• 検索結果がありません。

雑誌名 關西大學法學論集

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 關西大學法學論集"

Copied!
73
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

法律行為と憲法の第三者効力論 : 日本の憲法学は 憲法の私人間効力をどのように考えていくべきか(

一)

その他のタイトル The Juristic Act and the Third Party Effect Theory : On the Relation of Blanket Clause in Civil Law and Supreme Law I

著者 君塚 正臣

雑誌名 關西大學法學論集

巻 52

号 4‑5

ページ 1385‑1456

発行年 2003‑03‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/00023516

(2)

法律行為と憲法の第三者効力論

‑﹁弱い権利﹂同士の場合

日経済的自由同士のとき

口憲法一四条一項後段が列挙しない事由による差

別のとき曰そもそも憲法上の権利か疑わしいとき

二﹁弱い権利﹂と﹁強い権利﹂の場合

日経済的自由と生命・身体・健康権に関するとき

口奴隷的拘束からの自由に関するとき

曰経済的自由と憲法一四条一項後段列挙事由に基

づく差別に関するとき

国家族関係に関するとき

国経済的自由と精神的自由に関するとき

 

~ 三﹁強い権利﹂同士の場合

曰精神的自由同士のとき

口憲法一四条一項後段列挙事由に基づく差別に関

するとき

~

四その他の場合ーもしも﹁中程度の権利﹂という

概念があるとしたら

曰労働基本権と経済的自由に関するとき

口労働基本権と精神的自由・参政権に関するとき

曰憲法一三条に関するとき

日本の憲法学は憲法の私人間効力をどのように考えていくべきか

( ‑

︶ │

 

(3)

第五二巻四・五号

筆者はこれまで憲法の私人間効力論の再考を進めてきた︒通説・判例への疑問提起の後︑従来の学説︑及び最近の

学説を検討した結果︑特殊な問題への特殊な理論展開として考えてきたこれまでの考え方を改めるべきではないかと

いうことを示唆し︑若干の自説を展開してきた︒それは︑憲法の私人間効力論とは︑司法裁判所における私法の一般

条項の合憲解釈の問題であり︑上位法としての憲法が下位法である民法等の一般条項の解釈を拘束するという︑ごく

( 2 )  

一般的な法原則の一場面の問題であった︑というものである︒

そこで︑そのような考え方でよいのかをこの後︑より具体的に示していく必要があろう︒まずは︑これまで通常︑

﹁憲法の私人間効力論﹂の舞台となってきた法律行為︑特に公序良俗条項などについて検討する︒これまでの自説展

開によれば︑いわゆる二重の基準論はここにも貫徹され︑当事者間で問題となっている憲法上の権利が何か︑特にそ

( 3 )  

れが精神的自由か経済的自由かにより︑裁判所の一般条項解釈裁量の幅は大きく異なることになる筈である︒日本の

判例はそのように説明できるのであろうか︒また︑そのように考えることで問題は生じないか︒このことを立証する

( 4 )  

のが本稿の目的である︒このため︑一般条項の運用の議論を︑民法学の一般的な方法とは違えて︑いかなる憲法上の

( 5 )  

権利が引き合いに出されるかに焦点を当てて分析することにする︒

なお︑本稿では︑あえて便宜的に︑合理性の基準が適用されるべき諸権利を﹁弱い権利﹂︑厳格審査が適用される

( 6 )  

べき権利を﹁強い権利﹂などと表現する︒が︑このことは︑従来の直接効力説が意図していたような︑﹁強い権利﹂

と﹁弱い権利﹂が衝突する場面では前者が必勝という︑直接効力説的な議論とは一線を画している︒また︑諸権利の 関法

︵ ︱ ‑ ︱

‑ 八 六 ︶

(4)

社に求めたというものである︒ 間に実体的価値序列が必然的にあることも前提とはしていない︒以上の点を注意しながら︑論を進めたい︒

一般に︑合理性の基準が妥当するとされるものには︑経済的自由︑及び一四条一項後段列挙事由では

( 7)  

ない差別の場合が挙げられる︒これらをここでは﹁弱い権利﹂と呼んでおく︒

経済的自由同士のとき

﹁弱い権利﹂同士の争いとなる典型的な事例は︑やはり経済的自由同士の衝突のケースであろう︒このようなケー

( 8 )  

スは︑専ら民法の問題として処理され︑憲法学はこれを私人間効力の問題として採り上げてこなかった︒

( 9 )  

そのような典型例として宇奈月温泉事件がある︒この事件は︑日本国憲法施行前のものであり︑しかも戦後の民法

( 1 0 )  

改正により一条︱︱︱項に﹁権利ノ濫用﹂の禁止が加わる以前のものである︒即ち本判決は︑民法に内在する理論のみに

より︑権利濫用法理を導き︑財産権︵所有権︶に基づく主張を斥けた事例である︒事案は︑黒部鉄道株式会社の経営

する同温泉の湯は七•五キロメートルの引湯管により引かれていたが、原告がその引湯管が二坪かすめる一―二坪の

土地を取得し︑引湯管の撤去か︑さもなくばその土地を含む荒蕪地一︱

1 0 0 0

坪を二万円余で買い取ることを︑鉄道会

( 1 1 )  

一審に続き二審も︑引湯管の迂回には一万七

000

円の費用と二七

0

日という日数が

必要であり︑湯温の低下の恐れもあり︑工事中︑温泉経営が破壊されると集落の衰退を招くものであるのに対して︑

原告所有地地価は引湯管施設部分では五銭ないし六銭︑総額でも一︱

1 0

円にしかならないものであって︑土地購入時に

﹁弱い権利﹂同士の場合

(5)

次に︑民法一条二項の信義誠実の原則の適用が問題となった事案としては︑農地法三条の許可申請協力請求権につ を受けることも確認せねばならないと思える︒

第五二巻四・五号

三八〇

引湯管があることは原告も熟知していたことなどから︑原告の請求は権利濫用に当ると判断し︑原告の訴えを棄却し

たのであった︒大審院も︑﹁所有権二対スル侵害﹂に対して﹁所有者ハ斯ル状態ヲ除去又ハ禁止セシムル為メ裁判上

ノ保護ヲ請求シ得ヘキヤ勿論﹂ではあるが︑このように﹁斯ル事実アルヲ奇貨トシテ不営ナル利得ヲ図リ殊更侵害二

関係アル物件ヲ買収セル上﹂︑最終的には﹁一切ノ協調二応セスト主張スルカ如キ﹂者には﹁真二権利ヲ救済セムト

スルニアラス﹂︑即ちこれは﹁権利ノ濫用二外ナラ﹂ないと判示したのであった︒

( 1 2 )  

﹁権利濫用の禁止﹂は︑第二次大戦後に明文の規定を得ると︑その法理の適用範囲は著しく広がっていく︒﹁権利

( 1 3 )  

濫用の禁止﹂法理には︑不法行為的機能︑規範創造的機能︑強制調停的機能があるとされる︒しかしこのうち︑不法

行為的機能は単なる不法行為の問題として処理されるべき事案で用いられたものであり︑規範創造的機能は過渡的に

( 1 4 )  

用いられるべきであるとの指摘もある︒第一ー一のものも︑機能として是認されるが︑判決文において﹁国民経済的利

益﹂などの文言が用いられていたとしても︑そうした事件もあくまでも当事者間の利益の争いであり︑民事事件の一

( 1 5 )  

つであることには注意すべきであろう︒戦後の例としては︑対抗力を具備しない土地賃借人に対する新地主の明渡請

( 1 6 )  

求が権利濫用であるとされた判例がある︒また︑自動車ローンが一部未払のため︑所有権留保により自動車の引き渡

( 1 7 )  

しが請求された事例で︑これを権利濫用とした判例なども著名である︒憲法学界では私人間効力論と言えば民法九〇

( 1 8 )  

条ばかりが浮かびがちであるが︑民法の一般条項としては一条などの存在も忘れるわけにはいかないのである︒本条

も一般条項であり︑その活用が慎重であること︑﹁権利濫用法理の濫用﹂の禁止は求められるが︑同時に憲法の拘束 関法

(6)

( 1 9 )  

0

年の消滅時効を援用することが︑権利濫用に当るとされた事件がある︒家督相続により全財産を取得した長

男が︑母親と折り合いが悪く︑別居し︑四男がこの母親と四女らと同居した︒家庭裁判所の調停の結果︑長男も四男

に山林を︑母親に農地を引き渡した︒後に四男は山林を四女に再譲渡した︒母親が長期耕作を続けてきた農地の所有

権名義を︑四女が山林の名義をそれぞれ自分に移そうとしたところ︑長男は︑農地の贈与はいわゆる隠居面であり︑

母親の死亡後は自らに返還してもらう趣旨のものであると主張︑農地と山林の移転登記の求めに対して︑許可申請協

力請求権の消滅時効を援用して対抗した事案である︒最高裁は︑母子間で土地の譲渡がなされ︑既に母親らが所有権

を時効取得している中で︑長男が消滅時効を援用することは母親らを困惑させるだけで何らの利益も有しないことを

理由に信義則違反及び権利濫用を認め︑その訴えを斥けたのである︒

( 2 0 )  

そして民法九

0

条の公序良俗条項が用いられた例としては︑戦前︑過大な賠償額を予定した事案などがある︒戦後

( 2 1 )  

の例としては︑非公認市場における金地金の先物取引の委託契約の例などが挙げられようと思う︒金地金の売買を営

む会社の従業員が︑商品取引の知識のない主婦に引き続き三時間以上の勧誘を続け︑その取引の投機性や危険性を説

明せず︑逆に安全有利な取引であることを強調したことなどが﹁著しく不公正な方法によって行われた﹂取引である

( 2 2 )  

と解され︑公序良俗に反し無効とされたのである︒一九七八年の仮登記担保法制定前の代物弁済予約などによる暴利

( 2 3 )

2 4 )

 

行為もここに含まれよう︒また︑割賦販売法などの制定前の諸々の悪徳商法の事例もここに含まれよう︒これらの暴

利行為に関する事案は︑それによる身体への危険も含まれるかもしれないが︑前面に現われた利益が経済的なもので

( 2 5 )  

ある事案である︒これらもまた専ら私法判例として認識されてきたのである︒

( 2 6 )  

以上の場合が︑憲法の私人間効力の問題として採り上げられてこなかったことは︑なるほど頷けるものがある︒宇

︵ ︱ ‑ ︱

‑ 八 九 ︶

(7)

口憲法一四条一項後段が列挙しない事由による差別のとき 第五二巻四・五号

0)

奈月温泉事件の被告は︑鉄道と温泉という地域経済の生殺与奪の権を握る︑言わば小さな独占資本であったが︑この

( 2 7 )  

ようなものを﹁社会的権力﹂と見倣して憲法の拘束を被せるような議論は︑戦後の議論としてもまず見ない︒他方で

戦後憲法学は一般に︑財産権は価値序列上低位の人権であるとして︑よほどの場合以外はその侵害が人権侵害とは評

( 2 8 )  

価してこなかったため︑ここで憲法を援用する意味はない︒そこで︑これらを民法解釈による解決に委ねてきたと思

われる︒しかし問題は財産権の価値の高低自体にあるのではなかろう︒確かに日本国憲法は現代憲法であり︑財産権

の絶対を前提とはしていない︒だが財産権が低価値になっているわけではない︒憲法は︑経済的自由に関しては政治

( 2 9 )  

部門の判断を重視すると共に︑裁判所によるその法律の解釈の余地を広く認めたと解すべきなのである︒そこで︑私

法の一般条項をこの場面で比較的自由に活用することは許容されていることになろう︒もしもその運用に問題がある

と立法府が考えたとすれば︑立法府が広い立法裁量の下︑新たな立法を行えばよいと思われる︒そして︑裁判所がそ

れを違憲とすることは︑殆ど予定されていないのである︒この意味で︑経済的自由は﹁弱い権利﹂というよりも︑そ

の内実が立法府に委ねられた︑合憲性の推定のより働く権利であると表現する方が適切である︒私法条文を憲法が拘

( 3 0 )  

束しないと考えるのは誤りであるが︑裁判所が経済的自由に関してそう考えることが有意な場面は稀有であろうこと

も容易に想像でき︑これらの事例は専ら民法判例として理解されてきたのである︒

憲法一四条一項列挙事由以外のケースでの平等の主張は︑殆どの事例でなし得るかもしれない︒しかし︑このよう

な事由により差別されない権利もやはり﹁弱い権利﹂に属し︑広汎な立法裁量が認められよう︒でなければそもそも

(8)

曰そもそも憲法上の権利か疑わしいとき 立法はできない︒同様に︑この場面で憲法が私法の一般条項を拘束することも︑殆ど考えることはできない︒

( 3 1 )

3 2 )

 

一般には無効と判断されていない︒

R

Fラジオ事件で︑東京地裁

は︑五五歳﹁定年制度の合理性は︑定年年齢と社会における労働力人口との関連において︑企業における限られた雇

用可能人員の中で︑人件費負担増の防止︑労働能力が減退した労働者の交替︑若年労働者の雇用の必要性︑人事の停

滞回避︑企業活力の維持等のために企業経営上必要とされる限度においては社会的に許容されるものであ﹂って︑当

該企業において﹁六

0

歳定年制を直ちに実現することが容易であったとすることができない以上︑﹂﹁本件五五歳定年

制が公序良俗に反し︑あるいは権利濫用︑信義則違反に該当することはできないというべきである﹂とし︑秋北バス

( 3 3 )  

事件判例を引用しつつ︑元アナウンサーの訴えを斥けたのであった︒

同事件は︑労働基本権の制約と解する見解もあろう︒しかし︑日本国憲法二七条が︑高齢者が年齢により差別せず

に雇用される権利を内包しているとまで読むことには︑なお困難であろう︒そうなれば︑労働法上或いは民法上︑こ

のような法律行為が無効か否かの問題が残るに過ぎないであろう︒日本においては︑なお︑定年制度は公序良俗違反

とは認識されておらず︑不当に低年齢であるとか︑差別的な規定を含むとかでなければ有効である︑という判断は妥

当と思われる︒この点︑六

0

歳未満の定年が社会的相当性や妥当性を欠くと考えられるようになれば︑民法や労働法

の解釈として︑本件のような定年制は無効と判断される余地はあるように思われる︒

﹁弱い権利﹂同士のケースの延長上には︑そもそも憲法上の権利がないケースがある︒当該権利が私法上の利益で

例えぱ年齢による差別と受け取れる定年制度は︑

︵ ︱ ‑ ︱

‑ 九 一 ︶

(9)

第五二巻四・五号三八四

あることは認められても︑それが必ずしも憲法上の権利ではないことはあり得る︒勿論︑これらの事例も︑最終的に

は損害賠償請求権などにより金銭の受領を求める点で︑﹁経済的自由﹂の一側面であると言えないこともない︒しか

し︑そもそもその権利が憲法から発生していない場合には︑当該請求権を支えるものは専ら私法である︒この場合︑

憲法による一般条項制約はなく︑それとは無関係の︑私法の一般条項の広汎な発動はあり得よう︒これまで採り上げ

た事例のうち︑不正取引などの例は︑そもそもその行為は憲法上︑経済的自由権によって保障されていないと解する

ならば︑ここで採り上げるべき事例と考えることもできよう︒殺人などの犯罪をすることやしないことの対価として

( 3 4 )

3 5

)  

金品を約束するなどの契約は言うまでもなく無効である︒売春契約についても公序良俗違反と考えてよいと思われる︒

何れも裁判所が当該契約を公序良俗違反とすることは︑勿論︑憲法違反でもない︒

博打に用いることがわかっていながら貸与した金銭の返還請求について︑戦前︑大審院が﹁公序良俗違反ノ法律行

( 3 6 )  

為トシテ無効ナルモノト謂ハサルヲ得ス﹂としてこれを認めなかった判例がある︒判例は不法な動機が表示され︑他

方もそれを知っていた場合には当該法律行為を公序良俗違反とする傾向にある︒賭博をすることが憲法二二条の幸福

( 3 7 )  

追求権の一部か︑という論争は以前からあり︑もしこれを肯定すれば︑そのような憲法上の権利を保護すべく民法九

0

条は解釈されねばならず︑判例は変更を迫られよう︒しかし︑圧倒的通説はそのように考えていない︒

関連して言えば︑強行法規違反の法律行為も無効とされるが︑当該強行法規が合憲であることがこの議論の前提で

( 3 8 )  

ある︒強いて言えば︑当該強行法規で禁じられている行為が憲法上の権利であり︑憲法上の保護が及ぶ︑ということ

がないことにより︑この結論は裏打ちされているのである︒しかし︑取締法規違反の法律行為が直ちに無効とならな

( 3 9 )  

いというのも判例の立場であることには注意が必要であろう︒

(10)

また︑そのことは確かに理由があったことである︒ここで議論された問題は︑私法秩序の中で解決可能であって︑も

( 4 0 )  

ともと私法に関する規範の少ない憲法の出番は期待できなかった︒しかし︑私法の一般条項が上位法である憲法の拘

束を受ける以上︑このような問題になることが一切ない︑と決めつけることはできまい︒私法の一般条項のよほど

偏った用い方が憲法違反となる可能性は︑理論上ゼロではない︒そこで︑﹁自由﹂対﹁自由﹂の問題は︑﹁もっぱら市

( 4 1 )  

場における自由競争に委ね﹂ればよい︑と断言することは留保したい︒そして︑このような事例を視野に入れて︑私

人間効力論を論じることは︑その理論の一貫性を維持するためにも意味があると思われる︒

これに対して︑憲法上の﹁強い権利﹂と﹁弱い権利﹂が対抗関係にある場合︑前者の必勝を導くのが憲法学界の一

般的な空気であった︒しかし︑民法学ではそれは当然のことではなく︑憲法は﹁公序﹂の︱つでしかなく︑このよう

( 4 2 )  

な場合においても結論を決定的にするものとは考えられていなかった︒よって︑この種の問題をどのように整理する

かは︑日本の法体系・法秩序の維持の観点からも重要であろうと思われ︑以下︑よく検討することにする︒

なお︑前節と同様︑﹁弱い権利﹂の中には︑そもそも憲法上の権利と言えるものがない場合も含む︒

﹁弱い権利﹂と﹁強い権利﹂ 以上のように︑﹁弱い権利﹂同士の場合︑

の場合 一般にそれを憲法の私人間効力の問題だと認識されることはなかった︒

(11)

第五二巻四・五号

経済的自由と生命・身体・健康権に関するとき

憲法一三条の﹁生命︑自由及び幸福追求に対する国民の権利﹂に何を含むかについては争いがある︒しかし︑その

中に︑生命権が含まれることはおよそ自明のこととされよう︒また︑準じて︑健康や身体的完全性に関する権利が︑

憲法上の権利であることもほぼ争いがないと言ってよい︒公序良俗条項が問題となった事案には︑いわばこのような

人権を私法秩序の中でどのように考えるかが問題となったと思えるものもある︒

( 4 3 )  

ここに分類できるものとしてはまず︑有毒物質入りのアラレ菓子の販売契約が問題となった事件がある︒事件は︑

有毒物質である硼砂を混入して製造されたアラレ菓子の販売は食品衛生法四条二号に抵触し︑処罰の対象ともなる

︵それだけでは当該販売契約は無効とはならない︶ことを知りながら︑製造販売業者が敢えてそれを製造したものである︒

最高裁は︑同社が販売業者に継続的に有毒アラレ菓子を売り渡した場合︑﹁一般大衆の購買のルートに乗せたものと

認められ︑その結果公衆衛生を害するに至るであろうことはみやすき道理である﹂などとして︑民法九

0

条違反を認

定し︑為替手形の手形金支払義務を否定したのである︒この事件の原告と被告は製造販売業者と販売業者であり︑訴

訟物は手形金の支払であり︑経済的利益が当事者間で争われたものである︒しかし︑最高裁が本件支払義務を無効に

( 4 4 )  

した理由は︑健康被害の重大さゆえであり︑またそのことに関する両当事者の悪意であった︒

ようとも︑食品等に微量の有毒物質があるか否かについては︑立法的にも一九九四年には製造物責任法が制定されていが、。このことは消費者の生命·身体•財産保護の観点から、 この判決が下された一九六四年当時と比べ︑食品公害及び薬害の問題は深刻化し︑原料の表示が義務づけられてい

( 4 6 )  

一般消費者はますます判断できないようになっている︒

製品の専門家であるべき製造者に一層の責任を課す考えが強まったからだと言えよう︒民法九

0

条の公序良俗違反と

関法

(12)

なるケースは︑従来より広げて考えられるようになろう︒

( 4 8 )  

日東航空墜落事故損害賠償請求事件では︑運送約款の責任限度額が一九六三年の事故当時一

0

0

万円であったこと

が無効と判断された︒大阪地裁は︑﹁当該約款にしたがって運送契約が成立したものと解するのが相当であ﹂り︑ま た﹁人命尊重︑被害者の救済と企業の育成︑保護という二つの要請の調整という見地から﹂考え︑﹁国際航空運送に 関するワルソー条約およびハーグ議定書においても運送人の有限責任が規定され広く承認されていることを考慮する

と︑責任限度を制限すること自体を当然に違法︑無効であるとまで断定し得ない﹂とした︒しかし判決は続けて︑

様々な﹁事情を考慮すれば︑本件約款に定める一

0

0

万円の限度額は本件事故当時の我国企業の一般水準からみても

低きに失したものであることは否定し得ず︑﹂﹁かかる条項の適用を強いることは公序良俗に反し許されないものと解

するのが相当である﹂と判示したのであった︒事故死者の遺族への損害賠償額は︑主として逸失利益の補償を求める

9 ) ( 4  

ものであり︑生命侵害そのものの問題ではないとも言える︒しかし︑それがあまりに低額に定められた契約は︑生命

侵害があったにも拘わらず低額であるという点で公序良俗に反すると判断された︒但し︑判決が︑約款が有限責任を

定めたこと自体を公序良俗違反とはしなかったことには留意すべきであるように思われる︒

( 5 0 )  

このほか︑人間の臓器や受精卵の売買は公序良俗違反とされる可能性が高い︒また︑同じ財産の処分であっても︑

( 5 1 )  

それが生存の基礎たる財産の処分の関する例について︑公序良俗違反かが問題となったときもある︒この点からすれ

ば︑憲法一三条の幸福追求権のうち︑生命・身体・健康に関する権利は︑この文脈では﹁強い権利﹂という扱いがな

( 5 2 )  

されてきたように思われる︒確かに上記判決を︑あくまでも私法判例であると解することは可能であるが︑上記と正

反対の結論が導かれたとき︑それは一般条項の違憲的活用と評価できるのではなかろうか︒

(13)

奴隷的拘束からの自由に関するとき

( 5 3 )

5 4 )

 

この類型の典型例は芸娼妓契約に関するものであろう︒判例は︑四万円の借金の弁済について︑被告の︑当時一六

歳に満たない娘が原告宅に住み込み︑料理屋業に関して酌婦稼業をなし︑その報酬の半額をこれに充てる契約がなさ

れたが︑同人はその後逃亡したため︑原告が前借金返還請求の訴えを起こした事案についてのものである︒最高裁は︑

金銭消費貸借と酌婦稼業による弁済契約を二個の独立した契約とみた原審の判断を覆し︑﹁契約の一部たる稼働契約

( 5 5 )  

の無効は︑ひいて契約全部の無効を来すものと解するを相当とする﹂と述べ︑戦前の判例を覆して︑消費貸借契約と

連帯保証契約とも無効とし︑原告の請求は不法原因給付の返還請求に当るとしてこれを認めなかったのである︒また︑

本判決では売春行為が前提となっているからばかりでなく︑中途廃業が困難な身柄拘束があること︑未成年の子の労

( 5 6 )  

務と引き換えに親が前借金を取得︑受益することが重く見られていた︒

( 5 7 )  

戦前の判例との断絶は︑﹁わが国の社会一般の倫理的評価﹂︑﹁とくに戦後の人権尊重への思想的変革﹂︑そして︑私

人の奴隷所有をも禁じた憲法一八条の存在のためである︒そして憲法学では一般に︑このような事例には憲法一八条

( 5 8 )  

の直接適用があると言われてきた︒当該私人の行為が違憲である︑というのである︒しかし︑このような論理を採る

( 5 9 )  

者は憲法学者だけであり︑民法学界や法曹界には皆無であったことは否めなかった︒それは︑通常の違憲判決では︑

法令が無効となり︑その結果︑国家は当該私人の当該行為を否定せざるを得なくなり︑対立当事者が救済されるとい

( 6 0 )  

う過程を辿ることと比べ︑突出した主張に見える︒憲法一八条が︑例えば民法九

0

条を強く拘束し︑事実上殆どの事

( 6 1 )  

例を無効にすると考えれば︑別段︑憲法一八条に直接効力を認める必要もなく︑理論的にも原則通りの解決が図られ

( 6 2 )  

るように思われる︒労働基準法五条もあることであり︑なおさらである︒

第五二巻四•五号

(14)

( 6 3 )  

なお︑憲法一三条の議論において︑主に一般的自由権説の立場から自殺する自由が主張されることがある︒自殺す

る自由があるのなら︑奴隷となる自由もあるのではないか︑との疑問が生じる︒しかし︑﹁人﹂の置かれている立場

( 6 4 )  

を考慮すれば︑対等で平等な契約として見倣すことができないことを︑芸娼妓契約の例は示している︒仮に単独行為

である自殺が憲法上の権利であったとしても︑対等でない相手が必要な︑﹁奴隷﹂となることを憲法上の権利とみる

ことは︑やはり躊躇せざるを得ないように思われるのである︒

経済的自由と憲法一四条一項後段列挙事由に基づく差別に関するとき

ここでは日産自動車事件が有名である︒合併前のプリンス自動車工業の就業規則では︑定年は男女共五五歳であっ

たが︑同社を吸収合併した日産自動車の就業規則によれば︑定年は男子五五歳︑女子五

0

歳と定められていた︒原告

は︑満五

0

歳前にこの就業規則によって退職を命じる予告を受け︑地位保全の仮処分を申請したが斥けられた︒しか

( 6 5 )  

し本訴においては︑一・ニ審とも女子若年定年制の合理性を認めず︑これを民法九

0

( 6 6 )  

最高裁は︑以下のように判示して︑日産側の上告を棄却した︒﹁上告会社においては︑女子従業員の担当職務は相

当広範囲にわたっていて︑従業員の努力と上告会社の活用策いかんによっては貢献度を上げうる職種が数多く含まれ

ており︑女子従業員各個人の能力等の評価を離れて︑その全体を上告会社に対する貢献度の上がらない従業員と断定

する根拠はないこと︑しかも︑女子従業員について労働の質量が向上にないのに実質賃金が上昇するという不均衡が

生じていると認めるぺき根拠はないこと︑少なくとも六

0

歳前後までは︑男女とも通常の職務であれば企業経営上要

求される職務遂行能力に欠けるところはなく︑各個人の労働能力の差異に応じた取扱がされるのは格別︑

(15)

第五二巻四・五号

員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないことなど︑上告会社の企業経営上の観点から定年年齢にお

いて女子を差別しなければならない合理的理由は認められない﹂という原審判断は︑﹁正当として是認することがで

きる︒そうすると︑原審の確定した事実関係のもとにおいて︑上告会社の就業規則中女子の定年年齢を男子より低く

定めた部分は︑専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着したものであり︑性別のみによる不合理な

差別を定めたものとして民法九

0

条の規定により無効であると解するのが相当である︵憲法一四条一項︑民法一条ノニ

( 6 7 )  

参照︶﹂というものである︒本件は︑従来の労働省の行政指導の蓄積を覆し︑年齢差二五歳の男女別定年制を無効と

( 6 8 )

6 9 )

 

した東急機関工業事件︑年齢差一

0

歳差のそれを無効とした伊豆シャポテン公園事件を超えて︑年齢差五歳のそれで

( 7 0 )  

すら︑公序良俗違反とした点で画期的なものであった︒

本件で最高裁は︑当時の国民感情などを軽視しており︑差別的な慣行を許容する空気とは異なる態度を採りつつ︑

( 7 1 )  

企業経営上の理由が合理化される場面を厳しく限定したと思われる︒就業規則そのものの無効が宣言されていること

( 7 2 )  

も注目できる︒しかし本件を読む限り︑括弧書きでの憲法条文﹁参照﹂という手法が︑間接効力説によるものかは不

( 7 3 )  

明である︒また︑労働基準法は一切根拠条文として挙げられていない︒ただ︑労基法四条は︑男女の賃金差別のみを

明文で禁じ︑その違反には罰則もあり︑罪刑法定主義の見地から同条を拡張解釈できない︑という判断はあったのか

( 7 4 )  

もしれない︒だが︑罰則は兎も角︑賃金以外の男女差別禁止も︑労働法上の公序をなすと解すべきであろう︒

( 7 5 )  

この判決以前に︑下級審判決ではあるが︑住友セメント事件もある︒この事案では︑臨時社員として雇用された女

性が︑その口述試験の際に﹁結婚又は満三五歳で退職する﹂制度を明示され︑念書を提出したが︑結婚時に退職を申

し出なかったため︑会社側が結婚退職制に従って即時解雇されたことが争われたのであった︒東京地裁は︑﹁両性の

(16)

本質的平等を実現すべく︑国家と国民との関係のみならず︑国民相互の関係においても性別を理由とする合理性なき 差別待遇を禁止することは︑法の根本原理である︒憲法一四条は国家と国民との関係において︑民法一条の二は国民 相互の関係においてこれを直接明示する﹂ものであり︑﹁性別を理由とする合理性を欠く差別待遇を定める労働協約︑

就業規則︑労働契約は︑いずれも民法九

0

条に違反し効力を生じない﹂と判断したのであった︒このような事案の最

( 7 6 )  

高裁判決がないのは︑この制度の違法性がもはや常識化してきたことの表れでもあった︒

( 7 7 )  

また︑岩手銀行事件は︑給与規定が︑﹁扶養家族を有する世帯主たる行員に対しては︑別表基準により家族手当を

支給する﹂と定めながら︑更に﹁前項の世帯主たる行員とは︑自己の収入をもって︑

その配偶者が所得税法に規定されている扶養控除対象限度額を超える所得を有する場合は︑夫たる行員﹂にのみ︑こ れと世帯手当を支給するとなっていたところ︑夫の復職後に両手当を打ち切られた女性行員が︑未支給分の支払等を 求めた事件である︒仙台高裁は︑結局のところこの性差別は不合理なものであり︑﹁強行法規である労基法四条に違

反し︑民法九

0

条︵一条ノニ︶により無効であるといわなければならない﹂と判示したのである︒本給与規定は明文

上性差別を一部含んでいたが︑そのことが必ずしも決定打にはなっていない︒そうでなくともその効果が差別的であ

( 7 8 )  

るときは︑﹁間接差別﹂としてその違法性を認定すべきことを本判決は示唆していよう︒更には︑昇格における男女

( 7 9 )  

差別が無効となった例も︑既に登場しているのである︒

このように︑私人間の性差別︑特に労使関係におけるそれが公序良俗違反とされることは非常に多くなっている︒

裁判所はこの問題では︑立法の遅れや就業規則等の内部社会規範の遅れを補うべく︑積極的に民法九

0

( 8 0 )  

救済を行なってきたのである︒現在では男女雇用機会均等法が施行︑更に改正されているが︑それでもなお同法がカ

一家の生計を維持する者をいい︑

(17)

回家族関係に関するとき

第五二巻四・五号

バーしない領域については︑私法の一般条項の活用が期待される︒しかし︑

00

)

えば︑罰則の適用以外では︑より具体的な条項の類推・拡張解釈をまずは考慮することもすべきであろう︒その点で︑

( 8 1 )  

これらの労働事件が第一義的に労働基準法の問題でなかった点は︑なお不思議である︒

これらの判例は︑偏に女性差別の問題だけに留まらず︑より一般化が可能である︒即ち︑人の属性であれば︑同様

( 8 2 )  

の問題が生じるということは想起させる︒このうち︑その属性が生来のものである人種や性別と︑事後取得した地位

( 8 3 )  

とでは異なる取扱いが考えられるのではなかろうか︒また︑それが制約されている利益の性質が﹁人権﹂や﹁自由﹂

に関わるものなのかも重要である︒日産自動車事件などにつき︑それを勤労権が争点であるが故の判決だったとする

解釈も成り立つであろう︒しかしこれらの事件も︑労働基本権などの侵害ゆえの無効判断ではない︒やはりそれが性

差別の事案として認識されてきたところに︑意味があったのである︒但し︑公共機関・公的空間・公法などに関係す

るものなのか︑純粋にプライベートなものなのかはやはり結論に影響を及ぼそう︒例えば︑私立学校が人種別学を行

うことは許されないが︑交通機関が喫煙車・禁煙車を設けることは許されるということは言えようが︑適法・違法の

( 8 4 )  

境界線の画定は難しいと言わねばなるまい︒今日︑私立女子大学は一般に公序良俗違反とは解されていないが︑私学

( 8 5 )  

の自治をもってしてもそれが否定される時代も来るかも知れず︑基準は流動的である︒

ここでの典型的なものとしては︑いわゆる妾契約がある︒妾関係の維持継続を条件とする遺贈︑情交関係の継続維

( 8 6 )  

持の希望の下になされた遺贈は︑それぞれ無効とする判決がある︒憲法二四条は一夫一婦制を規定しているとするの

一般条項の活用は例外という法原則に従

(18)

( 8 7 )  

が通説であり︑それが私人間に直接効力を有さなくとも︑それを掘り崩すものを裁判所は許容できまい︒

( 8 8 )  

しかし︑微妙な判例もある︒問題となった事案は︑妻子ある男性が︑約七年間半同棲の関係にあった女性に遺産の

三分の一を贈与する旨の遺言を残して亡くなり︑妻子が︑この遺言は公序良俗に反して無効であることの確認を求め

て訴え出たものである︒最高裁は︑女性﹁との関係は早期の時点で﹂男性﹁の家族に公然となっており︑他方﹂男性

と妻との﹁間の夫婦関係は昭和四

0

年頃からすでに別々に生活する等その交流は希薄となり︑夫婦としての実体はあ

る程度喪失していた﹂こと︑﹁遺言の内容は﹂女性と妻子に﹁全財産の三分の一ずつを遺贈するものであり︑当時の

民法上の妻の法定相続分は三分の一であり︑﹂娘も﹁すでに嫁いで高校の講師等をしている﹂中で﹁は︑本件遺言は

不倫な関係の維持継続を目的とするものではなく︑もっぱら生計を﹂男性﹁に頼っていた﹂女性﹁の生活を保全する

ためになされたものであ﹂って﹁相続人らの生活の基盤を脅かすものとはいえない﹂ことなどを理由に︑本件遺言を

( 8 9 )  

無効とはしなかったのである︒

この判決は︑遺言者のなした遺贈の意図が不倫関係の維持継続ではなく生活の保全である場合︑諸般の事情を考慮

して遺言を有効とするケースもあることを示したものである︒家族関係の保護は︑憲法二四条の強い要請であるが︑

本件では法律上の家族の保護を絶対視しなかった︒多様化する家族関係の下︑配偶者のない者同士の結合関係におけ

( 9 0 )  

る遺贈は︑今日においては常に公序良俗に反するものとは考えられなくなっている︒更に︑もしも憲法二四条の要請

が実質的な家族関係の保護であると解するとすれば︑この判決は積極的な拡張もできるもしれない︒但し︑遺留分を

残せばその余の遺産は遺言自由であろうところ︑判決はいわゆる妾遺言であることを考慮してか︑遺言有効のライン

( 9 1 )  

をそれより高く設定しているように読める︒微妙な判決であると言える︒

0

I )  

(19)

田経済的自由と精神的自由に関するとき

三九四

0二 ︶

なお︑前述の住友セメント事件東京地裁判決は︑﹁配偶者の選択に関する自由︑結婚の時期に関する自由等結婚の 自由は重要な法秩序の形成に関連しかつ基本的人権の一っ﹂であるなどの観点からも︑結婚退職制度は﹁民法九

0

に違反し効力を生じない﹂とも判示している︒このことも無効判決を導く要因であったと言えよう︒

この分類に属するものでは︑三菱樹脂事件があまりにも有名なものである︒この事件は︑ある大学を卒業して同社 に三ヵ月の試用期間を設けて採用された者が︑入社試験に際して身上書と面接において︑学生運動を行ない︑大学生 協理事として活動していたことを隠す虚偽の申告をしたことを理由に︑本採用を拒否する告知を受けたものである︒

( 9 2 )  

そこで原告は︑労働契約関係の確認を求め︑一・ニ審ともその訴えを認める判断を下した︒

( 9 3 )  

しかし最高裁は︑以下のように判示して︑高裁に破棄差戻したのである︒まず最高裁は︑﹁労働者を雇い入れよう とする企業者が︑労働者に対し︑その者の在学中における右のような団体加入や学生運動参加の事実の有無について 申告を求めることは︑﹂﹁その者の従業員としての適格性の判断資料となるべき過去の行動に関する事実を知るための ものであって︑﹂﹁このような予測自体が︑当該労働者の過去の行動から推測されるその者の気質︑性格︑道徳観念等 のほか︑社会的︑政治的思想傾向に基づいてされる場合もあるといわざるを得ない﹂とした︒そして︑このような調 査が憲法一九条等に反するという原告の主張に対しては︑﹁憲法の右各規定は︑同法第三章のその他の自由権的基本 権の保障と同じく︑国または公共団体の統治活動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので︑

もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり︑私人相互の関係を直接規律することを予定するも

(20)

のではな﹂<︑﹁私人間の関係においては︑各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾︑対立す

る可能性があり︑このような場合におけるその対立の調整は︑近代自由社会においては︑原則として私的自治に委ね

一方の他方に対する侵害の態様︑程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ︑法がこれ

に介入しその間の調整をはかるという建前がとられている﹂ものである上︑﹁憲法は︑﹂﹁他方︑二ニ条︑二九条等に

おいて︑財産権の行使︑営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障して﹂おり︑﹁労働基準法三条は

労働者の信条によって賃金その他の労働条件につき差別することを禁じているが︑これは雇入れ後における労働条件

についての制限であって︑雇入れそのものを制約する規定ではない︒また︑思想︑信条を理由とする雇入れの拒否を

直ちに民法上の不法行為とすることができないことは明らかである﹂と判示したのである︒そこで︑﹁企業者が雇傭

の自由を有し︑思想︑信条を理由として雇入れを拒んでもこれを目して違法とすることができない以上︑﹂思想調

査・申告要請をすること﹁も︑これを法律上禁止された違法行為とすぺき理由はない﹂としたのである︒

そして本件では︑既に試用期間に入っており︑以上の点が妥当するとしても︑﹁留保解約権の行使︑すなわち雇入

れ後における解雇にあたり︑これを通常の雇入れの拒否の場合と同視することはできない﹂

おいては︑﹂﹁試用期間中に被上告人が管理職要員として不適格であると認めたときは解約できる旨の特約上の解約権

が留保されているのであるが︑﹂これは﹁今日における雇傭の実情にかんがみるときは︑

下にこのような留保約款を設けることも︑合理性をもつものとしてその効力を肯定することができるというべきであ

る﹂が︑その﹁行使は︑﹂﹁客観的に合理的な理由が存し社会通念上相当として是認されうる場合にのみ許されるもの

と解するのが相当である﹂とした︒そして︑そう言えるかどうかについては︑原告の経歴の秘匿事実︑その程度︑そ

一定の合理的期間の限定の

三九五

0三 ︶

(21)

があった︒ある民法学者は︑特定の場面での一定の私企業の活動の制限は︑間接効力説か直接効力説かに拘わらず︑

( 1 0 6 )  

私法の一般条項によりそれは可能であったと述べている︒また直接効力説を採用しても︑当事者の一方が私企業であ

︵ 町

一般に採用の義務付けまではできないことも留意すべきであった︒公務員関係

こで違法な行為があったか否かなどについて更なる審理が必要であるとして差し戻したのである︒

( 9 4 )  

判決に対して︑少なくとも直接効力説を否定し︑全般的には間接効力説を採りながら︑財産権の制約を広く認めて︑

( 9 5 )  

相対的に思想・信条の自由を軽視し︑企業の契約締結の自由を重視して︑実際には間接効力説すら否定する効果を有

( 9 6 )  

するものであって︑無効力説も同然だ︑などの評価もなされた︒また︑司法消極主義的な最高裁が︑企業の権利擁護

( 9 7 )  

という点ではかなり司法積極主義的に踏み込んだ判断を行なったとの皮肉も言えなくはない︒憲法学説の中では︑大

企業の行為が国家と密接な﹁かかわり合い﹂を有し︑或いは国家と同視できるならば︑国家行為と同視する見方も有

( 9 8 )  

カであった︒また労働基準法三条は︑労働条件に関する差別的取扱いを禁じており︑ここには思想・信条による差別

( 9 9 )  

の禁止も含まれると解する説が有力である︒確かに︑同条が罰則を含むため拡張解釈は許されず︑それは同条には含

( 1 0 0 )

1 0 1 )

 

まれないとする見解もあるが︑そのような取扱いを公序良俗違反としない説は︑労働法学では皆無だったのである︒

戦後憲法学が︑憲法の私人間効力論を展開するときに明らかに念頭にあったのは︑まさに本件のような事例の解決

( 1 0 2 )  

であった︒数多ある私人間の人権侵害事例の中で︑評釈や研究が本判決に集中していることがそのことを雄弁に物語

( 1 0 3 )  

る︒強者の典型である大企業が︑弱者である一労働者の思想・信条を理由に解雇した事件は︑後者の勝利で終わらね

( 1 0 4 )

︵ 囮

ばならないと信じられてきたのであろう︒そして本判決の後︑憲法の私人間効力論の論説は激減したのである︒民法

学がこの種の事例を特に採り上げず︑決定的な結論が用意されているとは考えていないことと︑それは非常な温度差

一定の憲法上の権利を有し︑ 関法

第五二巻四・五号

︳ 九

0四 ︶

(22)

とは異なり︑採用拒否を違憲違法とする判断が直ちに従業員としての地位確認を導くかは微妙であり︑事案によって

( 1 0 8 )  

は︑企業にも経済的自由があることを考慮し︑損害賠償のみを認める解決もあり得たのであった︒

( 1 0 9 )  

なお︑思想・信条の自由が労働関係で問題となったものとして︑古くは︑東京急行電鉄事件がある︒企業の人員配 置転換を行うに当り不正不当があったという風評を機関紙で宣伝したため︑職員懲戒規定により解雇処分に付された 元従業員が︑その処分を有効とする二審判断には憲法ニ︱条などの解釈の誤りがあるとして特別抗告がなされた事案 である︒最高裁は︑﹁憲法ニ︱条所定の言論︑出版その他一切の表現の自由は︑﹂﹁自己の自由意思に基ずく特別な公 法関係上又は私法関係上の職務によって制限を受けることがあるのは巳むを得ないところである﹂として︑この抗告

( 1 1 0 )  

を棄却したのである︒最高裁はこの種の事件において︑同様の判断を繰り返してきたのである︒

これらの事件は一般に︑憲法学では︑後に述べるような労働基本権の事案として取り扱われてはいない︒それは︑

( 1 1 1 )  

やはり精神的自由が﹁強い権利﹂であると信じられてきたからである︒これらの事案は︑企業側の特定思想・信条を 拒絶する意思が感じられれば︑﹁強い権利﹂の衝突と解することも不可能ではない︒しかし︑通常︑営利を目的とす る最も合理的な形態である株式会社の大企業が︑そのことに拘る場合を多く認めることは妥当ではない︒この点︑特 定の思想傾向を有する私立学校や宗教系私学︑傾向企業の場合とは異なろう︒即ち三菱樹脂事件などは︑

﹁強い権利﹂を持ち出しながら︑最高裁がまずその主張を認めなかった判決群でもある︒この問題を主として私法の 問題であると解することは︑憲法上の﹁強い権利﹂の効果を無視することにつながり︑結果として私法が関心を有す

( 1 1 2 )  

る財産権や営業の自由などに有利な判断を導いた︑という印象が拭えなかった︒或いは考慮したとしても︑憲法上許

( 1 1 3 )  

されるか微妙なところで一般条項が用いられた︑という評価になろうと思われる︒

0五 ︶

(23)

第五二巻四・五号

気がつけば︑これらの事例は憲法学界と民法学界︑或いは労働法学界でまちまちに検討されていた︒例えば︑憲法

学は思想・信条の自由など︑私法学は契約の自由などに比較的傾いた衡量を試みてきたと言えなくはない︒以上の事

例では︑憲法上の﹁強い権利﹂にも﹁弱い権利﹂にも違反しないように︑私法の一般条項が解釈されなければならな

いが︑特にその解釈の幅を制限するものは﹁強い権利﹂の存在である︒公序良俗の基準は︑法の中では何よりも憲法

︵ 山

に求められねばならない︒このため︑一方当事者が経済的自由を掲げても︑その行為が健康被害をもたらすときや性

差別であるとき︑奴隷的拘束を伴うときなどは︑訴訟において勝ち目がなかったと言えるのである︒憲法学説の一部

一方当事者の権利が非常に強く︑どう考えてもその当事者に有利な判決が望まれるときを念頭に︑特定の条文に

関して直接効力があるという主張を展開してきた節があるが︑そのような論理構成は不要だったと思われる︒

こう並べてみると︑最高裁判例としての三菱樹脂事件などの特異性も浮き彫りにもなる︒他の判例では経済的自由

を制限する方向で公序良俗条項が用いられたものであるが︑最高裁は精神的自由と対峙した事案のみ︑企業にも経済

的自由が存することを強調し︑その主張を相当程度認めたからである︒日本国憲法が民主主義や自由主義を主たる原

理とするならば︑精神的自由が﹁強い権利﹂であることは疑い得なかった筈である︒また後述する︑労働組合の統制

( J I S )  

権と組合員の政治的権利が衝突した事案と比べても︑その点は明らかである︒つまり︑﹁強い権利﹂を有する側が︑

ある種﹁中程度の権利﹂の相手には勝てるが︑相手が﹁弱い権利﹂しか有さないときには殆ど勝てない︑という矛盾

も感じざるを得ないのである︒勿論︑憲法は私人間に直接効力をもたらすものではない︑ということからすれば︑全

ての事案の結論が憲法解釈によって決まるものでないことは明らかである︒しかし︑果たして最高裁の立場が︑憲法 ま ︑9̲9,  関法

0六 ︶

参照

関連したドキュメント

雑誌名 哲学・人間学論叢 = Kanazawa Journal of Philosophy and Philosophical Anthropology.

ところで,労働者派遣契約のもとで派遣料金と引き換えに派遣元が派遣先に販売するものは何だ

(J ETRO )のデータによると,2017年における日本の中国および米国へのFDI はそれぞれ111億ドルと496億ドルにのぼり 1)

にする。 前掲の資料からも窺えるように、農民は白巾(白い鉢巻)をしめ、

[r]

[r]

[r]

この小論の目的は,戦間期イギリスにおける経済政策形成に及ぼしたケイ