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ソネットの二つの「愛」と「対話」

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(1)

ソネットの二つの「愛」と「対話」

著者 坂本 完春

雑誌名 主流

号 31

ページ 1‑24

発行年 1969‑10‑30

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016731

(2)

ソネットの二つの「愛」と「対話 J

坂 本

=.. 

7G 

「人間的愛」のソネット Csecularsonnet)はエリザベス朝には数え尽 せないほどめる.Wyattや Surreyが噛矢となり, Sidneyの Astrophel and Stellaは文名を求める詩人達が競い合う流行の先鞭であった.Shakes‑ peareのソネット集は今も尚傑作として多くの人を感動させ得る.

一方 i神の愛」のソネット Cspiritualsonnet)は , 恐 ら し 「人間的 愛」のソネットを書いていた B.Barnesに始まる.DonneのHolySon‑ netsは余りにも有名である.G. Herbertにも佳品がある.現在に近いと

ころでは Hopkinsの terriblesonnets円も言及に価しよう. W. Ala‑ basterのソネットは最近ようやく上梓された.その重要さは Donneや 形而上派詩人や,反宗教改革側を代弁する詩人達との関係に於いて G.

M. Storyが説明するほど三流でない.

「人間愛」のソネヅトと「神の愛」のソネットは形式だけでは識別出来 ないことが多い.押韻形式や論理構造なども等しく区々である.概して,

「神の愛Jのソネットが,ベトラルカの押韻形式にやや傾科している.

しかし,この両者は使用する言語の範障を異にしている.その異質性が 許容度以下と考えるならば

r

神の愛」のソネットを「人間的愛」のソネ ットのパロディーと評することも可能である.何故なら,宮廷愛とキリス ト教との隠徴な相互影響関係と i人間的愛」のソネットが宮廷愛を下敷 にしている事実に論拠があるからである.したがって i人間的愛」のソ ネットがキリスト教のパロディーと結論することも出来る.一言で言うな

(3)

らば

r

神の愛」のソネットが「人間的愛」のソネットに重なる.さらに,

パロディーという言葉が批評上の常套語となった最近では

r

神の愛」の ソネットは「人間的愛jのソネットのパロディーだと言っても,それは余

り多くを語ってくれない.

ところが,両者に於ける言語範障の異質性が許容度以上とする立場から 発想すると,その異質性が何に由来するか,という疑問が生まれる.すな わち,この両者に顕在する「愛」の言語範曙の位相については余り指摘さ れていない.さらに

r

対話」の言語範轄の位相がこの両者では際立って いる.

この小論では「神の愛」のソネットの「対話」の由来を究め

r

人間的 愛」のソネットと「神の愛」のソネットの「対話」と「愛Jの相違を指摘す るのが目的である. そして,

w .  

Alabasterのソネットを中心に例証する.

「対話」という文学形式の系譜を辿る時,ルネッサンスの英国から中世 へと,そして,遠い古代ギリジヤまで,薩糸の一本を手繰寄せる必要があ ろう.

r

対話」の原型は言うまでもなくプラトンにある. もう一本の経系,

「愛」もプラトγに結合わせ得る.

プラトンの対話篇の一つである『饗宴』は饗鐘につらなる者がエロス賛 美を語りながら,徐々に,プラトン的な「愛」の本質を明らかにしていく.

原理的には,霊肉分離の二元論に拠るのがプラトンの「愛」である.こ の時,霊魂と肉体との関係について,肉体を霊魂に従属させたことが,一 つの「対話Jの型を作り上げた.プラトンはイデアの美を,霊魂が肉体を 媒体にして到達しようとする究極的な目標と定める.官能的な肉体蔑視の 思想、がここに沈澱していた.肉体的な美は,イデアの美への触媒に過ぎな いもので,この限りに於いて女性の美しさも触媒に過ぎない.肉体は積わ しいもので,霊魂はここに幽閉されている状態にも等しい.だから,霊魂

(4)

ソネットの二つの「愛Jと「対話」 をこの肉体から解放することが望ましい.肉体は棄てるべきで,肉体をつ ける《受肉}>(incarnation)とは反対の極に座標位置を持つ.また,肉体 を棄てることは,霊魂の浄化のために不可避な過程でもある.ここに言う 霊魂の浄化とは,霊魂が神的なもので,地上での幽閉された状態を脱脚し て,彼岸の世界に帰る,いわば回帰のメカニズムを意味する.美しい肉体 を求めながらも,やがては,イデアの美へと飛期する.この霊的回婦の背 後には,神秘的な論理が働いている.すなわち,個別的な美に真の美はな しそれを超越したところにイデアの美が存在するという論理がそうであ る.これを認識する時,霊魂は個別的な美の彼方の世界への帰趨本能を示 す.

宮廷愛の結婚否定は,ここでプラトンの「愛」の理念と結びつく.とい うのは

r

愛に死ぬ」という宮廷愛の逆説は,現象的には,アウグスチヌ スの「愛を愛する」ことであろう.しかし,本質的には,肉体をつけた女 性の彼方に目を向け9 自己の霊的回帰の:験烈な欲求に基づいている.それ は,ぺトラルカがラウラの死を契機にして意図した霊的回帰と同じ性質の 逆説である.

r

はるかな恋人」への旅立ちは死を中心に回転する.

このような「愛」を定着させる「対話」は自己を凝視する形式にならざ るを得ないであろう.プラトンでは,ソクラテスが参加者の発言の中から,

不必要な部分を捨象する問答形式である.

南仏プロヴアンスのトルノミァドヮールが用いた詩型に,同様の問答方式 がある .Tensonはその一つである. この詩型は対話とも呼ばれ,二人の 開で,例えば,聖職者と騎士とではどちらが恋人として理想的か,または,

真の恋愛は夫婦問に存在し得るか等,交互に対句で論じ合う体裁を持って いる.一方が他方を説得,あるいは,論破出来なかった時,反歌 Ctorna‑ dめによって,当時宮廷サロンを牛耳り,謀雑な宮廷愛の提を慣習化させ,

騎士達に守らせた貴婦人に論争の決着を求めて訴えかける.この時めく貴 婦人がトルパァドウールにとって,必ずしも現実的な「愛」の対象でなか

(5)

ったことは想像に難くない.むしろ Iはるかな恋人」ととしての実在性 をしか持たず,この「はるかな恋人」へのJ思慕は霊的回帰に不可欠だとす る負の方向への「愛Jが作用していたであろうと推測出来る. Iはるかな 恋人」への直訴は,tensonだけでなく canzoneの反歌(切りoy)にもあ る.ダンテやぺトラルカはこの詩型をもよく使った. 9から16連で, 14連 のものが最も普通だとされている.ソネットの詩型はcanzoneから偶然産 み出されたという説もあるぐらいである. しかし ,t ensonや canzoneに 反歌を必要とした事情は決して偶然のなせるものでないだろう.死を原点

とする負の方向への「愛J,すなわち, 霊的回帰の「愛」には, 訴えかけ による「対話J以外に,宮廷愛を正の方向への「愛Jに反転させ得る方法 がなかったのである.つまり,プラトン的な「愛」の影響下の宮廷愛では,

肉体を脱出し,霊的回婦を願う「愛」であるため,肉体の彼方の世界を直 視する.言い換えるならば Iはるかな恋人」に訴えかけながらも,それ を越えたところの自己の霊魂との「対話」であって Iはるかな恋人Jか らの答えが聞かれないことを特徴とする.むしろ Iはるかな恋人Jから の答えを逆説的に期待してないのではないだろうか.

「人間的愛」のソネットの伝統を形づくったのはペトラルカであること は周知である.彼の影響が顕著な詩作法では9 秘められた愛,献身的な愛 など,報われぬ愛を託つのを常套とする.そもそもの発端から対話が完全 な形をなしていないことが因習の一部であった.それゆえに,愛の認識,

あるいは,それによる霊的回心は,対話が完全な形式を備えていたならば,

有り得ないことを大前提としなければならない. この逆説, または, 錯 覚がベトラルキストの詩的想像力を刺戟する.したがって I人間的愛」

のソネットは幻聴の対話を特徴とするものと言えよう. SidneyのAstro phel and Stellaの34番のソネγ トはその一例である.

(6)

ソネットの二つの「愛Jと「対話」

Come

, 

Let me write. And to  what end?"  To ease  A burthened heart. "How can words ease

, 

which are  The glasses of thy daily vexing care?" 

Oft

, 

cruel fights wel1 pictured forth do please.  Art not ashamed to publish thy disease?" 

Nay that may breed my fame.  It is  so rare. 

But will not wise men think thy words fond ware?" 

Then be they close

, 

and so none shal1 displease.  What idler thing, than speak and not be heard?

What harder thing, than smart and not to  speak? 

Peace!  foolish wit! Withwit

, 

my wit is  marred. 

Thus write 1, while 1 doubt to write; and wreak  My harms on ink's poor 10ss.  Perhaps some五nd Stella's  great powers

, 

that so confuse my mind. 

speak and not to be heard 'は無益だとする認識,それに対して,‑'smart  and not to speak'は尚困難だという挫折感一対話の断絶によって愛の告 白が倒錯症状('disease うを示せば示すほど,秀れた( rareうソネット が生まれるという.この図式がこのソネットの内的対話に凝縮されている.

そして, この内的対話は,形式の上では対話の断絶に対しての疑似対話 (mock dia10gue)として Sidneyの詩作法の卓抜さを物語る.したがって,

「人間的愛Jのソネットは幻の対話者(現実の女性の彼方にある理想の女 性

λ

すなわち,自己の中の他者との対話の試みの結果であると言っても,

決して言い過ぎでない.

ソネットに於けるこのような蚊行的な対話が,ベトラノレカの亜流の詩人 達では恋愛憂欝病を惹き起す. ソネット詩人達が共有していた奇想にはこ の事情を説明する好個の例が多くある.

Thine eye

, 

the glass  where I beh01d my heart. 

(7)

Mine eye

, 

the window through the which thine eye  May see my heart; and there thyself espy 

In bloody colours

, 

how thou painted art! 

(Constable

, 

Diana

, 

Sonnet I‑V)  心の交換とか,幻の対話者の姿が心に刻まれているとか,心はそのような 対話考を記る「社Jであるとか,という奇想がソネット詩人達の逆説的な 論理を詩に定着させるために好んで用いられた.愛の対話を行う幻覚上の 対話者が愛を告白する側の心や自に宿ると説くのは,自己の中の他者と対 話していることを灰めかし,それは,とりもなおさず愛を告白する側が幻 覚上の対話者でなしその対話者と現実に対坐していることを逆説的口説 で主張している.しかし,これとても,時には心そのものを

. by such slights as never were found out,  To serve your turn, he daily went about. 

(Barnes

, 

ParthenoPhil.

, 

II)  と幻の対話者(詩人にとっては対話者が実在で,幻覚が現実であり,現実 は虚像に過ぎない.例えば,夢で幻の対話者と対話するために夜を待望し たりする奇想に顕著〉の方に移動させるほど途方もない論理の飛躍を執劫 に繰り返したりもする. もっとも,ソネット詩人の論理に従うなら,幻の 対話者の心が愛を告白する側の心に虚像を結ぶだけでなく,心そのものが 移動するならば,愛が現実の世界一現実には幻覚の世界ーで認められるこ とになり,愛の充足という宮廷愛の伝統と反対の結末に導かれることにな る.この論理を推し進めると,ソネットの存在理由そのものを否定するこ とになりかねない.というのは

r

人間的愛」のソネットでは愛の充足が 現実の世界では実現されないことが暗黙の約束であったから.

ペトラルカを始めとするソネット詩人達が一方通行的な対話を真に迫ま る対話にするためには,どうしても,奇想の論理構造を極度に活用しなけ ればならなかった.ホラチウス流の雄弁術を下地にした説得のレトリック

(8)

ソネットの二つの「愛」と「対話」 は正確な論理の展開と,文体論的色彩の強い性質のものであったが

r

人 間的愛jのソネットがよりどころとした論理構造は幻の対話者を対話の席 に就ける可能性のより大きいものでなければならなかった.この結果,ソ ネット詩人達は新しい奇想を創造することで幻の対話者が現実の対話者と して対話の席に就くだろうという迷妄を犯したことになる.すなわち,新 奇な奇想が現実に於ける愛の成就につながるという.これは,意味の範轄 の異なる二者間に,意味の不連続性を拡大することに過信した事実に徴し てみれば明白である.現象的には,対話の断絶,あるいは,不在が論理の 不連続性を誘い易い結果をともなう.

「人間的愛」のソネットに於ける一方通行の対話は,男性から男性へ向 けられたものもなくはないが,一般的に男性から女性に向けられた.しか し,女性から男性に向けられたものは皆無である.特に注目すべきことは,

女性を神格化ずることがゐっても,あくまでも人間と人間の聞に試みられ る.

対話者が人間であるか,神であるかが,表面的にかなり色槌せて映るの は

r

人間的愛Jのソネットでも「神の愛Jのソネットでも宗教的表白応 求心しようとする領向と無関係でない.対話者が人間であれ,対話の主題 は愛による人聞の実存に係る.ところが

r

神の愛」のソネットを「人間 的愛Jのソネットと区別するためには,対話者が神であるか,人間である かが一つの目安となる. さらに

r

愛Jの意味の外延に「人間的愛」と

「神の愛」とがあるとするなら,その「愛jの内包を増加させることも両 者を区別する規準として機能する.

キリストへの愛と,理想の女性への愛はそのレトリックでは,

r

神の愛」

のソネットと「人間的愛jのソネットに於いて重なる部分がかなり多い.

つまりラ愛を求める蟻烈さが同じレトリックで表現されるため,パロディ

(9)

ーだと安易に片づけられたりもする.事実は1"人間的愛」のソネットで は心理的葛藤 (対話の不在による〉ーは外的なものー(女性のつれない 態度)ーによる.一方1"神の愛」のソネットでは思弁による内的相到一 (神の愛と人聞の罪)ーが14行に凝縮される. 1"人間的愛」のソネットで は愛の充足がなし 「神の愛」のソネットでは神の愛を求める信仰者には 神の愛が無限に約束されている.前者では愛への飛朔が幻覚上の対話者一 出発点に於いては幻覚ではないがーの肉体的な美,精神的な美を誇張的に 虚構,あるいは,告白することを機縁としている.これに反して,後者で は主にキリスト教的逆説を想像上実像化することで神との交渉を希求する.

勿論フ逆説は後者だけでなく,前者にも顕在する.宮廷愛の「愛に死ぬ」

一現実に報われ沿いので,彼岸の世界での一体化を期待する という逆説 が前者の典型的な逆説である.

「人間的愛jのソネットに於ける逆説の論理構造は詩人と対話者との聞 の対話の不在に対する詩人の側の挫折感の産物であった. 1"神の愛」のソ ネットに於いては,罪の意識が「神の愛」と密接な相関関係を持つ.キリ ストの死による購は罪を赦す愛であって,~受肉》は「愛」の肉化である ことは言うまでもない. 1"人間的愛jのソネットの「愛に死ぬ」という逆説 と表面上酷似している.H. Gardnerは恋愛詩人は愛の中に自我像を描き,

宗教詩人は祈りに自我像を投影する, と説いている. 霊的回帰を目ざす

「愛」は肉体を放棄することを求めた.これに対して,正統キリスト教だ と主張するカトリシズムは1"愛j が肉体をつけることから始まる.~受 肉〉こそカトリックの「愛」の全ての摘要である.神は救い主としての

「愛」の使者を地上の人間に与えた.イエス・キリストこそ救い主として の「愛」が肉体をつけた姿である.ここで,神と人間との「対話」の宇宙 軸が完成されたことになる.したがって,キリストの愛が地上に満ちてい ると信ずる者にとって「はるかな恋人」への訴えかけの,一方通行的な対 話は一転,正視しながらの相互的な「対話」に変容する.

(10)

ソネットの二つの「愛」と「対話」 9  この相互的対話の原理は,聖イグナチオの theSpiritual Exercises CW霊 操~)に示され,聖イグナチオは colloquy と呼んでいる.

16世紀ドイツで口火を切ったルーテノレの宗教改革に続いて,カトリック 教会内で反宗教改革が蕗済として起り,野火の如く広がっていった.反宗 教改革の中心はイエズス会で,目標としたのは

. to  grifyall  Renaissance appetites  not  directly  pagan  and to  extend still  further

, 

in opposition to Protestant censure

, 

the tradition‑ al  Catholic employment of arts. 

であった.反宗教改革の運動では,抽象的,思弁的神学を具象的な表象で 想像上,感覚的に把握することを奨励し,思考と感性の一致を試みた.そ の結果,聖人崇拝が流行し,聖母マリア,マグダラのマリア,ヨハネ,ベ テロ等が彫刻,絵画,詩歌に頻繁に登場するようになった.なかでも,マ

li) 

グダラのマリアの「涙」の観想詩が反宗教改草に参加した詩人達の聞で多

1$ 

く作られた.その上 1人間的愛」のソネットで用いられた激情的な言葉 で表現するのが特徴的であった.また,宗教的体験をソネットに托する風 潮が生まれ,神や聖人に訴えかけるソネットが登場した.

反宗教改革の中心になったイエズス会を創立したのは聖イグナチオであ る.絶望と失意、の末,自殺寸前の聖イグナチオが『福音書』と『キリスト のまねび』だけを携えて数日間の予定で滞在した Manresaで10ヶ月に及 ぶ修行を勤め,全ての罪を書き記したが Wキリストのまねび』が精神的 回心のきっかけになったと伝えられている. この回心を聖イグナチオは

『霊操』として記録した.

1615年ローマで初めて出版されたが, 1521年"‑'1541年にかけて執筆され たと言われ,以後,反宗教改革側のキリスト教徒に広く知られ,宗教改革 側のプロテスタントにも知れるところとなった.俗事を避け,隠遁し,斎

(11)

ソネットの二つの「愛」と「対話」

戒して黙想を行う.神に仕える身であると否とに拘らず,信仰を深め,一 身上の問題に決着をつける時にも応用された.霊操は主に黙想によるもの で,信仰生活の基本的態度を培い

r

神の愛」に応えることが主眼であっ た.期間は約30日間 4週間続き,霊操者の目的に応じて長短自在であっ た.そして,霊操者が未経験であれば,霊操の理論と実際に通じた指導者 の指示に従うことになっていた.霊操は人間又は被創造物の目的について の黙想から始められた.次のような順序で行われる.

First week‑sin of the past. 

Second week‑Kingdom of Christ, from the  Incarnation to  the eve  of the Passion. 

Third week‑the Passion, from the last  Supper to  the Burial.  Fourth week‑the Resurrection to  the Ascension 

キリストの生涯の事蹟を黙想するのであるが,この黙想の独特な構造が興 味を惹く.

1.  preludeCs).  2.  pointCs).  3.  colloquyCs). 

この三要素が一体となって黙想を構成する. preludeは acompo‑

sition

, 

seeing the place.  Here it  is  to  be observed that . . . the compo‑

I

sition wil1 be to see with the eye of imagination'であって,想像上の現 場想設を目的としている.Martzは形而上詩人の特徴である感覚的把握の

1

モデノレはここにあると主張しているが, preludeはこの意味でcolloquyに 次いで重要な点である.宗教改革を行ったプロテスタントには感情過多は 霊魂の敵であり,堕落の原因になると考えていた.反宗教改革側では感覚 を刺戟するものが神との対話を助けると考えた.したがって,神のキリス トに於ける顕現は感覚的に受容しなければならない.神の愛と痛みを想像 上の五官により追体験することが preludeの目標であり, 黙想の端緒で

(12)

ソネットの二つの「愛Jと「対話」 11  もある.preludeがもう一つあれば,神への願いを告げるものとなる.神 の復活が黙想の主題である時,神への願いは神の喜び、を共感することで,

1$ 

受難が主題であれば,神の痛みを共感するものとなる.

!Ii) 

第2のpointは霊魂の三能力(記憶,悟性,意、志)を活用して自己の罪 の深さを知仇改俊するように意図されたものである.この霊魂の三能力 は,先ず「記憶」によって過去の罪を想い起し I分折,吟味」し,最後 の「意志」の力で全体を会得し I神の愛Jに志すζとを目ざす. という わけで,霊操は霊魂の三能力が辿る軌跡だと言い得る.殊に I悟性Jと

「意志」の関係は注目に価する.

In the use of understanding

, 

we converse as  it  were with ourselves ;  in the acts  of the will, we address, ourselves to God.  The work of  the understanding is  chiefly a preparation for prayers; but the acts 

1'0 

of the will  are prayer itself. 

これによると ιI官性jは自己の中の自我と対話するように対話を試みる.

続いて I意志」では視線は自己の中の自我から神へと転じる.対話は神 との間に行われる.だから I意志」の機能は神と対坐し,対話する場を 提供することにある.ここまでくれば,もはや,対話の不在とか断絶を託 つ必要はなくなる.Sidneyの疑似対話を始めとする「人間的愛」のソネ

ットの披行的な対話は,神との完全な相互的対話が「神の愛

J

のソネット で実現されることを予想するものである.次の G.Herbertのソネットで は Sidneyと同じ方法,すなわち,内的対話を用いながらも,そこには,

Sidneyのような対話の不在を嘆く戸が聞かれない.

1 threatened to observe the strict decree 

Of my deare God with all  my power and might.  But 1 was told by one

, 

it  could not be; 

Yet 1 might trust in  God to be my light.  Then will 1 trust

, 

said 1

, 

in him alone. 

(13)

ソネットの二つの「愛」と「対話」

Nay

, 

ev'n to trust in him

, 

was also his:  W e  must confesse that nothing is  our own. 

Then 1 confesse that he my succour is:  But to have nought is  ours

, 

not to confesse 

That we have nought.  1 stood amaz'd at  this

, 

Much troubled

, 

ti1l 1 heard a friend expresse

, 

That all  things were more ours by being his.  What Adam had

, 

and forfeited for all

, 

Christ keepeth now, who cannot fail  or fall. 

(The Holdfast ")  神の思寵をめぐって対話が行われ I悟性」が「意志」に先行している.

さらに,対話者が友人として登場し,神との対話が友人との対話のように 親しく交わされることも幻覚でなくなる. 神との対話は colloquyに至り 完全に形を整える.

第3の colloquyは機能的には霊操を締括る.神との対話を黙想、によっ て行うが9 訴えかけの祈りという形で自由に吐露する.また,神が語りか ける対話を聞くこともある.

For God will surely speak  to  the  soul  that  waits  upon Him, not  indeed with words that we can hear with our outward ears

, 

or evn with the inward heringof the imagination

, 

but by the power of His  Holy  Spirit  enlightening  our  understandings

, 

teaching  us  hidden  mysteries

, 

kindling our affections

, 

and drawing our hearts to  Himself 

l

in Love. 

内的対話による姑息な対話でなく,音声により聴覚に訴える対話でもない.

キリストの生涯が,特に,キリストの愛が,聖霊によって「悟性」を刺戟 し,神へと向わせる対話である. また,聖体拝領こそこの colloquyの儀 式化だと言えよう.colloquyの意味の放射はキリスト教信仰, な か ん ず

(14)

ソネットの二つの「愛」と「対話」 13  く,カトリック教義の全体に拡散される.そして,この意味の収数点では もう一つのキリスト教的逆説が重なる.キリストが神でありながら,同時 に人間であるという《受肉》の逆説が, col1oquyによる神との対話を理論 的に支える.その上,人間の世界に於ける出来事としての印象を強くする のに役立つ.十字架上のキリストと『聖書』が神の「対話」の一変型であ る.

神との対話は,友人がその友に,奴隷がその主人に,息子が父に,恩寵 を請ったり,悪業を叱責したり,忠告を求めたりする過程で行われる.原 則的には霊操の終りに行うが,必要に応じて,どの時点で試みてもよいと され,回数も自由である.しかし,最後に行うのが最適だという根拠は,

黙想によって霊魂が聖化されているという教えにある.colloquyは『霊 操』の最も重要な部分で,核をなすものである.これが「神の愛」のソネ

ットの対話のモデルである.

Alabasterのソネットには聖イグナチオの4週間に分けられた黙想がソ ネットのタイトルに透かし絵のように浮彫りにされている.John Gerard  の下で霊操中,殆んど同時に推蔵したソネットが『霊操』の残響を宿して いて不思議でない. もっとも,タイトルは Alabaster自身によるものでな く I人間的愛」のソネvト連作のような完全な意味でのソネット連作で もない.下掲のタイトルを無視するとしても,払拭出来ない「対話」の基

j 主 題 Alabasterのソネット sin of the Past  Penitential Sonnts. the Incarnation  the.lncarnation. 

3  the Passion  Portrait of Christ's Death.  Christ's Crucifying  the Resurrection  the Resurrection 

(15)

ソネットの二つの「愛」と「対話j

軸が Alabasterのソネットにはある.それは;

r

人間的愛Jの「対話」と は範轄を異にした col1oquyの対話の軸である.

Behold a conduit that from heaven doth run

, 

And at  Christ's side a double stream doth vent,  Water with blood and blood with water went,  Water of solace and blood of passion. 

AIl faithful souls must drink this potion

, 

Vherepain to  passion is  ingredien

Comfort not made to cause the pain relent,  But pain to  relish contentation; 

For our distaste cannot Christ apprehend,  Unless that sueringsfirst  our sense amend. 

Since then 1 long thy joys to entertain,  And that thy joys with passion must combine

, 

Lord

, 

let  me feel the tartness of thy pain

, 

Or drink mine own heart' s blood to  relish thine. 

Alabasterのソネットの通し番号で31, Uponthe Ensigns of Christ's  Crucifying "の一つである.聖イグナチオの『霊操』では第3週目に属し,

キリストの受難を黙想するためのもの.構造は3つの部分‑ 4

6

4ーか ら構成され,霊操の構造を踏襲していることは分明である.

先ず,最初の4行は聖イグチオの指示による現場想設を目ざす prelude のモデ、ノレに基づ、く. ここでは, 黙想の現場想設であるため, 週間の主題

「受難Jを形而上詩的な奇想‑'conduit'ーで, 目前に現実と見給うばか りの映像が詩人の一霊操者の一想像の目に嬬動している.十字架上のキリ

2$ 

ストが想像の目には縦の軸として捉えられ,さらに,イメージが連鎖反応 を起す結果, 'conduit'と繋がり,水や血の上下運動となる.単に,エネ ルギーの自然現象としてではなし地球上の人間と天上の神の世界との問

(16)

ソネットの二つの「愛」と「対話J 15  の対話の宇宙軸である.Alabasterでは水は水平の流れでない.水を上 下運動の流れと考え, 対話の宇宙軸としての conduit'に流れ込む.

'conduit'に流れる水と血は融解こそすれ,異物拒絶反応を示さない.

水と血は異質でありながら,ヨハネが「ひとりの兵卒がやりでそのわきを 2D 

突きさすと,すぐ血と水が流れ出た.Jと語るように,同じ所から奔出する.

血による罪の購は神の世界に属する.ところが,水は渇きを癒す象徴とし て人間に属する.Tuveによれば渇きは神の愛を求めることで,死への願 いを意味した.受難のキリストの渇きは血の痛み一死ーを求めるものだと2~

言える.それゆえに,葡萄酒を口にしめらせて癒される.葡萄酒は贈の血 であることは言うまでもない.そして9 渇きの水と瞳の血は象徴的に相互 に浸蝕し合う.Alabasterは waterof solace 'と表現した中に, blood  of passion を溶解させる.キリストの渇きが水でなく,葡萄酒を用いて 癒された点に注目すれば相互浸融の意味は明らかになる.

Til1yardは神の世界と,人聞の世界とでは4元素の混合の仕方が異なる

2

と指摘したが, Alabasterは18番のソネヅトで For elemental water strives with fire, 

But my tears do with flame of love conspire, 

と誇らかに自慢する.地上の4元素の一つである水は火と融和しない.神 の世界では quin tessenceが宇宙を構成する.勿論水と火の相互浸融な ど考えるにも考えられない.この18番のソネットは涙が罪を悔いるために

2

溢れ,神への愛の火が「涙」という油を得たように燃えるという.Alabas terのこの確信の背後には, 彼の神への帰依をゆるぎないものにする意図 がある.

r

涙」を用いたこのような奇想は Crashawや Southwellにもあ

る.

さらに,水と土は下降的な運動として理解され,火と大気が上昇的な運 動とされてい之これに従うならば,キリストから流れる水と血はその方 向が地軸へ求心するものと,地軸から離れるものということになる.この

(17)

二つの運動の方向は正反対であるが,<{受肉》したキリストが人間として 俗界に顕現することと,神として天上に昇天することも暗示することが出 来る.水が conduit'の中で血と融解する結果, conduit'の内包は増加 することになる.すなわち,異質物融解による浄化作用が印象づけられる.

2

キリストから流れ出る液体が水と血でなく,火と血であっても9 火の縦の 運動は対話の基軸として機能する 'conduit'の奇想は人間としてのキリ スト,神としてのキリストが合体する場であり,水と血が愛の流れに化学 変イじする聖なる奇蹟の場でもあった一 Andlove  flow  from my breast  since  thine did stream,'  (30). 

また 'conduit'と血の関係に於いて意味の不連続性を感じるかも知れ ない.しかし,エリザ、ベス朝の宇宙観では血管としての conduit'のイメ ージは当時の精神共同体の財産の一部をなすものであった事情を考えれば,

この両者の意味の不連続性は消える。

さて, Alabasterの31番のソネットに戻る.冒頭の4行に続く 8行は,

聖イグナチオに従えば,pointに相当する.preludeに於いて現場想設が終 った後,霊魂の三能力を運用し,その後に続く col1oquyの準備をしなけれ ばならない.ここでは自我と対坐しながら,コリント書の「みな同じ霊の 欽み物を飲んだ.すなわち,彼らについてきた霊の岩から飲んだのである

2'o 

7bt,この岩はキリストにほかならない.Jという聖句を敷街している.

r

2il1 

憶Jによってキリストの受難をつぶさに追体験('apprehend う し よ う と した. コリント書のイメージが「岩」であったのに, Alabasterでは con‑ duit'に変えられた.Alabasterが意図した目的から類推するなら,

r

岩」

よりも conduit'の方が意味の放射に於いてそのエネルギーの強さと,拡 がる空間の大きいことが理解出来る.

次に, comfort'と'solace'は 'blood'とgpassion'の苦痛を癌すも のでない.しかし, 'blood'の苦痛は愛の痛みであって,その後に来る愛 の充足感を大きくすることを予想する.その上,神との対坐を可能にする

(18)

ソネットの二つの「愛」と「対話」 17  期待感によって愛の痛みを耐える.このようにして,キリストの受難の追 体験を演じることで, conduit'に神との愛の対話が液体として流れる.

この「対話」への信仰は神の「愛」への信仰にほかならない.

神との対話は五官によって実像として想像上体験しなければならない.

この面ほど反宗教改革の感性が露出している面はまたとない.聖イグナチ オは五官を活用することを黙想の強力な武器であることを自ら示した.五 官の意味が単に肉体的に経験する領域に限定されるのでなく, 時には,

E

the interior senses of the soul, either imaginative or intellectualの領 域までを含む.それは anexercise of  the discursive reasonに全てが語 り尽されている.肉体的な五官の領域であっても,想像上耳や百や舌に訴 えるよう現場描写を行い,実際の感触・味覚などを要求していない.31番 のソネットの6行は想像の世界の中で耳や目や舌に訴え,その結果,霊魂 の三能力が十分機能出来るよう準備しなければいけない.実際の肉体的な 感覚により知覚し I神の愛」をよりよく把握しようという決意が潜在的 にある.

最後に, 高められた霊魂の対話が4行の colloquyに表白されている.

colloquyでは黙想の主題によく訴えかける内容があらかじめ決められて いた.

. as  threis  abundant matter for sorrow and compunction in the  Passion, so  also  there  is  very  much to  awaken spiritual  joy  and 

3]) 

thanksgiving, e.  g.  the courage and五rmnsof Christ out Lord . . .  キリストの受難の延長線に歓喜があった如く, Alabasterも想像上の追体 験により「神の愛Jに応えようとする.だから,この4行には新教から旧 教に改宗し,新教側からの誓言徹回要求や非誘9 迫害による苦悩をキリス トの受難を黙想することに収放している.キリストが人聞の罪を贈ったこ とに対する Alabasterの応答で,請願である白

神と人間との対話という視点からはp 冒頭の4行のprludeでは対話の

(19)

現場想、設がなされ,次の pointに当る6行は神からの往信となる.最後の colloquy、の4行は Alabasterからの復信として機能する対話である. こ のような対話の宇宙軸としてのイメージは'conduit'に明確に定着されて いる.

ところが,詩の芸術的彫琢という視点、からすると, conduit'のイメー ジは途中で力が弱まり,ソネットの構成上均整を欠いたままである.とい うのは,論理構造が4

6

4と展開するのに,押韻形式は4

4

6とベト ラノレカの形式で対応していない.尚,この押韻形式はAlabasterのソネv

ト全体に共通したものである.

31番のソネットでは液体の流動として形象化された対話の宇宙軸は,二 週自の主題である《受肉》についての56番のソネットでは「光り」の流れ

として動く.

Like as the fountain of all  light created,  Doth pour out streams of brightness undefind, Through al1  the conduits of transparent kind

, 

That heaven and air  are both illuminated

, 

And yet his light is  not thereby abated:  (11.  1

ー の .

神が光源で,対話は conduit'を通過する.地上に達するには天上界と大 気層を経なければならない.物理的に光りは宇宙塵や大気により屈折する.

屈折するとは光りが弱まると考えられたのであろう. Alabasterの想像力 はここに客観的な相関物を求める.大気中の不純物が光りを遮蔽するよう じ,キリスト教の象徴としては,人間の罪が神への渇仰9 すなわち,対話 を遮断する. ところが,形而上詩の逆説としてはその罪があるからこそ人

3$ 

間は神との対話が得られる.悔俊の涙が対話を用意する.

Like as  in optick works

, 

one thing appears  In open gaze, in closer otherwise. 

Then since tears see the best

, 

ask in tears.  (71) 

(20)

ソネットの二つの「愛」と「対話」 19  この71番のソネットでは,この後, colloquyが続く.

前述の56番のソネットでは神の光りは,abte'されることがない, と 説く.しかし,対話の宇宙軸としては,神の光り(神からの往信〉

So God's eternal bounty ever shined 

The beams of being, moving, life, snse,mind,  And to all  things himself communicated. 

に答える対話が必要となる.神の顕現は人間としてのキリストに見られる.

そして,キリストの受難は theviolent diusivepleasure of  goOdness'  (56)を拡散する.それと同時に9 人聞の霊魂の方向が設定される. した がって,神への対話が霊魂による「神の愛」との交りであり I神の愛」

はこの地上に降りて来た.この f神の愛Jこ対する素直な驚きがcol1oquy に窺われる.

How might this  goodness draw our souls above

, 

Which drew down God with such attractive love.  (56) 

このように,対話は言葉だけでなし霊的交渉,つまり,霊魂の運動にも なる.さらに,神の「愛」は《受肉》の結果,人間の世界に降りて来る.

人間に残された仕事は,この神の「愛jに応分に答えればよい.それは地 上でも天上でも,いずれでもよい.

42番のソネットでは Thechannel OI divine diffusion'が対話の方式 を明確に提示している.また, conduit'と channel'が等式関係にある ことも無視出来ない.

Alabasterが同時代人の詩の傾向や I人間的愛」のソネットで頻繁に 用いられた「愛」などを熱知していたに違いない.それでいて,彼は聖イ グナチオの教えを忘れようとしない.かえって,神への愛以外の愛を邪ま なものと考えていたようだ.

(21)

ソネットの二つの「愛」と「対話」

God was in love with man, and sued then  To get return' of love by all  those ways  Which lovers use to compass in their praise.  His image he did draw with nature's pen

, 

To showhis beauty and his worth to men; 

His tokens were all  good, that our life  says;  His agents were the prophets that did raise  Man's heart to love where he had loved been: 

But man did love the gift, and not the giver,  Yet see how God did in his love persever:  He gave himself, that as  a gift  he might  Be loved by taking, putting on our feature 

s o  

to be seen in more familiar sight. 

How must we love him that so loves his creature!  (61) 

冒頭の3行は想像上の現場想設で I人間的愛jの作法のパロディーとな ヲている. そして, Alabasterが当時の「人間的愛」のソネγ トの詩作法 に対して抱いていたパロディーが読みとれる.この事実よりも大切な事は,

冒頭の会話体の中にある発想は「人間的愛Jのソネットには殆んど例が見 られないものである事である. I人間的愛jのソネヅトには女性側の愛の 告白がないことは何回も繰り返し指摘して来た.また,その愛の告白に類 したものさえ稀であった.そのために,かえって,詩想をかきたてたので あった.この意味に於いて, Alabasterの発想は特異であると言える.

若し I神の愛」のソネットに対話の不在,断絶が顕在だとするなら,

それは相手を責めるより, 愛を告白する側に責任がある. (' And shame  to  blush that Christ was so forgot'一(68)J.人聞が生を享けているのも 神の愛の証しだという認識が欠けた時,対話の断絶が生じる.たとえその 証しを認識しても,その贈り主の存在を認識しない時,同様の現象が起き

(22)

ソネットの二つの「愛Jと「対話」 21  る.ここで,再び,キリストに顕現する「神の愛」は人間の俣uからの愛に よって答えるべきものであることを想い起しておこう.そして,その人聞 からの愛の答えは col1oquyという「対話」の中に語ることが出来る性質 のものである.

『霊操』の col1oquyは「人間的愛」のソネットと「神の愛J のソネv トの聞に意味上の位相を作り出すことが明らかである.その位相差は,先 ず,対話の様式に現われ,同時に

r

愛」という言語範障にも現われる.

「人間的愛」のソネットは一方通行の「対話」であり,その「愛」は

「はるかな恋人」の彼方に求める霊的回帰の「愛jであったB これに対し,

「神の愛」のソネットは colloquy という相互的対話を特徴とし,~受肉》

の「愛J である.

(本稿は1968年2月25日に脱稿したものである.) 

1)  Secular loveの基本語義は世俗愛である.この基本語義には騎土道的愛,プ ラトン的愛,宮廷愛,中i:!!:の情熱恋愛がそれぞれ干渉し合う.騎士道的愛は精神 的愛であり,宮廷愛とともに考えられる.プラトン的愛は霊肉分離の二元論に基 づく.中世の情熱恋愛は,女性の個別的な肉体を出発とし,その肉体の彼方の世 界を志向する.女性を神格化し,抽象イじする傾向がある.すなわち,死を求める 愛である.

r

人間的愛」はこれらの諸要素を包み込む人間的次元に於ける愛とい

う意味で用いた.

2)  Spiritual loveは「霊的愛」であるがs 人間と神との間の愛として,

r

神の 愛」とした.

3)  Dylan Thomasには religioussonnetsがある.その世界は G.M. Hopkins  に至るまでの spiritualsonnetsの世界とは少し異なる. これはこの小論の扱う 範囲ではないので次の機会に論じたい.

4)  G. M. Story and H. Gardner (edsふTheSo etsof ‑rr弓lliamAlabaster  (London: Oxford UnivrsityPr由民 1959),p.  xxxvi. 

5)  小林珍雄の訳によれば〈託身〉とするべきである.しかし,本稿では,プラ トン的な愛が肉体を棄てることを主張したのに対し,キリストの愛がマワアの中

(23)

ソネットの二つの「愛」と「対話」

で霊魂と肉体を受けたことから始まったことに基づきく受肉〉のままで残す.以 下 Incarnation"はく受肉〉とする.cf.小林珍雄編 wキリスト教用語辞典』

〈東京:東京堂出版,昭和42年), 67ページ.

6)  T. S.  Eliot  (edふLiteraryEssays of Ezra Pound (London: Faber and  Faber, 1960), p.  168. 

7)  N. Fryeは宮廷愛の因習を deadlockedlove  dialogu巴'と説明してかる.

Cf. N. Frye, Anatomy of Cr倒 的 明 (PrincetpnNew Jersey:. Princeton Uni. 

versity Press, 1957), p.  299. 

8)  H. Gardner (edふJohnDonne: The Divine Poems (Oxford: The Clar.  endon Pr白鳥 1959)..p.  xvi. 

9)  W. H. Longridge (trふThe争iritualE:arcises of Ignatiusof Loy. 

ola (London: A. R. Mowbray and Co 1955). 以下『霊操』と呼ぶ. ー名

「心霊修行」とも呼ばれる.Cf.小林珍雄編, wキリスト教用語辞典IJ(東京:東 京堂出版,昭和42年), 296ページ.

10)  A. Warren, Richard Crashaτv:  A Study in  Bαroque Sensibility (Ann  Arbor: ThUniversityof Michigan Press, 1957), p.  67. 

11)  観想、は contemplation"の訳語.黙想 (meditation)と区別する.Cf.  小 林珍雄編,

w

キリスト教用語辞典JI.

12)  Crashawでは TheWeeper"が, Southwellでは TheBurning Babe" 

などがある.

13)  W. H. Longridge (trふTheSpiritual Exercises of St.  Ignatius  of Loy. 

ola, op.  cit., p. 53. 

14)  Louis L.  Martzは彼の著作ThePoetry of Meditation (New Haven: Yale  University Prss1955)で形而上詩の源流をさぐり, 形而上詩を黙想詩と呼ん でいる.また,黙想詩が形而上詩よりも適切な用語だと主張している.

15)  W. H. Longridge (tr.) , The Spiritual Exercises of St.  Ignatiusザ Loy.

ola, op. cit., pp. 5455. 

16)  記憶3 情性, 意志はそれぞれ, memory, understanding, willをさす. [悟 性Jとは「分別知,分折知,比量知,概念的論証的能力」と考えられるものを意 味する.Cf.林達夫ほか, w哲学事典IJ(東京:平凡社,昭和29年), 424ページ.

17)  W. H. Longridge (trふThe争iritualExercises oj St.  Ignatius  of Loy. 

ola, 01.cit., p. 9.  18)  Ibid., p.  59. 

19)  W. Alabasterは最初カルビン主義者であったが, ローマ・カトリック教に 改宗した. John GerardAlabasterがイエズス会に入会する決心をした, と

(24)

ソネットの二つの「愛」と「対話J 23  記録している.後, A1abasterは再びプロテスタγトに改宗した. Cf.  G. M. 

Story and H. gardner (eds) , The Sonnets of'lliamAlabaster, op.  cit., p. 

X Vl. 

20)  Cf. … from that tree / He bendth down to  my devotion …,  (71, 1. 1 5‑6). A1abasterのソネットのテキストは全て G.M. storyとH..Gardnerと の共同編集による TheSonnets of 1tなlliamAlabasterに拠る.特に記さない限

り,数字はA1abasterのソネットの通し番号を示す.

21)  ヨハネ章19:34. 

r

聖書』からのヲ聞は現代口語訳の『新約聖書』に拠る.

22)  R. Tuve, Elizabethan and Metaphysical Imagery (Chicago: The Univr‑ sity of Chicago Prss,1957), p. 220.また, Richard Crashawの A Hymn  to  the  NamandHonor of  the  Admirab1e Saint  Teresa"に次のような詩句 がある.

Such thirsts  to  dy, as  dares drink up,  A thousand co1d deaths in  one cup.  (11. 3738) 

23)  E.  M. W. Tillyard, The Elizabethan  lVorld  Picture  (London: Chatto  and Windus, 1956), p. 25. 

24)  痛悔 (contrition)は秘演であって,痛悔は神への愛から生まれる.そして,

必ず, 涙を流さなければいけない Cf. Isamu Saito, .11 Study of Piers  the  Plowma (Tokyo:Nan'undo, 1966) p. 14. 

25)  J. Winny (ed.) The Fr leofOrder (London: George Allen andUnwin,  1957), pp. 153154. 

26)  Cf. That from one wound bothreand b100d may spring' (48, 1. 10).  27)  コリント書10: 4. 

28)  Lance10t  Andrewesは Nativity Sermonsで神が apprehend'するのは seed of Abraham 'を捉えるもので,人聞の姿を装うことだと説いている.A1a‑ basterでは人聞がキリストを apprehend'すると主張するのは, キリストの受 難の追体験を意味しよう.Cf.  Lance10t Andrewes, Seventeen Sermons on the  Nativity  (London: Grith,Farran, Okeden and We1sh, N. Dふp.10.  29)  W. H. Longridge (trふ The>piritualExercises of St.  Ignatius  of Loy‑

ola, 01う.cit., p.  229.  30)  Ibid., p. 230.  31)  Ibid., p. 140. 

32)  G. Herbertは Prayer"に於いて,神への祈りは sinnerstowre'とうた っている.罪人が投獄される場所は,一般人の生活場所よりも高い場所に位置す る.また,処刑の断頭台も高いのが普通.キリストの逆説では罪を犯した者は,

(25)

ソネットの二つの「愛Jと「対話」

侮俊の祈りによって一般人よりも神に近い, と解するのがHerbertの意図じた意 味により近い.

33)  GorgeHerbertの ThePulley"にも同様の発想、がある.

He would adore my gifts in stead of me, 

And: rest in  Nature, not the God of Nature:  (11. 13‑14) 

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