薬師寺発掘調査報告
第 I章 序
この報告は
,奈
良市西 ノ京町に所在す る史跡薬師寺境 内において10数 年にわた って実施 され た 発掘調査 の結果 を と.り まとめた ものであ る。 同寺境 内及び旧境 内においては,昭
和9年
か ら 昭和61年 に至 る までの間に30個 所近 くの場所 で発 掘調査が行われ てい る。 と くに昭和43年 か ら は,伽
藍 の復興・ 整備を主 な 目的 と してほ とん ど毎年 の よ うに調査が行われてい る。現 在
,薬
師寺の景観は10年前 とは比較にな らないほ どの変貌を とげている。金堂,西
僧房,東僧 房
,西
塔,中
門等 の堂塔が次 々と復興 され,回
廊 の再建 も計画 され てお り,往
時 の姿 を 再 現 しつつ あ る。 この よ うな復興計画には,創
建時 の状況を よ り適確に把握す ることが まず第一 に 必要 とされ る。そのための重要な手段 と して発掘調査があげ られ る。その成果に よって極 め て高い実証的資料を得 ることがで きる。建物 の配置,平
面や柱間寸法,基
礎・基壇 の状況 が 明 らか にな るばか りでな く,構
造形式や細部を想定す ることも可能 となる。遺跡 の保存に十分 の 配 慮 を加 えて基礎工 事を計画す る必要 もあ り,
このために も事前の発掘調査が きわめて重要 な 手段 であ る。薬 師寺境 内で行 った一連 の発掘調査は
,奈
良国立文化財研究所がたず さわ った寺院の発掘 調 査 の うち最 も規模が大 き く,か
つ長期にわた った もので,ま
た,調
査 に よって新た に得た成 果 も多大 な ものであ った。講堂北側の調査 では東西僧房 の位置を確認 し,小
子房 ・付属屋 と一 体 とな った僧房の構成やその使用状況が詳 しく判 明 した こと,さ
らにいわ ゆ る十 字廊 の位置や 規 模 を確 認 した ことは,従
来文献資料か ら推 定 され ていた見解を補足修整す る ところ とな った。また
,回
廊 の内側,外
側いずれ とも決めかね ていた鐘楼 と経蔵を北面回廊の外側 で検 出 し,
さ らにそ の基壇 の状況を確認 し,そ
の規模 の大 きい ことを裏付けた ことも大 きな成果 であ った。金堂 の調査 においては創建 当初の礎石が多 く残 され ていた こと
,基
壇上 の凝灰岩製 敷石 も当 初 の ものであ った こと,基
壇外装が束石 を用 いない羽 目石 のみ の ものであった ことな ど,創
建 時 の実状がかな り明確にな り,そ
の保存状況 も良好であることがわか った。西塔跡に残 る基壇は
,後
世 の攪乱が著 し く,外
装 の部分は地覆石の一部 と羽 日石の残欠を残 す のみ であ ったが,心
礎は原位置 に存在す ることが知 られた。基壇周囲では雨落溝 の外側に 玉 石 敷 の犬走 りや広場を検 出 し,こ
れ らの遺構 の保存状況は きわめて良好であ った。西僧房に お い て も,創
建時 の規模 ・構造につい てか な り詳細に知 る ことができた。 これ らの発掘 で得た成 果 は ほんの一例にす ぎない ものであるが,
この よ うな成果が古代寺院の研究に及ぼす影響 は極 め て大 き く,復
興計画に も棒益す るところが多大 であ った。伽藍 の復興工事は
,金
堂・西僧房・西塔・東僧房・中門 とあいついだが,い
ずれ も発据 調 査 で検 出 した地下遺構 の遺存状況が良好なため,薬
師寺伽藍建設委員会 ではその保存 のため,特
口
第 I章 序
言
に基礎工事 の計 画を慎重に検討 して実施 された。金堂 では礎 石が創建 当初の ものであるため, これを動かす ことのない よ う
,基
礎枕 を礎石 と礎石 の中間に 打 ち,工
事 中に礎石 な どを損 傷 さ せ る ことのない よ う,基
壇上面に山砂 を約30cm盛
り,そ
の上に さらに養生を行 った。薬師寺 境 内及 び この周 辺 では,奈
良時代か ら現在 までに約60cm程
地盤 が上 り,さ
らに周辺 の開発 に よって,今
後 も この傾 向が続 くと考 え られ る。それを見越 して
,再
建 金堂 では遺構 よ り80cm
上 げてお り
,旧
基壇上面 よ り上 に基礎梁 を架け渡 した。西塔 の復 興について も同様に地下遺構 の保存がはか られた。心礎は原位置にあ り
,基
壇 の大 部分は良好に遺存 していたため,直
径1.lmの RC抗
を基壇 の四隅近 くに打ち,杭
の頂部を井 桁 梁 でつ ない で基礎 を築 いた。 この基礎 で,総
重 量 約 600ト ンの西塔 を支 え る ことと した ので あ る。心礎 の上面に心柱を直接に据 えず,長
さ約1.5mの
花 商岩製 の柱 を心礎 に載 せ,そ
の上に心柱が立 て られた。基壇 の高 さは
,金
堂 と同様,遺
構 よ り約80cm高
め られたため,良
好 な 状況 で遺 存 していた基壇 及びその周囲の遺構 の保存が可能 とな った。さて, さきに もかれた よ うに
,薬
師寺伽藍 の復 興計画は昭和43年 か ら実施 に移 され る ことに な った。 これに ともな う事前の発掘調査 の初期 の段階 では薬師 寺 と近畿大学が中心 とな り,奈
良国立文化 財研 究所が協 力 して「 薬師寺伽藍発掘調査委員会」 と「 同発掘調査団」を結成 して 行われ る ことに な った。 そ の後
,昭
和46年 度後半か らの調査 は 奈良国立文化 財研究所 の手に移 され る ことに な り,調
査組織 もその時 の状況に よって次の よ うな変遷 があ った。昭和29年 か らの発掘調査組織及び関係者は次の とお りであ る。(所属はいずれ も調査当時)
昭和29年 度
大 岡
実,̀村 田治郎
,浅
野清
,杉
山信三,鈴
木嘉吉,田
中一 郎,沢
村仁 昭和39年 度
奈 良国立文化財所究所
杉 山信三
,松
下正 司,栗
原和彦 昭和43年 度 〜46年 度 (第1次 〜第 5次)薬 師寺 伽藍 発掘 調査協議会
高 田好,乱
,橋
本凝,音[(薬師寺),世
耕政隆,山
口定亮 (近畿大学)薬師 寺伽藍 発掘調査委員会
浅野
清 (大阪工業大学), 大 岡
実 (日本大学), 小林
剛 (奈良目立文化財研究所), 寺 坂 八 郎 (近畿大学), 福 山敏 男 (平安博物館
)以
上顧問。太 田博 太 郎 (東京大学), 岸
俊 男 (京都 大学
),町
田甲― (東京教育大学)以
上常任顧問。薬師寺 伽藍 発掘調査 団
坪 井清足
,沢
村仁
,田
中琢
,阿
部義平 (奈良国立文化財研究所),杉
山信三,林
野全孝,桜 井敏雄 (近畿大学
),山
田法胤 (薬師寺)昭和46年 度 〜60年 度
奈 良国立文化財 研究所
主 と して平城宮跡発掘調査部が調査を担 当 したが
,多
年 の間に調査部長は じめ,職
員 の移 動が あ り,調
査 関係者は多数にのぼ った。昭和46年 度
金堂
,
狩野久
松下正 司
村上訓一
黒 崎
直
菅原正 明
小笠原好彦 東野治之
昭和49年 度
鐘 楼・食堂 ・西僧房ほか
,
岡 田英男工 楽善通
黒崎
直
今泉隆雄
2
第 I章 序
言 高瀬要 一
山崎信二
千 田剛道
昭和50年 度
食堂北方
,
宮 沢智士黒崎
直
今泉隆雄
高 瀬要 一
光谷拓実
上 肥
孝 六 条大路南側溝
,
森郁 夫
稲 田孝司
中村 雅 治
昭和51年 度
西塔
,
狩野久
田中哲雄
佐藤興治
岡本東三
清水真一
昭和52年 度
束 僧房北方
,
宮 本長二郎森
郁 夫
綾村
宏
安 田龍太郎
本 中
真 十 宇廊
,
加藤優
菅原正 明
毛利 光俊彦
亀 井仲雄
昭和54年 度
東僧房
,
宮本長二 郎毛利光俊彦
田辺征夫 西面大垣
,
山本忠 尚巽
淳 一郎
昭和55年 度
西面大垣
,
加藤允彦上 原真人
山岸常人 昭和56年 度
南 門
,
立 木修
内 田昭 人
清 田善樹
昭和57年 度
中門
,
工 楽善通上野邦一
千 田剛道
本 中
真
杉 山
洋 昭和58年 度
本坊北方
,
工楽善通千 田剛道
本 中
真
寺崎 保 広
田中哲雄
山本忠 尚
西
弘海
松村恵 司
佐 藤
信
山岸常人
昭和60年 度
回廊
,
工楽善通上 野邦一
千 岡岡!道
奨
淳 一 郎
本 中
真
杉 山
洋 報告書刊行は金堂地域 の調査終 了時に も計画 されたが
,そ
の後 も西僧房,西
塔,束
僧房,中
間等
,伽
藍 中心 部におけ る発掘調査が相次 いだため,そ
れ ぞれ の地域 におけ る調査成果を報告 書 に も り込む 必要 もあ って,今
にいた った。本報 告書の作成にあた っては
,上
記関係者に加えて奈良風立文化財 瞬究所の多数 の研究員が 参加 し,調
査研 究 の進 行 に ともな って度重 なる討議を経 て原稿 を作成 した。 なお,薬
師寺 の歴 史につ い ては武蔵学園長太 田博太郎に執筆 を依頼 し,塑
像 につ い ては慶応大 学 教 授 西 川 新 次 氏,脱
乾漆像 につ いては奈良国立博物館松浦工昭氏,金
銅仏像については奈良国立博物館阪 田 宗彦氏にそれ ぞれ 調査・執筆を依頼 した。塑像挿 図の作図は辻本 千也 氏に よる。薬師寺発掘調 査 の遺構図は,国
土座標 (X=‑148094.401,Y=‑19505。 169)を原点 (0,0)と し,国
上 方 眼 方 位に対 して,西
へ0°34′ 00′′振れ る薬師寺方位に よってい る。
執筆分担は次 の とお りである。
第I章岡 田英 男
,
第 Ⅱ章太 田博太RБ
・岡田英男,第
Ⅲ章森郁 夫
,
第Ⅳ章1上野 邦―, 2‑
A本
中真
, 2‑BoC清
水真一, 2‑D〜 G亀
井伸雄, 2‑H・
I上野邦一, 2‑J森
郁 夫, 3肥塚隆保,
第V章 1綾
村宏
, 2山
崎信二, 3吉
田恵二, 4・ 5・ 6黒崎直
, 7‑A西
川 新 次, 7‑B阪
田宗彦, 7‑C松
浦正昭,第
Ⅵ章1岡田英 男・上野邦一,2森
郁 夫 ・吉 田恵二・巽
淳 一 郎・ 山崎信二
,第
Ⅷ章岡田英 男・上野邦―,で
あ る。付 章は大岡実他『 薬師寺南大 門及び中 門の発掘』(日本建築学会論文報告集
NO.50昭
和30)の 再 録 であ る。英文 日次・要約は ウイ リアム・ カー ター氏をわず らわ した。写 真撮影は主 として佃
幹雄・
八幡扶桑が担 当 し
,池
田千賀枝・松 田佐 由理が助力 した。本文編Fig.3の
写真 は菌部澄 氏 の提供 であ り
,図
版編 カ ラー写真4・ 5は株式会社飛鳥園の提供 であ る。編集は,坪
井 清 足 ・ 鈴木嘉吉・狩野久・ 岡 田英男・町 田
章 の指導 の もとに森
郁 夫 。上野邦一がすすめ完成 し た。編集作業には石 川千恵子 の助力を得た。
イ
表紙題字は薬師寺高 田好胤管主に よる。 西塔平面図は池 田建設株式会社の提供 であ る。