アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法
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(2) 118 (414). 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). より興味深くエキサイティングなものになる.. de fait)として設立され,1882 年に,主として. この意味で,馬スポーツの主役である馬には,. 戦争で破壊された競馬施設の修復拡張工事や増. 速さ,スタミナ,飛越力など,高いレベルの様々. 加する諸取引上,法人格を取得する必要性が生. な能力が求められる. 競馬施行の目的は, スポー. じたため 「民事的営利組合」 (société civile)と. ツとして,こうしたハイレベルの能力を有する. なった.そ し て 67 年後 の 1949 年 に,奨励協会. 馬同士の競い合いの機会を提供することと,こ. の性格に適した非営利団体の法である 1901 年 7. れらの馬の中から高い資質を持った馬を選び出. 月 1 日法律(以下 1901 年法)の定める「届出ア. して繁殖用馬とし,馬スポーツ全体が不断に求. ソシアシオン」 (association déclarée)としての. める超一流馬の改良,生産に供することであり,. 手続をとった.. この目的は,今も変りはない.したがって,馬. 王の息子たちを初めとする貴族や大ブルジョ. 種改良は常に必要とされているといえる.さら. アやパリ在住の外国人富豪の有志が,1833 年,. に,フランスは,180 年の間に,世界で一級の競. 競馬施行による馬種改良を目的とし,非営利に. 走馬生産輸出国に成長し,世界中の国の競馬厩. して無報酬の結社を設立したのが奨励協会であ. 舎からフランス産競走馬の需要がある.だから,. る.彼らは,地位と財力を持った強力なエリー. 輸出用にフランス産馬の品種改良や増産を行う. ト集団であった.競馬に対する個人的愛着に基. ことは国益に適い,賞金の形でフランスの競馬. づくとはいえ,政府の無策のもとで暗礁に乗り. 事業に「生産奨励」資金が分配されることは正. 上げ,沈没の危機に瀕していたフランス馬産の. 当化されることになる. 「結局,競馬は,今日,. 状況を打開し,競馬による馬種改良によって優. 一般大衆の 2 大欲求に基づいて存在している.. 良馬を作り,社会のニーズに応えたいという使. それは,見事なスポーツ・イヴェントを観賞で. 命に燃えていた. 「いずれにせよ,奨励協会の. きることと大規模で合法的な賭事ができること. 誕生とその活動のあり方は当時の関係者にとっ. である.しかし,競馬は,競馬に必要な優駿の. ては革命的と言えただろう.それは,ナポレオ. 提供なくしては存在できない.ところが,名馬. ンが作り上げた制度に安住して,国民の要請に. といわれるような優駿は,競馬を行うことによっ. 応えられなかった権力機構,即ち馬生産とその. てのみ産みだされるのである.したがって,競. 組織の統轄の二つを独占していた行政当局(農. 走馬の改良を行うことは常に競馬団体の存在理. 務省馬政局と国防省)に対する断固たる挑戦で. 由になると主張できることになるわけである」.. あった」と Pierre Arnoult はその著書3)のなか. 2). で述べている.フランスの競馬と馬生産は奨励 2.奨励協会. 協会というアソシアシオンのおかげで,その後,. フランスの競馬統轄団体で,1995 年に設立. 今日に至るまで,目覚しい発展を遂げた.以下. された駈歩競馬施行団体である届出アソシア. で創設から解散までの約 160 年間に及ぶ足跡を. シオン・フランスギャロ(Association France. 辿り,奨励協会というアソシアシオン活動につ. Galop)の主要母体は,1991 年に解散したフラ. いて考察する4).. ンス馬種改良奨励協会(Association La Société d’Encouragement pour l ’Amélioration des. 第 1 章 フランス馬種改良奨励協会の設立. Races de Chevaux en France 以下奨励協会 La. 1.設立前. Société d’Encouragement )であり,フランス. 伝説の時代はさておき,競馬といえる競技が. の競馬史がそのほとんど全てを負う機構であ. 現れたのは,ルイ 14 世の時代と言われている.. る.同団体は,1833 年に , 現在の法的分類から. 大革命の結果,それまでのようなやり方の競馬. 言えば, 「事実上のアソシアシオン」 (association. は貴族的娯楽として禁止されたが,第一帝政で,.
(3) アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法(真田). (415) 119. ナポレオン一世は,軍隊,農業,輸送などで果. ル制,サラブレッドの定義,フランス生産育成. たす馬の役割の重要さと将来の需要の増大を. サ ラ ブ レッド 馬限定 の 出走資格,行政府(馬. 見越して,馬産を再興し,競馬を国家的事業と. 政局)の定めた国内の地域による出走制限の撤. して行うことを決めた.彼は,競馬が馬種改良. 廃などが定められた.とはいっても,初めて行. のために唯一最高の方法であるという英国の伝. われた 3 日間開催の競馬番組は,国内産サラブ. 統的な考え方を取り入れて,競馬と馬生産を法. レッド の 頭数不足 の た め 1 競走 の み が 純国産. 制化した.英国と異なったのはその改良がサラ. で,止むを得ずほかは外国産馬のレースが組ま. ブレッドに特化しなかった点にある.1805 年 8. れた.ニューマーケット・ルールが採用された.. 月 31 日主要な馬産県における競馬施行を定め. 奨励協会 に よ る 第 1 回競馬開催 は 1834 年 3 月. る 政令 や,1806 年 7 月 4 日,今日 も そ の 形 を. 25 日,商務大臣による新協会の活動の許可,4. 留めて機能している 6 箇所の国立種馬所および. 月 22 日,セーヌ県知事と国防大臣によるシャ. 30 箇所の国立種馬繋養所設立を定める政令を. ン ド マ ル ス の 競馬場使用許可 が あって,1834. 発布 し,1806 年全国的規模 の フ ラ ン ス 産馬限. 年 5 月 4 日に最初の競馬が施行された5).. 定トーナメント方式による競馬施行システムを. ⑶ 声明文(マニフェスト). つくった.この制度は,競馬や馬生産が国家行. 奨励協会の基本的活動原則を示すもので,協. 政機構の枠組みの中で行われることに馴染まな. 会設立理由と目的とその実現手段を明らかにし. かったことなどから永続できなかったが,その. ている.その内容は以下の通りである.. 後のフランスの競馬と馬生産に,中央集権的な. 「行政府(農務省馬政局 と 国防省)の 統轄下. フランス的特色をもたらした.. にあるフランス馬産の現状は,極めて憂慮すべ き状態にあり,社会が必要としている馬資源に. 2.設立(1833 年). ついて,あらゆる馬種が衰退している.それは,. ⑴ コミテ. 各品種の改良に不可欠なサラブレッドの生産に. パリ在住のイギリス人馬主ヘンリー・セイ. 対する奨励策が長い間行われてこなかったこと. マー卿と実業家馬主 J. リューセックは,ルイ・. に起因している.このどん底の状況を打開し,. フィリップ王の息子,ドルレアン公の支援を得. フランスの馬種改良を行うために残されている. て,1833 年 11 月 11 日にパリの「ル・サロン・. 方法は一つしかない.それは,これまで英国の. デュ・ティール・ア・チ ボ リ( le salon du tir. やり方について伝統的な偏見がわが国にはあっ. à Tivoli) 」に 7 名のサラブレッド愛好家を呼び. たが,同国の今日の成功に鑑みれば,これに. 集め,協会設立のため,ドルレアン公を名誉会. 倣って,300 年来,同国内の他の馬種の改良に. 員として含む 13 名からなるコミテ(Comité 代. も大いに貢献してきたサラブレッドを活用し,. 議員会)をつくった.第 1 回目のコミテの会合. 賞金もレース数も増やして,合理的で徹底的な. だけでは不十分であったため,1834 年の 3 月. サラブレッド競馬を施行し,スピードとスタミ. 16 日に再度コミテの会合がもたれ,声明文(マ. ナを備えた優れた繁殖用馬を選び出すこと,選. ニフェスト) ,協会の組織と規約,競馬番組が. び出したサラブレッド繁殖用馬により,諸馬種. 作られた.. の増殖・改良を行うことである.この目的のた. ⑵ 組織と規約の内容. めにフランス馬種改良奨励協会を創設し,活動. 規約には,名誉会員としてのルイ・フィリッ. の資金として,すでに 1 万 5000 フランの寄付. プ 王 の 二人 の 息子(24 歳 と 20 歳)と 12 名 の. 金を創設会員が持ち寄ったが,さらに政府の強. 創設会員の名前,会員の種類,推薦制の入会方. 力な支援を要請する.奨励協会に倣い,フラン. 法,無制限増加可能な会員数,会費, コミッセー. スの社会が必要としている馬種改良を唯一の目.
(4) 120 (416). 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). 的とした非営利組織による競馬が国中で行われ. 年 7 月 1 日法律(以下 1901 年法)によってであ. るようになると奨励協会は確信する.奨励協会. り,奨励協会の創設は,それよりも約 70 年前. はまたあらゆる競馬と生産について生じるトラ. の 1833 年で,結社が刑法上の犯罪として取り. ブルをコミッセール選任制度により自ら裁定し. 締まられていた時代であった.フランス大革命. 解決していくことを宣言する」 .. の結果,絶対王政下で,ギルドが商業及び産業. そして,使命の達成のために,新団体は,そ. の発展を妨げたことや,宗教団体が富の不当な. の存続期間中,協会役員の無償奉仕と馬主およ. 独占を図っていたことに対する反動,とりわけ. び生産者のメセナ(社会貢献・非営利主義)の. フランス革命において大きな役割を果たした政. 2 原則に基づき活動することを宣言した6).. 治クラブの活動を当時の政府が懸念したことな ど,いわゆる「中間団体排除」の思想が,その. 3.1830 年代における馬産の状況. 根底にあったことにより国民とその代表たる政. 奨励協会創設時の 1830 年代,フランスの馬. 府とのみから構成される社会を実現するという. 生産は声明文にあるような状況に実際にあった. 理想を掲げて,団体(結社)の設立や存在を厳. のだろうか.統計資料などは無いが,次の 2 つ. しく制限するため,1791 年,ル・シャプリエ. の著書からその状況を推し量ることができるだ. 法9)が施行され,1810 年に刑法典第 291 条(規. ろう.E. ゲイオによれば,その著書7)より引. 定内容は次項参照)で違法結社罪が定められた.. 用すると,「奨励協会が創設されるまでは,フ. 1804 年に制定された民法典も原則として非営. ランスの馬生産は,深い闇の中に沈んだ状況に. 利団体の成立を歓迎しない建前であったから,. あった.さまざまなテーマや方法には定まった. これに関する明文規定はなく,非営利団体の法. 基礎が何もなかった. それらは互いに食い違い,. 的限定と特質は,1810 年制定の刑法典などの. というよりはむしろ,システムというものが存. 刑罰法規によらざるを得なかった.. 在していなかった.公的な施設や,国立種馬所. ⑵ アソシアシオン規制の緩和. や,極僅かにあった個人の生産牧場ではしきた. しかし,1830 年代の奨励協会が創設される. りや思い付きが支配していた…(以下省略) 」 .. 頃になると,刑法典第 291 条の「宗教・文芸・. 著者,E. ゲイオは,農務省馬総監察官として,. 政治あるいはその外の目的に携わるため毎日ま. 当時のフランス国立種馬所と生産界の実情に通. たはある定められた日に集合することを目的と. じていた人物である.また,ジャーナリストの. した 20 名以上のアソシアシオンは,政府の承. アンリ・リーによれば,その著書8) より引用す. 認をもってしてのみ,また公権力が,意のまま. ると,「それまでのどの政府もなし得なかった. に課する条件においてのみ結成しうる」との定. 改革を,若くて,知的で,革新的な 12 名の若. めは,変わらず存在し,決して法的に警戒が緩. 者が実現しようとしており,あらゆる批判,嘲. められたわけではないが,実態としては,アソ. 弄,攻撃,多かれ少なかれ失敗を期待している. シアシオンが社会にとって存在し続けることの. 様々な反対の包囲網にもめげず,英国の例に倣. 必要性(不可避性)を否定できないことを認め,. い,国の富の一分枝として極めて重要な馬生産 の方向性を決定的にした…(以下省略) 」 . 第 2 章 19 世紀における活動. 「常に法を厳格に適用するのではなく,むしろ 公共の秩序の維持という実践的目的をより効果 的に達成するために,アソシアシオンの種類性 質に応じて個別的に柔軟な対応がなされるよう. 1.事実上のアソシアシオンとして. になった」10).. ⑴ 設立時の結社環境 . ⑶ 設立の合法性 . 結社の自由が法的に認められたのは,1901. 奨励協会の設立については,設立メンバー数.
(5) アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法(真田). (417) 121. が 13 名であり,目的が馬種改良のための競馬. 馬行政への復権を強めていった.馬行政を所管. 施行という非営利事業であったから,政府の存. する農務省からの干渉,肯定的に解釈すれば,. 在を脅かすようなことはなにもなかった.既述. 国民の利益を守るための監督指導は,奨励協会. のようにその活動の許可は,1834 年 3 月 25 日. の創設時から 1991 年の解散時まで続いた.馬. に商務大臣から得ていたことで,全く合法的な. 種改良奨励事業が馬券発売により巨大な経済活. ものであったといえる.. 動に発展し,社会的影響力を持つようになるに. アソシアシオンを護る法制度もない創設時の. つれ,行政指導が必要とされた面も否定できな. 奨励協会は文字通り 「事実上のアソシアシオン」. い.一方で,奨励協会はアソシアシオンとして. として,法人格は認められず,一朝事あれば,. の自主的な活動の自由を求めた11).. 判例は不明確だが,協会構成員は協会の債務に. ⑵ 奨励協会の飛躍的発展. ついて債権者に対し均等分割分の無限責任を負. 第 2 帝政期(1852─1870 年)に入ると,奨励. わなければならなかったはずである.もっとも. 協会は,いまだ事実上のアソシアシオンにすぎ. 当時の構成員は誰をとっても現在の会員とは比. なかったが,ド・モルニイ公を中心とする一大. 較が難しいほどの超富裕な人物ばかりであった. 勢力の強力な支援のもとに磐石の地歩を固めて. ことも確かであるが.アソシアシオンの法人格. いった.土地所有者のフランス・アカデミーか. は,結社の自由を定めた 1901 年法制定により. ら,当時の最大レースであったフランス版ダー. 届出によって具備できることになった.フラン. ビーとオークスを施行するという条件付でシャ. スの馬種を改良するために競馬を施行したいと. ンティイ(Chantilly)の借地権12)を取得し,競. いう市民の有志が自ら資金(トータルで 15,000. 馬場と世界最大の調教場を建設し競馬を施行し. フラ ン) ・事務所・知識・社会的名声や信用を. た.多くのフランスのクラシック競走が創設さ. 出資し,そのうえに,ひろく寄付を募って創設. れたのもこの頃である.1856 年,奨励協会は,. した非営利団体である奨励協会は,どの点から. パリ市からブーローニュの森にある土地を 50. 見てもまさしくアソシアシオンの典型であり,. 年間賃借することに成功し,そこにロンシャン. 70 年後に成立する 1901 年法によって護られる. 競馬場を建設して本部も構えた.1863 年,画. べきアソシアシオンの先駆そのものであったと いえる.. 期的に巨額な賞金額 10 万フランのパリ大賞典 (国際競走)を創設した.このレースの創設は, 奨励協会のパトロンであったド・モルニイ公の. 2.普仏戦争(1870 年)までの活動. 提唱によるもので,同公は,自ら,働きかけて,. ⑴ 所轄官庁間の確執と干渉. パリ市から 5 万フラン,五大鉄道会社から 5 万. 国防省と農務省の 2 省庁間の馬行政を巡る確. フランを賞金資金のための寄付金として集め. 執は,第 2 次世界大戦前夜まで続いた.機械力. た.皇帝ナポレオン三世からは副賞が授与され. が社会で実際に役立てられるようになるまで. た.この競走は,20 世紀に入って,1920 年に. は,陸軍にとっても馬は欠くことのできぬ戦力. 凱旋門賞が創設されるまで奨励協会の看板レー. であったために国防省は馬生産事業に重大な関. スとして,ロンシャンに 10 万人以上の入場者. 心を寄せていた.馬生産は,当時の金額で 200. を集めるヨーロッパ最大のイヴェントに成長し. 万フランという巨額の国家予算がついた国家事. た.フランスのサラブレッド生産も飛躍的にレ. 業であった.. ベルアップし,1865 年にはグラディアトゥー. 一方,奨励協会の創設とその目覚しい発展に. ル(Gladiateur)がイギリス 3 冠レースとパリ. 鳴りを潜めていた農務省馬政局は,時間がたつ. 大賞典を征した.. につれて,徐々に,本来は,自己の管轄である.
(6) 122 (418). 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). ⑶ 障害競馬協会と速歩競馬協会の誕生. を挙げ,一方で,ロンシャン,シャンティイで. スピードだけでなく飛越力のある丈夫な馬の. 競馬を再開して成功した.他の 2 協会もこれに. 愛好家や,国家経済に役立つ速歩作業馬の生産. 倣い,やがて総ての競馬場が平静に戻った.フ. 者たちもそれぞれ専門の競馬を施行したいと強. ランスのサラブレッド事業は,奨励協会のリー. く願った.この要望はこれといった抵抗にもあ. ダーシップのもとで見事に立ち直った.競走賞. わず,奨励協会と同じく非営利団体の競馬協会. 金も大幅に増額できるようになった13).. として,1863 年,障害競馬協会,1864 年,速歩 競馬協会が設立された.サラブレッドよりも雑 種の国産馬の生産を歓迎する政府の奨励方針も. 3.ソシエテ・シヴィル(Société civile 民事上 の組合)への組織変更(1882 年). あって,両競馬ともフランス全土で,盛んに行. ⑴ 経 緯. われるようになった.奨励協会は,新生協会の. 1870─1871 年の普仏戦争により被害を受けた. 誕生とその競馬を,フランスの競馬・生産の規. 競馬場の修復問題は,戦後開かれたコミテの総. 模拡大と内容の充実につながるものとして敵視. 会で,常に主要な検討議題になった.その中で. せず,逆に支援した.. も,競馬 の 中心的舞台 で,1856 年 7 月 1 日 か. ⑷ 馬政局の後退. ら 50 年間(つまり 1906 年 6 月 30 日まで),奨. 農務省馬政局を率いる,偉大な指導者,フル. 励協会が,ブローニュの森の西南端の土地,面. リー将軍 は,宿敵 である奨励協会をはじめと. 積約 57 ヘクタールをパリ市から賃借して開場. する競馬協会の成功・繁栄を冷静に判断して,. したロンシャン競馬場の修復は,最優先の課題. 1866 年 3 月 16 日付デクレにより,競馬に関す. であった.修復工事費は,306,806 フランにの. る馬政局のそれまでの権限を三つの競馬協会に. ぼった.1875 年から 1877 年に,スタンドと貴. 委譲し,これら競馬協会の規約が馬政局の発す. 賓席のリニューアルのための工事が計画された. る法令に代わるものとするという競馬史上画期. が,この工事の許可を求めるためパリ市側と折. 的といわれる決断を下した.以後,馬政局は,. 衝中に,パリ市の担当部長から,奨励協会理事. 1891 年競馬法が制定されるまでは,競馬事業. に対して,政府当局や第三者との関係におい. に独裁的権限を揮うことはせず,政府賞の条件. て,奨励協会が,法的に認められた団体の構成. の決定,競馬番組の監督,不正行為の撲滅など. をとっていないことにより,はなはだしく不都. に専念した.. 合が生じているとの指摘があった.この指摘を. ⑸ 普仏戦争. きっかけとして,コミテは,直ちに,法律顧問. フランスの競馬と生産は,イギリスとは異な. との事前検討を行った後,1882 年 12 月 23 日,. り,1870─71 年,1914─19 年,1939─45 年と3 度の. 会合を開き,全会一致で,以下の通りの決定を. 戦争によってまともに被害を受けた.. 採択した.. 1870─1871 年の普仏戦争中は,競馬開催は中. 「奨励協会 は,1833 年 11 月 11 日以来,単 な. 止された.馬は全て徴用された.徴用された馬. る事実上のアソシアシオンとして活動してきた. は,軍や食肉用(8 万頭屠殺)に使われた.戦. が,団体としては,法的に認められた(法人格. 後の絶望的状況からの復興には,政府は排除さ. のある)存在ではない.今日,奨励協会の活動. れ,非営利の奉仕団体である奨励協会がイニシ. が質量ともに充実するにつれ,不動産の運営や. アティブをとることに期待が寄せられた.それ. 様々な取引行為が増え,これらを実行していく. に応えて,奨励協会は豊富な経験と再建への確. 際に,現在の協会の在り方のせいで,大変な不. 固たる意思をもって,それまで蓄積した全資金. 便が生じている.そこで,本協会は,当局や第. を地方競馬の再興のためにつぎ込み大きな成果. 三者との関係を正常化していくために,奨励協.
(7) アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法(真田). (419) 123. 会に内部的変更を加えることなく法的に認めら. えば,共済組合・競馬組合のごときは,非営利. れた形態の団体を選択する必要がある. それは,. 社団である.若干の非営利社団には,資本利益. 1834 年,当初 の 設立者(創設会員)と 彼 ら が. 団体と名づけられ,法律上彼らのメンバーの金. 彼らの活動に協力するように呼びかけた奨励協. 銭的利益の防衛のために構成されているものが. 会及びセルクル(競馬愛好家クラブ)の会員と. ある」(下線は,引用者による)と林寿二教授. の間に交わされた本来の取決めを反古にするよ. は指摘している15).奨励協会は,まさにこの例. うなことにならず,かつ,半世紀の間,奨励協. にあたるようである.. 会の安定と成功のもとになった組織を正規のも. ⅱ)法人格. のとするための選択である」 .. ソシエテ・シヴィルの法人格については,フ. コ ミ テ は,2 回 の 審議 の 後,ソ シ エ テ・シ. ランス民法典には,当初,これを肯定する明文. ヴィル(Société civile 民事上の組合)となるこ. も否定する明文もなかったが,判例・多数説は. とを議決した.その規約は 1882 年 12 月 23 日. 肯定的立場 を とって い た.特 に,1891 年 2 月. に署名された.この後,1884 年から 1890 年ま. 23 日破毀院審理部判決は,「集団的個体のため. で,368,813 フランが投じられて,スタンドの. にその構成員の利益・権利とは異なる利益・権. 拡張工事や,検量館,人救護所の建設が行われ. 利を創出することは,商事的営利組合と同様,. 14). た .. ソシエテ・シヴィルの本質である.民法典の法. ⑵ ソシエテ・シヴィル(Société civile 民事上. 文(特に(旧)第 1850 条,第 1852 条,第 1867 条,. の組合). 第 1845 条,第 1846 条,第 1847 条,第 1848 条,. 民法典に定められている組合である.営利事. 第 1855 条,第 1859 条)は,構成員間の関係を. 業一般から商行為に関する活動を除く残余の活. 確立するのではなく,構成員を常にソシエテに. 動を目的として,民事一般法の規定により規律. 対する関係におくことで,明示的にソシエテを. さ れ る.1978 年 に なって 大改正 が あった.奨. 擬人化している.ソシエテ・シヴィルは,存続. 励協会は,1882 年から 1949 年までソシエテ・. する限りは法人であり,ソシエテの財産の所有. シヴィルの形態をとっていた.この団体の概要. 者である」と判示し,ソシエテ・シヴィルの法. について以下に略述する.構成員の責任につい. 人格を確定的なものとした.. ては大改正の主要な改正点も記す.. 1978 年の大改正により,登録義務の履行を. ⅰ)定 義. 条件に,ソシエテ・シヴィルの法人格取得は明. 民法典第 1832 条及び第 1833 条により,ソシ. 文を持って規定された.文理上はもとより,法. エテ・シヴィルは,組合員の共同利益の追求の. 人格と公示義務とは密接な関係にあるのだか. ための契約により成立し,そのために彼らは金. ら,公示義務の課されないソシエテ・シヴィル. 銭その他の財産を出資する.ソシエテ・シヴィ. に法人格を認めるべきではないという否定説の. ルは,そ の 結果,出資義務,利益実現の目的,. 主要な根拠は失われたことになる.. 利益分配,損失分担,平等な業務協力といった. ⅲ)構成員の責任. 特色を持つ.人数については,2 人以上で上限. 破毀院 は,1969 年 2 月 6 日民事第三部判決. はない.但し,「ただ,以上の型も理論上の区. で,ソシエテ・シヴィルに対して法人格を,即. 別は比較的容易であるが,実際の適用になると. ち権利義務の帰属主体としての法的能力を認め. 区別が困難である………これら共同体を示すた. ても,対外的な債権者に対する構成員の責任に. めに慣行的に使われている名前だけを信用する. つ い て は,従来 ど お り,民法典(旧)第 1863. ことはできない.彼らはその共同体の本質と合. 条により,ソシエテ・シヴィルの責任と並存す. 致しない名前や形式を使用することがある.例. ると判示した.構成員間の責任負担は,均等分.
(8) 124 (420). 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). 割で無限責任であった. 1978 年 1 月 4 日法の改正により構成員の責 任は,①補充的責任が明文を持って規定された. 4.投機目的の競馬会社と競馬賭事の氾濫及び これらの規制 ⑴ 投機目的の競馬会社. (民法典第 1858 条)②均等分割分の責任が出資. 1880 年代後半 ま で,競馬 は 終始,成長拡大. に比例した分割責任に修正された③無限責任が. していったが,その繁栄のなかで,競馬賭事と. 維持された.. レース前に馬の値段を決め,レース後の競売額. ⅳ)資 本. との差額を主催者の収入とする売却レースの施. 民法典第 1845─1 条は, 「組合財産は,均等な. 行によって,競馬を営利追及の手段とする者た. 価値を有する組合持分に分割される」 と定める.. ちが現れた.彼等は,パリ近郊のあちこちに競. この分割は,損失に対する分担義務も意味する.. 馬会社をつくり,日ごとに事業規模を拡大する. 組合財産の増額は,規約に定めた多数決の基準. ようになった.そのなかには,賭けの主催者と. に従って,総組合員の合意をもって可能となる.. 好ましくない関係を持って営業する者も現わ. 持分の譲渡は,原則として,組合員全員の承認. れ,政府は健全な公衆モラルの維持の面から憂. を必要とする(民法典第 1861 条) .. 慮するようになった.奨励協会は,これらの営. ⅴ)運 営. 利目的 の 競馬会社 に 対 し て,1879 年,協会 の. 組合は,一人ないしは数名の構成員または非. 発行する公式会報への彼らの競馬番組の掲載を. 構成員,自然人または法人により運営すること. 拒否し,彼らの主催した競馬に出走した馬を失. ができる.運営・管理は,自己の名前で,自ら. 格処分にした.これらの措置は奨励協会の競. が業務執行者であるかのように条件や義務に従. 馬からの締め出しには効果があったが,障害. い業務を執行する.業務執行者は,ソシエテに. 競馬協会やその他の協会の競馬と競馬営利会. 対し連帯して責任を負う(民法典第 1847 条) .. 社の競馬間の馬の往来は阻止することはでき. 業務執行者は,規約に別段の定めがある場合を. なかった16).. 除き,ソシエテ財産の過半数を代表する構成員. ⑵ 競馬賭事と規制. の決定により,解任される (民法典第 1851 条) .. 一方,競馬賭事 は,1833 年 に 奨励協会 が 設. 業務執行者は,1 年に 1 回以上,当該年度ある. 立される前は,イギリスで盛んであったように,. いは前年度の損益額も示した総活動状況報告書. しばしば,競馬で対決する馬主の間でおこなわ. を作成しなければならない (民法典第 1856 条) .. れていた.協会設立後競馬が定期的に開催され. ⅵ)構成員の持分. るようになると,当時パリや地方都市で盛んで. その譲渡は商業登記簿に公示されなければな. あった他の賭事なみに,メンバー間だけでなく,. らない.原則として,持分の譲渡は,組合員全. 一般市民の間にも広まった.これは,競馬が賭. 員の同意がなければならない.しかしながら,. けによって大衆化されたことも意味したが,一. 規約に,業務執行者の承認や過半数の合意があ. 方では,賭事の氾濫を抑制するために,奨励協. れば譲渡を可能とすることも出来る(民法典第. 会が創設された 3 年後,1836 年に,フランス. 1861 条) .構成員からの全面離脱あるいは一部. の賭事の歴史にとって重要な意味をもつとされ. 離脱については,規約によって定められる.現. ている以下の富くじ禁止に関する法律(一部抜. 物財産の分与や現物の出資物の回収が生じる. 粋)が制定された.. が,第三者の権利を害することはできない.解. ⅰ)富くじ禁止に関する法律と競馬賭事. 散が決定されると,ソシエテ・シヴィルは,清. 1924 年と 1994 年に改正された富くじ禁止に. 算人を任命する.清算人は,財産の分割を行う.. 関する 1836 年 5 月 21 日法律訳 第 1 条 あらゆる種類の富くじは禁止される..
(9) アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法(真田). (421) 125. 第 2 条 以下のものは,富くじと看做し,禁. もう一つは賭け手が勝ち馬を予想選択できるも. 止される.すなわち,くじ引きによ. の(パリミュチュエル le Pari Mutuel とブック. り行われる不動産,動産,商品の販. メーカー賭け)とがあった.パリミュチュエル. 売,又は全面的か部分的かにかかわ. は今日行われているのと同じであり,ブック. らず,偶然に基づく景品その他の利. メーカー賭けは,賭け手に馬の選択権はあるが. 得とが結びついている販売及び一般. 配当率はブックメーカー(Bookmaker)と呼ば. 的に名称のいかんにかかわらず,く. れ る 胴元 の 提示 に よ る パ リ・ア・ラ・コット. じ引きによって利得が得られるもの. ( le pari à la cote),パ リ・オ・リーブ ル( le. との期待を生ぜしめるために公衆に. pari au livre)との 2 種類があった. . 提供される総ての活動. ⅱ)取締りと裁判所の判断. 第 3 条,第 4 条省略. 検察庁は,富くじ禁止に関する 1836 年法に. 第 5 条 第 1 条及び第 2 条の規定は,慈善活. 基づき,過熱化したプルとパリミュチュエルを. 動,芸術の振興及び非営利のスポー. 取り締まるために,それらの事業所を起訴し,. ツ活動の財政支援のみを目的として. プルは 1869 年,パリミュチュエルは 1875 年に. 行われる動産を対象とした富くじに. それぞれ,運任せの勝負事である富くじの一種. は適用されない.ただし,国務院の. と看做す破毀院判決が下され,禁止された.(パ. デクレの定める形式で許可されたも. リ ミュチュエ ル に 対 し て は,破毀院 は,1869. のに限られる.. 年判決では富くじではないとしたが,1875 年 判決では量の増加に伴い合法非合法の区別が付. 現在では,1994 年に改正されたフランスの. けにくいことを理由として富くじと看做した).. 新刑法典には賭事を禁止する規定はない.. しかし,ブックメーカー賭けについては,それ. それまで定めていた賭博罪を削除し,この時. ほど普及していなかったのと,スタンドにいて. 点で,すでにあった 2 つの法律,賭博に関する. 情報に通じ,確実な知識に基づいて賭ける能力. 法 律( Loi du 12 juillet 1983 relative aux jeux. を持った顧客を相手に商売していると一括して. de hasard)と上記の富くじ禁止に関する法律. 言えるので,1875 年に破毀院は,運まかせの. ( Loi du 21 mai 1836 portant prohibition des. 勝負事ではないと判決を下した.こうして,競. lotteries)に規制を移管したからである.大革. 馬協会と公的権力により,競馬場での営業を認. 命以降, パリや地方都市では競馬賭事のほかに,. められたブックメーカーは,莫大な利益を上げ. 様々な賭事が盛んに行われ,賭事にまつわる悪. るようになり,しだいに場内で乱立・氾濫して,. 徳や犯罪が著しく増加した.都市を浄化するた. 不正取引も公然と行うようになった.彼らの行. めに制定されたこれらの法律によって, 「あら. 為のいっさいと一線を画していた奨励協会は,. ゆる種類の富くじ」は禁止された.それは,富. パリ市議会とともに,ブックメーカーの完全禁. くじに限らず,公然に行われるゲーミング一般. 止を政府に要請し,それが容れられて,ブック. の禁止を意味するものとして理解されていた. メーカーは,競馬場から追放された.しかし,. が,多くの例外も認められた.いずれにせよ,. その結果,競馬場の入場料収入が激減し,競馬. この法律は,フランスの競馬賭事と奨励協会の. 協会の運営が立ち行かなくなる状況を招来する. 発展にとって後々,大きな影響を及ぼすことに. ことになった.速やかに賭けを復活させる必要. なる. . が生じた.. 当時の競馬賭事には,一つは,富くじと同じ. 1836 年の富くじ禁止法第 5 条(既掲)は,慈. ような運任せの勝負事であるプル(la poule)と,. 善行為と諸技術の奨励を目的とする場合の富く.
(10) 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). 126 (422). じは許可していたので,同規定に基づき,1887. た行為は絶対に禁止する.この我々の規定を受. 年にデクレが出され,奨励協会と他の主要競馬. け入れない競馬場は,失格とする』と定めてい. 協会の行う場内パリミュチュエルは,富くじと. る」とリオットー下院議員は述べた18).. 看做し,賭金の総額から,貧民救済事業のため. 以下,競馬の認可および運営とパリミュチュ. に 2% を徴収されるという条件で実施が認めら. エル賭事を統制するための 1891 年 6 月 2 日法. れた.この措置により,競馬協会の財政状況は. の一部抜粋19)を揚げる.. 瞬く間に改善した.. 第 1 条 いかなる競馬場も,農務大臣の事前の. 競馬場から追放されたブックメーカーは,勝. 許可なくして開設することはできな. 手に,協会の行う場内パリミュチュエルの代理. い.. 業者としてパリ市内に店を出し,競馬場に行け. 第 2 条 馬種改良という目的のためにのみ行う. ない客の賭けを受けるようになり,再び不正に. 競馬で規約が農務大臣の承認を得た協. 財を成した.1890 年,内務大臣は彼らを起訴. 会が施行するものに限り許可される.. したが,裁判所は,一律有罪とする判決を下さ. これらの協会は,とりわけ,競馬施行. な かった た め,1891 年,内務大臣 は,競馬場. という方法で,競馬と馬生産の分野の. 内でのパリミュチュエルの無条件禁止令を出し. 育成及び農業の開発のために,馬種の. た.その結果,賭けのできなくなった競馬場の. 改良と馬生産の振興という公役務に参. 入場料収入は 36% も減少し,政府のやり方に. 加する.. 対して多方面の関係者と市会議員から猛烈な反 対の声が巻き起こった . 17). 駆歩及び速歩競馬のそれぞれに,競馬 協会 1 団体が統轄協会として認可され る.. 5.1891 年 6 月 2 日法. 統轄協会は,各自の専門の競馬全体に. ⑴ 法律の内容. ついて責任を履行する.統轄協会は,. ドヴェル農務大臣は,この問題の抜本的解決. とりわけ,それぞれの競馬の施行規程. をはかるために,1891 年 3 月 12 日に,競馬機. 集の案を提示して監督当局の承認を求. 構そのものの根本的再組織を企図した法案を提. め,規程中に定められた諸々の許可を. 出した.激しい議論が戦わされた後,6 月 2 日. 行い,薬物治療の監督による競馬の遵. に,今日でもなお競馬の基本法として機能して. 法性 と 馬 の 生産,調教 を 監視 し,生. いる以下の法律が成立した.しかし,この法律. 産賞の交付を行う.統轄協会に課され. の制定の基本的なコンセプトは,1891 年の法. る公役務の履行義務及びその関与方法. 案審議 の 際 に,法案 の 報告説明者 と なった エ ミール・リオットー下院議員が議会で指摘した. は,デクレにより定められる. 第 4 条 いかなる場所,いかなる方法でも,何. ように,奨励協会のあり方にあったことは明ら. 人も,競馬賭事の,受理を申し出たり. かである.. 受理した者は,それが直接であれ,仲. 「奨励協会(のあり方)を取り上げて見よう.. 介によるものであれ,3 年の懲役刑と. この協会に反対できることはなにもない.皆様. 9 万ユーロの罰金刑を科される.違反. の判断に委ねられたこの法案の基は奨励協会の. が,組織的な集団によって犯された場. 規約の根幹条項の一つと同じである.それは競. 合 は,7 年 の 懲役刑 と 20 万 ユーロ の. 馬協会が利益追求を目的として競馬を施行した. 罰金刑が科される.違反を犯した自然. り,競馬に関して投機を行うことを認めないと. 人は,同じく,以下の補充刑を科され. いうことを定めている.奨励協会は, 『そうし. る.1 公民権および,私法上,家族法.
(11) アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法(真田). (423) 127. 上の諸権利の停止,2 犯行のために使. 律であり,同年 7 月 11 日付デクレでこの条項. 用された動産・不動産の没収,施設の. の実施が認められた.場外馬券発売機構(Pari. 活動停止…. 以下省略.. Mutuel Urbain PMU)の創設である.当時,ブッ. 第 5 条 第 2 条の要件を満たす競馬協会は,農. クメーカーたちは競馬協会の競馬に便乗して非. 務大臣から,いつでも取り消すことの. 合法場外パリミュチュエルを秘密裏に行い,大. 出来る特別認可を得て,法定控除を納. 流行させていた.この制度は,その対抗措置と. 付することによりパリミュチュエル馬. して創設されたものであった.. 券を発売することができる.以下省略. 第 3 章 20 世紀前半における活動. 第 1 条および第 2 条は,馬種改良を唯一の目. 1.農務省による監督・指揮権の復活. 的とする競馬を施行する競馬協会の役割を規定. ⑴ 1902 年 12 月 16 日付農務大臣書簡. し(第 2 条のこれらの協会は…以下は 2010 年. 1891 年 6 月 2 日法 は,非営利団体 で あ る 競. 5 月 12 日法により追加) ,第 4 条は競馬を対象. 馬協会にのみパリミュチュエル競馬賭事の実施. とするあらゆる賭けを無条件に禁止して違反者. を認めた.その結果,第 1 次世界大戦前(1914. 及びその共犯者に刑罰を科している. 第 5 条は,. 年)までは,馬券から得られる資金のおかげで. その例外を定める規定で,農林大臣の特別認可. 競馬・生産事業は順調に年々拡大発展していっ. (不断 に 撤回可能)と,法定控除(2010 年 5 月. た.. 12 日法による改正前の条文の文言は地域の慈. 農務省は,この法律に基づき,投機目的の営. 善事業ならびに馬生産のための一定控除)を行. 利会社の再来や違法賭事の発生の防止,競馬施. うという条件で,諸競馬協会が,みずからの競. 行面の適正化を確保をするために,躍進する競. 馬場でパリミュチュエル賭事を行うことを認め. 馬協会に対して再び,監督指導権を行使するこ. ている.その代わりに,競馬協会は,規約につ. とを決めた.. いて農務大臣の承認を受け,予算と決算報告に. 奨励協会に残る 1902 年 12 月 16 日付けのレ. ついて県知事の承認を得なければならない.こ. オン・ムージョ農務大臣からプランス・ダラン. のように定める 1891 年 6 月 2 日法の規制下に. ベール 奨励協会会長 に 宛 て た 書簡20)に は,農. 競馬パリミュチュエル賭事は合法化されたので. 務省の監督指揮権を復活する明白な意向と具体. あり,それは今日も変わりない.. 的な指示事項(理事の承認,協会会合への代表. ⑵ 意 義. 派遣,役員会への馬主代表の参加指示,競馬番. この法律は政府の競馬事業にたいするはっき. 組の承認)が伝えられている.. りとした統制権の根拠を与え,その後の競馬協. この書簡で言及された総ての事項は実施さ. 会に対する厳しい監督指導の端緒となった.奨. れた.特に役員会の構成については,協会は,. 励協会は,20 世紀に入ってからの政府の締め. ジョッキークラブ会員からしか構成員を補充し. 付けとは比べ物にならないほど緩いその統制. なかったそれまでのやり方を改め,農務大臣の. の中で,本法律により,活動のもとになる資. 意向に従って外部から 6 名の補佐役を指名し,. 金捻出の最高の方法であるパリミュチュエル. 創設会員と共に,協会の一般利益について審議. 馬券発売 を 公認 さ れ,発展 の 本格的 な ス ター. させることを決めた.農務省の意向は,競馬に. トを切った.さらに,1930 年 4 月 16 日財務法. 出場する競走馬は,協会会員の所有馬に限られ. 第 186 条がこの法律を補足するために制定され. ないので,会員以外の馬主の意見も反映された. た.パリの諸競馬協会の共同事業として,場外. 運営がなされるべきという点にあった.. パリミュチュエルの実施を排他的に許可する法. 農務省は,同じ年に,省令により,コミッセー.
(12) 128 (424). 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). ル(競馬理事)の選任についても農務大臣の承. ともできる競馬開催の続行をフランス政府と,. 認を義務づけ,また,常設競馬諮問委員会を設. 後にはドイツ占領軍当局に認めさせた点であ. けて競馬の諸問題について答申を受けられるよ. る.この縮小番組は,パリの競馬協会 5 団体の. うにして指導監督を容易化する措置をとった.. 完全な合意の下に編成され,実施された.1940. . 年に行われた軍馬の調達や徴用の後,1942 年. 2.二度の大戦による被害. には,飼料供給量が減り,馬の頭数が削減され. 奨励協会は,創立以来,3 つの戦争から甚大. た.競走馬には人と同じように飼料の配給手帳. な 被害 を 被った.1 番目 の 普仏戦争 に つ い て. 制が敷かれた.ナチス占領軍は常に解決の難し. は,すでに記述した.以下に 20 世紀に入って. い問題を起した.それらの問題とは,良質馬の. 起きた 2 つの世界大戦による被害について略. 徴発と拉致,外国人と人種に対する差別法の施. 述する21).. 行,強制労働などであった.奨励協会は,これ. ⑴ 第 1 次世界大戦(1914 年―1918 年). らの難問をひとつひとつ,被害者にとってより. 1891 年 6 月 2 日法 の 制定以降,1914 年 の 第. 有利な結果になるように解決していった.. 1 次世界大戦勃発 ま で の 20 年間,競馬 に とっ. ドイツ軍がフランス国外に持ち去った馬は,. ては,ベル・エポックと呼ばれるよき時代が. 1940 年 6 月から 1941 年末までに血統馬 700 頭. 続いた.第 1 次世界大戦が始まると,競馬開催. を数えたが,農務省は,賢明にも,これらの馬. は,1914 年 7 月末から 1919 年 5 月 15 日まで中. の血統記録までは手渡さず保管していたので,. 止となった.しかし,この期間の最後の 2 年に. 戦争の終結にともない返還された馬たちの個体. ついては,奨励協会は,パリにあったほかの競. 識別が困難になることはなかった.ナチスドイ. 馬協会の協力を得て,農務大臣の許可のもとに,. ツによる人種差別法や外国人差別法が適用され. 地方の競馬場で,観客も賭けもない能力検定競. ることについては,厩舎や牧場の事業を奨励協. 走を実施した.3 年間にわたり実施したこの競. 会の支援で再開した馬主と生産者の勇気のおか. 馬のために奨励協会は,約 200 万フランの資金. げで回避することができた.また,ドイツでの. を費やした.この資金は,コミテのメンバーの. 強制労働についても,労働監督局に対する粘り. 拠出 に 頼 る し か な かった.戦後,競馬 は 1919. 強い陳情が功を奏して,競馬界の職員全員が,. 年 5 月から再開され,人気はすぐに回復した.. これを逃れることができた.. 奨励協会は,競馬番組の国際化を実行し,1920. この戦争では,パリの競馬協会と全国連合会. 年,当時世界最大規模の国際競走,凱旋門賞を. が連携行動をとれたことに加えて政府の理解が. 創設し,夏のドーヴィル開催には外国馬の出走. 得られたことが競馬と馬産にとって最も困難な. も認めた.戦後のフランスの競馬と馬生産は,. 時期を乗り切り生き残れた所以である.. 新たな発展を示したが,それも束の間,1930 年. しかし,馬産地ノルマンジーの牧場は深刻な. から 1933 年にかけて世界的な経済恐慌が起こ. 被害を被った.そのために 1940 年代の馬生産. り,競馬場にも深刻な打撃をもたらした.三大. 頭数は激減した(サラブレッドの生産頭数で見. 協会は積立金を取り崩してこの危機を凌いだ.. ると,1930 年に 2580 頭であったものが,1942. ⑵ 第 2 次世界大戦(1939 年―1945 年). 年には 930 頭に減少した).. この戦争については,先の 2 つの戦争とは競 馬と馬産に与えた影響は異なっている.なによ りも,1914─1918 年の戦争体験により,奨励協. 第 4 章 20 世紀後半における活動と解散に至る 経緯. 会は,全国連合会をリードして,開催規模を縮. 1.パリミュチュエル競馬の成功と競馬の国際化. 小した競馬番組を編成し,観客が馬券を買うこ. 1947 年 11 月,競馬は再開された.パリミュ.
(13) アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法(真田). (425) 129. チュエルの収益のおかげで競馬は急速に復旧し. 門賞競走の行われる 10 月初頭にパリで開催さ. た.生産界の立ち直りも速く,戦後のフランス. れている.. 産遠征馬は,英国競馬を席捲した.英国ジョッ キークラブは,外国産馬に鎖国政策をとってい. 2.届出アソシアシオンへの組織変更. る奨励協会にレースの解放を求め,相互乗り入. ⑴ 経 緯. れの要求が容れられない場合は英国競馬からフ. 後に奨励協会会長を務めることになった(1960. ランス産馬を締め出すと通告してきた.フラン. 年─1975 年)マ ル セ ル・ブーサック は,1946 年. ス競馬の国際化の夜明けとでも言える出来事で. の代議員会で,時代に即した奨励協会の組織改. あった.. 革の必要性を強く主張したために,活発な議論. 馬主生産者で奨励協会の代議員会員であった. が協会内で戦わされることになった.1948 年 11. 繊維業界の大立者,マルセル・ブーサック氏は. 月 10 日,議論を総括して,ブーサック案とオッ. 粘り強く国内生産を保護すると同時に競馬を国. カール伯爵他 2 名の委員の案との改革案 2 案が. 際化して充実させるという自論を主張し,それ. 委員会で採決にかけられることになった.ブー. が通って,奨励協会主導により,競馬基金が創. サック案の主張は,概ね以下の通りであった.. 設された.外国産馬の地方の弱小レース参加は. 「全員がこれまで同じ考え方をしている委員. 認めず,パリの競馬の重賞競走には賞金を加増. の無報酬制は堅持するが,協会の事業規模の拡. して外国産馬や外国調教遠征馬の出走を歓迎し. 大発展に伴い,委員による運営の安全確保のた. た.また,馬主の国籍は問わないフランス産馬. めに,その主たる業務は競馬開催日の裁決業務. 生産者賞とフランス産馬馬主賞が設けられた.. に限定し,あわせて任期を短縮(3 年)して責. これらは,国内生産の保護奨励と同時に外国. 任の軽減化を図る.それは,同時に,求人難が. 人のフランス競馬参加を定着させるという両方. 予想できる近い将来の後任者選びを容易にす. を狙った政策であった.競馬協会の独占営業の. る.奨励協会の団体としての法的形態を変更し,. 下で,1954 年から発売したティエルセ馬券(三. メンバーの責任を限定的なものとする」であっ. 連勝式場外馬券)などにより大成功を収めてい. た.一般的管理運営は,競馬の専門家である必. たパリミュチュエルからの潤沢な資金供給によ. 要のない事務管理能力に長けた者で,技術的な. るフランス競馬の高額な交付賞金目当てに外国. 面は専門の補佐役を使ってカバーできる有給の. 馬が殺到し,フランスは一躍世界の競馬の中心. 業務執行者 directeur général を 置 い て 実務 を. になった.. 一任することを彼は主張した.ブーサック案は,. 人馬の交流が活発化するにつれて,これをス. 具体的には,奨励協会の民事組合形態をやめる. ムースに行うために,各国の競馬ルールの相違. こと,12 名の委員で構成する専門委員会に経. の調整とそれをまとめて国際ルールに作るため. 営を委託することにあった.. の国際機関および国際会議の設置が必要になっ. 一方,3 名の委員たちの主張する改革案は,. た.奨励協会は,議長国と常設事務局を引き受. 奨励協会の民事組合形態を届出アソシアシオン. けて,そのイニシアティブをとり,1967 年第. とすることと委員会の構成メンバーの変更につ. 1 回パリ国際競馬会議(現在の国際競馬統轄機. いてはブーサック案と同じであるが,運営管理. 関会議)を 開催 し,1991 年 に は,日本 も ふ く. 方法については意見を異にし,それらは,協会. めて 50 カ国が調印加盟した 25 条からなる血統. にフルタイムで奉仕できる委員たちがすべて自. 書,競馬施行規定,競馬番組,禁止薬物取締り,. ら行うべきであると主張して役割の軽減化に反. 衛生問題について定めた競馬国際協約が締結さ. 対した.. れた.この国際会議は現在も,毎年 1 回,凱旋. 合意は,結局,規約改正の必要性についてし.
(14) 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). 130 (426). か成立しなかった.フランスの組合は,それが. の契約,目的の非営利性(構成員に対する利益. 民事上の組合であっても,元来が営利を目的と. 分配の欠如と不存在),知識又は活動の出資の. しており,非営利を原則とする奨励協会には適. 存在,結合の永続性を不可欠とする団体である.. 切でなかった.さらに,例えば協会が赤字運営. そして,届出アソシアシオンの,それまで協. になった場合,民法典第 1857 条により組合員. 会が選択してきた団体形態で,第 2 章の 3(2). は,組合の負債について,第三者に対して,請. に既述の民事的営利組合(societe civile)との. 求可能となる日又は支払いの停止の日における. 大きな相違点は,実体は別にして,目的が営利. 組合資本中のその持分に比例して,無限に責任. か非営利か,つまり,構成員が財産的に利益を. を負うと定められていて,コミテメンバーの個. 図るために出資し,その活動の結果として生じ. 人財産にまで責任が及ぶことになっていた.既. た利益と損失の分配を行うかどうかにある.. 述のように,もともとは,事実上のアソシアシ. ⅱ)届出と効果. オンとして存在していた奨励協会が,契約締結. 結社契約締結後,目的,構成,運営,財源な. などを行う際に,法人格を有する必要に迫られ. どの定めを内容とする規約を起草し,1901 年. たが,ほかに適切な選択肢のない 19 世紀後半. 法第 5 条に定められた手続に従って,設立者に. の 団体法制度 の 下 で,1882 年 12 月 22 日,ソ. よって,本部のある県庁(パリ市の場合は,警. シエテ・シヴィル(この概念については前述の. 視庁)に届出すれば,受理証が与えられ,法人. p. 9─11 参照)をとることが選択されたもので. 格を取得する.. あった.. 届出は義務ではないが,届出の効果は,法人. かくして,1949 年 5 月 23 日,奨励協会は,2. 格の取得という点にあり,即ち,アソシアシオ. 回目の審議において全会一致を以って,それま. ンは,これにより自己の名において責任を負い,. での民事組合規約を 1901 年法に定める届出ア. とくに契約や訴訟を行うことができるようにな. ソシアシオンの規約に改正する規約案を採択す. る.しかしながら,届出アソシアシオンの法的. ることを票決し,8 月 16 日に警視庁への届出. 能力には制約がある.第一に,定款で定めた団. を 完了 し た.官報掲載 は,9 月 8 日 で あった.. 体の目的の範囲内でしか行為できない.第二に,. またこの時に,ジョッキークラブ出身者ではな. 完全な能力を享受する公益性を承認されたアソ. い者のコミテ入会枠を,規約を改正して,8 名. シアシオンの能力に比べて限定される.1901. 以上 12 名以下から 12 名以上 16 名以下(全体. 年法第 6 条は,届出アソシアシオンは,特別の. は 36 名,1961 年には 38 名中 19 名になる)に. 許可も要らず,訴訟行為をし,手渡贈与や公共. 拡 げ た.1949 年 12 月 20 日 に は,規約 に 合致. 機関給付の助成金を取得し,会員から会費を徴. した新しい内規が制定された.この内規には,. 収し,運営管理のため,あるいは,会員の会合. 旧財政委員会を包含する専門委員会の設置が定. のため使用する事務所,団体の目的達成に必要. められ,コミテに提出される会計報告の監督を. な建物を有償取得し,占有し,管理できると定. 行うこと,業務監査は協会専任の監査役が行う. める.反面,慈善・支援・科学と医学研究以外. ことが定められた .1948 年から 1959 年の間,. は,贈与や遺贈を受けることはできない.. 1952 年を除き赤字を計上する年はなかった.. ⅲ)構成員の責任. ⑵ 届出アソシアシオンについて. 1901 年法はアソシアシオン債権者に対する. ⅰ)基本的要素. 構成員の責任に関してはなんらの規定も設けて. アソシアシオンは,それまでの判例理論に準. いない.学説は,法人格を有することによって,. 拠して制定されたとみられる 1901 年 7 月 1 日. アソシアシオンは,その債権者にたいして,自. 法によれば,その基本的要素を,複数の構成員. ら責任を負い,構成員は規約で自ら定めた限度. 22).
(15) アソシアシオンとしてのフランス馬種改良奨励協会の足跡と団体法(真田). (427) 131. (多くは分担金の範囲内)でのみ責任を負う.. 度も犯行を繰り返すことが出来た.そして,ア. つまり有限責任を認める…. 判例も同じ見解を. バチュ賞事件の第一審が行われた 1969 年 3 月. 23). 取っている .. 27 日 に は,主犯 の パ ト リッス・デ・ムーティ スは,すでに自殺していた.裁判所は,一,二. 3.運営方法の変更. 審とも,共犯者に有罪判決を下した.破毀院も,. 1960 年 12 月 5 日,アソシアシオン奨励協会. 「デ・ムーティスは,PMU に対してではなく,. は運営方法の変更を行った.それは,経営と競. 馬券を買ったファン全体に損害を与えた」と判. 馬規則及び競馬裁定にかかわる問題の部門とを. 示して,被告側上告を棄却した.これら 5 件の. 分けたことであった.後者の仕事は,しだいに. 犯罪は,競馬の社会的信用を著しく損なうもの. 重要性を増して,コミッセール(理事)の選任. となった.ジャーナリズムの偏向もあり,競馬. が要請されるようになったためである.一方,. と賭事に無関心・無知な人々は,デ・ムーティ. 経営については,コミッセール全員とコミテか. スが,馬券ファンの味方であると信じ込むよう. ら 4 ないし 6 名の会員が選ばれて構成される経. な状況にさえなった24).. 営理事会が担当することになった.同理事会は. ⑵ 1974 年 11 月 14 日付 デ ク レ の 内容 と 競馬. コミテ会長が主催した.この時から,協会の実. 界の反論. 務的 な 仕事 は,1 名 の directeur général の 協. 農務省は,パリミュチュエル賭事の過熱が生. 力を受けて行われるようになった.. んだともいえ,世論の大きな関心の的になった. コミテは,そのすべての権限を掌握した.任. 上記(1)のティエルセ馬券事件などを契機に. 名,競馬施行規程集 や 競馬番組 の 決定,予算,. 競馬に対する監督統制の一段強化を図るため. 決算の承認,工事の許可など.この体制は,協. 1974 年 11 月 14 日,以下の内容のデクレを公. 会の業務の増大につれて対応力を発揮した.会. 布した.. 長は, もはや,単なるコミテの司会者ではなく,. ⅰ)1974 年 11 月 14 日付デクレの内容. 経営の実権を握る者となった.初代会長にはマ. a. 競馬協会の規約は,農務大臣による 1 年ごと. ルセル・ブーサック氏が就任し,その後,1991. の,いつでも取り消しうる認可を要する.. 年の奨励協会の解散にいたるまでこの体制は維. b. 協会 の 会合 は,農務省 に 事前 に 通知 し,馬. 持された. . 政局から要望があればその問題を議事日程 に 加 え,馬政局代表 は,い ず れ の 会合 に も. 4.農務省による監督統制の強化. 出席でき,議題に関係ある会員は出席でき. ⑴ ティエルセ馬券事件. ない.. 1962 年 12 月 9 日,ヴァンサンヌ競馬場で施 行されたボルドー賞で上位 3 着までに入着しな. c. 役員の任命は,内務大臣の同意を得たうえ, 農務大臣の許可を必要とする.. いように出走馬の騎手を買収し,買収しなかっ. d. 共同基金管理 や 競馬 の 活動 の 全国的 あ る い. た騎手の馬の組み合わせでティエルセ(三連勝. は 地域的調整 を 行 う 競馬協会全国連合会 や. 式)馬券を大量購入して巨額の配当金を詐取す. 地域連合会 の 設立,規約 は 農務大臣 の 同意. るという事件が発覚した.犯人には,裁判所に. を要する.. より詐欺罪の有罪判決が宣告された.しかし, この事件は,1962 年の犯行から 1974 年の破毀 院判決までに,12 年 10 ヶ月かかった.その間,. e. 競馬日程および,競馬施行規程は,農務大臣 の承認を必要とする. f . 政府の諮問する競馬諸問題に答申を行うため. 詐欺の首謀者は,1973 年 12 月 9 日のオートー. に農務省,内務省,財務省,競馬各界の 30 人. ユで施行されたブリット・アバチュ賞まで,幾. の代表からなる競馬諮問委員会を設置する..
(16) 132 (428). 横浜国際社会科学研究 第 18 巻第 4・5 号(2014 年 1 月). ⅱ)競馬界の反論. には馬券の総売上の 60% を占めたティエルセ. このデクレに対して,ユベール・ド・ショー. 馬券の発売も協会間の調整でその回数や日程を. ドネ奨励協会会長をはじめ競馬界の人々は,そ. 決めることが認められてきたからである25).. の問題点を指摘して強く反発した.かれらの批. ⑶ デ クレに基づくティエルセ発売制限の通告. 判は以下の通りである.. と競馬界の反応. 先ず,デクレの法的な問題点として,本デク. 農務大臣クリスチャン・ボネは,1975 年 11. レ は,憲法,1891 年 6 月 2 日(競馬)法,1901. 月 27 日付けで奨励協会会長及び全会員宛てに. 年 7 月 1 日(アソシアシオン)法にそれぞれ違. 書簡により以下のように通告した.. 反している.なぜならば,競馬協会は,全員,. 「……. 予算案作成に際し,実施を希望する競. アソシアシオンなので,基本的に 1901 年 7 月 1. 馬協会全員がその配分に合意できるようにする. 日法のみに規制される.もちろん,競馬協会は. ために,希望する年間のティエルセ実施回数案. 1891 年法 の 適用対象 で は あ る が,同法律 は 競. を,毎年十分な時間を取って行政当局に連絡し. 馬協会に対し,活動の許可申請,予算・決算書. てください.1976 年度については,すでにジャ. の提出といった外部的な義務を課すものであっ. ン・ロマネ事務局長に連絡したとおり,ティエ. て,1901 年法にのみ規制される内部組織に関す. ルセ施行回数は 91 とすることに決定したこと. ること (役員の任命,競馬日程,施行規定の改廃). を通知します.1976 年度の許可をお伝えする. に干渉することは認められない.よって,デク. のに必要なため,この数字を基に施行を希望す. レは,われわれ競馬協会にたいしてアソシアシ. る協会間の配分をお知らせください.根本的な. オン(結社)の自由を侵害するものである.. 社会道徳 の 健全維持 の た め に,す で に 何度 か. 次に競馬面での問題点として, 第一は, コミッ. 話し合いをさせていただきましたが,これまで. セ-ル(競馬開催理事)は,デクレによれば,. のようにはいかなくなったので,ティエルセの. 必ずしもコミテのメンバーでなくても良いこと. 施行回数を無制限に増やすことはできません.. になる.コミテのメンバーではない人がコミッ. 1977 年についてもこの回数までが限界である. セールの資格で協会の責任事項に係われるよう. ことを今から通知申し上げます」.. になる.これは,重大事件の頻発によりその責. 協会 の 記録 に よ れ ば,こ の 書簡 に 対 し て,. 任の重さが増している昨今,驚くべき方針であ. 1975 年 11 月 27 日付 け で ド・ショード ネ 会長. る.第二は,デクレは,議題に関係ある会員は. は以下のような返信をした.. 協会の審議に参加できないと定めているが,会. 「農務大臣殿,ティエルセの総施行回数につ. 員の大多数は,馬主か生産者なので,賞金予算. いて貴方が下した決定に驚いております.1891. や競馬番組の審議をコミテは禁止されることに. 年法とその実施規則は,競馬協会に競馬開催と. なる.第三は,競馬施行規程について,デクレ. パリミュチュエルの施行を任せることを定めて. によれば,統轄競馬協会は,農務大臣に提案し. いると私は理解しています.だから,ティエル. て承認を得なければならない.そうなると,責. セが,発売されるようになって 21 年後,突然,. 任者は誰なのか.責任の所在は,施行規程の提. 法の定めた共通のルールから逸脱する理由が全. 案者にあるのか承認者なのかが問題になる.政. く理解できません./私は,貴方のこの干渉が,. 府の行政行為か統轄協会の私的行為かという問. 運営面において極めて不都合であると思ってい. 題になる.第四は,農務省によるパリミュチュ. ることをはっきりと申し上げます.もし,この. エル馬券発売に対する規制は問題である.これ. ような傾向が一般化されるようになれば,実際. までは,競馬協会は,様々な種類の場内外馬券. にはすでにそうなっているように私には感じら. の発売を自由に行うことを認められ,1975 年. れますが,そうした干渉によって,競馬協会は,.
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