一 問題意識の軌跡
1.「集団主義」からの出発
この報告においては,労働法において,労 働者個々人,企業,労働組合などの集団,そ して国家がどのような関係にあるべきかにつ いて検討したい。まず最初に,この問題に関 する現在の私の問題意識を知って頂くために,
1960 年代後半から今日に至るまで私の問題 意識がどのように変化してきたかをお話しす るのが適当であろう。
¸ 「集団主義」の2つの含意
私が労働法研究を開始した 1960 年代中頃 は,労働法においては「集団主義」というべ き思想が支配的であった。そのなかで,私も 当然,「集団主義」の影響を強く受けていた。
今日から振り返ってみると,私の「集団主義」
には2つの含意があったといえる。第一は,
労働者個々人よりも団結(労働組合)を重視 するという団結至上主義である。そうした発 想と生存権理念の重視とが結びつき,労働 法=団結権=生存権という図式が当時の労働 法研究者の相当部分を支配していた。そこで 軽視されていたのは,「個人」であり,「自由」
の理念であった。
「集団主義」の第二の要素は,「国民を保
護する国家」といった見方に対する距離感・
不信感であった。周囲では,60 年代の福祉 国家(論)に対しても批判的な論調が有力で あり,私も 70 年代初めの論文では,社会保 障を国家ー国民の関係ではなく,資本ー労働 の横の関係でとらえて,社会保険における保 険料の使用者負担の根拠を明確にすべきだと 主張した。
¹ 背景
このような当時の見方の背景には,明らか に労働組合運動への信頼と期待があった。当 時 30 %代の組織率を保持していた労働組合 は,労働者利益を擁護する団体であると同時 に,国民の基本的人権,民主主義,平和の担 い手としての役割を果たしていた。これらの 国民的課題を担う運動体のなかで,労働組合 は指導的存在だったのである。そして,労働 法学者のみならず,多くの論者は労働組合の そうした役割を評価し,また期待していたの である。
2.「集団主義」への反省
1970 年代に入る頃から,こうした「集団 主義」への反省が芽生えてきた。私自身も次 のようないくつかの契機から,「集団主義」
を問い直したいと考えるようになる。
¸ 労働組合の実態
労働組合において,全体として労使協調・
癒着路線が浸透し,労働組合機能が低下して きた。他方,労働組合の内部紛争が目立って きた。労働組合運動が活発であったときには,
使用者と結託した少数派が組合執行部と対立 するというのが内部紛争の典型的なパターン
労働法における個人・企業・集団・
国家
西谷 敏
** 大阪市立大学大学院法学研究科教授。本稿 は , 2006 年 2 月 13 日 に 筆 者 が 早 稲 田 大 学 COE研究会において行った報告を元にして,
それに全面的な加筆・訂正を行ったものであ る。
であったが,労使協調の進行や組合員の多様 化のなかで,そうした図式でとらえられない 紛争や,明らかに少数派に理がある紛争が増 加してきた。それに対して,労働組合は「集 団主義=団結至上主義」の観点から強い統制 をかける場合が多かった。典型的には,政党 支持をめぐる内部対立であり,除名などの処 分を受けた組合員が労働組合を相手に訴訟を 提起する例が多く見られるようになったので ある。
¹ 1973年全農林警職法事件判決
1973 年4月 25 日の全農林警職法事件・大 法廷判決は,官公労働者の労働基本権に比較 的好意的であった 1966 年以来の最高裁の立 場を逆転し,多くの関係者に衝撃を与えた。
そこでは,労働基本権制限の論拠として,
「労働基本権は生存権保障の手段にすぎない から,代償措置さえあれば制約が可能である」
ことが強調されたが,そのことは,労働法研 究者に従来の労働法理論への反省を迫る契機 となった。すなわち,労働基本権を単に生存 権との関係で把握するのではなく,より強く 自由の理念と結びつけて理解する必要がある との考え方が次第に強くなってくるのである。
º 日本的企業社会の問題性
高度成長の頃から問題となってきた日本の 労働者の働きすぎと企業への従属は,低成長 下において一層大きな問題として意識される ようになる。「会社人間としての労働者」へ の批判が高まってくるのである。また,企業 内における人権侵害(たとえば三菱樹脂事件,
日産自動車事件など)が大きな社会問題とな る。戦後労働法学の主流(ときにプロレー バー労働法学と呼ばれた)は,労働者を企業 という小社会の構成員ととらえた(末弘厳太 郎の「地位設定契約」論の影響)うえで,企 業における労働組合の強化を通じて労働者 個々人の権利確立をはかるという構想をもっ ていたと解されるが,そうした論理そのもの に「集団主義」の弱点が内包されていたし,
現実に労働組合が企業と癒着して労働者の権
利を抑圧する事例が目立つ状況下で,そうし た発想が現実的にも問題であることが明確に なってきたのである。
» ドイツとの比較
最後に私自身の個人的経験として,1975 年から約2年間ドイツに留学する機会を与え られたことが,発想を転換するうえで大きな 役割を果たした。ドイツは,「集団主義」労 働法の母国ともいえるが,そこにおいても,
個人の自由という要素は社会のなかにも,そ して労働法理論の基礎にもしっかり組み込ま れていることがわかり,「個人」や「自由」
の要素を容易に否定する日本がいかに異質で あるかを実感することになったのである。
3.個人的自由の再評価と自己決定論
¸ 「自律にもとづく連帯」としての労働 組合像
以上の経緯からして,私自身,1970 年代 以降,とりわけ 1980 年以降に,「労働者個々 人の自由」を再評価するという立場から,
様々な分野で労働法理論を見直す必要がある のでないか,という問題を提起してきた。
労働組合(法)の分野においては,労働組 合をアプリオリな団結としてとらえるのでは なく,個人を出発点にした「自律にもとづく 連帯」としてとらえ直すべきことを主張した。
最大の問題は,ユニオン・ショップ制度(労 働組合に加入しない者や脱退したり除名され たりした労働者を解雇する義務を使用者に課 すことによって,労働者に組合加入を強制す る制度)であり,私はこれを憲法違反で無効 と解すべきであると主張した。さらに,労働 組合の統制処分については,労働組合が団結 権にもとづいて当然に統制処分権をもつので はなく,統制処分は組合員の加入時の合意に よって根拠づけられ,それによって限界づけ られると主張した。さらに,労働協約の規範 的効力(労組法 16 条)は,労働者の組合加 入意思に究極の実質的根拠があること,スト ライキ権は,集団的に行使される個人権とし てとらえ直すべきこと,などを主張した。
こうした問題提起のうち,とりわけユニオ ン・ショップ無効論は,あまりにも現実的影 響が大きいことから,現在でも多数の支持を 得るに至っていないが,全体として私のよう な見方は次第に影響力を増しつつあると感じ ている。
¹ 「契約」としての労働関係
企業において労働者個々人の位置を明確に するということは,労働者と使用者の関係を 文字どおり契約として把握することである。
労働法理論においては,労働関係が契約を基 礎とすることは当然の前提とされるものの,
伝統的には,労働契約を,労働者が企業社会 に編入されるための単なる手続(パスポート)
として理解する傾向が強かった。これに対し て,労働条件対等決定の理念(労基法2条1 項)を正しくふまえて労働法体系を考えよう とすれば,労働契約は,たえず継続的な労働 関係を支えその変更を基礎づける不可欠の制 度とみなされる。労働者と使用者の権利・義 務関係は,労働契約によって初めて明確にさ れ,労働契約によって変更されるのでなけれ ばならない。
もっとも,労働契約をこのような観点から 再評価しようとする場合,現行労基法が就業 規則の制定・変更を使用者の権限としている こと(労基法 89,90 条)をどのように説明 するかという難問にぶつかることになる。
º 「自己決定権」概念の使用
私は,上述のような問題意識から,労働法 においても労働者個人の自由な意思や労働契 約が重要であることを説いてきたが,それを 初めて「自己決定」の概念と結びつけたのは,
1989 年の日本法哲学会における報告であっ た。この学会の全体テーマは,「個人・団 体・国家」であったが,報告の機会を与えら れて準備している過程で,私が主張してきた ことは結局,労働者の「自己決定」の重要性 を説くものにほかならないことに気づき,こ の概念を使用するようになったのである。
当時,労働法学界では,労働者の「自己決
定」を問題にするという発想そのものに対し て,強いアレルギー反応が見られた。しかし,
この概念は労働法の世界においても次第に浸 透してきたといえる。
» 自己決定権論の限界の認識
しかしながら,私は労働法における個人的 自由や「自己決定」の理念が重要であること を説きつつも,それが限界をもっていること も当然に意識していた。労働者は,使用者と の関係においてなお基本的には従属的な関係 にあり,そうである以上,労働者の人間らし い生活の保障のためには,国家による規制や 労働組合による共同決定は不可欠だからであ る。しかし,1980 年代においては,団結権 至上主義を背景とする統制万能の労働組合の あり方や,長期雇用の保障と引き換えに労働 者に全人格的奉仕を求める企業社会の構造を 批判することこそが最も緊急の課題と思われ たのである。
4.規制緩和への対応
¸ 規制緩和の進行
ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 で 1980 年 代 中 頃 か ら 強 まってきた労働法の規制緩和の動きは,日本 にも様々な影響を及ぼすようになってきた。
日本では,1985 年の労働者派遣法と 1987 年 の労働基準法改正が規制緩和の先駆けであっ た。
しかし,当時私は,日本では規制緩和は大 して進まないだろうと楽観していた。なぜな ら,日本は,ドイツなどのヨーロッパ諸国と 比較して,労働法的規制が弱いだけでなく,
産業別労働協約が個別企業の自由を制約する といった事態もなく,これ以上規制を緩和す る必要があるとは思われなかったからである。
ところが,長期に続く不況のなかで,とくに 1997 年以降,日本でも労働分野の規制緩和 が急速に進行していく。とくに 1998 年の労 基法改正,1999 年の労働者派遣法と職業安 定法の改正,2003 年の労基法,派遣法など の改正が重要である。規制緩和は現在も進行 中であり,とくに経済界およびその利益を代
弁する経済財政諮問会議などは,ホワイトカ ラー・イグゼンプションや派遣労働の自由化,
解雇自由化など,「労働ビッグバン」といわ れる労働法の根本的再編をもくろんでいる。
¹ 規制緩和の論拠の変化
1980 年代の規制緩和は,労使自治論に重 点を置いていた。たとえば 1987 年労基法改 正は,週 40 時間労働制という国家法的な原 則を宣言しつつ,各企業や事業場に即した弾 力的な規整が必要だとして,労働組合や労働 者過半数代表の同意を要件として弾力的な労 働時間制を導入することを容認した。ここで は,国家法の直接規制から集団的自治による 規制(規整)への移行が中心的な流れであっ た。
ところが,1990 年代には,次第に各分野 で「自律した個人の自己決定・自己責任」と いう論理が幅をきかせるようになる。労働法 においても,裁量労働制の拡大やホワイトカ ラー・イグゼンプション導入のための論理と して,個人の自由が強調されるようになる。
もちろん,これらの制度の導入要件として,
労使委員会の決議が必要とされるなど,労働 者集団の関与も予定されている。しかし,裁 量労働制やホワイトカラー・イグゼンプショ ンそのものが労働者の自由な働き方を可能に するといわれ,さらに,この制度を受け入れ るためには個々の労働者の同意が必要である とされ,全体として,労働者の個人的自由が これらの制度の正当化の論拠とされているの である。
º 規制緩和論批判
私は,これらの規制緩和の動きは,労働法 の存在根拠にかかわるとの認識から,批判の 活動を展開してきた。新自由主義にもとづく 規制緩和論は,労働の問題を自由な市場に委 ねることこそが経済発展のためにも,ひいて は労働者自身のためにも不可欠であるとの発 想であるから,そこには,緩和の歯止めとな る論理は組み込まれていない。一旦この発想 を認めると,労働法は無限に後退しかねない
のである。
集団的自治が強調される点については,
ヨーロッパの産業別組合を前提にした一般論 がまったく土壌の異なる日本において無媒介 的に援用されていると感じた。日本では,労 働組合の大部分が企業別に組織され,もとも と企業の単独決定を規制する力が弱いうえに,
とくに 1970 年代以降の低成長のなかで労働 組合の機能低下が大きな社会的関心を呼ぶよ うになってきた。まさにその時期に,国家の 直接的規制を後退させて,労使自治で問題を 決定すべきであるという議論がまかりとおる ことに,私は強い違和感を感じたのである。
労働法研究者の多くが,現実に組合機能の後 退を知りつつ,「集団的自治」の命題にしが みついて,国家的規制から集団的自治への重 心移動を無批判に受け入れていることも,私 には不思議であった。
しかし,規制緩和論が労働者の個人的自由 を強調する点については,各方面から,私見 と共通するのではないか,との指摘を受けた。
私自身は,当初より,労働者は使用者に従属 しているためにその自己決定に限界があるこ と,したがって労働法においては依然として 生存権理念が重要であることを意識している つもりであったから,私見と新自由主義的な 規制緩和論を同一視する見方には強い反発を 覚えたが,同時に,自己決定論と新自由主義 との関係,自己決定と規制の関係についてよ り明確に整理することの必要性も痛感した。
そうした問題意識から,既発表の論文を全面 的 に 書 き 直 し 再 構 成 し た の が , 2004 年 の
『規制が支える自己決定―労働法的規制シ ステムの再構築―』(法律文化社)である。
二 労働法と自己決定論
1.なぜ自己決定論か?
規制緩和の急速な進行を批判するためには,
当然,労働法における規制の意義を確認する 作業が不可欠となる。しかし,私は同時に,
依然として,労働法において自己決定の理念 は基本的な重要性をもつと考えている。整理 すれば,それは以下の理由による。
¸ 憲法13条,契約法の原理的な意義 第一に強調されるべきことは,自己決定は 人間の尊厳(憲法 13 条)理念の不可欠の構 成要素であり,それは労働者にとっても枢要 だということである。言い換えると,労働者 を,自己決定もできない単なる保護の対象と とらえることは,憲法の基本的理念に背馳す ることになる。労働法においては,労働者が 従属的状態に置かれていることは基本的認識 であるが,労働者の自己決定について,それ をしょせん不可能なものと見るのではなく,
それの可能な限りの実現を図ることが,労働 者の人間らしい生活の実現にとって不可欠で あるという視点が要求されるのである。
それは,労働関係についていえば,労働契 約の重要性,しかも単なる形式ではなく,労 働者意思を適切に反映する労働条件決定制度 としての労働契約の重要性を意味する。就業 規則論に代表される現在の判例法理は,この 点において根本的な問題を含んでいる。
¹ 労働者の多様化と労働条件の個別化 戦後一定の時期までは,生存を可能にする 賃金水準の確保が労働者の基本的要求であり,
この時代には老若男女の要求は基本的に一致 していたが,高度成長期以降,労働者の要求 は,その生活条件や生き方に応じてきわめて 多様となってきた。また,とくに 90 年代以 降,企業の労務政策は,賃金,労働時間,福 利厚生などの労働条件を個別化する方向で大 きく転換されてきた。
こうした状態においては,従前のような労 働協約や就業規則による労働条件の一律的決 定には当然大きな限界が生じる。そして,労 働条件を個別的に決定する場合,使用者の単 独決定を認めるのでない限り,決定過程に労 働者意思を反映させることが不可欠の要請と なる。自己決定は,この観点からも必要とな るのである。
º 法理論の思想的な影響
さらに,労働者の自己決定を理論の中軸に 据えることが,思想的な影響をもつことも看 過されるべきではない。一般的な法理論がこ うした意味をもつという点で共通理解が得ら れるとしても,個々の具体的な解釈論や立法 論にそこまでの意味をもたせることについて は,賛否両論がありうるであろう。しかし私 は,具体的な解釈論・立法論も,裁判官や立 法者に直接影響を及ぼすだけでなく,一つの 理念・思想として多かれ少なかれ労働者その 他の国民に間接的な影響を及ぼさざるをえな いと考えている。そうである以上,法学者は,
立論に際して,それのもつ思想的影響への考 慮を忘れることはできない。そして,現在私 は,多数の労働者がもっと「自己決定」の重 要性について認識を深めるべきだと考えてお り,そのこともあって,「自己決定」理念を 労働法理論の中核に据えたいのである。
多くの論者は,私のような立場に対して,
現在必要なのは労働組合の強化であり,国家 法的な規制の強化であって,労働者の自己決 定を強調することではないとする。しかし,
労働組合を強化し,国家法的規制の強化を要 求する声は一体どこから出てくるのか。それ は,労働者自身がその必要性を自覚する以外 にないのである。自己決定論は,そうした観 点からも重要性をもつ,というのが私の立場 である。
2.自己決定が問題となる領域
¸ 労働組合と個人
この領域については,前述のように,労働 者の組合加入意思(ユニオン・ショップによ る組織強制の問題),労働組合による統制処 分の正統性,労働協約の規範的効力の根拠,
争議行為の構造,などの点で自己決定権が問 題となる。それは,全体として,労働組合を すでにできあがった「団体」としてよりも,
個々人の自由な意思による「結集」,「連帯」
ととらえることを意味する。
¹ 労働者の私的自由
労働者は,本来自己の全時間(24 時間)
について主権をもっており(時間主権
Zeit- souver
änit
ät)
,ただ労働契約にもとづいて 一定時間を使用者のために提供するにすぎな い。そして,労働者は使用者に提供した時間 においても,使用者に全人格的に服従するの ではなく,人格的自由は保持している。伝統 的な労働法理論において欠落していたこの観 点を明確にしうるのが,自己決定の観点であ る。これは,使用者が,労働者を一方で「商 品」とみなす傾向を強めつつ,他方で企業社 会に包摂される一構成要素とみる発想をか えって強めている今日,依然として重要な視 点である。º 自己決定と私的自治
自己決定の理念は,労働条件決定過程にお ける労働者の実質的な関与を根拠づける。そ の関与の典型的な形態が労働契約(私的自治)
である。
日本の憲法学における自己決定論は,これ まで人間の個人的領域に視野を限定しており,
相手方との共同の決定を射程範囲に入れてい なかった。これに対して,ドイツでは,早く から,「私的自治は人間の自己決定という一 般原則の一部分」(フルーメ,ヴォルフ)と 見てきた。これは,基本法2条1項が宣言す る「人格展開の自由」を,個人な内的領域に おける自由から出発し,それを様々な他者と かかわる諸領域へと同心円的に拡大させてと らえようとする憲法理論に対応するものであ る。おそらく,「憲法」(
Verfassung
)とい うものが,単に国家を規制するのみならず,社会の根本的なあり方を示す規範であるとの 憲法観がその前提になっているのだと解され る。
憲法学とは異なり,日本の民法学において は,根強い意思主義の流れがある(原島重義,
石田喜久夫,河上正二,山本敬三,吉田克己,
吉村良一など)。とくに最近では,そうした 見解を憲法 13 条によって根拠づけようとす
る傾向が強くなっており,私は基本的にそう した方向を支持したいと考えている。
私的「自治」とは,契約当事者間の関係を,
国家や第三者からの介入から擁護しようとす るニュアンスを含んだ概念である。それを自 己決定の問題としてとらえ直すことは,私的
「自治」の主体である契約当事者の相互間に 存在する緊張関係をも視野に入れ,そこにお ける各当事者の実質的な意思の尊重という要 請を必然的に含むものである。この観点は,
とりわけ交渉上の地位に隔絶がある契約関係 について,適切な解決をもたらすために不可 欠である。労働契約を自己決定の観点からと らえ直すことは,このような積極的意味をも つのである。
これに関連して,ドイツにおける基本権保 護義務論をどのように評価するかが問題とな る。私は,労働法においては国家の基本権保 護義務という発想はもともとなじみやすいも のであり,それを一般的に肯定してさしつか えないと考えている。この義務を認めるのに 慎重な立場は,国家機能の肥大化をおそれる のであろうが,国家が一方で権力を肥大化さ せつつ,他方で本来その任務を果たすべき領 域から撤退しようとしている今日,必要なの は,国家の果たすべき役割を積極,消極の両 面から適切に位置づけることであり,基本権 保護義務論も,そうした全体的国家像との関 係で論じられるべきである。
三 自己決定(権)論のアポリアと解決 の試み
1.自己決定論に内在する問題
¸ 問題の所在
自己決定をめぐっては,法学分野に限らず 様々な分野で多様な議論が展開されているが,
その一つの焦点は,
J.S.
ミルなどが前提とし ていた人間像(自律的人格)と現実的人間と の乖離をいかに考えるかの問題,つまり,社 会の編成原理を考えるときに,いずれの人間像から出発するかの問題である。憲法学にお ける自律的人格説と現実的人間説の対立も,
こうした全体的な文脈のなかでとらえること ができる。
¹ 「発展的人間像」
自律的人格説は,人権の主体として「自律 的人格」を措定するものであるため,人権の 範囲を過度に限定したり,具体的人間のもつ 生の要求に応じられないおそれがあるという 問題をもつ。他方,現実的人間像は,人権の もっている核心部分をあいまいにさせ,憲法 がすべての人々に向けて発した強いメッセー ジであるという側面を稀薄にするおそれがあ る。
私は,これは二者択一の問題ではなく,2 つの人間像は発展的に統一されるべきだと考 えている。すなわち,憲法は,現実の生の人 間から出発しつつ,諸個人がより一層人格的 自律を備えた人間に発展していくことを期待 して,人権規定をもうけたと解すべきではな いか,ということである。この意味における
「発展的人間像」こそが憲法の想定する人間 像であると解したい。
º 「弱い個人」と必要な「保護」の多義性 従来,自己決定論を批判するために持ち出 されてきた論拠のひとつに,「弱い個人」の 問題がある。しかし,そこでいわれる「弱い 個人」には多様な意味あいが含まれ,そのこ とが議論を混乱させているように思われる。
「弱い個人」については,少なくとも次の4 つの意味を区別すべきである。
第一は,自分を理性で律することができず,
感情に流されやすい人間,第二は,成熟した 自己決定ができるけれども,それを現実化す る力が欠ける人間(身体障害者など),第三 に,判断能力そのものに限界をもつ人間(幼 児,高齢者など),第四に,社会的関係に規 定された,固有の弱さをもつ人間(労働者,
消費者など)である。
また,「弱い個人」について必要とされる
「保護」の内容も,このような「弱い個人」
の意味の相違とも関連して多様である。必要 な「保護」としては,第一に,現実に自己決 定がなされるための条件整備,第二に,判断 能力に限界をもつ者への援助,第三に,自己 加害行為の禁止,などが問題となる。労働者 にとって,主として問題となるのは,第一と 第三である。
自己決定権とその限界については,こうし た観点から議論が深化させられることが期待 される。
2.労働の従属性と自己決定(人格的自律)
¸ 理論上の両立
労働法において自己決定を論じることには 固有の困難さがある。それは,労働法におけ る 「 公 理 」 と も い う べ き 労 働 の 従 属 性
(
Abh
ängigkeit der Arbeit
)と,労働者の自 己決定の関係をどのように整理するかという 問題があるからである。労働の従属性は,人的従属性(使用者の指 揮命令への服従)と,経済的従属性(契約締 結過程における不均衡)から成ると考えられ ている。前者については,かつて,それと労 働者の人格的自律は両立しえないとの少数説 も見られたが,法が「雇用」という契約類型 を認めている以上,人的従属性と人格的自律 は両立するとの立場にたっていると解するほ かない。
経済的従属性と自己決定の関係も問題とな る。経済的従属性のもとで,労働者の自己決 定は形骸化しがちになり,自己決定の一面的 強調は妥当でない結果を導くことが多いから である。この点,私は,労働者の自己決定
(意思)が二重構造をなすことを正面からと らえ,それに即した法理論を構築すべきだと 考えている。すなわち,労働者の真意(第一 次的自己決定)が,従属的関係のゆえにその とおり表現できず,それとは異なった意思
(第二次的自己決定)が表明されることが多 い点に,労働関係に特有の性格がみられる。
労働法の課題は,この第二次的自己決定をそ のまま受け取って法的解決の前提にするので
はなく,それが経済的従属関係のもとで表明 されたものであることを重視し,それが労働 者の真意(第一次的自己決定)と乖離してい ないかどうかについて,たえず慎重な配慮を 加えることを求められるのである。
¹ 自己決定権と生存権
労働者の自己決定を重視する私見に対して,
生存権理念(憲法 25 条)を軽視するものと の批判が加えられることがある。しかし,私 は労働法において生存権理念が独自の意義を もつことを決して否定するものではない。労 働者が二重の意味で(人的従属性と経済的従 属性)使用者に従属する以上,自己決定によ る問題解決には,いかに労働者の真意を探求 するとしても当然に大きな限界があり,それ を枠づける装置が不可欠である。その「枠」
を根拠づけるのは,生存権理念である。そこ で,自己決定権と生存権理念は,いずれも人 間の尊厳理念(憲法 13 条)を構成する要素 として,労働法を基礎づけるものと解される。
3.自己決定と規制
¸ 根本的に対立するのか
規制緩和論は,自己決定と規制とは相容れ ないとの立場から,規制に攻撃の矛先を向け てきた。他方,規制の必要性を主張し規制緩 和論に反対する側も,自己決定と規制の対立 的側面にのみ目を向けて,自己決定を否定す る傾向が強い。しかし,両者は果たして根本 的に対立するのであろうか。労働者の自己決 定は,むしろ,国家や集団による(とくに使 用者に対する)規制によって支えられること によって初めて現実的意味を獲得するのでは ないか。これが,私が『規制が支える自己決 定』を書いたときの基本的な問題意識であっ た。
¹ 使用者の単独決定の規制としての労働 法
考えてみると,労働法は使用者による事実 上の単独決定の規制を最も重要な任務とする 法領域として発展してきた。使用者の圧倒的 優位のもとでは,労働契約は使用者の事実上
の単独決定を覆い隠す道具にすぎなくなる。
国がまず工場法によって,年少者や女性の労 働条件に介入し,次第のその対象を拡大せざ るをえなかったのは,そのためである。工場 法に代表される労働者保護法は,使用者の単 独決定に「法定最低基準」という枠をはめる ための法律であった。
労働組合の法認も,実は同様の性格をもっ ていた。ドイツ労働法の創始者ともいうべき ジ ン ツ ハ イ マ ー は , 使 用 者 の 単 独 決 定
(
Alleinbestimmung
)を規制するための共同決定(
Mitbestimmung
)の観点から労働協約制度を根拠づけているが,これは集団的労 働法全体に適用されるべき論理である。
労働者保護法と団結法認とは,国家の機能 という点から見ると逆の性格をもつように見 えるが,使用者の事実上の単独決定の規制と いう共通の目的のために協同する2つの制度 と位置づけることも可能である。労働法がこ の2つの制度を包含する法領域として確立し 発展してきた理由はこの点にある。
º 労働契約,労働者の自己決定の位置づ け
さらに考えてみると,労働契約も実はその 本来の機能を発揮するならば,使用者を拘束 するという側面をもっている。たとえば,ド イツでは,勤務の内容,場所は,労働契約で 決定されるので,労働者の同意なしに配転を 命令することはできない。また,賃金などの 労働条件についても,個別同意が根拠となっ ている場合には,個別同意なしに変更できな い。そのため,労働条件が労働協約や経営協 定で集団的に決定されている場合よりも,労 働契約で決定されている場合の方が変更が難 しいという問題がある。また,労働契約でな くても,使用者の一定の措置について,労働 者の個別同意が必要とされる場合,それは使 用者を拘束することになる。
そこで私は,労働契約などを,使用者の単 独決定を「規制」する一要素として位置づけ て,それと国家的規制,集団的規制との関係
を検討すべきだと論じた。もっとも,労働契 約や労働者の個別同意による使用者の「拘束」
を「規制」と表現したことは,それを国家法 的規制や集団的規制と同一視するものとの誤 解を招く可能性があるので,現在では,むし ろこの「拘束」と「規制」を概念上区別する 方がよいのではないかと考えている。
» 労働法的規制システム
使用者の単独決定を規制ないし拘束するこ とを基本的な目的とする労働法は,労働者保 護法,労働組合による集団的規制,そして労 働契約・自己決定による個別的拘束を最もう まく組み合わせて制度化される必要がある。
そこで,将来の労働法のあるべき姿を構想す るにあたっては,国家的規制と集団的規制の 関係,集団的規制と労働契約・自己決定の関 係,そして,国家的規制と労働契約・自己決 定の関係をそれぞれ検討することが必要であ る。
その際必要とされるのは,それぞれの規制 要素のもつ基本的な性格を考慮した原理的な 考察と,現実的状況への冷徹な洞察である。
たとえば,労働組合による集団的規制を国家 法や個別決定との関係でいかに位置づけるか という,労働法の基本的問題を考える際に,
労働組合が本来果たすべき役割や労使自治の もつ本来の意義だけから出発するのでは決定 的に不十分である。むしろ,日本において,
労働組合が実際にどのような状況にあり,現 実にいかなる機能を営んでいるのかを客観的 に分析することが不可欠である。労使自治へ の執着という労働法学に広く見られる傾向は,
労働組合や労使自治に対する期待にもとづい ているが,それはしばしば労働組合の現実を 無視するものである。法は,労働組合や労働 関係の現実から出発し,そのうえでそれに対 する期待を十分な慎重さをもって考慮に入れ るのでなければならない。
4.自己決定の現実性と立法論
労働法において労働者の自己決定をどのよ うに位置づけるかという点についても,労働
者が置かれている現実から出発し,そのうえ で労働者に対する法の期待を考慮に入れると いう態度が要求される。この点では,立法論 をめぐる次のような両極の議論はいずれも排 されなければならない。
まず規制緩和論は,労働者の「自律」,「自 由度の高い働き方」,「自己責任」,「労使自治」
などを振りかざし,これらがすでに現実に存 在するかのような虚構から出発する。たとえ ば,日本型ホワイトカラー・イグゼンプショ ン制度(労働における裁量性が高く,年収の 比較的高い労働者<管理職の一歩手前>につ いて,労使委員会決定と本人同意を条件とし て,労働時間規制の適用をはずすという制度)
も,こうした立場から正当化が試みられる。
しかし,本人同意という要件については,実 際に本人の真意にもとづく同意が確保できる かという問題がある。さらに,労働者の真意 による同意さえあれば,労働者を保護する必 要はないのかという問題がある。労働者の同 意による長時間労働は,一種の自己加害行為 として抑制する必要があるからである。
他方,規制緩和反対論は,もっぱら労働者 の同意が無意味であることを一面的に強調す る。そこでは,労働者は単に保護を要する受 動的な人間として把握されている。しかし,
現実には,すでに労基法などのなかに労働者 の意思を組み込んだ制度(労働者の請求によ る産前休業,妊娠中の軽易作業への転換,年 次有給休暇の時季指定など)があり,判例に おいても,労働者の転籍について労働者の個 別同意が必要であるといった法理が確立され,
学説から支持されている。労働者保護法的な 規制から,労働者の自己決定という要素を排 除することはできないのである。
必要なのは,労働者の従属性という冷厳な 事実をみつめ,かつ労働者の自己決定をでき るだけ保障し促進するという立場にたって,
労働者保護法における自己決定の要素を適切 に位置づけることである。具体的には,自己 決定が労働者の真意にもとづくことの認定を
慎重に行うこと,労働者の生命・健康に悪影 響を及ぼす重要な労働条件については,労働 者の真意による自己決定があっても,最低基 準の適用除外を認めないこと,そして,労働 者の同意については,可能なかぎり撤回の自 由を認めること,である。
5.「合意」の司法審査
¸ 問題の所在
労働者が使用者に対して従属的な状態にあ ることから,自己決定とのかかわりで裁判所 も難しい問題に直面する。労働者の行った
「合意」ないし「同意」が,強行法規との関 係や公序良俗(民法 90 条)との関係で制約 されるのは当然であるが,裁判所はそれを越 えて「合意」ないし「同意」の過程や内容に ついて審査すべきか否かについては,学説も まだ十分に論じていないし,裁判所の見解も 統一されていない。具体的には,労働者の同 意による賃金放棄や相殺,賃金切り下げへの 同意,退職,有期契約の不更新条項への同意 尾などが問題となっている。
¹ 司法審査に関するいくつかの見解 労働者の「合意」ないし「同意」に対する 司法審査については,おおよそ4つの立場が 考えられる。
第一は,「合意」ないし「同意」に,意思 表示の瑕疵(詐欺,強迫,錯誤など)が存在 しない限り,それを有効と解し,それ以上の 審査を拒否する立場である。これは,たとえ ば,有期契約の不更新条項への同意を当然に 有効と認めた裁判例(近畿コカ・コーラボト リング事件・大阪地判平 17
.
1.
13 労判 893 号 150 頁,大阪高判平 17.
11.
24(最決,上告不 受理))などに典型的に見られる。第二は,労働者に不利益な同意について,
「労働者の自由な意思に基づいてなされたも のであると認めるに足りる合理的な理由が客 観的に存在する」ことを要求し,それを同意 の過程と内容から審査しようとするものであ る。最高裁が,賃金債権の放棄や相殺合意が 労基法 24 条(賃金全額払い原則)に反しな
いと判断されるための条件としてあげたとこ ろである(シンガー・ソーイング・メシーン 事件・最二小判昭 48
.
1.
19 民集 27 巻1号 27 頁,日新製鋼事件・最二小判平 2
.
11.
26 民集 44 巻 8号 1085 頁)。下級審判決では,この論理を 賃金引き下げにも援用しようとするものが少 なくない(アーク証券(本案)事件・東京地 判平 12.
1.
31 労判 785 号 45 頁,更正会社三井 埠頭事件・東京高判平 12.
12.
27 労判 809 号 82 頁 , 協 和 ビ ル サ ー ビ ス 事 件 ・ 東 京 地 判 平 12.
1.
24 労判 795 号 88 頁)。第三は,裁判所は合意過程の手続(説明,
協議)のみを審査対象とすべきであるとし,
内容審査は否定するという見解(大内伸哉教 授の見解)である。
最後に,ドイツのプライスなどのとるとこ ろであるが,定型契約(約款)と交渉の結果 成立した(
ausgehandelt
)合意を区別して,前者についてのみ内容審査を行うことを認め る見解が考えられる。
º 私見
私は,前述のような基本的立場から,裁判 所は,労働者の自己決定がその真意(第一次 的自己決定)にもとづいてなされた否かにつ いて審査すべきであり,その審査は,合意の 過程のみでなく,内容の合理性を考慮に入れ てなされるべきだと考える。ここでいう「内 容の合理性」基準は,「合意」や「同意」が 強行法規違反や公序良俗違反になるかどうか の判断の場合とは異なり,「合意」ないし
「同意」が労働者の真意にもとづくかどうか の審査に際しての重要な考慮要素という意味 である。その意味では,私見は,上述の第二 の立場と基本的に一致するといえよう。
四 残された課題
労働者の従属性が「公理」である労働法に おいて,自己決定をいかに位置づけるかは,
きわめて重要であるが困難な課題であり,な お検討される問題が多い。以下に,思いつく
ままに検討課題と考えられるものを列挙して おきたい。
第一に,労働者の従属性の実態を実証的に 研究することが必要である。労働法における 立法論や解釈論が対立する原因の一つは,現 実社会において労働者が全体としていかなる 状態に置かれているかに関する認識の相違に ある。たしかに,労働者の間に大きな格差が 生じており,とりわけ非正規労働者がきわめ て悲惨な状況に置かれていることは,今日で は広く共通の認識となっている。しかし,規 制緩和論は,依然として,正社員のなかでは 自らの実力によって使用者とある程度対等に 交渉しうる労働者が相当程度存在することを 主張し,それを根拠として既存の労働法的規 制の根本的な見直しを主張する。私はそうし た労働者は少数にすぎないとみているが,こ の点に関する実証的研究が必要である。
そうした実証的研究は,労働者の置かれて いる客観的状態だけでなく,労働者意識をも 対象としなければならない。消費者問題を論 じる際に,論者は「賢くて勤勉な(
klug und f l e i s s i g
)」 消 費 者 と 「 愚 か な で 怠 惰 な(
dumm und faul
)」消費者のいずれを念頭に 置くべきかが問題とされるが,まったく同じ ことが労働法にもあてはまる。もちろん,労 働法理論のもつ思想的影響を重視する私見か らすれば,労働者意識の実証的研究が立法論 的,解釈論的結論に直結すべきものではない が,それを左右する重要な要素であることは 否定できない。第二に,平等論の深化が必要である。法が 使用者に要求する差別禁止や平等取扱いは,
基本的には国家法的規制の重要部分をなすも のであり,労働者の自己決定はそれによって 制約されると考えてよいが,両者の具体的な 関係のあり方については,検討すべき問題が 多い。
最後に,今後の労働法のあり方は,グロー バル化の問題を抜きに論じることはできない。
労働者個々人の自己決定の保障というミクロ
の問題は,経済のグローバル化を背景として 各国の労働法が規制緩和の方向に大きく変化 しつつあるというマクロの問題と切り離して は論じられないのである。言い換えると,グ ローバルなレヴェルでの労働条件規制が確立 されない限り,各国における労働法的規制シ ステムが安定的に発展することは困難であり,
結局,労働者の自己決定権を含む「人間の尊 厳」が保障されないのである。おそらく,こ れが本論のテーマにかかわる最大の難問とな るであろう。