研 究
地方日用雑貨卸売業経営の革新
― 加納商事株式会社の経営を中心に ―
北 山 幸 子
目 次 はじめに 第1 節 日用雑貨流通の変化 第2 節 加納商事の問屋経営 第3 節 加納商事の経営戦略 第4 節 加納商事の一般小売店への対応 おわりには じ め に
本稿は,高度成長期における日用雑貨流通の変化と一地方で展開する日用雑貨卸売企業の経 営の変化を分析したものである。事例とするのは,滋賀県彦根市で日用雑貨卸売業を営んでい た加納商事株式会社(以下,加納商事とする)1)である。本稿は,日用雑貨流通における変化の視 点から同社の経営を分析することにより,地方卸売企業の成長要因を明らかにすることを課題 とする。 わが国の流通機構は日本型流通システムとして,多段階性による非効率性が問題とされてい た。近世以来の問屋2)主導の伝統的な流通機構は,経済の高度成長とともに消滅するはずであっ たにも拘らず,零細な小売商が高度成長期以後も膨大に残存した3)ために,これら小売商に商 品を供給する多くの中小零細卸売業が全国各地に残った。そのために何段階もの流通過程を経 過して商品供給がなされるために,最終消費者利益が阻害されているとするのが一般的である (佐藤1974,第 2 章;林 1962,86-90 頁;田村 1990,47 頁,388 頁を参照)4)。 1)加納商事㈱/明治 25 年創業,資本金 800 万円,従業員 50 名(滋賀県 1966)。 2)本稿では問屋と卸売企業とは同意味で用い,流通機構での経済主体を表す場合は卸売業とする。 3)零細小売業の存続理由については,田村(1990,126-127 頁,388-390 頁),藤本(1996)を参照。従業者 1 ~ 4 名の小売商店数のピークは 1,448,747(1982 年)で,同年を 100 として 2007 年は 52.2 まで減少して いる。 4)日本型流通への批判の中心は,非効率性と独占の弊害との 2 点に集中する(田村 1990,1 頁)が,国際比 較上で多段階性を示すものに,W/R 比率(卸売業年間販売額/小売業年間販売額)がある。しかし,消費財 だけをとればW/R 比率の差は縮まる。糸園(1990,11 頁)や宮崎(2002)は,統計上の分類で各国に違い があるためにW/R を使用する場合に問題があることを指摘している。倉澤(1995,第 7 章)は,返品が卸 売業の仲間取引で処分される点と関連して,情報収集と調整機能から,多段階性は一定の合理性をもつとす る。後藤(1995,417 頁)は,時代,業界,企業により多様性を持つ流通を「日本の流通」として一般的な 特徴づけは短絡的であり,調整や情報の伝達,付帯サービスの提供という機能が巧妙に遂行されている点を 明らかにした。これまで卸売業については,商業統計表から卸売業の構造の変化と要因を捉えるもの(糸園 1990;佐々木 1996;村田 1985;及川他 2002;横森 2002,161-169 頁;宮崎 2002)がほとんどである。 卸売企業経営に関する研究は少ないが,長島(1997),石井他(2006)は,近世から近代にお いて地方に位置する問屋経営を実証的に分析し,明治期の企業勃興において問屋商人が重要な 役割を果たしたことを明らかにした。全国展開する大手食品卸売企業の国分株式会社を対象と した田付(2008)は,市場の変化に対応して同社が呉服問屋から食品問屋へ進化するプロセス をみている。近年では情報技術革新に関連した流通システム論の視点から,メーカーと流通業 者との戦略的提携SCM(Supply Chain Management)5)や物流システムを中心とした大規模小売
業と卸売業との関係に注目した研究(原田1988;野村 1997;中小企業 2002)が進んでいる。在 庫を持たずに低コストの高利益率経営を指向する大規模小売業の進展が流通構造に影響を与え たが,それ以上に中間流通の機能面に大きな変化を与えたためである。しかし,このような変 化に対して本稿でみるような地方に位置する問屋がどのように対応したか,企業経営の視点か らの実証的な研究は管見の限りみあたらない。 高度成長期の大量生産・販売を契機にわが国の流通機構は,メーカー主導型から大規模小売 業主導へと大きく転換した(佐藤1974,15 頁;石井 2003,第 23 章)とされるが,それまでメーカー 主導の流通支配を強固にしたのは,卸売業を中心として伝統的な商業組織が保守的であるため に,戦後の大衆消費市場に向かう変化に適確に対応ができなかったことに拠るとされている(佐 藤1974,87-124 頁)。しかし,事例の加納商事は,卸売業に対するこのような評価とは異なり, 地方卸売業でありながら先駆的な経営で大衆消費市場に適確に対応していた。保守的で非効率 な流通機構の元凶ではなく,むしろ,効率的流通を行なう革新的な主体となっていたところに 成長の要因があった。本稿は,高度成長期を中心に1990 年までの加納商事の経営に焦点を当て, 日用雑貨流通の変化と問屋経営との関連を分析し,同社の革新的な経営を明らかにする。以下 では,第1 節で日用雑貨流通の変化を整理し,第 2 節では加納商事の経営全般を紹介した後, 第3 節・第 4 節では高度成長期前後の加納商事の経営戦略を分析する。最後にまとめを述べ るものである。
第
1 節 日用雑貨流通の変化
本節では,加納商事の中心的取扱品目である日用雑貨流通の特徴と,その流通が高度成長期 にどのように変化したのかを整理する。さらに,その流通変化に対して卸売業がどのように対 応していたかを検討する。 5)戦略的提携とは,特定企業群での系列化や囲込みでなく,その時点で自社利益に合う提携をいう(田中 2000)。1-1 日用雑貨流通の特徴 日用雑貨流通は以下の ような特徴を持っている。 第1 に,商品では洗濯洗 剤やシャンプー,箒,大 工・台所用品,スリッパ など広範囲の商品である。 食料品と比べて低回転率 で,代金回収に時間はか かるが,それ程高額でも なくアイテム数は極めて 多い6)。第2 に,生産段階 では,ナショナルブラン ド商品は寡占的メーカー により生産され7),それ以 外は,中小・零細規模メー カ ー に よ り 生 産 さ れ る, と い う 特 徴 を 持 つ。 第3 に,流通において小売段 階では,石鹸,歯磨き類 や紙類などの日用雑貨を 主力とする小売店は少なく,金物店,荒物店,陶器店,履物店,という業種店による流通は長 く続いていた8)。大規模小売業以外の一般小売店では,一つのアイテムを纏めて仕入れる場合は 少なく小口仕入・販売が通常である。しかし,石油危機以後の消費不況により,大規模小売業 にも「小口買い」が広がり,小ロット多品種多頻度納品を要求するようになった9)。メーカー段 階では,小売業と直接取引ではなく卸売業を利用しているのが大半である。中でも中小・零細 6)特に,高回転商品の洗剤では安定供給が求められるが,1987 年にコンパクト洗剤が発売されるまで低価格 の割に嵩高く,高物流コストの商品であった。日用雑貨商品については,丸山(2000,98 頁),中小企業(1994, 25 頁),資料 1 を参照。 7)化粧品業界では,上位 10 社で約 70% のシェアを占める(中小企業 1994,7 頁)。合成洗剤は大手 5 社で 70% のシェアである(佐藤 1974,156 頁)。 8)1962 ~ 82 年間の小売商店数の推移では,金物店は 2 万弱で変化なく,荒物店は 2.5 万から約 1.5 万へ減 少した。陶器店は6 千から 1 万弱へ増加,履物店は 2.4 万から 9 千へと減少している。小売業全体では,商 店数,従業員数,売上高のいずれも減少傾向である。 9)大店法や自由化の中で,大規模小売業はロジスティックス軽視の多店舗化がブレーキ役になり,GMS 企業 のローコストオペレーションの妨げになるために「小口買い」政策を採用した(中小企業1994,11-12 頁)。 資料 1 加納商事の取扱商品一覧表(彦根店・京都店共通)2002 年 資料:加納商事二百年史『温かう』加納商事株式会社,1992 年 441 頁より作成。 カテゴリー 商 品 日用品 (ホームキーピング) 洗濯洗剤,漂白剤,柔軟剤,洗濯糊,台所洗剤,住 宅用洗剤(ガラス兼用,トイレ用,掃除用など), 入浴剤,バス用洗剤,カビ取り剤,ティッシュペー パー,トイレットロールペーパー,ペーパータオル, 防虫剤,殺虫剤,線香,ローソク,芳香剤,紙オム ツ,生理用品,衛生用品,ラップ,ホイル,ゴミ袋, 紙ナプキン,束子 健康美容関連品 (ヘルス& ビューティ) シャンプー,リンス,トリートメント,ボディシャ ンプー,化粧石鹸,歯磨,歯ブラシ,カミソリ,衛 生用品,ベビー用品,化粧品,救急用品 家庭用品 卓上用品,調理用品,調理小物,ケーキ用品,包丁, まな板,箸,スプーン,フォーク,プレート,ナプ キン,水筒,弁当箱,行楽パーティ用品,レジャー 用品,洗濯用品,ハンガー,物干し,浴用品,流し 用品,トイレ用品,ペール,バケツ,くず入れ,テー ブルクロス,スリッパ,掃除用品 収納・インテリア 衣料収納用品,整理収納用品,ブラインド,カーペッ ト,上敷き,テーブルクロス,鏡 DIY 用品 大工用品,修理用品,ペイント,フック,整理用品, 包装用品,ガス水道用品,マット,カー用品,自転 車用品,スポーツ用品,キャンプ用品,旅行用品 園芸・ペット用品 鉢,プランター,土,肥料,園芸支柱,ペットフード, ペット関連用品 電気・電材 電池,管球,蛍光灯,電気器具,配線小物,ビデオ, カセットテープ 文具・玩具 生活文具,幼児玩具,プラモデル,フィルム,ゲーム, 花火,昆虫タモ,虫カゴ 軽衣料・はきもの 肌着,ソックス,パンティストッキング,スリッパ
規模メーカーは独自の流通政策を持たず,卸売業や大手小売業に大きく依存している状況にあ る10)のに対し,寡占的メーカーでは販売促進と価格維持を目的に卸売業を流通系列化してきた。 日用雑貨流通での流通系列化には,花王製品販売株式会社(以下,花王販社とする)11)に代表さ れる販社制度と代理店・特約店制度という2 つの形態がある。販社制度はメーカーによる専 売会社という形態12)である。代理店制度は,都道府県単位毎の有力卸売業がメーカーと代理店 契約を結び,地域(または商品)での独占的販売と物流及び代金回収を行う形態である。代理 店制度では商圏や取扱商品に卸売業組織間で分業関係が存在し,エリアを越えた競争は制限さ れていた。 1950 年代後半になると,大規模小売業は全国的に店舗展開を始めた。しかし,仕入は本部 で一本化するのが通常だった。そのため従来からの取引先であった卸売企業が,この全国展開 する大規模小売業に追従していった13)。結果として,これまでのような地域や取扱商品での卸 売業の「棲み分け」(中小企業1994,32 頁;住谷 1996 を参照)は事実上崩れていった。同様に, 地方に立地する大規模小売業も,同一地域での多店舗展開にとどまらず府県を越えて広域に展 開するようになっていくと,地方卸売企業は,これまでのように同一地方の問屋との優位性だ けでは存続することは困難になった。大規模小売業の店舗展開に合わせて効率的な商品供給が 地方卸売企業にも求められたのである。 1-2 日用雑貨流通と情報化の進展 高度成長期以前の日用雑貨問屋は,「店舗が主,倉庫は副」(加納他1992,246 頁)で,300 坪の倉庫があれば問屋経営はできた。しかし,高度成長期を境に大量生産・出荷に対応する大 型倉庫の必要性が高まった。さらに,小口発注の一般小売店に加え,小ロット多品種多頻度納 品を要求する大規模小売業への対応で流通コストが上昇した。このギャップを埋めたのが情報 化の進展である。日用雑貨流通は元々,情報化への適合が容易な分野であった。三輪(1995, 385 頁)によれば,日用雑貨は「ハンドリング・コストが高いが,バーコード普及率が高く, 『情報化』の可能性,必要性と有用性が叫ばれてきた代表的な分野」であったとする。情報化 10)筆者のパルタック守山物流センター(現 RDC 滋賀/守山市古高町,2000 年開設)調査でも,零細メーカー が多く,物流識別コードITF を同社で付けるなど手間が掛かるとの話があった(2004 年 11 月 11 日調査)。 11)花王石鹸株式会社(1985 年から花王株式会社)は 1890 年に代理店制度を採用した。1968 年より全国に設 立した花王販社を,1981 ~ 93 年間に 8 販社に再編・統合後,さらにこの 8 販社を花王販売㈱へ統合した。 花王販売㈱は,2004 年に花王㈱の 100% 子会社となった(花王 1960,22 頁)。戦前の花王石鹸については, ルービンファイン(1993,第 6 章),佐々木(1994)を参照。花王販社の関係者による実録として斎藤(2001) がある。他に,孫(1993),藤村(1997)を参照。 12)専売制の花王販社と異なり,ライオンは代理店・特約店制度の中で,他社製品の併売を認めたために,有 力卸売業者の中でライオン製品を専門に扱う事業部設置が促進された(懸田1991)。 13)加納商事も,滋賀県最大手の大規模小売業である㈱平和堂(以下,平和堂とする)の北陸出店に伴い北 陸に進出した。その後1988 年にかけて平和堂は,高槻市,茨城市,京都府に進出した(『日経流通新聞』 1993 年 10 月 19 日付;1996 年 1 月 23 日付)。大規模小売業が主導する物流システムの変革と卸売業の再編 成については,土屋(2004,第 6 章)を参照。
の進展や情報革新によって大規模小売業が中間流通を省く14)ことや卸売業の商流や物流,情報 流の機能提供の中から必要な機能だけを抜き出しての利用も可能となる。このような状況の中 で,卸売業は効率的流通を実現するだけでなく反対に,建値制下で曖昧だった卸売機能の対 価を要求するようになった。2000 年には,卸売企業の中には「メニュープライシング(Menu Pricing)」15)の導入,という新業態によって売買差益獲得だけではなく,手数料獲得へと日用雑 貨流通での変化が現れている16)。 1-3 日本的取引慣行の変更 日本的取引慣行として指摘される建値制やリベート,返品制,手形制は,メーカーや問屋に よる「再販価格維持行為」の手段である。建値制とは,メーカーの決めた小売販売価格を基準 として,流通各段階の取引価格(=建値)を設定することをいう。この価格維持のインセンティ ブとして,広く用いられてきたのがリベートで,その支払基準として建値が利用された。リベー トは,メーカーから問屋へと,あるいはメーカー(または問屋)から小売へ,仕入量や売上高 の多寡や返品率に応じて仕入価格の何%かを支払うものである。ライバル会社との類似商品で は,建値も同一でその建値に変更がないとすれば,当該商品の販売促進を小売や卸売段階に実 行させるためにリベートは有効な手段である。メーカーにとって,仕入高や売上高という定量 的な結果に応じたリベートは,さまざまな事前契約による販売促進よりも明瞭簡潔で好都合 である。このような後払いは,両者の長期継続的な取引関係を前提に成立している17) 。長期 継続的取引関係は,代理店契約を結ぶことによって成立し,代理店問屋は当該地での独占的販 売と建値制やリベートによる確実な利益を確保できた。しかし,このような制度はメーカーや 問屋の押売販売,問屋または小売店による過剰発注を生じさせ18),乱売の問題を引起していた。 本来,メーカー指定価格維持を目的とする制度にもかかわらず,反対に指定価格の維持を困難 14)三輪(1995,391 頁)によれば,日用雑貨,加工食品という 2 つの業界を見る限り中間流通を省く「中ヌキ」 が顕著なものとはならないとする。 15)中央物産は,商品集荷・配送,販促支援など個別機能毎に手数料を受取る「メニュープライシング」を導 入。これまでの売買差益ビジネスから,手数料ビジネスへと転換した。パルタックは「メニュープライシン グ」をさらに進めて,日本第1 号となる小売店頭支援専門の新会社を 2001 年に設立した(『日経ビジネス』 2001 年 2 月 19 日号)。 16)明治期,荷主から商品を預かり仲買に売って手数料をとる問屋と,問屋を介して買取った商品を小売に売っ て販売差益を取る仲買の区分が崩壊し,卸売商(業)に包括された(石井2005,11-12 頁)。2000 年以降の 卸売業の動きは,再び卸売業が販売手数料を得るものと,販売差益を取るものとに分化しているとみること もできる。 17)建値制度は取引に不必要な不確実性を持込まない,という意味でも重要である(伊藤 1994,197 頁)。建 値制下で,メーカー出荷価格,問屋出荷価格,小売価格は,「基準価格」(佐藤1974,144 頁)として小売 販売価格コントロール機能を持つが,同時に価格設定への情報提供機能も持つ。伊藤他(1995,155-156 頁) は,日本的取引慣行のもつ競争制限性や新規参入への障壁という通説的な批判に対して,流通システム内の 効率的資源配分上で建値制は重要な機能を果たしているとする。日本的取引慣行については,宮下(1996), 懸田(1991)を参照。 18)代理店へ生産者の強制的販売割当が,同位業者へのルートを乱した販売をもたらすことも稀でない(風呂 1974,251 頁)。
にさせていたのである。 1990 年代以降,外資の日本的取引慣行への批判や大規模小売業との直接取引等を背景に, 取引制度改訂の動きが進展し,多くのメーカーがリベートの見直しを行った。メーカー出荷価 格を開示して最低取引量や支払条件,発注方法等の違いによって割引率を明確にしたP&G の 「新取引制度」を始め19),メーカーの卸売業への種々な流通対策費は廃止されるようになり,卸 売業は従来の取引慣行による利益確保が困難になっていった20)。 1-4 日用雑貨流通の変化に対する卸売業の対応 1969 年の北海道内有力卸 7 社の合併によるダイカ設立は,問屋合併の口火を切るものだっ た。1980 年以降になると,小・零細小売業の衰退や大規模小売業の成長,メーカー ・ 大規模 小売業間の直接取引,日本的取引慣行の変化などは卸売業再編をさらに加速させた21)。 さらに,競争力維持・増強のため物流と情報システムの整備が必要となった。しかし,情報 化と親和性のある日用雑貨流通においても,最低でも年商30 ~ 50 億円規模の卸売業でなけ れば,必要な物流や情報への投資に耐えられない(中小企業1994,84 頁)。となれば,卸売業 は提携や合併・再編等により,「規模の経済性」を追求しようとする。その上で,物流整備に より,低コストの小ロット多品種多頻度納品を要求する大規模小売業に応えようとしたのであ る。 以上のように,大規模小売業の進展とメーカー・大規模小売業間の直接取引増加に伴い,メー カーの卸売業への種々の流通対策費は廃止されていった。卸売業の利益を確実にしていた日本 的取引慣行は縮小し,効率的な流通を実現できない卸売企業は流通機構から消滅しなくてはな らなくなった。特に地方卸売企業は,存続のために他社と合併をするか,それとも何らかの手 段で物流センター建設や情報システムの構築をする必要があったのである。2000 年代になる と,大規模小売業自身が卸売業の持っていた配送や品ぞろえ機能の多くを自らコントロールす るようになり,取引先卸売業の数を絞込んできた。そのために卸売企業の集約化がさらに強まっ ている22)。 19)1995 年当時,P&G FE 社は,卸売・小売業に対し 36 種類もリベートや報奨金を払っていた(『日経ビジネス』 2000 年 11 月 13 日号)。2000 年 6 月の P&G 割引制度では,100 ケースをベース価格として,300~599 ケー スで1.0% 引,600 ケース以上で 1.5% 引される。工場直送ロットの取引では 2.5% 引で,50 ~ 99 ケースでは 2.0% 加算される(田島他2001,62 頁)。そのため 100 ケース未満は,ベース価格より高いものとなる。 20)卸売業がメーカーのチャネル戦略の一翼を担うことにより,一定利益が期待できるという関係性から卸売 業には,利益率や販売価格設定,コスト管理など自らがリスクと責任を負う自立的経営が要求されている(渡 辺2002;懸田 1991 を参照)。 21)物流・情報機能格差により業績格差が拡大したため,大手が中小を飲込む形の再編が相次ぎ,大手間の合併, 提携が増加した(『日経流通新聞』1993 年 12 月 23 日付)。市場の調整を本質機能とする卸売業は,市場の 不確実性による種々のバッファー的役割を持つが,このしわ寄せとしての調整役に卸売業が追込まれるのは, 卸売業界の過当競争,過多に起因する(工藤1988,8 頁)。卸売業再編による規模拡大は,大規模小売業と 対等な立場を確保し,バッファー的役割の回避を目的とするという側面もある。 22)日本マーケティング(1988,4 頁)は,中小卸売業の多くはさまざまな経営問題を抱えているが,自立的
第
2 節 加納商事の問屋経営
同社は,戦前から滋賀県内卸売業の中で,常にトップの地位にあるだけでなく,戦後には日 用雑貨問屋として全国的にも上位に位置していた。1953 年,同じ滋賀県の大規模小売業の平 和堂との取引を開始し,平和堂と歩みを一にして成長した企業であったが,成長の要因はそれ だけではなかった。本節では,上記のように卸売企業の集約化が進む以前の日用雑貨卸売業の 経営を加納商事社史『加納商事二百年史 温かう』によって検討する。同誌によれば,1992 年は,加納家の初代加納八平の生誕二百年で,勤労と信仰の社風を育てた先代社長久次良(5 代目久吉父)の生誕百年の年にあたる。久次良は,戦前から加納商店の経営に携わり,戦後早 くに法人化の道を拓いて株式会社加納商店を創立した。以下では,創業当初以降から1990 年 代までの同社経営の全般を概観する。 2-1 加納商事の沿革 初代八平は,天明3 年(1783 年)に岐阜県本巣郡真正町に生まれ,農業と足袋製造販売を営 んでいた。真正町は,長良川と揖斐川に挟まれ,洪水で有名な「輪中」の北限地である。度重 なる水害から,40 歳ぐらいの時に同郷の親戚を頼り,滋賀県彦根町松原村へ移転した。松原 村では,漁用ロープ,民製タバコ,花緒(鼻緒)の麻芯製造販売で生計をたて,1843 年に死 亡した。2 代目宇平は,25 歳で家業を継ぐと,タバコ卸売を開始した。それ以外にも,郷里 の美濃の親戚や知人の協力を得て仕入れた蓑笠や蓑合羽等の農業関連商品を増やし,日用雑貨 卸23)の方向を志した。販売先は松原村だけでなく,人口3 万人の彦根近在の農村を対象として いた。 1874 年(明治7年)に,宇平が死亡すると,久吉(当時19 歳)が3 代目となった。1889 年 の東海道線全通で,湖上流通の要衝から元の漁港へと戻った松原港の将来性や数度の琵琶湖の 嗌水による大水害から,1899 年に,加納商店は本町に土地を購入し移転した24)。1902 年,タ バコの専売制によりタバコ販売を廃止したが,販売地域は広がっていた。3 代目久吉は,地元 の彦根だけでなく,大津市,犬上郡,愛知郡,坂田郡,東浅井郡,伊香郡と県内全域に商圏を 経営志向が強いと性格づける。しかしその一方で,単独経営の限界を意識する中小卸売業は,水平的連携で 卸グループでの運営を図っている。特に,市場力が限られた地方市場では再編成の動きは顕著で,単に規模 拡大だけでなく各地域で自立的活動単位を有機的に連携する点で重要であると指摘している。しかし,規模 拡大しなければ存続が困難であることは,卸売業の事業所数減少からも明らかである。2007 年商業統計に よる卸売業の事業所数は,2004 年調査比 10.8% 減の 33 万 4,799 事業所で,1991 年をピークに一貫して減 少傾向にある。また1972 年に卸売業全体の 37.6% を占めていた個人卸売業の割合は,2007 年には 18.3% まで減少している。 23)同社は二代目宇平の卸商いを,日用雑貨卸の始まりとする。 24)当時彦根第一の繁華地であった東内大工町(戦後は本町 1 丁目)の土地(100 坪)購入資金 700 円は,国 立第133 銀行から借入れたものである。当時,土地代金の貸付は,その土地代の 2 分の1以下であったため, 土地価格は1500 円位と推測される。積極的に拡大していった。荒物中心に商品が増え,従業員は3 ~ 4 名に増加していた。久吉 の積極的な経営は,売上,利益とも順調に伸ばした。小学校卒後の15 歳から商売見習いをし ていた息子の久次良(1892 年生)は,1923 年に家業を継ぐと,1933 年に職住分離を目的に買 入れたままになっていた300 坪の土地に,住居,事務所,倉庫(2 階建床面積 100 坪)を建設し た。これを契機に,個人商店から「合資会社加納商店」に変更した。 戦時中の統制経済下では,同業者は卸売用物資を小売店へ卸さずに,全て高利幅の自小売部 へ回していたが,久次良は3 分の 2 は必ず小売店へ卸した。このような顧客第一の経営姿勢は, 小売店の感謝と信用を得て,多くの得意先を確保することができた。経営理念を「温かう」と 決め,「最初の客への感謝,慈悲,知恵を忘れず」を経営方針に,中小零細な得意先とも親睦 を深めることが同社の基本姿勢となった25)。 戦後の1948 年 3 月,申告所得 15 万円に対して税務署から「税額 240 万円とする」,との 通知がきた26)。申告額の16 倍にも及ぶ税額は,廃業を決意するまで久次良達を追い込んだ。家 族の話合いで営業の存続を1 年だけと決めて税務署に通知すると,税務署側から「法人化して 収支をはっきりさせてはどうか」,とのアドバイスを受けた。これが株式会社加納商店創立27) の契機である。 1926 年に久次良の 7 番目の子どもとして生れた久吉は,県立彦根商業へ進み,1945 年に召 集された。終戦後,長兄の久蔵とともに家業経営に参加していたが,早くに兄姉が死亡しており, 久吉は経営の中心となっていった。1953 年には,第 6 代彦根青年会議所理事長に最年少(27 歳) で選ばれるなど,対外的にも加納商店の代表となっていた。この頃,後に県内最大の大規模小 売業となる平和堂(当時,夏原商店)との取引が始まった。1963 年に久吉(37 歳)が社長に就任し, 加納商事株式会社へと改称した。 2-2 戦後直後の営業 1949 年の年間販売額が 20 万円以上の商品を見ると,マッチ,上敷,チリ紙で,10 万円以上は, ロープ,箸,歯磨き,かいろ灰,線香である。5 万円以上は,ゴムぞうり,ふのり,箒,障子紙, 歯ブラシ,粉末石鹸だった。当時,営業活動は久吉と社員2 名,見習いの少年 3 名の合計 6 名が担当し,荒物中心に実物見本を携えてのセールスだった。加納商事の営業スタイルは,「近 在の問屋のセールスが来る10 分前に到着」というもので,大津への営業には午前 6 時半前に は彦根を出発していた。販売方法は,販売価格と卸価格を符牒で書いた原価札付きの見本品で 25)加納久吉氏談 2004 年 10 月 14 日調査。 26)これは,1946 年に成立した 10 万円以上の資産所有者に課税する財産税によるものと考えられる。税額 240 万円は税率 80% の単純計算で,資産総額 300 万円となる。大蔵省(1978,248 頁)では,1948 年で, 101 ~ 300 万円の課税対象資産を持つ件数は 113 件である。この場合,税率は 75 ~ 80% となる。財産税に ついては,広田(1992),林(1968,62-65 頁)を参照。 27)資本金 100 万円,社長 加納久次良,株主 27 名。
注文を受け,受注した数量を後から発送していた。販売地域は,戦前は滋賀県北東部が中心だっ たが,戦後になると滋賀県内全域だけでなく福井県の小浜,敦賀まで拡大した。日用雑貨市場 は品不足で販売額自体は大きくなかったが,浜松,沼津,三島,東京,東北地方にも販路は広 がっていた。敦賀や小浜には,漁場や船内で使うササラなどの近江特産品を販売していた。こ れらの地域は滋賀県の問屋が入らず,通常の1 割増し,あるいはそれ以上の高値での販売が できていた。 仕入先をみると,大手メーカーのニッサン石鹸28),花王石鹸,中京ライオン歯磨,マッチ・ 線香類の日産農林工業,第一燐寸,孔官堂,ライオンかとり,大日本除虫菊等がある。地場製 造業者では,彦根高宮のササラ,安土や八幡などの熊手,ヨシズがある。県外の製造業者では, 岐阜県穂積や兵庫県豊岡の柳行李,静岡県御殿場の竹行李,名古屋甚目寺の洗張用糊刷毛,奈 良県生駒の伸子張り,福井県の若狭箸等だった。県外の販売先に単に商品を納めるだけでは非 効率的と,販売機会を利用して製造業者との繋がりを結び,その帰路に商品を仕入れていたの である。 こういった製造業者からの仕入だけでなく自家製造・加工販売した商品には,マオラン(荷 造用ロープ),もぐさ,ソバガラ枕,フノリがある。例えば,フノリの製造は,北海道からフノ リ原藻を買付け,三重県のヒジキとワカメを扱う問屋の指導を受けて行ったものである。自家 製造したフノリは,大阪や京都の荒物問屋へ3 年間ほど販売された。戦後直後は阪神地方の 闇市で現金仕入も行っており,大手メーカーや地方の中小零細な製造業者からの仕入,自家製 造・加工といったように,商品調達にさまざまな工夫をし,仕入の多様性を持たせていたので ある。 2-3 営業規模 ①販売額 同社事業年度は,10 月から翌年 9 月である。1949 年の年間販売額は 2,585 万円,税引前利益(以 下,経常利益29)とする)96 万円,税引後利益 49 万円,粗利率 11.53% だった(表1)。1953 年 に平和堂との取引が始まったことによって,翌年には前年比124 の 1 億 475 万円の年商となっ た。後述するようにメーカーとの代理店契約を1955 年から強化した。世界長,柴田ゴムやフ マキラーの代理店となり,1956 年年商は 1 億 3,647 万円と前年の 2 割増となった。1960 年 には年商2 億円となったが,年商の半分はゴム靴販売によるものだった。当時,ゴム靴販売額 において県内第1 位になっただけでなく,ゴム靴メーカーの世界長製品販売だけでも県内第 1 位,全国第3 位と加納商事の販売力は飛び抜けていた。 28)1937 年,日本油脂が合同油脂を吸収合併して,「ニッサン石鹸」に統一(「業界の歴史」エヌシーエム NET HP)。 29)同社の税引前利益は,新聞報道の経常利益とほぼ一致するため,本稿では経常利益として扱う。
1970 年には,ゴム靴販売で平和堂との 競合を避けるために,一般小売店との取 引を止めた。ゴム靴の販売先は平和堂の みとなったが,加納商事は,商品回転率 を上げることによって利益率を高めた。 一般に,年3 回転とされる商品回転率を 3 倍近くに上げたのである。ゴム靴販売は, ①手形期日が長い,②点在する靴小売店 の巡回コストが高い,③商品回転率が悪 い,④交際費が掛かる,⑤「文組セット(良 く売れる文数の組合せ)」による出荷方式で 仕入が難しい,という特徴があった。こ ういった販売における問題点を,平和堂 一社と取引することによって,高コスト な一般小売店への商品供給や高度な判断 の要る品揃えといった問題を解決したの である。加納商事は,平和堂との販売競 合を避けるために,あえて一般小売店と の取引を停止したとするが,そこにはゴ ム靴販売での不効率さを解消し,平和堂 の信頼を得るという強かな戦略があった のである。その結果,3 分の 2 の営業人 員を削減させ,年間販売額の上昇だけで なく高い利益率を確保した。 1968 年になると滋賀花王販社が設立さ れた。加納商事所有の花王製品営業権は 滋賀花王販社に移譲することになった。 当時,県内花王石鹸販売額の87% は加納 商事だったため,久吉は滋賀花王販社社 長に就任したが,加納商事自体の年商は 1 割の減少が予想された。そのため,ラ イオン製品拡販と平和堂取引拡大に努め た。同社内に,これまで設置していなかっ 表 1 加納商事営業規模 (単位:万円) 資料:加納商事二百年史『温かう』加納商事株式会社, 1992 年より作成。 注:会計年度 10 月~翌年 9 月。 注:1991-92 年は㈱京都加納商事を含まない。 事業 年度 総販売額 前年 比 税引前 利益 (経常利益) 利益率 (%) 社員 数 (人) 資本金 1948 100 1949 2,558 96 3.8 12 100 1950 3,666 143 63 1.7 13 100 1951 6,735 184 255 3.8 15 100 1952 7,426 110 111 1.5 16 100 1953 8,433 114 159 1.9 17 100 1954 10,475 124 260 2.5 18 100 1955 11,275 108 250 2.2 20 100 1956 13,647 121 372 2.7 23 100 1957 14,987 110 403 2.7 25 100 1958 15,805 105 350 2.2 平均 27 100 1959 17,281 109 380 2.2 2.3 29 100 1960 20,649 119 484 2.3 30 100 1961 24,347 118 504 2.1 33 400 1962 29,089 119 670 2.3 38 400 1963 34,337 118 606 1.8 42 400 1964 39,850 116 621 1.6 46 1,200 1965 47,329 119 936 2.0 50 1,200 1966 52,815 112 1,181 2.2 50 1,200 1967 59,614 113 1,148 1.9 51 1,200 1968 67,147 113 907 1.4 平均 53 1,200 1969 75,983 113 1,214 1.6 1.9 55 1,200 1970 94,231 124 1,897 2.0 56 1,200 1971 114,067 121 3,956 3.5 61 1,200 1972 137,738 121 4,515 3.3 68 1,200 1973 181,373 132 6,255 3.4 75 1,200 1974 265,526 146 16,196 6.1 80 2,700 1975 274,074 103 3,346 1.2 82 2,700 1976 325,869 119 11,001 3.4 86 2,700 1977 363,099 111 5,208 1.4 87 2,700 1978 393,073 108 6,069 1.5 平均 93 2,700 1979 450,815 115 9,254 2.1 2.8 91 2,700 1980 496,525 110 11,110 2.2 96 2,700 1981 529,819 107 9,762 1.8 102 2,700 1982 569,128 107 10,368 1.8 103 3,780 1983 625,783 110 10,642 1.7 111 3,780 1984 685,604 110 16,846 2.5 119 3,780 1985 755,369 110 22,504 3.0 127 3,780 1986 818,236 108 20,818 2.5 137 3,780 1987 780,321 95 19,836 2.5 133 3,780 1988 955,452 122 20,240 2.1 平均 143 4,914 1989 1,057,285 111 22,148 2.1 2.2 143 4,914 1990 1,170,451 111 23,507 2.0 144 4,914 1991 1,244,536 106 15,645 1.3 148 4,914 1992 1,366,793 110 30,785 2.3 148 9,828
たライオン営業部を立上げ,ライオン製品の拡販を行ったのである。そして,これを機会にメー カーであるライオン油脂㈱の物流合理化策を学ぶようにも努めた30)。このような取組みが功を 奏して1970 年には前年比 24% 増の年商 9 億 4,231 万円となった。1971 年には,滋賀花王販 社設立による販売額減少の穴埋めは完了して,年商11 億円を超える企業となっていた。 年間販売額の前年比増減の推移を表1 でみると,1950 年代では平均 23% 増,1960 年代平 均16% 増,1970 年代平均 20% 増と同社の順調な経営がみてとれる。特に 1974 年は,前年 のオイルショックの影響を受けて前年比46% 増の 26.5 億円となっていた。1990 年代になると, 年商の著しい増加はみられないが,1991 年には,124 億 4,536 万円を販売する県内卸売業で ガリバー企業となっていた。 ②利益率 同じく表1 によって,経常利益率の平均を年代別にみると,1950 年代 2.3%,1960 年代 1.9%, 1970 年代 2.8%,1980 年代 2.2% である。1958 ~ 59 年は不況と県外同業者の進出やメーカー の押売販売に加えて売掛金の増大31)で,厳しい経営だった。この時,低価格販売で販売増加を 試みたが,反対に利益率は減少して,経常利益率は2.7% から 2.2% へと減少した。1960 年代 も年間販売額は毎年1 割前後増加していたにもかかわらず利益率は低かった。1970 年代に入 ると3% 以上に上昇したが,石油危機後の 1975 年には 1.2% まで下がった。1979 年の共同仕 入組織の近畿共和グループ32)への加入は,このような利益率の低下が動機の一つだったと思わ れる。共同仕入れによる低価格仕入れで利潤の増加を図ったのである。 1984 年以降になると,経常利益率は 2% 以上に回復したが,石油危機を契機とする 1970 年代半ばの利益率の低下は,同社の経営を利益重視に転換させた。高度成長期の売上第一主義 の経営をやめて,利益管理重視の経営へと転換したのである。こういった経営方針転換がその 後の加納商事の経常利益率にどのような変化をもたらしたかを「日本の卸売業調査(洗剤・化 粧品部門)」(『日経流通新聞』)でみると,1991 年から全国上位 30 社にランクインし,1993 ~ 96 年の平均年間販売額は 143 億 5 百万円,営業利益率 0.7%,経常利益率 1.4% である。同時 30)佐々木(2005,150 頁)によれば,ライオン油脂㈱の共同流通センターでは,卸店が共同で雇う輸送専門 業者が配送し,参加卸店とライオン油脂との委員会でセンター効率化や販売対策を協議したとする。加納商 事もこのセンター運営から物流効率化を学んだと考えられる。1891 年創業の小林富次郎商店を元とするラ イオン油脂㈱とライオン石鹸㈱は,1918 年に分社したが,1980 年に合併しライオン㈱が誕生した。以下本 稿では断りのない限り,ライオン㈱をライオンと略する。 31)当時,代金回収の悪化で滋賀銀行に融資(100 万円)を依頼したが,このような理由では貸せないと断ら れた。これを教訓に1987 年の新社屋建設時まで無借金経営を続けた。 32)近畿共和株式会社(本社/大阪府東大阪市):アケボノ物産,日華商事など近畿地区有力問屋 5 社で 1972 年に設立。日華商事の脱退で加納商事が加入した。近畿共和株式会社を核とする近畿共和グループは,西日 本共和グループと九州明和グループとが提携し,「共和グループ」とするが,2008 年 3 月末で近畿共和株式 会社は解散した。加納商事の1992 年仕入額の約 30% は,近畿共和グループからだった。
期の業界第一位のパルタック33)は,それぞれ1,773 億 90 百万円,0.9%,1.4% となっている。 加納商事の利益率自体は1980 年代よりも低下していたが,トップ企業のパルタックの 8% 弱 に過ぎない年間販売額規模の卸売企業でありながら,利益率ではトップ企業と同レベルの経営 をしていたのである。 ③販売先の変化 販売先の数は1970 年では 1,500 店となり,その割合はスーパー 13%,卸売店 16%,一 般小売店61% だった。販売先の 6 割は一般小売店である。1983 年になると,平和堂 30%, CVS・中小スーパー 25%,一般小売店 45% となり,一般小売店の割合が低下していた。当 時の新聞によると,「今後は,この割合を3 対 4 対 3 にする」(『日経流通新聞』1983 年 7 月 7 日 付),としていたが,CVS,スーパーとも平和堂系列で,取引先の 7 割近くまでが平和堂関係 である34)。このような販売先の変化に関連して,1985 年以降の同社経営指標の目標を,粗利益 率11 ~ 12%,経費全般 8 ~ 10%,差引利益 2% に設定していた。さらに,コンピュータ関係費, 配送車代,倉庫代,人件費を「物流費」として販売額の6.5 ~ 8% にすると計画した35)。しか し,大規模小売業は卸売業に対してさらに配送の多頻度化や小口化,時間指定などを要求する ようになり同社でも「物流費」は7 ~ 8% へと上昇した。売上高拡大を第 1 の利潤とし,低価 格仕入を第2 の利潤とすれば,第 3 の利潤(杣谷2004,3 頁)として「物流費」に対する関心は, 加納商事だけでなく小売業を含む流通企業全体に広がっていた。
第
3 節 加納商事の経営戦略
本節と次節では,同社とメーカーとの取引関係を検討した後,平和堂との取引による加納商 事の問屋経営の変化を検討し,加納商事が高度成長期においてどのような経営戦略をとってい たのかを明らかにする。 3-1 有力メーカーとの代理店契約 1950 年の取扱商品割合は,荒物雑貨 89.6%,石鹸 5.5%,ゴム靴 4.9% である。1955 年になると, それぞれ73.6%,22.6%,3.8% となった。同社の取扱商品割合の中で最も増加したのは石鹸 である。1949 年の政府による石鹸原料割当36)によって,当時の石鹸総生産量の6 割がニッサ 33)㈱パルタック/大阪市中央区,創業明治 31 年,資本金 12,482,623,194 円,従業者 2,649 名。同社は, 2011 年 3 月で 7,575 億 57 百万円の売上高を持つ,化粧品・日用品,一般用医薬品卸売事業会社である(同 社HP) 34)雑貨卸売業 179 社への「スーパーに対する売上比率方針」調査(1983 年 3 月流通政策研究所)では,スー パーに対する売上比率が20% 台までは 42.4%(76 社),30% 台までは 65.9% である(通産省 1985,117 頁)。 これと比較すると,加納商事の平和堂依存率は非常に高い。 35)石油危機後も営業経費における販売,物流,事務経費の割合は,各々 3 分の 1 だった。 36)「石鹸配給規則」(1949 年 4 月公布,1950 年 7 月撤廃)。同規則について佐々木(2007,第 5 章)は,流 通の垂直的な連携や統合の重要性が再認識される契機となったとする。「石鹸配給規則」による石鹸メーカー への原料の割当ては,小売店→卸店→メーカーという流れで予約クーポン券が集約されて商工省へ提出されン石鹸,花王石鹸,旭電化,日華油脂,ライオン油脂,丸見屋(1950 年ミツワ石鹸に改組)の6 社で製造されるようになっていた。加納商事は,戦前から取引のあるニッサン石鹸,花王石鹸, ミツワ石鹸,ミヨシ石鹸など各メーカーとの代理店契約を結び石鹸販売に力を注いだ。このこ とによりニッサン石鹸製品の県内販売額の50% を加納商事が占めた。その結果,石鹸メーカー への石鹸材料割当の指標となる予約クーポン券の集券では,加納商事と同業問屋の西川商事 (滋賀県大津市)とで滋賀県内の8 割近くを獲得し,石鹸メーカーにとって,加納商事の存在は 大きなものとなった。また,合成洗剤の先がけとして1951 年に発売された花王石鹸の「花王 粉せんたく」では,この商品に馴染みのない小売店一軒々々に商品説明をして販売拡張を行っ た37)。 大手メーカーとの代理店契約は,これら石鹸メーカーだけでなく,大日本除虫菊,世界長, 柴田ゴム38),フマキラー各社とも結んでいた。このような代理店契約は,加納商事に石鹸とゴ ム靴において県内での独占的販売とリベート・建値による確実な利益をもたらした。平本(2006) によれば,有力問屋は,資本規模も大きく容易に専売化しなかったとするが,加納商事もまた, 複数の同業メーカーとの代理店契約を結び,一社に専売化しないで各メーカーの競争関係をう まく利用していたのである。 上記のように石鹸は,衛生上欠くことのできない商品のため戦後2 年間は統制品となって いたが,1950 年代になると小売段階において乱売が始まった。これに対し,メーカーは問屋 の代理店資格を剥奪することによって価格維持をしようとした39)。しかし,加納商事は独自の 対応をとってこの乱売に対処していた。例えば,小売店に商品買上1 万円に付き 1 点のサー ビス券を提供して,点数に応じて温泉招待や自転車,カメラ,洋服等の景品を進呈するなどで ある(『日経流通新聞』1976 年 4 月 22 日付)。加納商事は,大きな利益をもたらす代理店契約を 維持するために,独自の販売戦略で対応し,小売店に対してメーカー指定価格を厳守させてい たのである。 る。これに基づき商工省が油糧配給公団に原料の割当を指示し,油糧配給公団はそれによって油脂販売業者 に各メーカーへの原料の配給を指示するという流れである(佐々木2007,169 頁)。 37)「花王粉せんたく」は,1 個 200g50 円の赤い袋詰めで,粉石鹸を連想させる名称には消費者に親しみをもっ てもらうという狙いが込められていた。当時,家庭用合成洗剤は「ソープレスソープ」,すなわち「石鹸で ない石鹸」とうたわれていたため丁寧な商品説明が必要だった。1954 年には,「花王粉せんたく」の成分を 改良した「ワンダフル」(1 袋 50 円)が電気洗濯機メーカーとタイアップして販売された(産業技術史資料 共通データベース)。 38)同社は,1964 年にハト印販売株式会社を設立して履物販売部門を分離移管した。 39)山口(2005,167-172 頁)によれば,1960 年頃メーカーの売上増加・シェア拡大の追及と乱売の解決策と して流通系列化が進展し,代理店資格剥奪がメーカー指定価格維持手段として用いられたとする。代理店に ついては,麻田(2002),懸田(1991)を,大規模メーカーによる流通組織については石井(2003,第 23 章) を参照。
3-2 急成長する平和堂との取引 平和堂との取引開始から22 年が経過した 1975 年に,加納商事は本社・倉庫を芹川町へ移 した。平和堂との関係は単に取引関係というだけでなく,同社創業者夏原平次郎と加納商事の 久吉とは,共に彦根商工会議所内の有力企業であり,会頭,常議員40)という間柄でもあった。 また,両者とも年商1 億円以上の商業者を対象とした経営研究サークル「ペガサスクラブ」(1962 年設立)41)の会員で,両者は深い信頼関係で結ばれていた。 平和堂は,1968 年から多店舗展開を開始し,1973 年(5 月期)では7 店舗総売上高 100 億 円に迫る勢いとなっていた。翌1974 年は 8 店舗約 135 億円と拡大し,平和堂店舗戦略「琵琶 湖ネックレスチェーン」が実現した1975 年は 9 店舗総売上高 173 億 11 百万円となっていた。 その内日用雑貨部門売上割合は,総売上高のおおよそ2 割(約34 億円)である。当時,加納商 事の年商は14 億円(1972 年)で,平和堂および系列スーパーへの商品供給額の割合は13%(2 ~3 億円)である。この供給額では,平和堂の日用雑貨部門売上高の1 割にも達していない状 況だった。前述の目標のようにスーパーへの商品供給割合を70%(10 億円)にしても平和堂の 日用雑貨部門売上高の3 割しかなく,加納商事にとって平和堂との取引増は最も有利な経営 戦略だった。 しかし,そのためには,平和堂以外の一般小売店や卸売店との取引を合理化する必要があっ た。これら一般小売店が「平和堂並みの売上規模なら1 社でも採算が合う」(『日経流通新聞』 1998 年 3 月 3 日付)が,そうではなく各地に分散する小規模な小売店だった。加納商事は,平 和堂が要求する低コストで効率的なロジスティックス構築のためには,小・零細規模の一般小 売店を集約していく必要があったのである42)。その具体的な取組みは本社・倉庫移転を契機に 行われた。 3-3 本社・倉庫移転 久吉は,社長就任の翌1964 年に京都営業所(京都市下京区)を開設し,より広域な事業展 開を進めた43)。大衆消費市場拡大による商品の多様化と合わせて,同社の取扱商品の種類と数 40)両氏は,彦根商工会議所の議員に同期(1966 年)に就任し,夏原平次郎が 1981 年に会頭に就任して以来, 久吉は常議員の一員である(彦根1988)。 41)矢作(1997,64;93 ~ 99 頁)によれば,経営コンサルトの渥美俊一が設立したチェーンストア研究サークル。 ペガサスクラブの事務局である日本リテイリングセンターの1995 年度調査によると,年間売上高 50 億円以 上の日本のビッグストアは1,040 社と推定され,そのうち 3 分の 1 強の企業がペガサスクラブ会員で占めら れている。 42)情報化への対応を進めれば,効率の観点から小零細小売業との取引を結果的に切り捨てる川端 1997,11 頁)。 43)有力取引先の田淵商店(大津市)の知合い(京都市山科区の双葉屋商店)が,販売先 20 店を紹介したこと がきっかけで京都市へ進出した。京都営業所の販売方法は,小売店へのセールスではなく,月2 回の営業所 内での商品展示会での販売による。1981 年,京都市南区へ移転後,1986 年に京都加納商事株式会社として 独立した。
量は増加を極めた44)。この間,増え続ける商品を捌くために持家転用や久吉個人名義の土地も 倉庫にしていた。それだけでなく,倉庫拡張のために毎年(1956 ~ 68 年)土地を買い続けた。 各地に分散する倉庫は,10 箇所(総面積約330 ㎡)45)にもなっていたが,分散し仕様も異なる倉 庫では無駄とロスが多く,日々の荷役は2 重,3 重の手間となっていた。不効率な在庫管理の 解消と膨大な商品アイテム管理の上でも本社・倉庫移転は必要だったのである。 新本社・倉庫が位置する芹川町の敷地は6,600 ㎡以上で,当時 165 ㎡程度の事務所とスレー ト屋根の倉庫が平準だった日用品卸売業界でこのような広い用地を持った問屋は珍しかった。 1963 年ペガサスクラブのアメリカ視察ツアー46)に参加した久吉は,サンフランシスコやロサ ンゼルスの配送センターを訪れて規模の巨大さを実感していた。巨大物流倉庫を備えた卸売 企業だけが生き残れることを目の当たりにした久吉にとって,6,600 ㎡の土地は当然の広さで あった。芹川町の土地は,1971 ~ 74 年の土地値上前に坪当り 4 ~ 5 万円で購入した。建物 建設には,不況で苦しむ建設業者16 社が応募したために低価格で建設ができた(実際価格は不 明。入札価格4.6 ~ 1.65 億円)。この本社・倉庫移転を契機に,(1)コンピュータ導入,(2)大学 卒の第一期生入社47),(3)物流機能初期改革,(4)キャッシュ & キャリー開設という新しい取 組みを加納商事は行った。 3-4 物流機能の初期改革とコンピュータ化 物流機能改革の基礎は,1973 年の伝票方式への転換であった。日々の取引伝票から 400 頁 もある元帳や補助簿等に転記する財務書類作成方式を止め,帳簿を捨てた伝票方式とは,勘定 科目別にそれぞれ色の異なる紙が3 ~ 5 枚一組になった取引伝票を勘定科目毎に日付順に綴 るものである。この方式は転記ミスもなく,色 (勘定科目)別伝票であったため集計作業の分 業ができ,経理事務が大幅にスピードアップした。コンピュータは本社 ・ 倉庫移転を機に導入 した。その2 年後の 1977 年には,売掛金や買掛金の処理もこの伝票方式に転換した。小売業 からの小ロット多品種多頻度納品の要求はますます増加し,各種伝票の数が激増したためにパ ソコンによる会計処理や在庫管理を1986 年から始めた。 44)合成洗剤だけでなく,水洗トイレ用ロール紙等の「紙製品」は嵩高く,その割に商品質量が少なくて,低価格・ 低採算品であるために倉庫不足と倉庫・車両効率を悪くした。営業件数も増え営業・経理とも増員を迫られ ていた。流通産業研究所(2005,19 頁,21 頁)によれば,ある家庭用品・化粧品メーカーでは,1975 年 当時には100 アイテムだった家庭用品が 1980 年には 300 アイテムを超え,1985 年には 500 アイテムとな り,シャンプー・リンスでは1980 年には 400 アイテムもあったとする。RDC 滋賀は化粧品中心に,総計 11,000 種類の商品を扱う(2004 年 11 月 11 日調査)。 45)本町には 9 つの倉庫があり,本町といわず加納町とさえ言われた。総面積は,加納他(1992,246-253 頁) に記載の倉庫面積を合算したものである(8 号倉庫面積は記述がなく正確な総面積は不明)。 46)ペガサスクラブには夏原平次郎の紹介で 1961 年に加盟。主に繊維・食品問屋を中心に問屋 500 名が参加 する海外視察ツアーに,久吉は第1 回から 10 回余参加している。 47)「地方優良企業百社」『週刊現代』(1979 年 10 月 11 日付)に掲載された 2 社の卸売業の内 1 社が同社で, これが大卒者採用の契機となった。この記事をみて10 名が応募し,その内 4 名を採用した。(2004 年 10 月 14 日調査)。
1985 年 8 月,プラネット(設立)が設立された。プラネットは,「コンピュータの有効利用 による生産から,販売に至る企業活動全般の効率化を目指す」(三輪1995,395 頁)もので,ラ イオンのシステムを譲り受けてライオン,ユニ ・ チャームなど大手12 社が出資して設立され たものである48)。1976 年にライオン油脂㈱に息子を入社させていた久吉の目的は,ライオンの コンピュータシステムを習得するためであった49)。したがって,プラネットのシステムに熟知 しており,加納商事のプラネットへの参加は,これまで以上に同社の物流システムを効率化し た。1970 年代,売上高前年比平均 48% 増と急速な成長をしていた平和堂との取引拡大のため には,効率的な物流システムの確保が加納商事の必須の条件だった。そのための布石として, ①1968 年自社内でのライオン営業部設置を機とするライオン油脂㈱の物流合理化策の習得, ②1973 年の伝票方式による係数管理,③早期(1975 年)のコンピュータ導入,④ライオン油 脂㈱のコンピュータシステム習得を目的とした息子のライオン油脂㈱入社(1976 年)が考えら れる。以上のような早くからの周到な準備による物流効率化によって,同社は平和堂との取引 を拡大させ,同時に高い利益率を実現していたのである。 3-5 平和堂への商品供給と加納商事の物流センター 芹川町の敷地は,その後も隣地を継続して買入れ1988 年には 3 倍近い約 19,500 ㎡まで拡 張した。さらに,倉庫の大幅改修や第2 配送センター設置(1993 年,約 4,000 ㎡)などの物流 拠点設備をした。総額10 億円を投資した倉庫の改修では,店舗別の折り畳み式小型コンテナ を用意しピッキングが完了すると,自動的に配送先別に自動搬送できるコンベヤーによるピッ キング方式を採用して,ピッキング作業の労働生産性を高めた。第2 配送センターでは,営 業地域の広域化を目的に設立した京都加納商事㈱所有の物流センター(1987 年)と連携(『日経 流通新聞』1993 年 10 月 19 日付)して京都・大阪市内の平和堂店舗50)への配送を効率化する役割 を持たせた。 1996 年には,本社に隣接する物流センターに検品機能を持たせた POS システムを 5 台導入(5 億円)して,平和堂の配送センターや店舗に商品を配送する前に同配送センター内で検品を済 ませ,平和堂の荷受作業が軽減されるよう協力した。平和堂系列スーパーの「スパー」に対し ては,滋賀県野洲町にある物流業者の倉庫(延べ床面積825 ㎡)を賃借して約4 千万円かけてピッ キングカートやラックシステムなどを整備した(『日経流通新聞』1996 年 12 月 26 日)。1997 年 には,「平和堂日雑センター」51)(以下,HNC とする)が稼動した。これは,加納商事の物流センター 48)『日本経済新聞』(1996 年 10 月 2 日付)。同記事によれば,花王㈱情報システムに対抗する目的で設立され たが,1997 年には花王㈱もプラネットに加入した。㈱プラネット/資本金 4 億 3,610 万円(同社 HP)。 49)加納久吉氏談(2004 年 12 月 17 日調査)。 50)平和堂は,1978 年に京都府第一号店の小倉店,1987 年に大阪府第一号店の真砂店を開業。 51)HNC は「平和堂多賀流通センター」(平和堂所有)と車で 15 分の近距離にあるため,日用雑貨以外の商 品とも混載できるために,さらに配送コストを低減している。平和堂多賀流通センターについては,北山他
を平和堂が賃借したもので,平和堂からの商流は取引先日雑卸売企業7 社に流れるが,物流は 各卸売業の倉庫を経由せずにメーカーからHNC に直納させる。約 3,500 品目(原価ベースで年 間約60 億円)がメーカーからHNC に送られてくるが,HNC では店舗別だけでなく,各店舗 のカテゴリー別(売り場別)という仕分作業を加納商事が行なうという特徴を持っている(『日 経流通新聞』1997 年 6 月 17 日)。さらに,HNC の最大の特徴は,加納商事,滋賀県の西川商事㈱, 大阪市の近畿花王販売㈱の主要取引先3 社と平和堂が共同運営している点である。花王㈱は, 同時期にプラネット参加を決めていたが,他社製品と一緒にカテゴリー別の配送をするのは HNC が初めてだった。平和堂は,HNC が実施するカテゴリー別納品によって,商品陳列な ど店舗内作業の効率は1.4 倍,欠品は 2 割減,発注から納品までのリードタイムは最短で 6 時 間となった。また,欠品に備えて商品を多めに注文する必要がなくなり,在庫が40 日分減少(『日 経流通新聞』1998 年 3 月 3 日付)し,平和堂の商品回転率や物流コストの効率化は向上した。 久吉は,「当社では,発注データから商品別の売上高構成を計算,市場全体の動向と比較し, そこに大きなズレがあれば売り場の改善を提案する。特定メーカーの商品に肩入れする必要も なく,客観的な棚割り提案ができる。このような活動を強化していけば,一店舗あたりの取引 高が増え,コストダウンにもつながる」(『日経流通新聞』1998 年 3 月 3 日付),と同社の経営戦 略を考えていた。その一括配送の先駆的な取組みであるHNC は,各地に分散する卸売業の倉 庫を経由しないために物流コストは約20% 削減でき,また店舗での荷受回数の削減と商品回 転率の向上となって,平和堂の高利益率経営を可能としていたのである(北山2006)。
第
4 節 加納商事の一般小売店への対応
一方で,平和堂以外の一般小売店や卸売店に対する合理化策は,キャッシュ・アンド・キャ リー(以下,C&C とする)の設置と加納サービス・マーチャンダイジング(以下,加納SMD とす る)の開始がある。以下では加納商事の一般小売店への対応を検討する 4-1 キャッシュ・アンド・キャリー(C&C) C&C52)は,加納商事本社から30km 以内で取引額月 5 万円以下の小売店を対象に 1975 年 開始した。これは,660 ㎡の倉庫に商品約 3,000 アイテムを展示し,専従者 3 名による現金販 売である。小売店側にすると,現金支払で2%,配達無しで 2% の合計 4% が仕入金額から割 引いてもらえるシステムである。当初,業界初の取組みに,1 日に 10 万円売れればよいと予 (2005),矢作(2002)を参照。 52)大阪商工会議所(1965,50 頁)によれば,調査対象卸売商の 40.0% が C&C を採用し,業種別では,砂糖, 化粧品,靴,菓子,家具・建具の卸売商が採用しているが,規模別でみれば30 人未満の卸売商が多い。京 都商工会議所(1965,37 頁)では,C&C 実施は 215 業者中 41.4% である。特に織物,菓子卸売業が多い。 C&C については,大橋他(1985),田口(2005,258-259 頁)参照。想していたが,実際には,その10 倍もの売上高となった53)。これにより小口の小売店への訪問 回数が減っただけでなく,請求・集金費用も減少したために営業部員5 名の削減が可能となっ た。「セールス訪問なし,現金払い,自分で持帰り」,という新方式に苦情もあったが,小売店 側にとっても近隣の彦根卸売市場での商品仕入のついでに立寄り,自由に商品を選べてすぐに 商品が手に入るという利便性もあって,2 年目の販売額は 2 億円となった54)。1975 年以前の従 業員50 名がいた本町時代の店頭売りでは,販売額は年間 2 千万円だった。C&C は,たった 3 名で10 倍もの販売額へとなっていたのである。 C&C は,危険負担や配送,保管,販売促進だけでなく経営指導,情報提供機能を排除す ることにより,低価格販売と問屋経営の低コスト化を目的とする。大橋他(1985)によれば, C&C に関する調査(1983 年 11 月~翌年 1 月)では,完全機能卸売商55)と比べて価格の安さは 十分に認められず,品揃えも制限されている,という結果が示されている。加納商事がどの程 度の低価格を実現していたか不明だが,少なくとも同社にとって2 億円の販売にかかる人件費 は大幅に削減できていた。それだけでなく,商品アイテム数が多い割には低価格で,食料品と 比べ低回転率の上に代金回収に時間がかかる日用品雑貨でのC&C は,配達の必要も無く,現 金販売であるために加納商事の経営合理化に極めて有効だった。 4-2 加納サービス・マーチャンダイジング(加納 SMD) 加納(1992,400 頁)によれば,1979 年より始まった加納 SMD は,「小売店が儲かる新商 法を卸が無料設計し,実施のお手伝いも無料で」行う仕組みとする。具体的には,加納SMD 加盟店と,「商品構成」,「陳列商品棚」等で基本的合意をすると,加盟店に担当者が定期的に 巡回して,契約商品棚に商品補充し,3 ヶ月毎に売れ筋商品の変化を再調査して修正するシス テムである。1980 年から加盟を勧め 2002 年での加盟店数は約 200 である。1984 年になると, 携帯用コンピュータ端末機の導入により,午後2 時までの受注は翌日着荷56)となった。小売 店は加納SMD に加盟することによって,「これまでのように担当者 1 人からの限られた情報 が,複数の小売店経営と関わってきた卸売業という専門家からのさまざまな情報や指導が得ら れる」という57)。加納商事は,従来のように卸売業が小売店に商品を納入するだけとは異なり, 加納SMD に加盟し契約を結ぶことで流通専門家のリテールサポートが受けられると言うが, そのリテールサポートを受けるためには,小売店側は新たなコストが必要となったのである。 53)加納久吉氏談話(2004 年 12 月 17 日調査)。 54)この C&C のセンターは,元社員によって独立させ,2002 年から加納商事とは別会社となっている(2004 年12 月 17 日調査)。 55)林(1999,158-159 頁)によれば,全機能卸商人(完全機能卸売商)とは需給の結合,情報の伝達,流通金融, 危険負担の4 つの主機能を複合的に発揮するもの。 56)1988 にこの配送は,月水金の曜日固定制となった。1992 年には,企画 ・ 提案力を高めるために「店頭技 術開発センター」を本社近くに新設(『日経流通新聞』1993 年 10 月 19 日付)。 57)加納久吉氏談(2004 年 12 月 14 日調査)。
その費用が支払えないような規模の小売店ならば,C&C を利用するしか仕入方法はなくなっ たといえる。つまり,従来加納商事が小売業に提供していた配送や情報提供,与信といった卸 売機能全般において,一律的な対応ではなく規模による差別化が進められたのである。それだ けでなく,これまで無償で行われていた卸売機能の提供は有料へと変化した。『日経流通新聞』 (1983 年 7 月 7 日付)よれば,専用物流センター建設や情報システムに多額の投資をしてきた有 力卸売企業と異なり,中小卸売企業は,その生き残り策として,小売店の商品陳列から販売促 進企画,在庫補充まで小売店の売場一括管理を卸売企業が行なう「店頭活性化問屋」を目指すか, 大規模小売業の売場棚の一部分を借りて,商品構成,売価設定,商品補充などの業務を行なう 「ラック・ジョバー」(『日経MJ』2011 年 9 月 19 日付)になるかだとする。しかし,加納SMD は, これらとは動機も相手も異なり,非効率な取引先を合理化するために戦略的に「ラック・ジョ バー」を選択していたのである。 卸売業は,社会的流通費用の節約を基本的機能として,小売業へさまざまな機能を提供し, 小売を支援してきた。特に,零細小売業は金融や仕入政策等で卸売業に大きく依存する(秋谷 1971)とされているが,加納SMD は,①卸売業からのリテールサポートを受けられるのは契 約した小売店だけで,②その支援内容も契約した項目だけに限られる。つまり,契約による「リ テールサポート」という有料サービスの提供といえる点で,これまでの小売へ支援との違いが ある。また,加納SMD に加盟できる規模の小売店にとっても,加納商事との関係は変化した。 これまで定期・非定期に巡回していた加納商事の担当社員と小売店とは長い付合いから経営全 般だけでなく,個人的なことも含めてさまざまな相談ができていた。加納商事側でも小売店主 からの種々の相談を受けることによって,小売店の深い内部情報が入手できていた。こういっ た長期継続的な関係によって得られていた一般小売店についての経営情報の収集は不要とな り,計数管理による合理化を加納商事は目指していたのである。 4-3 加納商事の小売支援策 卸売業による小売業への支援は,一般にはリテールサポートと言われる。しかし,前項でみ たように,本稿では「リテールサポート」は契約による有料サービスの提供とし,小売業に 対する卸売機能全般での提供を小売支援として,加納商事が行ってきた見本市と招待旅行の2 つを小売支援の視点から検討してみよう。 「見本市」 見本市は,地元の彦根百貨卸商業協同組合の彦根百貨卸売センター58)建設(1964 年)に伴う 付合いから,3 口分 360 坪(1,188 ㎡)を購入したことが開催の契機となった。アメリカのよ 58)1963 年,「中小企業近代化資金助成法」(1961 年)の大幅な改正によって高度化事業が流通業にも適用さ れる「中小企業卸売業店舗集団化助成事業」ができた。これによって1968 年に完成したものである(日経 1993,180-181 頁;石原 2009)。