の研究
著者 遠藤 祐太郎
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 71
ページ 40‑67
発行年 2009‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011574
前九年合戦(一○五一~六二)において河内源氏源頼義・義家父子と激戦を繰り広げ、敗れた奥六郡安倍氏(以下、安倍氏)。その出向や権力形成の過栂をめぐっては不明な
点が多く、学界でも諸説紛々の状況にあふ肌、十一世紀前
半のある段階で、陸奥国奥六郡というブロックを足掛かりに、隣国出羽の沿原氏と並ぶ人豪族へと成長を遂げたことは疑いない。小稿はそれを可能とせしめた要因の一つとして、安倍氏と奥六郡周辺の諸氏族との妬姻を介した結びつきを指摘するものである。一般に婚姻(政略結婚)とは異なる氏族同士が連携して同盟関係を形成したり、杣手方氏族の姻戚と 法政史学第七十一号金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の撞頭過程の研究
はじめに なることでnらの政治的地位を向上させたりするための常(2)(3)套手段であり、安倍氏をめぐっても従来、安倍頓時の次男こん(4)貞任と磐井郡河崎柵、王金為行の娘との婚姻や、頓時の二人(5)の娘と一日一理権人夫藤原経清・伊具十郎下、水衡との婚姻といったモデルケースが注Ⅱされてきた。しかし、かかる蜘例はけっしてこの三例にとどまるものではなく、時期的にももっと以前から展開されていた可能性がある。安倍氏の蛎姻政策について考えることは、安倍氏がいつ陸奥国にt着・留住し、どのように権力を形成していったのかという根本的な問題に対する一つの有効なアプローチともなるであろう。さて、安倍氏の勢威拡大を考えるうえでとりわけ注nされるのが、奥六郡の南隣磐井・気仙両郡を地盤とし、前九
遠藤祐太
四○郎
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年合戦においても活躍をみせた金氏の存在である。今Ⅱ安倍・清原両氏に比べて注目度も低く過小評価されがちな金氏であるが、実際には〃金氏あっての安倍氏“と言っても過言ではなかったのであり、かつて菅野文夫氏が指摘したように、安倍氏が「漸出:衣川外」(「陸奥話記」)ることかできたのは金氏の協力によるところが大きく、両氏は婚姻(6)を介した濃密な姻戚関係によって結ばれていた。ところが前九年合戦において、金氏は安倍氏に与する磐井系(以下、磐井金氏)と敵対する気仙系(以下、気仙金氏)とに分
金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の擾頭過程の研究(遠藤)
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ジーー、最上 を探ることで、前九年合戦の開戦原因の解明にも一石を投 氏が分裂・対立するに至った原脚は何であったのか。それ あった磐井金氏とその何族気仙金氏との衝突であった。金 あったが、その緒戦となったのは、安倍氏と蜜月関係に した。安倍氏の奥六郡支配に終止符を打った前九年合戦で 康平五年(一○六一一)九月十七日、岩手郡厨川柵にて討死 傷・落命し、貞任は舅金為行ら騨井金氏勢の奮戦も及ばず らの説得工作により離反した「奥地俘囚」らとの戦いで負 裂。安倍頓時は天喜五年(一○(七)秋、気仙郡司金為時刈、、一一一一一回壱一I
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図1陸奥・出羽111同国郡図 橋崇註(1)前掲書3頁の図に力Ⅱ筆
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法政史学第七十一号
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石から2人目、盾の背後から躍り}{}ようとしている騎馬武者が「金為基」
じることができるのではないかと考える。そこで小稿では、安倍氏が金氏との婚姻を通じてどのように勢力を拡大していったのか、その歴史的意義について考察を試みたい。|安倍為元の出自l「前九年合戦絵詞』にみえる「金為基」と「陸奥話記」にみえる「安
倍為元」l『陸奥話記」によると、安倍氏一族内に為元なる人物がいたことが知られる。為元の名が登場するのは次に掲げる二箇所である。[史料と「陸奥話記」康平五年九月十七日段
其後不し幾貞任伯父安倍為元鮪、貞任弟家任
帰降。又経二数日「宗任等九人帰降。{史料2]『陸奥話記」同年十二月十七日段同十二月十七日国解云、「斬獲賊徒安倍貞任・同重任・藤原経清・散位平孝忠・藤原重久・散位物部維正・藤原経光・同正綱・同正元。帰降者安倍宗仔・弟家任・則任榊艤・散位安倍為
元・金為行・同則行・同経永・藤原業近・同頼久・同遠久等也。此外貞任家族無し有二遺類毛但正任一人未二出来」云々。字赤 四
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金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の撞頭過程の研究(遠藤)
固寸歴史民俗博物館蔵『前九年合戦絵詞」
写真
(7)これによると為元は「貞任伯父」で通称を「赤
枝錘」といい、「散位」すなわち無官の有位者とさ
れている。従来この為元については、「散位」「赤村介」の称こそ安倍氏権力の公的色彩を窺わせる材料の一つとして注目されてきたものの、彼自身についてはさしたる関心も払われてこなかった。しかし私は、彼こそが安倍・金両氏間の姻戚関係を読み解く鍵となる存在ではないかl具体的に言うと、彼は元々金氏の出身で、安倍頓時の父忠良の娘婿として安倍氏一族に迎えられて安倍姓を名乗るようになった人物ではないかlと考えている。為元が安倍氏直系の血族ではなく金氏出身の姻族であったと判断される根拠は、次の五点である。①国立歴史民俗博物館所蔵「前九年合戦桧誹」
(紙本著色)には、ある年の九月九日に安倍貞任が五百余騎の夷賊を率いて源頼義を急襲したという「陸奥話記」にはみえない逸話が収められているが、その絵の部分に「金為基」なる人物が二度登場する。最初の場面では明らかに安倍氏方の武将、それも「貞任」「宗任」らとごく近しい軍首脳の一人として描かれており(写真)、続く場面四
では「重任」とともに源氏軍と戦っている。そしていずれの場面でも「金為行」とは明確に描き分けられているのである。「前九年合戦絵詞」に登場する人物のうち「陸奥話記」等にみえず系譜不詳なのは安倍氏方では
「金為基」ただ一人であL側、この「金為基」を史料
1.2の安倍為元に比定できるとすれば、彼は元々金姓を名乗っていたことになる。②「陸奥話記」に登場する安倍姓の者のうち、有位者であったことが明記されているのは為元ただ一人である。安倍氏当主の頓時でさえ、「安大夫」の通称から五位級の在庁層に属する人物であったことが窺えるとはいえ、(u)有位者とは明記されていないのである。その一万で、頓時や貞仔・宗任らは史料上でしばしば「俘囚」呼ばわりされているが、為元を「俘囚」と称した史料は座叫・為
元は安倍姓の者のうちでも特異な素性の人物であったのではないか。③「陸奥話記」は僧良昭について頼時の「舎弟」で「宗任叔父」と明記しているので、彼が頓時の実弟であったことは疑いない。しかし為元については「貞仔仙父」とあるのみで、頓時との兄弟関係を示す直接的記述はない。両者を実の兄弟と仮定した場合、頼時は「散位」 法政史学第七十一号「赤村介」を称したほどの兄を差し置いて家督を継いだということになり、不自然さは否めない。むしろ為元は、頓時とは実の兄弟関係にない「貞任伯父」、すなわ(皿)ち忠良の娘婿として他家より迎這え入れられた人物と考疸えた方がよいのではないか。その点、①で述べたように「前九年合戦絵詞」には「金為基」なる人物がみえており、ざすれば為元が金氏州身であった可能性はさらに現実味を帯びてこよう。
④頓時(初名頼良)が父忠良から「良」の字を戚腿、願
時の男子が全員「住」の字を共有している安倍氏一族内にあって、「為元」のみが名付けの通例に反しており違和感を禁じ得ない。その一方で「為」の字は金為時や金為行など金氏の名に多くみられ、「為元」とは明らかに〃安倍氏的“ではなく”金氏的〃な名であると一一一一mえよう。「為」の字を共有する為時・為行・為元の三者は、実は同族であったのではないか。そしてとくに貞任の圃為行と「貞任伯父」為元の両者は、「前九年合戦絵詞」(通)に並んで描かれている点や史料2に相前後してその名がみえる点をも考慮すると、実の兄弟であったのではないかとすら憶測される。⑤史料2にみえる帰降者のうち、安倍姓の者は宗任・家 四四Hosei University Repository
任・則任・為元・正任の五名であるが、このうち為元だけその後の消息がまったく不明なのである。すなわち、宗任を筆頭とする頓時子息五名は伊予国(後に大宰府)(肥)へ、また出羽守源斉頼によって逮捕・召進された僧良
昭は大宰肌M配流されたことが伝わるのであるが、為元
の名はそれら諸史料に一切みえないのである。ここで注意すべきは、安倍姓以外の帰降者T姻戚)たちもまたその後の消息が不明であることである。おそらく彼らは遠国への配流等重い処分は課されることなく、陸奥現地に留め置かれたものと憶測される。つまり、同じ帰降者でも処分された者とされなかった者との二グループがあったのであり、そこで為元が後者に属したとみられることは、彼が安倍氏の直系血族ではなく姻族であったことを示唆するものではないか。以止の諸点を総合すると、為元が安倍忠良の娘婿として金氏より迎えられた人物で、前九年今戦当時にあっても他の安倍姓の者とはいささか毛色の異なる人物と認識されていた可能性はかなり高いのではなかろうか。金為行と兄弟関係にあったかどうかは明証を欠くものの、同族であったことはほぼ疑いなく、「散位」「赤村介」の称や史料2における排列順からすればその政治的地位は為行よりもむしろ金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の擾頭過程の研究(遠藤) 前述のとおり安倍・金氏間の姻戚関係については、すでに菅野文夫氏が重要な指摘を行っている。氏がその根拠とした「陸奥話記」の件を次に掲げる。[史料3]「陸奥話記」康平五年(一○六二)九月七Ⅱ段回七日、破し関到一胆沢郡白鳥村、攻一・大麻生野及瀬原二柵抜し之。得皇生虜一人℃巾云、「度々合戦之場、賊帥死者数十人。所謂散位平孝忠・金師道・安倍時任・同貞行・金依方等也。呰是貞任・宗任之一族、驍勇騨拝之精兵也」云々。すなわち、貞任の舅為行ばかりでなく、ここにみえる師道・依万もまた「貞任・宗任之一族」とされているからには、安倍・金両氏の間には以前より濃辮な姻戚関係があったに相違ないという。そして、師道・依方が小松柵から衣河関周辺にかけての戦闘に奮戦したことや、為行が磐井郡河崎柵に拠ったことなどから、金氏が気仙郡のみならず磐井郡にも確固たる勢力を築いていたことは疑いないとし、安倍氏の磐井郡進出には金氏の協力が不可欠で、婚姻はそ 上で、藤原経清や後述する平孝忠らとともに安倍氏姻族を代表する立場にあったのではなかろうか。
一一磐井金氏との同族さながらの蜜月関係
四五
の最も有効な手段であったと述べている。従うべき見解であろう。「陸奥話記』に登場する金姓六名のうち、源氏方に属した為時を除く五名は、為行が貞任の舅、則行・経永が「貞任家族」(史料2)、師道・依方が「貞任・宗仔之一族」と、いずれも安倍氏と何らかの姻戚関係にあったことが確認される。彼ら磐井金氏たちは、地縁的・血縁的紐帯から最後まで安倍氏方に立って参戦したものであろう。さらに、前節にて考察をめぐらした安倍(金)為元も、元々は為行と並んで磐井金氏の中心的立場にあった人物かと憶測される。こうした諸点に鑑みると、前九年合戦当時安倍氏と磐井金氏とが同族ざながらの強固な関係で結ばれていたことは疑いない(図2)。 [磐井金氏]
垂倍忠線に曰〕[千代章〒
[安倍氏] 法政史学第七十一号図2安倍氏・磐井金氏関係 推定図①
さらに付一言すると、史料3で金姓の師道と依方との間に割って入っている安倍時任・貞行の二人もまた、安倍姓ながら磐井金氏とも何らかの血縁的関係を有していた人物で(旧)はなかろうか。しかも二人の名はそれぞれ貞任と一宇ずつを共有しており、|廉の「賊帥」でもあった(Ⅱその戦死が大きなものと受け止められている)ことから、世代的にも血縁的にも貞任と近い関係にあった可能性が高い。二人はあるいは為元の子息T貞任の従兄弟)かとも憶測されるが、明確にはなし難い。しかしいずれにせよ、この時任・貞行の存在もまた安倍氏と磐井金氏とが〃一心同体〃の間柄であった事実を補強するものとなろう。康平五年の戦いにおける清原氏軍の主力の一人吉彦秀武(⑲)が清原武則の「ははかたのをい又むこ」であったように、また信夫郡司佐藤氏が平泉藤原氏の「代々伝れる後見」で(卯)あったように、当時の奥羽社会では何じ氏族同士が二世代以上にわたって婚姻を重ねることも珍しくなく、今回、安倍・磐井金氏間に従来知られていた貞任の婚姻(永承三
~川年〈一○四八~四九〉恥辿)よりさらに一世代遡り得る
為元の幡姻が見出されたことにより、両氏の姻戚関係もまた決して一時期、特定個人にとどまるものではないらしいことが判明した。近年安倍氏をめぐっては、「範国記」長六|ノリ
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三十八年戦争(七七Ⅲ~八一二)の結果、岩手県内陸中南部にまで城柵および郡による支配が施行され、安定化するかにみえた陸奥北部であったが、その後も奥郡騒乱と呼ばれる不安定な状態が続き、九世紀中葉には徳丹城が廃絶。さらには近年渕原智幸氏が指摘したように、和賀・稗貫・(羽)士心波・岩手の北部四郡も廃絶してしまったとみられる。その北部四郡が回復され、さらに国家の支配が本州北端 元九年(一○’一一六)十二月一一十二日条に「陸奥権守安倍忠好」とあるのを重視する立場から、頼時の父忠良が同年陸奥権守に任じられたのを機に陸奥国に勢力を伸ばしたとみ
る新説が提起されていふ澱、わずか二十年前後で同族ざな
がらの強固な紐帯を築き得たとは考え難く、人名比定の問題S範国記」の忠好Ⅱ『陸奥話記」の忠良なのか否か)はさておき、土着・留住の時期については長元九年以前にまで遡るものと考えるべきであろう。では、両氏の蜜月関係の淵源はいつ、どこに求められるのであろうか。それを考えるためにはまず、前九年合戦以前における陸奥北部の情勢を概観しておく必要がある。金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の擾頭過程の研究(遠藤) |一一安倍氏擾頭の二つの画期’十世紀後半および十一
世紀前半I へと及ぶようになったのは十世紀後半のことであった。歌(衣川・衣河)(岩手)(尾駮)枕の用例において「ころも(の)かは」「いはて」「をぶち」(型)といった北東北の地名が登場してくることや、東大寺僧商然が永観元年(九八一一一)の入宋時に「国之東境接「海島一」(妬)と述べていることなどがその傍証となる。この時期、考古学的には古代城柵としての胆沢城や秋田城の施設が相次いで廃絶し、郡制未施行の北緯四1度以北の地域に「防御性集落」と呼ばれる特徴的な囲郭集落が展開していったことが知られ、文献からは貢馬・貢金をはじめとする種々の北方産物の交易体制が整備されていったことが読み取れるのであるが、それはおそらく郡制が施行向後)された地域と未施行の地域とを明確に区分する新たな支配政策がとられたことによるものであったろう。すなわち十壯紀後半以降、奥六郡T胆沢・江刺十回復された北部四郡)や川羽北部五郡T秋田・河辺十山北三型に対しては現地豪族を鎮守(妬)府や秋川城の在庁に登用することで内同化を図り、それ以北の郡制未施行地域に対しては受領による直接的な支配・収奪を強化していく二元的な体制に移行したとみられるのである。安倍氏が蝦夷一蒙族の出自か中央貴族の分流かは俄
に決め難い胸、いずれにせよ十肚紀後半段階における北部
四郡回復の過程で登用のきっかけをつかみ、胆沢城廃絶後四七
新たに編成された鎮守府在庁機構の一員となったことが、その権力の出発点であったと理解しておきたい。さらに、軍事貴族の鎮守府将軍就任が恒例化していくのもこの時期からである。十世紀後半から十一世紀前半にかけての在任者はほぼ例外なく秀郷流藤原氏や貞盛流桓武平氏といった「兵の家」出身者で占められており、秋田城介についても明証を欠くものの同様であった可能性が高い。中央政界と坂東とを股にかけて活蹄する彼ら「兵」が奥羽の武官に任じられた背景には、天暦元年(九四七)の狄坂
丸の瓢他や天延二年(九七Ⅲ)の粥のに砿といった不穏な
情勢を受けて、郡制未施行の北辺地域と対時する鎮守府や秋田城の軍事力を増強する政策的意図があったものと思われる。彼らの郎従などとして下向した「兵」やその子孫たちのなかには、奥羽に上着・留住し、国府や鎮守府・秋田城の在庁となるなどして現地政治の末端に連なっていく者も多かったと思われる。しかしながら、こうした鎮守府・秋田城の整備強化はやがて陸奥守と鎮守府将軍、出羽守と秋田城介との対立抗争を惹き起こすこととなる。長保三年(一○○一)には秋川城介某信正が出羽守藤原義理によって殺害乱仙、寛仁二年
(一○一△には陸奥守藤原貞仲と前鎮守府将軍平維良と 法政史学第七十一号四八が〈口戦に及L趣・いずれ‘も事の詳細は不明であるが、義
理・貞仲・維良の一一一者はいずれも摂関家への私的貢献(主に貢蝿)を盛んに行っていた家司受領であり、就中維良は長和三年(一○一四)に馬二十頭・胡線・鷲羽・砂金等莫(犯)大な財貨を携えて参洛1)大々的な猟官運動を行ったことでも知られる人物であるから、事件の背景には北方交易をめぐる利権争いがあったのではないかと推測される。これまでの通説では「十世紀半ば以降(中略)鎮守府・秋田城の(中略)国府からの独立が推進され」、「独自の管郡の設定(鎮守府が奥六郡、秋川城が秋川・河辺郡と山北三郡)や、長官である鎮守府将軍・秋田城介の「受領官」への格上げが行われ、両城の〃第二阿府化〃が進行し湖」と言わ
れてきたが、渕原氏が批判するように、制度上将軍・城介は受領官ではなく、鎮守府・秋田城もあくまで国府の被管(弧)であったから、〃「独自の管郡」を,もつ「第一一国府」〃とまで評するのは行き過ぎである。ただ、そのことをもって熊谷公男氏が見出した将軍・城介の〃国守の下位の徴税請負人“という側面が否定されるわけではなく、国守(受領)は将軍・城介(〃受領“)による貢進物納入を前提としてはじめてその職責を十全に果たし得たとする氏の臘搬はなお
有効であろう。さらに馬や金などの北方産物は、前述のと Hosei University Repositoryおり中央権門に対する受領(”受領したちの私的な献上砧としてもしばしば登場するものであるから、国府への納入をめぐる軋礫(例えば、私的得分を増やすべく〃受領“側が規定敵を納入しなかったり、受緬側が噌額を強要したりするようなこと)は日常茶飯事で、先の二つの事件などは氷山の一角であったろう。こうした〃二人の受領“が机争う対立構川はやがて、鎮守府・秋田城から軍事貴族が排除され、奥羽両国の政治に関する諸権限が川守に一本化されたことでひとまず解消されたとみられる。鎮守府将軍は長元元年(一○二八)以降、
秋川城介もおそらくは同時期を境に一時停廃匙池、以後の
政務は陸奥守・出羽守塵下に編成された鎮守府・秋山城の在庁機構、就中その筆孤の地位にあった安倍氏・消原氏によって執り行われるようになったのである。【史料4】「陸奥話記」天喜四年(一○五六)段(天喜四年)任終之年、(源頼義)為し行府務、入舌鎮守府○数十Ⅱ経廻之間、頼時傾レ首給仕、駿馬・金宝之類悉献二幕下、兼給士卒C[史料5]「奥州後三年記」(一○八一一一)、水保一一一年の秋、源義家朝臣、陸奥守になりてにはかに(清原真衡)くだれり。真ひら、まづたたかひのことをわすれて、金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の撞頭過程の研究(遠藤) 新司を饗応せんことをいとなむ。三日厨といふ事あり。Hごとに上馬五十疋なん引ける。其ほか金羽・あざらし・紺布のたぐひ、数しらずもてまいれり。史料5は新任同可に対する饗応儀礼(三Ⅱ厨)の著名な
事例であふ洲、史料4もまたそれに相当するものであった
(犯)と考遣えられる。真衡が饗応を行ったのは「同ノ内ノ可レ然北魁」の一人としての鋲守府在庁筆頭の立場にもとづく行
為であろうから、頓時もまた同様な立場にあったとみてよく、「安大夫」の通称もそれを傍証しよう。熊谷氏以降、こうした点を踏まえて安倍氏を鎮守府在庁の統率者と位置づける見解が多く出されているが、小稿もまたそれを継承(釦)したい。安倍氏はこの段階で、「鎮守府押領使」「奥六川主」とも仮称すべき、将軍に代位する権力を漣得したのであった。ところで樋Ⅱ知志氏は、鎮守府将軍が停廃に至るまでの過杼を次のように論じている。貞仲の二代後の陸奥守平孝義(在任一○一一コ一~二八)
の在任中を岐後に鎮守府将瓶は不在化したが、孝義は維良の後任の鎮守府将軍平永盛(在任一○一八~二二)(⑫)と親族関係にあった。まず永盛を鎮守府将軍に任じて府政を収束させ、次いで孝義を陸奥守に任じたのは、四九
両者の親族関係を利用して陸奥守と鎮守府将軍との政治権力の一本化を図ろうとする国家側の高等戦術から出た政策であった。そして、鎮守府将軍を無力化しようとする陸奥守孝義側の意脚は、維良在任時のトラブルを経験して以来順獅貴族鎮守府将軍の強大化を危棋していた鎮守府在庁、就中その筆頭安倍氏側の意志とも合致するものであり、両勢力が互いに提携した結果、府政から軍事貴族を排除することに成功したのである。(要約)興味深い指摘であるが、若干の疑問がないでもない。そもそも永盛が鎮守府将軍に任じられたのは寛仁二年一月で、同年八月貞仲と維良が合戦に及ぶよりも前のことであったし、永盛の後任にやはり軍事貴族で秀郷流藤原氏嫡
流の藤原帆綱(在任一○二二~一一出)が据えられたことも、
中央政府が鎮守府将軍の無力化・停廃を企図していたとすれば理解に苦しむ人事である。つまり、中央政府の側から積極的に軍事貴族鎮守府将軍の排除に動いたというよりはむしろ、陸奥現地の側からのそうした主体的運動・要求の高まりを受け、中央政府が(租税や貢進物を以後も滞りなく納入することを条件に)それを追認する形で将軍停廃がなされたと理解すべきではなかろうか。 法政史学第七十一号五○[史料6]「藤原保則伝」元慶一二年(八七九)(腱
(出羽)此国、民夷雑居、田地膏恢。土産所し出、珍貨多端。豪吏井兼、無し有皇紀極へ私増鷺租税へ恐加:徳賦っ又権門子年来求二善馬良鷹一者、狼聚如レ雲。辺民愚朴、無し知L川訴、唯随:其求、イレ一言:煩費c由し是朧畝之民、皆若『貧窮○好獅之裁多致:富搬○十一世紀陸奥国北部の社会状況もまた、元慶の乱(八七八)丸時の出羽国のそれと杣通じるものであったろう。武力行使も辞さぬ軍事貴族鎮守府将軍の存在は、利権を奪い合う陸奥守や国府在庁勢力のみならず、安倍氏を中心とする鎮守府在庁勢力や”二人の受領“による〃二重の搾取“に晒された「辺民」からも、既得権益を阻害し社会を混乱させる脅威として忌避されていったのではないか。ともあれ、陸奥守平孝義の代に大きな国政改鹸がなされたことは樋口氏の推測するとおりであろう。そして私見では、安倍・金両氏の蜜月関係の出発点もまたこの時期に求められるのではないかと考えられるのである。ここまで、安倍氏の撞頭過程について十世紀後半以降の情勢を概観しながら考えてきたが、では一方の金氏とはい 四陸奥守平孝義の国政改革と安倍氏・金氏 Hosei University Repository
かなる一豪族であったのか。全氏も安倍氏同様「陸奥話記」ではじめて史料上に現れてくる氏族であり、その出自や系譜等については不明とせざるを得ない。一説には天長元年(八二四)陸奥国に安置(妬)された新羅人金貴賀を祖とする可能性も指摘されているが定かではない。「俘囚」呼ばわりされた例がないことからすると非蝦夷系の在地豪族で、十世紀以降のいわゆる国司受領化の動きに伴い没落した旧郡司層に代わって登場した
新興郡司(大石直仏Mが説くところの郡司職の所有者)の類型
に属するか。「陸奥話記」に「気仙郡司金為時」と明記されていることからすると元々は気仙郡を本貫とし、その後磐井郡へも勢力を西潮ぎせていき、両郡の「郡司職」を保持するに至ったものであろうか。特筆すべきは、気仙・磐井両郡の地理的軍要性である。気仙郡は建郡当初から前九年合戦期に至るまで一貫して太平洋岸最北の郡、陸奥国「海道」の終点であり、かつ鉄(蛆)や琉珀の産地として知られる「閉伊七村」(岩手県三陸沿岸地域)や馬産地として知られる「鉋屋・仁tR志・宇曾利(ぬ)一二部」の「奥地」(岩手県北部~青森県三八上北地域)への玄関口でもあり、北方交易の集積地として栄えた要衝であった。「和名類聚抄』によれば気仙・大島・気前の三郷が存金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の撞頭過程の研究(遠藤) 在し、このうち気仙郷は現在の岩手県陸前高田市付近、大(卯)島郷は宮城県気仙沼市付近に比定されている。陸前吉向田市内には「厨」銘墨書土器が出土して近年注目を集めているふるごおり(皿)小泉遺跡や「古郡」という地名も所在することから、気仙郷に郡家が所在した可能性が高い。気仙郡可金為時もここに拠ったのかもしれない○一〃の磐井郡は「山道」の要衝であった。南北に走る東山道・北上川という水陸交通の大動脈を介して北は奥六郡、南は栗原郡や登米郡に通じ、さらに砂鉄川・千厩川沿いに河谷を辿れば気仙郡へも通じるという〃交通の十字
路“であった。「和名類聚抄」によれば上腿・山田・沙沢。
ますざわ仲村・磐井・磐本・駅家の七郷が所仏凹、このうち「陸奥
話記」にもみえる仲村郷(後掲史料8)は岩手県一関市花泉町付近に比定される。近年、河崎柵擬定地同市川崎町かんざき門崎)の発掘調査が行われ、十一世紀代ものと推定される二条の堀が検州され、その「交通遮断」を重視した立地構(別)造の一端が明らかとなった。〃北上川の第二阯胆“とも一一一一口
うべき地を支配した金為行率いる磐井金氏は、河川交通を介した交易・物流に深く関与していた可能性が高い。かくのごとき北と南の結節点を地盤とした金氏は、受領官陸奥守の下で山海両道および対北方の政治・経済の実務五
一
を担う国府有力在庁であったと考えられ、「馬や金の調達
など蝦夷交易の実質的な統臘鞭」であった安倍氏と同様の
職掌・性格を有する豪族であったと位置づけることができよう。「陸奥話記』にて安倍氏の存在ばかりがクローズアップされた結果、ともすれば金氏は安倍氏の一従者に過ぎなかつたかのごとくとらえられがちであるが、実際には〃金氏あっての安倍氏“と一一一一mっても過一一一一口ではなかった。すなわち、安倍氏は確かに鎮守府在庁筆頭として陸奥国北部の政治・経済に大きな役割を果たしていたが、その力が直接及ぶ範囲は奥六郡内に限られ、安倍氏単独では「出二衣川外」ることも、海道地方に進出することもできなかったのである。その点金氏は、勢力こそ安倍氏に及ばぬものの、境界領域である気仙・磐井両郡を擁する国府在庁の一員として、東山道陸上交通、北上川河川交通、太平洋海上交通といった多種多様な交易・物流のルートを掌握していた。つまり、大勢力ながら単独では山道地方にしか影響力がない安倍氏と、同氏に較べれば)小勢刀ながら山海両道に影響力を発揮し得た金氏という関係であったのであり、ここに両氏が結びつく一つの動機が見出されるのである。安倍氏は金氏と結ぶことではじめて山海両道の広範な人や 法政史学第七十一号
モノのネットワークに参入し、「交易の統轄者」となることができたのであり、金氏もまた鎮守府在庁筆頭の安倍氏と結ぶことでより権力基盤を強化し、存在価値を高めることができたわけである。加えて、両氏が結びつくことは、陸奥国政全体にとっても重要な意味を持っていたのではないか。北方交易の利権をめぐる〃二人の受領〃の対立を収束させ、鎮守府から軍事貴族を排除しつつ安定的な奥六郡支配を図っていくためには、安倍氏率いる鎮守府在庁勢力を国府の麿下に編成し機能させることが不可欠である。境を接し、ともに交易統轄に重要な役割を担っていた安倍・金両氏が良好な関係を維持することは、そのための有効な手段でもあったのではないか。両氏が婚姻を重ねて蜜月関係を築いていった背景には、当事者レベルでの利害の一致に加えて、陸奥国政レベルでの政策領導の動きがあったと考えられるのである。ここで再度、前述した平孝義の陸奥国政改革に注目したい。その具体的中身については史料を欠き、多くを推測に頼らざるを得ないのであるが、陸奥交易御馬制に関して、孝義在任中の万寿三年(一○二六)以降ほぼ例外なく近衛府下級官人下毛野氏が御馬交易便に任じられるようになることから、これを改革の一環として理解しようとする説も
五 二
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(印)ある。下毛野氏の起用が果たして中央政府の、王導によるものであったのか、陸奥現地の意向を受けてのものであった(魂)の力は不明であるが、いずれにせよ孝義の代に鎮守府将獺停廃と並ぶ重要な先例が生まれたことは確かである。さらに注Ⅱすべきは、孝義自身、安倍氏と姻戚関係にあった可能性が見出されることである。前掲史料3には散位平孝忠なる人物がみえているが、高橋富雄氏はこの孝忠(弱)を孝義の一族の土着したものと推定されており、私jbM感である。「孝」の字を共有するばかりでなく「散位」を冠し、史料2では「貞任家族」として貞任・軍任・経清に次いで、史料3では「貞任・宗任之一族」の筆頭にその名が記されている孝忠は、孝義の血を享けた人物であった可能性が高い。源頼義が陸奥守離任時に常陸国の豪族多気権守宗基の娘との間に女子を儲け、彼女が後に清原真衡の養子成衡の妻となった事例を想起されたい。あえて想像をたくましくすれば、孝忠は、ちょうど清原武則の「ははかたのをい又むこ」であった吉彦秀武のように、平孝義と安倍忠良の娘(Ⅱ頓時の姉妹)との間に生まれ、かつ頼時の娘T貞任の姉妹)を要ったがゆえに「貞任家族」と称された可能性がある。いずれにせよ孝忠は前九年合戦当時、安倍氏一族内にあって姻戚としては藤原経清らと並ぶ-廉の「賊
金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の撞頭過程の研究(遠藤) 帥」として重きをなしていたに相違ない。このように考えられるとすれば、孝義と為元もまた安倍氏を介して姻戚愈良の娘婿)同士であったことになる。あるいは為元の婿入りをコーディネートしたのも、ほかならぬ孝義その人であったのかもしれない。婿入りをコーディネートしたのも、ほかならぬ孝義その人であったのかもしれない。安倍頓時の次男貞任が長元二年(一○二九)(帥)生まれであるから、頓時と同枇代の為一兀は孝義在任のころ十分婚姻適齢期にあったと言える。安倍・金両氏が緊密化することは、鎮守府勢力を自らの陛下に編成し、陸奥同政の安定化を図る孝義にとっても大いにメリットがあることであり、陸奥守孝義、鎮守府在庁安倍氏、同府在庁金氏の三者は以後、政策的にも血縁的にも結びつきを強めていっ
たのではなかろ1脚・その意味では、最近樋口知芯雌が指
摘したように、貞任の生母もまた磐井金氏の女性で貞任は為行の「ははかたのをい又むこ」であった可能性も十分考えられよう(図3)。安倍忠良は長元九年、陸奥権守に任じられたとも言われる。いかに将軍に代位する「鎮守府押領使」「奥六郡主」とはいえ、現地一蒙族が果たしてそのような高官に任じられるのか少しく疑問でもあるが、「陸奥話記』にみえる源頼五
義の代の陸奥権守藤原説貞は頼義下向以前の永承二年二○川上の段階ですでに藤原経清らとともに陸奥の住人で(田)あったことが知られるので、現地豪族の権守登川もあり得ないことではなかったらしい。ただ、仮に忠良が権守に就いた事実がなかったとしても、安倍氏が鎮守府の枠内にとどまらず、金氏らをはじめとする国府在庁勢力とも積極的に結びつくことでその立場を確固たるものとしていったことは動くまい。姻戚関係の樹立は、そのための最も有効な手段であったのである。
T影F女〒 安倍忠良写頼一百一町千代童〒
五金氏の分裂から前九年合戦へ
しかし、政治的安定も長くは続かなかった。平孝義の治 法政史学第七十一号
磐井余氏関係推定 安倍氏
図② 図3
世からわずか四半世紀後の永承六年二○五一)、安倍頓時は陸奥守藤原登任と武力衝突に及び(鬼切部の戦と、続く陸奥守淵瀬義との間にも天喜四年二○五六)以降戦端が開かれ、以後康平五年(’○六二)九月の安倍氏敗北に至るまで、前九年合戦が本格化していったのである。その前九年合戦において金氏は、源氏方に与する気仙金氏と安倍氏方に与する磐井金氏とに分裂した。ともすれば源氏と安倍氏との対決に埋没しがちな金氏の存在であるが、私はこの金氏の分裂にこそ前九年合戦の開戦原因を読み解く鍵が隠されているのではないかと考えている。「陸奥話記」の語る開戦経緯は次のようなものである。源頼義一行が鎮守府から国府へ帰還する途中、陸奥権守藤原説貞の子息光貞・元貞の夜営が何者かに襲撃され、人馬を殺傷された。頼義の事情聴取に対して光貞は「貞任、以2先年欲し蝋工光貞妹、而賤主其家族一不し許。貞任深為し恥。権し之貞任所し為突」と答えたため、頼義は貞任を処罰しようとした。しかし安倍頼時は「父子之愛不し能鳶棄忘心一日一伏し株、五口何忍哉」と貞任の身柄引き渡しを拒否し、徹底抗戦を宣言したため、頼義は安倍氏追討の軍を発し、その兵力は「坂東猛士、雲集雨来」して「歩騎数万」に膨れ上がっ 五四
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た。そこには、頓時の娘婿で国府在庁官人の藤原経清・平永衡の二人の姿もあった。ところが衣川への征途、永衡は内通の嫌疑をかけられ処刑されてしまう。立場を同じくする経清は二の舞となることを恐れて一計を案じ、「頼時造:怪騎出弓於間道、将r攻百N府取中将軍妻子Lと流一一一一口を構えて軍中を混乱に陥れた。頼義は周閉の勧めに従って急遼国府へと引き返した後、気仙郡Ⅶ金為時に命じて頓時を攻撃させ、頼時は舎弟僧良昭に命じてこれを防戦させた。為時軍はかなり優勢であったが、後方からの援軍がなかったため一戦交えただけで退却した。かかる混乱の隙を衝いて、経清は頓時の許へと寝返った。(要約)
しかし、すでに樋Ⅱ知迩雌が詳しく分析しているよう
に、かかる「陸奥話記」の記すエピソードをただちに史実とは認め難い。同書は前九年合戦を〃「追討将軍」源頼義による逆「賊」安佶氏の追討の物語“として拙き川す都合上、ことさらに安倍頼時・貞任父子の叛逆・不服従ぶりを強調して戦いの正当性の根拠としている感があり、そうした筋書きを素直に受け取るわけにはいかない。また、藤原経清が寝返った経緯は、後に頼義の恨みを一身に買って惨死することになる経清の「大逆無道」ぶりを示す事例とし金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の擾頭過程の研究(遠藤) て、そして平永衡が処刑された経緯はそのための伏線として、ともに意図的に盛り込まれた物語tの作為である可能性が高い。さらには「歩騎数万」などとある点も、その後の展開を考えればいかにも信懸性に乏しい。右記のエピソードのうち辮実と認められるのは、かつて貞任が縢原税貞の娘を嫁に所望して断られたことがあったということと(それを貞征が「深為し恥」して犯行に及んだかどうかは別として)、天再川年に金為時が僧良昭と一戦を交えたということの二点だけと一一一一口っても過一一一一mではあるまい。ここで注意すべきは、為時と対塒した僧良昭が磐井郡小松柵主であったことである。前述のように磐井郡は安倍氏と同族ざながらの蜜月関係にあった磐井金氏の地盤である。ざすれば、前九年合戦の実質的な緒戦となった天富川年の戦いは、源頼義の意を受けた為時率いる気仙金氏に攻撃された磐井金氏を僧良昭率いる安倍氏軍が救援した、いわば金氏何十の同族対決であったとみることができよう。翌天真五年、安倍頓時は「奥地俘囚」らとの戦いで負傷・落命してしまうが、この時「奥地俘囚」らを説得して官軍側に引き入れたのも為時であった。[史料7]「陸奥話記」天専五年九月段天喜五年秋九月、進二国解一言N上詠。伐頼時一之状上僻、
五五
「臣使三金為時・下毛野興重等、甘斗説奥地俘囚、令レ興一官軍C於し是鉋屋・仁士呂志・宇曾利、合一三部夷人弍安倍富忠為し首発し兵、将し従二為時℃而頼時聞皇其計へ日往陳二利害p衆不レ過二一千人っ富忠設一伏兵へ撃二之嶮岨「大戦二日。頓時為」流矢『所し中、還・・鳥海柵死。(後略と。ここでは川解という性格もあってか、「臣」Ⅱ噸義四身の手柄であったように書かれているが、菅野文夫氏も指摘するように、実際にこの作戦を企阿・立案したのは為時であったろう。前述のように為時の領した気仙郡は北方交易の前線基地であり、その総元締め的立場にあった為時ゆえに「奥地俘川」との交渉も可能であったと考えられるのである。それにしても、なぜ為時はかくも安倍氏追討に積械的であったのか。気仙金氏にとって安倍氏は頗る利害が対立する机手であり、その安倍氏を討つためならⅢ族の磐井余氏をも敵に川す必要があったようであるが、いったい何が原因であったのか。樋口氏は、永承六年の鬼切部の戦いが、三十数年前の寛仁二年(一○一八)に勃発した陸奥守と前鎮守府将軍との衝突の再現のごとき様相を呈していることに注目し、鎮守府将軍停廃後それに代位する存在となった安倍氏が、かつ 法政史学第七十一号
ての鎮守府将軍並みかそれを上回るほどの政治的・軍事的・経済的実力を備えるまでに強大化したことを、合戦の
重要な史的前提として挙げて乢秘。確かに、安倍氏が著し
く勢威を拡大したことにより陸奥国内における諸豪族のバランスが崩れ、そのことがとりわけ陸奥守や国府在庁勢力の側に深刻な脅威ととらえられた可能性はある。ただ、実際には陸奥守(藤原登住および源願義)による安倍氏追討はなかなか思うに任せず、兵士や食糧を整えることさえままならなかった。国府在庁勢力の側でも平永衡や藤原経清のように公然と安倍氏方に立った者のほか、中立・傍観を決め込んで追討に協力的でない者も相当数にのぼったとみられるので、必ずしも安倍氏を忌避する向きが大勢であったとは一一一一Uえないようである。やはりここでも、最大の原因として想定すべきは、北方交易をめぐる利権対立ではなかろうか。例えば、史料7には金為時と並んで下毛野興重なる人物がみえるが、下毛野氏といえば前述のように当時恒常的に御馬交易使に起用されていた近衛府下級官人である。当時の奥羽社会は「権門子年来求:善馬良鷹一考、狼聚如レ雲」(史料6)という状況下にあり、陸奥守にとっても公的・私的を問わず貢馬は重要事であったから、赴任に際しては必ずや馬の調達能力に五 六
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長けた者を郎従に加えていたことであろう。あるいはこの興重もそうした類型に属する人物で、ゆえに「奥地」の事情に精通し「甘説」に派遣されたものか。「奥地」より馬を運ぶためには陸路すなわち奥六郡を経由する必要があろうから、奥六郡主安倍氏と御馬交易便下毛野氏は交易御馬制の円滑な実施・運用に協力して責任を負う立場にあったとも一一一一口える。下毛野姓を名乗る興重が安倍頓時に対して明確に敵対的行動をとっていることは、安倍氏との間に馬交易をめぐる何らかのトラブルが発生していたことを示唆するものかもしれない。前述のとおり、安倍氏は金氏と結ぶことによって山海両道の幅広い人やモノのネットワークに参入することができた。当初は安倍氏・磐井金氏・気仙金氏の三者が陸奥守磨下に連携しながら、山海両道における安定的な交易・物流体制を構築していったと思われる。ところがその後安倍氏が強大化し、磐仲金氏との蜜月関係を深め、さらには陸奥国南部の交易領主である平永衡や藤原経済とも婚を通じるなどして影響力を拡大させていくにつれて、三者のバランスに不均衡が生じるようになり、気仙金氏は次第に体制から疎外され、既得権益を奪われるようになっていったのではないか。そこで気仙金氏は、自らにとっても安倍氏に
金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の撞頭過程の研究(遠藤) とっても生命線と一一一一口うべき磐井郡を安倍氏の影響下から奪還しようと図り、ついには安倍氏と結ぶⅢ族磐井金氏への武力行使に踏み切ったのではないか。また、権守藤原説貞が安倍貞任との縁談を拒否したのも、おそらくは家柄の貴賎の問題以上に、安倍氏の影響下に取り込まれて自らの政治的・経済的立場が損なわれることを嫌ったためであろう。説貞もあるいは為時と同様、交通の要衝を支配した交易領主であったか。もっとも、為時らの行動は決して大方の支持を得ていたわけではなく、また彼らを糾合した陸奥守源頼義にも独力で安倍氏を討ち滅ぼす力はなく、結局は出羽の巨頭清原氏の圧倒的な軍事力を頼むほかなかったのであった。一方、安倍氏と結ぶことに活路を見出した磐井金氏は、前九年合戦の渦中にあっても終始安倍氏と行動をともにした。天喜五年十一月の黄海の戦いでは、貞任とともに源氏軍を大いに破る活耀をみせた。そして、妓終決戦となった康平五年の戦いにおいても、金氏は生命線である磐井郡を死守すべく、安倍氏の〃防波堤“となって奮戦したものとみられる。{史料8]「陸奥話記」康平五年八月段(官軍)休二士整:干戈、不二迫攻撃U又遭「謀雨一徒
五七
これは八月十六日の小松柵攻防戦に続く件であるが、満を持して安倍氏討伐に向かったはずの官軍源氏・清原氏連合軍)が緒戦で食糧不足に陥ってしまったというのも奇妙な話である。「陸奥話記」は詳細を記録していないが、「遮。奪官軍之輔重・性反之人物」った実働部隊の中心は磐井金氏勢であったのではないか。仲村郷などは本来磐井金氏の勢力圏であり、ここでそう易々と食糧の調達を許すとは考え難い。史料にはみえない数多くの小競り合いやゲリラ戦が、官軍の迅速な進撃を阻んだのかもしれない。九月五日、貞任は精兵八千余騎をもって官軍の本陣を強襲したが、巧みな迎撃に遭って大敗を喫し、五日から七日にかけて石坂柵↓高梨宿↓衣河関と一気に磐井郡内の防衛拠点を攻略されてしまう(前掲史料3はここでの被害状況を伝えたものである)。勢いづく官軍の前に、安倍氏軍はもは 法政史学第七十一号
余糧驍人一。。
也如則00、凸
依二宗任之諒へ遮斗奪官軍之轆重・柱反之人物っ為し追引捕件好類飛分一一兵士千余人「遣弓栗原郡弛又磐井郡仲村地、去レ陣四十余里也。耕ゴ作田畠「民戸頗驍。則遣二兵士三千余人「令し刈三稲禾等「将レ給二軍糧p如し此之間、経苣十八箇日へ留:営中一者六千五百 送二数日p根尽食尽、軍中飢乏。磐井以南郡々、
最後に、これまで論じてきたことを簡単にまとめ直して、むすびにかえたい。①「前九年合戦絵詞』にみえる「金為基」は、「陸奥訴記」にみえる「安倍為元」とM一人物であり、安倍頓時の父忠良の娘婿として磐井金氏より迎えられた姻戚であった。この新知見により、安倍氏と磐井金氏とが二枇代以上にわたって婚姻を重ねていたことが判明した。濃密な姻戚関係で結ばれていた両氏は、前九年合戦当時Ⅲ族さながらの蜜月関係にあった。②近年安倍氏をめぐっては、「範国記』長元九年二○三六)十一一月二十一一日条に「陸奥権守安倍忠好」とあることを重視して、その陸奥国下向・留住を同年以降とみる新説が提起されているが、①の点に鑑みると、わずか や雪崩を打って敗走するほかなかった。十七日、安倍氏最北の拠点である岩手郡厨川・躯戸両柵が陥落し、勝敗は決したい〃防波堤“が破られた時、安倍氏の命脈は尽きた。磐井郡、磐井金氏の存在は、まさしく奥六郡安倍氏の生命線と呼ぶに相応しいものであった。
むすびにかえて 五八
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二十年前後で同族さながらの強問な紐帯を築き得たとは考え難く、従い難い。③安倍氏の出nは不明であるが、十世紀後半における陸奥国北部四郡回復の過程で鎮守府在庁に登用され、次第に撞頭してその筆頭の地位を占め、十一枇紀長元元年以降鎮守府将軍が停廃されるに及び、将軍に代位する「鎮守府押領使」「奥六郡主」としての地位を獲得し、さらに勢威を拡大していった。④金氏もまた出自や擾頭過程については不明であるが、気仙・磐井両郡という交通の要衝、北と南の結節点を掌握していたことから、陸奥守麿下に山海両道および対北方の政治・経済の実務を担うN府有力在庁であったと考えられる。安倍氏は金氏と結ぶことで「潮出二衣川外」、山海両道における交易・物流のネットワークに参入することができたのである。⑤安倍・金両氏の緊密化は、鎮守府在庁勢力を自らの麿下に編成し、陸奥国政の安定化をMろうとした陸奥守乎孝義(在任一○一一一一一~二八)にとっても大いにメリットがあることであった。陸奥守孝義、鎮守府在庁安倍氏、川府在庁金氏の三者は政策的にもⅢ縁的にも結びつきを強めていったとみられ、孝義自身も金(安倍)為元と並ん
金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の擾頭過程の研究(遠藤) で安倍氏の外戚となった。⑥前九年合戦において金氏は分裂し、安倍氏の強大化によって既得権益をⅢ瀞された気仙金氏は騨井郡を安倍氏の影響下から奪還しようと図り、同族磐井金氏への武力行使に踏み切った。一方の磐艸金氏は終始姻戚安倍氏と行動をともにし、磐井郡を死守すべく鴛闘した。安倍氏にとって磐井郡、磐井金氏の存在は生命線と呼ぶべきものであった。小稿では金氏との姻戚関係に注目しながら安倍氏の盛衰を概観してきたが、甚だ関係資料を欠くなかで推測・憶測を重ねた議論に終始し、数多の錯誤を犯しているのではないかと慨れる。大方のご批判ご叱正をお願いしたい。また、金氏以外の諸氏族(清原氏など)との関係をめぐっても論究すべき問題は多いが、いずれも今後の課題として、ここで掴筆したい。
註(1)安倍氏に関する先行研究は数多いが、’九九○年代以降では高橋錐「蝦夷の末商l前九年・後三年の役の実像l」(中公新評、一九九一年)、伊藤博幸。六筒郡と刺」樅に関する基礎的考察」二岩手史学研究」七五、’九九二年)、
ハミ九
法政史学第七十一号 熊谷公男「受領官」鎮守府将軍の成立」(羽下徳彦編「中世の地域社会と交流」吉川弘文館、一九九旧年)、本堂寿一「安倍氏俘囚論l陸奥の大豪族安倍氏の盛衰とその歴史的背景l」(「北上市立博物館研究報告」一○、一九九五年)、戸川点a「前九年合戦と安倍氏」(十世紀研究会編「中世成立期の政治文化」来京強出版、一九九几年).b「安倍頼良・貞任l前九年今城の群像l」(元木康雄編「古代の人物6f帆の変容と武肴」滴文堂出版、二○○汀年)、嶋本尚志「安倍氏の陸奥脚府在庁官人化について」(「文化史学」五六、二○○○年)、大石直正「藤原経清考」(大石「奥州縢原氏の時代」吉川弘文館、二○○|年)、樋口知志「「奥六郡主」安倍氏について」(「歴史」九六、二○○一年)、行脚成寛「鎮守府抑領使」安倍氏権力論l北奥における中世的政治権力の創出l」(「六軒丁中仙史研究」八、二○○一年)、井出将人「安倍氏の出向に関する一考察」S湘南史学」一五、二○○四年)などが挙げられる。これら諸説の対立点は次のように大別される。①安怯氏の川、*蝦夷系(俘凶)豪族(熊谷、本堂、鵬本)*中央貴族安倍氏の分流(戸川a。b、樋川、菅野成寛、井出)②安倍氏の政治的立場*公的地位なし(高橋崇)、実態は「六箇郡之司」に近い「酋長」(伊藤)、俘囚圏における大族長権(本 堂)*十一世紀以後の新しい郡川(郡司職)としての「六箇郡之司」(大石)*陸奥国府在庁官人(嶋本)*鎮守府在庁官人(熊谷、戸川a。b、樋口、菅野成寛、井出)③「範川記」踵元九年(一○三一ハ)十一一Ⅱ--1--Ⅱ条にみえる「陸奥椛守安倍山好」と、「陸奥話記」に安併頓時の父としてみえる「忠良」との関係*同一人物(戸川a.b、樋u、井出)*別人(大石、荷野成寛)④安倍氏の擾頭時期*十世紀後半代(鵬本、樋Ⅱ、管野成寛)*(②を受けて)十一肚紀になってから(大石)*(③を受けて)長元九年以降(戸川a.b、井出)(2)初名は頼良であり、後に源噸義の陸奥守補任に際して「何:大守名有し禁之故」S陸奥話記」)に頓時と改名したのであるが、小柚では軌時に統一する。なお、小橘で引川する「陸奥論記」は前川育徳会蝋経閣文庫蔵(二本を底本とし、諸本によって校合したものである。(3)「陸奥話記」には「頓時長男貞任」とあるが、「晋妻鏡」文治五年(二八九)九月二十七円条に「頓時(中略)男子者、丼殿盲目、厨河二郎貞任、鳥海――一郎宗任・・・」とあるように、実際には二男であった。長男の井殿が盲nであっ
六○
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たため、貞任が実質的な長男とⅡされていたのであろう。{一○五七)(4)「十訓抄」第六に「犬喜五年十一月に、千二一百余騎の丘〈を発しておそひよせけるに、貞任等川下余騎の勢を集めて、しうと金為行が河堰柵にこもりて、足をふせぎたたかふ」とある。(5)「陸奥話記」に「頓時聟散位藤原朝臣経済・平永衡」とあり、永衡についてはさらに「峻二頓時女」ったとも明記されており、疑いない。(6)菅野文夫「気仙郡金氏小論」S岩手大学教育学部研究年報」五四’一一一、一九九五年)。管見の限り、金氏についての唯一の専論である。以下、同氏の見解はすべてこれによる。(7)「安藤系図」(「諸家系図纂乞は「則任法名良昭」を頼時の兄、「為元赤村介」を弟とするが、「陸奥話記」に従う。前者はおそらく「朝野群載」巻十一康平七年(一○六四)一一一月二十九Ⅱ付太政官符(以下、「朝野群救」大政官符)にみえる「沙弥良増俗名則任」と混同したものと想われるが、同官符では「僧良昭」とは明確に書き分けられているので何一人物ではあり得ない。同系図が良昭を兄としているのも、同官符で良昭が正任の「伯父」とされている点に由来するか。(8)中世の国衙在庁有人は正式な場では「散位何某」と称し、通常はその居住地によって「地名十大夫」の形で呼ばれていたという(大石直正註(1)前掲論文)。したがっ
金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の撞頭過程の研究(遠藤) てこの「赤付」も地名である川能性が高いが、具体的比定地は未詳。また「介」についても、為元が実際に陸奥介(権介)を歴任した事実にもとづくものなのか、単に国衙在庁官人のなかでの地位を示す呼称に過ぎないのかは未詳。(9)小松茂美編『前九年合戦絵詞平治物語絵巻結城合戦絵詞」続U本絵巻大成Ⅳ(中央公論社、一九八三年)所収。(Ⅲ)現存する「前九年合戦絵訓」は詞三段、絵七段からなり、それぞれ次の人物が登場する(傍線は「陸奥話記」にその名がみえない人物、太字は安佶氏方の人物)。詞登任・頼良(安大夫頼時)・唐大宗・藤原利仁・〈源加純)藤原経逵眉・平永衡・将電・貞任・後藤内川明・宗〔昭力〕任・良□絵将軍・通利・義家・則明・承通・光任・茂頼・元貞・光貞・永衡・経清・金為行・金為基・宗任・重任・貞任・則任・良昭右で傍線を付した人物のうち、牌の太宗李阯民については「彼焼し鬚唆し膿」った逸話が「陸奥話記」康平五年九月五日段にみえ、藤原利仁は十世紀前半代の鎮守府将軍であり、ともに合戦の当事者ではなく歴史上の人物。大宅光房は光任の子息であり(『巾右記」寛治七年〈一○九三〉七且一一十日条)、「奥州後一一一年記」に源氏方の武将としてみえる。金為基以外では通利なる人物のみ系譜未詳であるが、やはり源頼義の近臣か。
●、ムユノ’
(u)これは樋口知志氏の説くところの「源氏史観」による〃筆株“(「陸奥話記』と安倍氏」〈「岩手史学研究」八四、二○○一年〉)のなせる榮なのかもしれないが、仮にそうだとしても、安倍姓の者で唯一国解(史料2)に「散位」を冠されている為元の特異性は揺るがないと考える。(皿)史料1.2では為元以外の希も含め「俘凶」は一人もいないのであるから、両史料のみを根拠に為元が「俘囚」とはみなされていなかったと即断することはできまい。しかし⑤でも後述するように、宗任ら「帰降俘囚」たちの交名を記した「朝野群載」大政官符に為元の名が一切みえない点は誠に不審であり、為元は忠良以来の安倍氏直系血族の範鴫には含まれない存在であったのではないかと疑われる。その意味において、金氏が「俘囚」呼ばわりされた事例がないことは非常に示唆的である。(皿)仮に養子であれば、④にて後述する安倍氏一族の名付けの通例に則って養父の「良」の字を承けた名に改められるであろう。(u)あるいは僧良昭の「良」も父の一宇を承けたものか。(巧)「前九年合戦絵詞」では澄場人物が原則無性で鍔かれているなかにあって、「金為行」「金為基」の両者が、登場する二つの場面いずれにおいても例外的にフルネームで書かれている点も注Ⅱされる。藤原経楕と平水衛は、詞では姓名で書かれているが、絵では無姓である。(旧)「朝野群載」太政官符、「扶桑略記」康平七年三月(諸本 法政史学第七十一号
は閏一一一月とするが誤り)条、「百錬抄」同Ⅱ二十九Ⅱ条、「帝王編年記」同月条。なお、「朝野群載」太政官符の帰降俘囚交名には宗任・正任・則任(出家して沙弥良増)・家任の四名に加えて頓時男子として「貞任」が挙げられているが、斬獲賊徒である貞任が帰降俘囚の交名に篭場するはずはなく、別人名(真任?)の誤写誤伝と考えるほかないo(Ⅳ)「扶桑略記」康平七年三川条、「百錬抄」MⅡ二十九Ⅱ条、「帝王編年記」同月条。(旧)頓時の子息であれば、史料2、「朝野群載」太政官符、「吾妻鏡」文治五年九月二十七Ⅱ条のいずれかには必ずその名が記されるはずである。また、頓時の”実質長男“貞任の子息千代童子でさえ康平五年当時十三歳であるから、「驍殉騨拝」の「賊帥」である時任・貞行が孫仙代ともぢえ難い。(四)「奥州後三年記」。「陸奥話記」康平近年八Ⅱ十六Ⅱ段に
も「吉彦秀武為:三陣乙城川捌附畔鍬川・」とみえる。
(型「十訓抄」第十。(Ⅲ)前掲註(型でも述べたように貞任の子息千代童子は康平五年当時十三歳であったから、逆算すると生年は永承五年二○五○)頃となる。その生趾が誰であったかは明証を欠くものの、永喉三~Ⅲ年洲時二十歳前後であった貞任に何人も妻がいたとは考え難く(陸奥権守藤原説貞の娘との縁談を拒まれたのもそれ以降のことか)、為行の娘とみ 一ハーーHosei University Repository
て問題なかろう。(犯)戸川点註(1)前掲a.b論文、井出将人註(1)前掲論文。北出氏は「前九年段階における安倍氏の陸奥脚諸氏族(平永衡や金為行ら)との婚姻関係が頼良以前にさかのぼらないことも安倍氏の忠好時点での下向を裏付ける証拠」とも述べており、私見とは杣反する、(翌渕原判幸a「平安前期東北史研究の再検討l「錬守府・秋川城体制」説批判l」(「史林」八五’三、二○○二年)、b「九仕紀陸奥国の蝦夷・俘囚支配l北部囚郡の廃絶までを中心にl」(「Ⅱ本史研究」五○八、二○○旧年)Ⅱ(型)渕原科幸「歌枕の川例分析からみる平安中期東北支配の推移’十世紀後半までを中心にl」S平泉文化研究年報」三、二○○三年)。(妬)「宋史」巻山百九十一。ただし人宋の年号は「簡然入宋求法巡礼行並瑞像造立記」に従う。(妬)鎮守府や秋川城が古代城柵としては廃絶した後も場所や機能を変えて存続していったことは、鎮守府将軍や秋田城介がその後も任命され続けていることや、『陸奥話記」に源頼義が「任終と年、為し行く府務へ入鎮守府」ったとあることから明らかである。(〃)もっとも私は、出目そのものはさほど本質的な問題ではないと考える。何となれば、現地有力者となるためには〃純粋な中央貴族“〃純粋な蝦夷豪族”であり続けることはできないからである。仮に中央出向であれ止着・閉住の過
金氏との姻戚関係からみた奥六郡安倍氏の攪頭過程の研究(遠藤) 程では蝦夷一豪族とも婚を通じるであろうし、蝦夷出自であれ有力者ともなれば下向してきた中央貴族(受領やその郎従ら)と鮪を通じる機会もあろう。中央から見ればどちらも現地豪族には違いなく、大差ないのである。(羽)一日本紀略」同年二月十八日条。鎮守府将軍平貞盛の使が狄の坂丸らに殺害された。(空「類聚符宣抄」巻八寛弘七年(一○一○)六川八Ⅱ付大江匡衡申文から犬延二年丹波守であった平貞盛が急遼陸奥守に転じたことが知られ、「今脊物語集」巻二十九’第二十五話からその理由が夷の反乱であったことが知られる。(弧)「小記目録」同年三月十六日条。(型「御堂関口記」同年八Ⅱ十九Ⅱ条、「小記Ⅱ録」同Ⅱ条。同年一月には平水盛が鎮守府将軍に任じられておりS安西氏系図』、『平群系図』)、この時維良は前将軍であった。(聖「小沿記」同年二Ⅱ七U条・献上した相手は左大臣藤原道長である。維良は翌年にも道長に馬十頭を献上している(「御堂関日記」長和四年十一Ⅱ三日条)。(翌斉藤利男「軍事貴族・武家と辺境社会」(「n本史研究』囚二七、一九九八年)。(弧)渕原誌(翌前掲a論文。(妬)熊谷「受領官」鎮守府将軍の成立」(羽卜徳彦編「中世の地域社会と交流」、吉川弘文館、一九九四年)。陸奥国に賦課された貢進物を実際に調達していたのは鎮守府であり、奥六郡周辺での採金や交易馬に代表される奥地の蝦夷
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