• 検索結果がありません。

「国家神道」論の系譜(下)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「国家神道」論の系譜(下)"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論の系譜

(下)

呈學館論叢 第三十二巻第二号 平成十 年四月十日

「国家神道」

五、 宮地正人氏の 「国家神道」論 (1) 宮地「国家神道」論の意義 宮地正人氏の「国家神道」論は、村上説の構想を荼本的には継承しつつ、「国家神道」を上下の対抗関係という視 点から捉え直す試みといえる。言い換えれば、村上氏が「国家神道体制」という制度を構成する要素として捉えたも のを、「国家神道」の 確立へと向かう運動の中に位置づけて、動態的に再構成しようとした試みであ る。 したがって、 「国家神道体制」という静態的なニュアンスを含んだ術語はほとんど用いられず、「国家神道」は、再び神社神道およ ぴ皇室祭祀に限定される傾向を示している。 しかし、動態的とはいっても、「国家神道」の確立へと向かう動きに焦

(2)

「国家神道」論の系譜(下)(新田 (3) 「国家神道」 の確立過程点が当てられ、 それに対抗する動きにはあまり注意が払われていない。そのために、 何故、「国家神道」 (2) 「国家神道」 の定義 宮地氏は、「国家神道」について、次のように定義している。 平成元年九月、110九頁) そして、 この「国家的な神社制度」は、宮中祭祀も含んでいると考え ているようである。 の確立を目 指した人々の目的が十分に達成されなかったのかと いう疑問を残す結果となっている。また、 運動の結果として生み 出されたものが、その後「国家神道」とどのような制度的関係に立つことになった のかという点も曖昧なままとなっ 「「国家神道」というのは、明治前半期の天皇制国家がつくり上げ て行った 国家的な神社制度 であり、 その神社 制度を理論化する政治理論 だと私は考えます。」(「国家神道の確立過程」「國學院大學日本文化研究所紀要 j 第六四輯、 「宮中祭祀が、 国無数の神社祭祀の 基本とされ、そして明治八年四月には神社祭式が式部寮によって制定され る。全国の神社が共通してやらなければならないお祭りのやり方がこ こで決定される。ところで前近代から明 治初頭までは、 全国の神社はそれぞれの古くからのしきたりと 伝統で固有の祭祀、式典を持っていたのです。 それがこの明治八年四月の神社祭式の公布によって、祭祀レベルにおいても画一化されてしまったと私は思っ また、 神社制度と有機的に結合した制度として「教派神道制度」も「国家神道の体制」の中に含ま れていた とする。 「一面その宗教的活動を保証しつつも 他面では、「神勅」と三種の神器、現人神等の天皇 制イデオロギーの根 幹に関する一切の疑いや批判を許さないシステム、 いわゆる教派神道制度 をこの年〈明治一五年〉に創り出す (但し、 黒住、 神道修成派は明治九年別派独立)。そして、これまで天皇制イデオロギーの構築運動の中心的役 割を果してきた人々は、 天皇制イデオロギー 強化のための教派神道活動に没頭する。ー(中略)ーぁりとあ らゆる神道系諸宗教を統制し、懐柔し、 威圧し、 それらの教義と活動の中の 、きわめて微弱な非天皇制的イデ オロギーをも看過することなく、 敗戦に至るまでの日本社会において神社神道と有機的に結合しつつ、 その機 能を果していくの である。」(「天皇制の政治史的研究」校倉書房、 昭和五六年五月、 一四六頁)。 「祭祀と宗教が分離され、神社尊崇と教派神道支配の結合による新たな国家神道の体制がつくられ云々」(同右、 一五二頁)。 さらに、「国家神道」創出の基本的な目的については、 次のように述べている。 「国家の支配の正統性とい うものは、天皇制国家の場合には 壌無窮の神勅と三種の神器ということが大前提 となっている。 これが天皇が日本を統治するレジテイマシーのもとになるわけですから、 全国の神社をそのよ うな意識を再生産できる基礎単位としてつくり上げる、 より正確にいえば組織替えすることは国家としても緊 急の課題でした。」(「国家神道の確立過程」ニニ0頁) 「国家神道」の確立過程については、「体系 と教理 の確立」と「国家機構の上での確立」という二つの段階を経た ています。」(同 右、 ニニ七頁) ている。

(3)

「国家神道」論の系譜(下)(新田 一は「明治十五年(-八八 J とによって、 「国家神道の体系と教理の原型が明治十五年に確立すると私は考えております。これが国家機構の上でも確立す るのは、 日清戦後の明治三十三年、内務省が神社と仏教を取り扱ってきた社寺局を分割 し、 神社局と宗教局と いう二局に分立することによって、 神社尊崇は宗教にあらずという国家神道の枠組みが国家機構の上からも確 定すると私は考えています。」(「国家神道の確立過程」ニ――10頁) 宮地氏は、教部省の時期に、 神道は宗教として発展する方向を示し、 そのことは二つの意味で政府にとって好まし ―つは、宗教として発展すれば、神道 は他の宗教と同一レヴェルのものと見な され、 イデオロギー装置としての機能が低下してしまうこと(「国家神道形成過程の問題点」、 安丸良夫•宮地正人編「宗教 と国家」近代日本思想体系5、 岩波書店、 昭和六三年九月、 五八七頁)。 もう―つは、 多袖げ 教である神道 が宗教として発展 すれば、神道自体の結合力が低下してしまうことであった(同右、 五八八頁) このような事態に対処するために、 政府は神官と教導職との分離を行い、 これによって、神社神道を非宗教化し、 教派神道を政府が正統とする神道理解(天皇制イデオロギー)の枠内に閉じ込めようとしたとして、 次のように述べて 「政府がこの 時とった政策というのは、 明治五年六月の神官は葬儀に関係せよという布達を撤回し、個々人の霊 魂の救済という宗教的問題から神官は手を引けとするもので した。他方で宗教として非常に力強く発展してい る神道的諸宗教に対しては、政府が公認する教派神 道に直結さ せることによって、 天皇制国家が 正統とする神 道理解からの逸脱を禁止する体制を敷きます。」(「国家神道の確立過程」二三0頁) 「政府は神官に個々人の死後の救済問題から手を引かせ、神道祭祀を国民的習俗と理由づけ、それに専念させる 一般からの神道 11 宗教批判を回避する口実とした。 神社崇敬は宗教にあらずというのが、その 後の政府の公式見解となる。ー(中略)ー しかしながら「崇敬」や「敬神」の対象である神霊カテゴリー自 身、 純然たる神道宗教固有のものであり、「 敬神」 から信仰への道は極めて広く平坦な道で あった。 そこ にお ける天皇制イデオロギーからの微細な逸脱すらも、すべての神道系諸宗教に政府公認の教派神道各派に直結す ることを強制し、 それ以外のいかなる教団も容認しないことにより、完全に封じ込ん だのである。 ここに国家 神道の理論的枠組みがおかれ、神社崇敬を全国民に強制しうる前提が確立される。」(「 国家神道 成過程の問題 点」五八九頁) 神官と教導職との分離は「当初多くの神官たちを当惑させ た」(「 国家神道形成過程の 問題点」五八九頁)。 しかし、 「帝国憲法発布・議会開設が迫るに従い、官国幣社のみならず府県郷村社に関係する神官の中 にも次第に 神社崇敬は 宗教でないとし、宗教の上に位置づけさせようとする動きが強くなっていった」( 同右、 五八九ー九0頁)。宮地氏によ れば、この立場に立った神官たちは「二つの運動をおこし、実 現させなければならなかった 」( 同右、 五九0頁)。 一月の段階では、 官国幣社に限定されていた神官教導職の分離 を神 官全体に 及ぽすこ と」であり、 第二は「仏教とともに神道をも管轄していた内務省社寺局の支配下から神社 と神官を離脱させ、神祇官 を再興、 宗教一般と異なる神祇行政を確立させること」(同 右、 五九0頁)であった。 第一の課題は「 明治二十四年(-八九一)七月神官奉務規則が改正さ れ、 旧来の「神官ハ教導職ヲ兼務ス」云々の 関係諸条項と諸記述がすべて削除されたことによって実現され」 (同右、 五九0頁)たという。第二の課題 については、 議会開設以前は「権力上層と直結して要求を短期に実現させようとする方法」が取られ たが、 議会開設後には「議会 内の輿論そのものを自らにひきつけることによって要求を実現させようとする」「議会議決方式」 (同右、 五九0頁) いる いものではなかったと分析している。 という。

(4)

ては完結していない。 (新田) 「日本が日清戦争に勝利した直後の明治二十九年(-八九六 )、神祇官興復決議が衆貴両院をは じめて通過し、 明治三十一一年(-八九九)、条約改正の結果治外法権が 撤廃され居留地が 消滅したのを受け、 欧米列強の意向 を基本的に顧慮する必要のなくなった天皇制政府は 、翌明治三十三年(-九00)四月、 内務省 社寺局を廃止 念 i) 、神社局と宗 教局を分立させるのである。」(同右、五九二頁) 「国家神道」論 (1) 中島「国家神道」論の意義 構造も時代区分も一新して 「国 家神道体制」論を再構築しようとし たのが中島三千男氏であ る。中島説にお いては、 神社神道と諸宗教とのバランスが「国家神道体制」の基本構造とされ、明治一0年代から明治末年にいたる内務省の 神社・宗教行政の変遷過程が、「国家神道体制」研究の中心に据えられた。ただし、中島氏が詳しく論じているのは、 その体制の一部( 神社神道)について だけであり、また、時期的にも明治時代に限定されてい る。このため、論 とし 「国家神道」論の系譜(下) 六、 中島三千男氏の の上での確立」を次のように述べている。 に述べている。 の運動がおこなわれた。 他方、政府も「議会開設以前に官国幣社の財政体制をなんとしても確立しなけ ればならない」 と考えて 、「 官国幣 社保存金制度を導入」し、「このような国家の狙いは、明治十七年(-八八四)八月の「受爵者の誓書 」、 明治 二十二 年(-八八九)二月の帝国憲法の告文と発布勅語、そして翌年十月、議会開設直前の教育勅語等におけ る記紀神 話に 依拠した天皇支配の正統性 の明示化となって現れ、さ らに神社創建の仕上げとなって具体化」(同右、五九0ー一頁) したとい }咋゜ 神官たちが「議会議決方式」を採用したことは、「狭い政治のレヴェル の外にひろがる社会レヴェル での、 自らの 要求に対する社会的同調性の形成や非同調的要索の社会的排除とい った課題にも、彼らを極めて敏感たら しめること」 (同右、五九0頁)になったという。このような方向性の延長線上で、宮 地氏は 「国家神道の動きは、明治初年段階の それとは異なった形でのキリスト教への攻撃をあらため て可能とすることとなった 」(同右、五九一頁)とし て、内村 鑑三事件を位置づてい知。また、「国家神道の確立を狙う 人々にとって、キリスト教と並 ぴ新たな敵対者 となってき たのは、厳密な史料批判を信条とし、神話から歴史を分離することに方法論的生命を見出していた創成期の近代的歴 史学であ った」(同右、五 九一頁)として、久米邦武事件を位置づけている。特に、久米邦武事件に ついて は次のよう 「神道は正真正銘の宗教であり、 しかも未熟な未開社会の宗教であると主張す る歴史学と久米邦武は国家神道に とって許容しうるものではなかった。久米攻撃の前面にいたのは正に神祇官再興運動 の中心的担い手の人々だっ (n) たのである。」(同右、五九二頁) このような国家神道の確立 へと向かう運動に対して、「内村を庇い、久 米や重野を支持する 社会的な カ口軍が乏しい 以上、政治的な決着にはただ国際的な環境の変化が必 要なだけであった」(同、五九二頁)と の分析から、「国家機構

(5)

そして 、イデオロギー装置の中で「天皇制イデオロギーを、 眼に見えるかたちで感性に訴えるところの伊勢神宮・官 国幣社から府県社・郷村社にい たる数万の神社群の存在とそ こでの儀式(祭祀) はカナメ的な位置をしめ てい た」 (同右、 七九頁)とされ、 その根拠として次のような事柄が指摘されている。 「国家神道」論の系譜(下) 七九頁)(新田) ← ← [従属][包摂][バランス] → ← → いくのであります。」(同右、 一六八頁) (2) 「国家神道体制」 の基本構造 中島氏によれば、「国家神道体制」は、「信仰の自由」 政教分離」 という近代の思想原理を擬 制的にではあるが組 「国家神道体制成立の前提には(イ)非宗教•国家の祭祀・道徳というたてまえの下に「 改変」 させられた神社 神道、 これを国家神道というので すが、 その成立 、(口)他の諸宗教はその下に従属(包摂) せら れるわけで すが、 その場合には一定の「自治」が与えられね ばならなかったとい うこと、 つまり一定の「 自治」を与えら れた他の諸宗教の存在、 この二つがあるわけです。 まさに 「信教の自由」、「政教分離」という近代の思想原理 を擬制的にではありますが一一重の意味において組みこんで いるのであり ます。」(「「明治憲法体制」の確立と国家 のイデオロギー政策—国家神道体制の確立過程ー」「日本史研究」一七六号、 昭和五二年四月、 一六八頁) 「それは通説の 如くすんな りと出来あがったものではなく内務省における三十年にもわたる試行錯誤の神社(宗 教)行政の中で、 とりわけ日清・日露という二大戦争を経ることによっ て、 はじめてその 枠組み を形づくって 「国家神道体制というものが「近代の論理」を擬制的に組み込ん でいる、 別の側面から言い ますと 戦争の遂行 (国家主義・天皇主義イデオロギーの国民への注入)と国内外の「信教の自由」、「政教分離」原則をも含めた 民王主義思想 の存在とのバランスの上に成り立っている 、さ らに神社と国民との関係でみれば、 国家や天皇の 論理を体 現した神 と民衆の個人的祈願に応える神とのバランスの上に成り立ってい る。 したがって、 その後の 時々の情勢によって国家神道体制の具体的ありようは少しずつ変化するのであってそういった意味では極めて 不安定 なものであります。」(同右、 一九0頁) 以上のような中島説 を図示すれば左のようになるであろう。 国家神道体制 国家神道(改変された神社神道) 諸宗教(自治) この国家神道体制に よって民衆に浸透させら れた「天皇制イデオロギー」とは次 のようなものであったという 「(イ)日本は天照大御神の子孫である天皇 によって統べはじめら れた、(口)日本の発展は その天皇を中心に国 民の先祖が天皇を助ける ことに よってもたらされたも のであり、(ハ)その恩沢は日本国 だけにと どめられる ものではなく世界に遍くおよぼさねばならない 、」 (「国家神道の確立と民衆」「歴史公論」一 1 一巻八号、 昭和五二年八月、 み込んだ体制とされる。それ は次のような体制である。

(6)

「国家神道」論の系譜(下)(新田 二つの重要な相違(障害)あったと考えている。 「一九0七年(明治四十)の刑法(新)第七四条において、神社群の頂点にたつ伊勢 神宮 にたいす る不敬行為が 天皇にたいするそれと同列の刑に処せられるよう になったこと、また戦前における植民地の日本からの解放の 先鞭が多くの場合、 まず その地に建てられた神社への打ちこわしからはじまった、などのことはそのことを象 (a) 徴的に示すことがらであろう。」(同右、七九頁) (3) 時代区分の再設定 中島氏は「国家神 道体制」確立までの過程を五つの 時期に区分している 。「国家神道体制」 が確立して以後の時代 については論じていない が、 おそらく、 大正から昭和初期までについて第六期「国家神道体制の継続期」が想定され ていると思われる。さらに、その後に、 第七期「天皇制ファシズム期」を想定しているようであるが、 村上氏とは異 なって、 この時期は「国家神道体制」の絶頂期ではなく、崩壊期として捉えられている。第五期までの時代区分は以 下のようである。 第三期 八年1一四年 明治一四年1二七年 明治二七年1四五年 「総括的皇道主義」期 国家神道体制の成立期 以上の時代区分の背景には「神社神道」に対する中島氏の次のような認識がある。 「近世にまでつくられてきた伝統的な神社神道が近代天皇制イデオロギーの媒体・装置として機能する、すなわち 国家神道になるためには二つの"ネック“が解決されなければならず、 そのための神社神道の改変、 つくり変え が必要であったのである。 このつくり変えはー (中略)I維新以降、 三1四十年の試行錯誤を経て、 日露という二つの戦争を経る ことによって、 ようやくいちおうの終止符を打つのである。」(「国家神道の確立と民 衆」八0頁) つまり、中島氏は「国家神道」を「伝統的な神社神道」がつくり変えられたものとして捉えており、両者の間には その―つは神々の性質の相違である。中島氏 によれば、伝統的な 神社神道の神々は「国家神道の神々がそうであっ たよう に天皇や国家の論理を体現したものではけっして なかった」。それは「現世利益を 滴たす神々」であり、「死後 の平穏(安心立命)をもたらす神々」であり、「共同体の繁栄」(同右、八0頁)をもたらす神々であっ店。 もう一っは、 神社神道そのものの 捉え方の相違、すなわち「宗教」であると捉えるか、「非宗教」 かの相違である。 「日本の 近代国家はー(中略)ー「信仰の自由」、「政教分 離」といった近代国家の思想原理をまった<否定する ことはできなかった、 擬似的にせよこの原理をなんらかの形で満足させねばならなかったのである。 ところが近 世を通じて神社神道はたんなる―つの宗教にすぎなか ったし、 また 明治維新によってその地位はひきあげられた、 あるいは唯一真正なものとされたがやはり宗教として位置づけられ考えられていたという ことであ る。 このよう な宗教としての神社神道から、 たてまえ的であるが「神社神道は宗教にあらず」という論理が成立しなければ国 第五期 国家神道体制の確立期(「国家のイデオロギー政鮨]―六九頁) 第四期 明治 神道国教化政策の崩壊期 *第一期と第一 1 期は広義の神道国教化政策期 第二期 明治 五年1 八年 第一期 明治 元年1 五年 狭義の意味での「神道国教化政策」期 日消・ であると捉える

(7)

(新田) 家神道云々。」(「国家のイデオロギー政策」一七六頁) 以上のような二つの相違を軸として、伝統的な神社神道が国家神道へと改変されていく段階にしたがって時代区分が (4) 各時期の特徴 次に、中島氏の時代区分にしたがって、各時期の特徴を見ていくことにしよう。 切、第一・ニ期「広義 の神道国教化政策期」 「この神道国教化政策は伝統的な神仏習合を打破し、神仏の関係を逆 転させたという意味で画期的な意味をもっ ているわけだが、それがすぐに国家神道に結びつくものではない。神道国教化政策は国家神道成立のための 大きな前提はつくったが 、先に述べた二つの"ネック“はいまだ未解決のままで あったのであり、 したがっ てそれはほぼ 1 八八七年(明治十)ごろには完全な破綻をみせるのであった。」(「国家神道の確立と民衆」八一 中島氏は、この時期に「放任状況」が出現したと主張している。つまり「国家及び地方庁が神社神道を単なる ―つの宗教として位置づけて、特別な関係を持たないようにしていく」(「国家のイデオロギー政策」 況が出現した というのである。そして、その説を証明 するために、この時期における①府県郷村社の位置づけ、 ②神宮大麻頒布の仕方、③神宮並に官国幣社の位置づけ、④内務省社寺局の性格、に検討を加えてい筵(同右、 この時期において、国家神道の論理が成立した とされる。その根拠は二つ指摘されているが、 争の結果として、明治一四年二月、勅裁によって神道事 務局の祭 神が天神地祇.賢所・皇霊を遥拝す ることと定 められたことである。 その意味 について、次のように説明されている 「皇室の祭祀と伊勢神宮以下神社(神道界)の祭祀が一本化されたことを意味しており、より具体的には従来 の「神典」(「記紀」)の最初に出現し、平田篤胤により独自の意味付けの行なわれた天御中主神(および高 皇産霊神・神皇産霊神の造化三神)を他の神々と一括して天神地祇とし、それを賢所(天照大御神)より下 位に置くことによってまた歴代皇霊を新たに持ってくることによって、「神典」 の神々を 天皇を 中心に再編 成したことを意味している のである。 このことは神社(神道)という ものが民衆の個々の現世利益や安心立 命の要求といったものを満たすものでは なく、まず何よりも天皇およびそれを通じて国家への忠誠を説くも のであるという ことを祭神のうえから表現したものであった。」(「国家神道の確立と民衆」八三ー四頁) もう―つの根拠は、神官教導職分離を中心とした明治一五年の諸政策に求められている。 「上は伊勢神宮から下は郷村社に至るまで、その 活動を宗教ではなく国家の祭祀として位置づけ、そのことに よって国家と神社との結合を合法化し、その上でこの神社体系を国家主義的・天皇主義的イデオロギーの国 民への注入の媒体·装置 として活用することを意図したものであります。さて、このようにして成立した国 しかし、この時期においては、国家神道の論理が神社行政全体に貫徹していたわけではなく、大きく揺らいでい 「国家神道」論の系譜(下) ③、第四期「国家神道体制の成立期」 一六九ー七五頁)。 ②、第三期「神道国教化政策の崩壊期」 頁) 行われているのである。 {g 家神道は成立できなかったのである。」(同右、八0頁 ―つは、祭神論 一六九頁)状

(8)

「国家神道」論の系譜(下)(新田 ④、第五期「国家神道体制の確立期」 たとも主張されている。 つまり、 国家神道依制が確立していたわけではないというのである。 「一八八二(-五)年の神官・教導職の分離は神社神道は宗教ではなく国家 の祭祀であるとして、 従来の「放 任主義」的政策を修正し、 国家が 神社に対して全体的に積極的にコミットしていくということを公式に表明 したものであり、その意味では重大な意味を持っているものでありま すが、 それが、 その後そのまま貫徹、 強化されずに大きく揺らいでいる、ーー(中略)ーー国家神道の論理が賞徹されたのはいわ ば伊 勢神宮だけで ありまして、 府県社以下神社はもちろん官・国幣社に対してもその論理は貫徹せ しめられていないのであり ます。私が通説の如く、国家神道 (体制) の確立を遅くとも帝国憲法が発布さ れ、 教育勅 語が漁発された 「明治二十年代」前半に置くこと、 を疑問とするのもまさにこの意味からであります。 この「神社改正之件」 の構想、 およびそれに基づく具体的施策は結論的に申せば日清戦争の開戦まで 続くのであります。」(同右、 一八一頁) ここで言及されている「神社改正之件」という のは、 明治 一九年二月に内務・大蔵両大臣によって閣議に提出さ れたもので、「憲法体制成立に見合う神社行政の基本を示すもの」(同右、一七八頁) であった 。 この 内容と意義 「まず第一に伊勢神宮ー官•国幣社1府県郷村社という神社体系が―つのも のとして、 すなわち全体として国 家の宗祀としての位置づけが与えられておらず、神社体 系を伊勢神宮ー官・国幣社1府 県郷村社の三つのグ ループに区分し、 それぞれについて異った位置づけと対策を打ち出している、ということであります。第二 にその位置づけ、 対策ということですが、 まず伊勢神宮については(ついてのみ)「帝室ノ根本国家之宗祀」 として位置づけ 、 したがってその対策として、 もっと「供進ヲ厚ク」しなければならないとしております。 ところが官(国)幣社に ついては、今まで続けてきたようにその経費を国庫負担とすることは「永久保続シ 得可ラサルモノ」であるから、今のうちに「処分ノ方法」を考えなければならないものと位置 づけ (国家の 宗祀としての位置づけの欠落)、 その対策として、経費の国庫負担を廃止 し、 十年間の間だ け補助金を下賜 し、 以後は全く独立させる、 としております〈官国幣社保存金制度〉。さらに府県社以下については、官幣社 に足る資格のあるもので、 しかも国からの援助を受けず自前でやっていけるもの は、 官幣社に加列する(そ の他の圧倒的多数の府県社以下神社については切りすてる)、 というものです。」(同右、一七八ー九頁) この「神社改正之件」とともに、 国家神道の論理の貰徹を妨げていたものとして、 宮地氏が国家神道の確立を目 指した人々として言及している神職層の結集が、 この時期においては不十分であったこと を指摘している。 「この時期の神職層、とりわけその圧倒的部分を占める府県社以下の神職層にあっては、 未だ「神社神道は祭 祀であり宗教ではない」という国家神道の道に歩みだすか、 それともはっきり と神社神道こそ唯一真正の宗 教だとして進む道に歩みだすか、 未だ方向性を持っておらず、 神社神道を前者で位 置づけ、 従って「宗教 (布教)条例」に反対し、神祇官を再興させるために全国的な神職層の結集へ、 という道に進んだのは未だ 一部のものに止っていたのであります。」(同右、一八二頁) この時期において「神社改正之件」構想は撤回され、国家神道体制が確立されたという。 「日清戦後期に「神社改正之件」構想は実質的に撤回され、 上は伊勢神宮から下は府県郷村社に至る約数万に のぽる神社体系を、 国家の祭祀を司る所として位置づけ、 教育勅語に代表される天皇主義的・国家主義的イ デオロギーを国民に注入するイデオロギー装置として丸抱えにする体制がはっきり打ち出さ れ、 日露戦後期 を中島氏は次のように整理している。

(9)

(新田 にはその法制化、 整備のための政策がとられ、 ここに国家神道 (体制)は確立するに至ったのであります。」 「神社改正之件」 の構想がこの時期に 撤回されたとする根拠として、 日清戦争後については、①明治三三年の官 国幣社保存金の使用区分の改正並びに年限の延長、②府県社 以下神社の公的性格の回復を意味したと考えられる 諸政策、③明治三三年の神社局の独立、が挙げら れ、 日露 戦争後については、①明治三九年の官国幣社国庫供進 金制度、②同年の府県社以下に対する神撰幣吊料供進制度が挙げられている(同 右、 一八一ニー四頁)。 このように「神社改正之件」構想が撤回されていった理由としては二つのことが指摘されている。 「日清・日露の戦争は国民の天皇と結合された国家意識に大きな高揚を もたらした。 アジアにおける大国と意 識されていた清国、 さらにはヨーロッパの列強とイメージされていた強国ロシアとの戦争に相ついで勝利し たことは劇的であったがゆえに、 戦争を指導した天皇(大元帥姿の天皇)が神胤であること、 およびその国 家が神国であるとの国家神道の論理は容易に国民の中に沈下していった。」(「国家神道の確立と民衆」八六頁) もう―つは、府県社以下の神社の性質の変 化、 およ びそこに奉仕する神職の 意識の変化である。 「両戦争を通じて武運長久、 戦勝祈願を祈る所として、 慰霊·招魂の場所としての性格を持ちはじめ たそ れを通じて天皇や国家への忠誠を誓う 皇や 国家の論理を体現した神々の神社としての性格をもちはじめ たのである。 このことは、 日本の民衆の伝統的な宗教意識である御霊信仰や祖先崇拝といったものがこ こで はじめ て天皇や国家とのかかわ りあいを持つ ようになり、 そういった意味で国家神道を支える―つの宗教意 識としての機能を持ちはじめたことをも意味している。一方、 ここにいたってはじめて府県社以下神社に奉 仕する神職も国民の現世利益や安心立命にこた えるだけでな く、 戦勝祈願や武運長久の願いにこたえたり招 魂祭を行なうことによって国家の宗祀と しての神社に仕える自己の安定的な存在を確認することができるよ このような神職の意識の変化によって、神職層の結集がこの時期に一応成立したとして、次のよう に述べている。 「すなわち、皇典講究所の確立、 全国神職会の成立、 神宮奉斎会の成立と戦前にあって 国家神道(体制)を下 から支え、推進·強化し、 戦後にあっては今日国家神道の新たな復活を 中心的 に策して いる神 社本庁結成 盆ー (一九四六年)の母体となっ た、 三つの組織がほぼ同時にこの時期に確 立、 成立したということであります 。」 (「国家のイデオロギー政策」一八四ー五頁) そして、 このこと は「国家神道の論理が神職層の中で確立した」( 同右、 一八六頁)ことを意味していたという。 さらに、 この ことと関連して「教育勅語が そして後に戊辰詔書といったものがそ の聖典的位置を占め はじめた」 「すなわち、 この時期に神職層が全体として神社神道を「宗教としてではなく、 国家の祭祀として」 位置づけ るようになった、 ということは神職と国民との関係でみると、 少し図式的になりますが、今までは、 記紀神 話の神々の摩詞不思議な行いと言葉を墓にし て、 民衆の現世利益や安心立命の祈願に応えることで国民を結 集してきたのが、 次第に天皇や国家への忠誠を国民に説くということ、 また その限りでのみ記紀神典を援用 する(とりわ け天照大御神への限定・集中)ということになります。その場合に拠り所とされたのが教育勅 語であります。 また 戊辰詔書に始まる一連の詔書ということになるわけです。事実この時 期、日清戦後、 りわけ日露戦後に神職が社頭において教育勅語の講話会を開催し たり、 種々の会合において 神職が教育勅語 「国家神道」論の系譜(下) 同右、 一八六頁)として、 次のように説明している。 うになったのである。」(同 右、 八六頁) 民の天皇に対する意識の変化である。 (「国家のイデオロギー政策」一八六頁) ―つは、

(10)

を説く、 ということが始まるわけであります。」(同右、一八六頁) ファシズム期については、 次のような 位置づけが述べ られている 「あの天皇制ファシズム期の諸宗教のむき出しの弾圧はこの〈国家神道体制の〉バランスが崩 れたものであり いうよりもその 崩壊であると言えると思います。」(同右、 そういった意味では国家神道体制の極致である、 一九0頁) 七、 安丸良夫氏の「国家神道」論 (1) 安丸「国家神道」論の意義 安丸良夫氏は「国家神道体制」という分析の枠組みを放棄 し、 それに代えて 一月、ニ―一頁) という枠組 みを設定 した。そのた 自を媒介とした統合」(「神々の明治維新」岩波新書、昭和五四年一 め、「国家神道」は、 この体制の一構成要素へと後退することになった。 (2) 「日本型政教分離」 (新田 の成立過程と内実 有効・有益かは、 各宗派の自由競争に任された 「日本型政教分離」論においては、中島三干男氏に よって指摘された「自治」の観点が拡大され て、 上からの支配 というよりはむしろ、 国家の 要請に自ら進んで応えようとする各宗派の姿勢に焦点が当て られている。つまり、 イデ オロギー装置の機能に対する見方が変化し、 上から下へよりも、下から上へのベクトルが重視されるようになってい るのである。 「八年 1 月に真宗四派は大教院を離脱し、 同年五月には大教院は解散して、 以後は各宗派で独自に布教することと なった。 そのさい、 三条の教則の遵奉が独自の布教活動を共約する原則とされており、 むしろこうした 国家のイ デオー的要請にたいして、各宗派 がみずから有効性を証明してみせる自由競争が 、ここから始 まったのであった こうした日本型の政教分離は、 明治十五年に神官の教導職兼補が廃止されて、 神官は葬儀に関与しない こととな り、 いわゆる教派 神道 の諸教派が神道から分離独立することによって っそう決定的とな った。神道非宗教説 にたつ 国家神道は、 このようにし て成立したものである。それは、神社祭祀へまで退くことで国教主義を継承し ながらも、神道国教化政策の失敗と国体神学の独善性 にこりて、 宗教的な意味での教説化の責任から免れようと した。それは、 実際には宗教とし て機能しながら、 近代国家 の制度上のタテマエとしては、 儀礼や習俗だと強弁 されることになった。そして、 この祭儀へと後退した神道を、 イデオロギー的な内実から補ったの が教育勅語で あるが、 後者もまた、「この勅語には世のあらゆる各派の宗旨の一を喜ばし めて他を怒らしむるの語気あるべか らず」(井上毅)という原則によってつくられた。国家 は、 各宗派の上に超然とたち、 共通に仕えなければなら ない至高の原理と存在だけを指示し、それに仕える上でいかに のである。」(傍線引用者、「神々の明治維新」二0八ー九頁) {訂) 右の議論を図式化すれば左のようになるであろう。 「国家神道」論の系譜(下) ⑥、 ファシズム期「国家神道体制の崩壊」 「日本型政教分離」 II 「人々の ”自

(11)

れている。 (新田 された。」(「近代転換期における宗教と国家」五五八頁) (3) 安丸説におけるイデオロギーの特色 日本型政教分離 [指示] は許容範囲が大きかったが、 その外側にあるものに対 しては弾圧や紺成替えがおこなわれたと述べられている。 「日本型政教分離」における信教の自由については、国体論的イデオロギーを主体的に担うという大枠の内で 「「信教の自由」は、 国体論的イデオロギーを人ぴとがそれ ぞれにふさわしい とい う大枠内でのこと であり、 キリスト教と民俗信仰とは、 この大枠の外にあるものとしてあるいは弾圧されあ {腐) るいは編成替えされた。 この大枠内では かなり融通無碍で許容範囲の大き かったことは、 右に示唆してみたが、 文明と近代的民族国家の樹立という課題ともっとも旧い権威とを代表する存在として、 国家 が人びとに迫るとき、 一貫してまった<べつの立場を選びつづけること はむずかしか った。」(「近代転換期における宗教と国家」安丸良夫・ 宮地正人編「宗教と国家」日本近代思想体系5、岩波書店、 昭和六三年九 月、 五五八—九頁) ちなみ に、「日本型政教分離」の明治前半期以降の展開につ いては、 依然として論考が発表されていない。 安丸説 においては、 注入されるべ きイデオロギーについて、すでに触れたように、 注入の方向性 の変化が語られて いる。それとともに、 イデオロギー内容が次第に抽象的な ものとな っていったことも指摘されている。 「この〈天皇の〉伝統カリスマを独自の体系性 をもった 教学 で支え ようとする、 明治初年に顕著 な祭政一致と 神政 国家への志向性は、 複雑な葛藤を へて祭祀儀礼と一般的徳目へと後退し、 まがりなりにも「信 教の自由」が実現 この論点は、 久米邦武事件に関与した道生館学生の国体論と福沢諭吉の天皇 論と の比較によって、 次のように補強さ 「どちらか一方の立場を とって、天皇制の役割と 根拠づけを 明確にし ようとすれば、 それはもう一方の 立場とまっ たくあい容れない。だがそれだからとい って、 どちらか一方でも拒否すれば、近代日 本国家の 支持基盤はいっきょ に狭くなり、 国家の支配が不安定となろだろう。 このように 考えてみる と、「祖宗ノ遺烈」(大日本帝国憲法発布 の「上諭」)、「皇祖皇宗ノ遺訓」(教育勅語) を受けつぐものとしての天皇 の絶対的な権威性の強調 に、 国家の正 統性の根拠を おいたと き、 近代の日本国家は、右の一 1 つの極端説を許容しながら、しかしみずからの根拠づけを gg) 明確にすることを避けて漢然と 一般的な規範を掲げたという こと に なろう。」(同右、 五五八頁) ただし、 そのような 変化にも かかわらず、 イデオロギーの本質は変化しなかったという。 「明治初年の神政国家に類する構想や宗教性のつ よい神道国 教主義は、 文明開化の時代相のなかでいそいで撤回さ 「国家神道」論の系譜(下) この 教育勅語 至高の原理と存在 家国 諸宗教(自由競争) 国家神道(神社祭祀) 「自由」を媒介として 主体的に担う

(12)

「国家神道」論の系譜(下)(新田 「実証の次元が、主として神社制度や行政官僚の思想などにあるため、 (5) 安丸氏の他の論者に対する批判と評価 ったが、天皇の神権的絶対性を強調することで民族国家として れ、祭祀儀礼を中心とした神社神道がそれにかわ またその ゆえに神道と国家との特殊な結合が失 の統 合をはかるという基本戦略は一度も放棄されたことはなく、 われたこともなかった、と私は考える。天皇の権威性が強調されるばあい、それは彼個人のカリスマ性によると によって根拠づけられなければならなかっ たからである。」 いうよりは、神話上の神々に由来する伝統カリスマ (同右、四九四頁) 現実社会のなかで生きた多様な人ぴと そして、イデオロギーの本質が不変 であったのは、それが明治国家の課題と不可分であったためだとされる。 てそれを編成替えすることで、近代的民族国家をつくりだ 「それは人ぴとの伝統的生活体系の内部に深く立ちいっ この課題をはたすために は、人ぴとの生活体系を超越した絶大な権威 すという 課題に立ち向かった国家である。 なによりも天皇に求められ たが、天皇の権威性は彼の個人的カリスマ性による 性が必要とされ、それは一貫して というよりは、神話に由来する伝統カリスマを根拠 としてい這。」(同右、五五八頁) た、明治国家による一連の社会変革によって、日本人の意識が「過剰同調型」のも 「日本型政教分離」を生み出し ことで、近代民族国家形成の課題をになおうとする明治維新という社会変革の 「天皇の神権的絶対性を押しだす だれも公然とはそれに反対するこ とができなかった。 なかで、皇統と国家の功臣こそ が神だと指定さ れたとき、 そうした神々への崇拝をで きるだけ僕礼的な次元にお 当時の日本人の宗教 意識に現実に可能であったことは、 しこめ、その代償として、そうした神々への崇拝に含意されていたはずのイデオロギー的内実を内面化し、国 家意思の前にそれぞれの宗教の存 在価値を証することだった。それは近代日本の天 皇制国家のために良民鍛冶 の役割を各宗教がに ない 、その点で存在価値を 国家意思の前面に競いあうことで あった。この良民鍛冶の役割 からすれば、仏教の反世俗性や来世 主義、また信仰生活の遊楽化などは、克服され ねばならなかった。 しか し、 仏教よりもさらにきぴしく抑 圧されたり否定されたりされなければな らな いのは、 俗信 仰であ った。 |(中略)ーよりひろい視野からすれば、民俗信仰の抑圧は、明治維新をはさむ日本社 会の体制的転 換にさ いして、百姓一揆、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが禁圧さ れ、人々の生活態度や地域の生 活秩序が再編成され、再掌握されてゆく過程の一環、そのもっとも重要な部分の―つであった。この過程を全 体としてみれば、民衆の生活と意識の内部に国 家がふかくたちいって、近代日本の国家的課題にあわせて、有 用で価値的なものと無用・有害で無価値 なものとの あいだに 、ふかい分割線をひく ことであっ た、 といえよう。 |(中略)ー日本のばあい、近代的民族国家の形成過程は、人々の生活や意識の様式をとりわけ過剰同調型 のものにくつりかえていったように思われる。」(「神々の明治維新」八—九頁) 最後に安丸氏が他の論者に対しておこなっている批判と評価を示しておこうと思う。 ①、中島一 1 一千男・阪本是丸両氏に対する批判 のにくつりかえられ ていったとしている。 (4) 「日本型政教分離」に対する安丸氏自身の評価

(13)

る。 「国家神道」論の系譜(下)(新田 18) J のような見方に対して、すでに葦津珍彦氏によって、 次のような指摘がなされている。 かかわりを問うという発想が十分でなく、再考の余地を残していると の意識や行動のなかに国家と宗教との 「葦津説は、先述の村上説の正反対で、 明治初年以来、 在野で不遇をかこってきた存在としての神道家という また、 この葦津説には、 明治初年の祭政一致や神道国教 立場からする憤りが込められて いて、 迫力がある。 その間の時期の具体的研究をなおざりにしやすかった傾向 主義の時代と十五年戦争期とを安易に直結して、 を批判する意味があって、 さきの中島、 阪本、 赤澤らの主張ともあいまって、 傾聴すべき論点を 含んでいる。 もとより、 津が真の神道だと称揚する在野の神道家と一般国民に継承 されてき た神国思想11民族意識なる ものこそ、本書の立場からは、 イデオロギー的作為の結実にほかならないのではあるが。」(「近 代天皇像の形 に村上氏の「国家神道」論の克服を試みてはいるが、 るのは、 村上重良氏の説のみである 各論者はそれぞれ カ「国家神道」論とはいっ ても、理論 として一応 完結してい これまでの記述によってすでに明らかなことである,‘ も扱っている時代が明治に限定されており、 論として完成しているわけではない。 いずれ したがって、依然として、「国家神道」論の検 討にお いては、 体像を提示しているのは、村上説だけなのである。 者がこれまで村上説の検討に専念してきた理由はここにあ 上説を中心としなければならない状況に変わりはな、。 つまり、 まがりなりにも一応の全 ところで、「広義の国家神道」論を展開している論者いずれもが、 天皇制イデオロギーな るものを近代日本を語る 場合の中核に据え、 さらにその中心に位置するもの、 あるいはそれと密接に 関連するものとして「国家神道」を語っ ている。そうであるとすれば、 村上氏以後の各論者が自らの理論を未完結のままで長らく放置しておく ことは、 「国 家神道」なるものの重要性についての疑惑を生ぜしめ、 自らの不作為によって自らの言説を否定する結果ともなりか 窃 i) ねない。各論者が一日も早くその理論を完結 されることを願ってやまない。 財政体制確立の狙いと、宮地氏が例示してい る政策 とがどのように関連しているのか、 私にはうまく理解でき ない。 かし、 これはど、?も宮地氏のこの部分における書き方 が不適切であるためであろう。『天皇制の政治史的研究」においては、 これらの政策は、国会開設を控えた政府の対応政策の中でも「第一級の重要性」をもっていた「天皇制 国家の支配の 正統性 いる。 ここにおいて、 宮地氏は「天皇主権•国民支配の根拠」 が「記紀におけ る天壌無窮の神勅と三種の神器に求められた はいうまでもない」(一五二頁)とし、 その理論的根拠とされたものとして、 明治二二年七月に宮内省が刊行した「須多 因氏講義」、明治一七年七月の受爵者宣誓の形式を挙げ、 さらに次のように述べている。 「私 たちは国家神道の「理論」的裏づけ にこれらの「告文」「発布勅語」「皇室典範前文」「教育勅語」などが相互関連して非 常に大きな役割を果したという歴史的事実をはっきりおさえておかなければならない。」(-五_二頁) をどのよう な形態におい て国民意識の中に浸透させていくか という課題」(-五二頁)に応えるためのものとして説明されて 17

おわりに

成」一九五—六頁) ②、蓋津珍彦氏に対する評価 思う。」(「近代転換期における宗教と国家」五五五頁)

(14)

(新田 ることができるほどに 一致していたのだろうか。 から」(同右、 20) 問題ー政教関係に関する一考察ー」「史学雑誌」 「帝国憲森は、 この〈教育勅 語〉解釈論争の自由を認める立場をとった。社会上の論争は激しかったが、 国家権力は —少な くとも明治大正時代 には、 1その 論争に介入しなかった。糾弾する者も、 反論する者も、その解釈論は異っ てゐても、 づれも帝国憲法・教育勅語支持の立場を明確にしてお り、帝国憲法の下にある国家権力と して、その論争に介入す べき理 由がなかった といっていい。」(前掲「帝国憲法時代の神社と宗教」ニニ五頁) ちなみに、 葦津氏は、既成宗教、 社会主義思想、新宗教に対する 政府の態度は区別して考えるべきだとし て、 次のように述 「かくしてキリスト教は、 帝国憲法の下において自由なる発展をつづけた。神道も仏教も、もとより自由を保 障された れでは、帝国憲法の下にお いては、 すべての信教・思想がその自由を保 障されたといひ得るかと云へばそれ は、 ちがふ。 宗教思想ではないが、 アナーキズムとかコムミュニズムのやうな社会思想は、 その本質にお いて、帝国憲法 の原則に相対 決するものであり、 その自由 はきぴしく制約された。宗教思想の中にあっても、神道・仏教・キリスト教以外の所謂「新 宗教」に対しては、その自由が ほとんど認められなかった。」( 同右、 ニニ五頁) 「アナーキズム及ぴコムミュニズムが現れて、 はじめて帝国憲法及ぴ 教育勅語に、 本質的に対決する思想が現は れ、 それが 治安維持法を生み、はじめて信教自由への決定的な制約の歴 史を生ずることとな った。 」(同 右、 ニニ七頁) 「「国家神道」との関係で同事 件を検討し た宮地正人氏は、「神社崇拝は宗教にあらず」とする「 権力中枢と神道界」によっ て、「神道は正真正銘の宗教 」であると主張する久米が抑圧され たとし、 最近の鹿野政直・今井修「日本近代思想史のなか の久米事件」(大久保利謙編「久米邦武の研究 J [�口川弘文館、 一九九一年])もそれに従っ ている。 しかし久米の論文「神 道ハ祭天ノ古俗」に「蓋神道は宗教に非ず」とあるように、久米も「 権力中枢と神道 界」が主 張してい るは ずの神道非宗 教論に立っているのは明らかであり、宮地氏の設定 する対立関係自体、再検討 が必要である。」(「明治憲法下の神祇官設置 本稿は、「国家神道」論の 系統的整理 を目的とするものであって、各説の吟味を本旨とするものではない。したがって、 それぞれの説に対する検討は、今後の課題にしたいと思う。 ただし 、整理の過程で若干の疑問が 生じたため、今後のために、 記しておきた 。特に、 疑問の多かった部分は、 久米邦武事件を中心とした、 「権力と国家 神道」 「権力中枢 と神道界」と 「近代的歴史学」との 対決に関する記述である。

m

、議 会開設を前にして、天皇制国家の正統性の確立と浸透が 「第一級の重要性」 (「天皇制の 政治史的研究」 をもっており、 その正統性が 「記紀における天壌無窮の神勅と三種の神器に求められていた」(同右‘ l五二頁)こ とはいう までもなく、 それ故に「神話と歴史の分離がその方法論の生命である」(同右、 感性として自らを確立しつつあった 国家神道は、 真っ向から衝突せざるをえなかった」(同右、 一七0頁)と すれば、そして 「権力と国家神道が修史局派の人々とその歴史学に敵意にみちて攻撃をしだすのは、 やはり重野 の太平記批判(八六年十二月) 一七一頁)であったとすれば、 さらに「久米や重野を支持する社会的な力量が乏し」(「国家神道形成過程の問 題点」五九二頁)かったとすれば、何故、権力は五年以上も修史というイデオロギー政策の根幹に位置す る官職に 彼らをつ けておいたのだろうか。そんなに大切な問題ならば、何故、 大事になる前に人事権を行使してさっさっと罷免し なかったの だろうか。権力の中枢は、本当に記紀に基づ いた正統性の確立 を重大な問題と考えていたのだろうか。 「権力中枢」と「 国家 神道の 中核部分」(「天皇制の政治史的研究」一七八頁)の 意志は、 「権力と国家神道」「権力中枢と神道界」と並列 して述べ ③、宮地氏 は久米事件について 「久 米事件の発端 はむしろ権力内部からであり、その総仕上げとし て、 また 権力の弾圧 カモフラージュする意味で、 二月二十八日の道生館塾生の面会抗議 事件と、 彼らの諸官庁への要請行動があったと私は考え 「国家神道」論の系譜(下) 10二編二号、平成五年二 月、 三五頁) (19) J の説について は、山口輝臣氏の次のような批判がある。 さらに、 次のように付け加えている。 べている。 一五二頁) 一七0頁)歴史学と、 「天皇制国家 の理論と

(15)

る」(同右、 一七七ー八頁)と述べている。 ここで疑問なのは、何を基準として、権力の内と外が区別されているのかという ことである。宮地氏が言及している「国家神道」の確立を目指した人々や 団体、久米や重野のような歴史学 者を、 権力の内 と外に区別する基準は何なのか。私のように私学に身を置く人間から見れば、 久米や重野 (そして宮地氏も)十分に権力内 の人間である。その観点からすれば、久米事件は権力による弾圧ではなく、権力内部の主導権争いの結果ということになる。 ③、「権力と国家神道に とっては、久米を大学から追放することは、その狙いの実現の第一歩にすぎなかった。本当の狙い は、天皇制 国家をささえる「理論」を否定しかねないこのような歴史学に恐怖を与えるこ とによって、その方法論と実証性 を放棄させること、そして権力の欲している名教的・国体論的歴史教育に歴史学を動員する条件をつくり出すことであった」 一八0頁)とすれば、そして、このような国家神道の確立へ向かう運動 に対して、「内村を庇い、 久米や重野を 支持 する社会的な力量が乏しい以上、 政治的な決着にはただ国際的な環境の変化 が必要なだけであった」( 「国家神道形 成過程の 問題点」五九二頁)とすれば、何故、「権力と国家神道」は、 名教的・国体論的修史局 を設置せず、イデオロギー論争に巻き 込まれることを避けるかのように史科編纂掛 を設置したのだろうか。 これでは、宮地氏のいう「維持・再生産構造」(同右、 ―10頁)が否定されたことになりはしないか。そうだとすれば、それは「国家神道」の確立どころか、挫折では ないのか。 それを神祇官興復決議の両院通過や、神社局と宗教局の分離によって論証し ようとすることは、議論のすりかえではないか。 そうでないとすれば、 史料編纂掛は「維持・再生産構造」として、その後どのような機能をはたしたのだろうか。 前者の指摘については、神宮は「神社群の頂点にたっ」存在としてで はなく、神社群とは区別さ れた存在とし て刑法で 規定されたこと、さらに、 ている(前掲「帝国憲法時代の神社と宗教」二四六ー八頁) 後者については、私の感想であるが、日本とは宗教感情が異な り、 かも帝国憲法の適用をうけな かった朝鮮での出来事 を、日本の状態を説明する例として、あるいは 日本と同一視して、語ることは適切ではないと思われる。 以下「「明治憲法体制」 の確立と国家のイデオロギー政策ー国家神道体制の確立過程ー」を「国家のイデオロギー政策」 このように言える根拠として、中島氏も 、他の論者に よってよく言及される「お蔭参り」を挙げている。 「それは近代における 伊勢神宮への修学旅行やその他の団体の参拝と近世の民衆の集団参拝11お蔭参り とを比較す ればよ くわかる。お蔭参りは、 近代のそれがそうであったごとくけっして皇室の祖先神、国家の宗祀としての 伊勢 神宮(天 大御神)にたいする参拝ではなく、稲の豊穣や商売の繁栄といった現世のご利益を満たす神々 をもとめて のものであっ た。」(「国家神道の確立と民衆」八0頁) 多少余談になるが、桂島宜弘氏にいたっては、伊勢信仰について次のように述べている。 「皇祖神を祭っ てきたと言われる伊勢神宮にしても江戸時代までは豊受大神を祭る外宮の方が 信仰の中心 であり、 お伊 まいりにしても朝廷とは全く無関係な物見遊山的通過儀礼であったこと等、いずれも今日ちょっとし た歴史書 を播くだ けで判明することがらに属する。」(「幕末民衆思想の研究」文理閣、平成四年 四月、三頁) 民衆の意識の中でお伊勢参りは本当に朝廷と全く無関係だったのだろうか のような思い込みは、膨大な原史料に当たら ずに、ちょっとした歴史書を播くだけですませていることから生まれているのではないか、と築者は疑っている えば、 田尻祐一郎「近世日本の「神国」論」(片野達郎編「正統と異端ー天皇・天・神ー」角川書店、平成三年二月) このような主張においては、そもそも「宗教」そのものが、 近代において、それもかなりの時間をかけて「創出された」 概念であることが見落とされている れについて、 拙著「近代政教関係の基礎的研究」第三章 第七節、山口輝臣「宗 教の 語り方」(「年報・近代日本研究・18」山川出版社、平成八年―一 月) 、拙稿「近代政教関係研究についての一試論ー「国家神 道」論を超えて1」(「皇學館論叢」一八0号、平成一0年二 月) 三ー五頁参照。 「国家神道」論の系譜(下) 24 23 と略す。 22 21

-

右、 (新田) 一般の神社は刑法上寺院と同様の扱いをうけていたことが、すでに葦津珍彦氏 によって 指摘され ―二01一頁

参照

関連したドキュメント

外声の前述した譜諺的なパセージをより効果的 に表出せんがための考えによるものと解釈でき

名の下に、アプリオリとアポステリオリの対を分析性と綜合性の対に解消しようとする論理実証主義の  

歌雄は、 等曲を国民に普及させるため、 1908年にヴァイオリン合奏用の 箪曲五線譜を刊行し、 自らが役員を務める「当道音楽会」において、

青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会

学的方法と︑政治的体験と国家思考の関連から︑ディルタイ哲学への突破口を探し当てた︵二︶︒今や︑その次に︑

 以上のように,無断欠席を善用し,道徳的教 訓や神道の教義に接触したことで,築地外人英

・精神科入院時は、本人の意思決定が難しい状態にあることが多く、その場合、家族に説明し理解してもらってい

りの方向性を示した「新・神戸市基本構想」 (平成 5 年策定)、 「神戸づくりの 指針」 (平成