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『擬明史樂府』譯

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(1)

凡例一、底本は、『叢書集

續 』 收の『明史樂府』一卷(光

年・宋澤元校刊本・懴 一一 二、譯 庵)に基づいた。

は、解題・尤珍

・ 三、尤珍 料・詩・語釋・釋の順で竝ぶ。

に對する語釋は()

四、換韻位置は、訓讀の下に」で示した。 に記した。

25 生 濟

建文

の出

に從ったとされる

濟をうたう。

濟(生 は陝西不詳)

邑の人。占いと

武年 に長け、洪

に四川岳池の

となった時には、數千里離れた

に 邑

んだまま岳池に

來したという傳

がある。また

燕王の 濟は

兵を予言し、その言辭が不穩であると投獄されたが、 實際に

の變が勃發したことで翰林

修に その後、 擢された。

濟は從軍し、江蘇徐州で燕軍に

の將軍たちは戰 利した。南軍 を記念し

を立てたが、ある夜、

の 濟はそ

に りをあげた。燕王が徐州を占領すると、この

どめて て怒り、いったんは槌で打たせて壞そうとしたが、それをと を見

文を寫し取り名

將軍たちを捕らえた。その時、 がわりにし、京師を制壓した後に てられており、 濟の名は槌がちょうど當たっ

!われることを

"れた。かつて

濟が に ったのはこれを豫知してのことであった。ただし『明史』

濟傳は徐州での

利自體を

#$と さらに 考うるに、徐州に未だ嘗て捷有らざる也」という。 %け、「然るに其の實を 濟は金川門が破られて燕王が入

&すると、建文

'形に變え出

させ、その後も

士 (で建文

につねに付

『擬明史樂府』譯

(七)

) 本

* 一監修・尤

+ , 究會譯

(2)

き從い、四川・雲南・貴州・廣西・廣東の邊境や、ときには杭州などの各地を轉々としつつ、幾度も建文

たとされる。長い放浪の後、建文 の危機を救っ が正統年

に についに南京

ると、

濟は を その放浪の し、最期は知られていない。

を 筆』である。 濟みずから記したという書が『從隨 が復活したことから、改めて建文 二三年(一五九五)には正式に建文の年號

になり、それにともない、にわかに建文 臣の顯彰が圖られるよう いわゆる從の臣による手記を名乘る の出に從った、

料が現れてきた。

濟『從隨筆』と史仲彬『

身 建文 』はその代表といえよう。

臣について記した史書のうち、

佐『革除

鄭曉『吾學 事』や 』など嘉

年 以 のものを見る限り、

建文 濟は

臣の中で重

な人物とされてはいなかったが、

年から崇 末

にかけては

濟の功績がたたえられ、崇

年 の刊行である錢士升『皇明表忠紀』では建文

の臣の第一に 臣のうち從 なお、わが幸田露 げられるまでになるのである。

の『

隨筆』・白話小 命』は『明史紀事本末』・『從 『女仙外史』に據り、建文

の出を

本詩は く。

に殉じ一族までも罪に卷きこんだ按察御史高

對比しつつ、建文 に に付き從いながら最後は榮

を求めず身 を隱した

濟を、春秋晉の介子推に比して高く

價する。

[尤珍]濟高

と善し、

願わくは智士爲らんと、後に 曰く、願わくは忠臣爲らんと、濟曰く、

!(國

州に從軍し、 !に死す、濟徐)

"將

#を立てて功を紀す、濟一夜

$きて

# を祭る、文皇(永樂

#を見て大いに怒り、之を椎す、遽 にわ

かに止めて曰く、我が爲に姓名を

せらるる處に當たりて し來たれと、濟の名、椎

%るるを得、

出するに、濟

を以て從う、 人

遂に去りて之く &に南京に至りて曰く、吾が事畢れり矣と、 おわ

'を知らず、

[

『明史』卷一四一・胡閏傳附高 料]

傳附 傳、同卷一四三・牛景先 濟傳、『明史紀事本末』卷一七・建文遜國、

『革除 佐

事』卷三・高

傳、鄭曉『吾學

』遜國臣記卷五・

濟傳、同高

傳、鄭曉『今言』卷三、屠叔方『建文

(

野彙

』卷七・

濟傳、卷一二・高

傳、李贄『續

卷七・高 )書』

傳、同

濟傳、如惺『大明高

能(建文)傳、錢士升『皇明表忠紀』卷六・從列傳・ *傳』卷三・釋應

+『擬明史樂府』譯(七)(

,本・尤

+研究会)

(3)

錢士升『遜國

書』

收『從

隨筆』、同『

膝 』、同『拊

濟傳、川越泰

『明代建文史の

幸田露 究』(汲古書院)、 『 命』(角川書店『日本

代文學大系幸田露

集』、 本 一 )、鈴木正「建文

出 考證」(『史

、同「續建文七合冊) 』第六五・六・

出 考證」(同第六八冊)

爲忠臣爲智士忠臣爲らん智士爲らん死高 生 濟死せる高

生ける

身 濟

乎軍中祭身は

君 るる乎軍中に祭り かな

乎宮中剃君は

臣操君登舟 君乘車臣執轡君車に乘れば臣轡を執り るる乎宮中に剃す 君舟に登れば臣

を操る かい 則燎衣

持糒

ければ則ち衣を燎り あぶ

四 うれば糒を持す 從 多故人四

從 故人多し

旁相見惟流涕

萬水千山風復雨 旁に相い見え惟だ流涕するのみ」 まみ

水千山風復た雨 君 上金陵去を君

らずをびて冥冥鴻飛不知處に冥冥」知處鴻飛 りてするも歸日有龍蛇の天外龍蛇有日歸天外 たるりてに去上金陵 忠臣忠義な臣下。ここでは高

を指す。高

とした。後 は忠臣たらん 智士智謀の士。ここでは 參照。

濟を指す。

した。後 濟は智士たらんと

高 參照。

高 は(?‐一四〇二)

濟と同

しいことを竝び稱された。『吾學 であり、經學に詳 』 る 濟傳をはじめとす

!料によれば、

濟は得意の

"を高

にも學ぶよう

#めたが、高

斷った。燕軍が金川門を破って入 は「我れ願わくは忠臣爲らんとする也」と

ていた高 $すると、按察御史となっ は、

濟にともに殉死するよう

くが、

これに「我れ願わくは智士爲らんとする也」と應じ、建文 濟は に出 を

%めるとともに、自らもそれに從った。後に高 は

&位した永樂

に召し出されたさい、喪

臨んだため怒りを買い、處刑され、家財は 'をまとって らに『革除 (收された。さ )事』によれば永樂

は、子々孫々まで高

恨ませるよう一族にかける を 身 *金を倍にしたという。

乎軍中祭軍中での祭儀によって、

濟自身は

を +っ手

れた。

君 濟の豫知の力を示す。解題參照。

乎宮中剃宮中での剃髮によって、建文

は +っ手を れた。『從

隨筆』は

濟が直接に建文

の剃髮を行っ 中國詩文論叢第二十七集

150

(4)

たとするが、『今言』など高

料も多い。これらの 溥洽が執り行ったとする史 については鈴木正「續建文

出 轡を執る、之を守るを謂う也」と 「君の乘車を執りて則ち坐す」儀にとあり、鄭玄は「執は、 執轡轡はたづな。たづなを取って馬車を操る。『禮記』少 考證」に詳しい。

登舟船に乘る。『從 する。

隨筆』に、西

が 門から出した一行 操 げるさい、「乃ち上を翊けて舟に登る」とある。 たす

は舟の櫂。押韻のため用いた。話柄は

の 燎衣燎は炙り乾かす。臣下がかいがいしく君 り。

る。王莽の亂の時、河北に の世話をす れた光武

が大雨に

い、馮

が火を焚いて

の衣を乾かした故事による。『後

卷一七・馮 書』

傳に「(馮)

を き、

禹火を

ほしいいを持糒 光武竈に對して衣を燎る」とある。 あぶ し、 て糒醪を持し(李)廣に ぶ。『史記』李廣傳に「大將軍長史をし

乾 らしむ」とあり、顏師古は「糒、

也」と

四 する。

國じゅう。『爾

之を四 』釋地に「九夷、八狄、七戎、六蠻、

從 と謂う」とある。

出 した君

に從う。後

「龍蛇」參照。 多故人故人は

知の人。

「涼州岑參

中與 に「河西の 官夜集」

の句がある。 中故人多く、故人別れ來たる三五の春」

旁一句すがら出會っては

!する。『從

「馮 隨筆』には

"、

#直師(建文

など、再會や離別に を訪れて至り、床下に泣拜す」)

!する建文

と一行が記される。

水千山多くの山河。建文

が出 しい山河が多い。 した四川や雲南には險

「入蜀」高駢に「

$水千山

にして、空しく魂 %信希

&を勞れしめ京畿に到る」の句がある。 つか

君一句建文

が南京に

'ると、

(濟は )を隱した。『從 隨筆』に「時に濟師の大

りて曰く、今日方に臣の職 *に入るを聞き、心に自ら語 +われり矣」という自

天外限りなく る。 ,があ -い場 .。建文

は雲南にまで

有日長い時 られる。解題參照。 れたと傳え

/の後。建文

が 0に には 'ったと傳えられる年代 あるが、『從

龍は天子、龍蛇蛇は從 ととする。 隨筆』は正統五年のこ(一四四〇)

たいわゆる「龍蛇歌」をふまえ、晉の文公を建文 の臣。ここでは晉の介子推をうたっ

に、介

1『擬明史樂府』譯

(七)(

2本・尤

1研究会)

(5)

子推を

濟に比す。『史記』晉世家に、「是を以て從

するも、未だ隱 を賞 ば、祿も亦た 介子推に至らず、推も亦た祿を言わざれ そこで介子推の從 けながら、隱棲した介子推には恩賞が與えられなかった。 ばず」とあり、文公の流浪につき從って助 一蛇は獨り怨み、 を爲す、龍は已に雲に升り、四蛇は各おの其の宇に入るに、 は宮門に「天に上らんと欲し、五蛇輔 に處る

らぐらとしたさま。 冥冥鴻飛鴻飛冥冥。高士がその身を隱して去る。冥冥はく 訴えた。 を見ず」と歌を書いてこれを どこに行ったかわからない。不知處 わん」とある。何ぞ焉を人 うば 冥冥のうちに飛べば、弋鴻るれば則ち隱る。亂見われ、 揚雄「治まれば則ち問明に『法言』

「 「暗別離」劉瑤に

として西のかたに飛び去り、

て處を知らず」の句がある。 闊く天高くし

忠臣であろうとし、智士であろうとし、死んだ高

、生きた

その身は 濟。

れたのだ、軍中で

を祭ったために、

君は

れたのだ、宮中で剃髮したために。

が車に乘ると、臣下はたづなをとり、

が舟に乘ると、臣下は櫂を操る。

ければ衣をあぶり乾かし、

えれば干し

國中を ぶ。

れていけば、

知のものも多く、

すがら出會えば、ただ

千 を流す。

君 の山河を越え、幾度も風雨にあいながら、

を南京に

り歸して去った。

くまで行った龍と蛇は、長年たってから

に らない。(川二) 鴻はくらぐらとしたかなたに飛びさり、どこに行ったかわか ったが、

26 門慟

!"の殉臣儲

#

ちよふくと隱遁の士

$%

きようくをうたう。

$%(生

&不詳)は江蘇崑山の人。字を大章。父が陣

たため軍卒となった。金川門が開かれ、燕王が &し ると 'え入れられ

$%は慟哭して去り、江蘇の任陽に二十年余りも隱れ

(

んだ。宣

)年

*に至り、建文

臣が許されると、讀み書きを +え ,を賣って生計を立てていた

$%は、學官に推

しかしこれを -される。

$%は「

%、仕うるも義に

.無し、

/日の の一慟に負かんことを 0門 1るる耳」(『吾學

2』

$%傳)と言っ 中國詩文論叢第二十七集

152

(6)

て斷り、隱棲したまま一生を

えた。

儲 あり、年譜が付される。 に『野古集』三卷が (生

は江蘇無錫の人。洪武年不詳)

河北の燕山衞の軍卒にあてられた。燕王の に奴隸となり と母を 兵にあたって妻 れてれたが、燕王の永樂

としての

させるため隸卒を買い求めたさい、帳 位後、從軍 に儲 ため、捕らわれて雲南の兵役に從わされた。儲 の名があった で慟哭し「吾一介の賎卒と雖も、義として は天を仰い

(『吾學 の臣爲らじ」

』儲 と言い、傳)

殘された妻范氏は姑を を斷って死んだ。

ぬよう山中で慟哭した。むしろを織って賣る貧しい い、夫を悼むときには姑に聞こえ

あったものの、 らしで 後その

義をたたえられ、

本詩は金川門が開かれて慟哭して去った なった。 られることに 門を開いて燕王を から始まり、

え入れた谷王と李景

の末路にふれ、後

では建文

を悼んで慟哭した儲

夫を悼み慟哭して を詠み、さらにその妻を、

壁を ぶ。 した春秋齊の杞梁の妻に重ねて結 と儲

は建文

詩ではそれのみならず、故事をも用いることで、 臣の傳にしばしば竝列されるが、本

というテーマに引きつけ、 門と慟哭

を一貫したものとする。 [尤珍

] 金川門の卒爲り、燕師至り、谷王

る、

陳二家に寄せ、の馬、(米倉)中に 之を去り、姓名を王大章と變じ、任陽に走げて大姓(江蘇) 慟哭して

!

かくまわる、書を讀み

賣り、徒に授くること二十余年、宣 "を

#中、始めて歸り、

$忱

%めて本邑の學官爲らしめんとす、辭して曰く、

うるも義に于いて い仕 たと

&無し、但だ

'日、

と、燕山衞(河北)の卒儲 門の一慟に負かん耳 母妻を挈えてれ去るに、

(

)われ、曲

*に(雲南)

+せらる、舟行の

て哭して曰く、吾一介の賎卒と雖も、義として ,に、天を仰ぎ おり と、竟に を爲さじ らわずして死す、妻范地を營して之を

の夫を哭する -る、其 に聞かれんことを欲せざれば也、一日、澗邊に .に、則ち山谷中に走りて大いに號す、之を姑

'きて衣を浣 あら

うに、席

姑を /の其の旁に生ずる有り、因りて取りて織り、以て う、范

するに、

を祀る、 /も亦た生ぜず、土人義として之

[

『明史』卷一一八・谷王 0料]

1傳、同卷一二六・李景

史紀事本末』卷一八・壬午殉 傳、『明 2、

『野古集』、張

3

4『擬明史樂府』譯

(七)(

5本・尤

4研究会)

(7)

瑞『忠

』卷五・

翊(

傳、同儲)

傳、鄭曉『吾學

』「建文遜國臣記」卷五・

翊(

)傳、同儲

叔方『建文 傳、屠

野彙

』卷十七・儲

傳、同卷十八・

翊(

傳、同儲 ) 妻范氏傳、李贄『續書』卷七・

傳、同儲 傳、何喬

『名山』卷五十六・李景

『遜國 傳、錢士升

書』

收『拊膝

』 傳、同儲

傳、

『列

詩集』甲集・

傳、川越泰

『明代建文

史の

(汲古書院) 究』

生十七金川卒

提戈 生十七金川の卒 燕師入戈を提ぐるも

み し燕師入る 命任陽大

命す任陽大

賣藥歸來頭已白 の中 開門小侯景 を賣り歸來するに頭已に白し」

死門を開きし小侯景

谷王罪坐十八子谷王罪に坐す十八子 死し 公 仕本無傷

公仕を

むるは本より傷なう無し 負 門一慟耳

門の一慟に負かんことを

同時儲 るる耳」

燕山軍同時儲

二十好義 燕山の軍 江濱二十にして義を好み江濱に

一 る

束 思故

束 せらるるも故

を思い 深山血 杞梁有妻亦善哭杞梁に妻有り亦た善く哭す 仰天大哭殉其身天を仰ぎて大哭し其の身を殉ぜしむ」

至今席 殷紅裙深山の血紅裙を殷んにす さか

!生秋

"

今に至るまで席

!秋

"に生ず」

生 。『吾學

』 金川金川門。京 き年十七であった。 傳によれば金川門が破られたと の北側にあたる。谷王朱

#、曹國公李景

はこの門を守っていたが、建文四年六(一四〇二)

丑、燕王の軍を $乙 燕師師は軍 提戈戈はほこ。ほこを提げて從軍する。 %めると、ただちに門を開いて降った。

任陽江蘇任陽。 &。燕王の軍。

は金川門から

れて故

'に歸ったが、

隱した。 (っ手がかかったため任陽の富家である馬家、陳家に身を

米倉。任陽で

)われた際、

は米倉の中に

賣 *んだ。

洪熙

+が ,位し建文

+についた

續いて宣 -たちに大赦を出し、

.+の時世になると

くなり崑山に歸り、 は罪を問われることもな を賣ることと人に學問を

で生計を立てた。 /えること 中國詩文論叢第二十七集

154

(8)

頭已白

が崑山に歸るまでには二十數年が經

以上、第三句と第四句の話柄はいずれも『列 していた。

詩集』

傳に見える。小侯わかぎみ。李景

いで曹國公となった。小侯の語は は開國の功臣たる父李文忠の位を繼

景 13「上梁文」にも見える。

死曹國公李景

(生

建文元年八(一三九九) 不詳)。傳は『明史』卷一二六。

、李景

と言い、かえって喜んだという。李景 耳豎子」(ぜいたくに育った小)(『明史紀事本末』卷一六) のみ の大將となったが、燕王はこれを聞いて「李九江は膏粱の は耿炳文に代わり官軍

は五十萬の大軍を

い、一時は北

圍したが陷

できずに敗れ、

白 年の

河の戰いでも敗北すると濟南に

げ( 17「鐵

、解任されて京師に照) 書」參

っていた。永樂

の 時は重職を得るが、ほどなく永樂 位後、一 受けた。『名山 古參の臣下から彈該を

「十八子」言が、つまり合 つべし」の妖永樂初年に廣まった「十八子、當に天下を有 たも 』によれば、收賄容疑をかけられ、また

反 して「李」字になることから を疑われた。永樂二年(一四〇四)には弟李

もに位を 枝とと

られ、

への參與が許されなくなり、財を

收された。死刑にこそ處せられなかったが、屋

に禁錮さ れたまま永樂末年に

谷王谷王朱 した。

(?‐一四一七)。谷王は永樂

の 沙に封土を得たが、その榮 位後、長 た。『明史』によれば專 を長く保つことはできなかっ には年「高皇(一四一七) をしばしば彈劾され、永樂一五 託宣を得た、として反 の十八子」が位につくという を企てた。また建文出

かし、自らったと言い、ことを有利に をほのめ かし結局は戰うこともなく !ぼうとする。し

"った。永樂

に處すべしとの はいずれも死刑

#臣の諫言や

#王の裁定をも

處分を庶人に $し、谷王の 十八子李景 とすのみとしたが、谷王は自ら燒死した。

の失脚も、谷王朱

の十九番目の子にあたるが、趙王朱杞が幼くして 子」の妖言に關わるものであった。谷王は本來では朱元璋 の王位の剥奪も、「十八

薦仕役職に推 めこう言ったもの。 したた

%する。江南

&撫 '忱は崑山に歸った

學官に を

%めたが、

本無傷傷は はこれを固辭した。

(に同じ。後句と同じく

の言

恐負一句 )による。

が學官になるよう

斷った。解題參照。『忠 %められたさいこう言って

*+』 傳以來、各書はこの言

)を載せる。

,『擬明史樂府』譯

-(七)(

.本・尤

,研究会)

(9)

燕山河北燕京附

。 二十好義儲 の變當時、燕王の封地であった。

が燕山衞の隸卒となるまでの經

その性格については『忠 は不明だが、

』儲

頗る義を好む」とある。 傳に「年二十餘にして、

江濱川邊にれる。『忠

』 傳に、雲南の曲

に 衞

また「舟中に在りて日夜號泣す」とあることから、 られようとしたさい、「復た家を挈えて行く」とあり、

家族を が

故 れて川沿いにれたことを言う。

もとの君

。ここでは建文

仰天一句儲 を指す。

は天を仰いで反

には與しないと言い、

を斷って死んだ。解題參照。『忠

』儲

はこの言 傳以來、各書 杞梁春秋齊の人。齊が を載せる。

の妻が夫を悼んで慟哭すると、 を攻めるとき捕らわれて死に、そ

壁が

れたという。

向『列女傳』貞順傳に「乃ち其の夫の尸に 劉

を哭す、 下に就きて之

人を動かし、

路 ぐる 揮わざるは莫し、十日にして 、之が爲に涕を 之が爲に

れは後に、長 る」とある。こ の建設に夫を取られた妻が工事の

んだ夫を悼んで號泣したところ、 中で死 壁が れて夫の

現れたという「孟姜女」の傳 骸が

として知られることとなっ 善哭はげしく泣く。『孟子』 た。

子に「

い、 善く其の夫を哭して國俗を變ず」とある。またこの語を用 !、杞梁の妻、

"

#にある、泣いて

壁を としては、劉基「題謝皋 したことをも載せる先例 妻善く夫を哭し、哭して $傳後」に「君見ずや杞梁の の 血 て大聲を上げた。 深山范氏は夫を思って泣くとき、姑をはばかり山中に入っ 補わん」とある。 るるを得たるは又た何ぞ

血の

%。血

%が衣を赤く染める。金幼孜「

武安同 安柩歸西江」に「天涯を

&斷するも去りて

しく餘す血 'らず、空

%衣を染めて殷なるを」とある。殷は赤

(

い色。席

むしろを織る

と、席 )。范氏が川べりに出て衣を洗っている )を見つけたのでこれを織り、賣って姑を

范氏が *った。

+すると

)もまた生えなくなった。

『忠 "句とともに 』儲

席 傳に話柄がある。本詩では「今に至るまで」

)が生えるとし、儲

と妻范氏の

秋 を讃える。 義が不滅であること 秋の

,。 李賀「秋來」に「秋-

.鬼は唱う鮑家の 中國詩文論叢第二十七集

156

(10)

詩、恨血千年土中の碧」の句がある。

武 は年十七、金川門の兵卒、

を持っても止められなかった、燕王軍の入

任陽の地に は。

げ、米倉の中に

われ、

金川門を開けた君の李景 を賣ってすごすうちに、髮はすでに白くなった。

谷王が罪に問われたのは、ともに「十八子」にまつわるもの。 の死と、

君の推

同じころ、儲 金川門での慟哭に背いてしまうことをおそれるだけだ。 、もとより義に反することなどないが、

年は二十、義を好み、川邊に は燕山の軍卒、

ある日捕らえられたが、もとの れた。

杞梁の妻のように、儲 天を仰いで大いに泣き、おのが身をもって殉じた。 君を思い、

深山に隱れて血 の妻もまたはげしく慟哭し、

今でも、秋でさえむしろの を流し、赤いもすその色を血で深めた。

がその

(川 々と生えている。

二)

27 行遯歌

本詩は

詩題の「行遯」は の變における隱遁の士をうたう。

れる。『

書』

子に「自ら

人びと自ら先王に獻ぜんのみ、我は行遯を んじて、

建文 みず」とある。

臣のうち、處刑された方孝孺らを殉

の臣、出

た に從っ

濟らを從

の臣と呼ぶが、京師を

呼ぶ。本詩は ものたちもいた。かれらを「行遯の臣」、「隱遁の臣」などと 出し各地に隱遁した 庵和 もっぱら建文 代表といえよう。 それぞれ四言八句の詩を詠むが、彼らはそうした隱遁の臣の ・補鍋匠・河西傭・東湖樵夫について

臣の傳を載せた史書は、正

年 れた張『備 に出版さ

!"』をその嚆矢とし

#佐『革除

これに續いたが、これらで !事』などが

に書かれたのは殉

隱遁の臣や從 の臣であり、

の臣の記

しかし、嘉 $は少なかった。

年 に浙江松陽の王詔なる人物がその地の治

%寺で從 の臣について記した書を發見する。書は紙

に『忠賢奇祕 取れたのは梁田玉以下九人の部分のみであった。これはのち に亂れており、二十人あまりの人物が書かれていたが、讀み &とも

"』と名づけられて廣まることになる。

'『擬明史樂府』譯

((七)(

)本・尤

'研究会)

(11)

鄭曉『吾學

』など嘉

年 廣く建文 に出版された史書は、さらに 臣の傳を載せるが、特に從

の臣について

その事跡が傳えられるようになったのは、『忠賢奇祕 んに その後、 發見を受けたものであった。 』の 年

に至って『

身 』・『從 書が現れた事 隨筆』などの

については

25「生

濟」解題の

そして『 りである。

身 』・『從 ていた 隨筆』にはそれまで隱遁の臣とされ 庵和

らが、時に建文

の を助け、時に建文

に從って

從 をしたと書かれていた。ここに至って隱遁の臣は また、本名を隱していた隱遁の臣たちが、建文 の臣に取りこまれることになる。

なる人物であったかについては、それまでにも 臣のいか が、『 があった 身 』・『從 隨筆』などの各書でもやはり大きく

なっていた。錢士升(一五七五-一六五二)は崇

年 に『

身 』・『從 隨筆』・『拊膝

』・『冤報

』をまとめ『遜國

けて出版し、自ら建文 書』と名づ

『皇明表忠紀』では 臣の列傳『皇明表忠紀』を書いたが、

庵和

らの事跡を「從

た上で、各書における 列傳」に入れ 人物に限って記せば以下の 同をまとめている。本詩に登場する

りである。 『

身 』は

庵和

を郭

『從 趙天泰、東湖樵夫を牛景先とする。 、補鍋匠を王之臣、河西傭を 隨筆』は

庵和

を 學、補鍋匠を

後に續く各書は、ほぼいずれかの を王之臣とし、東湖樵夫は登場しない。 直、河西傭 末』は『 に從う。『明史紀事本 身 』にもとづき、幸田露

『 襲する。この時代は白話小 命』もこれを踏 にも 仙外史』が知られるが、そこに登場する われ『續烈傳』や『女

庵和

基本 らの事跡も

!には『從

隨筆』や『

身 しかし、本詩は詩題の 』に據る。

り、

庵和 從 ・補鍋匠・河西傭を

『吾學 の臣とはせず隱遁の臣とし、さらに東湖樵夫については 』等にしたがい、建文

臣ではなく、建文

て死んだ一介の樵夫とする。「名氏を傳えず」に に殉じ をたたえたものであろう。 "えた處世

[尤珍

#] 庵和

重慶に至る、大竹の隱士杜景賢寺を

居らしむ、 $りて之に

%夕に易經を誦す、景賢之を止め、改めて

&

中流に を誦せしむ、好んで楚辭を讀み、一冊を買いて、小舟に登り、 '經 (棹し、一

)を

*誦しては、輒ち一

)を水に投ず、投 中國詩文論叢第二十七集

158

(12)

げ已われば、輒ち哭す、哭し已われば、又た讀む、

れば乃ち 盡く

る、日に酒を

ぐこと一壷、客至れば

ち飮む、

すべきやと、和 して寐ぬ、死するの日、其の徒問う、宜しく何許の人と銘 いずこ 酣すれば豎兒を呼びて歌に和せしむ、歌竟われば、瞑焉と

補鍋匠 目を張りて松陽と曰う、

慶のを

來す、從いて學ばんとする

之に 有らば

に學ばんとする え、謝を索めず、但だ擔を負いて從わ令む、或いは後

至れば、

ち 人を 鍋と爲す、忽ち わす、人呼して老補 州の市に馬公と逢う、相い

已にして相い持して哭す、哭し已みて相い みて愕然とす、

て 巖中に坐して語ること竟日、又た相い持して哭し、別れ去り いて山に入る、

うる 河西傭葛衣を被て金 を知らず、

西を に至り、市中に行乞す、明年、河 裘を買うも、必ず葛衣を以て之を ぎるに、魯家に依りて傭と爲る、直を取りて積み、羊 あたい

う、葛

るも、 ます破れ縷縷た の哭泣の聲を聞く、病みて且に死せんとするに、 と飮み、倦めば詩を作り輒ち自ら吟哦す、或るひと夜に其 ぐを肯んぜず、餘錢有らば、牛肉・酒を買い、乞兒

て囑して曰く、我死すとも 人を呼び

もがりする勿かれ、西北の風

こらば、

ち我を火き、我が骨を埋むる勿れと、魯家其の言に從う、 新詔臨 東湖樵夫日に柴を負いて市に入り、口に價を二にせず、

樵に語る、新天子登極すと、樵愕然として曰う、 に至る、湖上の人縣に入りて詔を聽き、歸りて

王詔治 て河に投じて死す、 にか在ると、曰く自焚せり矣と、樵大いに哭し、擔を擲ち 安く 寺に于いて書を得、

或るひと謂う、 り、餘十一人、傳わらず、 梁良玉、梁良用、梁中、郭良、郭、何洲、何申、宋和有 臣の姓名を記す、梁田玉、

!庵修撰

"

#學爲り、衣葛

$ 務馮 爲り、河西傭監正王之臣爲り、馬公亦た馬二子と稱す、司 %修趙天泰

&爲り、補鍋按察使

'直爲り、樵夫

然るに表忠 (撫牛景先爲りと、

樵夫詔を聞いて湖に投ずるは )(皇明表忠紀)、景先杭州の寺中に死すと紀す、

臣に

*せず、又た衣葛

河西傭は一事、兩人にせるは、疑うらくは傅會の $、 坐する南泉(普願) +りならん、

,に、一

と、太俗生 -手を叉して立ちて曰く、

-合掌して曰く、太

-生と、首句此れを用う、

[

『明史』卷一四三・牛景先傳附河西傭傳、同補鍋匠傳、同 .料]

!庵和

傳、『明史紀事本末』卷一七・建文遜國、鄭曉

/『擬明史樂府』譯

(七)(

0本・尤 /研究会)

(13)

『吾學

』遜國臣記卷六・

庵和 補鍋匠傳、同馮 傳、同河西傭傳、同川中 傳、同東湖樵夫傳、屠叔方『建文

野彙 』卷一八・東湖樵夫傳、同

庵和 傳、李贄『續

卷七・ 書』

庵和 傳、同河西傭傳、同補鍋匠傳、同馮

夫傳、錢士升『皇明表忠紀』卷六・從 東湖樵

『遜國書』 列傳、錢士升

收『從

隨筆』、同『

身 』、川越泰

代建文 『明

史の 究』、鈴木正「建文(汲古書院)

(『史 考證」

』第六五・六・七合冊)、同「續建文

出 第六八冊) 考證」(同

佛經太

佛經は太

易經太俗易經は太俗不如離騷離騷に如かず一飮一讀一飮一讀且讀且哭且つ讀み且つ哭き投之河曲之を河曲に投ず生也松陽生まるる也 松陽死也大竹死する也 大竹」一解補鍋補鍋補鍋補鍋 鍋破奈何鍋破るるは奈何せん鍋破

可鍋破るるは

國破 お可なり 我國破るれば我を

相持相泣相い持し相い泣き 誰與馬公誰か馬公と與にせる 市上相逢市上に相い逢い せ」

山空

金 二解 ち山空し」

雨 金 の雨 老傭衣葛老傭は葛を衣る豈無羊裘豈に羊裘無からんや葛衣不

葛衣は

當風揚 歸兮魂魄歸れよ兮魂魄 之死不歸死に之るまで歸らず いた 我來河西我は河西に來り がず」

風に當たりて

舊 自沈東湖自ら東湖に沈む 亦有樵夫亦た樵夫有り 三解 を揚げよ」

安在

安くにか在る 中國詩文論叢第二十七集

160

(14)

懷沙與 懷沙與に

古寺 不傳名氏名氏を傳えず 千秋義士千秋の義士 にせんと」

書古寺の

四解 九人而已九人而已」 のみ 書は

坊 くさい。

の禪 語。『 、南泉普願(七四八-八三五)の 堂集』卷一六に「

叉して立つ、師云わく、太俗生、 有り、師の身邊に在りて手を 太 又た合掌す、師云わく、

生、

對うる無し」とある。

隱士杜景賢が作った寺に 庵和は、四川大竹の んだが、

夕の 聞いたところ易經であった。身元が りを杜景賢が 常ならざることが露 することを案じ、經文を詠むようにすすめると、

庵は 易經太俗 經を詠むようになった。

離騷屈原『楚辭』の一篇。ここでは『楚辭』を代表する。 參照。

庵和は『楚辭』を讀むことを好んだが、建文の出

を 臣であると人に知られることをおそれ、ひとり船上でこれ の 誦し、一

詠んでは一

を水中に投じ、慟哭してはま た

の一 一飮一讀『莊子』 を詠んだという。

生 に、「澤雉は十年に一

、百 飮」とあるのをもじった。 に一 と讀は

河曲川のくま。曲は押韻のため用いた。 。 庵和は

た『楚辭』を水中に投じた。 誦し 松陽浙江の地名。 參照。

庵和は死に臨んで弟子に

大竹四川重慶の地名。 言答えた。 の人と書くべきかと問われ、目を見開き「松陽」とただ一 誌に何處

庵和はこの地で

解樂曲、詩歌の章 した。

。崔豹『古今註』に「李

に因りて更に新聲二十八解を 年、胡曲 とも呼ぶ。重慶や州を 補鍋補鍋匠をさす。補鍋は、鍋のいかけ。補鍋匠は老補鍋 む」とある。

のがいれば謝禮を求めず !來し、いかけを學ぼうとするも

"えたという。「鍋」は「國」に

(または馮 市上相逢街で出會う。補鍋匠はあるとき州の市中で馬公 じる。

#なる人物と出會って互いに)

馮馬公 永訣を誓って別れたという。 い慟哭した。その後、山中に入って夜まで密語を交わし、 $き、手を取り合

#、馬二子とも。司務馮

%に擬せられる。

&『擬明史樂府』譯

(七)(

'本・尤

&研究会)

(15)

山空

が沈み、山が靜まりかえる。楊

見 里「普明寺

」に「

金 るも酒無し且く新詩あらん」の句がある。 ち山空しうして正に幽獨、慰存せんとす 甘肅

州の古稱。

に金 を取って衣 老傭衣葛老傭は河西傭。葛はマメ科のつる性の植物。纖維 河西傭ははじめこの地で乞をした。 郡が置かれたことによる。

を作り、

に 燕軍が 用に供する。河西傭は京師に 入すると葛衣すがたで西北の地に

羊裘羊の皮で作った上 れた。

。河西傭は

當地の魯家に傭人となった。給金を貯め、羊の上 州から河西に移り、

たが、それでも初心を を買っ れることなく、もともと

ぼろの葛衣を ていた

がずにその上に

河西甘肅の 織ったという。

人をした。 河より西の地域を呼ぶ。河西傭はこの地で傭 之死不歸死ぬまで歸ることがなかった。『詩』 參照。

當風揚 江南哀し」とある。り來たれ 歸ってこい、歸「魂よ兮招魂に『楚辭』魂よ。歸兮魂魄 けん」とある。わくは他靡るまで矢に「死に之 ちかいた 風・柏舟 風に

を吹き上げさせる。

の古樂府「有

に、「摧きて之を燒き、風に當たりて其の くだ 思」

を揚ぐ」とあ る。河西傭は死に際して

人に、土

にはせず、火

るよう にす

んだ。同じ題材を詠んだ董

に「我を棺に 「河西傭」の末句 る勿かれ、風に當たりて

浙江臨東湖 樵夫東湖樵夫。 る。 を揚げよ」とあ

にある湖。

安在先

はいずこにおわしますか。東湖樵夫は永樂

位を聞いて「

古寺 千秋千年。とこしえ。 樵夫を重ねる。 と。『楚辭』懷沙をふまえ、汨羅に身を投げた屈原に東湖 懷沙ふところに砂石を入れて水中に身を投じ、自死するこ を知ると慟哭して入水した。 安くにか在る」とたずね、その自焚

『忠賢奇祕 書古寺に殘された書物。松陽の治寺で見つかった

!』を指す。『明史』卷一四三は『忠賢奇祕

と『 !』

"身

!』の發見にふれるが、『

"身

!』の

し『( #容は「蓋

"身)

!』 九人だけだ。九人而已『忠賢奇祕 しりぞける。 $出也、附會にして信ずるに足らず」と

からは、梁田玉・梁良玉・梁良用・梁中 !』として廣まった書物

%・何申・何洲・ 中國詩文論叢第二十七集

162

(16)

郭 ・郭良・宋和の九人が讀み取れるだけであった。

佛典は坊

一 讀んでは泣き、 飮んでは讀む。 離騷にしくはない、 易經は俗人くさい。 くさいが、

死ぬのは四川の大竹。 生まれたのは浙江の松陽、 ごとに川に投げ入れる。

鍋つぎや、いかけや。鍋の破 れたを何としよう。鍋の破れたはまだましだ、國が破れたならば私を

手を取り合っては 誰が馬公といっしょになったか。 市中で出會い、 せ。

を流し、

は沈んで山はひっそり。

老いた人足は葛衣を 州にがふるとも、

葛衣は 羊の毛皮があるというのに、 る。

風に 歸れよ魂魄、 死ぬまで歸ることがなかった。 私は河西に來て、 がず。

を吹き上げさせよ。

また木こりがおり、自ら東湖に身を投げた。先

たった九人が載るだけだ。(川 古寺に殘された書物には、 自らの名を傳えなかった。 とこしえに讃えられるべき義士たちは、 水中に身を投じてお供します。 はいずこにおわします、

二)

28 中山女

本詩は中山王徐

の子女たちをうたう。

『擬明史樂府』譯

(七)(

本・尤

研究会)

(17)

徐 には四人の息子がおり、徐輝

は長男、徐 (一三六七‐一四〇七)

壽(?‐一四〇二)は三男にあたる。徐輝

を繼ぐ際、後の建文 はじめ名を允恭といったが洪武二二年に魏國公(一三八九) 、 、朱允 の名を けて輝 各地に と改める。

戰して功績があり、燕王兵の際にも兵を

抗した。のち兵 いて抵 を失い、燕王の入京に際しては

た。『明書』によれば、そのとき徐輝 守って出向かなかったため、彈劾を受け處刑が取りざたされ 先の廟を は永樂 に「中山王 開國の功あり、子孫死を

る」とのみ書して

う。徐輝 ったとい はこれにより、處刑は

れたものの

れ、屋 位を剥奪さ に禁錮されたまま、年四十で

徐 子の代になって復した。 した。魏國公の位は 壽の名は才能を見こまれ太

王と から賜ったもの。常に燕 じて建文

軍に には燕王の叛亂を否定し、京師の動向を燕

った。燕軍が

に ると建文

壽を詰問し、劍を

き自ら斬った。燕王は

に入ると

壽のなきがらを厚く

り、

位後は武陽侯に

その後、開國の功臣の子孫たちがことごとく 封し、さらに定國公の位をおくった。

保った。『明史』が「洪武の た中で、魏國公は南京、定國公は北京でそれぞれ長く公位を 勢を奪われ 功臣、惟だ

の子孫に二公あ 一方徐 り、兩京に分居す」と記すゆえんである。

の娘たちは、それぞれ

妃となった長女は燕王の(一三六一‐一四〇七) 王に嫁している。燕王の

なっていたが、三女(『罪惟 仁孝皇后となる。他の二人の娘もそれぞれ代王、安王の妃と 位とともに 七九?‐一四四〇?)のみ嫁入りすることなく の徐妙錦』によれば四女)(一三

これは洪武二五年にこった代王の ごしていた。

る。永樂五年に仁孝皇后が(一四〇七) 代王妃が捕らわれるという事件がこったため、ともいわれ 潘にともない、姉たる 御した際、永樂

は妙錦を新たな皇后に

ろし尼となった。宣 え入れようとしたが、妙錦は髮をお 公 の初め、張太后は妙錦を宮中に招き、

の禮をもって

徐 えて語らったという。

の子女はいずれも

!の變と永樂

の命 に深く關わり、そ

"は

#なるものとなった。本詩は

$%で徐

の子息、後

%で徐 の娘たちをそれぞれ對比

&に詠じ、特に貞

た徐妙錦をたたえる。 'を保っ

[尤珍

徐妙錦仁孝皇后の妹なり、 (]

いて嫁せず、后を矢薨ずるに、 ちか )*代王の妃なり、妙錦志

+之を聘くも從わず、宣 まね 中國詩文論叢第二十七集

164

(18)

中、張太后召して宮に入れしむ、自ら徐

す、宮人竊かに語りて、此れ皇后を薄んじて爲らざる の第三女と稱

りと、 な

[

『明史』卷一一三・仁孝皇后徐氏傳、同卷一二五・徐 料]

附輝 傳

壽傳、『明史紀事本末』卷一七・建文遜國、傅維

『明書』卷一〇一・徐輝

傳、同卷一五七・徐

壽傳、

宗羲『明文

』卷四一三、

『續 佐「徐妙錦傳」、李贄

書』卷五・魏國徐公傳、何喬

『名山

徐妙錦傳、査繼佐『罪惟 』卷八九・

川越泰 』列傳卷二・徐皇后附妙錦傳、

『明代建文

史の 究』(汲古書院)、佐

代王府の 文俊『明 究』(

文出版)

中山開國功第一中山開國功第一一兒出師一作

一兒は師を出だし一は

と作る」

壽 手誅

壽は し手誅に

輝 い

不屈甘囚

魏國定國兩鐵 は屈せず囚拘に甘んず」

魏國定國兩鐵

忠臣佞臣誰能辯忠臣佞臣誰か能く辯ぜん」

爲后妹爲妃

至 獨有妙錦焚嫁衣獨り妙錦の嫁衣を焚く有り」 は后と爲り妹は妃と爲る

委禽妾弗許至

豈 長信宮中來笑語長信宮中笑語來たる 委禽せんとするも妾は許さず 皇后不肯爲豈に皇后を

自稱徐 んじて爲すを肯ぜざるや 第三女自ら稱す徐

の第三女」

中山中山王徐

。徐

の事跡は4「大

功第一徐 」に詳しい。

は開國の功臣の中で常に位第一に

一兒出師一兒は徐輝 公の中で首位を占め、功臣廟にも筆頭として祀られた。 げられ、六 。輝 一作賊一は徐 は兵をいて燕王と戰った。

壽。

壽は君

!たる建文

の「 "に對しては不忠

」といえる。

伏して敵を

え入れる。『魏書』卷一八に「太

州に征し、宛に至るに張繍 荊 手誅臣下を自ら手を下して す」とある。

#す。『吾學

$』に「上徐

不屈屈しない。徐輝 を左順門に手誅す」とある。 壽 は京師の

%&後も永樂

せざる 下獄された。『明史紀事本末』に「時に武臣、一人も歸附 "に屈せず、

無し、惟だ輝

のみ屈せず」とある。

'『擬明史樂府』譯

((七)(

)本・尤

'研究会)

(19)

囚拘捕らわれる。徐輝

は永樂 魏國徐輝 により下獄された。

定國徐 は洪武二六年、魏國公を繼いだ。

鐵 壽は死後、定國公に封じられた。

功臣に特

を與える證。鐵製で瓦のような形

さを持つ。金字で表には封 と大き を が、裏には本人と子孫の死罪 忠臣佞臣忠義な臣下と奸佞な臣下。『明書』は輝 ずる回數が記される。

傳、 を忠

壽を姦回傳に列ねるが、『明史』は二人をともに徐

傳に附す。

爲后徐妙錦の長姉は仁孝皇后。

妹爲妃妹は安王の妃となった。王府は甘肅 山西大同に居した。 姉は代王桂の妃として 至 嫁衣嫁入り衣裝。 涼。

。ここでは永樂

委禽婚 。

する。委はわたす。古代、婚儀の禮物に雁を

たことによる。『左傳』昭元に「公孫 っ 又た 妾 禽せしめんとす」とある。 いて焉を委

時における

女の 長信宮皇太后の居 稱。

。『

太后の居る 書』卷一七に如淳は「長信宮、

也」と

する。本句は

の班 が

の寵 理由に自ら 愛を趙飛燕に奪われた後、長信宮で皇太后に仕えることを

いた故事をふまえる。班

笑語笑いながら話す宮女たちの聲。 であり、開國功臣の娘である徐妙錦と重ねられる。 は名門班氏の娘 と同樣に

の班 の故事をふまえ、直接には

「班王維

園に向いて、 」の「總て春

笑語の聲」の句に據る。豈

一句『名山

自稱一句そのまま『名山 なかったのだ」と噂した。 宮中に現れると人々は「皇后の地位をも輕く見て位につか 』、『罪惟』の徐妙錦傳によれば妙錦が おそらく由來は同一ながら「中山の第四女」とする。 』などに見える。『罪惟』は

中山王たる徐

その一子は兵を は開國に功績第一であったが、

!いて戰い、一人は

徐 "呼ばわりされた。

壽は燕兵に

#って

$え入れ、建文

徐輝 に誅せられ、

は屈 魏國公、定國公の二つの鐵 %することなく、囚われの身に甘んじた。

一人妙錦は嫁入り衣裝を燃やした。 姉は皇后となり、妹は王妃となったが、 忠臣か佞臣かを、誰が分けられよう。 &、 中國詩文論叢第二十七集

166

(20)

は皇后に

そして自ら徐 皇后の位をうとんじてならなかったわけではない、 長信宮の中で、宮女たちは笑って噂しあった。 えて下さろうとしたが、私は承知しなかった、

の第三女と稱した。(川

二)

[附記]

號(第二十六集)の卷末「執筆

紹介」に本譚

稿(六)の執筆擔當

の氏名・屬が

ここに しておりました。

んでお詫びし、附記いたします。

松野

之(早稻田大學文學

究科 士後期課

『擬明史樂府』譯

(七)(

本・尤

研究会)

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