形成していく機能, これが知性 である. 生によ っ て牽引されねばならないが, それは人間成長の探究という固有の側 道徳的探究はこの失晋 1 面を有していたから, その場合の知性の役割は客観的問題状況を解決する以上のものであるように 思われる. それを, 「判断」という機能に着目 して明らかに しようとするのは, 判断という知的機能 が, 未来に 生ずる結果を見とおし, それを基準にして現在の状況中の諸要素を操作するというはた らきをしていて知性の枢要な機能を代表するものだからである. 判断は常に未来を念頭においている, たとえば, 「天気がよい」という単純な価値判 断ひとつとっ て さ え, そ れは そ の 日 の 自分 の健康状態や行動予定に照らして晴天は好都合であるという, あるい. は農夫にとっ ては作物の成育状況からして今日の雨天は 「よい」 天気 だという一つの 見とお しで あるように, 一般に判断とは現在問題に している対象が未来に どのような結果をもたらすか という 観点からなされる評価・鑑定のこと である. 道徳的判断は科学的判断を包摂 してなおそれ以上の概念である. ここ でいう 「科学」 とは単に整 理された事実知識の体系を言うの ではなく, 批判的・実験的・探究的な姿勢で考える知的活動 をも 意味している. 「我々 が科学とよんでいるものは個 人の経験的場面 -- 道徳的場面のようにユニー 1 4 ( }科 学とは普遍的な知 クでおきかえられない場面 - をあつかう 道具性の洗練と調 整 である.」 識・技術の体系というより科学的思考そのもののことである. さらに科学の抽象的一般的命題は個 人の判断を最も有効にはたらかせる道具として考えられる. だから, 人間の苦悩や苦痛を除去する ために役立っている自然科学にも道徳的意義を見出すことができる. なぜなら,「道徳に適用された 実験論理は判断の対象の性質が何 であれ, それが現在の悪の改善に役立つ なら, これを善と考 える 1 5 }か ら ( の で あ る」 .. 一つの探究の過程においてなされる判断が一つきりということはないのが普通で, 状況を構成し ている諸要素のうちどれが本質的でどれが付髄的か, 対立する条件の どちらかを優先すべきか, ど の目標が最善であるか, それ以上の手段はないか, その状況は どんな脈絡の中 で生じたか, など探 究の全過程は一連の判断をなすことの連続から成り立っ ている. そしてそれらの判断を集大成して 一つの行動計画 (仮説) を決定し, それを最終的判断として行動 (実験) に踏み切るの である. こ 36.
(8) . 道徳教育研究のためのノート. のように, 最終的判断は一連の仲介的部分 的諸判断によっ て構成されるが, その部分的判 断のうち , 客観的事実関係のみを扱う科学的判断がいくつか含まれているとしても不 思議 では な い い や, そ 。 の判断が大勢を占めることの方が一般的 であろう。 だから, 道徳的判断にとって科学的判断を援用 することは絶対に不可欠であり, 後者があっ てこそ前者は正確さを増す . そして道徳的判断は, 自我に深く根 ざしてい る点 では科学的判 断と区別される 道徳 的判 断は科 。 学的判断と異なり, 主体をとりまく客観的事情のみならず主体自身の性格に対しても操作を加えて 影響を及ぼすという性質を有していた。「倫理的判断はそれ自身特別のねらいを持っている すなわ . ち倫理的判断は, 判 断の行為にいたる態度や性向 が題材の決定における -要因 であるような内容を. 1 ( 6 } 判 断す る こ と に か か わ っ て い る 」 .. 以上のように道徳的判断と科学的判断とは対立する関係には全くなく, かえっ て科学的判 断の行 使を必要不可欠にしていてその上でこそ本領を発揮しうるもの である , 人が道徳的な誤りをおかす原因は,,正直・勤勉・純潔・誠実な どの善が何であるかについての無 知にあるのではなく, 彼をとりまいている社会環境の何 であるかをよく理解 できていないことにあ る. だから, その社会環境を洞察できる知識はすべて道徳 的知識 である。 現在たぶんもっ とも必要 とされることは, 科学的知識と道徳 的知識との間の伝統的障壁を打ち砕いて, 利用しう るすべての 科学的知識を人間的・社会的目的のために使用する努力を組織的かつ継続的に 実行すること である . 社会科学的知識だけ でなく自然科学的知識 であっ てもそれは道徳的知識となりうる バクテリア 。 や細菌に関する生物学上の知識が人々の健康や衛生のために貢献するように, 自然科学的知識が応 用されて人類の生活に多大な幸福を与えていることは明白な事実である 「物理学・科学・生物学・ . 医学などが具体的な人間の苦悩を発見するのに役立ち, 人生の苦痛を除去する計画の開発に役立つ 1 ( 7 ) ならば, それは道徳的知識になる」 . プューイから学ぶべき点は, 知的な発達と道徳 的な発達とを人間の成長として統一的に把握して いることである. それは, 異なる二者を融合させるという意味 ではなく, 最初から区別 できない- 体のものと考えられている. 道徳はとかく情緒や感情という精神的な問題に還元されや すいが, そ う考えるのが誤解の始まり であっ て, 道徳はいつでも失α性に関することがらなのである .. 3, 善, 徳目の意義 ( ) 手段としての価値 1 プューイによ れば道徳的行為とは何らかの絶対的な理念に従順な行為をいうのではなく, 個々の. 具体的状況の中で最善と思われる行動目的および行動方法を主体が自主的に選択し実行することで ある. だからそこ では目標や方法を決定する知性, すなわち判断が重視されてくるわけだが, 判断 は 各人が自主的に 自らの責 任において下すものであるから, 各人が行為の善悪をいかにして決する かがきわめて大きな問題となる. 自我に即した自主的行動が道徳的行為を成功させる一つの必要条 件であったが, それに加えて道徳的行為は「正しい」 行為 であることが要求されるのも当然である . それでは「正しい, 正しくない」「よい, わるい」は どのような手順で何を基準として判 断されるの だろう か.. まず, 行動の目的とは改めて言う までもなくこれから達成すべきもの であっ て, 常に未来に属し ている. 現実に眼前におくことはできない。 したがって, 目的が実際にどんな意味をも っ ているか 37.
(9) . 若. 原. 直. 樹. は 達成したのちには じめてわかること であっ て, 現在の段階 では あく ま で予 想や推測の域にと ど まっている. そのためわれわれは 未来を できるだけ正確に見とおそうと努力し, 目的を設定する場 合でもその周囲にある種々雑多な事柄をもあわせて考慮する. デューイ は, この 「見とおされた目 的」 のことを end-in-view″ と 呼 ぶ. こ の 目 的 が将 来 現 実 に も た ら す 結 果 と ほ ん と う に 一 致 す る かどうかは, 行為にとっ てきわめて本質的な意味をもっ ている. 前述したとおり, 目的は欲求にもとづいているばかりではなく,「知的契機, すなわち思考を含ん 1 8 ( )思考を含む とはこの場合主として目的を実現するための手段 を考慮することである でい る.」 . ,. 手段を考えることで, 目的が実現可能なものか, 実現できるとすればどのような道すじでどんな手 順を必要とするかが明瞭となる. われわれはこうして行為をあたかも実践しているかのようにさま ざまな空想的予習をおこなうわけである. この目的や手段が 「よい」 あるいは 「正しい」 とは何か, 「すべての探究において……結論と して 提案されているもの (目的) は, 諸条件によっ て提示されている問題を解決するための 能力をどの 1 9 ( )「目的は 事態に対処す る行動方向へ ように持っ ているかによ って, その値うちを評価さ れる.」 , の奉仕可能性を根 拠にして 良いとか悪いとか 評価される. または……その 目的を達成する際の 必要 2 0 ( )(傍点は筆者) 性を根拠に して評価される.」 こ の 傍 点の用語に あらわれているように, ブュ ーイ 道徳論における 「価値」 とは, 意図した結果 を現実在にもたらすためにそれがどの 程度有効 であるかという点で鑑定されるところの, 行為を統 制する観念である. したがっ て価値判断は 未来に 向かっ てなされる行為に方向を与える性質のものであり, 新しい事 実を創造するという, いわば未来に 開かれた行為である. それゆえ価値は現実に客観的に存在して いるものではなく, ただ価値判 断という知的行為を通してのみ現実在となる観念である. ダイヤモ ン ドに価値があるか, それとも石炭に価値があるかについて書斎で考えることは無意味である. 当 然, 状況によ ってちがう答が出る. すなわち「一つの対象を価値とよぶことは, (行為において)そ 2 1 ( } の対象が一定の条件を満足させ充実させること を主張することである.」 ( 2 ) 個別的・具体的・相対的 「善」 しかし, 目的に対して有効 である観 念や物が価値 であるとしても, それは手段について だけの評 価ではないのか. われわれの知りたいのは目的そのものの善悪である. だが, デューイ の所論にこ の回答となるような 唯一絶対の善を求めて もかなえられない. 「善」とは, 言うまでもなく価値の一種, 主として道徳の領域において問題とされる価値なので, 価値一般の説明 は善についても直接適用 できる. 価値が行為によって創造されるのと同じく, 善も また行為と結びついていて,「道徳的な善や目的は何かをおこなわなければならない場合にのみ存在 する.」そして, たとえば病 気にかかった人が熟慮の末, 医者に行くことを 決めたとするとその場合 2 2 }である 同様に ある人が他人に親切にふる ( の善は「医者」 ではなくて 「医者にみてもらうこと」 , . ま っ たとすれば 「親切自体」 が善なの ではなくて, 事態の好転の ために 「親切につく したこと」 が 善なる価値 であるということになる. デュ ーイ の言う価 値は, 名詞的に ではなく, いつも副詞的・ 動詞的に機能するものとして理解されなくてはならない. 金銭・平和・友情・法律など, すべてそ れらを維持したり活用 したりするという 行為の対象となっ たときにこそ真価を発揮するのである. 第一, 「健康・正義・勇気・孝行・自制………が, 善である.」 などと人はす ぐに言いたくなるが, それらのコト バはもと もと善を意味するようにはじめか ら意図さ れてつく られたコト バ なのだか 38.
(10) . 道徳教育研究のためのノート. ら, あまりに当然すぎて何も言わないのと同じである. 問題は, 人の或る行動が, 「勇気」と評され るか 「無謀」 とみられるか, 「親切」 であるか 「借越」 であるか, 「自制」 か 「弱気」 か, 「正直」 か 「生真面目」 か、 というように どちらに帰着するか, その分かれ目となる判断のありよう である . 善という観念は古来倫理学上の最も基本的価値 であると考えられてきて, そのために多くの説が 独自の善を擁して主張を異にしている だがデュ ーイ の道徳説は, 善を, どんな場合にも適切 であ . るような普遍的な性質として確 定することはしない. 彼によれば, 善とは何力条かに 分類整理 でき るものでもないし, 一つに集約させて表現 できるものでもない その数をあえて言うとすれば 善 。 , は状況独自に個別的であるから, それは道徳的状況の数だけあるということになる デューイ は次 . のように例示している. 「いかに健康に生きるか, あるいはいかに正しく生きるかは人によって違う問題である それは 。 その人間の過去の経験・機会・気質的・後天的な弱点や能力によっ て異なる 健康に生きることを 。 目ざしているのは人間一般ではなく, ある特定の 欠陥に苦しむ特定の人間なの であるから この人 ,. 2 ( 3 ) 間に と っ て の 健 康 の 意 味 が 他 の 人 間 に と っ て の 意 味 と 全く 同 一 で あ る と い う こ と は あ り え な い 」 。. このことは善が多数存在することを意味すると同時に同一の善 (正確に言う と, 同一のコトバ で 表現される善)でも, ある状況においては悪となることもありうるという意味でもある. たしかに , その場合もありうる。 余命いく ばくもない癌患者に向かっ て医者が 「ウソをつく」 話はよく引 き合 いに出されるところである。 「怒り」 もそれを善用す れば善となり, 「同情」 もそれを善用するので なくては悪を長ずる結果となる. このように, 善は具体的状況との関わりをぬきにしては語れない ものである. デューイの説く善は, 他の諸説の善が静的・絶対的・普遍的 であるのに反して 動的. , 相対的・個別的である。 ( 3 ) 「徳目」 の頑迷さ 以上の見解からすれば, 伝統的な道徳観は次のように批判されねばならない 第一に, 徳目 (諸 . 善を抽象し分類して, それに名まえをつけたレ ッテル) という概念は実際上はほとんど無意味であ る. 「親切」「勇気」「忍耐」などの徳目は, それ自体無条件で善とされているが, もしそのとおりだ としたら道徳的状況のもつ個別性とそれらは無関係 である. 状況についてのつぶさな吟味を何も行 わず, 状況がどんな特殊性 をもつにしろ 「親切」 は善である, と言明すること がどれほ どの意味を もつだろうか. 必要なのは, 親切にすることがこの場合確かに最適だといえるかどうかを判断する ことである.「自動車が近づいてくるのを見る人の目的は, 安全な場所によけることであっ て 安全 , 2 4 { )という例はわかりやすい 肝心なことは 安全の確保という目的とそれを実 そのものではない。」 . , 現する ための手段 -- どのく らいの敏速さ でどこに 身をかわすか, その上 で障害はないか, など -- を一系列に見とおすことである。 この見とおしをうまくしさ えすれば, たとえば, 本人がたと え親切 という徳目を知らなくても親切な行為をする こともあるだろう 仮にその徳目を知 っ ていて . それを実行すべきだと考えたにしても, では何をどうすれば 「親切につくすこと」 になるかがただ ちに問題になるはず である. 徳目は目標と手段の関係 に直接一義的な影響 を与えるわけ ではない 。 われわれが実際に道徳的 であるためには, 絶えず変化してあらわれてく る現実の状況に応じて最 善と思われる行為を選択し実践していかなくてはならない. ところが, 徳目は概括的 で固定的であ るがゆえに どんな状況にも適切 であるというわけにはいかない. 第二に, 徳目を価値判断の目的や 基準として安易に採用する場合には, 主体の判 断をほとんど非 知性的なものに落としめる.「もし基準がすでに与えられているのなら, 残さ れた問題はものさしを 39.
(11) . 若. 原. 直. 樹. 2 5 ( )徳目に関する最 大の弊害は その 反物にあてるように 手もとの場面への機械的適用だけ である.」 , 受容 が非知性的になさ れるために伝 統や権威に無批判に追従する習慣を 人々に 形成すること であ る. 徳目主義の道徳教育に対 して最も顕著で即座になされる 批判は, 徳目のおよぼすこの弊害, す なわち道徳が或る政治的思惑やイ デオロギーによっ て支配されることに対する警戒である. l tomary mora ) とは対 l i f lect cus ) は, そ う し た 慣 習 的 道 徳 ( ve mora デ ュ ーイ の 反省 的 道 徳 ( re. 立する. 慣習的道徳の弱 点は, それがある一定の時代には通用する規則や 基準 であるかも しれない が, 新時代への発展にとっては一つの 桂格となることがあるということ, また地方や国家によって それぞれ慣習が異なっているように, それらの規則や基準 では 真に 何が正しいのかを究明する上 で 必ずしも妥当 ではないこと である. 道徳的理論はむ しろ古い価値と新しい価値が衝 突して, どちら が正しいのかと葛 藤する場面から生まれる.「二つの価値, そのどちらもそれぞれの場所では疑問の 余地のない善であり ながら, いまや 互いに妨害しあっ ているという 二つの価値の間で, 人は決断す 6 2 ( }道徳理論が必要とさ れるのはこのような場面であ るた めに 反省をくくるのをやむなきに 至る.」 る.. 4. 「徳目」 の道具性 しかし, 徳目を全面的に否認する必要ない. 否認さるべきは徳目の機械的・権威的適用に対して である. われわれは徳目に全く無頓着のままで社会生活 をおく れるもの では ない. 第一, 徳目にあ らわされる価値 (徳目そのもの ではなく) は, 社会通念としてす でに慣習 (しきたり・伝統・風習) のなかに深く浸透している. そして, 慣習 を考慮に入れること なしに, 人の行為は 道徳的たりえな い.「慣習は道徳的基準を構成する. なぜなら慣 習は, ある行動のし方を積極的に要求するからであ 2 7 )たしかに われわれが道徳的であろう とするのは他人の存在を考慮に入れるからであり, 道 ( る.」 , 徳が一人の人間と社会的環境との相 互作用の問題だということは,当為の問題では なく事実である. したがって他人と自分との人間関係に 生ずる道徳的行為について, 周囲の人間によっ て示される 反 応が一定の規制力をもつことは自明 である. 仮に徳目などというものを皆目知らずにいたと しても 道徳的行為が可能であることは前述したが, 他人からの是認・否認の反応を考 慮することなしに道 徳的行為は成立しないのである. 道徳的行為は本来他人に安寧・快楽・満足・福 祉をもたらす行為 であ る.. しかし, この意 味を, 他人に迎合されるようにふるまうこ とは必ず道徳的である, と 一面的に理 解してはならない. そのよう な考えは, 他人からの 是認を受けることを「基準」としてではなく「目 的」 として考 える誤りである. 基準とは, 最初の欲求のもとめる目的を, 令静で知的で真正な目的 へと向上させる, 判断のよりどころ である. そう であってこそ 「基準の概念が目的の概念に対して 2 8 ( )社会的慣習として顕現する価値は基準として道徳的 統制的な形成力を行使することができる.」 判断に一定の影響力 を与えずにはいない. だから, 徳目を重視しない道徳理論をアナーキックだと 評するには及ばない. それが 「道 憲」 理論である限り, 現実社会の中 で尊重されている価値を必然 的に考慮に入れね ばならないのだから. もう一つ, デュ ーイ は徳 目について重要な提言をしている.「道徳的判断が実験的性格を持ってい るからといって, それは何も完全な不安定と流動とを意味することには ならない. そこには原理と 2 9 ( )ここで 「原理」 とよぶものは, 「正直・親切・忠誠などの道徳的善………価値判 いうものがある.」 0 ( 3 )のことなの で 徳目と考 えても大過ない だからデュー 断の一定の法則たとえば道徳上の黄金律」 。 , イはこの言明において も, 徳目の存在意義を確認しているのである. しかし, この確認はあくまで 40.
(12) . 道徳教育研究のためのノート. 次の意味においてである.「道徳原理の目標は, 個人をして 彼が立っている特殊な状況の中の善悪 , の諸要素を自分自身で分 析することが できるようにするため の視 点や方 法を提供す ることにあ 3 1 ( 〉 る.」. したがっ て徳目は, 交通法規や料理法のような 「規則」 ではない もちろん規則と いうものは . , 人間が社会生活を円滑にすすめていく ために必要ではあるのだが 道徳を規則 で律しようとすれば , それが固定的 で強制的であるがために道徳は道徳としての意味を失う 原理としての徳目は規則と . ちがっ て, 状況に適応する可塑性・柔軟性 を有している すなわち 規則が状況打開のために既定 , . の道を開くのに対して, 原理としての徳目は どの方法が最善 であるかを決定す るのに 参考とすべ き資料である. それゆえ, 徳目は暫定的であり仮説的 である 徳目は人類の長い歴史の中 で数多くの検証をくり 。 かえし受けて広く承認された観念 ではある. しかし, ある道徳的状 況に対してそれは一つの仮定 で しかない。 「仮定」だというのは, その徳目の命ずるとおりの行動をとっ ても成功するとは限らない から, という理由によるばかりではなく 仮に成功したとしても そこには道徳的探求のかけらも , , ない (命令に服従しただけ) のだからその行為は道徳的行為と呼べ ないのである 。 原理としての徳目の本質を一言 であらわすとすれば それは 「道具性」 という用語で表現するこ , とができる。 徳目は探究のために用いられる道具である 「道徳的原理は一つの与えられた方法 で行 。 為をしたり, 行為するのを控えるようにさせる命令 ではない それは一つの特殊な場面を分析する . 3 2 ( )デュ ーイの哲学にお いては知識・真理・理論な どい さいがすべ ための一つの道具である.」 て, っ 問題状況の解決に役立つべき道具としてみなされていて それがために彼の哲学はしばしば道具主 , 義とも呼ばれるが, これは徳目についても適用 できる 「実験的方法は 権威や先行者に 対して何の , 。 場所も与えないことを意味す るものではない. それどころか先行者は ……一つの有用 な道具なの , である ぞ …・それは現在の状況の分析の道具として使用さるべきものであり 着眼点を暗示 し た , , 3 3 ( ) めされるべき仮説を 暗示するもの である 」 。 徳目を道具と解釈 することによっ て,( 1 )当該の状況に最適なものが選択される,( 2 )したがっ てそ の有用性は相対的 である,( 3 )経験のくりかえしによって改良されていく という徳目の基本的性格 , が明瞭になる。 このような道具主義からすれば 徳目にも価値創造の基準となる可能性が付与され , る. 徳目の多くを知 っていてそれらを類別 して貯えておくことは 現実の状況において困難を打開 , する上 できわめて有益である. 「(諸善の) 分類は洞察の道具である その価値は個別的状況におけ 。 3 4 ( } る個別的反応を助けることにある.」 以上のように, たとえば偉人の名言, 伝来の格言やことわざ 教科書の記述 社会的慣習などは , , , 確かにそのまま無条 件に服従すべき基準 ではないが しかし道具性をもつ原理として知 的に 操作す , るのであれば, それは一つの判断基準として採用することが できるのである .. おわ り に. 道徳 的行為とは, まずその人の深奥の自我から発生する衝動や欲求にもとづいていること すな , わち自主 的であることが第一の 要件である しかしながら それにあわせて当該の状況についての 。 , 最大限知的な洞察力切口えられるべきこと が第二の要件 である 以上から 「自分がそうしたいと心か 。 , ら感じてする行動」 および 「そうしたくないとはじめ. は思っ ていても どう してもそう せねばならな いと 自分 が納得してする行動」 は, どちらも自主 的であるがゆえに道徳的行為である. . だが, 反対 41.
(13) . 若. 原. 直. 樹. , あるいは 「なぜそうするかは知ら に 「自分はそう したくはないのに他人から命令さ れてする行動」 ないが通常習慣 的に行なっている行動」 などは, 外見が善行であったとしても道徳的行為とはよべ ない. 自 主的 であることと知的であることの 二要件によっ て, 人は, 道徳的問題状況を解決しなが ら同時に 自分 の道徳的成長をと げることができる. この過程において 「善」 とは, 当該の解決目標にとって有用なも の -- 知識・技術・慣習・徳目 などなどの観念 -- すべてである.では,目標その ものの善悪は何によっ て判 断されるかと言えば, ) …という 無限の連鎖によっ ) -- 手段 (目標4 ) -- 手段 (目標3 人の一生は目標,-- 手段 (目標2 て 成り立っ ているか ら, その目標 が次の目標達成のために果たす有効性の程 度によっ てである. なるほどそのような連鎖がどこま でも続くのは事 実だが, それでは最終的な, 究極の目的とは何 心 であるのか, という問いかけをわれわれはどうしてもしたくなる。 だが本論ではその追究を関 の 外においた. それをデュ ーイの言うように 「成長そのもの」 といおう と, あるいは 「快楽」とか 「人 類の福祉」 とか 「最大多数の最大幸福」 などと言おうと, いずれにしろ人間の行動が目的と手段 と の関係 で動いていることに変わりはない。 怠惰 で飲酒癖のある男にとって, 酒類を買う手段は善で ある。 そのために 金銭を得る労働は もちろん, それが物乞いや賭け ごとであっ てさえ, この理論に よれば, 善である. しかし同 じくこの理論によっ て, 飲酒癖そのものはそれ以上の彼の生活目的に とって善とはならないだろう. 物質が原因 - 結果系で運動するものとすれば, 人間は目的-- 手段系で行動する. だから人間に とっ て 必要なことは, できる だけ遠くまでの目的を見とおす洞察と, その達成のために 最善をつ くす″ 慎重である, ゆえに, 道徳とはす ぐれて知的な営みであり, したがっ て 道徳教育とはどの 教 をも総合するような知的教育 でなければならない. T ューイ の 科にもおとらない, むしろどの教科、 言うとおり, 人文・社会・自然科学に通暁していればいるほど、 その人の行動は道徳的善さを増す であ ろう. ところ で, 道徳教育にま で言及しようとすると, デューイの道徳理論のうち 「徳目」 についての 説明に或る 疑問を感じるので, そのことを述べて論を終える。 徳目を機械 的・権威的に 適用することがおろか であること, そう ではなく徳目はあくま で暫定的・ 仮説的な道具であること, この説明は説得的である. しかし, 暫定的 で仮 説的であるということは, それが或る 道徳的状況に先 立ってあらかじめ知られていたことを意味して いる. が, 経験以前に そ れはどうやっ て知られるのか. 過去の類似した経験を知性が記憶にとどめていたかもしれないが, しかし徳目とは ある観念の言語的表現なのだから, その観念にどんな名 まえがついているのかは他 人によ って知らされない限り自分で発見できる ものではない. 徳目を知らずとも道徳的行為が成立 することは首肯できる. だが, 「徳目は一つの道具である」という命題からの論理的発展として「そ れを豊富に貯えておくことがのぞましい」 という 命題が当然導き出さ れるはずである. 周知のようにデュ ーイ の教育方 法論は問題解決学習とよばれるとおり, 学校においても子どもに 実際に直接経験をさせる, 「なすことによ っ て学ぶ」という 原則によ っ て貫かれていて, この方法は ion) を 否 定 した 上 で, そ i d tmoralinstruct re c 道徳教育においても同様である. 直接の道徳教育 ( う では なく 児童がた えず判 断し吟味する訓練の機会や選択の機会を実際にもち, それが現実の行為 によ ってテストされね ばならない, という。「そのように してのみ, 子どもの目的や考えを価値決定 3 5 ( ) の条件に関係させる習慣を形成することができる。」 問題解決学習についてはのちにわが国で 「学力低下」 を招いたと して手き びしい批判にさらされ たのだが, 生活経験による道徳教育 については不思議なことに依然そのまま であるばかりか, 昭和 33年の 「特設道徳」 に対抗する有力な対案としてそれが強く 支持されたほどである. 教科と道徳に 42.
(14) . 道徳教育研究のためのノート. ついてのこの対応の違いは, やはり両者を異質なものとしてみる見方によ っているのだろう, 教科 においては, いわゆる 「科学の系統的知識」 を教える学校の意義が強調されたにもか かわらず, 道 徳教育においては系統的な均一の世界観とか徳目の体系を教えることが教師・学校 の責務だと主張 されることはほとんどない。 しかし, 何らかの理想や努力目標やあるべき自己の姿を子 どもが心中 にもたずして彼の道徳的成長がとげられるだろうか。 筆者は疑問である。 なぜなら, 当面の目標 と は (デュ ーイ の言うとおり) 常に次の、 そして次の次の, ……目標に適切なもの が選ばれるはずな のだから, そうした理想がなければ直近の目標の設定に迷いが生じることは避けられないから であ る。. だから, 何らかの理想を子 どもの胸の内に育てることは学校の最も重要な役割だと考えねばなら ない。 そしてその仕事は, 子どもが生活の中で道徳的経験をした際にその都度教えるなどという方 法では, 充足されるとは限らない。 それでは偶然性に期待する教育である, と筆者は考える もち 。 ろん, 特定の教化や説教によ っ て実現されるものでもないが。 徳目は経験を高める道具として用 いるならば有効 である, しかし徳目は経験を通さず教えること はできない, というデューイ の見解は矛盾しているように見える。 道徳教育においてこの矛盾は ど う解決されるべきか。 おそらくそれは, 子どもの直接経験をではなく擬似経験を教師が組織し指導 する方法であろうと考えられるが, 詳細については今後の機会に ゆずる。. 〈注〉 brary 1 ( ) John Dewey,Human Natureand Conduct .26 ,The Modern Li ,1957 ,p fe H l 1 9 6 0 1 t 3 ( 2 ) John Dewey,Theory ofthe MoraILi o .p . , , ( 3 ) Human NatureandConduct .118 ,p bi d 4 ( ) i .p .14 ILi f ( 5 ) Theory ofthe Mora e ,32 ,p ( 6 ) Human Natureand Conduct .150-1 ,pp f ( 7 ) Theory ofthe MoraILi e ,134 ,p bi d 134 ( ) i 8 .p , l l i l d John Dewey t t emsof Men ef e .1971 p ,233 ,Prob ,Li ,Adams & Co Theory ofthe Mora ILi f 1 4 9 e p . ,. ( 9 ) ( l o ) 1 1 ) ( ( 1 2 ). i d bi . p .149 i i l John Dewey t oni ruct n Ph osophy,Beacon Pres s ,Recons .163-4 ,1948 pp E h i 1 ( 1 3 ) John Dewey and Tuf 9 0 8 t t 381 s cs p . , , l 218 ( 1 4 ) Prob emsof Men . ,p ionin Ph i l ( 1 ) Recons t t 5 ruc osophy ,172 ,p 1 2 3 2 { 6 ) Probl emsof Men p . , fe ( 1 ) Theory ofthe MoraILi 7 .145 ,p. bi d ( 1 幻 i ,31 ,p i ( 1 9 ) John Dewey,Theory of Valuat on .47 ,1939p ( 2 0 ) ibid,p.47 inty i ta 吃り John Dewey,The Questfor Cer corn Books ,Capr ・260 ,1960 ,p 2 2 imenta ILog ( ) John Dewey i saysin Exper c r ,Es .368-9 ,Done ,1916 ,pp ionin Ph i losophy ( 2 3 ) Recons t t ruc .166 ,p imenta 4 ) Es ILog i ( 2 seysi n Expe r c .374 ,p 4 d 3 7 ( 2 ) ibi 5 . ,p ILi fe ㈱) Theory ofthe Mora ,6‐7 ,pp 43.
(15) . 若. 原. 直. 樹. t 偶力 Human Natureand Conduc .70 ,p 1 0 ILi fe ⑩ Theory ofthe Mora p ,. 2 t ( 2 9 ウ Human Natureand Conduc .221 ,p d i ,The Free Pres s 焔の john Dewey ・234 ,1966 ,p ,Democracy andE ucaton M IL i f 1 4 1 窃 1 ) Theory ofthe ora e . ,P bi d 鯉) i .141 ,p i 鰹) Eth cs .365 ,p losophy i i t tmc 窮 4 ) Recons onin Ph .169 ,P. 岡 j . デューイ著 杉浦宏訳. 「教育における道徳原理」. 未来社 p .66. 〈参考文献〉 宇佐美 寛 「『道徳』 授業批判」 明治図書 佐伯 畔 「『学び』 の構造」 東洋館出版社 津田道夫 「認識と教育」 三一書房 牧野宇一郎 「デューイ価値観の研究」 東海大学出版会 永野芳夫 「デューイと現代哲学」 春秋社 田浦武雄 「デューイ研究」 福村出版 日本デューイ学会 「デューイ研究」 玉川大学出版部 森 昭 「経験主義の教育原理」 金子書房 j・デューイ, 人と思想」 清水書院 山田英世 「 (本 学助 手・ 旭川 分 校). 44.
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