武蔵野台地における弥生時代の地域的様相
著者 小出 輝雄
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 31
ページ 15‑29
発行年 1979‑03‑23
URL http://doi.org/10.15002/00011690
武蔵野台地における弥生時代の地域的様相
iま
め じ
本稿では比較的均質的な地域として︑武蔵野台地をとりあげ︑
そこで展開される遺跡群の内容を通じて︑東国の一地域の歴史的
様相を探ろうとするものである︒基礎資料として個々の遺跡の立
地︑その性格︑遺跡の群としての存在などをとりあげたが︑資
料内容の制約のため︑遺物の内容︑集落の構成などをすべての遺
跡について検討することができなかった︒このような基礎資料の
不備にもかかわらず︑敢えて稿を進めるのは︑首都とその近郊と
いう環境のために遺跡の破壊︑発見の確率が高く︑発掘調査が早
くから行なわれている地域として︑また︑東京都と埼玉県の遺跡
地図の刊行も行なわれており︑武蔵野台地に限って言えば︑大部
分の遺跡がその存在を知られるに至っていると思われ︑とり急ぎ
集成し︑現時点での評価を下す必要があると思われたからであ
る ︒
一︑遺跡の立地と遺跡群
武蔵野台地における弥生時代の地域的様相(小出﹀
輝
雄
出
武蔵野台地は︑北は入間川︑東は荒川︑南は多摩川に囲まれた
洪積台地であり︑旧多摩川の扇状地となっていた地帯である(貝
塚一九六四)︒このため︑台地の西部と東部は地理的に相違する
点が多い︒西部は地表の勾配が急で︑地下水位が低く︑平坦な台
地面が広く連なっている︒一方︑東部は石神井川・善福寺川など
のような湧水を水源として流れる小河川によって数本の開析谷が
形成され︑狭長な沖積地が存在する︒また︑地下水位が高いた
め︑これら小河川には各所からの湧水が注ぎ︑それぞれが樹枝状
に狭陸な谷戸を形成している︒
以上のような地理的特徴は遺跡の分布・立地などに大きな影響
を与えずにはおかない︒しかも︑水稲耕作が生業の基本的基盤と
して存在していた弥生時代においてはより一層の影響を受けたこ
( 1 )
とが想像できる︒第1図に明らかなように︑遺跡は台地東部に偏
よって存在し︑それぞれが小河川を臨む台地上に位置すること
は︑弥生時代の全期間を通じて主な活動範囲が武蔵野台地の東部
にあったことを示すと同時に︑こうした自然的条件に大きく規制
された結果である︒筆者は東部を中心とする武蔵野台地をこのよ
一 五
法政史学
第三 十一 日写
一 六
‑+‑ヂ己
‑ z
一つの均質的な地域として設定したのうな自然的条件によって︑
であ
る︒
以上のような均質的な作産基盤の武蔵野台地の遺跡も細かく見
ると︑いくつかのグループに分けることができる︒それは柳瀬川
下流域を中心とするA群︑白子川・荒川右岸の'板橋区を中心と
し︑石神井川中流域を合むB群︑石神井川下流と江戸川下流のC
群︑江戸川の上流川川である妙正寺川・善福寺川を中心とするD
群︑渋谷川︑目黒川流域のE群︑呑川を中心とするF群︑仙川‑
F2 )
野川を中心とするG群の七つに分けられるハ附表)︒これらは遺
跡相互の距離・河川の相違などによってグループに分けたもので
あるが︑弥生社会の変動のべlスとなるものであると考えられ
る ︒
二︑遺跡群の様相
前章で河川を中心として七つのグループに分けたが︑各グルー
プの様相を︑調査された遺跡を中心に検討してみよう︒
本群は柳瀬川下流域に分布の中心を置くグループであ円A
群 ︺
(3) る ︒
打越遺跡
(1
)
荒川に面する舌状台地の基部に位置し︑遺跡の
北西側︑北東側に比較的広い谷戸が位置する︒調査は一九七二年
から継続中であるが︑現在までのところ︑住居牡は弥生町期一
軒︑前野町期四軒︑五領期一軒が確実な時期として知られ︑他の
時期不詳のものもほぼその頃の住居祉と推定される︒また︑大洞A式類似の土器が二個体以上出土しており︑注目される遺跡であ
武蔵野台地における弥生時代の地域的様相ハ小出)
る(富士見市教委一九七八
a y
北通遺跡
(5
)
柳瀬川左岸に位置し︑北東側︑南西側を狭長な
谷戸で区画され︑広い舌状台地となっている︒柳瀬川に沿って上
流側に南通遺跡
(6
)︑竹間沢本村遺跡
(7
)が連続して位置する︒
現在までのところ︑十二地点の調査が行なわれ︑第一地点から
宮ノ台期一軒︑前野町期一軒︑時期不明一軒(富士見市教委一
九七回)︑第二地点から前野町期二軒︑時期不明二(富士見市教委
一九七六)︑第九︑第十地点より前野町期
t
五領期にかけて連続して構築されたと思われる方形周溝墓三基(富士見市教委一九
七八
b)
︑第十二地点より弥生町期一基︑前野町期一基︑時期不
明二基の方形周溝墓︑五領期の円形周溝墓一占ト埼玉県遺跡調査会一九七五)などが検出されている︒弥生土器は台地全体に広
く散布しており︑二つの地点の方形周溝墓の存在︑長期間営まれ
た集落という点で︑A群の中心集落としての位置が考えられる︒
東台遺跡
(4
)
柳瀬川左岸︑北通遺跡の下流約一向程の位置に
存在し︑小さな谷一戸に臨む台地上に位置する︒五回の調査が行な
われ︑前野町期
t
五領期にかけて連続して構築されたと思われる三基の方形周溝墓が検出された(富士見市教委一九七六・七七
.七
八
b)︒
本群では須和田期︑久ケ原期の遺跡は知られていない︒ただ久
ケ原期への過渡期的な土器が採集ハ柿沼一九七六)されてお
り︑近い将来に発見される可能性をもっ︒本群︑特に柳瀬川下流
を中心とする地域では︑柳瀬川本流に臨む台地上に位置する遺跡
はなく︑すべてが狭い谷戸を臨んで立地する︒このような谷戸は
七
法政史学
第三
十 一 号
現在でも︑豊かな湧水が流れ︑生産基楳としての水田が︑柳瀬川
本流による沖積地にあるのではなく︑狭陸な谷戸にあったことを
示し
てい
る︒
柳瀬川下流の古杵寺
山遺
跡(
日)
︑
清水遺跡
(刊
)な
どは
A群の中
心地域とは遠く︑上・山中流の開拓という点で︑別の観点から検討
する必要があり︑資料の蓄積を待って再考したい︒
︹B群︺白子川・荒川右岸の板橋区を中心とするグループで︑
石神井川中流域の遺跡も含ま
れる
︒
台の城山遺跡(日)新河岸川に流れる越戸川に三方をえ
ぐ ら
れ︑南北四六m︑東西
二二
m程の小独立丘状の平坦部に位置す
る︒調査は一九七二年に行なわれ︑平担部の大部分を発掘し︑宮
ノ台期四軒︑久ケ原期三軒︑弥生町期十軒︑五領(新)期二軒︑
時期不明五軒の住居社が検出された(朝霞市教委一九七五)︒宮
ノ台期・久ケ原期の住居枇はたがいに重複することはないが︑弥
生町期のものは二
t
一一
一軒
が重
複し
︑少
なく
とも
二時期に細分され
る︒これは住居祉の重複や調査前のカツティングにより消滅した
住居祉の存在を考えても︑弥生町期に住居祉が倍増したこと︑久
ケ原期に出現した大形杭船社が弥生町則に二軒となることからも
確かめられる︒
本遺跡は狭い台地の平川部という限定された立地の下に︑久ケ
原期における大形住民枇の山刻︑弥生町期における住居祉の倍増
という現像をみせながらも
︑ム
リ地
下の
狭い
谷
戸を生産基蝦とする
限り︑それ以上の発阪は望めず︑前野町期になると消滅する︒
丸山遺跡(辺)市東に向子川につながる低地をもっ比高一
O m
八
程の台地上にある︒西側に豊富な湧水をもっ谷戸があり︑南西は
ゆるやかな傾斜をもっ︒そのため東西一
O O
m
︑南北二O O
m
程の低平な半島状の地形をなしている︒調査は一九五六年に行なわ
れ︑弥生町期の住居祉一軒︑台地の縁辺に沿った環溝状の遺構が
発掘された(早大考古学研究室一九五七)︒
前野町遺跡群
(M
Mt
M)
新河岸川に流れる出井川の左岸台地上
に立地する遺跡群である︒これらは幾度か調査されてきたが︑す
べての資料が公開されているわけではなく︑全容は不明である︒
遺物の散布や竪穴の存在したといわれる地点は十三カ所である︒
これらは相互に官接な関連を有すると思われる遺跡群であり︑こ
のうちのいくつかは同一遺跡別地点の可能性をもつものも含まれ
ていようが︑現在それを確かめる術もない︒ここでは上記の二ニ
カ所をそれぞれ一つの遺跡として第一表に収めた︒
木遺跡群の採集資料を基に︑後期末葉の土器型式として﹁前野
町式﹂が設定さ
れ た ( 杉 原 一 九
四
O
)
のであるが︑これは発掘
調査された資料を基としたものでなく︑内容に不明な点が多い︒
同時に︑遺跡群自体も一九六一年に前野町四丁目遺跡(叫)が調査
された(坂詰・関一九六二﹀以外に︑正式な発掘調査はなされ
ていない︒このように遺跡群の内容に不明な点が多いが︑ほとん
どの遺跡が出井川を臨む台地上に存在し︑高密度に遺跡が分布す
ることが注目される︒
木計は板橋区を中心とする荒川右岸を中心とするが︑遺跡は新
河川河川に注ぐ越戸川︑前谷津川︑山井川など小流によって形成さ
れた谷戸を臨む地上に位置する︒このことはA群と同様︑本群も
生産基盤の主体が︑荒川の形成した広大な沖積地にあるのではな
く︑狭い谷戸にあることを示すものである︒また︑石神井川流域
中の遺跡を本群に合めたが︑久ケ原期以降に初めて出現する現象
はD群と規を一にするものである︒
︹C群︺本群は石神井川下流と江戸川下流に狭まれた台地上に
分布の中心をおく︒上灯台地・本郷台地・小石川台地などに分け
られ
てい
る︒
飛鳥山公園遺跡(日)上野台地の北端に位置する︒石神井川と
谷田川の合流する地点を臨んで位置する︒調査は一九五七年以来
数次にわたって行なわれ︑官ノ台期三軒︑弥生町期一軒の住居祉
が発掘されている(古凹一九六
O
︑宇野一九六七)︒向ケ丘遺跡(回)谷田川右岸の台地上に位置し︑弥生土器の由
来となった弥生町の遺跡である︒一九七五年に東大構内の地点が
東京大学によって調査され︑有坂紹蔵氏が土器を採集した場所で
あると推定された(佐藤一九七五
a・b・
c)
︒また︑弥生町
期の
V字溝と小規僕な只塚を検出し︑その貝塚が縄文時代のもの
とする説を訂正させることとなった︒住居祉は検出されていない
が︑集落祉であることは誤りないであろう︒
道濯山遺跡(臼)本郷台地の中程に位置する︒調査は一九五四
年に行なわれ︑宮ノ台期の軽穴が三軒発掘されている(早稲田大
学考古学研究室一九五五)︒その中の一軒はベット状遺構を持
ち︑その特殊性から注目される︒遺跡には他に久ケ原式・弥生町
式の土器が散布する︒
武蔵野台地における弥生時代の地域的様相︿小出) 九段上遺跡(釘)江戸川下流の右岸台地に位置する︒調査は一
九五九年に行なわれ︑弥生町期の住居枇二軒︑住居祉の中間に位
置するV字溝が発掘されている(千代田区教委一九六
O )
︒V字
溝は巾二・二m︑深さ
0
・六
mで当時の表土を考えたとしても︑
防衛的というより︑集落の住居祉群を区画する目的をもったもの
と考えられる︒
本群は宮ノ台期・久ケ原則とも遺跡数では変化がないのに対
し︑弥生町期になると三倍近くになる一方で︑前野町期になると
激減する︒このような変化をなすC群であるが︑江戸城の築城と
いうような後世の開発が最も盛んな地域であり︑このような変化
が︑本来のものでないということを考えてみる必要がある︒何よ
りも︑前野町期に遺跡が激減することが一般的な姿と異なる︒
︹D群︺江戸川の上流河川である妙正寺川︑善福寺川流域のグ
ルー
プで
ある
︒
方南町峰遺跡(位)善福寺川と神田川が合流する直前に形成さ
れた舌状台地上に位置する︒調査は数回にわたって行なわれ︑久
ケ原期
t
前野町期の集落が発掘されている(萩原一九五二・五五︑杉並区教委一九五五)︒
斉美台遺跡(幻)東流する善福寺川を北に臨む地上に位置す
る︒調査は一九五二年に行なわれ︑V字溝の一部を検出した︒幅
一・
四
m︑深さ
0
・九
五 mで南北方向に数十m伸びているようで
ある︒溝の時期は出土遺物から前野町期と思われるハ萩原一九
五三
)︒
大宮遺跡(邸)石神井川が市流し︑東へ蛇行をはじめる台地上
九
法政史学
第三十一号
に位置する︒調査は一九六九年に行なわれ︑前野町期の方形周溝
墓が三基発掘され︑他に一基存在することが確認されている(杉
並 区 教 委 一 九
七
O
ゴこれらは連続して構築されたものであるう︒また一号方形周溝基より勾単一︑ガラス小玉一二などが出土
しており注目される︒
本群は須和削則
‑ H
ノ台期に追跡のお在は知られず︑久ケ原期
に遺跡が出現する︒B析の石神井川中流域のグループが久ケ原期
になって初めて出現するのとあわせ︑これら台地内部の開拓が︑
久ケ原期になって初めて開始されたことがわかる︒武蔵野台地全
体で︑宮ノ台期一四遺跡に対し︑久ケ原期三九遺跡と激増してい
るが︑この中心はこれら台地内部の追跡の出現が背景となってい
るのである︒また︑
υ
群の中心は︑ガラス小玉などを出土した大宮遺跡周辺にあったと忠われる︒
︹E
群︺渋谷川
‑ H
州市
川流
域の
泣跡
群で
ある
︒
旧池田侯爵邸遺跡(引)日以川左作の台地上に存在する︒発掘
調査されたことはないが︑邸内より出土した弥生町期の底部穿孔
査形土器が知られている(品川区教委一九七三)︒このような
土器
は︑
他の
例か
ら卜
刀川
市刷
出
慕に作って出土するものであり︑そ
の存在が推定される︒
円乗院遺跡(似)日川川上流の市東に仲びる舌状台地上に位置
する︒調査は一九二八年に︑佐肘枕の一郎を発掘したにすぎない
が︑久ケ原式iu
川肝
川
h十人の土訟が山土している(世田谷区教委
一九
七五
)︒
︹F
群 ︺
呑川・多摩川下流左岸に存在する遺跡群である︒ 二
O
久ケ原遺跡
( ω )
武蔵野台地の最南端に位置し︑呑川右岸に存
在する︒本遺跡は後期の大集落此として注目され︑一九二七年以
降多数の人が調査を行ない︑﹁久ケ原式﹂の標式遺跡として著名
である︒青銅製の環状の破片が住居祉中より出土し︑人骨の収め
られた土器︑底部穿孔の認められる土器などが報告され(片倉
一九三一︑菊地一九五三
︑大田区教委一九七四など)︑遺跡
の組雑な内容の一叫が明らかにされている︒集落は久ケ原期︑弥
生町期にその中心があると考えられる︒
本群の中心は久ケ阿遺跡であると考えられるが︑調査が古く行
なわれているため︑内容を︑保く検討することができないのが残念
であ
る︒
︹G
群︺野川・仙川流域に位置するもので︑武蔵野面の南辺
︿国分寺山山総)に沿って分布し︑立川面に位置するものはない︒
堂ヶ谷戸遺跡(胤)灯川と仙川の合流部の北側の台地に位置
し︑台地は南東に突き出た舌状台地となっている︒数次にわたり
調交が行なわれ︑久ケ以川
t
五領期の住居祉が発掘されている
(世間谷区教委一九七五・七六)︒注目されるのは︑一九七七
年の調査で︑前町川則
t
五領期にかけての住居批から︑完全な鉄製鎌が発掘されたことである(小川一九七八)︒
本群は久ケ原期に遺跡が山現する︒これはD群をはじめとする
台地内部の開拓と同様の品川公によるものと思われる︒
三︑武蔵野台地の地域的様相
以上のように︑武蔵野台地の弥生時代遺跡をとりあげ︑その内
(%) 平 均
B A伴
D群
E群
武蔵野台地における弥生時代の地域的様相(小出﹀
; : : : 部 分 は 前
H在期から連続する遺跡第2図 群 別 遺 跡 地 減図
容を概観してきた︒本章ではそれを四段階に分け︑武蔵野台地の
地域的様相を採ってみたい︒
まず
︑弥生社会成立の基僻である縄文時代末の状況を見てみよ
う︒武蔵野台地の縄文時代晩期末の遺跡は打越遺跡の一例のみで
あり︑市関東今一体でも十指程が知られているにす︑ぎず︑今後も発
見される確率は少ない︒このような遺跡密度の希薄な地域に弥生
文化が成立したのであり︑他地域からの弥生文化の移入が当然考
えられるが︑その過程は不明とせざるをえない︒ただ︑当地域は
当時の主要交通路からはずれ︑神奈川県文は千葉県方面から間接
的に伝えられたと考えるのが妥当であろう︒
第一段階は須和田期である︒武蔵野台地では八遺跡知られるも
のの︑遺構に作なわずに土器が採集されているにす︑ぎず︑集落・
来地などについての具体的内容は不明である︒須和田期は︑武蔵
野台地における弥生社会の開始期として重要な位置にある(第二
関)
︒遺跡数は一四遺跡と増加し︑多く第二段附は訂ノ台期である ︒
の川
町穴
代居
M︐が別抗され︑遺物中には多数の磨製石斧が発掘さ
れ︑この時期の刊徴となっている︒多数の磨製石斧は木製農耕具
の生産に威力を発附したであろう︒このように本期は遺跡の数・
内容・泣物の
一点
にお
いて須和田期とは明らかに区分され︑﹁南関
東における水稲栽培農業の本格的な開始期﹂(田中一九七六﹀
として位置づけられる︒
ところで︑横浜市域では宮ノ台期に﹁拠点集落﹂が形成される
ことが報竹されている(田中一九七六)︒これは﹁大規模な環
法政史学
第三十一号
濠によって︑他と一定の意味で隔絶された空間内に二つないし︑
三つ以上の小グループが併存しながら︑それらの結合体が一つの
まとまり﹂をもっ集落で︑﹁数個の住居祉群が土墳︑方形周溝墓︑
﹃V﹄字溝などをともなって︑それ自体が自己完結的な﹂周辺的
集落を伴うものととらえられている︒このような横浜市域に対
し︑武蔵野台地ではどうか︒A群の北通遺跡︑南通遺跡︑竹間沢
本村
遺跡
︑
B群の台の城山遺跡︑上の郷遺跡︑C
群の
亀山
遺跡
︑
飛鳥山公園遺跡などが︑それぞれ小さな谷戸をはさんで立地し︑
﹁拠点集落﹂﹁周辺的集落﹂とも考えられそうだが︑調査内容か
ら見て︑﹁拠点集落﹂とみることはできない︒また︑宮ノ台期に
は武蔵野台地で方形周溝墓が知られておらず︑筆者はその形成は
半くとも久ケ原期と考えている︒それは農業共同体の形成と密接
な関わりをもち(金井塚一九七二)︑宮ノ台期に農業共同体が
成立していたとは考えられないからである︒
以上のように︑宮ノ台期は農耕社会への傾斜が認められる反
両︑武蔵野台地に限っていえば未成熟なものであったと考えられ
る︒官ノ台期に特殊な展開を見せる地域を︑南関東全体にまで拡
げて考えることはできないであろう︒
第三段階は久ケ原期
t
弥生町期である︒遺跡数で久ケ原期は宮ノ台期の二・五倍と激増しているに対し︑弥生町期ではわずかな
増加を認めるにすぎない︒久ケ原期の遺跡の激増は台地内部の開
拓と同時に河川の上流への開拓が行なわれたことによるものであ
る︒農耕の開始による生活の安定が︑必然的に人口の増加をもた らし︑その解決は新たな耕地の開発による他なく︑選ばれたのが台地内部や河川の上流など︑開発により一層の困難を伴った土地であった︒このような開発が可能になったのは鉄器の普及が不可欠のものであったろう︒このような開発により︑A群を除いた各
群に一定数の遺跡が形成され︑農業共同体が成立したと思われ
弥生町期は久ケ原期と遺跡数の点でほとんど変化は認められな る ︒
い︒また︑大半の遺跡が久ケ原期から連続し︑新たに出現する遺
跡が弥生時代全体で最低となっているなど︑久ケ原期と弥生町期
は第三段階として扱って大過ないであろう︒ただ︑弥生町期に方
形周溝墓︑環溝︑V字溝などが出現することが注目される︒これ
は耕地の経営や鉄器の入手などを通じての本格的な農耕社会の成
立によるものである︒
第凶段階は前野町期である︒弥生町期四一遺跡に対し︑六一遺
跡と増加する︒遺跡の内容としては方形周溝墓の増加が目立ち︑
A群では東台遺跡三基︑北通遺跡二地点七基︑D群では大宮遺跡
に四基知られている︒発見されていない群も多いが︑これは調査
件数︑面積などの相違によるものであろう︒筆者はA群にみられ
る状況から︑方形周溝墓は前野町期に集落毎に築造されたと考え
ている︒また︑発見されている方形周溝墓は︑隣接して数基が構
築され︑数世代にわたり連続して築造されたと見ることができ
る︒これらが同一家系の墓と即断はできないが︑その可能性が強
く︑前野町期になると︑権力が集落内の有力家に相続されたと考
えら
れる
︒
お わ り 以上︑資料の集成をしてみたが︑南関東における一地域として 武蔵野台地をとりあげ︑その弥生社会の様相を探ってきた︒その 結果︑四つの段階を認めることができた︒
第一段階は︑弥生社会が縄文時代末の遺跡の希薄な地域に成立 し︑その具体的な内容は不明ながら︑周辺地域からの弥生文化の 移入を想定した︒第二段階は横浜地域のような︑遺跡の激増する 地域に対し︑武蔵野台地では農耕社会が未成熟であったことを述
べ
た ︒ 第三段階で本格的な農耕社会が成立し
︑遺跡数の激増・方 形周溝墓等の出現が認められるなどの特徴を認めた︒第四段階で は方形周溝墓の激増することより︑農耕社会が変質したことを推 定し︑私見を述べてきた︒諸先学の御批判を賜りたい︒
i
1t.、
J遺跡需号は附表の遺跡番号に相当する
︒また︑附
表中の
O
は泣物散布地︑︒は集落社
︑
③は基地をも
っ集落祉を
立て ヲ
﹄ l︒
て一d 4 5 vl!
時則の区分上
︑一
部の遺跡ではさらに細分が可能である が︑全体としての統一と資料の平均化を考えて︑従来の 五段附区分に従った︒ただし︑前野町期に関しては現在 も議論のあるところであり
︑ここでは五領期前半も含め
﹁前
野 町期﹂として扱
った
︒ 武蔵野台地北端の川越市には氷川神社裏遺跡が知られて いる︒これは前野町期の遺跡である︒これ以外には入間
川
右岸︑不老
川 ︑ 荒川右岸の川越市︑上福岡市︑
富士見
(2﹀
︿3﹀
武蔵野台地における弥生時代の地域的様相ハ小出﹀
( 4 )
市 北 部 に は 弥 生 時 代 遺 跡 は 知 ら れ て い な い
︒ そ の 一 方
で︑入間川左岸には
宮ノ台期から連続する霞ヶ関遺跡を はじめとする多くの遺跡が存在
している
︒以上のことか
ら︑氷
川神社
裏遺跡は震ケ関遺跡を中
心とする遺跡群の一っと考え︑A
群に含めなかった
︒
﹁弥
生式
﹂土器というのが従来からの呼び方であるが︑
﹁式﹂は土器型式を表現する文字としても用いられてお り︑それとの混同を避ける意味で﹁式﹂を省略した︒
木稲は昭和五一年度学部卒業論文で扱った問題の
一部を書き改 めたものである︒御指導いただいた伊藤玄三先生
︑並びに麻生優 先生に末
筆 な が ら 記
して
感 謝 す る 次 第である
︒
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小川貨司
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埼 玉
﹁東京府下池上町久ケ原弥生式竪穴について﹂
剥 揺 る ( 緋 掠 川 十 ! 酔
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富 士 見 市 教 委1976
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1977・
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富 土 見 市 教 委1974・1976・1978b
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富 士 見 市 教 委1971埼 玉 考 古 学 会1976i 柿沼1971・76
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坂 詰1965│志 木 市 教 委 附
│東 京 都 子1966
│宮 野 ・ 並 木 他1974
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朝 霞 市 教 委1975文 献
富 士 見 市 教 委1978a
東 京 都 教 委1972
早 大 考 古 学 研 究 室1957 吉田1961
板 橋 区 教 委1954
" 1969
" 1 9 5 4 "
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渡辺・目賀田1954 板 橋 区 教 委1976 板 橋 区 教 委1954・1969
" 1969
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" 1954 1969
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東 京 都 教 委1972
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" 1940 板 橋 区 教委1969 坂 詰 ・ 関1962 板 橋 区 教 委1969
" 1969 杉 原1940 板 橋 区 教 委1969
" 1969 1954 1969
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" 1969
" 1969 杉 原 ・ 小 林1968 和 島 ・ 田 村1961 吉田1960 宇 野1967 森 本 ・ 小 林1938
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" 1967
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早 稲 田 大 学 考 古 学 研 究 室1955a 東 京 都 教 委1972
杉 原 ・ 小 杉1968 千 代 田 区 教 委1960
" 1960 文 京 区 教 委1967
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金 井 塚 良 一 一 九 七 二
﹁ 関 東 地 方 の 方 形 周 済 活
﹂ 考 古 学 研 究 一 八
巻四
HV 街 地 義 次 一 九 五 二
﹁ 久 ケ 原 遺 跡 に お け る 弥 生 式 竪 穴 調 査 八 予 報
﹀﹂古代三九号 近 藤 義 郎 一 九 五 九
﹁ 共 同 体 と 単 位 集 団
﹂ 考 古 学 研 究 六 巻 一 号 埼 玉 県 遺 跡 調 査 会 一 九 七 五
﹃ 針 ケ 谷 北 通 遺 跡 発 掘 調 査 報 告 書
﹄ 坂 詰 秀 一
・ 関 俊 彦 一 九 六 二
﹁ 東 京 都 前 野 町 に お け る 弥 生 時 代 竪 穴の調査﹂武蔵野四一巻二号 佐 藤 達 夫 一 九 七 五
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﹁再々発見の向ケ丘貝塚﹂夕刊読売新聞昭
和五
O
年 三 月 四 日
一九七五b
﹁向ケ丘貝塚第二次発掘を終えて﹂東京大 学新聞二一五八号
一九七五C
﹁向ケ丘貝塚はどこか﹂歴史と人物四六号 品 川 医 教 育 在 日 会 一 九 七 三
﹃ 品 川 区 史 通 史 編 上 巻
﹄ 渋谷
一休
教 育 委 員 会 一 九 五 二
﹃ 渋 谷 区 史
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杉扱R
教山川香川会一九五五﹃杉並区史﹄
一九七O
﹃都立和田端公園大宮遺跡・下高井戸塚山遺 跡発掘調査報告
書﹄
杉 原 荘 介 一 九 問
O
﹁武蔵前野町遺跡調査概報﹂考古学十一巻一世 間 芥K
教行
安
此会
一九
七五﹃世田
谷区史料考古編
﹄
一九七六
21
ヶ谷戸遺跡凶村邸地区﹄
田 中 義 昭 一 九 七 六
﹁南関東における農耕社会の成立をめぐる諸 問題﹂考古学研究二二巻
三甘
千代田教育委員会一九六
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﹃千代田区史上巻﹄東京都教育委員会一九七四﹃東京都遺跡地図﹄
萩 原 弘 道 一 九 五 二
a﹁杉並区松ノ木出土弥生式大翠について﹂
西郊文化一号
一九五二b﹁上代集活の形態﹂西郊文化二号
一九
五 三﹁杉 政区済英介発見の集落環
溝枇﹂西郊文化
五号
一九五五﹁都内杉
放区方市町峯における竪
穴群調査概 報﹂西郊文化
二
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号富士見市教育委員会一九七凶﹁北通泣跡﹂富士見市文化財報告
第七同
一九七六﹁東か遺跡第一地点・北通遺跡第二地点﹂富
士見市文化財報告第十一集
一九七七﹁東介遺跡第三地点﹂也土見市文化財報告第 十三長
一九七八a
﹃打
越追
跡﹄
一九七八b﹁東台遺跡第五地点・北通遺跡第九・十地 点﹂富士見市文化財報告第十五集 吉 田 格 一 九 六
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﹁東京都北区飛鳥山公園内竪穴住居調査概要﹂武蔵野第三九巻一・二・三号 早稲田大学考古学研究
室一九五五﹃道濯山遺跡﹄
一九五七﹁練馬区北大泉丸山遺跡﹂古代三一号
武蔵野台地における弥生時代の地域的様相︿小出)
※ページ数の都合で刊仁川'の文献をすべて挙げることができなか
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﹃東京都遺跡地凶h・﹃埼玉県遺跡地図﹄を参照いただ
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本研究者に︑正確な英文の日本史人名辞典を提供
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するため︑財団法人国際教育情報センターで企画刊行され
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た︒一九七六年に附センターから出版されている日本文学の
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回目
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同﹀
目白
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同﹀吋口同開(久松潜一監修)と姉妹篇をなす辞典である︒本書一
はA阿倍比羅夫からY
山利公正まで五一九人について解説し
一
巻末に各人物の伝記訓究文献と付録資料諸表を収める︒索引
一
を合め六五五ペ
ージ︒監修者の岩生成一講師はじめ︑藤本孝
一
一・丹治健蔵・山本光正・山本美
子 (
古
代中世近世﹀・岩壁
一
義光・安岡昭男ハ近現代)︺・布施光男(科学者﹀・長尾正憲一
(付録)と他の二︑三名を除いてほとんど本学の関係者が執一
筆に当っている︒英訳者回ロユ
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垣内 民団 OP︒一九七八年刊︒一
なお最近の﹃国際交流﹄国ハ一九七八・九)誌上の対談で︑
ロンドン大学の一一ッシュ教授(巴
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ロ
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は﹁学生にも学
一
者にも非常に有益﹂な舵山人辞典として本書を紹介している︒一
二九