契約の自由と国家
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(2) 契約の自由と国家. わる理念として捉えられることになる c このような自由主義的法理論は,法はまず個人の自由を擁護するものでなけ ればならない,と論じる。この理論における最大の難問は,強制を排除するも のとしての自由と,強制を不可欠の要素とする法との聞の矛盾を,如何にして 解くかということである。自由はしばしば,他からの強制を排除するものとし て理念的に定義されるにも関わらず,各人の自由が互いに衝突する事態が避け られない現実において自由を実現するためには. 一旦排除された強制を再び用. いなければならない。この,衝突する自由の調整手段としての強制は,しばし ば法の形をとる. O. 即ち,人々の自由の相互衝突は,当事者の自力救済に委ねら. れることなく,第三者機関を創設することによって裁判や立法などの形で解決 され,その解決を実効あらしめるために強制力が用いられるという方法が採ら れる O ここに「自由のための強制 Jという言葉に表される,自由主義法理論に おける古くからの矛盾問題が提示されることになる. o. このような「自由と法」との聞の矛盾は,近代自由主義に流れ込んだ潮流の 一つである近代自然権の思想、を汲む,人権の保障の問題においても顕著に現れ ている O 人権は,国家以前に想定される自然状態における,普遍的な人間性を根拠と して主張される. O. 特定の国家秩序につきものの特殊性を,理論的には排した普. 遍性のゆえに,この人権の理念は国際的な射程を持つものとしても主張される. O. しかしながら,現代の各国の圏内法秩序においては,通常人権は憲法典におい て実定化され,憲法典が人権の根拠となる. O. ここに,実定法を根拠としないか. らこそ,その独自の規範性を主張しえた人権論が,いまや実定法に根拠を有す ることを前提として議論されるに至るという背理が起こる. O. さらに,このよう. に人権が実定法化されることによって,人権保障のあり方は,実際の各国家の 特殊な法律制度のあり方に依存することになる O 例えば学問の自由と大学制度, 放送の自由と電波・放送法制度,財産権の保障と様々な規制を含む財産法制度. -136-.
(3) 法科大学院論集創刊号. の関係にみられるように,各国家の特殊な法制度の中で,人権の内容が限定的 に決定されることになる. o. 即ち.自然権的な自由をその規範的源泉としてい. たはずの人権が,実際には特定の国家の特殊な法制度を前提にせざるをえない ことになり,自由の理念が法と国家を限定するとの理論的想定が,法と国家が 自由の範囲を限定するとの現実に取って代わられることになるのである. O. 人権の理念に見られる,自由と法あるいは国家との関係の,このような逆転 現象は,. I 契約の自由」においては,合意と法との間に同じ形で見ることがで. きるであろう. O. 即ち,. I 契約の自由 j が意味する,当事者の自由な合意によっ. て取引内容が正当化されるはずの私法秩序は,現実には当初の合意を後に覆し た当事者に対する国家の強制によって保たれており,あるいは実際の合意内容 の不明確な場合,また合意内容が不適当な場合には,取引安全や公序良俗など の見地からの擬制的合意が法解釈の名の下で効力を持つことになり,あるいは 合意内容の修正が行われることになり,このような国家の強制は現実の取引規 制やときどきの社会的・経済的政策判断に沿って行われざるを得ない。理論的 には国家を前提にしないはずの当事者の合意が,契約の拘束力=法として実際 に立ち現れるときには,国家という独自の判断基準を備えた制度をくぐり抜け てくることによって,必然的にその質を変化させることになる. O. 人権の場合と. 同様に,合意においても,自由主義における当初の意味での合意と現実の効力 を有するそれとの聞には質的な間隔が認められるのである 40 このような「契約の自由」における理念的な合意と,現実に適用される「合 意」あるいは実際の法秩序において認められる契約の内容との聞の間隔は,国 家が「契約の自由 Jの根拠である近代自由主義から離れ,福祉国家や行政国家 の方向に向かっていく場合には,当事者の合意を覆す国家独自の判断基準が強 く打ち出されていくことによって,ますます拡大していくであろう O しかしな がら,自由と法・国家,当事者の合意と法・同家との質的な間隔は,たとえ近 代自由主義の理念に忠実な国家の下であっても基本的には存在していたのであ 円. i. 1Eよ. qG.
(4) 契約の自由と国家. るO そもそも,夜警国家や自由市場という体制の選択自体が,自由そのものの 擁護というよりその当時の国家的政策の反映であって,国家の力の源が軍事力 から経済力へ転換する時代の,あるいは軍事力とともに経済力が要請される時 代の,優れて国家的な,秩序を前提としたものであったという一面を指摘する こともできるであろう. O. 本稿では,このような「契約の自由 j における当事者の合意という理念と現 実の国家法秩序の聞に存在する根本的な矛盾に注目し,その矛盾の解かれ方, 少なくとも緩和の方法を考察する。 まず,第二章で国家と自由の関係をより詳しく論じ,自然法論に立脚しなが らも,法秩序を当事者の合意によって正当化することは不可能であるという, 論者の主張を検討する. O. 次に,第三章で国内法秩序における「契約の自由 Jの位置づけを,憲法の分 野での周知の論争を整理することによって確認する O さらに第四章で国際的取引における「契約の自由 j の意味を考察する O 先に 見たように,人権においても「契約の自由 Jにおける当事者の合意においても, これらの理念が前国家的な,普遍的な自由としての正当性と規範性を主張され ていたというその出自に鑑みるならば,国内法が国民の福祉や国益の増大とい う観点からの特殊化を進める現代にあっても,国際的な領域においてはその主 張の有効度が相対的には高いとの見方が可能であろう. O. 際的取引における「契約の自由」の現状整理を試みる. O. そこでこの章では,国. あらかじめ,本稿での考察における視点を示しておくならば,それは,自由 と法,合意と法との間の根本的な間隔の繋ぎ合わせは,. I 裁判 Jおよびそこで. の法確認の意義を論じることによって可能となるのではないかということであ る その理由は二つある。 O. 第一に,裁判は当事者にとって,彼らの間の国家を介さない合意と,国家を 介した合意のいずれかを選択する分岐点となる O 当事者が何ら国家の手を借り. -138-.
(5) 法科大学院論集創刊号. ないならば,たとえ最低賃金法違反の労働契約のような違法な取引であっても 現実に実行され得る。その意味では当事者は,自然状態におけるのと同様の事 実的な自由を享受し得るわけである:当事者の一方が合意の法的実現を目指そ うとする場合にのみ,典型的には裁判に訴えた場合にのみ,合意の内容が法的 な洗礼を受けるのであって,このとき自由は単に事実上のものではなく法的な ものとなり,その質を決定的に変化させることになる。そこで,当事者の合意 と国家法の適用との聞には,裁判という当事者のイニシアテイブにかかる制度 の利用があることになり,合意と国家法との矛盾は当事者のこのような裁判利 裁判を受ける権 用の意思とその意思の法的是認即ち(広く捉えた意味での)I 利」の保障の意義を考察することによって媒介されると考えられる. O. このとき,. 主観的合意により正当化される私法秩序と,客観的秩序により正当化される公 法秩序の二項対立に見えたものを,個人の「裁判を受ける権利」という第三の 観点から統一的に把握できるのではないだろうか。 第二に,. I 裁判」あるいは「裁判を受ける権利」の意義に注目することは,. 国際的取引における契約の自由のありかたを理解する際に助けとなる. O. 国際的. 取引における契約の自由は,囲内的取引における契約の自由とは,近代自由主 義という思想的背景を同じくしながらも異なった内容を持つものと理解されて いる D 即ち,囲内的取引においては,契約の自由は,当事者が自由に契約内容 を決定できることであると理解されているのに対して,国際的取引においては, それは当事者が契約の準拠法等を自由に決定できることであると理解されてい るのである O つまり,国際的取引においては.当事者は直接契約の内容を自由 に定められるというよりは,複数の法秩序の存在を前提にして,その中のいず れの秩序を自分たちの従うものとして選択するかにおいて自由を行使すると考 えられる. O. このことは,契約の自由が一般的に既存の法秩序の存在を前提とし. て行使される現実を示唆すると同時に,契約の自由の法的な意義が,事後の 「裁判」あるいはそこにおける一定の法適用に向げられた側面を有しているこ. -139-.
(6) 契約の自由と国家. とを示唆するのではないかと考える 自由と国家法の矛盾を,. O. I 裁判を受ける権利」という観点から解こうとする. ならば,それは法秩序全体を裁判とし寸仕組みの観点から見直す試みとなろう またそれは,法を実質的な自由の観点からよりもむしろ権力行使の手続的な観 点から見直すということにもつながるであろう 法観については,最終章で論じる. O. これらの,帰結する全体的な. O. E 自由と国家の間. 近代の自然法論者のうちにあって,自由と国家との間の既述の逆転現象を鮮 やかに描き出したのはいうまでもなくホップズである O 彼は自然状態における 各人の絶対的自由が,いわゆる「万人の万人に対する闘争 j を帰結せざるを得 ないため,絶対的な強制機関の創設によるこのような自由の停止が必要である とした九この場合,自由は確かに法秩序創設の先行条件ではあるが,法が一 旦成立すると自由は存在しなくなるため,この両者は二者択一の関係に立つ O ホッブズにおいては,法と自由の聞の間隔は埋めようのないもので,この両者 の矛盾という問題は,いずれか一方の否定という形で解決されることになる O このとき当時の絶対王政に現れた法秩序を支持する彼を通常の意味での自由主 義者と呼ぶことはできないであろう O 法をめぐる自由と国家の矛盾を,このように国家に傾斜する形で解く立場に 対して,むしろ普遍的な個人の自由の理念の下に国家の存在を位置づけようと するのがカントの立場であるといえよう D カントは平和主義に基づくコスモポ リタニズムを提唱したことで知られるが,彼が構想するのは,国を超えていず れは全世界に広がる市民社会と,そのような市民社会と両立する共和主義諸国 による世界秩序である. o. 普遍的な人権の理想、を掲げ,外国人の広範な表現・経済活動の自由を実際に. -140-. O.
(7) 法科大学院論集創刊号. 保障した革命後のフランスが,反動的な国家主義への傾斜を深めていく有様を 目の当たりにしたカントは,革命当初の理想をより忠実に実現する国際世界の 司家から離れた個人の自由を国家開戦争に あり方をあえて論じようとした: I よって無に帰さないために,彼は,諸国間の合法的な相互関係と,普遍的な市 民秩序の必然性を説く. O. ここでいう合法的な国際関係とは国際法の整備と各国. の主権の相互尊重を意味し,他方,普遍的な市民秩序とは,特定の国家の主権 的意思の如何に関わらず,人間の本性を根拠として世界の全ての個人に認めら れる基本的人権あるいは権利の尊重を意味しているらさらに,このようなコ スモポリタニズムの実現のためには,相互に主権を尊重しあう諸国家により形 成される一種の国際連盟が必要であると論じられている九この国際連盟は, 一つの世界政府ではなく,異なった言語と宗教と文化とを有した独立諸国家に より,その主体的合意により構成される連合体であるとされる O このようなカントのコスモポリタニズムは,自然状態あるいは国家を超え, 自由な諸個人により形作られる市民社会における普遍的な自由と権利を前提と するものである. O. このような国家を超えた普遍的自由の秩序の生成と展開は,. 戦争ではなく平和的な経済的交換により利益を得ょうとする商業時代の到来と 呼応するものであり. 一八世紀において既にみられた経済のグローバライゼイ. ションとそれに伴う自由と権利の普遍化という事実によって支えられている. o. しかし,カントのコスモポリタニズムがこのようなものであるとすれば,な ぜ国家を超えた市民社会の普遍的秩序のみではなく,独立した主権国家の存在 が必要なのかが改めて問われなければならないであろう. O. 国家は,ともすれば. 独自の特殊な利益を,市民社会において保障されるべき普遍的な個人の権利に 優先させようとし,戦争によって諸個人の自由をその生命もろとも破壊しかね ない存在である。カントが,人間の本性に備わる理性が,国家のないところで も秩序を可能とすると考えていたならば,このような国家の存在をなぜ認める 必要があったのであろうか。. -141-.
(8) 契約の自由と国家. 第一に,現実に世界は,言語と宗教と文化を異にする諸国に分かれており, これを世界政府の下に統一しようとするならば,かえって自由が圧殺されると いうことが挙げられるヘ 第二に,各国の競争と均衡がむしろ,そこに属する諸個人の活力の利用に資 するということが挙げられる。世界統一政府の下では停滞とスタグプレーショ ンが生じるおそれがある。 第三に,カントが個人と国家とを,質の異なるものではなく延長線上にある ものとして捉えていたことである. O. 国家が個人の基本的な自由と権利を尊重し,. その実現の度合いを高めているものであり続ける限り,個人とその集合として の国家との聞には,性質上の矛盾はない。したがって,自由な個人に独立と主 体性が認められるのと同様,自由な個人の集合たる国家にも,他の国家との関 係で独立と主体性が認められるということになるのである. O. このような主体と. しての個人と国家の同一視は,カントが国際法と国際連盟の必要性を説く際に, 諸国家の戦争状態をホップズの自然状態における諸個人の闘争になぞらえてい ることからも明らかである. 様々な個 性を持った個人が存在することと同様 d. の,様々な個 性を持った国家の存在の自明性を前提に,国家が自由な諸個人を d. 擁する共和国であることを条件として,カントは異なった国家の独立と主体性 を尊重すべきであると論じた。 自由と国家の聞に存在する矛盾をいかにして解くべきかという問題に対する カントの答えを確認しておこう O 彼は,個人の自由が普遍的理性を根拠とする という自由論をそもそも前提にしていることによって,自由が普遍的な秩序と 本来的に合致すると想定することができた。そこで自由は国家を超えた市民的 秩序においてまず実現し得る。他方,各国家はこのような前国家的な自由を侵 害してはならず,その点では普遍的な秩序に従い,ただ言語や宗教や文化の違 いによって,個人と同じようにその個性を主張することができ,そのことが国 家に属する個人の自由のより十全な発展に寄与する結果にもなる,と考えられ. -142-.
(9) 法科大学院論集創刊号. た。つまり,このような普遍的理性を前提にした自由観の下では,国家の自由 と個人の自由は同じ内容で重なり合うのであり,これらの自由が,非理性的な 感情や野蛮さや特殊利益への囚われによって損なわれない限り,二つの聞に矛 盾は生じないのである. O. とはいえ,並存する国家主権の衝突の危険と,そこから帰結する諸個人の自 由と国際的な広がりを持つ普遍的な市民社会秩序の危機は,理想主義を標梼す るカントといえども認めざるを得ない現実であった。したがって彼は国家主権 の並存と共にその連合体としての国際連盟の創設を求め,そのコントロール下 での戦時・平時に遵守されるべき国際法の貫徹を目指す方法を訴えた。この国 際連盟の構想が意味するところは,相互尊重する主権国家間の合意によって, ホップズのごとき絶対的な強制機関なしに国際秩序が成立し得るという将来へ の期待で、あって,結局カントは,自由な諸個人の合意によって普遍的な市民社 会秩序が国際的に打ち立てられるのと同様に,自由な主権国家の合意によって 普遍的な国際秩序が打ち立てられるとの想定にたつのである. O. ここには自由な. 主体と,その主体問での合意とそれに基づいた秩序形成を促すような一定の枠 組みとしての国家や国際連盟は在るが,究極的にはそこに強制は存在しない。 自由な主体とその相互的決定の外に立ち,それらを強制する第三者としての国 家はここには存在しない。 しかし,このようなカントの解答は,その後の国家主義の台頭と打ち続く戦 争によって有効性を疑われることとなる D ヘーゲルはカントのコスモポリタニズ、ムを二つの観点から批判した。 第一に,カントのいう自由の形式性と抽象性である O ヘーゲルは,彼の「現 実的なものは合理的である j という言葉に表されるように,理性と同視される 自由は抽象的な在り方では存在しえず,実際の特定の国家の秩序の中において のみ実現されると考えた。我々はここで,第-章においてみたように,抽象的 権利を実現するためには現実の制度が必要になるという基本的な認識を確認す. -143-.
(10) 契約の自由と国家. ることができる. O. 理念と現実の制度との関係は,精神と肉体の関係のように,. どちらが欠けても世界への十全な理解と参加にはつながらず,哲学者の仕事は, まず世界理解であるというヘーゲルの学問的な信条からは,拡散し主観的な解 釈を許すが故に危うい抽象的な自由の理念が,客観的な秩序の中に現に現れて いるその態様を読み解くことが,自由の理念に実質を与えそれを強化していく 方途であると捉えられた九 第二に,ヘーゲルは,カントにおける既述の個人と国家の同視を批判した O 個人は国家において何が法であり何が権利であるかを決定する裁判所の権威に 服しているが,国家はそうではない。確かに個人の自由も国家の主権も相互尊 重に基づいて認められる点では同じであり,国家間の関係は通常契約や条約と いう形での相互承認によって保たれるものではあるが,国際関係の第一原理が 主権の独立であるために,この相互承認は普遍的な意思ではなく各主権国家の 特殊意思に基づかざるを得ず,各国家の特殊意思がこの相互承認を否定しよう とするときには,いかなる強制も規範的実効性を持たない。カントはここで国 際連盟の創設を論じるのであるが,ヘーゲルは,この連盟自体が諸国家の合意 を前提としており,主権国家の決定の自由を凌駕してこのような合意を担保す るいかなる規範も存在しないがゆえにいかなる共通の権威も安定的に存在する に至らないから,結局は諸国家の関係は自然状態でしかあり得ないのだと反論 する 130 そして重要な点は,このような主権国家の特殊意思が,カントの提唱 する共和主義国家の帰結のーっとしても正当化されることである。即ち,共和 主義国を選択した国民は,自国の他国との関係について自ら決定しなければな らず,この決定を実現する過程での国民の制度的経験によって,意思の特殊化 が不可避となるからである 110 以上のようなヘーゲルの理論枠組みにおいては,自由と国家の矛盾という問 題にどのような解答が与えられているものとみることができるであろうか。自 由と国家の矛盾は,自然法論の枠組みにおいては普遍的・抽象的権利と特殊的・. -144-.
(11) 法科大学院論集創刊号. 具体的権利の聞の間隔であったと理解できるが,彼はそもそも前者の如き普遍 的自由を実在としては認めないのである。それは単に哲学者の頭の中にある主 観的意見なのであって,現実の力を有しているのはただ後者の国家的に裏打ち された特殊的権利のみである,と考えられている O 市民社会には諸個人の特殊 な自己利益の追求の主張が蔓延しており,それが互いに衝突し,国家による客 観的秩序の創設によってはじめてその衝突が回避されるとの判断こそが理性で ある. O. 国家こそが理性の実現なのである。更に,主体としての個人と国家の聞. の決定的な相違は,前者に対しては後者による強制が存在しているのに対し, 後者に対してはいかなる強制も存在しないことであるとされる あるのは個人ではなく国家なのである. O. 即ち,自由で. 個人は国家に属してこそ自由を享受で. O. き,したがって国家の存亡の危機には,自由の前提を失うとして個人的な全て を犠牲にして国家の独立と自由を守らなければならないとされるのである九 結局,ヘーゲルにおいては,個人の自由が国家なしでは現実にあり得ないため に,自由とは国家とともにあり,主権国家の独立という形で国家の享受する自 由が唯一の現実の自由であるとされるために,自由と国家との聞に矛盾は存在 しないことになる。個人の主観的な自由は,このような自由の客観的在り方を あるがままに観察し,受け入れることによって,自己と社会との聞の繋がりを 主体的に確認するという精神の作業に還元される. O. このようにみてくれば,自由と国家との間の矛盾という問題は,ホッブズに おいては国家による自由の否定,カントにおいては自由による強制の否定, ヘーゲルにおいては国家のみによる自由の実現の是認という形で解かれており, これらはいずれにせよ個人における自由か国家における秩序かの間の二者択一 に帰着するものである. O. 国家に重点を置くホップズとヘーゲルの解答によって. は,個人の自由という出発点が究極的にはほとんど無に帰するといえようし, 他方,個人とその延長線上に位置する国家の同質的自由に重点を置くカントの 解答は,そのような普遍的自由を担保する制度的な保障が現実には存在し得な 1Eよ. FhU. Aせ.
(12) 契約の自由と国家. いために有効性を欠く. O. 結局,これらの理論の検討は,自由と国家の矛盾の様. 相をより明確に描き出すには役立つたが,二つの要求を両立させ得るような解 答の提示につながるもので、はなかったといえるであろう. O. しかしながら,重要なヒントは存在していると思われる. O. 第一に,カントに. おける自由が,単なる利益追求の感情に基礎づけられているのではなく,理性 に基礎づけられていることによって,自由と秩序との間の矛盾が緩和されるこ とである. O. 自由を理性に基礎づけることによって,ホッブズのような,秩序に. よる自由の全面否定に陥ることなく,自由が少なくとも秩序と部分的に合致す る可能性を考察することができる O 第二に,ヘーゲルにおける主観的自由の意 味である D 彼は先に述べたように,個人の,特に哲学者の主観的自由が,客観 的な世界秩序のありのままの理解とその主体的受容の中にのみ残されることを 論じたが,それは自己の主観的な見解を,現実との適合性を無視して世界に押 し付ける愚を避けるためであった。個人は自己の主観に閉じこもることなく, 自ら世界に身を投じていかなければならないのである。そのような決断が主体 的に行われるところに個人の自由の意義が存在するという彼の主張は,自由が 何らかの定まった状態を指すのではなく. 客観的世界あるいはそこにおける現. 実の国家秩序や他者と,主観的な個人における無世界性と孤立との間の隔たり を主体的行為によって連結させていく,動態的かっ継続的な理念として理解し 直される可能性を示すものであると考えられる O 以上のような二つの点,即ち 理性と自由との密接な関連を示すことと,主体的な判断と行動を通じた秩序へ の参加という自由の動態的理解を足がかりとして,次にこのような点を合意し つつ,自由と現実の秩序との間の根深い矛盾に新たな解答を与えていると思わ れる,現代の自然法論者,ジョン・フイニスの理論を検討する。 フイニスは,法の要素である権威 ( a u t h o r i t y ) が合意や全員一致の代替手 段であり,この両者は二者択一関係にあることを主張し,このような権威が, 主観的合意とも,単なる経験的な現象とも区別される実践的理性を基礎にしつ. -146-.
(13) 法科大学院論集創刊号. つ,どのようにして成立するのかを論じている O ここでフイニスが用いている例は.国際慣習法の成立である O 国際法の主要 な源泉のーっとしての国際慣習法は.特定の国際的行動が多数の国家によって 事実上継続的になされていることと,このような行動が国際的に合法であると の各国の確信によって裏打ちされていることの二つの要件を満たす場合にその 存在を認められるとされている 160 後者の法的確信はオピニオ・ジュリスといわ れる. O. 国際慣習法の成立に関する説明の困難はこのオピニオ・ジュリスの概念. の困難にある O 国際法学者は,特定の行為に従事する明確で継続的な習慣が,当該行為が国 際法により正しいあるいは義務であるという確信の下で生じるときに,国際慣 習法について語る。しかしこれは,特定の国際慣習法が存在するに至るのは, そのような国際慣習法の権威が既に存在しているという必然的に誤った確信の 下でのみであるというパラドックスを含んでいる,とフイニスは言う 170 我々にとっては,自然法と憲法などの実体法の関係を説明しようとするとき に生じる,実体法は予め存在するとされる自然法の内容を反映することによっ て正当な法としての効力を持つが,自然法の内容は実際に決定され存在に至っ た実体法によって証明されるという前述のパラドックスを訪併とさせる,この 国際慣習法のパラドックスは,フイニスによれば,規範的な実践的判断. ( P r a c t i c a lJudgement) と経験的判断 ( E m p i r i c a lJudgement) の混在により 生じるものである。したがって,彼はこの両者の判断を段階的に区別すること によって,国際慣習法の成立過程を分析しようとする。 まず最初の段階では以下のめのような規範的判断 ( P J O ) が存在する O. PJO. aこの行為領域で,何らかの定まった共通の行動範型とそれに対応する権威 的ルールが存在することが望ましい bこの特定の行為の範型 φは権威的な共通ルールとして採用されるのに適当. -147-. 〕ユノ.
(14) 契約の自由と国家. である,あるいは一般的に受容され黙認される場合には適当となりうる ] l ) が存在する O 次に以下のような経験的な観察による判断 (E. E]l. 諸国家によるこの行為の範型。の広範な一致と黙認が存在する. 上の経験的判断はもう一つの経験的判断 ( E J 2 ) を伴う O. EJ2 この特定のオピニオ・ジ、ユリス(ここでは P J Oと同視される)が諸国家 によって広範に従われている そして次のような規範的判断 ( P ]1)に至る O. P] l P J Oが広範に従われていることと行動範型@の広範な一致と黙認は φ を要求あるいは容認する権威的慣習法が既に存在するという判断(次の. P J 2 ) を十分裏付けるものである そして. P J 2 <tは国際法における権威的慣習法によって要求あるいは容認される という最終的な規範的判断が導かれる O フイニスによれば,このような分析の利点は,第一に P J Oと P] lが区別され ることによって,特定の行為 φに関する一般的な規範が,主観的な φの是認を. J Oと P J 2が区別される 前提とすることが明らかにされる点である O 第二に, P ことによって, P J 2が P J Oにおける政治的道徳的な判断に依拠してはいるとし ても, P J 2の優れて法的な性質が明らかにされるということである. O. そして第. 三に E JとP Jの区別が,権威的ルールは事実としての側面を有しつつも単なる 事実以上のものを含むことを明らかにするということである O 第四に@がルー ルとして望ましいという実質的判断 P J Oと行動の経験上の一致と, φが国際法 におけるルールであるという法的判断 P J 2の聞をつなぐのは P] lであるが,こ のように個別的判断を一般的判断につなげる P] lの意義は,その背後に PJmと いうメタ判断が存在していると考えることによって明らかにされなければなら ない。それは. PJm 慣習的ルールの生起と承認は国際社会における相互行為あるいは調整 -148-.
(15) 法科大学院論集創刊号. 問題を解決するのに望ましいあるいは適切な方法である というものである 180 この PJmの意味するところは,国際関係における調整問 題を解決することによって共通善が獲得できるとの実践的規範的判断が,たと え全ての国家においてではなくとも広範に存在し,その解決方法として慣習法 の承認が適切であるとの判断が広範に存在していることによって,特定の行為 に対する具体的な慣習法の成立が可能となるということである D この PJmが 個別的な行為において表現されているのが PJOにおける aと bであって,だか らこそ,その時点では主観的にすぎない個別的行為の範型としての望ましさが, 行為の合致という経験的事実に支えられた上で一般的な法生成 ( P J 2 ) に通じ ていくことを認める PJ1の規範的判断が恐意的である,あるいは論理の飛躍で あるとの批判を免れるのである O 以上のようなフィニスの分析からは次のことが理解されよう. O. 第一に,法の. 生成の主要な契機が,調整問題の解決の必要性の広範な認識 ( PJm) によるこ と,そしてこのような認識は,調整問題の解決による共通善の追求という規範 的な意図を含んでいるということである. O. 第二に,国際法においてはこのよう. な調整問題の解決方法として国際慣習法によることが広範に是認されており, それは国際関係においては統一的な立法的権威を欠くことからこのような慣習 法が唯一実行可能であるという実質的判断による. O. しかしこの,有効な方法を. 承認するということは,共通善のために調整問題が解かれるべきであるとする 基本的な規範的態度によって基礎づけられていることが忘れられではならない。 第三に,このような枠組み的な規範的判断を前提にしつつ,個々の慣習法の成 立に関しては,行為主体により個々の行為のルールとしての望ましさが主張さ れなければならないとされているのは,個々の慣習法の権威は,その意味で, 法が要求し是認する行為の調整問題における有効性に対する主観的信頼に基づ くものでなければならないということである。権威は行為者における当該行為 選択の排他的理由となるものであり,慣習法の成立の契機は,行為者が望まし. -149-.
(16) 契約の自由と国家. いと判断する調整問題解決のルールに向けた行為でなければならないというこ とが意味されている O ここで,フイニスのこのような基本的な立場と,前述のカントとヘーゲルか ら得られた示唆との関係を確認しておきたい。 国際慣習法に見られる権威あるルールとしての法は,調整問題が解決される ことを望ましいと考え,さらにその調整問題を解決する実効的な方法としての 国際慣習法の採用を認める規範的判断を根拠とすることが論じられ,このよう な規範的判断は,確かに広範にみられるものではあるが必ずしもすべての国家 の合意を前提とするものではない。つまり,共通善の獲得のために調整問題を 解決すべきとする規範的判断は,その有効な方法に対する判断と同様に,また 個々の行為の範型の望ましさに対する主観的判断とも同様に,共通善の追求へ の意思に基本的に基づいているのであって,事実としての全員一致や合意に基 づくのではない。これはカントが自由の基礎に理性をおいたこと,つまり自由 が理性的判断を根拠としていることによって,秩序と自由との関係を両立可能 としたことと重なる O フィニスのいう規範的(実践的)判断はカントのいう理 性(実践理性)的判断と同様に,たとえ主観的判断であっても当座の自己利益 を前提とするのではなく共通善の達成に向けられたものでなければならないこ とを自明の出発点とするために,主観的判断(自由)と権威あるルールとして の法の間隔が,事実的判断を含めた段階を経る必要はあっても,埋められ得る ものとして主張されているのである. O. 次に,ヘーゲルが規範に対する主体的受容を説いたことに関して,フィニス にも同様の視点が見られる。フィニスは一般的な権威あるルールとしての法の 必要性を,いわば自明の規範的・実践的判断の内容としてその法理論の基礎に 置くが (PJm),それは完全に無批判的な権威への服従を意味するのではなく, 個々の行為者が行為に従事するときには,そのような一般的な権威の必要性を 認め,その権威のあり方(この事例では国際慣習法)を是認する観点から,主. -150-.
(17) 法科大学院論集創刊号. 体的に当該行為の望ましさについて判断していなければならない,ということ である. O. その顕著な例として, [主!際慣習法におけるオピニオ・ジ、ユリス,つま. り行為者の法的正当 性の確信に基づいた行為遂行が挙げられたのである d. O. 以上でフィニスの理論においては.共通善の獲得を目指した調整問題の解決 の必要性という実践的な規範的判断が.権威あるルールとしての法の正当化根 拠であること,法生成の場合には行為者の権威に対する受容が前提となりつつ も,個々の行為を望ましいと主張する彼の規範的判断に基づく行為が必要であ ることが主張されていると確認した。 ところで国際慣習法の成立に関しては,権威あるルールとして慣習を承認す る方法が採用されているが,調整問題の解決に有効であり実際に可能である限 り,権威あるルールの存在形態はこのような慣習に限られない,とフィニスは 論じる. O. とりわけ,慣習法による方法は,慣習の内容や拘束される主体の範囲. などが性質上暖昧であり,また諸国家の行為の事実上の収束を待たねばならな いという点で時間がかかり非効率的である. O. 人々の活発な活動と交流における. 迅速で有効な調整問題の解決としては,それが可能で、あるところであればどこ でも権威的ルールを決定する権威者が要請されることになろう. O. それは調整問. 題のより優れた解決を目指す実践的な規範的判断の故である D ここで,慣習法 の成立によらず,権威者による決定という方法での権威的ルールの確立という 方法が論じられることになる. O. ここでフイニスが強調するのは,この権威者に. よるルールの確定という方法が,慣習法の場合と同様に,合意や全員一致に よっては決して正当化されないということである. O. 彼は,合意によって法を正当化する,なかんずく国家の権威を社会契約とい う合意の理論立てによって正当化する理論を以下のように批判する。 合意を法の正当性の源泉とする理論は次のように論じる. O. 第一に,自然の合. 理性は統治的権威の必要性を認識する c 第二に. しかしながら,このような自 然の合理性は統治的権威の保持者として特定の個人や集団を指し示すことがな 噌Ei. 寸Eよ. FHU.
(18) 契約の自由と国家. い。そこで,第三に,自然の合理性は統治的権威が多数化されて全共同体その ものとなることを要求する,そしてその全共同体の保持する権威が特定の人々 (王や議会など)に委譲されたと説明することによって,実際に存在している 特定の法的権威が改めて正当化されることになるヘ ブイニスによれば,このように,正当性の源泉を共同体の全員の意思に置き, そこからの合意,契約を通じた権限委譲によって既存の法的権威を正当化する のが「被治者の合意J論であり,このような理論は既存の権威の源泉をさかの ぼるという推論を行うのが特徴である O しかしながら,第一,第二の前提は正 しいが,そこから第三の結論が出てくるとするのは誤りであり,調整問題が 人々の非統一的あるいは非調和的な行動の結果として必然的に生じてくるもの である限り,権威は統治に関する,実際の人々の意思の代替手段でしかあり得 ないのである. O. そして,このように権威の正当性を,調整問題の解決による共. 通善の追求という実践理性の命じるところに直接よらしめるならば,合意理論 の如く権威の正当性をそれよりも上位の権威にさかのぼる場合の無限後退や, 権威の所在を決定する手続に参加することと実際の権威の保持との混同という 問題を避けることができるのである. O. 確かに,民主主義という形で,権威の所在を決定する手続を多数化すること はできる。しかし,選挙は実際の権威の保持とは全く異なるものであることは いうまでもなく,さらに,かりに小さな村落共同体のようなものを想定して, そこでの成人構成員の全員一致による決定を法にしたところで,このような全 員一致と法の権威との間の距離は埋められないのである. O. なぜなら,成人構成. 員がそれぞれの私的生活に戻った後に彼らを統治するのは,彼らが事前に行っ た決定の有する権威であって,彼らの個人的な意見はその後変わるかもしれな いし,彼らは投票を後悔するかもしれないにも拘らず,自らの行った決定に拘 束されざるを得ないからである. O. そうでなければおよそ法というものは存在し. ないからであるヘ よ. h 戸 d. “ ヮ E.
(19) 法科大学院論集創刊号. 以上のようなフィニスの議論は.. 1 玉l 家の統治を人々の合意に基礎づける社会. 契約理論のみならず,契約の拘束力を当事者の意思に基礎づける契約理論の批 判にも適用されるであろう. O. 当事者の窓思が後に変化しがちであることは明ら. かであるが,それにもかかわらず契約が拘束力を有するのは,フィニスの説明 を借りれば,当事者の合意のゆえではなく,一度締結した契約に拘束力を認め ることによって取引の促進と安全を凶ることができるという,共通善の追求手 段としての有効性が契約制度に認められているからである,ということができ るであろう. O. このように,フイニスの理論によれば,法的権威はその調整問題における有 効性の主張のみによって,それ以上の遡及的源泉ゃなかんずく人々の合意に訴 えることなく,直接正当化されることになるが,人々の意思あるいは合意はこ こで二つの役割を果たしているとされる O 第一に,権威が調整問題に有効であるからこそ従われるべきであると判断す る実践的理性によれば,権威的決定者に関する慣習法や憲法などのルールが存 在している場合には,その決定者がそれらに従った合法的な権威保持者である かどうかによって,人々は権威的決定に服従あるいは黙認をするべきか否かを 判断しなければならない。最初に爾来の権威の所在を決定することにより調整 問題の解決に乗り出す宣言を行う権威者は別として,このような権威の所在を 決定するルールが既に存在する場合は,このルールが従われた上での決定でな ければ,調整問題の解決のためという権威の存在基盤は失われるのであるから, 人々はこれらの点について判断するべきであるとされるのである. O. 即ち権威に. 対する合意ではないが,存在する権威が合法的なものであるかどうかについて は常に判断しなければならないヘ 第二に,合意はそれがなければ従う必要のない義務を課する場合があること, また実践的理性を備えた個人が,共通善を念頭に置いたときには「合意すべ き」と考えられる場合でなければ決定が従われる必要はない,といわれるヘ ﹁U F. qJ. 1Eよ.
(20) 契約の自由と国家. しかし,以上のような合意の効果は,実効的な調整問題の解決のための権威 という原理に対して非常に限定された影響しか有さず,合意論者の間違いは, このようないわば但し書きに過ぎないものを原則ととり違えたところにある, とフイニスはいう O さて,以上のフイニスの主張を見るとき,権威者による決定としての法につ いても,国際慣習法の場合と同様のカント的な理性の重視とヘーゲル的な主体 的判断の重視がみてとれるだろう。実践理性は当事者の事実上の合意の有無と 関わりなく,権威的決定という手段を正当化するものとされている一方で,権 威の存在の理由を理解してその個別的具体的なあり方が正当であるか否かを判 断する主体的な視点はやはり手放してはならないことが主張されている,とい えるであろう. O. 権威的決定とそのルールであることに法の主要な特徴を見出す以上のような 理論は,法の現実からみれば当然のことでもあるように思われる一方で,合意 や契約や主観的な自由の観点から法秩序の成り立ちを説明しようとする,賛成 するにせよ反対するにせよ我々にとってあまりにも馴染みの深い自由主義の諸 理論に対する妥協のない否定である点で,合意・自由と,法・国家との間の関 係を見極めようとする本稿の目的に大きな示唆を与える. O. ここでは,法とは合. 意ではあり得ず,権威的決定であると主張し,その権威的決定であることを前 提としつつも個別的な正当性に対しては主体的な判断を放棄しではならないと する形で,自由の意味が書き換えられていると理解することができる. O. 即ち,. 権威的決定に対する批判的検討の余地としての自由や合意の位置づけがなされ ているとみることができるであろう. O. このように,一般的な前提としては受け. 入れざるを得ない権威的決定に対する個別的批判や検討の可能性としての自由 や合意,あるいは法秩序の存在を受け入れた上で,それを個別的に修正しかっ 積極的に利用していく営みとしての自由や合意を考えるならば,法以前に存在 し,法と全面対決せざるを得ないような自由観を払拭することが可能となる O 一1 54-.
(21) 法科大学院論集創刊号. このような考え方は,. I 法の支配ーの意味を.ー権力発動の普遍主義的正当化可. 能性の保障と市民の側の「正当化を争う権利ーの保障」に見出す井上達夫の見 角曜にもつながるであろうへ ところで,権威的決定に対する主体的正当化としての自由は,具体的にはど のようなものであろうか。フイニスが挙げるのは国際慣習法の成立時における, 自己の行う個別的行為の一般的範型としての望ましさの確信であり,また権威 的決定が存在しうる場合には権威の所在や決定内容がルールにのっとったもの であるかどうかを判断することであり,さらに共通善の観点からの「合意」の 必要性を判断することであった。そうすると,我々は,第一に権威的決定の存 在しない分野では新しい行動範型の確立を共通善の観点から主張することにな るであろうし,第二に既に権威的決定手続が存在する分野では,ルールの適用 の正しさを問うことになるであろうし,第三にルールの内容についても共通善 の観点から一定の批判的検討が自由の観点から要請されることになるだろう. O. 第一,第三の点は我々の立法への参加の必要性を想起させるものでもあるが, より個人的な立場からの自由の行使として考える場合には,第一,第二,第三 を含めて,むしろそれは裁判という秩序形成の場での権威を承認する義務を前 提とした上で,そこでの権利主張や,裁判における新しい法形成につながるも のと考えられるのではないだろうか。即ち,自由主義における自然的自由は, 法秩序においては裁判での権利主張として現実には表れることになるのではな いだろうか。法において論じられる自由とは.国家の否定やその無干渉を意味 するのではなく,共通善の追求に向けた規範的判断の実践にあらわれる動的態 度のことであり,それは典型的には裁判での主体的な,ときには新しい権利主 張において現れるという自由論を. この章で得た結論と考えたい。. 以上,この章では自由と国家の間隔を埋めるべく,その矛盾の様相を明らか にすることからはじめて,法秩序の権威と両立し得る自由の在り方として「裁 判における権利主張」を提唱する可能性を指摘できるのではないかとの結論に h 戸 U. F﹁U. 11.
(22) 契約の自由と国家. まで達した。「裁判における権利主張」は,実定法上は「裁判を受ける権利」の 保障として知られているものと大きく重なるであろう. O. 次の章では,本章で、は一般的に扱った自由と国家との関係を,本稿の主題で ある「契約の自由 Jと国家の関係として再考することを試みたい。. E 圏内法秩序における契約の自由. 前国家的権利としての人権と憲法上の人権との間隔,あるいはカントにおけ る自由な合意と確実な秩序との聞のギャップは,私法において「契約の自由」 といわれている当事者の合意の尊重と,契約の拘束力という優れて法的な現象 との間にも同様にみることができる D この間隔の存在は私法と公法の分離とい う近代自由主義のイデオロギーの有効性とも深い関係を持つと思われる でこの章では,. O. そこ. r 契約の自由」の法秩序全体の中での位置づけを論じる諸説を. 検討する O 「契約の自由」が行使される現実の態様をみるならば,違法・無効の取引が事 実上遂行される場合は別としても,契約締結の相手方や内容や形式に関しては 相対的に広い範囲での当事者双方の自由が許されてはいるが,この「自由」の 貫徹は,有効な契約に拘束力を認め,国家機関である裁判所の判決を媒介とし, 一方の当事者による他方の当事者に対する強制的要求を認めることによって達 成される O ケルゼンは,法体系を,刑法上の処罰などに見られる強制的な義務 付加規範と,契約法上の行為能力の規定などに見られる非強制的な権能付与規 範の二つに分けるハートの法理論に対してへ法命題はすべて裁判における法 的義務の決定へと還元されると論じたへここでは,たとえ当初は選択の自由 を有する当事者間の取引であっても,関係が法的な紛争に変じて後は,最終的 には国家機関としての裁判所が登場し,契約上の義務を有すると裁判で決定さ れた者に対して強制的な命令が下されるという契約法の姿が明らかにされてい. -156-.
(23) 法科大学院論集創刊号. るO なぜこのような強制の要素を含んだ契約法が正当化されるのであろうか。こ の疑問をさらにケルゼンに従って解こうとするならば,彼の段階構造説26によ ることになろう。即ち,個々の契約上の義務は,契約法に従って導き出され, この契約法は議会に対する授権によって制定されており,この議会への授権は 憲法によって規定されている O 憲法の以前には彼のいわゆる根本規範が控えて いることになるが,ここでは個々の契約上の義務を導き出す契約法が,既存の 実定法秩序のうちにあり,その実定法秩序の頂点には憲法が存在することを確 認することで足りるであろう れることになる. O. そこで,. I 契約の自由 j の憲法上の根拠が問わ. O. ここで確認しておかなければならないことは,契約の自由について上位規範 としての憲法上の根拠を考えることの意義である. O. ケルゼンの法段階構造説の. 考えを借りることは,自由と法秩序の間隔を,共通善の追求における権威的決 定の必要性と有効性の主体的承認という点で結び付けようとする,前の章で打 ち出された視点とは矛盾するのではないかとの疑問に答えておかなければなら ないであろう。 確かに,フィニスは,個々の法的決定や一般の法的決定が共に,そのような 権威的決定の必要性と有効性とに関する実践的規範的判断に直接支えられてい ることを論じていた。彼はこの実践理性の理論で,法の正当性の起源を遡って いく形式的正当化の理論に対しても反論を加えていた。もしこのように上位規 範による形式的な正当化の方法をとるならば.調整問題の解決としての一般的 な法秩序の有効'性を認めつつも,個別的な決定の内容について,あるいは権威 的決定の未だ存在しない行為領域について.同じ調整問題の有効な解決という 実践的理由に従った主体的な判断が必要であるとする主張の意義は損なわれる ことになるであろう. O. なぜなら,ケルゼンのような法実証主義の理論は,手続. に従ったという意味での形式的正当性が存在すれば.共通善の観点からなどの t. 1Eよ. ヴ FhU.
(24) 契約の自由と国家. 実質的有効性の判断が個別的に介入する余地がなくなると論じることによって, 法秩序の安定性を保つことを狙いとするものだからである O しかしながら, ,契約の自由 Jの法秩序における位置づけを考察しようとす るこの章では,正当性の起源を遡る論法ではなく,私法と公法とを一つの法秩 序の中で連続的に捉えようとするケルゼンの視点が重要なのであって,この視 点はフィニスが自由や合意を権威としての秩序の枠内で説明することと重なる. O. フイニス自身,抽象度の高いルール(,何らかのルールが必要である」といっ た)の方が低いルール(,このルールが必要である Jといった)よりも需要可 能性が高いことを認めており,憲法の人権のような抽象度の高いルールが,契 約法上の権利のような具体的なルールを包摂することを否定するものではない と思われる. O. フィニスの自然法論によって否定されるのは,法実証主義におけ. る,権威の行使の際の個別的実践的判断の無意味化という側面のみであり,法 秩序を統一的に捉えようとする観点は両者で共通し得ると考える. O. そこで「契約の自由 Jの憲法上の根拠であるが,現代の自由主義諸国家で認 められる普遍的な人権のリストを備えている日本国憲法上では,周知のように, 一三条の幸福追求権を挙げる説と,二九条の経済的自由権を挙げる説が存在す る。幸福追求権も経済的自由権も共に憲法上の権利として保護されるものであ るので,この両説のいずれを採るかについての議論の実益は,この両者の権利 に対する保護の態様が異なる場合に存在する。 憲法上の権利の保護についていわゆる二重の基準論を採る場合には,精神的 自由と経済的自由を区別し,前者については人々の聞の基本権相互の両立に必 要な内在的な制約のみに服するが,後者については福祉国家体制に由来する経 済政策が,その現実における実行に際して立法府の試行錯誤的裁量を許容せざ るを得ないことに鑑みて,そのような拡大的な外在的な制約を許すとされる。 しかし,かりにこの二重の基準論を受け入れたとしても,契約の自由は単に金 銭的な意味での経済活動のみではなく,人格や日々の生き方に関わる職業や自. -158-.
(25) 法科大学院論集創刊号. 己表現や自己実現のために活用されるのであって,一様に精神的活動とは区別 された上で広範な政策的裁量の対象となると考えることはできない。契約の自 由は場合によっては,例えば最低賃金法や利息制限法などの金銭的な基準設定 に関しては経済政策的な裁量の余地を残すことがあるにせよ,生活における身 近な自己実現の手段拡大の方途として可能な最大限の保障を要求するものであ ると考えられる. O. そこで,一般的な人権保障の根拠としての一三条幸福追求権,さらにそのう ちに含まれる自己決定権を契約自由の基礎と考えるのであるが,周知のように 自己決定権の意味理解に関しては人格的自律説と一般的自由説が対立してい る九そして一般的自由説の方が通常保障される自由の範聞が広く,契約の自 由も当然その範囲に含まれるとされるのに対して,保障される自由を,例えば プライヴァシーやリプロダクションに関わる選択など一定の「人格的生存に不 可欠な自由 j に限定する人格的自律説にたてば,愚かな消費や他の広範な選択 肢の存在のために不可欠とはみなされない契約にも拘束力を認める契約の自由 がその範囲に含まれるのか否かは少なくとも微妙であるということになる. O. そ. こで契約の自由を自己決定権によって基礎づけるためには一般的自由説を採る のが通常であると考えられている O しかしここでは一般的自由説が,公私の領域区分を前提とした近代自由主義 の思考方法と密接な関係を持つものであることに注意しておく必要があると思 われるお。即ち,軍事や警察行政や税などの公的な領域においては,国家権力 に裏付けられた一義的統制が必要であるのに対して,市場を中核とする私的な 領域においては国家による放任がなされ,価値ある選択であれ無価値な選択で あれ,その私的な領域に属するとされる事柄については一般に当事者の白治に 委ねられ国家や法の介入が無いとされるのであるこここでは一定の,人格的生 存に不可欠な選択の自由のみが認められるのではなく,私的な生活の領域に属 するとされるものであれば,人格に関わるものであろうがなかろうが一切の法. -159-.
(26) 契約の自由と国家. 的な義務からの免除という形での自由がカテゴリー的に認められるとされるヘ このような公私の区分を前提とし,法の介入から免れた自由市場を擁護しよ うとする立場は,それが経済的自由を政治的自由などよりむしろ自然権の基本 として位量づけ,政治的自由は経済的自由が存在してこそ現実に可能であると の主張を伴う場合には,二重の基準論に基づいて,経済的自由を,精神的自由 あるいはそれと繋がる政治的自由に劣後させるこ九条説とは相容れないことは 勿論であるが,そればかりではなく,私法秩序を公法秩序に対して優位,ある いは並列させる点で,いわゆる公法私法の両領域を,法秩序の存在という観点 から連続的に捉えようとする本稿の観点からは,課題に十分答えられないもの と考えられる O そこで人格的自律説が検討されることになるが,この説は通常「自己の人生 の作者であること」を自律としての自由の意義と捉えるラズなどの見解を背景 としているが30 これをカントの人格論に即して理解する見解も存在するヘ 既述のように,カントの自由論は,自由が実践理性に導かれたものであると 考えることによって,自由がそのうちにある種の秩序を含む点に特徴が認めら れる口即ち,自由とは,本能や感情という自然的な因果法則に支配されがちな 人聞が,そのような支配から脱して自己の理性に基づいて決定をなしその自 己決定に従って自己自身を律することであるとされる. O. このようなカントの観念的自由論は,しばしばイギリスを中心とする経験的 自由論の系譜と対比される a 経験的自由論における自由は,強大な権力を行使 する国家に対抗して市民の自由を主張し,現存する強制を徐々に排除していく ことによって人々の本来的欲求の満たされる範囲を拡大していくための理念で あった。これに対して観念的自由論は,自由を侵害する国家という他者の想定 が無く,自己立法という形で,他者に対する対外的な自律よりもむしろ内的な 自律を論じるのであるヘ このような自己立法の理念を含む自由が,普遍的な秩序と親和的であり,個. -160-.
(27) 法科大学院論集創刊号. 人と国家の聞をつなぐのには適したものである一方で,やはりこれを市場にそ のまま適用することにもためらわれるこ自律をこのような厳格な理性に導かれ るものと理解し,自由が何ら強制なしに秩序と一致するという考え方は,諸個 人が異なった欲望や要求や感情や手段を持つことによって多種多様な交換が生 じるという,いわば差異を前提とする市場の基本的なあり方とそぐわないよう に思われる口諸個人の欲求と有する子段の差異,そこでの実際の経験を踏まえ た調整問題としての法秩序が問題とされなければならないであろう O 山本敬三は,一般的自由説とカントのような厳格な人格的自律説の折衷説と 理解できるようなリベラリズムの立場に立ち,異なった諸個人の聞の権利の調 整として,私法秩序と憲法秩序を連続的に捉えることを試みている D 彼は, 「それぞれの善き生き方の追求」を可能とする法秩序の追求をリベラリズムの 基本とするが,国家による命令や禁止の不存在を意味するに留まらない自由の 制度的側面をも重視し,. ドイツの理論を参照しつつ,法制度としての自由は,. その実効的な実現のために,他の個人により自由を侵害された個人が国家に保 護を求める「保護請求権」を内包していると主張する。そして社会的人権や新 しい人権に関しては議論があるとしつつも,. r さらに,そうした権利をより確. 実に実現するため,権利の侵害を裁判所に訴える権限による補強が考えられ る033Jと論じている O 同様に,自由の内実の一つで、ある契約の自由について も,それを私的自治の制度化と捉え,当事者が国家に対して自己決定の所産で ある契約の法的有効性の承認を求め,裁判所を通じてその強制的実現を求める ことができるという側面に注意を喚起する h そして,このような,自己の自 由に対する他人の侵害からの保護を国家=裁判所に求める「保護請求権」の行 使を通じて顕現する,諸個人の聞の契約の自由.表現の自由,職業の自由,そ の他自己決定の自由の相互の衝突を(たとえば過去の契約に拘束されることに よって現在の自己決定が侵害される場合に・方の当事者の契約の自由と他方の 自己決定権との衝突が生じる),これもまた裁判を念頭においたと思われる自. -161-.
(28) 契約の自由と国家. 由権の優先順位に関する当事者の論証責任の導入によって解決しようと試みる。 具体的には,契約の自由は私的自治と自己決定権の制度化として非常に重要な 意義を有するから,安易に他の人権との関係で優先されるべきではないにして も,全ての権利と同様に他の権利との相互調整は必要不可欠で,生命・身体・ 性的及び家族的結合・思想、などの基本的な自由に重大な侵害となる場合にはそ の個別事例における論証による契約の拘束力からの解放を認めるべきである, とするヘ 自由主義において,山本のリベラリズムに見られるように,単なる放縦では なく「善き生き方」を追求する個人を想定することは,自由が無秩序と結合す る可能性を減少させるであろう。さらに,このような「善き生Jの現実のあり 方に個性を認めることによって,カントの理性的自由に見出される一義性を排 することも可能となるであろう. O. このように,無秩序を望むのではないが,し. かし他人の自由と衝突することが想定可能な自由の捉え方をすることによって, 自由の調整問題の解決としての法が立ち現れてくることになる。そしてこの法 秩序の焦点は,裁判における権利保護の訴えとそこにおける論証と反論という 過程に置かれることになる. O. 重要なのは裁判という法秩序の確認と形成の場所. が,国家からの権利侵害の訴えに対してであれ,他の個人からの権利侵害に対 する保護の訴えに対してであれ,個人に開放されているというである. O. この理. 解は,公法私法を通じた全法体系を裁判規範に還元する既述のケルゼンの理論 と合致する面を持つのみならず,個人が自己の自由と権利の主張を貫徹しよう とする際に国家の機関と権力を用いるという,法秩序を志向する自由のあり方 を説明するのに不可欠であるように思われる O 本章での結論は,一般の自由と同様に,契約の自由においても,法的な制度 化が前提とされざるを得ず,その制度化が裁判を中心に理解されることである O 契約の自由も,憲法上に規定された他の基本的人権と同様,権力を用いた調整 問題の解決という法秩序の枠組みから免れることは不可能であると同時に,裁. -162-.
(29) 法科大学院論集創刊号. 判における個別的な論証を通じて.その調整問題の解かれ方に対しては個人が 一定の役割を果たすことができる.あるいは果たすべきであるということ,そ の意味で自由は秩序からの免除と L寸状態ではなく法秩序への積極的な関わり という行為において現れる O 以上の契約の自由の考察は,憲法を頂点とする圏内法を念頭においてなされた ものであったが,次にこれを国際的取引における契約の自由として考察する. O. U 国際的取引における契約の自由. 分析の視点 国内的取引における契約の自由は,契約締結の自由,契約内容の自由,契約 方式の自由として通常理解され. これらの点については国家法による強行的介. 入が認められないというのがその基本的意義であった。しかしこのような当事 者による自治は,制度としての契約法や裁判による強行的な義務の認定に支え られており,自由な合意はこのような強制の主体的な受け入れを前提としての み法的な意義を有することが前の章で確認された。 この章で論じる国際的取引においては,このような,強制的な法制度を前提 とする契約の自由の姿がより目に見える形で現れているということができるで あろう. O. 国際的取引における契約の自由は,国内的取引における上記のような. 当事者の,主に契約内容に関わる自主的決定の尊重ではなく,紛争が生じた際 にはそれがいかなる基準によって,あるし、はし味、なる機関によって処理される べきかに関する当事者の合意の効果を認めることとして理解されているからで あるお。すなわち,圏内的関係とは異なり.適用可能性のある法秩序が複数存 在する点に国際的関係の特徴がみられるところ.その複数の選択肢の内のいず れの法秩序に準拠して契約紛争が処理されるべきかに関して,当事者の合意の 余地が認められることが,国際的取引における契約の自由,あるいは当事者自. -163-.
(30) 契約の自由と国家. 治の意義であると考えられている. O. そして,このような準拠法合意に準じるも. のとして,契約紛争がいずれの裁判所において処理されるべきかに関する管轄 合意,そして紛争解決機関を特定の国の裁判所とはしないが何らかの権威ある 第三者の裁決に委ねようとする場合の仲裁合意もまた一定の範囲で認められて いる. O. これらの合意が認められる場合には,当事者は,自らが従う法秩序の内. 容,あるいはその法の決定者を選択することができるのである O 論述は以下の順に行う. O. 次の第二節においては,このような国際的取引にお. ける契約の自由の現れであるとされる準拠法合意の認められる根拠とその制限 根拠が,国際私法上どのように論じられているのかをみる. O. ここでは,契約の. 自由と国家の法との関係が,これまでとはまた異なった観点から観察される. O. 第三節においては,準拠法合意の性質を明らかにするため,契約からの準拠法 合意の独立性の如何についての議論をみる O 準拠法合意の独立性を認めること は,これを契約内容に対する実質的な合意とは異なる独自の意義を持つものと 認めることであるが,本稿ではその独自の意義が,一定の法秩序やそれに基づ く権威的決定を受け入れるとする,当事者の手続的な合意でで、あること られると考える. O. 最後に第四節において,このような準拠法合意と仲裁合意の. 密接な関連性を指摘することによって,準拠法合意が必ずしも国家機関による ものではないが,裁判とそこにおける一定の法秩序の適用に対するものである ことを確認する. O. ニ準拠法合意の根拠とその制限 本稿の冒頭で確認したように,普遍的な自由は特定国家の法秩序への従属か らは理念的には免れており,そのような自由の性質は囲内的取引よりも国際的 取引において,より強い程度で発揮される可能性がある. O. 国内的契約においても,任意法規を当事者の意思表明によって変更すること はでき,その変更の内容には外国法の内容を取り込むことも,いずれの法にも. -164-.
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