戮後日本におけるマルクス主義人格理論の到達点と課題
はじめに 本稿の課題は、戦後、とりわけ六〇年代以降、﹁人格﹂がマルクス主 義の立場においてどのように把握され、﹁人格﹂に対してどのようなア プローチがなされてきたのかを総括し、人格理論の基礎的諸課題を呈示 することにある。そこで本稿では、まず、戦後における人格観・人格理 論の展開を概括し、その上でいく人かの論者の人格観・人格理論を紹 介・検討し、最後に、人格理論の基礎的諸課題を呈示したい、と思う。 したがって、ここでは外国︵ソビエト・東ドイツ等︶の人格理論につい ては、日本の人格理論との関わりでしか触れることかできない。それに ついては別稿に譲りたい。 -戦後における人格理論の展開 日本のマルクス主義や民主主義教育運動の中で、﹁人格﹂の問題が論 じられ、﹁人格﹂概念が使用されるようになったのは、六〇年代に入っ てからであり、しかも様々な学問分野で頻繁に使われだすのは、日本資 本主義の諸矛盾が目にみえるかたちで噴出し始めた七〇年代に入ってか らであった。それまでは、人格概念はどちらかといえば、否定的なニュ アンスをもったものとして拒否されていた。例えば、戦後まもなく制定 五一 池 谷 壽 夫 ︵教育学部教育学教室︶ された教育基本法第一条では、すでに﹁教育は人格の完成をめざし⋮﹂ と謳われていたが、民主的な教育者たちの間では、﹁﹁人格﹂というこ とばは、古い道学者めいた理念をまとっているので、教基法第一条のこ のことばはあまり評判がよくなかった﹂、と勝田氏は述べている。寺沢 氏も、ソビエトのトゥガリノフ論文﹁共産主義と人格﹂を紹介する中 で、日本語の‘﹁人格﹂という訳語を使う際のジレンマをご べているy。 わたしは今まで﹁人格﹂という文字を書きながら、不安定な感じをもちつづ けてきた。というのは、われわれ日本人が日常的に﹁人格教育﹂とか﹁あの人 は人格者だ﹂などという場合に﹁人格﹂という言葉で理解しているものと、ロ シア語の﹁リーチノスチ﹂という言葉が意味するものとか、かなり食いちがっ ていることを意識しながら、しかもこのロシア語を日本語に訳すのに、やはり ﹁人格﹂という言葉以外の訳語を見いだしえないからである。 こうした例からもわかるように、マルクス主義や民主教育の立場に立 つ多くの人々の間では、﹁人格﹂概念は、古い道学者的な色彩を帯び。た ものとして、否定的に受けとられていたのである。 このようななかで、六一年に芝田進午氏の﹃人間性と人格の理論﹄ 青木書店︶が出版された。この著書は、日本ではじめて、マルクス主義 を﹁人間性と人格につ 0ての唯物論的理論﹂ ︵一八ページ︶として体系 的に展開しようとした画期的なもので、大きな影響を与えた。 さらに、六〇年代に入って、ソビエトの哲学、社会学、教育学、心理五二 高知大学学術研究報告 第三〇巻 社会科学 学などの諸文献か大量に翻訳・紹介されるようになって、日本でもその 影響をうけて、﹁人格﹂の問題か論じられるようになった。例えば、田 川精三﹁集団主義と人格の形成﹂︵﹃唯物論研究﹄、青木書店、第一五 号、一九六三年九月、所収︶は、ルビソシュテインやマカレンコをふま えて、集団主義的人格の形成を論じているし、先の寺沢論文﹁共産主義 と人格の全面的発展﹂も、ソビエトでの人格問題の討論を紹介してい しかし、日本の現状をふまえて人格理論か本格的。に展開され始めるの は、六〇年代の政府=自民党の産学協同と能力主義の教育政策によって 選別・受験教育か一段と強められ、その影響か様々な歪みを伴って子ど もたちに現われ始めた七〇年代に入ってからであった。その理論的な先 駆けをなしたのが、六九年の講座﹃現代民主主義教育﹄第三巻に掲載さ れた島田豊氏の論文﹁科学的世界観と人格の形成﹂であった。彼はこの 中で﹁人間性と人格の概念についての基礎的検討﹂ ︵二九ページ︶を行 い、人格を﹁生きている肉体のうちに存在する肉体的および精神的諸能 力の総体としての労働能力﹂ ︵一六ページ︶と規定したのであるが、こ の人格規定は後にみるように、教育学者や哲学者たちに様々な波紋を投 げかけた。 七〇年代に入って教育の分野では、学力の低下、非行の増大などの教 育の荒廃現象に抗しつつ、民主的人格の形成をいかにトータルに押し進 めていくのかという観点から、人格の基礎的な問題かあらためて検討さ れるようになった。 矢川氏はすでに五〇年代から人格形成の問題をとり上げてきていた が、﹃マルクス主義教育学試論﹄ ︵一九七一年、明治図書︶ において は、﹁日本の教育学者たちのあいだでは、人格形成ということばがしば しば用いられてはいるか、その人格なるものを教育学の基本概念︵カテ ゴリー︶として規定することは怠られがちである﹂ ︵七ページ︶ヽという 現状認識にたって、教育学的アスペクトからの﹁人格﹂概念を作業仮説 として呈示した。矢川氏はその後も、ソビエト心理学における論争を 紹介しながら、人格の構造とその発達の問題を原理的に究明している ︵﹃人格の発達と民主教育﹄、青木書店、一九七六年︶。 同じ七一年にでた、全生研常任委員会著﹃学級集団づくり入門﹄第二 版︵明治図書︶は、生活指導を﹁子どもたちのなかに集団の民主的主人 としての自治能力と自覚とを、ひいては、民主的主権者としての統治能 力と自覚とを育てあげる教育的いとなみ﹂ ︵一ページ︶ととらえ、この 観点から、﹁人格﹂を﹁思想と行動能力との統一されたもの﹂ ︵二五ぺ・ Iジ︶としてとらえている。 七二年には川合章氏の﹃民主的人格の形成﹄ ︵青木書店︶が出てい る。川合氏は子どもの成長・発達をつねに全体的なものとしてとらえる という見地から、子どもの能力、人格の発達の問題を原理的に究明し、 それを生活と教育との結合の中でとらえようとしている。 この年には、川上信夫﹁マルクス主義における人格概念﹂ ︵﹃名寄女 子短期大学学術研究報告﹄くo1. 5︶がでている。ここで川上氏は、﹁集 団主義的教育論、とくに訓練論としての訓育論を建設するための準備 的努力﹂ ︵一九ページ︶ として、マルクスにおける人格概念を追求し ている。そしてその前提的作業として、一方では芝田・島田両氏の人格 論が、他方では大井正氏の人格概念か批判されている。 近年、ソビエト心理学界の人格論論争の成果と到達点を整理しなが ら、能力とは、学力とは、人格とは、といった問題に績極的に取り組ん でいるのか、坂元忠芳氏である。坂元氏の一応の到達点は、﹃子どもの 能力と学力﹄︵一九七六年、青木書店︶、﹃学力の発達と人格の形成﹄、 ︵一九七九年、青木書店︶に示されている、といってよいであろう。 哲学においても、七〇年代に入って人格の問題が本格的に論じられる ようになっている。
大井正氏は﹃唯物史観における個人概念の探求﹄ ︵一九七〇年、来来 社︶の中で、人格を個人とは必ずしも同一ではない労働主体とし・てとら えている。真下信一氏は﹁現代社会における人間の問題﹂ ︵一九七二 年︶の中で、入間の本来的・あり方を﹁パースソ︵Person︶﹂としてと らえ、この﹁パースン﹂を、自由の主体、愛の主体、統一性と全体性、 という三つの規定においてとらえている︵﹃真下信一著作集﹄第一巻、 一一六ページ以下参照︶。福田静夫氏は﹁市民主義と民主主義﹂ ︵講座 ﹃現代日本資本主義﹄4、イデオロギー、一九七三年、所収︶で、島田 氏と同様人格を﹁社会的労働に発現させる主体の生命力、労働能力﹂ ︵二一六ページ︶と規定し、﹁学問とヒューマニズム﹂ ︵﹃青春と哲学 への出発﹄、汐文社、所収︶においてはこの人格を、社会的概念と個人 的概念の二側面においてとらえている。 七四年には、日本倫理学会でも﹁人格﹂が共通課題として論議されて いる︵金子武蔵編﹃人格﹄、理想社︶。私かリュシアンーセーヴの﹃マ ルクス主義と人格の理論﹄をふまえながら、人格を労働能力ととらえる 見解では人格の発達と構造を十分にとらえきることができないのではな いか、という疑問をはさんだのも、この時期であった︵﹁史的唯物論と 人格理論﹂、﹃唯物論﹄、汐文社、第三号︶。 その後、人格の問題を人権の問題との連関で精力的に論じているの が、吉崎祥司氏である。彼は﹁ドイツーイデオロギー﹂を中心にマルクス の人格概念を追究し、人格概念の基本構造を解明している。’さらに、価 値論とのつながりにおいても人格 論とのつながりでも論じられてい ﹃8﹄の問題が取り上げられているし、自由 ︵9︶ る。 心理学の分野では、乾孝氏は戦後いち早く、﹃心理学﹄ ︵博文社、一 九五六年︶の終章﹁人格の形成﹂の中で、人格を、.﹁外側の世界からの 諸影響をとおして、彼が礎きあげてきた、比較的恒常的で強固な諸特殊 性の統□ ︵二三四ページ︶として、しかも、生活の中で生活の諸条件 五三 戦後日本におけるマルクス主義人格理論の到達点と課題 ︵池谷︶ を変化させ、活動の方向をかえることによってつくりかえうる可変的な ものとしてとらえていた。最近では、乾氏は新版﹃児童心理学﹄ ︵新評 論、一九七七年︶の中で、新たに﹁人格の発達﹂という章を設けて、人 格の構造的把握を試みている。また心理科学研究会は、七六年秋の研究 集会で、﹁心理学研究の課題と人格﹂というシンポジウムを設定して以 来、。﹁人格﹂を研究課題の一つとして位置づけてきている。高垣氏の総 括によれば、心科研では、人格は、人間を人間たらしめる﹁人間性﹂ と、その人をその人たらしめる﹁個性﹂との統一において把握されてき ている︵高垣忠一郎﹁﹃心科研における人格研究の到達点と課題﹄の総 括﹂﹃心理科学﹄第三巻第一号、一九七八年九月、所収︶。 社会学でも、例えば田中義久氏は﹃人間的自然と社会構造﹄ ︵勁草書 房、一九七四年︶において、分析体系論の理論的準拠枠を︿認識1行為 Iパーソナリティー▽というトリアーデのうちに求め、﹁パーソナリテ ィー﹂について論じているし、安田尚﹁マルクス主義人格理論における 基礎視角﹂ ︵﹃社会学評論﹄、三〇巻一号、一九七九年︶は、L・セー ヴとG・マールクシュの所説を検討してマルクス主義人格理論の基礎視 角を解明しようとしている。 ごく最近では、﹃マルクス主義研究年報﹄一九八〇年版︵合同出版︶ で﹁人格理論の諸問題﹂という特集が組まれ、様々な学問分野から次の ような論文が掲載されている。 芝田進午﹁マルクス主義と人格の理論﹂ 藤田勇﹁マルクス主義法学における人格論∼ 池上惇﹁マルクス主義経済学からみた入間論と人格論﹂ 竹村英輔﹁グラムシの人格形成論﹂ 坂元忠芳﹁ソビエト心理学における人格構造論の方法をめぐって﹂ 以上、六〇年代以降の人格研究の展開を概観してきたが、次に、重要
五四 高知大学学術研究報告 第三〇巻 社会科学 と思われるいく人かの人達の人格研究を、いくつかのテーマにそって紹 介・検討していくことにしたい。 二 芝田・島田氏の人格理論 I 芝田氏の﹃人間性と人格の理論﹄は、﹁もっぱら歴史的な観点からす る人間性と人格の理論の試論的展開﹂ ︵一八ページ︶として、人格理論 を主として系統発生的見地から展開しているが、そこには同時に個体発 生的見地からの人格把握も見られる。ここでは、第一部第六章﹁人間性 と人格の形成﹂。を中心に、氏の議論をみていくことにする。 芝田氏はまず、﹁人間がなんであるかは、かれらの生活と生産、すな わちかれらがなにを、いかに生産するかに合致する﹂という﹃ドイツ・ イデオロギー﹄の見地から、﹁人間性︵人間的自然︶﹂をこの人間の ﹁生活過程、生産過程の全過程﹂、﹁それらの諸関係の総体﹂︵一二八 ページ︶としてとらえる。しかも、自分自身に対する人間の関係は、他 の人間に対する彼の関係を介してはじめて現実的になるのであるから、 孤立した人間性などは存在しない。ここから芝田氏は、マルクスの﹁フ ォイエルバッハにかんするテーゼ第六﹂の、﹁人間的本質はその現実態 においては社会的諸関係の総体である﹂という命題をふまえて、人間性 を﹁社会的諸関係の総体﹂としてとらえる。このように、芝田氏は﹁人 間性﹂を﹁人間的本質﹂と等置する。 そして、芝田氏によれば、こうした﹁人間性の具体的現実存在﹂であ る、肉体的ならびに精神的諸能力の担い手こそが、本来の意味での人格 である︵一二九ページ︶。その際に芝田氏が依拠じているのは、﹃資本 論﹄の次のような有名な労働能力規定である。 われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体︵Leiblichkeit︶ すなわち生きた人格︵Personlichkeit︶のうちに存在していて、彼がなんらか の種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的およ siss3ssxss ︵仙︶ び精神的諸能力の総体のことである。︵傍点引用者。以下、傍点はすべて引用 言 芝田氏によれば、このマルクスの思想は、第一に、労働能力との関連 において人格を考えている点で画期的であり、しかも第二に、人格を肉 ・体的能力と精神的能力の﹁統一ないし総計﹂としてとらえる点で、観念 論的人格理論や俗流唯物論的人格理論からも区別される。人間は労働を 通じて、自らをたんなる﹁自然力﹂から﹁労働力﹂に形成し、肉体的な らびに精神的諸能力の総計を発展させるが、ひとたび形成された人格 は、労働力の外化によって自らを実現し、労働において自らを再び実証 する。かくて、芝田氏によれば、マルクス主義か人格理論にもたらした 根本的変革は、こうした﹁労働と人格形成の弁証法的関係をはじめてあ きらかにしたこと、人間性と同様、人格をも一つの過程として、また諸 関係の総体としてとらえ、そのことによって人格発展の無限の可能性を あきらかにした点﹂ ︵コニ○ページ︶にある。 ところで、芝田氏は人格形成の要因として、素質、環境、実践をあ げ、それらのうちで実践を決定的要因としてとらえる。人間は環境を変 革する実践の中で、素質をめざめさせ開花させるとともに、みずからの うちに新しい性質を生みだし形成し、みずからを変革するのである。こ こから、﹁人間における人格の発展もまた、自然にたいする人間の支配 力の増大、労働能力の発展によってはかられる﹂ ︵コ二二ページ︶と、 結論される。 次に、芝田氏は人間性と人格の歴史的発展を明らかにするために、ま ず、社会の発展段階を次のようにとらえる。 ︱ 原始共同体i−無階級社会 2 商品生産社会−︱階級社会
3 共産主義−無階級社会 ’次いで、、芝田氏はこの三段階を、マルクス﹃経済学批判要網﹄に依っ て、﹁人間性と人格の発展過程の三段階﹂ ︵コ二四ページ︶としてとら え返す。すなわち、第一段階︵原始共同体︶は、自然成長的な﹁人格的 依存関係﹂の段階であり、分業も生じておらず、したがって﹁個人﹂も 生まれてはいない。ここでは人間たちは人格をもってはいるか、個性は もっていない。 第二段階の階級社会では、生産と所有の分裂とともに、生産物が人間 を所有することになる。すなわち﹁事物的依存関係﹂脆支配的となる。 商品生産にもとづく階級社会では、人格的依存関係は消失し、人格の疎 外と分裂か一般化される。しかし交換価値を基礎とする生産は、個人の 無限の分化を促進するので、人格の喪失と比例して、個性の無限の多様 化が不可避となる。とはいえ、との多様化は商品の論理の貫徹の所産と して、本質的・には、個性の画一化・平均化でしかない。しかし他方で は、生産力の無限の発展が人格の全面的発展、個性の全面的開花を要求 し、後者が前者の一層の発展を促すという弁証法的矛盾は、﹁事物的依 存関係﹂と敵対関係に陥る。かくて、第二段階の胎内に第三段階の無階 級社会の形成の前提条件がつくりだされる。そして共産主義が達成され ると、再び﹁人格的依存関係﹂はより高度の次元において復活され、人 格が生産過程を支配するようになる。同時に生産力の巨大な発展にもと づいて、個人の普遍的発展か可能となり、無数の自由な。個性が形成され る。この段階においてはじめて、人格と個性との統一が可能になる。 このように、芝田氏は△無階級社会・原始共同体←階級社会・商品生 産社会←無階級社会・共産主義社会▽と︿人格的依存関係←事物的依存 関係←人格的依存関係の高次復活▽とを照応させるのであるが、これ は、芝田氏の誤った﹃要網﹄解釈に基づくものであった。この点は後に 見るように、川上氏によっ七批判されることになるし、芝田自身も後に 五五 戦後日本におけるマルクス主義人格理論の到達点と課題 ︵池谷︶ 若干の訂正をしている。 さて、以上の点をふまえた上で、芝田氏は﹁人間性と人格を研究する 理論は、科学の体系においていかなる位置を占めるのであろうか﹂ ︵一 三七ページ︶と問い、ソビエト心理学界の成果をふまえて、科学として の人格理論の理論的原則を挙げている。 第一の原則は、心理と人格の結合である。氏によれば、﹁心理的構 造﹂としての性格と人格とは切り離しえないものであり、また﹁社会的 価値﹂と人格形成の関係も第二信号系や集団内の信号活動の力動的常同 型の役割を抜きにしては考えられない。しかも、﹁ひとたび形成された x% is%s一x s isx x sx x slis tx xsべ一人格は、一つの全体的統一体として、個々の心理現象を規定しかえす﹂ ︵一四八ページ︶。この点で芝田氏は﹁心理現象は人格の全生活に有機 的に織りこまれている﹂というルビンシュテインの見解に賛成してい る。このように芝田氏は、この当時すでにルビンシュテインの心理学へ の人格的アプローチを高く評価していたのである。かくて、心理学と人 格理論の関係も次のように把握される。﹁心理学か真に科学的であるた めには人格理論に媒介されねばならず、また人格理論は心理学を自己の うちに止揚しなければならないのであって、心理学と人格理論は別の科 学ではありえない。﹂ ︵同︶ 第二に、人間行動の最も重要な原動力をなすのは、欲望である。欲望 は生物学的なものではなくて、社会的・個人的性格をもつものであっ て、社会の欲望と個人の欲望は弁証法的に統一している。この両者の矛 盾がどう解決されるか、個人の欲望がいかに満たされるかが、人格の形 成を規定している。欲望の全面的発展がとりもなおさず、人格の全面的 発展を規定する。 、 第三に、人格は﹁社会的諸関係の総体﹂であるとともに、また﹁個人 的特徴をもった﹃能力﹄か発現する直接的活動の過程﹂である。この意 味で人格は、本質的には﹁社会的カテゴリーとしての人格と個人として
五六 高知大学学術研究報告 第三〇巻 社会科学 の人格の統二 ︵一四九ページ︶である、といえる。しかし現実には、 原始共同体においては、人格はまだ﹁個人﹂として成立していないし、 商品生産社会では、人格は経済的カテゴリーの人格化としてのみ存在 し、﹁平均的個人﹂として存在するにすぎない。 それゆえ第四に、科学としての人格理論は、階級社会の下で疎外され ていふ人格を真の人格へ解放するとともに、個性の自由な発展を要求す るという実践的性格をもたねばならないし、またそのための具体的過程 をも明らかにしなければならない。そのかぎりでパ人格理論は心理学、 政治学、教育学などとも結びついていなければならない。 以上のことからわかるように、芝田氏にあっては、人格は、田一方で は社会的カテゴリーとしては、社会的諸関係の総体=人間性と等置され ており、匂他方では個人的カテゴリーとしては、個人的特徴をもった能 力が発現する直接的活動の過程、ないしは一つの全体的統一体としてと らえられている。そして、㈲これら両カテゴリーを媒介・統一するもの として、人格はさらに、人間性の具体的現実存在である、肉体的および 精神的諸能力の担い手としてとらえられたり、あるいはそれらの能力の 総計と等置されているように思われる。つまり、社会的な労働過程を通 じて、労働能力︵の担い手︶としての人格は社会的諸関係へと入り込み それによって規定されるとともに、自らの個人的能力を発現・形成して いく、というふうにとらえられているのであろう。 しかし、芝田氏の人格概念にはいくつかの問題がはらまれている。ま ず第一に、人格を社会的諸関係の総体と等置していることである。もし そうであるならば、人格と社会とは同一のものとなってしまうであろう し、それゆえまた、人格と社会との対立・矛盾などは存在しえないこと になろう。また、厳密にいえば、﹁人間性︵人間的自然︶﹂と﹁人間的 本質﹂とを等置することも問題であろう。後者は人間の人間たる所以を 明らかにする概念であって、人間を自然との繋がりからとらえた前者の 概念とは、必ずしも同一ではないのである。 次に、芝田氏にあっては、人格は労働能力の担い手なのか、労働能力 そのものなのかは必ずしもはっきりしてはいないのであるが、資本主義 的生産においては、労働者はかれの商品たる労働力すなわち人格を時間 ぎめで売ることによってのみ﹁人格﹂でありうるとか︵一八三ページ︶、 労働力の価値は人格の価値と等しいものであるとか︵一八四ページ︶、 言われているところをみると、後者のように考えているようにも思われ る。とすれば、いくつかの問題がでてくる 0第一に、マルクスの労働能 力規定においては、労働能力は﹁人間の身体すなわち生きた人格﹂のう ちに存在する、と言われているのであるから、ここからは単純に人格と 労働能力とを等置することはできない。たしかに、マルクスは別の箇所 では、﹁彼の労働能力、彼の人格︵2aoコ︶ の自由な所有者⋮⋮﹂と 述べて、人格︵Person︶と労働能力を等置しているのであるが、そう した規定はあくまでも経済的諸関係の担い手という限られた視角からの ものであるから、科学的人格理論︵この学問の対象をどう理解するかと いうことも間題ではあるか︶を一つの学問分野として構築するさいに は、そこから単純に人格規定をひきだすことはできないのである。しか も、その際にPersonlichkeitではなくてPesonが労働能力と等置され ていることにも注意ひておく必要かおる。 逆に、人格を労働能力の担い手ととらえるとすれば、人格・の価値は必 ずしも労働能力の価値によって汲みつくされるものではないことにな る。このような芝田氏のジレンマの基礎には、人格と能力との関係をど うとらえるのか、経済的カテゴリーの人格規定と、全一的統一体という 心理学的人格規定との関係をどうとらえるのか、という根本的な問題が 横たわっているのであって、この点は芝田氏にあっては必ずしも究明さ れていない。 このような問題があるとはいえ、芝田氏がマルクス主義を人格理論と
して展開したばかりでなく、少なくとも人格の内実か労働能力にあるこ とを指摘し、人格を社会的カテゴリーと個人的カテゴリーの統一として とらえ、科学的人格理論の基礎を与えようとしたことは、高く評価され ねばならない。 ところで、その後芝田氏は﹁マルクス主義と人格の理論﹂で、﹁発達 理論としての人格理論﹂=個体発生的な人格理論を展開している。。ここ で芝田氏は、﹃人間性と人格の理論﹄で展開した人格の歴史的発展過程 のE段階か、個体発生的な人格発達の過程にもあてはまる、と考えてい る。 。 赤ん坊、幼児期、少年少女期、青年期をへて、成年になり、さらに老年にな り、死んでゆくまで、現実の一人一人の人格の形成の過程は、人格を疎外する ﹁物件的依存関係﹂ならびにそれと対立する﹁人格的依存関係﹂の闘争であり ます。そして、この﹁人格的依存関係﹂を家庭、学校、青少年組織、職場、政 洽生活等においてどのように拡大してゆくかによって、﹁個性ある人格﹂ない し﹁人格的個性﹂が形成されてゆくのであります。︵二二ページ︶ そしてこのような発達論的見地から、﹁人格﹂は現実態としては、 ﹁集団的・。社会的諸関係の総体のなかで形成された個人史ないしはライ フーヒストリーの過程、その集約﹂ ︵同︶としてとらえられている。こ の定義をみるかぎりでは、人格を社会的諸関係の総体とみる先の氏の見 解は修正されているようである。 11 島田氏は、科学的世界観としての弁証法的・史的唯物論か人間性と人 格の形成をいかに把握しているのか、という問題視角から、人格規定を 行っている。 島田氏も芝田氏と同様、まず人間性を人間的本質と等置して、これ を、労働によって形成される社会的諸関係の総体、その過程としてとら 五七 戦後日本におけるマルクス主義人格理論の到達点と課題 ︵池谷︶ える。次いで、芝田氏と同様、人間の生産の仕方=人間の生き方という ﹃ドーイデ﹄の周知の命題をひいて、次のように結論づける。﹁このよ うに、労働が諸個人の特定の生き方であるとすれば、・マルクスにとっ て、人格とは社会的労働に表現される主体の生命力、すなわち、労働能 力のことにほかならない﹂ ︵一六ページ︶。その論拠となるのは、先の マルクスの労働力規定である。ここから、人格は、﹁生きている肉体の うちに存在する肉体的および精神的諸能力の総体としての労働能力﹂ ︵同︶と定義される。 この﹁マルクスの人格規定﹂を、島田氏はさらにマルクスの労働過程 論をふまえて、三つの側面から立ち入って考察する。 第一に、人格は人間の肉体、人間という自然から切り離された抽象物 ではない。人間は自然の一部であり、人間自身の自然︵人間性︶の諸力 を具えている。 第二に、人間は自然を労働によって目的意識的に変革して、生産物を 生産するが、この過程で人間は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢 力を発現させ、その諸力の営みを統御して、彼自身の自然=人間性を変 化させ、彼の自然力を労働力に形成する。それゆえ、労働能力は生得的 なものではなく、労働によって形成・獲得される。そ’のさい、労働能力 を成しているのは、肉体的能力のほかに、﹁理性・意志・情熱・欲望な どの精神的能力の全体﹂であるか、これら理性の発展は、労働過程では 相互に条件付け合いながら、有機的に統︸されている。この意味で、労 働は﹁人間の人格の統一性の基礎﹂ ︵一七ページ︶である。 第三に、労働は、主体としての人間の客体としての自然への関係と、 社会をかたちづくる他の人間との関係という二側面の統一であるから、 人格と人格意識としての自己意識とは、労働とそれにもとづく社会的諸 関係によって媒介されている。人格の形成は、自然および社会的諸関係 に対する実践的変革の過程の中でのみ行われる。
五八。 高知大学学術研究報告 第三〇巻 社会科学 。 かくて、島田氏によれば、個人の全面発達とは、基本的には、﹁労働 する人間のあらゆる素質を能力として実現すること﹂であり、それゆ え、﹁個人の労働能力こそが人格であるという視点をつらぬくこと﹂こ そ、﹁教育の科学め基礎﹂であるということになる︵二九ページ︶。 こうした人格規定をふまえて、島田氏は資本主義下における人格の問 題を論じるのであるが、ここでも芝田氏と同様、人格の疎外は労働者か 彼の労働能力すなわち人格の所有者として、その人格を時間ぎめで売る ことにあり、人格の価値は労働能力の価値であることが指摘されてくる。 このようにみてみると、島田氏は、さまざまな含みと展開可能性をも っていた芝田氏の人格規定を、労働能力という人格規定へと収斂させて 単純化して’いることかわかる。 三 人格︱労働能力という規定をめぐって I この島田氏の人格規定に対して、いち早く疑問を投げかけたのは、矢 川徳光氏であった。 矢川氏は﹃マルクス主義教育学試論﹄において、人格を教育学的アス ペクトからとらえようと試みている。その際、二つの見解が批判の対象 とされている。一つが島田氏の人格規定であり、もう一つが、人格を ﹁社会的諸関係の総体﹂ととらえるペトロフスキーなどの見解である。 矢川氏によれば、マルクスの﹁社会的諸関係の総体﹂という規定は、 ﹁人間的本質﹂に関するものであって、心理学や教育学が各々固有な人 格概念を科学的に確立しうるために共通に要請される﹁方法論的=思想 的基盤﹂ ︵一六ページ︶ではあるが、教育学の相においてとらえる際の 人格規定にはなりえない。生きた子供︵人間︶を教育学的にとらえる場 合には、クループスカヤの指摘するように、子どもの本質を社会的諸関 係の総体としてつかむだけではなく、同時に彼を自然的存在としてもつ かまなければならないのである。そしてこの両者の統一体としての人格 においては、前者に﹁主導的決定的側面﹂ ︵二五ページ︶がある。 同じくこうした教育学的アスペクトから見た場合、島田氏の人格規定 には問題かおる、と矢川氏は考える。島田氏の人格規定は﹁経済学の相に おいてとらえられた人格概念﹂︵ごIページ︶であって、それを、島田 氏のように、﹁個人の労働能力こそが人格であるという観点をつらぬく ’ことは、教育の科学の基礎である﹂として、そのまま教育学へ移し入れ ることはできないのである。というのは、先の見解と同様、島田氏の人 格規定も、﹁人間の、したがってまた子どもの、一方では﹃自然存在﹄ としての側面を軽視する傾向をもち、他方では子どもの内的生活を視野 に入れていない﹂ ︵二九ページ︶からである。︵ここで内的生活という 言葉で矢川氏が念頭においているのは、人格を心理現象の内的総体とと らえるルビンシュテインの人格規定である。︶ これらの批判の上に立って、矢川氏は、人格の発達を、﹁小さな子ど もの発達というミクロのモデルから、資本の支配よりの人民大衆の解放 というマクロのモデルにいたるまで﹂ ︵六二ページ︶の解放と連関させ てとらえるべきこと、人格の党派性、すなわち、﹁ことばの深い意味に 牡いての人格の思想的・政治的な方向性ないし志向性﹂ ︵五一ページ︶ の見地を人格概念に含ませること、を主張して、作業仮説として、人格 を次のように定義している。 IS%XSI SIISX3SXX 人格とは、生きた自然的・社会的な意識的存在としての人間個人であり、身 体的にも精神的にも各自に固有な活動・発達・創造・変革の測り知れない諸力 をそなえた全一的な労働主体であって、その力勁の主導力は当の個人の民族的 ・階級的矛盾によって条件づけられる思想的=政治的志向性である。したがっ て、人格は、そのひとが意識しているかいないかにかかわりなく、その木質に
おいて、つねに一定の党派性をもっている。︵六二−六三ページ︶ このように、矢川氏は人格を教育学的アスペクトにおいて、田自然的・ 社会的な意識的存在、㈲固有な肉体的および精神的諸能力を具えた全一 的な労働主体、朗思想的・政治的志向性、という三つの契機から成るも のとしてとらえるのである。しかし、ここには、倒人格が自然的・社会 的存在であるとしても、人格の構造とその発達において、生物学的なも のと社会的なものとの関係をどのようにとらえるべきか、②内的諸条件 の総体としての人格と諸能力の総体との関係とどのようにとらえるべき か、倒科学的人格理論が経済学や教育学などと異った独自の対象と独自 の論理をもつとするならば、人格をいかなるアスペクトからとらえなけ ればならないか、といった原理的な問題が依然として残されているので ある。 H 芝田・島田両氏の人格規定に対して、鋭い批判を投げかけたのは、川 上氏である。 川上氏はまず、島田氏の人格規定の誤りが次の点にある、と考える。 第一は、島田氏がマルクスの労働力規定から直接に人格の規定をひき だしてくる点である。川上氏が正しくも指摘しているように、マルクス はここで労働力の規定を行い、労働力が人格のうちに存在していること を確認しているのである。それゆえ人格は労働力の担い手であって、明 らかに労働力とは区別される概念としてある。川上氏によれば、ここで マルクスは﹁人格性なるものが、個人の肉体という形として存在してい るかぎりにおいて、生きた、現実的な存在として立ちあらわれるのであ って、一人の人間の肉体を離れた形而上学的実態として存在するもので はないこと﹂ ︵二Iページ︶を言っているのである。 第二は、労働力を売ること即人格を売ること、ということか、人格= 五九 戦後日本におけるマルクス主義人格理論の到達点と課題 ︵池谷︶ 労働力論の論理的帰結として出てくる点である。 第三の誤りは、賃金は人格の価値であるという命題である。島田氏に おいては資本主義社会では賃金は労働力の価値であり、それゆえ賃金は 労働力=人格の価値でもあるということになる。だが、人格の価値は商 品の交換価値として表現されるものではない。 次に、芝田氏の人格理論が批判される。川上氏によれば、芝田氏は島 田氏のような一面的な労働力=人格論に陥っているわけではない。つま り、芝田氏にあっては人格は労働力の担い手なのである。にもかかわら ず、芝田氏の理論は島田氏と全く同じ﹁人間商品論﹂、﹁人格の価値= 賃金論﹂郷行きつく。その根拠は、川上氏によれば、芝田氏の﹁弁証 法﹂の論理にある。それは、次のような二つの弁証法が絡み合ったもので ある、という。すなわち、田﹁人格は能力を担う故に、能力として発露 し、能力において表現され、したがって能力として現象し能力に転化 し、それゆえ能力である﹂という弁証法と、㈲﹁能力はその対象に表現 され、対象として外化し、それゆえに対象に転化し、対象となる。﹃も の﹄となる。﹂という弁証法である。かくて芝田氏にあっては、﹁人格 は能力であり、また﹃もの﹄であり、商品であり、貨幣である﹂ことにな る。つまり、芝田氏には、﹁AはBに発現し、外化し、対象化し、転化 し、それゆえにAはBである﹂ ︵二四ページ︶という論理か働いてい る、というのである。しかし、この弁証法こそ、マルクスが批判したヘ ーゲル弁証法そのものである、と川上氏は考える。 川上氏によれば、マルクスのヘーゲル労働概念の批判の核心は、次の 点にある。すなわち、労働の外化・対象化は労働が他のもの︵生産物︶ になるということではなくて、対象を加工し、変革し支配することであ り、労働を媒介とする人間と自然との関係は、﹁否定の否定による還帰 的︵いわゆる正反合︶構造﹂をもつのではなくて、人間か労働によって 自然を否定し、それによって自然をも自己をも変革しつつ、さらに新た
六〇 高知大学学術研究報告ヽ、第三〇巻 社会科学 な否定を重ねていくとい’7、﹁否定の連続の構造﹂ ︵二七ページ︶をも ゛つ、という点にある。 次いで、川上氏は別の角度から芝田氏の人格論を検討する。 川上氏は、マルクス人格理論の核心は、﹃ドーイデ﹄の次の文章のう ちにある、と考え・る。 プロレタリアは人格として自己を主張するためには、かれら自身のこれまで の生存条件であると同時にこれまでの全社会の生存条件であるもの、すなわち 労働を廃棄しなければならない。したがってまたかれらは、社会の諸個人かい ままで自分たちに一つの全体的表現をあたえるためにとった形態、すなわち国 家にたいしてはまともに対立しており、・そして自己の人格性をつらぬくために は国家をうちたおさなければならない。 ここから、マルクスにあっては社会の支配か問題である、と川上氏は 考える。しかるに芝田氏にあっては、人格発展の原動力は労働過程にあ る。しかも労働力は労働過程の契機であり、労働過程は生産力の契機で ある。とすれば、労働力は本来的に生産力概念に属すことになる。した がって人格も労働力の担い手たる限り、少なくとも自然の支配に関わる 生産力の一契機であって、社会の支配に関わる生産関係の下では二義的 なものとして扱われる。かくて、川上氏によれば、結局のところ﹁芝田 氏の、人格=労働力論は、 マルクスのそれとはちがって、人格を社会的 無階級社会の原理であるようにみえる。結局、。芝田氏は﹁人格的依存関 係﹂を原始共同体の中へ押し込めようとする、と川上氏は批判する。第 二に、第二段階は、芝田氏のように、第一段階における人格の疎外・喪 失ではなくて、発展であり、第三段階への積極的前提である。川上氏に よれば、﹁人格的依存関係﹂では、人格は、労働そのもの、生産力その ものとしての人間の中に埋没し、人格の人格性︵Persfinlichkeit︶はあ らわになっていなかったのに対して、人格は今や、労働力を売る主体と して、労働力としての人間の中から立ち現われてくるのである。第三 に、第三段階は人格的依存関係への復帰・高次復活ではない。ここに生 れ出るのはそれとは別の﹁自由な個人の連合﹂ ︵三八ページ︶である。 そして、こうした批判の上にたって川上氏は、﹁人格概念こそ、マルク ス主義における、生産力と生産関係との弁証法的関係を明らかにするカ ギであり、生産力と生産関係の接点にこそ人格の場がある﹂ ︵四一ペー ジ︶という見地から、マルクスの人格発展の三段階を次のように把握し ている。 1、人格的依存関係=生産関係の変化か、生産力の発展によって、自然発生 的にひきおこされ、そこに、人間の目的意識的変革の実践はあらわれない。人 格はまだ確立されていない。 2、物的依存性の上にきづかれた人格的独立=生産力の発展か古い生産関係 の中に自然発生的にひきおこしたところの変化に依拠して、目的意識的な生産 関係の変化が遂行される。このさいの人格は、古い生産関係と目的意識的に対 立、変革することによって﹁人格﹂であり、自然発生的にあらわれた生産関係 に無条件に依拠することにおいて物的依存性を示す。 3、自由な個人=生産力の発展に照応して、人格か、古い生産関係を廃棄し て、新しい、自己の統制に服する生産関係をつくりだす。︵同︶ 次に、川上氏は大井正氏の人格規定を検討する。大井氏にあっては、 人格は﹁労働主体﹂であり、分業の多様化によって労働主体の多様化、 I SWX S% IS SS IS i i1 111 9 I l 1 9 1 実践主体、とりわけて、生産関係、階級的諸関係における実践主体とみ なすにはなじまない構造をもっている﹂ ︵二九ページ︶ことになる。 さらに、芝田氏の人格論とマルクスのそれとの違いか、人格の発展段 階論において明らかにされている。第一に、﹁人格的依存関係﹂につい ていえば、マルクスが、個人としての人格が確立されていないような人 格のあり方を包括して人格︵Rerson︶がabhangigな状態にある、と 考えているのに対して、芝田氏にはそれは、諸個人が人格として依存し 合っている﹁相互扶助の関係﹂ ︵三五ページ︶であるようにみえるし、
人格の発展がひきおこされる、とされている。川上氏によれば、この点 で大井氏の人格論は、人格=労働能力という規定に縛られて人格を生産 関係的視点から見ることかできなかった芝田氏の水準をはるかにこえて いる。しかし、他方で大井氏にあっては、人格は﹁自ら発展する系﹂と してとらえられず、﹁分業の発展、私有の発展、階級の発展か生みだ す、新しい所有形態に規定されて、その結果としてあらわれてくるにす ぎない﹂ ︵四四ページ︶。 以上のような三氏の批判を行った上で、川上氏は次のように自らの人 格観を述べている。 私の見解は、﹁人格﹂をもって、人間を実践の主体として、その能働性にお いて、その目的意識性において、その力においてとらえる。したがって、人間 を自己発展する系としてとらえたぱあいに、その視点において﹁人格﹂が語ら れる。︵同︶ しかも、そうした見地がマルクス自身のものでもあることを、川上氏 は﹃経済学・哲学手稿﹄から﹃ドーイデ﹄へとたどることによって、明 らかにしていく。 川上氏によればっ﹃経・哲﹄では、﹁社会的存在﹂と﹁実践的自由の 主体﹂という二つの人間の本質規定が﹁類﹂というヘーゲル的概念に神 秘的に統一されていたが、﹃ドーイデ﹄では、マルクスはこの両規定を それぞれ﹁共同体﹂と﹁人格﹂という二つの概念で言い表わし、そのこ とによって、両規定の唯物論的統一に成功している。この視点から﹃ド ーイデ﹄を分析することによって、川上氏は‘マルクスの人格概念を次の ようにとらえる。すなわち、﹁人格﹂とは、﹁人間を、全自然を目的意 識的に変革する主体としてとらえたときに成立する、一つの人間の規 定﹂である、したがって人間が﹁人格トとして規定されたとき、人間 は、自然に対しあるいは社会に対して﹁実践主体﹂として立ち現われて くる、と︵五九ページ︶。‘そして川上氏によれば、このマルクスの人格 六一 戦後日本におけるマルクス主義人格理論。の到達点と課題 ︵池谷︶ 概念をもとにしてはじめて、人格に対する諸科学の独自のアスペクトに ついて語ることかできるのである。 このように、川上氏は芝田・島田両氏の人格=労働能力規定がもつ根 本的誤りを批判しながら、﹃ドーイデ﹄をふまえて、人格を、労働能力 と等置せずに、田労働能力の所有主体として、しかも、㈲生産力と生産 X I I I 関係の 接 点XI SS IS XSIXS%S 1144SS S14XSX Xに位置し、自然および社会を目的意識的に変革する社会的実 践主体として、倒自己発展する系としてとらえ、こうした人格規定を人 格にかんする諸科学の出発点としなければならない、と考えるのであ る。しかし、川上氏にあっては、人格=労働能力規定がもつ積極的な意ヽ 義、すなわち少なくとも諸能力の総体を人格の内実とみなしている点が 必ずしも十分に評価されてはいないし、。また芝田氏のさまざまな含みを もつ人格規定かI面的にとらえられているといううらみかある。たしか に目的意識的な実践主体としての人格を人格理論の出発点としなければ ならないという点は正しいが、同時にこの実践主体としての人格と諸能 力の総体との関係をも明らかにしてお‘く必要があろう。この意味でも ﹁自己発展する系﹂という人格規定の内実がもっと展開される必要があ ったのではなかろうか。また川上氏の疎外論の評価や、﹃経・哲﹄から ﹃ドーイデ﹄への﹁類﹂概念の発展の理解などについても、疑問が残 m 吉崎祥司氏も川上氏と同じく、マルクスの人格概念を﹃ドーイデ﹄を 中心に解明し、そのことを通して、人格=労働能力論の狭さを克服しよ うとしている。ここでは論文﹁人格と社会−−その本質的連関につい て﹂を中心に、吉崎氏の見解をみていくことにする。ここには吉崎氏の 見解が要領よくまとめられている、と思われるからである。 吉崎氏はマルクスの人格概念を導出する際に、次のようなマルクスの
六二 高知大学学術研究報告 第三〇巻 社会科学 人間把握をベースにしている。吉崎氏によれば、マルクスにおいては、 人間はまず第一に﹁自然存在﹂であり、﹁身体をもった存在﹂である。 たしかに、自然の一部であり、生物学的存在であることは、人間の本質 をなすも0 ではないか、しかし﹁人間の自然的基礎﹂を表わすものとし て、﹁人間概念の構造的一契機﹂ ︵三ページ︶をなしている。では人間 的本質とは何か。第一に、労働と労働を基礎とする人間の能動的・創造 的活動。人間的本質はこの活動を通じて不断に形成されるか、それは同 時に本質的に社会性を刻印されている。この社会性か人間的本質の第二 の特性である。人間の労働はそもそも集団的活動によってはじめて労働 たりうるのである。第三に、人間は目的意識的な存在である。かくて人 間的本質は、﹁目的意識的広活動的・社会的存在性﹂ ︵六ページ︶と抽 象しうる。しかし、現実にはこの三つの本質特性は、諸個人の歴史的現 存諸形態を通じて発現し形成される。それゆえ、吉崎氏によれば、﹁そ の現実性においては、人間の本質は社会的諸関係の総体である﹂という マルクスの周知のテーゼは、﹁人間存在の社会的被規定性﹂を示すと同 時に、﹁人間の普遍化的発展過程の総体︵それは当該社会の諸関係の総 体であるばかりでなく、それぞれの社会への歴史的寄贈物としての人類 の諸経験の総体でもあった︶﹂ ︵同︶をも合意している。 このような人間把握から﹁人格を構成する基本的な諸契機﹂ ︵同︶が 抽出される。 人間が自己の本性を支配・制御しているあり方としての人格は、第一 に、人間の本質諸力が対象的に展開された客体的な側面からみて、﹁領 有︵所有︶主体﹂ ︵同︶として規定しうる。つまり、人格とは、各々の 歴史的発展段階において対象的に展開された生産力と交通様式を、全面 的であれ部分的であれ、支配・制御し我がものとしているあり方、をさ すのである。 第二に、こ‘の領有主体を主体の側からみれば、人格は、そのつどの人 間の創造的な活動力の発揮を必要としている。それゆえ、この側面から は、人格は﹁肉体的・精神的諸能力のにない手﹂、より簡略には﹁労働 主体﹂ ︵七ページ︶として把握される。この規定は、﹁人格概念のいわ ば実体的基礎﹂ ︵八ページ︶をなす。 第三に、諸個人は社会的諸関係を支配・制御しえなければ、自らを人 格として実現しえない。それゆえ、自己実現するためには人格は﹁変革 主体﹂ ︵同︶でなければならない。 第四に、人格は﹁身体性﹂ ︵九ページ︶とも規定されうる。たしか に、この規定は﹁人格の本質的規定﹂とはいえないとしても、﹁人格の 自然的基礎﹂をなすものとして、人格の﹁相対的に安定的な構造的一契 機﹂ ︵一〇ページ︶をなす。 以上の諸契機は、氏によれば、相互に浸透し転化し合うとともに、他 の契機には解消されえない固有のエレメントをもつものとして、人格概 念の構成諸要素をなしているのであって、人格はこれらの契機の構造化 されたものなのである。そして、これらの契機のうちでこれらを統合す る契機の位置を占めるのは、変革主体としての人格である。この点で吉 崎氏は人格を実践主体としてとらえる川上氏の見解を高く評価してい る。こうして、人格概念は身体性−労働主体−領有主体︱変革主体とい う、﹁歴史的に発展する構造的総体﹂としてとらえられるのであるが、 吉崎氏によれば、こうした構造的把握こそは、﹁人格を、その基礎から はじめて、たとえば教育の部面における人格形成、発達の問題等へと一 貫する包括的概念として、一つの系においてとらえるためには︵あるい は、人類の歴史的発展と個人の発達とを統一的に把握するためには︶﹂ 必要なのである。 このように、吉崎氏は人格概念の基本構造をマルクスの歴史=社会理 論に即して、歴史的に発展するものとしてとらえるのである。その際、 とくに注目すべき点は、田人格を、変革主体という契機を中心に据えて
諸契機の構造化されたものとしてとらえていること、㈲身体性を人格の 自然的基礎をなすものとし’て、人格概念の中に組み込むことによって、 人格の生物学的側面をも考慮していること、である。この二点によ・つ て、人格を労働能力ととらえる見解の狭さも克服されている、といえよ Ⅳ このように川上・吉崎両氏が﹃ド’・イデ﹄に即してマルクスの人格概 念を解明し、それによって人格=労働能力論を克服しようとしたのに対 して、私はL・セーヴの人格理論をふまえながら、﹁具体的個人のあり 方、構造と成長過程の一般法則に関する科学﹂ ︵二八八ページ︶として の人格理論をうちたてるためには、人格=労働能力論では不十分である ことを指摘し、次のように批判したのであった。−’‘︲人格を﹁肉体的お よび精神的諸能力の総体﹂=労働能力ととらえる見解は、たしかに田人 格を人間の身体と結びつけることによって、身体から切り離された抽象 的な人格を否定し、②人格を労働能力ととらえることによって、人格 を、労働をつうじて不断に発展する過程としてとらえ、㈲人格を肉体的 能力と精神的能力の統一態としてとらえることによって、両者を切り離 す一面的な人格概念と訣別している、などの点で積極的意義をもってお り、それ自体としては正しい。にもかかわらず、この規定は人格の実体 的規定にととまっていて、具体的な個人の人格の全体的なあり方と発達 の方向とをとらえることかできない。第一に、この規定は社会的諸関係 から切り離されているために、肉体的および精神的諸能力がどのような 内容と制約性をもつのか、そして、どんなかたちでこれらの能力が現実 性へと転化されうるのか、という人格の発達にとって最も大切なことを 示すことができない。第二に、この規定では人格の現実的おり方、動態 的で矛盾性を孕んだ構造をとらえることができない。第三に・、この規定 、六三 戦後日本におけるマルクス主1 人格理論の到達点と課題 ︵池谷︶ では子供の自然的側面か軽視される。 たしかに、福田氏が正しくも批判されたように、労働能力は特定の社 会的関係を含んでいる。しかし、私がここで言いたかったことは、労働 能力と等置された人格規定を出発点としては、田人格を狭くとらえるこ とになり、その結果、人格の実体としての肉体的および精神的諸能力の 成長と発達の過程を明らかにすることができないのではないか、匂社会 的諸関係によって規定されつつも独自の動態的構造をもつ人格をトータ ルにとらえ切ることかできないのではないか、ということであった。そ してそこには、これまでマルクス主義かマルクスの人間論を扱うことで 事足れりとして、具体的な個人、人格の発達の問題を十分には扱ってこ なか‘つたのではないか、史的唯物論やマルクスの人間把握を基礎としつ つも、独自の論理と対象をもつ具体的個人の科学、人格理論を仕上げる 必要かあるのではないか、という問題意識が働いていたのである。 四 能力と人格の関係をめぐって こうした論議とは別に、教育的実践の見地から、能力や人格の発達お よび両者の関係という原理的な問題が川合氏や坂元氏によって展開され ているので、次に両氏の見解をみていくことにしよう。 I 川合氏は、日本の現実との格闘の中で人格概念へゆきつかざるをえな かった教育関係者の努力の過程を学ぶことによって、﹁教育関係者が人 格概念に何を托そうとしているのか﹂ ︵﹃子どもの人格の発達﹄、国民 文庫、三三ページ︶を明らかにするという観点から、戦後の、とりわけ 六〇年代以降の教育運動の成果を、三つの視点へと総括している。 第一の視点は、子ども・青年とその発達を人間にふさわしくとらえる
六四 高知大学学術研究報告 第三〇巻 社会科学 ことである。すなわち、﹁彼らを、外界に意識的に働きかけ、外界を変 更することをつうじて、自分の能力を発達させることのできる意識的能 動態とみること﹂ ︵三五ページ︶である。第二の視点は、﹁子ども・青 年の発達を、そのもっとも基底的な部分、。生きているという事実”か らとらえなおし、しかも諸能力が相互に深く、複雑にからみあって発達 するものととらえ、諸能力の着実で統一的な発達をめざすこと﹂ ︵三六 ページ︶である。第三は、﹁子ども・青年に彼らかそこに位置してい る、歴史的、社会的諸関係をリアルにとらえさせ、それら諸関係の民主 的で積極的なにない手に彼らを育てようとしている﹂ ︵三七ページ︶点 である。そして、氏によれば、これら三つの視点は次のように絡み合っ ている。 入閣の発達を人間にふさわしくとらえるという第一の視点を前提に、第二の 視点は、人間をその内面においてとらえようとしており、第三の視点は、人間 を社会とのかかわりで、諸能力か現実に発現される場とのかかわりでとらえて いるのである。第一の視点でいう人間の積極的能動性は、この第三の視点で いう社会的諸関係とのかかわりで発揮されるしかないのである。 ︵三九ペー ジ︶ かくて、戦後の人格発達をめざす教育は、﹁子ども・青年の諸能力・ 諸機能の発達を、そのもっとも基底的なところからとらえるとともに、 それらの相互連関をおさえ、そして、それらを統一体として、歴史的、 社会的諸関係の積極的で民主的なにない手として発達させることをめざ す努力﹂ ︵四〇ページ︶であった、と総括される。 そして、この三つの視点に対応させたかたちで、川合氏は﹁人格﹂を 広義には、次のような三側面をもったものとして把握する。すなわち、 人格を、m﹁さまざまな社会的諸関係における単位﹂であると同時に、 ㈲﹁人間の諸能力の総体﹂・﹁統一体﹂を意味し、㈲﹁対象、環境、外 界に意識的に働きかけ、これを変革しようとする実践主体﹂として、と らえるのである。そして川合氏はこの三側面を子ども・青年に意識化さ せる必要を強調している。つまり、第一の側面では、彼らに、自らが位 置づいている社会的・集団的諸関係の性格を知り、そこでの自らの位 置、諸関係自体をより民主的なものに変えていくことに意識的に’とり組 めるようにすること、第二の側面では、自分の諸能力の発達や歪みを知 り、諸能力の全体的発達に意識的にとり組むようにすること、第三の側 面では、外界に働きかけようとする要求・意欲を育てるとともに、自分 の行動の現実的意味を自覚させること、である。 ところで、人格をこのようにとらえるとすれば、あらためて能力と人 格の関係か問題となってくる。つまり、﹁人格を諸能力の構造、逆にい えば能力を人格の内実ととらえるか、能力を人格と区別される特別の機 能・性質ととらえるか﹂ ︵四〇ページ︶が問題となる。川合氏は、先の 人格規定からも明らかなように、前者の見解をとるのであるが、後者の 見解にも十分な根拠かおる、と考える。それには、﹁たとえば科学的能 力や芸術的能力を短絡的に人格と結びつけることからおこる、科学や芸 術の啖少化の危険にたいする警告﹂という意味かあるというのである。 つまり、後者の見解には、人格の発達を民主的とか能動的とか、あるい は諸能力の相互連関的発達、ということによって、﹁それぞれの能力のヽ 独自な発達がゆがめられることにならないか﹂という懸念がこめられて いる、というのである。そこで川合氏は、先の人格規定において、田諸 能力の相互連関を﹁相互に衝突やくいちがいを内にふくむ連関的発達﹂ としてとらえること、㈲社会的諸関係の単位という場合、社会的諸関係 を﹁人類と民族のかちとってきた科学、文化等の諸成長をふくむもの﹂ としてとらえること、㈲人間の諸能力を固定的にとらえずに、﹁社会的 諸関係の民主的な発展に応じて、質的に発達するもの﹂とみること、が 必要だと考える︵四一ページ︶。 しかし、川合氏によれば、このように人格の内実としての諸能力を弁
証法的に発達するものとしてとらえることを基本とするにしても、その 内部において、﹁諸能力の発達﹂と﹁人格機能︵狭義の人格︶﹂ ︵同︶ とを相対的に区別することかできる。人間の諸能力は人間の内部でなん らかの仕方で結びあっているので、﹁その内面的結合のあり方、諸能力 を統一していく機能のあり方﹂だけを抽出することかできるからであ る。川合氏は、この人格機能として、﹁道徳性とか興味・関心・意欲・ 性向とよばれるもの﹂や﹁人間における目的と価値の体系といってよい もの﹂ ︵四二ページ︶などを挙げている。 こうして、川合氏は、人格を広義には田実践主体、㈲諸能力の統一 体、㈲社会的諸関係の単位、という三契機からなるものとしてとらえる とともに、狭義には、目的と価値の体系といった人格機能としてもとら えるのである。しかし、川合氏にあってはこの両者の構造的連関は明ら かにされてはいない。 11 坂元氏も川合氏と同様、まず、戦後教育、とくに六〇年代以降の民主 教育運動が、人格とその形成をどのようにとらえてきたのかを概括して いる。 坂元氏の総括によれば、全国生活指導研究協議会、日本生活教育連 盟、教育科学研究会が共通して追求しているのは、子どもに対する働き かけの全体的構造を、倒学校における教科の教育、②学校における自主 的・集団的活動の組織化、㈲地域や家庭における教育力の再組織、とい う三側面からとらえようとしている点であり、そして、﹁それらの働き かけが、子どもの認識・意識の統一とその実践化、そしてその両者の結 合をどううながしているか﹂という問題である。いいかえれば、﹁学力 ・教養と人格のそれぞれの発達をどう結びつけていくか﹂という問題 か、共通課題遡なっているのである︵﹃学力の発達と人格の形成﹄、二 六五 ‘戦後日本におけるマルクス主義人格理論の到達点と課題 ︵池谷︶ 二七ページ︶。 しかし、こうした教育実践上での人格形成に対する関心は、必ずしも 心理学における人格研究と結びつけられてこなかった、と坂元氏は指摘 する 0つまり、教育実践か全体として、人格の﹁統合﹂にどう関わるの かという問題か、これまでほとんど明らかにされてこ‘なかったというの である。こうした反省の上にたって、坂元氏は、最近の史的唯物論の立 場に立った人格研究︵レオンチェフ、 L・セーヴ︶をふまえながら、マ ルクス主義の立場による人格理論の中心問題が次の点にある、とみる。 すなわち、﹁個人が具体的に入りこむ社会的諸関係とそこでの個人の社 会的諸活動を彼の内面における諸性質︵人間性、諸能力︶の全体的な発 達の構造論としてどのように統一して把握するか﹂という点にある。よ り具体的にいえば、﹁個人か、具体的な社会的諸関係のなかで示す諸活 動の体系とそれに応じて内面につくられる動機1日的の体系をどう連関 してとらえるか、さらにそうした体系と彼の諸能力の総体との関連を人 格の構造論としてどう把握するか﹂ということである。しかも、これは 人格の教育学的把握においても解明される必要のある問題である。とい うのは、坂元氏によれば、今日の教育実践における理論的な中心課題 は、﹁子どもの能力を全体として発達させるということと、彼の活動意 欲・目的意識性の体系や価値意識の体系をどうつくり出していくか、と いうこととをどう結びつけるか﹂という点にあるからである。︵二三三 ︱三五ページ︶ その際、この能力の発達と人格の発達との関係をめぐって、人格論を めぐる論者の間に徴妙なニュアンスの違いがでている、と坂元氏はい う。坂元氏によれば、これまで民主教育運動の中では、﹁権利の主体形 成という方向をめざして、人格を、子どものなかにつくり出される諸能 力の全体的な構造として把えるという見方﹂が一般的であったが、どの 見方にたてば、人格の構造は、﹁諸能力の構造−もっとひろくは諸
六六 高知大学学術研究報告 第三〇巻 社会科学 ﹃力﹄の構造−そのもの﹂ということになる。他方では、﹁人格を諸 能力・諸力の構造とは相対的に異なるものとしてとらえる見方﹂があ る。これは、﹁人格を、意識的な活動の体系における、動機や目的の体 系としてとらえ、そのような動機−目的の体系を調整するかぎりでの諸 能力・諸力の連関を人格にふくませてとらえる見方﹂である。しかし、 両者の見方ともまだ問題をはらんでいる、という。というのは、前者の 見方では、諸能力・諸力の全体的連関は明瞭になるとしても、﹁その諸 能力・諸力のにない手がめざす方向性、および、にない手個人とその方 向性との関係﹂がまだ不明瞭であるし、後者では、個人の動機i目的の 体系、彼がとろうとする方向性が明らかになるにしても、﹁諸能力・諸 力の構造が、その方向性や傾向性とどうかかわって形成されていくか﹂ がまだ不明確であるからである。そこで、﹁諸能力・諸力の連関の形成 と、目的−動機の体系や価値意識の体系の形成との関係﹂を解明してい くことか、教育学の課題としても、発達論において行われなければなら ないことになる。この点で、坂元氏は先の川合氏の人格論に注目し、川 合氏のいう広義の人格と狭義の人格との統一を、教育実践の全構造にお いて明らかにする必要性を強調している。︵二三六−七ページ︶ ここからわかるように、坂元氏は人格を、田個人が具体的な社会的諸 関係の中で示す活動の体系、㈲それに応じてつくられる諸能力の総体お よび、㈲動機−目的の体系︵人格機能︶からなる構造としてとらえよう としており、そしてこれら三者の、とりわけ後二者の連関を教育学の課 題としても明らかにしていかねばならないと考えているのである。 以上、人格=労働能力規定をめぐる議論と、人格と能力の関係をめぐ る川合・坂元両氏の見解をみてきたのであるが、これらの議論を通じ て、ほぽ次の点が明らかになってきたと思われる。 第一の点は、人格=労働能力規定はすでにみたように、いくつかの積 S4χ SN Iil一l i l I極面をもつとしても、この規定を人格理論の基礎および出発点とするこ とはできない、ということである。人格とはまずもって、その活動を通 じて、社会的諸関係へ組み込まれ、それによって規定されうつも、同時 に社会や自然や自分自身を目的意識的に変革していく社会的な実践主体 ︵狭義には労働主体︶なのである。これを川合氏にならって、社会的諸 関係の単位でありながら、これらの関係を変革していく実践主体、と言 ってもよいだろう。この人格規定こそ、マル’クスの唯物論的歴史観にふ さわしいものであり、それゆえまた、人格理論の出発点となるのであ る。というのは、セーヴが指摘するように、人格理論は史的唯物論をベ ースとしなければならないからである。とはいえ、この人格規定は出発 点以上のものとはなりえないことにも注意しておく必要がある。 第二は、人格の内実が労働能力=諸能力の総体であるとしても、人格 を労働能力へ解消することはできない、ということである。川合・坂元 両氏が確認しているように、人格を諸能力の総体ないしは統一体そのも のと等しいものとみなすことも、また、人格を諸能力の総体と相対的に 異なるものとみなすことも、ともに一面的なのであって、人格は、少な I I I I 角 l 1 1 I Iくとも諸能力の総体とこれらの能力を独自の仕方でまとめ上げ方向づけ る人格機能との統一態としてとらえられなければならないのである。 ここから第三に、人格を諸契機、諸階層からなる統一的な構造として つかまえることが要請されてくる。この方向性は、吉崎氏の人格理論に もみられるし、矢川氏や坂元氏にもみられるものである。 しかしその場合、矢川氏のところですでに指摘したように、人格の構 造とその発達の過程で生物学的なものと社会的なものとが、どのように 相互に作用し合っているのかをも解明しておかなければならない。吉崎 氏や矢川氏が指摘しているように、人格の担い手は、身体をもった、自 然的・社会的な人間であるからである。