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未来の演劇と新しい哲学

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(1)

近代の精神は、内面的な意識の中に個人の主体性を見出したことにあると言わ れる。抽象的な権利主体の単位としての個人、物質的な客体としての自然と対立 する意識的な主体、そして物理法則に服さない自由意志の座としての意識や自我

――こうした近代的な思考の枠組みのすべてが、意識という特権的な領域を軸に して形成されている。だが他方で、こうした意識中心主義には重い負の側面もあ る。それは、個々人を分断し経済的に孤立させる社会体制、人類の生存を脅かし かねないほどの自然破壊、そして人間のもつ生々しい身体性や物質性の不当な軽 視を招いたことである。前世紀における植民地獲得競争や二度の世界大戦さえ、

これらなくしては起こりえなかったであろう。意識という小さな閉域の特権視 は、われわれが直に触れている身体の躍動や自然の過剰、充溢した生の実感を抑 圧してしまったのだ。

われわれは今日、こうした類の近代批判を至るところで目にしている。紋切型 とはいえ、その批判には耳を傾けるに値するものがあることもたしかである。だ がその際、主客二元論や心身二元論、機械論的自然観の創設者としてデカルトを 槍玉にあげて批判するだけで満足するとしたら、それは現実の事態をあまりに 単純化し過ぎていると言えよう。『省察』の著者は、実は心身合一を前提とする

『情念論』の著者でもある。またそもそも、非物質的な魂や精神が物質的な身体 や自然よりも優位にあるという発想だけであれば、それは既にソクラテスやプラ トンの中にも見出すことができる。そしてさらに、近代哲学における意識や自然 の定義でさえ、同質的で一様なものであったことは決してなかった。ならば現在 問い直されるべきは、デカルト以降の意識中心主義的な思考だけではなく、デカ ルトを起点に近代をそのようなものとして捉えるわれわれの思考の体制そのもの でもあるのではないだろうか。近代の意識中心主義が批判されるべきものであっ ても、責任の所在を近代だけに集中させてしまう類の批判は、われわれ自身のよ り根本的な誤謬を覆い隠してしまう可能性がある。必要なのは、視点を転換して 別の道を探ること、問いの立て方そのものを変えること、まったく新しい哲学を 築くことである。つまり、力動的な生の充溢感、豊穣で過剰な自然の生成、身体

未来の演劇と新しい哲学

鹿 野 祐 嗣

(2)

が秘める創造的な運動性を奪い返すための、新しい哲学を直に築くことである。

ニーチェやアルトーと共にドゥルーズが『差異と反復』でやろうとしていたのは、

まさにこのことであった。そして興味深いことに、この新しい哲学は未来の演劇 を一つの大きなモチーフとしていた。なぜ演劇なのか。それはどのような演劇な のか。なぜ演劇が哲学のモチーフとなるのか。本稿の目的は、まさにこの新しい 哲学と未来の演劇との関係を『差異と反復』に沿って考察することにある。それ は一つの哲学的考察であると同時に、演劇が秘めている可能性に関する原理的な 探究でもあるだろう。

◆精神分析と無意識の演劇◆

まずは、無意識の発見によって意識の特権性に異議を唱えたフロイトから始め よう。フロイトは、精神分析における治療の過程を次のような仕方で語っている。

「[……]被分析者は、忘却され抑圧されたものを想起する0 0 0 0のではなく、それを身0 をもって演じる0 0 0 0 0 0 0

agieren

)。被分析者は、それを想起としてではなく行為として 再現する。つまり、自分がそれを反復しているとはもちろん知らないままに、忘 却され抑圧されたものを反復する0 0 0 0ということである」(1)。たとえば被分析者は、

幼少期に抱いた両親に対する敵愾心を想起して意識化するのではなく、それを無 意識のうちに精神分析医に向けて反復する。また同様に、抑圧された性欲動を想 起し意識化するのではなく、それを無意識のうちに精神分析医に向けて反復す る。さらにそうした反復は、精神分析が行われている小さな部屋を飛び出し、被 分析者が身を置いている現実の状況すべてに伝染していく。「治療を受けている 限り、もはや患者はこうした反復への強迫(

Zwange zur Wiederholung

)から逃れ ることができなくなる」(2)。これこそが治療の核をなす「転移」という現象であ る。そして精神分析は、患者が転移において身をもって演じる反復0 0 0 0 0 0 0 0 0 0を通じてのみ、

患者の無意識に働きかけ、抑圧された記憶の反芻処理を促し、病因を放散させる ための想起を導くことができるのだ。

こうした精神分析治療の中に、演劇的な性格を見出すことは、それほど難しい ことではないだろう。なぜなら、症状、転移、治療、反芻処理、想起といったも のすべてが、差異を加えながら過去を演じなおす反復の運動の中にある0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0からだ。

かつてフロイトは、「舞台上の精神病質的人物」(3)という小論で、演劇が人々を 惹きつけてやまない理由を精神分析の観点から考察していた。だが、おそらくは フロイト自身が考えていた以上に、精神分析に関わる圏域そのものがまず極めて 演劇的なのである。ドゥルーズが語るように、「格別に演劇的でドラマ的な働き によって、ひとは〔病から〕快復したり、また快復しなかったりする。この働き の名を転移という。さて、この転移がまた反復に、何よりもまず反復に属してい

(3)

る。反復がわれわれを病ませるのだとすれば、われわれを快復させるのもまた反 復である。反復がわれわれを束縛し破壊するのだとすれば、われわれを解放する のもまた反復であり、これら二つの場合において、反復はその「悪魔的」な力=

累乗(

puissance

)を証示しているのである。治療の全体とは、根底的には、反復

というひとつの旅である」(4)。それゆえ、われわれは意識という閉域の特権視を 広大な無意識の存在によって批判するだけで満足していてはならない。さらにそ こから歩みを進めて、無意識がもつ演劇的な性格や反復の運動との本質的な結び つきの考察にまで至らなければならないのだ。実際、フロイトによるその後の精 神分析の歩みは、戦争神経症や子供の遊びにみられる有無を言わさぬ悪魔的な反 復から、無意識における「死の本能(

instinct de mort

)」(5)を仮定するに至ったと き、無意識と反復とが決して切り離しえないものであることを明らかにしたの だった。「フロイト主義の大いなる転回は、『快原理の彼岸』において現れる。死 の本能の発見が、破壊的な傾向や攻撃性との関係においてではなく、反復という 現象を直に考察することによってなされたのである。奇妙なことに死の本能は、

反復にとって、定立的=陽性的(

positif

)で本源的な原理としての価値をもつの であり、そこにこそ死の本能の領分と意味があるのだ」(6)。こうして、われわれ は意識中心主義の批判から無意識と反復の問題圏へと導かれることになる。

◆差異と反復の思考◆

だがドゥルーズによれば、フロイトは反復に関しての考察を十分に押し進める ことなく、無意識の分析を「真の演劇」へと導く道の半ばで歩みを止めてしまっ た。フロイトはいつも、必ず偽装されながら現れる反復の中に、言い換えれば必 ず圧縮や置き換え、劇化=ドラマ化(7)を伴って差異化されている反復の中に、

反復されるべき究極的な項や起源、オリジナルを想定していた。反復は常に差異 を伴って現れるが、本当はいつも何か同じものが反復されているに違いなく、奇 妙な衣服や仮面を根気よく剥いでいけば裸の本体が見つかるというわけである。

その場合、死の本能が課す悪魔的かつ定言的な反復はすべて、生命なき物質への 回帰という一つの同じ目的=終局(

fin

)に従事していることになる。だが、ドゥ ルーズによれば事態は逆である。実際には、絶えず差異化しながら反復していく 運動、絶えざる脱根拠化としての生成変化の運動があるだけであって、反復され るべき最初の項や究極的な起源とは、差異と反復の戯れ=演技=賭け(

jeu

)が 後に残す「光学的な結果=効果(

effet optique

)」たる錯覚に過ぎない。すべてが 本質なき仮象、起源なき変容、素顔なき仮面、原本なき異本、裸の本体なき衣 服、オリジナルなきシミュラークル(

simulacre

)の連鎖である限り、究極の起源 やオリジナルとは「見せかけられた(

être simulé

)」ものに過ぎないのだ(8)。実際、

(4)

フロイト自身もその道を進みかけたことがあった。「初期の抑圧理論以来、フロ イトはもうひとつ別の道を指し示していた。すなわち、ドーラが自分自身の役を つくりあげ、父親への愛情を反復するのは、ただ他者たち(

K

K

婦人、女家庭 教師……)が演じる他の役を通じてのみ、彼女自身もそれら他者たちとの関係に おいて演じる他の役を通じてのみだというわけである。偽装とヴァリアント、仮 面と仮装は、「上に」かぶさるものではなく、むしろ反対に、反復そのものの内 的な発生的要素であり、反復の不可欠な構成的部分なのである。この道は、無意 識の分析を真の演劇へと導きえたはずだ」(9)。実際には「どんな場合でも、覆い なき裸のものの真理とは、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の主体、そ れは仮面である」(10)。だが、反復されるべき起源という事後的な0 0 0 0見せかけの錯覚 を、最初に存在する自己同一的な起源や始原であると解釈し、そこからすべて の思考を開始するとき、深刻な誤謬が生まれる。差異あるものの反復(

répétition

du différent

)という真に演劇的な運動の現前化(

présentation

)が、予め既に用意

された同一的なものの表象=再現前化=上演(

représentation de l identique

)へと 歪められ、その自由で過剰な解放と創造の力を奪われてしまうのだ。そのとき、

演劇が本来現前化させるべき差異と反復の自由で予見不可能な運動が、抽象的な 概念に従属した計画済みの運動に置き換えられ、われわれを根底から揺さぶるべ き運動の鮮烈な力が、既にすべてが決められた退屈で単調な脚本の上演にとって かわられる。終末論、弁証法、歴史の目的論、直線的な進歩史観、既成の習慣や 記憶の頑迷な保守、そして万物を統べる自然法則や服従すべき道徳法則――これ らはすべて、多かれ少なかれ既に書かれている脚本の上演=再現前化でしかな い。それは、予見不可能な出来事を絶えず炸裂させ、シナリオを絶えず逸脱して 書き換えながら創造していく現実のドラマの生々しさを捉えることができず、む しろそうした乱調や叛乱を巧みに統制し管理しようとするだろう。定められた規 則や秩序を逸脱してはならない、もしくは逸脱せざるをえない場合でも、それは あくまで規則や秩序そのものを侵犯する叛逆にはならない範囲内で留めておかな ければならない、というわけだ。真に戦うべきものはここにある。単に近代的な 意識の創設だけが問題なのではなく、差異と反復の運動を同一的なものの表象=

再現前化=上演の中に押し込める態度こそが問題なのだ。それは既にソクラテス やプラトンの下で現れ、いまやわれわれ自身の基本的な性向と化している。魂が 肉体を軽蔑し、意識が身体や物体を軽視し、理性が欲動や本能を忌避し、一般法 則が予見不可能な出来事を排除し、そして技術的な文明があるがままの自然を管 理しようとするのは、まさにそれらの中に既成の規則や秩序からの逸脱へと向か う過剰な反抗と侵犯の力が宿っているからなのである。われわれの抱える問題と はまさに、既存の体制の外部へと移行しようとするこうした潜在的な芽たちを恐

(5)

れ、それを統制し管理しようとする抑圧的な態度にある。だからこそ新しい哲学 は、来たるべき未来の演劇と共に、世界の内で蠢くマグマを目覚めさせるための 感性の導火線0 0 0 0 0 0たらねばならないのだ。たとえそれが奇蹟と呼ばれる歴史上の瞬間 だけであっても、われわれは何度もそれを演じなおし、反復し、未来の解放に賭 け続けねばならない。演劇、それは革命のための爆薬だ。演じられる無数の仮 面、それは反復の主体たる未来の革命家たちだ。死の本能、それは生命なき物 質への回帰ではなく、革命の反復を希求する過剰な欲望の奔流だ。したがって、

そのたび毎に差異を孕んだ反復、それは永久革命としての永遠回帰の運動のこ とに他ならない(11)。素顔なき仮面の連鎖が織り成す予見不可能なドラマの力動

dynamisme

)、その中に、われわれの破滅と解放を一手に握った「残酷な」革命

の運動があると言えよう。

未来の演劇と新しい哲学が描きだすこうした運動こそが、現実的な運動、創 造する生成変化の運動、一般的な概念から構成された抽象的な運動とは異なる

「《ピュシス》と《プシュケー》の運動(

mouvement de la Physis et de la Psyché

)」

である。重要なのは、生成変化の力を備えた具体的な運動を手にすること、形 而上学を運動と活動(

activité

)の中に置いて直接無媒介の行為(

actes immédiats

へと移行させること、「ひとつの新しい哲学と同時に、こうした未来の演劇を築 くこと」である(12)。鈍麻した精神を直に揺さぶり、硬直した皮膚を鋭く突き刺 し、飼い慣らされていた死の本能を再び目覚めさせることができるのは、ただ来 たるべき未来の演劇と一体になった新しい哲学だけなのだ。これこそが、ニー チェやマルクスがヘーゲルに抗して試みた演劇の哲学0 0 0 0 0に他ならない(ゾロアス ターの仮面を被るツァラトゥストラの演劇や、歴史における反復という演劇をみ よ(13))。演劇的な反復の運動において、世界に何かまったく新たなものを生みだ すこと。反復がその都度必ず含む差異、反復の不可欠な構成要素たる偽装や仮面 や乱調の中に、概念の一般性とその個別事例には決して包摂できない反復の特 異性=単独性(

singularité

)を見出すこと。そして、哲学という行為そのものを、

予見不可能な出来事を既存の状況に介入させるための舞台にすること。ドゥルー ズによれば、まさにそれこそが現代哲学と現代演劇の使命なのだ。「反復の演劇 が表象=再現前化=上演の演劇と対立するのは、運動が概念と対立し、またその 運動を概念へと関係づける表象=再現前化=上演とも対立しているのと同じこと である。反復の演劇において体験されるのは、純粋な強制力(

forces pures

)であ り、仲介なしに精神へ作用して、精神を直に自然や歴史に結びつける空間内の力 動的な描線であり、語よりも前に語る言葉(

un langage qui parle avant les mots

)で あり、器官をそなえた身体よりも前につくりあげられた動作であり、顔よりも前 につくりあげられた仮面たちであり、登場人物たちよりも前につくりあげられ

(6)

た亡霊や幽霊たちであり――「恐るべき力=累乗」としての反復の全装置であ る」(14)。さらに言い換えれば、精神へと直に作用する死の本能の演劇、分節言語 よりも前の身体言語、そして器官なき身体の蠕動だ。それはまさに、劇作家にし て俳優、そして思想家でもあったアルトーが「残酷演劇(

théâtre de la cruauté

)」

として構想していた、来たるべき未来の演劇の姿に他ならない。ドゥルーズによ れば、ニーチェの偉大さとは「永遠回帰における反復を、同時に神の死と自我の 溶解との上に築いたこと」だが、それこそがまさに「無信仰の演劇、《ピュシス》

としての運動の演劇」であり、「既にひとつの残酷演劇」なのである(15)。こうし て、われわれは精神分析から哲学へ、哲学から演劇へと移行することになる(し かしその際、精神分析の再解釈と新しい哲学と未来の演劇の三者が緊密に結びつ き、不可分の一体をなしていることを忘れてはならない)。

◆アルトーの残酷演劇◆

では、アルトーのいう残酷演劇とは、いったい何を意味しているのだろうか?

アルトーのいう残酷演劇とは、実際に舞台上で血が流れたり凄惨な場面が演じ られたりすることではない(もちろん、必要であればそうなっても構わない)。

アルトーによれば、「私は残酷という語を、生の欲求(

appétit de vie

)や宇宙の 苛酷(

rigueur cosmique

)、容赦ない必然性(

nécessité implacable

)という意味で用 いている」のであり、哲学的に語るなら残酷とは「苛酷、容赦なき執行と決定、

不可逆的で絶対的な規定(

rigueur, application et décision implacable, détermination

irréversible, absolue

)」を意味するという(16)。そして、「創造と生そのものが、ある

種の苛酷によってしか定義できず、したがって、いかなる犠牲を供しても事物た ちをその不可避なる結末までひきずっていくある種の根源的な残酷によってしか 定義できない」(17)ように思われるという。だから、残酷という語で言われている もの、それは拷問や虐待や流血ではなく、生や創造がもつ充溢した過剰な強制力、

有無を言わさずわれわれを巻き込んでさらっていく生成変化の強烈な力動のこと なのだ。それは神や自我、世界さえ容赦しない苛烈な必然性、死の本能の悪魔的 かつ定言的な命令として現れるが、おそらくそれ自体としては偶然性を排除する ものではなく、むしろ絶対的な偶然性を肯定することに等しい。既存の状況に突 如介入し、予見不可能な破壊と創造をもたらす例外的な出来事の絶対的な偶然性 ほど、容赦なき残酷な必然として現れるものはないからだ。まさにドゥルーズは、

差異の反復たる永遠回帰を、絶対的な偶然の肯定についてのみ言われる必然のこ とだとしていた(18)。それゆえ、アルトーの残酷演劇とは、既存のジャンルの枠 内へ新たに付け加えられるようなひとつの演劇の型では決してない。それは現実 の演劇であると同時に生と肉体の形而上学であり、飼い慣らされて摩耗した感性

(7)

を覚醒させるための爆薬であり、抽象的で一般的な概念による思弁とはまた別の 仕方でなされる思考の叛逆的な行為であり、根本的な価値転換を伴う来たるべき 革命の希望なのだ。アルトーは言う、「娯楽的な見世物の長い習慣が忘れさせて しまった深刻な演劇の観念、それは、われわれのあらゆる表象=再現前化=上演 を突き飛ばし、イメージたちのもつ灼熱の磁力をわれわれに吹き込み、ついには 一度受けたらもう忘れられない魂の治療のごとくわれわれに作用する演劇の観念 なのである。作用してくるものすべてが残酷だ。演劇は、限界や極限まで押し進 められたこの観念に基づいて、一新されなければならない」(19)と。またさらに、

「われわれは演劇というものを、信じうるひとつの現実にし、あらゆる真の感覚 が含むある種の具体的な噛み傷(

morsure

)を心と五感に残す現実にしたい」(20)

と。そのとき、日常的な恋や個人的野心、日々の厄介事といったテーマは、演劇 がもたらすべき極限的な熱狂や目眩、誘惑に対する反動でしかない。上演すべき 戯曲や脚本を神聖視し、演劇をそれらに従属した舞台上の見世物や娯楽にしてし まうこともまた、感性へと直に働きかける暴力的な爪痕を演劇から削ぐことに他 ならない。それとは逆に残酷演劇は、自然全体を演劇の中に引き入れ、古代の魔 術がもっていた怪物的な強制力をもって、観客の有機体全体に働きかけてそれを 揺り動かす「トータル・スペクタクル」をなす。まさにそれは世界を歪めて変形 させる「時空的力動」の表現なのだ。

そのためにアルトーが提案する手段は、舞台と客席を廃止して一切の境界も区 切りもないひとつの場所とすること、感性に圧力を加えるべく観客を行動で包囲 しその真っ只中に放り込むこと、精神を動揺させる催眠的暗示の雰囲気をつくり だすことである。その場を満たすものは、神経を逆撫でするリズム、半狂乱の音 の連打、狂わんばかりの足拍子、興奮に満ちた声の振動、魔術的な衣装、巨大で 奇怪なオブジェ、目眩を誘う光の輝き、そして象形文字のようになった俳優たち の身振りや態度、表情、叫びだ。だが、こうしたすべては、新たな演劇の演出手 段を単に箇条書きにしただけのものではない。そう読んでしまえば、残酷演劇は その本質を失ってしまうだろう。必要なのは、まだ画定された量や質をもたない 強度=内緊張性(

intensité

)の混沌に働きかけること、まだ前個体的で非人称的 なポテンシャルを既存の状況の内部へと具現化させること、強度の蠢きを覚醒さ せて時空を切り裂く創造的な力動を炸裂させることだ。残酷演劇とは、現実の 演劇でありながら、同時にひとつの形而上学の試みでなければならない。それ こそが差異を含む反復の運動であり、硬直した習慣や記憶を逸脱して未来へと 突き進む死の本能の演劇なのだ。「《創造》や《生成》、《混沌》に触れるこれら の〔非習慣的な〕観念はすべて、宇宙的秩序に属し、演劇が完全にその習慣を 失ってしまったある領域についての最初の基本概念を与えてくれる。それら観念

(8)

は、《人間》、《社会》、《自然》、そして《対象たち》の間に、ある種の熱狂的な均

衡(

équation passionante

)を創造することができるのだ」(21)。もはや神も自我も

世界も必要ない――それらが一定の規制や秩序の原理たる自己同一性の保証人で あり、創造的な混沌の力動を飼い慣らして硬直化させようと欲するものであるな らば。必要なのは、もうひとつ別の極限的な一貫性、混沌−彷徨(

chao-errance

としての一貫性(

cohérence

)、差異を含む反復の連続による永久革命の一貫性だ けだ。こうした生成変化の圧倒的な力動の中にこそ、来たるべき解放の可能性 がかかっている。「これは人間とその権能の習慣的な限界を取り払い、現実と呼 ばれるものの境界を無際限に広げる。演劇によって一新された生の意味=感覚

sens

)を信じなければならない。そこで人間は恐れることなく、まだ存在しな いものの支配者となり、それを生まれさせる。まだ生まれていないものも、われ われが単なる記録装置で留まることに満足しなくなりさえすれば、もっと生れで ることができるはずだ」(22)

◆演劇の存在論へ◆

こうしたアルトーの思想を受け継ぎ、ドゥルーズは残酷演劇がもつこの力動を 自身の哲学の中に取り入れた。既成の体制を揺るがす差異化する反復0 0 0 0 0 0 0の運動をも たらし、有無を言わさず世界を変形して新たなものを創造する残酷な時空的力動 を、ドゥルーズは「ドラマ化(

dramatisation

)」と呼ぶ。そこには、生命なき物質 の状態への回帰という前提から解放され、いまや有無を言わさず反復を命じる欲 望となった死の本能の姿がある。そして、このドラマ化の運動は、演劇が行われ る劇場や精神分析がなされる小部屋を抜け出し、宇宙全体にまで拡大される。ド ラマ化によって永久革命を生きるのは、われわれの精神や社会だけでなく、小さ な結晶や生物たち、そして地表を覆うさまざまな鉱物や遥か彼方の空をめぐる惑 星たちでもある。差異と反復の残酷な運動とは、まさに存在論的な0 0 0 0 0永久革命のこ とであり、混沌−彷徨としての一貫性を原理とするカオスモス全体の演劇なの だ。流体やわれわれの身体はもちろんのこと、極めて固い岩石でさえ、数百万年 という規模でみれば、それ自身の死の本能とドラマ化の力動において絶えず変形 していくひとつの流体に他ならない。どれだけ硬直し磨耗した成体と化そうと も、その中にはまだ幾らかの幼生たちが潜んでおり、未定形なそのポテンシャ ル・エネルギーを具現化する機会を待っている。導火線は至るところにあり、時 空を揺るがす爆薬が世界に張りめぐらされている。そして、導火線に火がともさ れ、予見不可能な出来事の炸裂と一体になった反復の運動がなされるとき、そこ にはまさに「ドラマ」と呼ぶべき残酷な力動が現れるのだ。ドゥルーズはこうし た残酷なカオスモスたる世界を、「作者も俳優も主体もいない純然たる舞台化」

(9)

だと語っている。あるいはより正確に言えば、たしかに俳優や主体たちはいるが、

それらはみな、既に形態化され硬直している成体ではなく、躍動する幼生の主体 なのである(23)。まさに、こうした幼生たちだけが残酷演劇を生き、世界全体を 揺るがしながら何か新しいものを産み落とすことができるのだ。

われわれはこれまで、「残酷演劇」において未来の演劇と新しい哲学がいかに して出会うかをみてきた。こうしたすべては牽強付会に過ぎ、通常「演劇」と呼 ばれているものからあまりにかけ離れてしまっているだろうか。差異と反復の思 想や残酷演劇の形而上学は抽象的で形式的な思弁に過ぎず、現実の具体的な演劇 とは無関係でしかないのだろうか。あるいは、残酷演劇とは、結局のところ既に 過ぎ去った前衛劇の試みに対する過剰な理想化に過ぎないのだろうか。だが、そ う考えるとしたなら、それは演劇のもつまだ具現化されていないポテンシャルを 切り下げ、来たるべき未来の演劇を構想することを放棄して現状に甘んじたに過 ぎないのではないか。肝要なのは、まず「演劇」とは何かについてのわれわれの 平凡な常識を捨てさり、ある意味では「演劇」の外部にまで進むことである。ア ルトーは高らかに宣言している、演劇は「現実と危険との魔術的で残虐な結びつ きなしには価値がない」(24)と。だから、残酷演劇は最初から生の形而上学であり、

通常の演劇や演劇論を逸脱するものなのだ。古代ギリシアにおいて、演劇はディ オニュソスを祭るバッコス祭から生まれたと言われている。ニーチェの生の哲学 とディオニュソス、仮面、演劇、舞踏の間の関係を思い、ドゥルーズという補助 線をもちだしてそれをアルトーの残酷劇と繋げるとき、われわれには演劇が秘め ている存在論的な可能性が開けてくるのではないだろうか。たとえそれが、現 行の時代に逆らい、常に反時代的な、来たるべき未来のための演劇であっても。

ニーチェが自身の思想を来たるべき時代のための反時代的な考察とみなしていた のと同様に、アルトーにとって、まさに残酷演劇とは未来そのものであった。

(1) G. Freud, « Erinnern, Wiederholen und Durcharbeiten », in Gesammelte Werke, X, S. Fischer, 1991, S.129. 邦訳「想起、反復、反芻処理」道簱泰三訳、『フロイト全集13』、岩波書店、

二〇一〇年、二九九頁。以下EWDと略し、全集の略号GWと巻数を添える。またペー ジに関しては、「EWD, in GW, X, 129/299」のごとく、原著/邦訳の順で記す。なお本 論文中の引用は、訳語を統一するため、邦訳があるものに関してはそれを参考にした うえですべて筆者が新たに訳出した。

(2) EWD, in GW, X, 130/299.

(3) G. Freud, « Psychopathische Personen auf der Bühne », in GW, Nachtragsband, S. Fischer,1987. 道簱泰三訳、『フロイト全集9』、岩波書店、二〇〇七年。

(10)

(4) G. Deleuze, Différence et Répétition, PUF, 1968, p.30. 邦訳『差異と反復』財津理訳、河出文 庫、二〇〇七年、(上)六四−六五頁。以下DRと略す。puissanceという語には「力」

だけでなく「累乗」という意味もあり、その場合、反復のニュアンスを帯びる。

(5) instinct de mortは、 ド イ ツ 語 のTodestriebeの 仏 訳 で あ る。 し か し、 ド イ ツ 語 で は

InstinktとTriebが別の単語として存在するので、本来ならinstinct de mortではなく

pulsion de mortと仏訳し、またそれに応じて「死の本能」ではなく「死の欲動」と和

訳すべきであろう。そうなっていないのは、ドゥルーズが「欲動」という語に込め られた両義性に注目し、経験的な領域で現れる場合の欲動と、超越論的なものとし て機能する場合の欲動を分け、後者のみに「本能(instinct)」という訳語を充てるこ とを提案しているためである。この点に関しては、G. Deleuze, Présentation de Sacher- Masoch, Minuit, 1967, p.96(邦訳『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、晶文社クラシックス、

一九九八年、一四三頁)を参照せよ。

(6) DR, 27/上58-59.

(7)それぞれの原語は、圧縮がVerdichtungないしcondensation、置き換えがVerschiebung

ないしdéplacement、劇化=ドラマ化がdramatizationないしdramatisationである。後述

するように、「劇化」と原語を同じくする「ドラマ化」は、狭義の精神分析の範囲を 超えたドゥルーズ独自の概念である。

(8) cf. DR, 1/上12, 165/上337.

(9) DR, 27/上59-60.

(10) DR, 29/上63.

(11)ドゥルーズがニーチェの永遠回帰を存在論的な永久革命として解釈したことに関して は、鹿野祐嗣「永久革命としての永遠回帰――ドゥルーズ『差異と反復』を読む――」、

『哲学の探求』四〇号、哲学若手研究者フォーラム、二〇一三年を参照のこと。

(12) cf. DR, 16-17/上38-39.

(13)「『ツァラトゥストラ』は、それ全体が哲学の中で構想されているわけだが、それ全体 がまた舞台のためにも構想されている。そこではすべてが音声を吹き込まれ、視覚化 され、運動させられ、歩まされ、舞踏させられている。してみれば、高人の叫びの正 確な音声を求めずして、いかに『ツァラトゥストラ』を読むというのか?物語全体 を開始する綱渡り芸人を演出せずして、いかにその序説を読むというのか?」(DR, 18/上41)。もちろんこれだけではなく、ニーチェの場合はその全作品が演劇や仮面と いったテーマに彩られていると言えよう。またマルクスに関しては、『ルイ・ボナパ ルトのブリューメル18日』が念頭に置かれ、次のように語られている。「マルクスも またヘーゲル学派の抽象的な偽の運動や媒介を批判するが、彼はその際、ひとつの観 念、本質的に「演劇的」な観念に与して、それを展開するというよりもむしろ指し示 すのである。すなわち、歴史がひとつの演劇である限り、反復つまり反復における悲 劇と喜劇は運動の条件をなしており、その条件下でこそ、「俳優=当事者=行為者た

ち(acteurs)」ないし「主人公=英雄たち(héros)」が歴史の中に何か実際に新しいも

のを生産するのだ」(DR, 19/上43-44)。ただしドゥルーズは、一度目は悲劇、二度目 は喜劇というマルクスによる反復の一般的な分類に関しては、根拠のある必然的なも のではないとしている(cf. DR, 123/上252-253)。反復はまさにその都度新しく、一般

(11)

化に抗う特異的=単独的なものでなければならない。

(14) DR, 19/上44. アルトーの「器官なき身体」という語がドゥルーズの著作に現れるのは、

『意味の論理学』の第一三セリーからであるが、ここでは明らかにそれを彷彿とさせ るような言葉遣いがなされている。

(15) cf. DR, 20/上45.

(16) cf. A. Artaud, « Le théâtre et son double », in Œuvres complètes, IV, Gallimard, 1978, p.98. 邦訳

『演劇とその分身』安堂信也訳、白水社、一九九六年、一六六‐一六八頁。以下、TS と訳す。

(17) TS, 99/170. なお、アルトーの使う「残酷」という語に関する精密な研究として、坂原

眞里「アルトーの残酷演劇と分身doubleについて」、『仏文研究』16、京都大学フラン ス語学フランス文学研究会、一九八六年を挙げておく。

(18) cf. G.Deleuze, Nietzsche et la philosophie, PUF, 1962, p.27-31. 邦訳『ニーチェと哲学』江川 隆男訳、河出文庫、二〇〇八年、六一−六九頁。

(19) TS, 82-83/138. ただし原文では、「作用してくるものすべてが〜」以下で改行がある。

(20) TS, 83/139.

(21) TS, 87/147.

(22) TS, 15/18. ただし原文では、「演劇によって一新された〜」以下で改行がある。

(23) cf. DR, 282-283/下136-139.

(24) TS, 86/145.

(12)

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