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戦後日本の高等学校における「生徒参加」
田久保 清志
〔1〕「参加」研究の発展と本稿の課題 1981年に父母住民を主要な参加主体とする
「教育をめぐる『参加』研究委員会」を設置し、82 年および83年大会での課題研究とした日本教育 学会では・)、それから10年後の1991年第50回 大会以降、途中93年の大会シンポジウム「教育 における子どもの参加」を含め、毎年継続して
「子どもの参加」を主題とするラウンドテーブル がもたれている2)。
この間、1989年に国連で採択された「子ども の権利条約」も気運となり、10年の期間をおいた 両研究は、ともに教育への参加をテーマとしなが らも、参加の主体については世界的動向を反映し た発展が見受けられる。それは学校教育への参加 に関して言えば、父母・住民だけでなく生徒も含 めた参加主体の発展であり、また、教職員自治を 中心とする学校自治から、生徒・父母住民・教職 員の三者による学校自治への発展である。
この点に関わって特筆しておくべきことは、こ の間の研究において先進的な諸外国の生徒参加制 度の事例が複数紹介され、国際的な観点から生徒 参加制度の比較が可能になったことである。わけ ても過剰な校則規定や、生徒自治活動の停滞、い わゆる三無主義の風潮といった我が国の学校教育 の現状を改革する上で、「権利としての生徒参加」
を保障する諸外国の生鯵加制度には学ぶべき点 が多い。特に、ドイッの「学校会議」やフランス の「管理委員会」など、教職員・父母・生徒の三
者による学校の管理運営が法定され、権利として の生徒参加を実現している事例は示唆的である。
これらの機関の権限は明確で、例えばドイツの バーデン・ヴィルテンベルク州1976年「学校法」
では、学校会議で最終決定される事項(①学則、
学校規程の制定、②クラス活動、宿題に関する一 般的問題の決定、③停学退学の予告と決定、④遠 足、林間学校、修学旅行、工場・美術館・博物館 見学等、学校全体に関わる非義務的な行事の原則 設定〉と、学校会議が学校設置者等に対し態度表 明する事項(①学校の施設・設備に関する措置、
②学校維持経費の請求ならびに目的規定の枠内で のその使用、③学校形態の変更、学校の分割合 併・拡張)とに分けて具体的に法定されている3)。
また、ドイッの「学校会議1における三者の構成 比は州によって異なるが4)、どの州においても
「学校会議」への生徒参加が実現され、審議決定 事項への意見表明と議決権が保障されている。
フランスの「管理委員会」(総勢30名)も、校 長などの管理者・地方公共団体等の代表で10名、
教職員代表10名の他、残り10名が父母と生徒に 割り当てられ、高校で5名、中学校で3名の生徒 代表参加が法制化されている。生徒参加は「学校 管理運営あるいは学紡経営そのものへの参加であ り、校則の策定、予算審議のみならず生徒の懲戒 手続きないし進路決定、学級における生徒指導・
学級経営方針にまでおよぶ」5)ものであり、ドイ
ツにせよフランスにせよ、生徒が教師・父母とと
もに学校運営に携わる共同的なパートナーとして
位置づけられている点が注目される。さらに、フ ランスでは全国27の大学区毎に設置されている 高校生の生活に関する審議会にも、総勢40名の うち高校生代表が20名参加し、なおかつ国家レ ベルの中央教育審議会にも総勢95名中3名の高 校生代表の参加が正式に認められている点など は、我が国と比較して驚くほかはない。
ところで、現代学校改革の課題として生徒参加 を追究する上では、これら諸外国の先進的事例に 学びながらも、我が国独自の生徒参加のあり方を 豊かに構想していくことが求められる。それに は、権利としての生徒参加という視座から我が国 の生徒参加論を再検討する理論的研究とともに、
日本の生徒参加の歴史的契機を見い出し、我が国 における学校教育への生徒参加史を素描する歴史 的研究を進めていくことが必要になる。
筆者は前者の理論研究の一端を別稿で行なって おり6)、本稿では後者の生徒参加史研究を直接の 課題として、諸外国の生徒参加制度も参考にしな がら、まずは戦後日本の高等学校に限定して生徒 参加の歴史的契機を掘り起こし、我が国の生徒参 加史の素描を試みるものである。
〔2〕戦後日本の高校における生徒参加
1)「生徒参加」の概念規定と歴史的契機 我が国の生徒参加史の発掘にあたっては、上記
諸外国の事例も参考にして、本稿ではひとまず
「生徒参加」を、学校の管理運営および教育行政 の意思決定過程への生徒の参加として規定する。
従って「生徒参加」は対象によって①「学校参加」
(学校の管理運営の意思決定過程への参加)と、
②「教育行政参加」(政府および地方自治体の教 育行政の意思決定過程への参加)とを含むもので
ある。
このように規定した上で、改めて戦後日本の高
校教育の歴史を見直してみると、我が国において も注目すべき「生徒参加」の史実を発掘すること ができる。筆者が現時点で確認しえた「生徒参 加」の歴史的契機とその特徴は次のとおりである
7)o
I:戦後初期の事例(多様で未定型、学校の戦 後再編期における参加>
H:1950年代の高校生徒会連合(教育行政への 対抗的な意見表明と参加〉
皿:1960年代の自主管理実践(懲戒処分への参 加と学園民主化活動)
IV:1970年前』後の高校紛争(学校の管理運営へ の参加、三者協議会の萌芽〉。
2)高校生の学校参加と教育行政参加の諸形態 1.戦後初期の事例(多様で未定型、学校の 戦後再編期における参加)
新制高校の再編と発足にあたっては、各地で 様々な生徒参加の形態があったと推測されるが、
その資料は十分に収集されていない。ここでは筆 者が把握しえた若干の事例をあげる。
1−1.ホームルーム編成への生徒参加 教科自由選択制とホームルーム制を特色とする 新制高校発足時は、固定したクラスを作らずに生 徒個人が講座時間表から教科のみならず担当教師 をも自由に選択し、自由結集・学年混合・教師選 択というホームルーム形態をとる高校が存在して
いた。
例えば、1948年に静岡高校が生徒の希望教科
を中心として、学年学級の観念にとらわれずホー
ムルーム編成をした例や、日比谷高校のように縦
割ホームルーム(1948〜49年度実施〉で、各学
年から十数名ずつ好きな者同士が集まって、学習
集団とは別に学年混合ホームルームを編成し、担
任教師についても生徒の希望による自由選択が行
田久保清志 戦後日本の高等学校における「生徒参加」31 なわれた例がある8)。これらの事例は、生徒が直
接に学校の管理運営に関わるものではないが、担 任教師をも含んだ幅広い選沢制度によって生徒の 希望を最大限に尊重した、間接的な「学校参加」
の事例としてあげておきたい。
1−2.学校施設改善のための生徒会活動 高校生の「教育行政参加」のひとつに、戦後初
期の貧困な学校施設の改善運動に定時制高校生徒 会が取り組んだ事例がある。1953年兵庫の尼崎 市立城内高校定時制生徒会が、裸電球のみで夜間 の授業に支障があるとして蛍光灯設置運動を農開
し、照度計等による学校施設の実態調査を行な い、教師の協力も得て市長・市教委・市議会との 直接交渉によって、兵庫県下で初めて蛍光灯の設 置を獲得している9)。
また暖房設備に関しては、同じく1953年の12 月に京都の山城高校定時制生徒会が、教師と協力 して両者による暖房対策合同委員会をつくり、教 員室にのみ設置されているストーブを全教室に設 置するため、期末考査を延期して京都府に要請す ることを提案し、それが緊急職員会議で承認さ れると、生徒会はさらに京都府の全定時制高校へ の設置に目標を拡大して、翌年1月にはこれを実 現させた例がある1°}。
1−3.新制高校発足時の高知県審議会への 生徒参加
これは高校生の「教育行政参加」の範例として 取り上げたい。1949年高知県公選制教育委員会 は新制高校発足に際し、諮問機関として審議会を 設置した。注目されるのは、県民の声を反映させ るべく各層代表から構成した審議会の委員60名 の中に、高校生代表5名が正式メンバーとして加 えられていた事実である。記録によれば第1回の 審議会で「高知市内校の自治会委員は審議会に生 徒代表を加えることを要望した。審議会委員は一
致して生徒の要望を受け入れるべきだとして、即 刻教育委員に申し入れた。県教委は合議のうえ、
『高校生代表1名を加えること』を決定した」と
いつ11)。
これについては「高校3原則と全員入学制を答 申した高校再編成審議会に生徒会代表が参加し、
その意見を反映させたということは、日本の教育 史上特筆すべきことではなかろうか。生徒会は県 民諸階層の一員として教育政策の決定に参画した のである」12)との評価があるが、まさに至当とい うべきである。先にフランスの中央教育審議会へ の高校生の参加について触れたが、日本において も公選制教育委員会の時代には、このような高校 生の教育行政への参加という、歴史的事実が存在
したことを見落としてはならない。
皿.1950年代の高校生徒会連合(教育行政へ の対抗的な意見表明と参加)
戦後、特に1950年代において高校の生徒会活 動は平和運動とともに発農する。その中で全県的
な高校生の交流活動が生まれ、生徒会連合を結成 しようとする動きが現れた。高校生徒会の連合的 組織のうち、比較的詳しい資料が残っているのは 高知の高校生徒会連合(1954年結成)と、京都の 生徒会連絡協議会(1953年結成)である。これら は日本の高校生の幅広い社会参加の事例としても 興味深いものがあるが、ここでは高校生の「教育 行政参加」の到達点を示すものとして取り上げ
る。
ll −1.高知県生徒会連合の結成と活動 1954年結成された高知県高校生徒会連合は、
校長会や県教委の積極的な援助も得て、1年以内
に全県立高校が加盟し19,000名を擁する組織と
なり、①教育施設問題(講堂・練習船など教育設
備の拡充)②平和問題(ビキニ水爆実験に抗議、
原水爆実験・製造反対、公海自由原則の要求、憲 法改悪・再軍備・安保体制反対〉③教育問題(高 校全入維持、学テ・勤評反対、被処分校長を守る 運動、学園民主化闘争)④経済問題(授業料・父 母負担教育費軽減運動〉など多岐にわたる活動を 行ない、高校生の立場から様々な社会問題にも積 極的に発言した13)。ここでは特に③④の活動を取
り上げる。
(1)授業料値上げ反対運動
例えば、1956年度の授業料値上げ反対運動で は、生徒会連合は10万人署名運動に取り組み、臨 時大会での値上げ反対決議文を県教育長と県知事
に提出、19,000名の同盟休校も辞さない態度で のぞみ、県教委・知事との深夜3時にまで及ぶ直 接交渉で引き出した3項目(①授業料減免枠の拡 大、②需要費の大幅増額、③来年は値上げせず)
の諾否をめぐって夜明けまで討議し、早朝6時の 同盟休校指令30分前に妥結を決定している14)。
高校生達が徹夜で県教委と知事を相手に団体交 渉し、成果を獲得した事実そのものに驚愕の念を 禁じえないが、生徒会連合大会の次のような総括 には、高校生達が生徒会連合を通じて、父母住民 に劣らぬ一一一・4定の社会的勢力として教育行政に参加 し、集団的な意見表明と要求行動によって、みず からの教育を受ける権利についての認識を確実に 深めたことが示されている。 〔総括〕(1)高 校教育に関して大きな世論を喚起した。①地域社 会の人々の支持と共感を得た。②高P連の弱さが 点検され、組織的に立ち上がらすことができた。
③教育委員会のあり方を自覚させ、今後の方向を 明らかにする力となった。②反対運動、権力側 と対決することによって、各生徒会・生連組織が 強化された。①全生徒が署名に参加し、自分たち の要求と立場を認識した。②友愛と団結の意識が 強まり、生徒自治活動が活発になった。1③情勢を
的確に把握し自主的に処理する態度が養成され た。④新しい社会の担い手として自尊心と自信が
高められた15>。
(2)高校全入を守る運動
また、1956年の任命制教委による高校入試復 活の動きに対しては、反対声明を出して「教育を 守る県民大会」に参加、さらに受験拒否を決めて 父母とともに対県交渉をする高知市中学校生徒会 連合(市立中学11校の生徒会代表44名による臨 時大会での決定〉を支援するなど、高校全入維持 に力を発揮している。生徒会連合の反対声明は
「われわれ高知県生徒会連合は発足以来、学問に 適した環境と学問する権利を守るために、あらゆ る努力を積み重ね、かつまた要求をし続けてき た。しかるに任命制教委は、この努力に対して学 力テストを実施するという手段をもって報いた。
これは明らかに勉強しようとする若人から教育の 機会均等を奪い、民主教育を破壊しようとするも のである。(中略〉能力ある者が教育をうける機 会を最大限に利用できる環境を、そして僻地教育
を含めて、真に県民の幸福のための教育行政を要 望することを、県下一万八千の高校生は一致して ここに決議し声明する」という、堂々たる内容の
ものであった16)。
この件では最終的に、高校1校の増設と受験者 全員入学の確約と引換えに、初の選抜のための試 験が行なわれるが、実質的に高校全員入学を維持 しており、県教組は「全入制の下で育った中学生 と高校生が各校の生徒会、学年会、さらには生徒 会連合という全県組織に結集し、ねばり強く運動
を展開したことは他県に例を見ない、本県におけ る民主教育の成果であった」17)と総括している。
教育を受ける当事者である中学生や高校生自身
が、広範な県民とともに教育行政を揺り動かした
歴史的事実は、日本の「教育行政参加」の一形態
田久保清志 として貴重なものといえよう。
(3)勤評処分撤回運動
高知の高校生徒会連合の活動はこれにとどまら ない。1959年勤評不提出による県教委の校長処 分(懲戒免職4名、6か月停職7名〉に対しては、
処分撤回を求めた貸切りバスで抗議団を派遣し、
「不当処分撤回高校生集会」18)では、県庁に向け てデモ行進し、高校生代表による県教委・知事交 渉が夜半まで続けられるが、警官隊の出動で中止 されると、従来の「勤評に反対するが直接行動は とらない」という方針を改め、「処分撤回、勤評粉 砕のため徹底的に闘う」ことを決め、再度の「校 長処分撤回県下全高校生抗議集会」19)で、処分撤 回までの授業放棄を宣言する。要求も「自分の学 校の校長を返せ」から「高知県の高校教育を守 れ」へと発農し、県下25校中17校の生徒会によ る対策本部の設置、情報収集・街頭宣伝・署名活 動をはじめ、代理校長の拒否・自主管理・授業料 不払い運動を全県的に展開している2°)。
この件では最終的に校長処分を阻止できなかっ たが、数千名の高校生による抗議行動と、初の警 察の実力行使は、県民だけでなく高校生自身にも 大きな衝撃を与えた。この体験を通じて高校生は 勤評問題の認識を深め、生徒会連合は第2回集会 で「私達自身の教育、民主教育を守るという偉大 な目標」のもとに、日本で初めて「県下の高校生 がひとつ」に団結し、「大きな力を発揮」しようと 呼びかけている。「全県下の高校生の皆さん!今 度の処分がいかに不当であるかということは、私 達が学習すればするほど、その不当性がはっき りしました。私達は、私達の手で、私達の教育、
民主教育を守ろうではありませんか。知事や教育 長にもう安心して私達の教育をまかしておれなく なりました。高校生の皆さん、校長先生を取りか えそう。私達の校長先生が帰る日までたたかお
戦後日本の高等学校における「生徒参加」 33 う。私達の手で、民主教育を守ろう。」21}
これらは、当時の勤務評定問題の渦中にあっ て、高知県の教育行政へのきわめて対抗的な参加 の事例であるが、高校生が社会の一員として、教 育を受ける権利をみずから守り、豊かに発展させ る上で、共通の要求で結ばれた高校生徒会連合が 果たす積極的な役割を如実に示している。1990 年にフランスの高校生20万人が教育条件の改善 を求めて立ち上がり、ミッテラン大統領と直接会 見して約1200億円の緊急予算を獲得したのは記 憶に新しいが、高知の事例は日本にも同様の歴史 的事実があったことを教えるものである22}。
(4)活動の停止
1962年12月の県教委通達「高等学校生徒会の 連合組織の取扱い」は、生徒会連合が「教育課程 の改訂、高校再編成、学力テスト等への反対を含 む広範囲な政治的問題を中心とした決議をし、教 育行政に反対する活動をとりあげ」ている点で
「生徒会活動本来の目的に反し、学校の教育課程 の範囲を逸脱し学園の秩序を乱すもの」であり、
「学校教育の場には容認できない組織」として、
校長は生徒が「このような連合組織に同調するこ とのないよう適切な指導監督」するよう指示して いる。以前からの再三の通達と、内部からの離反 とによって、1963年に高知の生徒会連合は約10 年間の活動の歴史を閉じることになる23}。
ll 一一 2.京都の生徒会連絡協議会の結成と活 動
1953年に結成された「京都公立高等学校生徒
会違絡協議会」は、市電・市バス値上げ反対運動
の他、結成準備会の段階でも授業料値上げ反対運
動で、府知事に撤回させる成果をあげており、特
に1954年6月の授業料値上げ反対運動には多数
生徒が参加し、府庁陳情や議員への決議文送付を
行ない、府議会での修正案可決の成果を得てい
る。授業料問題で高校生が「教育行政参加」を果 たしているのは高知の場合と共通である。また、
文化的活動として1953年開始の憲法擁護高校生 弁論大会(1957年、憲法記念高校生討論集会に 発展的解消〉に協力したり、独自に高校生の集い や新入生歓迎会などの行事を主催している他、原 水爆禁止運動、勤評問題の討論、国鉄学割改定反 対運動、伊勢湾台風被害救済活動、全国高校生徒 会連合準備会センターの設置、高知の生徒会連合 への活動調査団派遣など、多彩な社会的活動を行
なっている。
しかし、全国の学生・高校生運動の分裂を背景 として、1959年頃から政治思想的な内部対立が 生じ、一部の脱退校もあらわれ、いったん活動が 停止する。京都では教育委員会や校長会による活 動規制措置が取られなかったこともあり、高校生 の努力で1962年に再建され、新入生歓迎会や文 化祭典の主催、高校生討論集会への協力など文化 的行事を中心に活動するが、高校紛争期には独自 な活動もなくなり自然休会後に消滅したとされる
24}o
皿一3.全国高校生徒会連合結成の動向 前史としては、1948年10月の全日本学生自治
会総連合の結成とともに、東京・京都・岡山・広 島・福島に生徒会連合がつくられるが短命に終わ り25}、次に、全学連の活動家組織であった反戦学 生同盟の機関紙『わだつみの声』を軸に、1951年
10月東京で167校の参加による「全日本高校生 協議会」が結成され、東京・大阪・三重・福島・
北海道等の地方組織もできて高校生徒会連合への 発展を指向したが、活動家の動員に終始して地道
な活動が定着せずに停滞した経緯がある26)。
このような2度にわたる盛衰を見せながら、
1958年8月東京での第4回原水爆禁止世界大会 に参加した東京・京都・高知などの高校生が「全
国高校生徒会連合」結成をよびかけ、全国からの 代表80名余により「民主教育擁護のために勤務 評定反対、教育予算増額。安保改定阻止、廃棄の ために。学園民主化のために」をスローガンに掲 げ、結成準備会綱領を作成しているが、ここには 権利としての生徒参加の明確な認識が見てとれ
る。「私達高校生は社会の一員として種々の要求 を持っています。私達が全国的な組織によって結 ばれ、私達の意思を表明し、社会的発言力を強化 することによって、高校生の立場をはっきりと位 置づけ、私達の要求を貫徹する必要があります....
私達は平和と民主主義を乱すあらゆる勢力に対 し、断固反対し、また民主教育を守り、私達のそ れぞれの学校における民主化をおし進め、私達の 自治を確立させねばなりません」27)。
皿.1960年代の自主管理実践(懲戒処分への 参加と学園民主化活動)
1960年代に入ると、日教組の教研集会(特に 1963年第12次教研集会)で管理的な生徒処分に 対する自主管理の実践が報告されるようになる。
これらの実践は、学園民主化の成果を守り、自主 管理による非行克服の努力を通じて指導の論理を 発見し、60年代の生徒会活動衰退期に集団づく
りの実践形態を発展させたものである28)が、それ らの実践において処分決定過程への「生徒参加」
が事実上生じていることが注目される。
皿一1.暴力行為に対する生徒会の自主管理 暴力行為を追放して民主的な明るい学校生活を
築くために、北海道立深川西高校が1954年に設
置した「生徒会秩序維持委員会」(各クラス代表
1名で構成)は、生徒会の秩序を乱す行動につい
て調査・審議し、学校側の処分に委ねる前に生徒
会機関として報告と処分決定を行なう自主管理機
関である。処分には①委員会への反省状提出、②
田久保清志 全校生徒の前での謝罪、③学校に停学を含む処分
の要請、の3種があり、委員会と生徒会長が共同 して行なうとしている29}。
これは一見、生徒による取り締まりという印象 を与えかねないが、別の書によれば、この委員会 は「一切の暴力行為を追放することに主眼があ
り、長い討議と2月という厳しい寒さの中での生 徒大会で決定されたもの」で、学校側の処分に よって「級友が突然消えてしまう」ことや「脅さ れて言いたい事も自由に言えない」ような「旧社 会とは訣別し、仲間のことは仲間同士が責任を持 つ、生徒のことは生徒同士で解決する」ための委 員会であり、教師による体罰事件が起きた時にも 活動し、「委員会規定に従って、その先生は全校 の生徒の前で謝罪をした」3°1という。
このような生徒集団による自主管理は、処分決 定過程における生徒の「学校参加」の一形態とみ ることができる。記載例でも、2年生同士の暴力 事件発生2日後には、秩序維持委員会が事実調 査・整理をして全校一斉クラス討議を要請し、3 週間後の全校集会までに秩序維持委員会8回、拡 大委員会2回、委員会主催の合同クラス会議(各 HR代表5名で計100名以上>2回を開き、最終 的に加害者には全校謝罪、事件現場で傍観してい た者には秩序維持委員会への反省状提出を決定
し、学校側の処分にかけることなく自主的な解決 をはかっている3%
皿一2.非行問題に対する特別指導
1953年から数年間、クラス・全校での討論を 徹底して生徒集団による非行問題の克服をめざす 無処罰指導の実践に取り組んだ都立農林高校で は、1960年代に上記深川西高の自主管理実践等 にも学びながら全校的な集団づくりを展開し、無 処罰指導にかわる「特別指導」を1970年代初め
に確立する32)。
戦後日本の高等学校における「生徒参加」35
「特別指導」とは非行問題等の発生に際して、校 長室に校長・生活指導部主任と、当該生徒・父母・
担任教師、必要に応じてクラス代表生徒が対面し て着席し、校長・生活指導部主任が要求(教師間 で事前に合意されている〉を突きつけ、生徒の自 己変革を迫るとともに、担任教師が生徒を守る立 場で、生徒自身の問題をクラス全体の問題にして いく指導方法である。そして、学年総会で事件の 全容を伝え、学年と当該クラスの問題点を一斉ク ラス討議や他学年からの援助も受けて明らかに し、生徒集団による自主的解決をはかっていくも のである33)。注目したいのは、その過程で担任に よる弁護や当該生徒・クラス代表の意見表明が保 障されている点であり、問題克服に取り組んだ生 徒集団が場合によっては「特別指導」による処分 の執行停止を学校側に要請するという、生徒懲戒 処分への集団的な参加が行なわれている点であ
る。
1V.1970年前後の高校紛一争(学校の管理運営 への参加、三者協議会の萌芽)
高校紛争については現在もなお総括的研究がな されておらず、紛争時に制服廃止や教育課程改革 などを実現した高校もあるが、紛争を通じた高校 生の「学校参加」の過程とその成果については不 明な点が多い34>。事例収拾と分析は今後とも課題 となるが、ここでは紛争の過程で権利としての生 徒参加を実現した稀少な事例として、千葉県立東 葛飾高校の「職員生徒連絡協議会」という二者間 の合議機関を取り上げる。
IV −1.教職員・生徒の二者合議機関「職員 生徒連絡協議会」
東葛飾高校では高校紛争期の1969年、生徒会 と教職員の両者が独自の「教育制度検討委員会」
を設置し、相互の交渉と合意によって1970年に
学園改革(①文系理系コース制廃止、②選択授 業・自由研究導入、③中間考査と模擬テスト廃 止、期末考査は各教科毎の時期と方法で実施、④ 服装条項を残して生徒心得を全廃(後に1972年 制服廃止)、⑤生徒会への届け出制による掲示・
集会の自由保障)を実現する。この過程で注目す べきは、両者の意見対立を二者間の連絡協議会開 催によって調整し、しかもそれを「職員生徒連絡 協議会」として制度化したことである。こうして
「改革の所産として生まれた生徒・職員の連絡協 議会は、これよりのち生徒の要求を汲み上げ、学 校運営・教育内容に反映していく上での重要な機 関として機能していく」35)ことになるのである。
この協議会は、双方の決定事項で合意に達しな い場合には、各機関で討議した上で何度でも協議 会を開き、合意形成をめざす点に特徴がある36)。
これはドイッやフランスの合議機関とは異なり、
双方の協議が必要な問題が生じた時にのみ開かれ るものであるが、戦後日本の高校で制度化された
「学校参加」の形態としては、最も高水準の事例 と考えられる。特に、生徒の意見表明権を一歩進 めて、表明された生徒集団の意思を教職員が一方 的に無視ないし破棄できないように、二者間協議 を制度として保障している点が重要である371。
さらに後の制服廃止運動の際には、生徒会みず から千葉県下初の服装自由化を達成するため三者 の合意形成を重視して取り組んでいるが、その途 中で生徒会による父母への署名運動の是非をめぐ り、教職員・父母・生徒による三者協議会が開か れている38)。これは臨時の協議会ではあるが、さ きの二老欄の「職員生徒連絡協議会」だけでな く、さらに三者による協議会が一時的にではある にせよ、成立した事例として注目したい。これは ドイッやフランスのような三者協議機関の我が国 における萌芽として、学校紛争から学校自治への
転化の可能性を示唆するものである。かつての高 校紛争をこのような観点から再検討することが、
日本の生徒参加史研究の前進にとっても重要な意 味を持つと考えられる。
〔3〕生徒参加史研究の課題
以上、4つの歴史的契機に着目して概観してき た生徒参加史は、本稿の「生徒参加」概念の規定 上、高校生達の様々な自主的活動(部落問題研究 や平和ゼミナール等の文化・学習活動、サマー キヤンプや私学フェスティバル等の交流活動等)
を当面捨象し、戦後の各地各時期に点々と存在す る、限定した意味での「生徒参加」の史実を掘り 起こし、つなげてみた点線の素描である。高校生
の「生徒参加」は、予想以上に豊かな水脈をその 地下に秘めている。
今後この水脈を発掘していく上での当面の方法 としては、本稿のように高校教育実践史から入っ て通史的な史実の発掘に努め、点線を実線へと太
くしていく方法とともに、ある一定地域に対象を 定め、その地域内の高校の沿革誌等にあたって、
いわば面として生徒参加の歴史を描きだす方法が 有用であると思われる。従来、あまり研究の対象 とされてこなかった学校沿革誌や学校新聞等にも 光をあて、各地に埋もれている生徒参加の史実
を、点から線、線から面へとつなぐように展開 し、通史として描き出すことができれば、戦後日 本の高校生による生徒参加の遺産は、やがてその 全貌を現し始めることだろう。戦後50年を迎え た今日、資料の散逸を防ぐ意味でも生徒参加の歴 史的研究は急務である。
本稿で立ち入ることのできなかった、生徒参加
における教師集団の指導論の問題、紛争から生徒
参加制度確立への転化の問題、文部省・教育委員
会の生徒参加に関する行政指導の問題等も、こう
した生徒参加史の研究を通じて、新たな角度から 検討を行なうことが必要になってきている。実践 的にも最近では、諸外国の生徒参加制度に触発さ れて三者による「学年評議会」を作り、合意によ る学校づくりを学年レベルから試みている群馬・
市立伊勢崎高校の事例などがあり39)、こうした実 践とも結び付けながら、現代学校改革の課題とし ての「生徒参加」研究を進めていくことが求めら れている。
注
1)その成果は、日本教育学会・教育をめぐる 「参加」研究委員会『教育をめぐる「参加」(協 力関係〉の研究』第1集(1982年》および第 2集(1983年)参照。
2)なお、1991年第50回大会ラウンドテーブル を契機に、「子どもの参加」に関する共同研究
会が発足して会を重ねており、本稿もこの研 究会の討議から示唆を得ている。
3)林量椒「西ドイツにおける学校自治の動向」
『生活指導』第338号1985年3月p.83 4)類別すると、①教師・父母・生徒が同数もし くは同数に近い州、②教師・父母・生徒の比 が6:3:3の州、③教師全員に父母・生徒 の各代表が若干名の州、の3種がある。坂本 秀夫『こんな校則あんな拘束』朝日新聞社 1992年の巻末一覧表参照。本表は、旧西ドイ ッ11州の学校参加制度の比較に至便である。
5)小野田正利「フランスにおける学校運営への 生徒参加に関する研究」『長崎大学教育学部教 育科学研究報告』第36号1989年、P55。こ の他、同「フランスにおける生徒の学校運営 参加」『季刊高校のひろば』第10号、労働旬 報社1993年、および同「フランスにおける生 徒の権利と参加の拡大」『季刊教育法』第90
田久保清志 戦後日本の高等学校における「生徒参加」37 号、エイデル研究所1992年参照。なお、イタ リアの「学校運営評議会」「地域教育区評議 会」への生徒参加については、佐藤一子「参 加と自治の一環として・イタリア」『世界』第 541号1990年5月、一部の州で生徒参加が実 現しているオーストラリアについては、熊谷 真子「オーストラリアにおける生徒の学校参 加制度」1994年第53回日本教育学会ラウン ドテーブル⑤報告を参照。
6>拙稿「生徒の権利としての学校参加」日本生 活指導学会『生活指導研究』第12号大空社 (1995年8月刊行予定)を参照されたい。
7)直接的な先行研究ではないが、戦後の高校生 活指導運動を総括した竹内常一・西平正喜 「高校教育と生活指導」(講座・現代の高校教 育第4巻『生活指導』草土文化1978年所収〉
が、歴史的契機の抽出に有益である。本稿 で規定するような「生徒参加」の先行歴史研 究はほぼ皆無であり、生徒参加の語を冠した ものとしては宮坂哲文の小論「学校運営への 生徒参加」(1961年〉があるが、内容は戦前 の助教法からマカレンコの場合までと幅広く、
戦後も含めて断片的な叙述になっており、む しろ同「日本近代学校における課外活動の発 達」(1953年、いずれも『宮坂哲文著作集第 3巻』明治図書1968年所収)が、戦前の校友 会と児童自治の検討を行なっていて興味深い。
本稿と立場を同じくする先行研究は、生徒会 則や校則を検討した坂本秀夫『生徒会の話〜
生徒参加の知識と方法』三一書房1994年が、
現時点では唯一のものである。ただし坂本は
「生徒会実践史に迫ることは今のところ手にあ
まる」(p.13)として、生徒参加の歴史につい
ては戦後の学習指導要領や行政指導文書の検
討にとどめている。
8)この部分の記述については、大内文一、他 『高校生の戦後史〜学校新聞からの証言』新評 論1983年pp.49−50参照。これらの生徒参加 が廃止されていく日比谷高校のその後につい ては、大河原礼三『日比谷高校闘争と一教員・
生徒の歩み』現代書館1973年参照。なお、大 阪府立春日丘高校生徒会が職員会議の傍聴を 求めて認められたことを、東京の『江北高校 新聞』(1950年1月20日付)が伝えている。
『高校生の戦後史』p.72参照。
9》畑巌「学園生活を守り高める運動と生徒会活 動」p.155。全生研・竹内常一編『高校の生活 指導』明治図書1962年、第5章「学校民主化 運動と生徒会活動」所収。生徒会の活躍はめ ざましく、時期は不明だが暖房と給食制度も 実現させている。また勤評問題で処分を受け た教師を守る運動では、街頭署名や交渉陳情 活動、警官隊の入校阻止を行ない、被処分教 師の授業継続と後任教師の拒否を決議、市教 委・市議会との交渉で、市教委の責任・教師 の処分撤回・専任校長と独立校舎の獲得(専 任校長は県下で初めて実現)を要求している。
生徒総会は「定時制教育への全国の関心を高 め、我々の行政への理解が深まり、市内の教 師とのより真剣な話し合いと学校づくりの方 向ができ、専任校長等の我々の要求が実現し、
勤評の本質を知った」と総括し、「国民の幸福 を常に考える人間になることを生徒会の基本 目標にする」と決議している。その後の授業 内容改善運動も含めて詳細は上記参照。
10)松本彦也「学校運営と高校生徒会活動」
pp.203−204、同前書所収。ただし、生徒会が 直接京都府と交渉したかどうかは記されてい ない。
11)杉本直雄・山本修『高校生奮戦記』三一書
房1962年p.24。委員の構成は次のとおり。① 地域審議会代表10人、②小中高校長団代表 28人、③教組代表4人、④県会代表2入、⑤ 報道関係・婦人団体・労働団体(各1人)4 人、⑥学校組合代表2人、⑦高知市代表2人、
⑧学識経験者3人、⑨W _
皿、合計60人。金子龍吉「組織のなか
で育つ高校生」国民教育研究所『全書・国民 教育5 地域の生活と学校』明治図書1968 年所収p.188、および高知県教組『高知県教組 四十年史』1987年p.152に記載。
12)同前『全書』p.190 13》『全書』PP.200−201。
14)『全書」 p.201、204。なお、本稿では生徒会 連合への教師の指導の問題には立ち入らない が、各校の生徒会顧問による生徒会連合顧問 団は指導方針を慎重に討議し、校長会や各校 職員会議での承認を得ている。詳細は『全書・
国民教育5』p.207参照。
15)『全書』P.205。
161詳細は、前掲『高知県教組四十年史』第2 章第1節「高校無試験希望者全員入学制」を 参照。なお声明全文はpp.166−167に記載。
17)『高知県教組四十年史』p.231
18)参加者数は『全書』が22校6000名、『高校 生奮戦記』が5800名、県教委による『戦後高 知県教育史』が19校4500名、『高知県教組四
十年史』が19校4400名と差がある。
19)参加者数は『全書』が5000名、『高校生奮 戦記』には記載なし。『戦後高知県教育史』が 18校3600名、『高知県教組四十年史』が6000 名。ちなみに『高知新聞』1959年10月6日
および11月4日付報道での両集会参加者数は
『戦後高知県教育史』と同じ。記事は、処分撤
回のプラカードを持った多数の高校生達の写
真とともに、緊迫した集会の模様を伝えてい
る。
20)詳細は『高校生奮戦記』PP.103−137 21)『高校生奮戦記』pp.135−136
22)フランスの事件は朝日新聞1990年11月26 日付報道。
23)永田照夫『教育基本法第8条(政治教育〉小 史』西村信天堂1985年(私家版)、p.126。本 稿では言及できないが、「権利としての生徒参 加」の観点からすると、これらの通達には検 討すべき点が多い。なお、生徒会連合に対す る行政指導の問題については本書に詳しい。
また、県教委の通達は『戦後高知県教育史』巻 末資料に収録されている。
24)永田、pp.60−61、 p.128、 pp.129−130参照。
なお、京都の事例について詳細は、永田照夫 『資料集 京都における生徒会連絡協議会』西 村信天堂1978年(私家版)が貴重である。ま た、高知・京都以外にも数県の生徒会連合組 織が知られており、1962年結成1971年活動 停止した群馬県高校生連絡協議会の事例(守 随吾朗、他「高校生の全県交流活動」『高校生 活指導』第7号1972年7月、および同「高校 生集会」『高校生活指導』第25号1974年7月 参照〉の他、結成には至っていないが生徒会 連合組織を目指し県教委・校長会との苦難の 交渉を続けた埼玉県の高校生の事例(斉藤正 和「生徒会・校外活動」木下春雄・竹内常一 編『講座高校生活指導2 高校生活指導の理 論と実践』明治図書1971年所収)などが、資 料として比較的詳しい。
25)竹内静iF『反戦派高校生』三一書房1970年、
P.67Q
26)斉藤正和「生徒会・校外活動」木下春雄・竹 内常一編『講座・高校生活指導2 高校生活
田久保清志 戦後日本の高等学校における「生徒参加」39
指導の理論と実践』明治図書1971年所収、
pp.132−133
27)前掲『青春の軌跡』p.130。なお、東京大学 駒場寮で行なわれた会議の様子は『西京高校 新聞』1958年9月22日付(前掲永田『資料 集』所収)に詳しい。その後高校生達は、同 年11月京都・高知・東京の代表による第1回 執行委員会を開き、翌年全高連規約を作成す るが、高教組の支援体制が都府県によって異 なり、内部の不統一から全高連結成を果たせ ず、安保闘争の時期を前にして「平和と民主 主義を守り、明るい学園生活をめざした全国 組織化への運動は姿を消し、その後の高校生 運動は次第に左傾化していった」とされる (前掲、斉藤「生徒会・校外活動」p.134)。
28》前掲、竹内・西平「高校教育と生活指導」p.49 2g)全13条の「生徒会秩序維持委員会規定」を 含め、詳細は金倉義慧『学園自治の旗』明治 図書1969年を参照。
30》高生研編『学園をわれらに』三省堂1967年、
pp.188−189
31)同前『学園をわれらに』PP.190−192。この ような生徒集団による処分決定については、
なお検討すべき余地があるが、処分手続きに 対する生徒参加の重要性については坂本秀夫 『生徒懲戒の研究』学陽書房1982年第6章、
および坂本編『生活指導の法的問題』ぎょう せい1987年の特に第2章を参照。
32)無処罰指導について詳細は、水上久男『生 活指導二十年〜非行とたたかいつづけて』高 文研1981年参照。また1970年代の実践記録 として、岩淵国雄『高校生の山河〜生徒自治 に挑んだ農林高校の記録』高文研1976年が ある。
33)詳細は、水上久男「ホームルーム担任を生
かすための特別指導』『生活指導』第317号明 治図書1983年9月参照。坂本秀夫氏は高校紛 争期の「生徒処分参加の要求は一、二の例外 を除き見られなかった」(前掲『生徒会の話』
p.191)としているが、生徒処分参加はむしろ これら1960年代の自主管理実践の中に見出 すことができる。このように農林高校の「特 別指導」を「生徒参加」として解読する必要 を指摘したものして、竹内常一『10代との対 話 学校ってなあに』青木書店1993年p.251 参照。なお、三者代表を含むフランスの「懲 戒委員会」では、生徒に弁明の機会を保障し、
委員会は当該生徒と親、弁護する生徒、訴え た生徒、関連証人の他、当該生徒の担任、学 級の生徒代表、校内カウンセラー等の参加で 開かれることが規定されている(詳細は前掲、
小野田「フランスにおける学校運営への生徒 参加に関する研究」pp.63−64)。農林高校の場 合には指導的側面が強いが、当該生徒の権利 保障の点でフランスの「懲戒委員会」と類似 し、懲戒処分の決定過程に生徒が参加する 「学校参加」の一形態としてとらえることがで きる。
34)紛争校の高校生の諸要求については、都立 高校に関して、北沢弥吉郎『東京の高校紛争』
第一法規1971年p.68に計31校、東京都高教 組「東京における高校生問題」国民教育研究 所編『高校における政治的教養と自主的活動』
上巻所収、明治図書1970年pp.569−577に計 34校の集約があるが、それらが各校でいかな る生徒参加制度に結実したか、その後の研究 は行なわれていない。
35)千葉県立東葛飾高校教師集団『改革の炎は 消えず〜受験の壁に挑んだ学園改革』高文研 1974年p.83。この協議会は生徒会規約に明文
化されている。「第56条:学校長は生徒会の 決定を保留することができる。学校長から再 考を求められた案は、職員生徒連絡協議会に 於いて審議され、全校委員会に於いて再議決 される。第57条:職員生徒連絡協議会は職員
及び正副会長、全校委員によって構成される」
(p.141)。なお、死文化してはいたものの協議 会の規定自体は紛争期以葡から存在しており、
規定の作成時期は不明であるという(当時の 教員、丸山敏郎氏からの筆者の聞き取りによ
る)。