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憲法科学研究序説 : 国家の歴史理論

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(1)

憲法科学研究序説 : 国家の歴史理論

その他のタイトル Introduction a l'Etude scientifique du Droit constitutionnel ; la Theorie historique de l'Etat

著者 村田 尚紀

雑誌名 關西大學法學論集

巻 46

号 4‑6

ページ 761‑822

発行年 1997‑02‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00024537

(2)

憲 法 科 学 研 究 序 説

ー 国 家 の 歴 史 理 論

I

(3)

目 次

一︑国家の歴史理論の射程と課題

田 国 家 の 歴 史 理 論 の 射 程

② 国 家 の 歴 史 理 論 の 課 題

二︑アジア的生産様式国家論の問題

① ア ジ ア 的 生 産 様 式 の 意 味

② ア ジ ア 的 生 産 様 式 国 家 論 の 現 代 的 意 義

三︑絶対主義国家論の問題

① 絶 対 王 義 国 家 の 意 味

② フ ラ ン ス 絶 対 主 義 国 家 の 構 造

③ 天 皇 制 国 家 と 絶 対 主 義

四︑ボナパルティズム国家論の問題

① 古 典 的 ボ ナ パ ル テ ィ ズ ム 論 の 問 題 点

② ボ ナ パ ル テ ィ ズ ム 国 家 の 構 造

③ 現 代 国 家 と ポ ナ パ ル テ ィ ズ ム

むすびにかえて1残された課題

(4)

あ る

一︑国家の歴史理論の射程と課題

国家の歴史理論の射程

︵ 七

国家の基礎理論がいかなる問題群からなるのかーその理論領域を厳密に画定することが筆者の現在の能力に余る

ものであることは︑すでに別稿で述べたとおり︑いうまでもない︒そのことと必然的に関連して︑国家の歴史理論に

ついても同様のことをあらかじめ断らざるをえない︒しかしそれにしても︑ここでいう国家の歴史理論の意味につい

て一定程度明らかにしておくことは︑最小限不可欠の学問的手順であろう︒

(1 ) 

すでに国家の基礎理論的考察において筆者なりに指摘しておいたように︑憲法の科学的認識のためには国家を矛盾

的統一として把握する必要がある︒およそ国家というものを不変の事物と考えるならばともかく︑その歴史的変化を

認識するならば︑その運動︵変化と停滞︶の源泉を問うことが社会科学的認識の課題となるであろう︒歴史とは単な

る時間の経過ではない︒国家の歴史的変化をもっぱら時間の経過によって説明するのは︑事物の発生根拠を問わない

一種の実証主義である︒なぜ時間の経過とともに国家が変化するのかということが問題なのであり︑その鍵は︑国家

の内的矛盾︑窮極的には社会構造の内的矛盾に求めるしかないであろう︒国家は矛盾をはらむからこそ運動するので

国家の歴史理論は︑社会諸関係の矛盾を反映して運動する国家の現実を生き生きと捉えることを終極の目標とする︒

もとより︑きわめて複雑な総体である国家の現実を一挙に把握し︑記述することはできない︒同じくもとより︑その

ような対象に無概念・無前提に接近しても︑科学的認識に到達することは望めないであろう︒そこでここでは︑矛盾

(1) 

憲法科学研究序説

(5)

的統一としての国家とその法的表現である憲法現象とが歴史的現実として運動することを説明するいわば中程度に具

体的な理論に焦点を合わせ︑そのような理論のことを国家の歴史理論と呼ぶことにする︒中程度に具体的ということ

の意味は︑歴史的事象の個別具体性を捨象しているという意味で︑なおトータルな認識に至っていないということで

国家の歴史理論の課題

ところでそもそもなぜ国家の歴史理論なのか︒また国家の歴史理論の検討にいかなる意義を見出すことができるの

か︒かかる問いには多様な答えがありうるであろうが︑これも予備的考察の一っとして論じておかなければなるまい︒

今日の日本における憲法の状態を構造的に把握することは︑今日の日本社会

1 1

国家そのものの解剖によって果たさ

れるはずのことである︒また今日の日本社会

11

国家は昨日のそれとの連続と断絶という関係において存在する︒それ

ゆえに︑今日の日本における憲法の状態の構造的認識という課題は︑さらに日本社会

1 1

国家の歴史的検討によって補

しかしながら︑実際いかなる問題にせよ︑その歴史的検討の必要性を否定する者は存在しないようにみえるにもか

かわらず︑いわゆる歴史的検討が何を意味するのか︑何のためにそれが必要なのかは必ずしも明確にされていないよ

うに思われる︒今日の前が昨日だから今日を知るために昨日のことを解明するのは当然だと考えるにすぎないならば︑

昨日の前は一昨日だから今日のことを知るために一昨日のことを解明するのも必要だということになろう︒たとえば︑

現代の問題を認識するために︑先行する近代の問題を研究する必要性が強調される︒しかし︑もし近代が現代に先行 われる必要があるとひとまずいうことができよう︒

( 2 )   あ

る ︒

関法第四六巻第四・五・六号

︵ 七

六 四

(6)

現代的意義を与えることはできないであろう︒

︵ 七

六 五

することをもっぱら理由としてそのような必要性を強調するのであれば︑結局︑時間の連鎖を果てしなく遡らないか

ぎり︑現代は認識できないということになりかねない︒少なくとも︑現代の問題を知るためにその歴史的前提を探求

すると称して近代を研究しながら前近代を知ろうとしない者は︑なぜもっと歴史を遡らないのかという問いに答えな

ければならないであろう︒また右の態度には︑現代の解明を近代の解明に解消してしまう危険がないともいいきれな

では歴史的過去を認識することは︑現代の認識にとっていかなる意義をもつのか︒直近の過去の場合︑まさに直近

であるがゆえに︑それを認識することが現代の認識に有益であることはたしかである︒近代の歴史的検討が現代の認

識にとって重要であることは否定できない︒しかしいうまでもなく︑それも現代の認識にとって代わることはできな

い︒繰り返しになるが︑現代日本の憲法の状態の構造的把握は︑現代の日本社会を矛盾的統一において捉え︑そこを

運動の源泉として変動する国家をその存在と機能の多様な側面において捉えることで可能になるからである

せば︑このような把握は︑対象の運動のモメントを捉えようとするそれ自体︱つの歴史的把握である︶︒結局︑たと

え直接の時間的連続性があるにしても︑異なる歴史段階の憲法ないし国制の認識はただちに現代憲法の認識を深める

ことになるわけではなく︑比較を媒介することによってはじめてそれが可能になるにすぎないのではないか︒単に時

間的に先行しているという理由だけから歴史的研究に対して無媒介に︵とくに近代研究の場合にありがちなように︶

さらにもう一っ論じておくべきことは︑諸外国のさまざまな歴史的事象を検討することの意義であろう︒現代日本

の憲法の科学的認識にとってそれがいかなる意義をもつのかという問題である︒そのような意義の尺度を日本国憲法

憲 法

科 学

研 究

序 説

いように思われる︒

︵ 念

を 押

(7)

もいかないと思われるのである︒ との関連に求めるのは一見もっともに思われるが︑必ずしもそうではない︒関連の有無は相対的なものにすぎないし︑ 関連が薄いからといってそれを検討することが現代日本社会の憲法認識にとって意義が小さいとはただちにいえない からである︒やはり他国の憲法ないし国制の歴史的研究に際しても︑いったん対象そのものの科学的認識に徹し︑し かるのちに現代日本憲法との比較を行うことによって︑後者の認識を深めることが可能になるであろう︒いかなる国 のいかなる歴史段階を検討素材にするかによって︑比較は︑ デュヴェルジェのいう遠隔比較になったり近接比較に

なったりして︑その困難の性質や度合いも主観的にはかなり異なるであろう︒しかしかかる検討の現代的意義は︑比

(2 ) 

較の仕方如何にかかってくるのであり︑時間や空間の隔たりによって自ずと決まってくるわけではないであろう︒

本稿は︑現代日本社会

11

国家の特異な権威的構造と呼ばれているものの特質を浮き彫りにすると考えられるいくつ

(3 ) 

かの歴史的カテゴリーについて若干の考察を試みようとするものである︒すでにさまざまな論者が述べ︑あるいは暗

黙裡に認めているように︑かつて一世を風靡したいわゆる近代主義の見地からすれば︑今日の日本社会はきわめて奇

怪な様相を呈していることになる︒高度成長︑その後のオイルショックの克服によって近代化

11

資本主義化を超過達

成したにもかかわらず︑日本における自由と民主主義の状態は︑近代主義的な変革展望が描いていたものからほど遠

いようにみえる︒さりとてもちろん︑その状態は︑文字通りの前近代的な無権利状態ではない︒かかる﹁特異﹂な状

(4 ) 

況を規定するため権威主義とか権威的秩序というカテゴリーが提唱されている︒そこで︑この現代日本社会

11

国 家 の

特殊な権威主義的構造を歴史的に位置づけるうえで問題になりうると思われるいくつかのカテゴリーを検討してみる

ことにする︒もとより︑このような課題は筆者の能力に余るものであるが︑そうであるからといって回避するわけに

関法第四六巻第四・五・六号

六 四

︵ 七 六 六

(8)

六 五

︵ 七

六 七

日本社会の近代化は︑戦後日本の社会科学全体が取り組みあるいは念頭に置いてきたといっても過言ではない課題

であろう︒憲法学にとってもそれは大きな課題の︱つであった︒いうまでもなく︑憲法意識は多様であり︑憲法学の

問題意識もけっして一様ではなかった︒しかしそうであるにしても︑憲法解釈学は日本国憲法の価値の弁証を任務と

する傾向が強かったといえるし︑憲法科学の課題として日本国憲法の日本社会への定着を阻むものの解明を自覚的に

追究する試みもなされてきた︒

︿日本における市民革命の欠如﹀とは︑後者の試みのなかでつとに論じられ︑常識化してきた言説である︒日本国

憲法の規範が現実の政治や社会生活のなかにいつまでも定着せずむしろ空洞化しているのは︑明治憲法体制が敗戦と

いう外因によって崩壊し︑新憲法すなわち日本国憲法が占領下に制定され︑国民のイニシアティヴがその過程で充分

に発揮されなかったことによるとされるのである︒日本国憲法は近代憲法の諸価値を内包する現代憲法である︒近代

憲法は︑市民革命によって建設されるべき近代市民社会を土台にして安定するはずであるにもかかわらず︑日本国憲

法はその土台を欠いている︑それゆえに日本国憲法は日本社会に定着しない︑というのがいわば未完の市民革命論の

(5 ) 

説 明

で あ

る ︒

では︑市民革命がいまだに完遂されていない日本社会とはいかなる社会なのか︒いわゆるアジア的生産様式論争に

関心を寄せた論者の多くは︑この日本的特殊性を解く鍵を論争のなかで模索していたように思われる︒

憲法科学研究序説

(9)

まず

A

説は︑アジア的生産様式とは資本主義的生産様式に先行する階級社会のアジアに独特の生産様式のことだと

考える見解である︒その内容をめぐっては

A

説内部でさらに分岐するが︑アジア的生産様式を独特の生産様式として

(7 ) 

捉える点では一致している︒この見解は︑﹁今日ではすでに克服されたものとみてさしつかえない﹂ともいわれる︒

C

説 ︑

D

説 ︑

E

説と呼ぶことにする︒

一 九

0

年代後半から一九三

0

年代にかけて中国革命の性格をめぐる論争の

なかで争点となり︑ついで一九四

0

年代から一九五

0

年代にかけて各国語に翻訳されたマルクスの﹃資本主義的生産

に先行する諸形態﹂の解釈をめぐって争点となり︑ 一九六四年以降一九七

0

年代前半にかけては︑ アジア・アフリ

カ・ラテンアメリカの民族解放・植民地独立運動の発展を背景に﹁アジア的生産様式論争の復活﹂と呼ばれるような

活発な議論が展開された︒以上の三次にわたる国際的な論争の多岐に広がる争点は︑大雑把に整理すると︑二つの領

域に区分されよう︒すなわち第一は︑この言葉の開発者であるマルクスの文献学的な理解の問題︑すなわちマルクス

のアジア的生産様式概念の内容はいかなるものであったのかを彼自身の著作の解釈を通じて確定することである︒第

二 は

マルクスのいわゆるアジア的生産様式がいついかなる形態で実在したのか︑

えうるものなのか︑実証的歴史研究によってアジア的生産様式カテゴリーは修正されなければならないのか︑あるい

は破棄されなければならないのか︑という問題である︒立ち入ってこの論争を検討することは︑筆者の能力のはるか

に及ばないことである︒ここでは論争の概観以上のことはできないことをあらかじめ断っておきたい︒

(6 ) 

アジア的生産様式の意味をめぐっては︑大まかに整理して五つの説がある︒それをここでは便宜的に

A

説 ︑

B

説 ︑

アジア的生産様式の意味については︑

①アジア的生産様式の意味

関 法 第 四 六 巻 第 四

・ 五

・ 六 号

マルクスのアジア認識は実証に耐

六 六

︵ 七

六 八

(10)

れ る

六七︵七六九

B

説は︑アジア的生産様式とは︑ギリシア・ローマの古典古代的奴隷制と異なる奴隷制の一形態であると考える︒

古典古代的奴隷制との違いについては︑諸説が存在するが︑わが国で有力な見解はアジア的生産様式を総体的奴隷制

と規定する︒それによれば︑古典古代的奴隷制の場合︑土地私有が発展して直接労働から解放された主人が多数の奴

隷を所有して大経営を行うのに対して︑総体的奴隷制の場合は︑大規模な潅漑事業を行うことが死活的な課題となっ

た自然的条件の下で︑土地の共同体的所有のみがあって私有の発生する余地がなく︑包括的統一体または専制君主が

唯一の所有者として存在し︑被支配者は包括的統一体または専制君主の財産または奴隷の地位に置かれることになる︒ c

説 に

よ れ

ば ︑

アジア的生産様式とは封建制のアジア的形態のことである︒土地私有が欠如し︑国家が唯一の土地

所有者として存在し︑地代と租税とが一致する封建制がすなわちアジア的生産様式であるとみるのである︒

D

説は︑原始共同体から奴隷制へ移行する過渡期の最初の階級社会がアジア的生産様式であるとする見解である︒

これによれば︑共同体の耕地を分配される萌芽的形態の家族は︑いまだ私有地を持たないので共同体に従属している︒

治水・潅漑・土木事業をはじめとする共同体的機能を掌握した専制君主は共同体と家族を支配し共同体の剰余労働を

貢納制によって収奪したとされる︒

D

説によれば︑このようなアジア的生産様式は︑ アジア地域に固有の生産様式て

はなく︑冊界的に普遍的に存在し︑家族の経営体としての自立︑土地私有の発生とともに奴隷制に移行してゆくとさ

E

は ︑

アジア的生産様式を原始共同体そのものとみる説である︒

以上の学説に対してはそれぞれ批判がある︒﹁すでに克服された﹂とみなされる

A

説はおくとして︑

B

説に対して

は︑同説が家父長的奴隷制を総体的奴隷制の基礎とみなす点に関して︑二つの奴隷制は段階を異にし︑総体的奴隷制

憲法科学研究序説

(11)

(8 ) 

は家父長的奴隷制を崩壊させる関係にあるという批判がある︒

(9 ) 

c 説には︑土地私有の欠如は封建制的生産様式と相容れないという批判がある︒

E

説に対しては︑

D

説に対しては︑同説のいうアジア的生産様式が世界史的に普遍的に存在したという歴史的事実は確認できない︑

( 10 )  

少なくともギリシア・ローマの場合には当てはまらない︑という批判がある︒

( 11 )  

マルクスの解釈を誤っているという批判がある︒

では︑以上の学説をどうみるか︒すでに断っておいたように︑ここでは論争の概観にとどまらざるをえないので︑

まず用語の問題としていえば︑

A

説はさておいて︑

D

説を採るならばともかく︑

B

︑ C ︑

E

説を採るならば︑アジ

ア的生産様式という言葉は不要であろう︒実際

E

説の論者によれば︑だからこそマルクスもこの言葉を使わなくなっ

たのだということになる︒せいぜい

B

説を採るならば奴隷制生産様式のアジア的形態︑ C 説を採るならば封建制生産

様式のアジア的形態といえばよいのであって︑あらたにアジア的生産様式という概念を重ねて構築する必要はないで

あ ろ

う ︒

第 二

に ︑

︵ 七

0 )

( 12 )  

マルクスの著作の合理的な解釈としては︑

E

説に説得力があるように思われる︒しかし

E

説もいわゆる総

体的奴隷制概念とその歴史的存在まで否定するわけではなく︑それを奴隷制の一形態として承認する︒したがって最

も有力視されている

B

説との差は実質的にないともいえるように思われる︒その差はマルクスの文献的解釈の違い︑

ないし言葉の違いにすぎないともいえるのである︒

第三に︑論者のなかにはアジア的生産様式を東洋的専制主義と等置する議論をする者もいるようであるが︑これは ごく簡単に印象めいたことを記しておくことにする︒

関法第四六巻第四・五・六号

六 八

(12)

②アジア的生産様式国家論の現代的意義 とになったといえそうである︒

六 九

( 13 )  

概念の混乱であろう︒生産様式は国家形態と次元を異にするカテゴリーとされているはずである︒

第四に︑最も重要なことは︑概念がどれだけ事実をとらえているかということである︒石母田正は︑第一次のアジ

ア的生産様式論争を次のように評価している︒﹁インドから中国・蒙古の高原を経て日本にいたる広大なアジアが︑

原始︑古代︑中世にわたって︑論者の掌中で自由にされ︑あらゆる範疇や概念が駆使され︑実体のない法則が立てて

( 14 )  

はくつがえされ︑あげくの果てにはマルクスの典拠の訓古学的な解釈にさえ堕しはじめました﹂︒小谷注之は︑第三

次の論争に関して︑かつての石母田の言葉を引きながら︑﹁復活した﹃アジア的生産様式論争﹄はこのような現実の

( 15 )  

アジア社会から遊離して観念化していく傾向から自由でありえているだろうか﹂と問い︑さらに論争が﹁実は粘土の

( 16 )  

足をした巨人にすぎないのではないか﹂と批判的に問いかけている︒

( 17 )  

のアジア社会認識の限界は小谷によって指摘されている︒もとより︑

様式の残滓を探し求めることができないからといって︑さらに遡る過去にもそれが存在しなかったとまではいえない︒

したがって︑諸学説はこれで完全に破綻したというわけではなく︑あらためて実証を待っべき多くの問題を抱えるこ

アジア的生産様式概念の意味をめぐって諸説が対立し︑﹁とくに日本の古代・中世社会への適用の問題については︑

( 18 )  

今後の研究と論争にまたなければならない状況にある﹂とすれば︑アジア的生産様式国家論の現代的意義を考えるた

めの論理的前提が調っていないことになるが︑

憲法科学研究序説 いずれの説に立つにしても共通の問題となる点もある︒ここでは方法

︵ 七

七 一

一九世紀のインド社会にいわゆるアジア的生産 一九世紀インドに対する誤解に基づくマルクス

(13)

晶 は

︵ 七

七 二

︶ まずかつての象徴的と思われる見解をいくつか振り返ってみよう︒たとえば羽仁五郎は︑東洋の資本主義形成の歴 史的理解のために避けられない歴史的問題として﹁東洋における前資本主義社会の特質︵まさにそこにアジア的生産

( 19 )  

様式の問題︶﹂があり︑﹁歴史的条件としてのアジア的生産様式の問題を抹殺してしまうことは︑歴史的事実に不忠実

( 20 )  

とされねばならぬ﹂とし︑アジア的生産様式の問題が﹁近代においては︑東洋社会の近代化の困難の問題において︑

( 21 )  

われわれの問題となっている﹂としている︒第三次の論争に関心を寄せた本田喜代治は﹁日本では天皇制というもの

( 2 2 )  

が︑どうして︑こういつまでも︑根づよくつづくのだろうか?その物質的な根拠は何なのか?﹂という問題意識か

︑ ︑

︑ ︑

︑ ︑

︑ ら出発し︑アジア的生産様式が﹁奴隷制︑封建制︑資本制のどの段階でも︑全発展を通じてくり返し再生産される﹂

( 23 )  

とみ︑﹁現在のわが国︑民主革命の前進を阻むものの真の姿がそこにあると信ずるものである﹂と述ぺている︒吉田 アジア的生産様式を特定の歴史段階に存在したそれと形態としてのそれとに区別するという立場をとり︑﹁段 階としてのアジア的生産様式の解体した後においても︑階級関係のアジア的な形態はどのようなかたちで残存し︑と

( 24 )  

くに現代においてどのような人民抑圧の機能を果たしているのか﹂という課題に答えることがアジア的生産様式を検

( 25 )  

討する現代的意義であるとし︑﹁今日における軍国主義の社会的基盤ともなっている︑日本社会の前近代的構造﹂を

一概にいえないにしても︑多くの論者は︑当面している日本社

会の状況にアジア的停滞を看取し︑その原因をアジア的生産様式ないしその上に従え立っていた東洋的専制主義の残 以上のようないわばアジア的生産様式論的視角からの現代日本社会

11

国家認識に対しては︑現存するアジア的生産 滓に求めようとしているようである︒ 明らかにすることが具体的な課題であるとしている︒ 論的な問題を主として検討してみることにする︒

関 法 第 四 六 巻 第 四

・ 五

・ 六 号

七 0

(14)

( 26 )  

様式が何なのかを明確にしないかぎり無意味だとする批判がある︒言葉の意味は区々にせよ︑それぞれの論者がいう

ようなアジア的生産様式や東洋的専制国家の何らかの構成要素が歴史的に連綿と今日まで残存し影響しているなどと

いえるのかは︑たしかに大いに疑問である︒国家的封建制なるものの残滓は一体どこにみられるのか︒いわんや古代

奴隷制に先立つ最初の階級社会なるものや総体的奴隷制の名残が今日どこにあるというのであろうか︒

そのようなものをたとえ従属的なウクラードとしても見出すことはできないであろう︒それゆえかどうかはともか

く︑アジア的生産様式の残存というよりもむしろ︿アジア的なもの﹀の残存という言説がポピュラーになっているよ

うに思われるが︑この︿アジア的なもの﹀は︑︿西欧的なもの﹀︑︿近代的なもの﹀と同様に観念化・抽象化されてし

まっていて︑内容が空疎になっている︒﹁中央集権や人民の無権利をアジア的生産様式とイコールにおくことができ

( 27 )  

るのだろうか﹂という批判はもっともである︒

たとえばヨーロッパですでに達成されていることが日本でまだ果たされていないとき︑その状態を遅れと呼ぶこと

は不当ではないであろう︒問題は︑その遅れの原因を唐突に古いものの残存に求めることにある︒たしかに古い観念

が新しい時代に引き継がれたり︑呼びさまされたりすることは珍しくない︒しかしそのことから社会構造の古さを指

摘するのは論理的飛躍である︒新しい社会構造は古いものを加工して自らのうちに組み込む︒それを古いものの残存

と呼ぶかどうかは言葉の問題ともいえる︒しかし︑それをさらに古い社会構造のなにがしかが根強く残っているとみ

るならば︑新しい社会構造の特質を見失うことになるであろう︵過渡期の社会は別である︶︒

現代日本国家がヨーロッパの先進資本主義国家にない特徴をもっていることはたしかである︒たとえば一九世紀に

王制と決別したフランスに対して︑現代日本国家は象徴天皇制を維持している︒これはフランスに対する日本の遅れ

憲法科学研究序説

︵ 七

七 三

(15)

︵ 七

七 四

といってもよいであろう︒しかしアジア的生産様式の残存からそれを説明するのはどうしても無理であろう︒日本国

憲法の文言と実態に大きな乖離があることは事実である︒しかしそれだけでは東洋的専制国家の名残とするわけには

いかない︒ごく抽象的にみれば類似点を指摘できるとしても︑抽象的なレベルで同一性を指摘するのであれば︑みら

れるのはなにも東洋的専制国家の名残に限られないであろう︒事物の抽象的な同一性からその発生根拠の同一性まで

ミアイユは︑﹁アジア的生産様式の国家はプレーキをもたない権力をもつ中央主権化された真の装置を形成﹂し︑

( 28 )  

その官僚制は﹁現代の官僚制とひけをとらない﹂としつつも︑﹁現代官僚制をアジア的生産様式の官僚制と同一視す

( 29 )  

ることは無意味である﹂と適切に指摘している︒それではアジア的生産様式の時代から今日までの歴史的展開を軽視

( 30 )  

することになり︑工業化のインパクトを忘れることになるからである︒ミアイユによれば︑﹁アジア的生産様式は︑

これを非商業的でまだ生産力がわずかしか発展していない農業社会のために使うという条件でのみ︱つの社会を説明

( 31 )  

しうる︒この言葉は︑今日の世界の工業化した社会あるいは工業化しつつある社会には妥当しえないであろう﹂とい

う︒生産力の低い農業社会に妥当するかどうかは︑アジア的生産様式概念の内容の実証を待っべき問題であるにして

も︑﹁今日の世界の工業化した社会﹂に妥当しないことはたしかであろう︒結局︑

制国家なるものが実証されたとしても︑それは現代日本社会

11

国家にとって比較の対象︑それも近接比較でなく遠隔

比較の対象となりうるにすぎないであろう︒その比較は︑類似点と相違点の洗い出しを通じて︑現代日本社会

11

国家

の認識を深めることができれば︑有意義なものとなるであろう︒ 結論することはできない︒

関法第四六巻第四・五・六号

アジア的生産様式ないし東洋的専

(16)

義概念の意味を問題としなければならなくなるのである︒ ﹁

大 日

本 帝

国 憲

法 は

戦前天皇制をどのように認識するのか︒これは戦後の象徴天皇制の認識にとって避けられない前提問題と考えられ てきた︒また日本国憲法の国民主権の認識にとってもそうであると考えられてきた︒すなわち戦前から戦後にかけて 天皇制はどのように変わったのか︑戦後の国民主権は戦前の天皇制

11

天皇主権とどう違うのか︑というように歴史的

な比較によって戦後の国民主権・象徴天皇制を認識するために︑戦前天皇制の認識が問われてきたのである︒

それでは︑戦後憲法学の戦前天皇制国家認識はいかなるものであるか︒たとえば小林直樹は次のように論じている︒

一面において近代憲法の諸制度を採り入れながら︑その中核においては神勅主義に基づく絶対

( 32 )  

主義的な天皇制を基盤とした︑欽定憲法であった﹂︒同じく小林は絶対主義の意味について次のように論じている︒

﹁絶対君主制は︑君主が他の機関の拘束なしに︑自己の単独意思に基づいて統治をおこなうような︑絶対制の理念に

( 33 )  

近いものをいう﹂︒つまり︑小林によれば︑戦前天皇制は︑天皇が他の国家機関に拘束されることなく単独で統治す る絶対君主制であったということになる︒小林の認識がこれに尽きるものでないことはいうまでもない︒またこれが 今日の代表的な認識といってよいかどうかも問題となりえよう︒戦後憲法学は︑すでに膨大な天皇制研究を積み重ね ている︒しかしながら︑日本国憲法の国民主権原理・象徴天皇制と大日本帝国憲法の天皇主権原理との相違を表象す る際︑戦前天皇制が絶対君主制と規定されることが少なくないことはたしかなように思われる︒したがって︑絶対主

憲 法

科 学

研 究

序 説

絶対主義国家の意味

︑ 絶 対 主 義 国 家 論 の 問 題

︵ 七

七 五

(17)

一般に憲法学上概念規定を行う場合に︑それは憲法解釈学の次元と憲法科学の次元という二つの次元で問題になり

うる︒したがって同一の言葉に異なる次元で異なる意味を含ませることも論理的には可能であり︑ときには必要であ

ろう︒しかしながら︑絶対主義という言葉に関してはそのような使い分けをするべきではあるまい︒この概念は憲法

解釈の対象となるような法文上の文言ではなく︑まずもって憲法科学上のカテゴリーだからである︒解釈論上︑絶対

主義カテゴリーは︑国民主権や人権尊重主義の意味を浮き彫りにするために対比的に用いられる︒しかしそのような

用い方にすぎないからといって︑解釈論上の便宜から絶対主義カテゴリーをいちじるしく単純化したり曖昧にしたり

するならば︑かえって対比の効果が減少してしまうであろう︒またそのような虚像と実像の対比を行うことは︑いわ

ゆる懲罰史観的な戦前天皇制認識だとする批判にも耐えられないことになろう︒したがって絶対主義カテゴリーの厳

絶対主義を﹁法から解放された君主

(p ri nc ep s le gi bu s  a bs ol ut us

)

﹂と規定するのは︑解釈論上の言葉の問題にす

ぎないようにみえるが︑以上のような問題をはらむ︒そのような規定だけでは︑トータルな歴史認識として不十分な

ことはたしかであろう︒なぜいかにしてかかる君主制国家が登場したのか︑その存在構造はいかなるものか︒このよ

うな問題を放置したまま︑右のように一言で絶対主義を説明するにとどまるならば︑はなはだしく厳密さを欠くこと

になる︒かりに言葉の簡潔な定義としてはそれでよいとしても︑そのベースにあるはずの歴史認識

1

それはいうま

でもないほど明白というわけではないーを明らかにしておかなければならないであろう︒

ところで︑絶対主義の国家構造・社会構造に関しては歴史学においてすでに多くの検討がなされている︒ここでは

そのなかのいくつかの見解を参考にしつつ絶対主義論の歴史理論的な問題点を点検してみる︒ 密な規定は︑憲法解釈上も憲法科学上も必要である︒

関法第四六巻第四・五・六号

七四︵七七六︶

(18)

がら古典的絶対主義論の問題点を整理してみよう︒

七 五

まずエンゲルスは︑たとえば次のように述べている︒﹁国家は階級対立をおさえつける必要から生じたものである

から︑だが同時にこれらの階級の衝突のまっただなかに生じたものであるから︑国家は︑通例︑もっとも勢力のある︑

経済的に支配する階級の国家であって︑この階級が国家を媒介として政治的にも支配する階級となり︑こうして被抑

圧階級を制圧し搾取するための新しい手段を手に入れるのである﹂︑﹁とはいえ︑例外として︑闘争する諸階級が互い

にほとんど力の均衡をたもっているので︑国家権力が外見上の調停者として一時的に両階級にたいしてある程度の自

立性を得る時期がある︒たとえば︑貴族と市民層とを互いに均衡させている一七世紀と一八世紀の絶対君主制がそれ

であ︹糾︺﹂︒エンゲルスの絶対主義論そのものは︑みられるようにごく簡潔に示されているにすぎない︒マルクス・

エンゲルスの断片的な絶対主義論を総合したといわれることがあるカウッキーは︑より詳細に次のように論じた︒

﹁絶対主義︑それはすなわち国家権力が支配階級から独立していることを意味し︑そのなかでは国家権力が直接に階

級支配の道具ではなくて︑むしろ一見すると諸党派および諸階級を超えた一の独立した存在をなす国家形態なのであ

るが︑これは︑社会的な生活において決定的な役割を演じる諸階級の個々のものが相互に均衡を保ち︑こうしてどの

階級も国家権力を自己の手中に奪いうる程強くない場合にだけ形成されうるのである︒このような状況のもとでは国

家権力は︑既存のすべての階級を他の階級によって追いつめ︑それら全階級にあらゆる休戦︑政治的闘争の停止を命

( 3 5 )  

じ︑それらをすべて自分に服従させることができるのである﹂︒右の両者の言説は︑絶対主義の古典的定式として必

ずといってよいほど挙げられるが︑これに対してはすでにさまざまな鋭い批判が加えられている︒それを参考にしな

第一に︑従来頻繁に問題視されてきたのが︑古典的絶対主義論による階級均衡論的把握である︒たとえば︑遠山茂

憲法科学研究序説

︵ 七

七 七

(19)

︵ 七

七 八

樹によれば︑﹁カウッキー的規定

1

階級均衡ーー'﹂は︑﹁できあがった絶対主義の静態分析として︑ある程度の説明

( 36 )  

とはなっても︑絶対主義の成立過程を歴史的に発展的に理論づけるものとしては︑不適当である﹂といわれる︒階級

均衡論では絶対主義のダイナミズムが正確に説明できないという趣旨の批判である︒たしかに一見もっともな批判で

あるが︑この批判においては﹁均衡﹂というカテゴリーが明確にされていないために︑いささか的外れな批判にとど

まっているようにも思われる︒いわゆる階級均衡論として批判されている理論が︑均衡カテゴリーを静止状態︑ある

いは運動の完全停止状態︑より厳密にいえば矛盾の解消という意味で用いるならば︑批判を免れないであろう︒しか

しながら︑たとえばエンゲルスが﹁闘争する諸階級﹂の﹁力の均衡﹂と述べているように︑階級均衡論がすべて単な

る静態的説明に終始しているわけではない︒エンゲルスが示唆するように︑階級均衡論が﹁均衡﹂を矛盾の解決形態

として把握しているとすれば︑そのかぎりでは絶対主義国家を固定的にとらえているとはいえず︑その内的動因を無

視してはいないことになる︒不断にせめぎ合う力と力とが均衡することがあっても︑それは変動と同じく︑けっして

( 37 )  

神秘的なことではあるまい︒批判的見解が均衡の側面を無視ないし軽視したり︑均衡そのものをありえないことであ

るかのように決めつけたりするならば︑むしろそれこそ逆の一面化といわなければならないことになろう︒

ただし︑古典的絶対主義論が絶対主義のダイナミズムを見失っているとは一概にはいえないにしても︑この歴史理

論には別の面で問題があるといえる︒すなわち︑第二に絶対主義国家権力が﹁外見上の調停者﹂

11

超階級的存在とし

て現れると説明されている点が問題である︒というのは︑ 一見超階級的な国家権力といっても︑そのような外観は別

( 38 )  

段特殊なものではないからである︒調停者的外見はどんな国家権力にも備わっているのではないか︒そうすると︑超

階級的な外見が均衡によって説明できるのかも疑問となってくる︒また︑身分制を維持する絶対主義国家は︑むしろ

関法第四六巻第四•五・六号

七 六

(20)

相対的には一見して階級的な権力と規定するほうが適切なくらいではないかと思われる︒

第一︳一に︑古典的絶対主義論が︑絶対主義国家を例外国家と規定している点が問題となるであろう︒絶対主義国家の

例外性とは︑﹁国家の階級的性格についての純粋型﹂すなわち古代奴隷制国家︑中世封建制国家︑近代資本主義国家

( 39 )  

に対する例外的性格のことつまり﹁純粋に︑封建貴族独裁﹂でないことと解される︒しかし現実の国家はいずれも多

かれ少なかれ﹁不純﹂ではないか︒国家は正統性を社会から調達するために超階級的な国家イデオロギーをまとうが︑

その超階級的外見は単に力によって強制するだけで維持できるものではなく︑

( 40 )  

で欺腑的なものにすぎないことはともかくーを欠かせない︒多かれ少なかれ﹁不純﹂な現実の国家一般は︑した

がってーー大づかみにいうならば別として

1

文字どおりに単一の階級的利害に奉仕しているわけではない︒そうだ

とすると︑絶対主義国家ははたして例外的なのかどうかが問題となるであろう︒

七 七

第四に︑第一点および第三点に関する問題である︒すなわち古典的絶対主義論が絶対主義国家の例外性の根拠を階

級間の均衡の例外性に求める点が問題である︒第一点に関して述べたように︑均衡状態とは矛盾の解決形態であり︑

そこには変動の要因が内在している︒では均衡状態という力関係の変動とはいかなるものか︒それには︑力関係その

ものをなくしてしまう矛盾の解消ばかりでなく︱つの均衡から別の均衡への移行すなわち矛盾の新たな解決形態への

移行もある︒そうすると︑およそ力関係というものは均衡関係であるということになる︒したがって均衡状態という

のは多様であり︑力関係によってシフトする均衡点の位置の違いによって当該均衡状態の全体的な性格が規定される

といえる︒以上をふまえていえば︑階級均衡という事態も別に例外ではないということになる︒古典的絶対主義論は︑

絶対主義国家の例外性の発生根拠として階級均衡の例外性をいうのであれば︑その均衡が︑多様な均衡がありうるな

憲法科学研究序説

︵ 七

七 九

一定の物質的裏付けーーそれが不充分

(21)

が で

き よ

う ︒

( 2 )   めに引かれる︒ かでいかなる意味において例外かを明確にしなければならないはずである︒

0 )

第五に︑絶対主義国家権力の絶対主義的性格なるものが問題である︒絶対君主を﹁法から解放された君主﹂と規定

するのは︑法学者に限ったことではない︒また︑﹁朕は国家なり﹂というフレーズもしばしば絶対主義を形容するた

フリッツ

1 1

ハルトゥングによれば︑﹁一般にこの言葉は︑純粋に君主個人の恣意的で︑国家全体の利

( 41 )  

益をあつかましくも否認し去るような︑独裁政治の表現だと見なされている﹂︒約五

0

年前のハルトウングの指摘は︑

今日の日本においてなお少なからず当てはまるように思われることがある︒しかし︑いわゆる絶対主義国家の君主権

力は実際にそのような意味で絶対的なものであったのか否かは︑古典的絶対主義論によって問題にされていないよう

に思われる︒およそ統治機構をトータルに認識するためには︑その理念のみならず︑制度と運用の分析にまで進まな

ければならないはずである︒そして︑そのような分析は︑つとに進んでおり︑古典的絶対主義論が自明視していたか

にみえる君主の絶対的権力という歴史像の修正を迫っているのである︒そこで︑以上の問題点を史実に照らして検討

する必要がある︒このような課題は︑以上の検討にもまして筆者の手に余るものであるが︑次にいくつかの先行業績

を参考にしながら︑古典的絶対主義の一っとされるフランス絶対王制の構造を概観することにする︒

フランス絶対主義国家の構造

フランスのプルボン王朝の権力は︑イギリスのチューダー王朝およびステュアート王朝のそれと並ぶ古典的な絶対

主義権力とされている︒このフランス絶対主義国家の構造を概観することによって古典的絶対主義論を検証すること

関 法 第 四 六 巻 第 四

・ 五

・ 六 号

(22)

五九四年ー一六一

0

年 ︶

は ︑

で あ

る ︒

フランスの絶対君主制

( m

o n

a r

c h

i e

a b s o

l u e )

 

カ ペ ー 王 朝 初 期 ︑

七 九

一 六

世 紀

半 ば

以 降

フランスは

一 四

は︑封建君主制

( m

o n

a r

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f e o d

a l e )

から制限君主制

( m

o n

a r

c h

i e

t e

m p

e r

e e

)

を経て現れる君王制の完成形態である︒まずその成立の経緯をごく大雑把にみておく︒

( 42 )  

フランス国王は大諸侯の割拠状態に埋もれ︑﹁名ばかりの王﹂にすぎなかった︒しかし︑

紀末頃から始まる封建危機とともに領主勢力は弱体化してゆく︒

一 三

一三三九年ー一四五三年の百年戦争は︑それにいっ

そう大きな打撃を与える︒その一方で国王は常備軍を形成し︑都市勢力に特権を与えてその支持を得た︒弱体化した

領主勢力は一︳︱‑五八年のジャックリーの反乱に代表される農民反乱にも苦しめられ︑国王への権力集中をある程度必

( 4 3 )  

要と考えざるをえなくなった︒かくしてフランスは制限君主制期を迎える︒

( 44 )  

エスマンによってフィリップ四世からアンリ四世までとされる制限君主制期(︱二八五年ー一六一

0

年︶は︑けっ

して一色で描くことができる時代ではない︒この歴史段階は︑次の絶対君主制が整備されてゆく長期の過渡的な段階

フランス国家の統一は︑

( 45 )  

フィリップ四世治下︵︱二八五年!‑=二四年︶に緒につき︑ルイ︱一世︵在位︑

一年ー一四八三年︶時代に完成した︒ルイ︱一世は続くシャルル八世︵在位︑

世 ︵

在 位

一四九八年ー一五一五年︶

憲法科学研究序説

一 四

八 三

年 ー

一 四

九 八

年 ︶

( 4 6 )  

とともに﹁絶対王政の第一歩を確実にした﹂︒

宗教戦争に揺れ動く︒その間王国は無政府状態に陥ったわけではないが︑王権は弱体化した︒アンリ四世︵在位︑

一五九八年ナント勅令を発布して宗教戦争に終止符を打ち︑弱体化した王権の強化を

( 47 )  

図った︒アンリ四世は︑﹁プルボン絶対王政の基礎固めに成功した﹂とはいえ︑彼自身の暗殺が象徴するように︑国

①フランス絶対主義国家の統治形態

ル イ

︱ 二

(23)

絶対王制の整備は徐々に進んでゆく︒シャルル七世︵在位︑ 世は一度もこれを召集しなかった︒ 三

部 会

は ︑

一四二二年ー一四六一年︶は︑官僚制の整備や財政改 一五世紀後半以降絶対王制が整備されてゆくとともに

︵ 七

八 二

︶ ごく大雑把にいえば︑この制限君主制段階において︑王権は︑﹁変形した封建制の残り﹂すなわち﹁王権自身に

( 48 )  

よって創設されながら特権を得ていて政治的な行動をとる団体﹂によって制限されていた︒全国三部会︑地方三部会

(E ta ts   pr ov in ci au x)

︑特権都市︑聖職者会議

(a ss em bl ee ds u  c l er g

e )

︑パルルマン︑最高諸院

(c ou rs so uv er ai ne s)  

同時に制限君主制期は︑かかる機関による制限が王権によって徐々に弱められてゆく過程でもある︒たとえば全国

フィリップ四世がニ︱

1 0

二年教皇ボニファティウス八世との抗争中に国民の支持を調達するために開いた のが最初とされる︒全国三部会の主要な機能は︑国王課税に対する協賛や重大な外交問題︑国内紛争に関して国王か ら諮問を受けることにあった︒全国三部会はこのような協賛機関ないし諮問機関にすぎないが︑王権はその協賛を得 ないかぎり重大な政治的危機を乗り切ることができなかった︒

全国︱︱一部会は存在理由を失ってゆく︒宗教戦争の間︑全国三部会は何度も召集され︑王権も弱体化したが︑

アンリ四

革︑常備軍設置によって王権を強化した︒ルイ︱一世は度量衡を統一したり︑郵便制度を創設したりした︒シャルル 八世・ルイ︱二世時代には地方的慣習法の絹纂事業︑裁判制度の改革︑治水・道路の整備︑通交税の廃止などが行わ

( 49 )  

れた︒アンリ四世時代には︑

一 六

0

四年にいわゆるポーレット法が制定され︑官職の売買と世襲が認められた︒これ

によって行政機構はそれまでの貴族身分による独占から解放され︑新興の都市プルジョアジーが王国の官職に上りつ などが︑この王権をチェックする機関である︒ 内体制はなお不安定であった︒ 関法第四六巻第四・五・六号

八〇

(24)

れた︒ルイ一四世︵在位︑ 一六四三年ー一七一五年︶は︑

d e

s   n

o t a b

l e s )

も一六一七年︑ 一六二六年ー一六二七年に開かれて以後︑

一六六七年 一七八七年まで開かれなかった︒課税同意

一 六

0

年ー一六四三年︶以降が絶対君主制時代である︒

この歴史段階もいくつかの小段階に区分されようが︑ここでそれを詳細にフォローすることはできない︒絶対君主制

の統治形態の特徴を若千指摘しておくにとどめる︒まず全国一ー一部会は一六一四年を最後に開かれなくなった︒それが

再び開かれるのは一七八九年であるから︑事実上の廃止に等しかった︒国王の諮問機関であった名士会

( A

s s

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b l

e e

権と徴税権をもつことによって王権を制限していた地方三部会は︑一六二九年のいわゆるミショウ法典

( C

o d

e

( 51 )

5 2

)  

M i

c h

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)

によって正式に立法化された地方監察官制にとって代わられてゆく︒売官制は絶対君主制の成立を促進し

( 53 )  

たが︑これによって新たに形成された法服貴族がカースト化し︑王権と対抗するようになる︒そこでミショウ法典は︑

パルルマンに同一家系の者が多数入ることを禁止して閥族の形成を防ぎ︑国王への諌奏権を制限した︒パルルマンは

この法典の適用を拒否したが、国王任命の地方監察官が司法・行政・軍事•財政にわたる広範な権限を与えられるこ

( 54 )  

とによってパルルマンにとって代わることになる︒

ルイ一三世期には国王統治の最高指導機関として最高国務会議

( C o n

s e i l

d '

e n

  h a u t )

が確立され︑宰相制が導入さ

一六六一年に宰相制を廃止し︑親政を開始する︒最高国務

( 55 )  

会議は親政の支柱となり︑その下に各種の国務会議が整備され︑官僚機構も整備された︒ルイ一四世は︑

および一六七三年の改革で︑パルルマンに勅令の登記を義務づけ︑登記前の諌奏を禁じた︒これによって事実上諌奏

権はパルルマンから剥奪され︑勅令はパルルマンヘの登記後発効するとはいえ︑登記に至る手続上の障害はなくなる

憲法科学研究序説

︵ 七

八 三

暗殺されたアンリ四世の後を襲ったルイ一三世︵在位︑

( 50 )  

めてゆく道が開けた︒

(25)

関法第四六巻第四•五·六号 ( 56 )  

ことになった︒宗教戦争時代に混乱した軍制は︑

ァンリ四世以降︑再編・強化されてくる︒ルイ一四世の親政時代に は︑旧来の売官制士官と並んで国王任命の士官ポストが設けられた︒これによって軍の指揮系列が厳格化し︑徴兵制

( 57 )  

の先駆的形態としての民兵制によってフランスはヨーロッパ第一の陸軍国になった︒かくしてルイ一四世親政期にフ ところで︑絶対主義国家の統治形態の﹁絶対的性格﹂は︑今日のフランス憲法学においても︑法に拘束されない恣

意的な権力という意味で説明されることが珍しくない︒たとえばデュアメルとメニの編集した﹃憲法事典﹄によると︑

「より一般的には、主権がそれ以外の権力によって何らかの方法で制限されることを拒否する国家概念ー~たとえ民

( 58 )  

主的なそれでもを︽絶対主義的︾と呼ぶ﹂︑あるいは﹁国家元首の権力が憲法の制限を被らない場合︑君主は絶

( 59 )  

対的であった﹂とされている︒たしかに封建君主制︑制限君主制を経て絶対君主制へと至る過程は︑国王への集権化 の過程であることに違いないといってよいであろう︒全国三部会が一六一四年以降一七八九年まで開かれなかったこ

とや地方監察官制が展開されたこと︑ ランス絶対主義国家は完成した︒

ルイ一四世によるパルルマンの諌奏権の事実上の剥奪などをもって集権化の完 成とみることもあながち不当ではないであろう︒しかしながら︑すでに示唆しておいたように︑絶対君主制を文字ど おりに法に拘束されない君主制と規定することはできない︒

第一に︑絶対君主は王国基本法

( l o i s f on da me nt al es ) 

によって拘束されていた︒王国基本法は慣習法で︑内容も 変遷し︑確認が困難なものも多いが︑王国基本法とみなされる規範によって︑国王といえども王冠領を譲渡すること

( 60 )  

と王位継承のルールを変えることはできないことになっていた︒王国基本法は﹁フランス人の穏健な自由

(h on ne te ( 61 )   l ib e r te   de s  F r a r n

; : a i

s )

﹂と呼ばれる市民の人格や財産の尊重に関する﹁私法的要素﹂も含んでいた︒慣習法としての

(26)

王国基本法の拘束力はアンビヴァレントである︒もちろんそれを過大評価することはできない︒明確なサンクション

がなく︑国王は王国基本法を自ら遵守することを期待されるにすぎないからである︒この点からすると︑王国基本法

による絶対君主の拘束は外見的なものないしは道義的なものにすぎないということになり︑その意味で国王は法から

自由だといえそうである︒また︑そもそも王国基本法は︑当該国家社会秩序の維持をその本質的機能とするものであ

るから︑国王にとって基本法は栢桔ではなく︑それを遵守すること自体が拘束を要しなかったともいえそうである︒

他方で王国基本法の拘束力を単なる仮象の拘束力とみなすことはその過小評価となるであろう︒それではなぜそのよ

うな規範が存在したのかという問題が残るからである︒ミアイユは︑国王がその気になれば王国基本法を破ることが

できることから基本法の王権に対する制限が形式的なものにすぎないという議論に対して︑︿その気になればー﹀と

いう問題のたて方が︑そもそも国王を﹁超歴史的な意義をもち︑自分が支配する社会秩序を向こう見ずな行いによっ

( 6 2 )  

て問題にすることができる﹂かのように扱う非歴史的な思考だと批判する︒そうして次のように述べる︒﹁王国の基

本法がたとえ純粋に道徳的なものだとしても︑破られなかったとすれば︑社会システムが⁝⁝絶対的な権力のうわべ

の背後に根を張っていたのである﹂︑﹁したがって︑絶対主義国家を真に説明するためにはこの社会システムこそ明ら

( 63 )  

かにしなければならない﹂︒きわめて適切な指摘といえよう︒

第二に︑ルイ一四世期に全国三部会が事実上廃止されたことや地方監察官制度が整備されたことを過大評価するこ

ともできない︒それによって国王に対する規制力がなくなり︑国王を中心とする中央集権体制が貫徹したわけではな

いからである︒その背景には財政的困窮という絶対王制の根本問題があった︒戦争や宮廷の浪費が財政支出を大きく

( 64 )  

する一方で︑杜撰な徴税機構︑免税特権に保護された所有階級の抵抗のために収入には欠陥が生じた︒絶対王制はそ

憲法科学研究序説

︵ 七

八 五

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