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〈特集 行く・読む〉死者と生者を分かつもの/死者と生者が分かち合うもの

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Academic year: 2021

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〈特集 行く・読む〉死者と生者を分かつもの/死

者と生者が分かち合うもの

著者

福田 雄

雑誌名

KG社会学批評 : KG Sociological Review

2

ページ

53-54

発行年

2013-03-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/11901

(2)

53 KG 社会学批評 第2号[March 2013] 〈2.特集 行く・読む〉

死者と生者を分かつもの/死者と生者が分かち合うもの

石井光太

『遺体

――震災、津波の果てに』

(新潮社、2011)

福田 雄

 2011年3月11日に発生した東日本大震災は膨大な数の死者を生み出した。本書は、震災直後の岩手 県釜石市で残された人びとが、遺体が葬られるまでの数週間、いかに遺体と向き合ってきたのかを描 き出したルポルタージュである。「はたして日本人はこれから先どうやってこれだけの人々が惨死して 横たわったという事実を受け入れていくのだろう」(本書:262)、「彼らがどうやってこれほど死屍が 無残に散乱する光景を受容し、大震災の傷跡から立ち直って生きていくのか」(本書:263)。著者はこ れらの問いを、民生委員、医師、市役所職員、消防団員、葬儀業者、僧侶らの視点を通じて模索する。  本書はプロローグ、エピローグと四つの章によって構成されている。プロローグに続く第一章「廃 校を遺体安置所に」においては、震災直後に遺体の検案や歯型の確認に従事した医師や、次々と運ば れてくる遺体の管理と遺族への対処を引き受けることになった民生委員が、いかに大量の遺体と対面 し、その状況に対応していったのかが描かれる。第二章「遺体捜索を命じられて」では、遺体の捜索 と運搬にかかわった釜石市職員や消防団員、陸上自衛隊隊員らの様子が記述されている。第三章「歯 型という生きた証」では、遺体の検歯に携わった歯科医師らが苦悩しながらも自らを奮い立たせなが ら、遺体を家族と再会させるために努力した様子が述懐されている。そして第四章「土葬か、火葬か」 では、遺体がすべて葬られるまでの紆余曲折と、僧侶や葬儀業者、遺体安置所の管理者らがいかに死 者に敬意をもって接したかについて記されている。そして最後のエピローグでは、これまで登場する ことのなかった著者自身の視点から釜石市の遺体安置所での出来事が振り返られ総括される。  主題から分かる通り、本書は遺体となった死者との対面を中心に展開される。ただし本書における 死者は、黙して語らない無機質な「モノ」としてだけではなく、死してなお様々な方法によって、生 者に語り、思いを託し、津波後の生き方を方向づけるような主体として描き出されている。語り手と して最初に登場し、遺体安置所の「主」となった民生委員の千葉氏は、死者と対面する人々に「気持 ちを楽にする言葉」をかけ続ける。「亡くなったお父さんは来てくれただけで喜んでいるよ」、「亡く なった方は家族が近くにいると温かさを取りもどすんだよ」(本書:188)。千葉氏は「自分が死者との 間に立って言葉をかけてあげ」(p. 199)ることで死者と生者のつかのまの交流の場を取りもどす。そ こでは津波によって生者から断絶された死者を、再びコミュニケーション可能な存在として実践的に 措定することで、残された者の慰めの場が創出されているように思われる。  ただし死者と生者を橋渡しする彼らもまた不断の葛藤にさらされている。遺体に接する登場人物ら

(3)

福田:死者と生者を分かつもの/死者と生者が分かち合うもの 54 は、死者をひとりひとり人格を持つ大切な存在として扱おうと試みる一方で、死者を不特定多数のモ ノとして効率的・作業的に処理しようとする自分自身に戸惑う。一人一人の死者の尊厳を重んじよう とする自分と、「気がつくと、目の前の遺体に対して何も感じていない自分」のせめぎ合い。名前と感 情をもっていたひとりの人格としての遺体と、番号や発見場所などの情報で識別される名もなき遺体。 それは『悼む人』(天童荒太、2008)で描かれている主人公、静人の葛藤とも重なる。生前「誰に愛さ れ、また誰を愛していたか、どんなことで人に感謝されたか」(天童2008:34)という一人の特別な個 人として死者を扱うことと、数(データ)に換算されるような匿名の存在として死者を扱うこと。「死 者はひとりひとりが尊厳ある取り扱いを受けるべき存在である」と自分に言い聞かせるも、時が経つ につれどんどんと運ばれてくる遺体の数は、死者に払うべき敬意というものを少しずつ奪いとってい く。  こうした葛藤のなかにあってもなお、登場人物らが一人一人の死者をかけがえのない存在として扱 おうと、遺体安置所に留まり続けることを可能ならしめたのは何か。そこにはそれぞれの職務という だけではない何かがあったように思われる。たとえば、釜石市職員で遺体を遺体安置所の「旧二中」 まで搬送する作業を行い続けた松岡氏は「自分と彼らをわけたものが何だったのかと改めて考えてし まう」(本書:118)。「たまたま津波の被害に遭わずに生き残ることができた」、「自分がそうなってい てもおかしくなかった」という語りは、津波から生き残った人びとから度々聞かれるものである。「自 分にも起こりえた」という偶然性によって分け隔てられた生者と死者の「運命の兄弟関係」1。他者の死 と自己の死とのあいだに間主観的に構成される〈われわれ〉という社会関係。津波以前には存在して いなかったであろうこの関係は、災禍に直面し「たまたま津波の被害に遭わずに生き残ることができ た。」(本書:120)という偶然性を感覚することなしに果たして可能だったであろうか。「われわれは いかにこの死を受容し、それを乗り越えていくことができるのか」。著者のこの問いは、死を生と分離 し遠ざけることではなく、死ぬこと/生かされていることの偶然性を分かち合うことのできる実践を われわれがいかに生みだすことができるのかという問いに言い換えられるのかもしれない。 [参考文献]

Jankélévitch, V., 1966, La Mort. Paris Flammarion. (=1978,仲沢紀雄訳『死』みすず書房.) 天童荒太、2008、『悼む人』文藝春秋.

1 「他者の死を前にして、仮に難を免れている人間は、即時の感得によって、今日指名された犠牲者との運命の

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