論 文
13 世紀のインド洋交易港アデン
取扱品目の分析から
栗 山 保 之
(東洋大学非常勤講師)
The Indian Ocean Trading Port of Aden during the 13th Century:
An Analysis of Its Trade Items
Kuriyama, Yasuyuki
Parttime lecture, Toyo University
Before the appearance of the Portuguese and other European powers in the Indian Ocean in the late fifteenth century, ‘Adan (Aden) in South Arabia, lying between the Red Sea and the Indian Ocean, was a seaport well-known as an important centre of sea traffi c. is was because of its favourable geo- graphical location. Under the Rasūlids in particular, who ruled Yemen from the thirteenth to fi eenth centuries (626–858/1228–1454), the port of ‘Adan functioned as an international trading port for the collection and distribution of many varied and diverse articles and products produced and traded in vari- ous regions ranging from the Mediterranean, East Africa, and Iran to the west coast of India, Southeast Asia, and East Asia, and it enjoyed considerable eco- nomic prosperity.
In recent years there has been discovered and published a new histori- cal source relating to the port of ‘Adan. Bearing the title Nūr al-Ma‘ārif fī Nuẓum wa Qawānīn wa A‘rāf al-Yaman fī al-‘Ahd al-Muẓaffarī al-Wārif, it is an Arabic work dealing with the reign of the second Rasūlid Sulṭān, al-Muẓaff ar Yūsuf b. ‘Umar (r. 647–94/1249–95). A work of wide-ranging content relat- ing to the practical duties of offi cials during this sultan’s reign, it will provide much information for future research on the history of the Rasūlids and the regional history of Yemen and South Arabia. Of particular note is the fact that it includes the tariff schedule employed by the customs house at the port of
‘Adan during the reign of Sulṭān al-Muẓaff ar.
is tariff schedule records in detail a total of 413 articles and products that were traded at the port of ‘Adan in the thirteenth century and also speci- fi es the amounts of the various taxes levied on each item. is tariff schedule
Keywords: aghr ‘Adan, Furḍa, Rasūlids, Maritime Trade, al-Yaman
キーワード: アデン港,税関,ラスール朝,海上交易,イエメン* 本稿は,日本オリエント学会第48回大会(2006年10月29日,早稲田大学)でおこなった報告を もとに作成したものである。
はじめに
紅海とインド洋とが出会う,南アラビアの 南西端に位置するアデン‘Adanは,二つの 海洋が交わる航海上の好条件ゆえに,海上交 通の一大拠点として古くからよく知られた 港であった。とりわけ,13世紀から15世紀 にかけてイエメンal-Yamanおよびハドラマ ウトḤaḍramawtを広く領有したラスール朝 al-Rasūlids(626-858/1228-1454年)統治下 においてアデンは,紅海沿岸地域,東アフリ カ,インド西岸,東南アジア,東アジアといっ
た諸地方の海上商人たちがさまざまな商品や 物産を携えて集散するインド洋海域の最も重 要な国際交易港の一つとして,おおいに活況 を呈していた。
このアデン港に関する先行研究は多い。歴 史の展開における海域の役割に注目する家島 彦一は,インド洋を媒体として形成される一 つの有機的・総合的世界としてのインド洋海 域世界という概念を提唱し,同海域世界にお けるアデン港の重要性を指摘して,国際交 易港としての機能や役割に関する研究を発 表している1)。また,インド洋交易に従事し ていた海上商人たちの諸相を,膨大なゲニ would thus appear to be of great value as a primary source for elucidating in more concrete detail the actual state of trade at the port of ‘Adan at this time.
In this article, I accordingly examine what sorts of articles and products were handled by customs (furḍa) at the port of ‘Adan under the Rasūlids by organizing and analyzing the content of the tariff schedule as part of a study of the history of trade in the Indian Ocean in the premodern period. e arti- cle is divided into three sections.
Section 1: classify the 413 items handled by the ‘Adan customs, calculate the percentage accounted for by each group of items within the total number of items, and consider the signifi cance of the results. In addition, I also educe and analyze the places where these items were produced or from where they were exported.
Section 2: I analyze the places through which items handled by the ‘Adan customs passed en route to the port of ‘Adan.
Section 3: I examine the taxation standard, customs duties (‘ushr, pl.
‘ushūr), brokerage tax (dilāla), and shawānī tax, and I also consider the tax rates and methods of taxation for the customs duties and brokerage tax.
On the basis of the above, it can, I think, be reconfi rmed that the port of
‘Adan in the thirteenth century was a major trading port in the maritime world of the Indian Ocean.
はじめに
1 取扱品目について
1-1 品目の種類とその割合
1-2 品目の生産・積出地とその割合,お よび品目の等級
2 経由地について
2-1 経由地とその所在
2-2 経由地の割合とその分析
3 課税標準および税について 3-1 課税標準
3-2 関税 3-3 仲介税
3-4 シャワーニー税 おわりに
ザ文書(Cairo Geniza documents)を用い てきわめて具体的に描写したゴイテインS.
D. Goiteinは,紅海とインド洋を往還する
海上商人たちが頻繁に寄港していた重要な港 の一つとしてのアデン港を描き出した2)。さ らにイエメン史研究者スミスG. Rex Smith は,国際交易港としてのアデン港に到来す る交易品や税関の様子などを,13世紀の南 アラビア地誌の研究によって詳細に再現し ている3)。この他にも,南アラビア地域史研 究の大家サージェントR. B. Serjeantはかつ て, ク ロ ー ド・ カ ー エ ンClaude Cahenと の共著で,イタリアのアンブロシアーナ図書 館(Biblioteca Ambrosiana)に所蔵されて いる,15世紀初頭のアデン港税関関連のア ラビア語文献史料を紹介し,その後のイン ド洋交易史研究の進展に大きな影響を与え た4)。また近年では,以下に紹介するアデン 港に関するラスール朝史関連の新出史料を用 いて,クウェート人研究者のシャムルーフ Nayef Abdullah al-Shamrookhが ラ ス ー ル 朝の商業と交易についての研究をより深化さ せようと試み,この新出史料にみえるアデン 港の取扱品目およびその税額などの項目を抽 出して,大部な一覧表を作成している5)。
従来のアデン港に関わる研究において,同 港に集散していたさまざまな商品・物産自体 を主要な分析材料とした研究は,上述のシャ ムルーフのそれ以外にはみられない。なぜな らそれは年代記・地理書・地誌・旅行記など
から得られるアデン港においてみられた商 品・物産に関わる情報が必ずしも十分ではな く,それら既出の史料に記載された商品・物 産を主な検討材料とすることができないから であった。これに対して本稿で利用する新出 史料は,アデン港で取り扱われていた多種多 様な品目の詳細を多数包含しており,これ らの取扱品目の多面的な分析からアデン港 について検討することが可能であるように 思われる。そしてこの点に着目したシャム ルーフは,すでに紹介したように,その著書
『イエメンにおけるラスール朝の商業と貿易
( e commerce and trade of the Rasulids in the Yemen, 630–858/1231–1454)』において,こ の史料の記載事項を一覧表にまとめ,これを 分析したのであった。しかしながら筆者が最 近,この史料と彼が作成した一覧表の内容を 照らし合わせる確認作業をおこなってみたと ころ,彼の一覧表に多数の欠落がみいだされ,
アデン港の取扱品目の一覧としてはかなり不 十分なものであることが判明した6)。さらに,
彼が分析している関税をはじめとしたアデン 港の諸税についても,この史料にみいだされ る記述を訳出,列挙するにとどまっており,
それらを解釈するまでには至っていないよう にみうけられる7)。
そこで本稿では,この新出史料にもとづい て13世紀のラスール朝治下アデン港税関が 取り扱った商品 ・ 物産の一覧表を改めて作成 し,同港税関の取り扱った品目に関わる諸相
1) インド洋海域世界については,家島1991: 32-8; 2006: 17, 20-1を参照のこと。また氏のアデン港 にかかわる論考は数多いが,とくに家島 1993: 174-95, 家島 2006: 319-29, 406-8, 435-7 が詳しい。
なお,本稿で随所に用いるインド洋海域世界という用語およびこの用語をめぐる概念は,氏が論じ るインド洋海域世界にかかわる諸研究の成果に依拠している。
2) Goitein 1973.
3) Smith 1995; 1996.
4) Cahen & Serjeant 1957.
5) al-Shamrookh 1996.この研究書は家島氏のご厚意により閲覧,複写することができた。ここに記
して深謝いたします。
6) 彼の一覧表における史料の欠落は数多くある(al-Shamrookh 1996: 316, 317, 318, 322, 323, 326, 327など)。
7) 詳しくは本稿第3章にて述べるが,とくに関税や仲介税についての分析は,全く不十分であること は明らかである。
のうち,とくにその品目名や生産 ・ 積出地,
および同港までの経由地,そして同港税関で 賦課された関税などの諸税について検討して みたい。これは,アデン港をインド洋海域世 界の交易港としてより明確に位置づけるのな らば,何よりも第一に交易の中核を占める商 品・物産について十分に検討すべきであると の立場によるものである。具体的には,イン ド洋を東西に往還していたさまざまな商品・
物産が一体いかなるものであり,それらは果 たしてどこからもたらされていたのか,そし てそれらの商品 ・ 物産に対して,アデン港税 関の取扱品目としていかなる種類の税が,ど のような基準で課せられていたのか,といっ た諸問題の究明を目的としている。アデン港 税関の取扱品目を主要な検討材料として,こ れらの諸問題を考察することにより,先行研 究で述べられたインド洋海域世界における交 易港としてのアデン港について,より具体的 かつ明確なイメージを新たに加えることがで きると考えている。
さて,本稿で検討するラスール朝史関連 の新出史料とは,『壮麗なるムザッファルの 時代におけるイエメンの統治と法律そして 諸慣習に関する知識の光(Nūr al-Ma‘ārif fī Nuẓum wa Qawānīn wa A‘rāf al-Yaman fī al-
‘Ahd al-Muẓaff arī al-Wārif)』(以 下, 本 稿 で は『知識の光』と略記する)と題された著 者不明のアラビア語史料である。本史料は,
ラスール朝第2代スルタン・ムザッファル al-Muẓaff ar Yūsuf b. ‘Umar の統治期(647- 94/1249-95年)に作成された税務関連の諸 文書(その多くが1290-94年の間に作成さ
れた)が複数の書記官僚や写字生らによって 書写されたものを編纂したものである8)。こ のため,その記述内容は課税対象,課税・徴 税方法,税種,税額,および税務にかかわる さまざまな役職とその職掌など,ラスール朝 初期の税制および税務行政全般に関連する事 柄がきわめて具体的に描写されており,今後 のイエメン・ラスール朝史研究やインド洋交 易史研究の進展におおいに資する第一級の史 料的価値を有していると思われる。
1 取扱品目について
1-1 品目の種類とその割合
本稿において分析対象とするアデン港税関 の取扱品目は,『知識の光』のなかに収載さ れた記事にみいだされる9)。「アルファベッ ト順による,神がその所有者の主権を永らえ 給うところの,神に守護されたるアデン港
(thaghr ‘Adan)における,人や物によって 占められた税関(al-furḍa al-ma‘mūra)10)の 祝福されたる関税(‘ushūr)の賦課」と題さ れた一節には,同港税関において取り扱われ ていた諸々の物産名がアルファベット順に列 記され,次いでその物産名に関連する経由地,
課税標準,関税,仲介税(dilāla),シャワー ニー税(shawānī)といった項目が順番に併 記されている11)。取扱品目によっては経由地 の記載がないものもあれば,逆に複数の経由 地を明記しているものもあり,さらにはシャ ワーニー税の税額表示の後に特記事項が付さ れている場合もある。これらの項目は,すで に紹介したように,ラスール朝統治下のアデ 8) 本史料の解題および価値にかかわるより詳細な紹介は,校訂者で本史料の発見者でもあるイエメ ン人のイエメン史研究者ジャーズィムal-Jāzimによる序文を参照のこと(Nūr al-Ma‘ārif, I: a-z)。 なお,本史料の史料的価値は,すでに以下の各研究にも言及されている(Varisco 1989: 153; al- Shamrookh 1993: 22; 家島 2006: 326)。
9) Nūr al-Ma‘ārif, I: 409-60.
10) furḍaはアラビア語で通常,港と訳されるが,『知識の光』にみえる記載でアデン港に関する限り
においては,ルーグレンLöfgrenの用語解説にみえる「税関(custom-house)」と解釈した(Abū Makhrama, Ta’rīkh aghr ‘Adan, II, 50)。cf. Goitein 1973: 189.
11)一覧表の表記に関しては同表末尾の凡例を参照のこと。また経由地,課税標準,関税などと訳出し たアラビア語の原語およびその解釈に関しては,それぞれ,後述する第2章,3章を参照のこと。
ン港税関業務の実務担当者たちによって作成 された文書にもとづいているものであり,そ の意味でラスール朝当局の税務行政の内容や 姿勢をきわめて如実に反映しているとみなす ことができるだろう。
この税関関連の記事を分析するに際して筆 者は,『知識の光』に収録されたアデン港税 関の取扱品目としての商品・物産にかかわる 項目を,一覧表の形式によって整理した。本 稿末尾に付した《アデン港税関の取扱品目一 覧》(以後,本稿では一覧表と略記する)が それであり,以下ではこの一覧表にもとづい て考察を進めてゆくこととする。なお,本稿 で取扱品目という場合は,アデン港税関にお ける関税賦課などの税関業務において,税官 吏たちによって取り扱われた輸出入商品・物 産という意味で用いる。これに対して単に商 品あるいは物産という場合は,広くインド洋 海域を往還していた商人などが携えていたさ まざまな売り物,物品という一般的な意味で 用いることとする。
さて,一覧表によってまとめたアデン港 税関の取扱品目の総点数は,413点を数え る12)。同時代のインド洋海域に存在する数多 くの港の交易取扱品目数と比較して,この 数が多いか否かについてはにわかに判じ難 い。しかし,同じアデン港については時代が 多少前後するものの,比較することができる 史料が残存している。13世紀の南アラビア 地域を広く旅し,同地域の都市や村落の景 観,情況,習慣や生産物などの諸情報を詳細 に記録したイブン・アルムジャーウィルIbn
al-Mujāwirは,その著書『イエメン地方と
メッカおよび一部のヒジャーズ地方誌(Ṣifat Bilād al-Yaman wa Makka wa Ba‘ḍ al-Ḥijāz al- Musammāt Ta’rīkh al-Mustabṣir)』において,
12世紀のアデン港で輸出入されていたさま ざまな物産名を記録しており,この南アラ ビア地誌に記載されている物産を数えてみ たところ,それは合計33点であった13)。ま た,15世紀初頭のラスール朝第8代スルタ ン・ナーシル al-Nāṣir Aḥmad b. Ismā‘īl(在 位803-27/1401-24年)の時代にまとめられ た,ハサン・ブン・アリーḤasan b. ‘Alī al- Ḥusaynīの『アデン港の書記官提要(Kitāb Mulakhkhaṣ al-Fiṭan wa’l-Albāb wa’l-Misbāḥ al-Hudā li’l-Kuttāb)』(815年 ジ ュ マ ー ダ ー II月/1412年9〜10月 編 纂)に は, ア デ ン 港税関の取扱品目としておよそ180点の品 目数を確認することができた14)。これら二点 の史料のうち,前者は南アラビア地域を遍歴 する商人の案内書のごとき性格を帯びてお り15),アデン港だけを特に取り上げたもので はない。そのため,この史料にもとづいて 12世紀の同港の取扱品目数が13世紀のそれ よりも少なかったと判断するのは早急である と思われる。その一方で後者は,いわば税関 業務担当書記官のマニュアルであったという 点において,一覧表の典拠である『知識の 光』と同様の性格を有しているといえる。そ れは,両史料の取扱品目の記載様式がほぼ同 一であることからも明らかである。そこで,
後者の『アデン港の書記官提要』に記載され た約180品目と比較してみると,一覧表に
12)取扱品目の総点数は,史料中にみえる物産数をかぞえたものである。なお同一物産でありながら,
輸入・輸出の別や異なった経由地の記載がある物産も史料にはそれぞれ記載されているが,ここ では同一物産であるという点に鑑みて,数に入れなかった。ただし一覧表には史料に記載されて いる通りに表示してある。なお,地理書,旅行記などにみえるアデン港にかかわる記述について は,以下の通り。Abū al-Fidā, Taqwīm, 92-3; Abū Makhrama, Ta’rīkh aghr ‘Adan, I: 2-23; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 37; Ibn Khurdādhbih, al-Masālik, 61; Ibn al-Mujāwir, Ṣifat; 106-48; al- Idrīsī, Nuzhat, 54; al-Iṣṭakhrī, Masālik, 25; al-Muqaddasī, Aḥsan, 85; Yāqūt, Mu‘jam, III: 621-3; E.
I. 2nd ed., I: 180-2 (‘ADAN); 『大旅行記』3: 132-7.
13) Ibn al-Mujāwir, Ṣifat, 140-1. cf. Goitein 1973: 15; Smith 1995: 132-3.
14) al-Ḥusaynī, Mulakhkhaṣ, 4a-b, 13a, 14a-b, 17a, 18a-26b.
15) Smith 1990: 72-88.
まとめた『知識の光』にみえる13世紀の取 扱品目数は,15世紀の2倍程度だったこと が確認できる。もちろんこの結果は,13世紀 と15世紀のアデン港をめぐるインド洋海域 世界の交易動向の推移や,同港を管理下にお いていたラスール朝の政治・経済・社会情勢 の変容,あるいはそれら情勢の変化に連動し た同王朝のインド洋貿易政策のあり方などと いったさまざまな要因と無関係ではない16)。 それゆえ性急な議論は慎まねばならないもの の,取扱品目数に限ってみれば,13世紀の アデン港の取扱品目数が15世紀のそれより
も多かったことを勘案すると,13世紀のア デン港における交易活動は,15世紀のそれ よりも活発におこなわれていたとみなすこと ができるだろう。
ところで一覧表を一瞥してわかるように,
アデン港で取り扱われていた品目は実に多彩 であり,その種類は多岐にわたっていた。そ こでこれらを大別すると,表1.【アデン港税 関の取扱品目の品種】のように分類すること ができる。
上掲の表にみえるように,アデン港の取 扱品目は18品種に分類することができる17)。
表1.【アデン港税関の取扱品目の品種】
品種 品目例 品目点数
糸・布・衣服類 金銀糸(265)・高級腰布(280)・赤色ベルベット(350)・絹亜麻混紡肩 掛け(387)など
200
香料・薬種類 山奈(126)・長胡椒(130)・甘松香(173)・クマール産沈香(243)・シ ナ産龍脳(319)など
86
ガラス・陶磁器類 エジプト産ガラス(158)・泉州積出磁器深皿(211)など 18 顔料・染料類 硼酸(41)・亜鉛(42)・茜(275)・藍(409)・サフラン(413)など 17 貝・珊瑚類 白赤色アズファール(20)・真珠のビーズ(124)など 11 鉱物類 錫(145)・黒鉛(146)・赤銅(207)など 10 果実類 ナツメヤシ(38)・干しブドウ(157)など 10 奴隷 エチオピア産家内奴隷(147)・黒人奴隷(151)など 6 穀物・粉・豆類 ヒヨコマメ(107)・小麦(109)・大麦粉(131)・黍(140)・米(143)など 6 動物皮革類 牛皮革(97)・ラクダ皮革(98)・山羊皮革(99)など 6 木材・竹籐類 切断済みチーク板材(22)・竹製槍(154)・マーシフ産弓用ナツメヤシ材
(261)など
5
宝石・真珠類 紅玉髄(249)・高級真珠(337)など 4 動物 馬(129)・ザンジュ産ロバ(153)など 3 紙類 イラク産紙(321)・シナ産紙(322)など 3 油脂類 胡麻油(169)・鯨油(226)など 3 動物歯牙類 象牙(229)・切断した象牙(230) 2
その他 縒合ロープ(10)・紐無婦人用靴(33)・高級亀甲羅(137)・塩漬け魚肉
(225)など
23
16)とくに15世紀におけるラスール朝の貿易政策について家島は,自身が発見・校訂した同王朝の写 本史料をもとに,このナーシルの治世において発生したスルタン位をめぐる内紛や北方のザイド派 勢力やアラブ諸部族の侵攻が軍事費の増大と国家財政の窮迫をまねいたため,ナーシルがその軍事 費をイエメンの主要貿易港に来航する外国船や商人たちへの不当関税や積荷没収などの強制策を とったことにより,ラスール朝の経済基盤であった国家と商業との紐帯が断ち切られ,歳入の急激 な減少をまねいた,と指摘している(家島1974: 175-6; 家島2006: 458, 746-7)。
17)分類の方法に関しては,従前の研究においてこれだけ多くの品目を分析した研究がないことから,
それぞれの取扱品目の分類は筆者が独自におこなった。しかし,たとえば硼酸は顔料として用 ↗
それぞれの品種がどのような物産によって占 められていたのかを概観してみると,まず 糸・布・衣服類のなかには,その一例として スール産赤糸(ghazal aḥmar Ṣūlī)[263]18)
やバルーチ産糸(ghazal Barūjī)[264],金 銀糸(ghazal qaṣabī)[265]などの各種糸 を は じ め と し て, 絹 布(ibrīsim)[1] や,
ダイブール産10ジラーア幅無漂白布(khām
‘ushārī Daybūlī)[119], ダ ビ ー ク 産 金 刺 繍 入 亜 麻 布(shuqaq Dabīqī mudhahabba [sic])[196],4ジ ラ ー ア 幅 絹 亜 麻 混 紡 腰 布(fūṭa ḥarīr wa kattān rubā‘ī)[300] と い っ た 布 類 や, イ ラ ク 産 縞 紋 外 套(abrād
‘Irāqīya)[7],更紗腰巻布(uzur muḥshā)
[14],山羊毛白色平織服(badhalāt sādhaj bīḍ wa sha‘rī)[26]などの衣服がみられ,
さらに衣類以外にも,7ジラーア幅標準クッ ション(dusūt subā‘ī wasaṭ [sic])[135]や 漂白テーブルマット(shīlān maqṣūr)[198]
など,実にさまざまな繊維製品が取り扱われ ていた。
香料・薬種類には,黒檀(abnūs)[2]や,
さまざまな地域産の白檀(ṣandal)[199〜
203], 沈 香(‘ūd)[232〜43], さ ら に は 未 熟肉桂(qirfa bikār)[308],丁子(qurunful munqā [sic])[309]19), ク ミ ン(kammūn)
[330],麝香(misk)[364]などが取扱品目
としてみえる。
また,ガラス器・陶磁器類としては,エジ プト産ガラス器(zujāj Miṣrī)[158]やシナ 産陶磁器類[211〜24]がみえる。とくに陶 磁器類については,大型磁器茶碗(al-aqdāḥ al-kibār)[212]や磁器水差(anṣāf)[215],
有孔四脚磁器壺(al-arbā‘ al-bikār)[219]20)
など,各種シナ産陶磁器がアデン港にもたら されていたことがわかる。
顔料・染料類は,陶器の彩色や織物の染色 に用いられていたものだが,それらには硼酸
(tinkār)[41]や亜鉛(tūtiyā)[42]などの 顔料や,蘇芳木(baqqam)[29],サフラン
(za‘farān)[161],茜(fuwwa)[275]といっ た染料類がみえる。
これら以外にも,多くの品目がアデン港税 関で取り扱われていた。貝・珊瑚類としては 各種珊瑚(murjān)[354〜7]があった。鉱 物類には錫(raṣāṣ abyaḍ Qal‘ī)[145],黒 鉛(raṣāṣ aswad)[146], 赤 銅(ṣifr aḥmar [sic])[207]21)などが,そして果実類として ペルシャ湾のキーシュ産ナツメヤシ(tamr Qaysī)[40], パ パ イ ヤ(‘anbarūt)[259]
などが運び込まれ,さらに各種奴隷(raqīq)
[147〜52]がエチオピアから送られてきて いた。また穀物・粉・豆類には小麦(ḥinṭa)
[109],黍(dhura)[140],米(ruzz)[143],
↗ いられる一方で,うがい薬や洗眼剤など薬種としても利用されたし,鉱物として分類した亜鉛は白 色顔料として用いられていた。このように取扱品目によっては薬種にもなれば顔料や染料としても 用いられていたものが『知識の光』には散見するため,表1.【アデン港税関の取扱品目の品種】に みえる数値には多少の誤差が生じる可能性があることを付記しておく。
18)取扱品目名の後ろに付したカッコ内の数字は,一覧表の左側に記した番号と対応させている。以下,
同様。
19)原文ではqurunful munqāと表記されているが(Nūr al-Ma‘ārif, I: 448),munqāがmunaqqaの 誤記であるとするならば,「精選された丁子」と訳出することができる。
20)シナ産陶磁器のうち,有孔四脚磁器壺[219]のアラビア語原語にみいだされる単語「bikār」は,
ドズィーDozyによると「貯水槽や大皿の孔」という意味があることから(Dozy, Supplément, I:
106),ここでは有孔と解釈した。一覧表にまとめた[213, 216, 222, 224]もまた同様の解釈をし た。なお,エジプトのフスタートで出土した 12 世紀から 14 世紀の南宋から元にかけて西アジア にむけて輸出された青磁には,高台部の裏からみると貼付紋の下に孔が開いている特殊な大型青磁 皿,鉢があり,しかも同種類の青磁鉢はエジプトをはじめとして,トルコやイラク,イラン,アラ ビアなどで発見され,中国や日本では出土しない典型的な西アジア向け輸出品であるという(三上 1988: 157-8; 佐々木1999: 69)。
21)銅はアラビア語でṣufrであるが,『知識の光』に記載された原文のままṣifrと翻字した。一覧表内 の他の銅[207〜9]についても同様。
大麦粉(dādhī)[131],ヒヨコマメ(ḥummus)
[107]などがみられ,さらに牛,山羊,ラ クダなどの各種動物の皮革類(julūd)[97〜
9]があった。木材・竹籐類としては切断済 みチーク板材(alwāḥ sāj shaqīq [sic])[22],
竹製槍(rimāḥ qanā)[154],ナツメヤシ材
(‘aydān)[261〜2],竹籐(khayzrān)[127]
な ど が, 宝 石・ 真 珠 類 に は 紅 玉 髄(‘aqīq aḥmar)[249] や 真 珠 の ビ ー ズ(kharaz jumān)[124], 真 珠(lu’lu’)[337〜9] と いったものが含まれていた。動物類として はザンジュ産ロバ(al-‘ulūj al-Zunūj)[153]
や,馬(khayl)[129]が取り扱われ,また 紙類(kāghid)[321〜3]や,油脂類に含ま れる胡麻油(salīṭ)[169],鯨油(ṣifā)[226]
などがあり,そして動物歯牙類として象牙(‘āj)
[229〜30]がみられた。
このように,アデン港税関で取り扱われて いた物産はきわめて多種多様であったことが 認められるが,それでは,これらの取扱品目 について,それぞれの品目がすべての取扱品 目のなかでどの程度の割合を占めていたので あろうか。すなわち,アデン港で取り扱われ ていた物産は如何なる品目が多かったのであ ろうか。グラフ1.【アデン港税関の取扱品目 の割合】は,先に提示した表をもとに,すべ ての取扱品目の割合を示したものである。
このグラフによると,糸・布・衣服類に含 まれる取扱品目数がアデン港税関の全取扱品
目数のほぼ半分にあたる48%を占め,他の 品種と比較して圧倒的に多かったことがわか る。いうまでもなく,この数値は取扱量自体 を表しているものではないため,各品目の取 扱量が現実にどの程度であったかを明らかに することはできない。しかしながら糸・布・
衣服類は,運搬の際に相当程度の場所を必要 とする,いわゆるかさばり物であり,この種 のかさばり物の運搬に関しては船による海上 輸送の方が,ラクダやロバなどの荷運び用駄 獣を用いる陸上輸送よりも,より大量にしか も迅速に目的地へ運び得たと考えられる。さ らにこれら糸・布・衣服類のなかには,後述 するように,商品価格に応じて税額を決定す る従価税品目として設定されたきわめて高価 な衣服が含まれる一方で,価格ではなく総重 量をもとにして捌かれた従量税品目としての 安価な布・衣服類が非常に多くみいだされる ことから考えると,糸・布・衣服類はその取 扱品目数の多様さに比例して,その取扱量自 体もまた大量であったと推測することができ る。またこれに加えるならば,糸・布・衣服 類に次いで高い割合を占めていた香料・薬種 類は,古くからインド洋交易の重要な商品の 一つであったものの,その取扱品目数の割合 は糸・布・衣服類の半分にも満たないもので あり,しかも希少かつ高価ゆえに相対的な取 扱量が少量であったことは容易に想像できる。
したがって,13世紀のインド洋交易におい
グラフ1.【アデン港税関の取扱品目の割合】
て,アデン港がかかわる海上交易によって取 引された最も主要な商品は,糸・布・衣服類 であったと指摘することができるだろう22)。
1-2 品目の生産・積出地とその割合,およ び品目の等級
つぎに,一覧表によってまとめた『知識の 光』にみえる取扱品目の生産・積出地につい て検討する。取扱品目名のなかには,その冒 頭に生産地名が付されているものがかなり みいだされる。たとえば,キーシュ産ナツ メヤシ[40]や一般ベネチア産衣服(thiyāb Bundqī muqāraba [sic])[64]とあるのが,
それに相当する。前者は言うまでもなくペル シャ湾に浮かぶキーシュ島において産出さ れたナツメヤシと解釈でき,後者は地中海 北岸の都市ベネチアで織られた衣服である とみなすことができる。ところが,このよ うに生産地名と解釈できる場合がある一方 で,生産地名ではなくむしろ積出地の名称と 解釈した方がよい地名が付されているものも ある。たとえば,シフル積出椰子色平織絹 織 物(jawzāyī Shiḥrīya sādhaj)[93] や シ フル積出沈香(‘ūd Shiḥrī)[239]にみえる
「Shiḥrīya」あるいは「Shiḥrī」がそれにあ たる。それらは通常,「シフル産」と解釈する。
しかし,シフルでは絹織物や沈香は産出され ないことから,これらは他所から運ばれてき たものがシフル港から積出されたと解すべき であろう。またこれと同様に,泉州積出磁 器深皿(al-mathārid al-Zaytūnī [sic])[211]
や泉州積出四脚磁器壺(al-arbā’ al-Zaytūnī [sic])[217],泉州積出鼎磁器壺(al-athlāth al-Zaytūnī [sic])[221],そして泉州積出磁 器 皿(sakārij Zaytūnī [sic])[223] な ど は いずれも,「泉州産(Zaytūnī)」と解釈でき る表記がなされているが,もとより海港であ る泉州において陶磁器が生産されていたわけ ではなく,それらはその周辺地域一帯の複数 の窯で生産されていたものであった。この 13世紀前後に中国から海外に輸出されてい た陶磁器としては,浙江省の龍泉窯や越州窯 で生産された青磁がきわめて大量であったこ とから判断すると23),この時期のアデン港に 輸入されていたシナ産陶磁器もまた,龍泉窯 や越州窯において生産された後に,泉州へ運 び込まれ,そしてそこから西アジアにむけて 輸出されていたものであると考えられる。し たがって,これらシナ産の陶磁器類は「泉州 産」という表記がなされてはいるものの,厳 密には泉州で生産されたと解釈するよりも,
むしろ「泉州の海港から積出された」と解し た方がより適切であろう。いずれにせよ,こ のように取扱品目名に付された地名は,生産 地名あるいは積出地名と解釈するべきであ る。そこで,それらを列挙すると,つぎのよ うになる(カッコ内の地名が,『知識の光』
に記載された生産・積出地名)。
インド地方:(インドal-Hind24)・バルージュ Barūj25)・カンバーヤKanbāya26)・ダイブー ルal-Daybūl27)・マラバールal-Mulaybār28)・
22)糸・布・衣服類がインド洋交易において最も多く取引された品目であるという状況は『アデン港の 書記官提要』においても同様に確認でき,そこにみえる取扱品目のなかでも,衣服(thiyāb)の品 目が最も多く記載されている。cf. Goitein 1973: 16.
23)佐々木1999: 203; 三上2000: 24; 長谷部2002: 32.
24)『知識の光』にはインド産コスタス(qusṭ Hindī)[310]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 449)。コスタス とはラテン語名 costus arabicus のことで,香料 ・ 薬種として利用された(al-Muẓaff ar, Kitāb al-
Mu‘tamad, 386-8)。ヌワイリーはインドの物産として「そこ(インド)には,赤い宝石(al-yāqūt
al-aḥmar),白檀(al-ṣandal al-abyaḍ),象牙,各種香料(aṣnāf al-‘iṭr),ベルベットの衣服(al-thiyāb al-mukhmala),それ以外の衣服,モスリン(al-lānis),布類がある」などと,記している(al-Nuwayrī, Nihāyat al-Arab, I: 366)。cf. E. I. 2nd ed., III: 404-54 (HIND).
25)今日のブローチBroachのこと。グジャラート地方のナルマダー川沿いの港。一覧表にはバルージュ 産無漂白布(khām Barūjī)[111],バルージュ産糸[264],バルージュ産赤色敷布(maḥābish ↗
クーラムKūlam29)・マアバルal-Ma‘abar30)・ グ ジ ャ ラ ー トal-Jūzarāt31)・ ス マ ー ナ ー ト Sumānāt32)・マカーシルMaqāṣir33))
イ ラ ン 地 方:(イ ラ ンFāris34)・ キ ー シ ュ
Qays(Kays)35)・サーブールSābūr36)・カン ジャKanja37)・イスファハーンIṣbahān38)・ ヤズドYazd39)・シーラーズShīrāz40))
イラク地方:(イラク‘Irāq41)・バグダード
↗ ḥumr Barūjī [sic])[345]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 426, 445, 453)。イドリーシーは「バルージュ について言えば,それは大きな都市で,大層美しく,建物がすばらしくて,漆喰とレンガででき ている。…(中略)…そこはシナal-Ṣīnから到来する者のための港(furḍa)であり,またシンド al-Sindから到来する者のための港でもある」と記し(al-Idrīsī, Nuzhat, 187),またヤークートは
「海沿いのインドの町のなかで最もよく知られ,そして最も大きくて,最もすばらしい町。その町 から藍染料(nīl)やラック染料(lakk)が輸出される。」と記している(Yāqūt, Mu‘jam, I: 595- 6)。さらにヌワイリーは「バルワスBarwaṣ,すなわちバルワジュといわれるが,バルワジー布(al-
qumāsh al-Barwajī)はまさにそこに由来する」と述べ,織物産業が盛んな様子を伝えている(al-
Nuwayrī, Nihāyat al-Arab, I: 237)。cf. Hobson-Jobson, 116.
26)グジャラート地方のキャンベイ湾の港。今日のキャンベイ。『知識の光』にはカンバーヤ産縞紋 外套(abrād Kanbāyatīya)[5],カンバーヤ産高級7ジラーア幅クッション(dusūt subā‘ī rifā‘
Kanbāyatī [sic])[134]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 410, 428)。イドリーシーは「カンバーヤの町は 海から3マイルのところにあり,…(中略)…そこには全ての地方からの商品や通商の全てがある。
そしてそこからさまざまな地方へと運び出される。またその町は船がそこに入る一つの湾に沿って いて,船はその湾に投錨する」と述べ(al-Idrīsī, Nuzhat, 181),匿名のペルシャ語地理書には「サ
ムールṢamūr,シンダーンSindān,スーバーラSūbāra,カンバーヤの四つの町は海岸沿いにあ
り,そこにはムスリムやヒンドゥー教徒が居住している。…(中略)…これらの町の人びとは長髪 であり,一年中,腰布(izār)のみ着用している。これらの町の近くには一つの山があり,そこで は竹籐,胡椒,ココヤシの実が成育している。カンバーヤでは靴(またはサンダルna‘lain)が生 産され,世界中に輸出されている。」とある(Ḥudūd al-‘Ālam, 88)。またヌワイリーは「カンバー ヤ布(al-qumāsh al-Kanbāyatī)はまさにそこ(カンバーヤ)に由来している」と記し(al-Nuwayrī, Nihāyat al-Arab, I: 237),織物産業による繁栄を示している。
cf.Abū al-Fidā, Taqwīm, 356-7; al-Dimashqī, Nukhbat, 172; E. I. 2nd ed., IV: 993-4 (KHAMBĀYAT); Hobson-Jobson 150; 『大旅行記』6: 96.
27)今日は廃れてしまったシンド地方の港。『知識の光』にはダイブール産無漂白布(khām Daybūlī)
[113],ダイブール産10ジラーア幅無漂白布[119],ダイブール産紙(kāghid Daybūlī)[323]
とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 426, 450)。イスタフリーは「ダイブール:それは海に沿ってミフラー
ン(Mihrān:すなわちインダス川)の西側にあり,大きな商業の中心地であり,この地方やそれ
以外の地方の港である」としている(al-Iṣṭakhrī, Masālik, 175)。アブー・アルフィダーは「そこ(ダ イブール)からダイブール産織物の材料(al-matā‘ al-Daybūlī)が輸出される」と記し(Abū al- Fidā, Taqwīm, 349),織物産業の盛んな様子を描写している。
cf. al-Dimashqī, Nukhbat, 174; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 50; al-Idrīsī, Nuzhat, 167; Yāqūt, Mu‘jam, II: 638; E. I. 2nd ed., II: 188-9 (DAYBUL); Hobson-Jobson, 292, 320.
28)今日の南西インド沿岸地域。『知識の光』にはマラバール産檳榔子(fūfal Mulaybārī)[276],マラ バール産カルダモン(hāl Mulaybārī)[410]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 446, 459)。 ディマシュ キーはこの地域を「胡椒の国(bilād al-fi lfi l)」と呼ばれる胡椒の一大産地として伝えている(al- Dimashqī, Nukhbat, 173)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 353-435; Hobson-Jobson, 539; Yāqūt, Mu‘jam, IV: 639; E. I. 2nd ed., VI:
206-7 (MALABAR);『大旅行記』6: 112-9.
29)今日の南西インドのクイロンQuilon。『知識の光』にはクーラム産腰布(fūṭa Kūlamī [sic])[289]
とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 447)。ディマシュキーは「クーラムの町は胡椒の地方の一番外れ(ākhir)」 としているように(al-Dimashqī, Nukhbat, 173),マラバール地方の南側周縁部分にあたる。また アブー・アルフィダーは同地の物産として蘇芳木をあげている(Abū al-Fidā, Taqwīm, 360-1)。 cf. al-Idrīsī, Nuzhat, 180; E. I. 2nd ed., V: 360-1 (KŪLAM); Hobson-Jobson, 751; 『大 旅 行 記』6:
134-8.
30)今日のインド南東部のコロマンデル海岸のこと。『知識の光』には小型マアバル産腰布(fūṭa Ma‘abarī ṣighār [sic])[290]とある(Nūr al-Ma‘ārif, 447)。アブー・アルフィダーは「そこ(マ アバル)からモスリン織物が輸出されている」と述べている(Abū al-Fidā, Taqwīm, 360-1)。 cf. al-Dimashqī, Nukhbat, 173; Hobson-Jobson, 526; 『大旅行記』6: 320-2.
31)一覧表でグジャラート産衣服(thiyāb Jawjarī [sic])[71]とした部分のうちで,グジャラート産 と解釈した「Jawjarī」については,『知識の光』の校訂者がこれをグジャラートと解釈しているこ とに筆者は従った(Nūr al-Ma‘ārif, I: 421, n. 3144)。グジャラートはインド北西部のカティアーワー ル半島地域のこと。
cf. al-Dimashqī, Nukhbat, 170; E. I. 2nd ed., II: 1123-30 (GUDJARĀT); Hobson-Jobson, 388; 『大 旅行記』5: 149-50.
32)ソームナート。グジャラート地方の港の一つであり(Abū al-Fidā, Taqwīm, 356-7),アデン港から の船が到来するところであった(al-Dimashqī, Nukhbat, 170)。『知識の光』にはスマーナート産無 漂白布(khām Sumānātī)[115]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 426)。
33)『知識の光』にはマカーシル産白檀(ṣandal Maqāṣirī)[202]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 438)。マ カーシルは,インド低地(sufālat al-Hind)のマカースィールと同じか。マカースィールについて 詳しくは,家島2006: 521参照。
34)『知識の光』には無染色イラン産絹衣服(thiyāb Fārisīya maqṣūr [sic])[57],無漂白イラン産絹 衣服(thiyāb Fārisīya khām [sic])[58],イラン産無漂白衣服(thiyāb khām Fārisīya [sic])[59],
イラン産ギンバイカ(hadas Fārisī)[412]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 420, 459)。
35)ペルシャ湾に浮かぶキーシュ島のこと。海上交通の要衝で,良質な真珠の採集場としても有名。『知 識の光』にはキーシュ産縞紋外套(abrād Kīsīya)[8],キーシュ産ナツメヤシ[40]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 410, 411, 417, 419, 420, 431, 432, 436, 439, 447, 451, 453, 455, 456)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 372-3; al-Dimashqī, Nukhbat, 166; al-Idrīsī, Nuzhat, 156-7; Yāqūt, Mu‘jam, IV: 215-5; E. I. 2nd ed., IV: 832 (K. AYS);『大旅行記』6: 284; 家島1993: 147-75.
36)ビ ー シ ャ ー プ ー ルBīshāpūrの 町 の 一 つ。『知 識 の 光』 に は サ ー ブ ー ル 産 縞 紋 外 套(abrād Sābūrīya)[6]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 411)。アラブの地理書にはサーブーリーヤ衣服(thiyāb) の 産 地 と し て 記 さ れ て い る(Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 179; al-Idrīsī, Nuzhat, 404; al-Iṣṭakhrī, Masālik, 27; Yāqūt, Mu‘jam, III: 5-6)。
cf. al-Muqaddasī, Aḥsan, 424; Serjeant 1972: 56-7.
37)今 日 の ア ゼ ル バ イ ジ ャ ン 地 方 に あ た る ア ッ ラ ー ン(bilād Arrān)の 首 邑(qaṣaba)(Yāqūt, Mu‘jam, IV: 308)。『知識の光』にはカンジャ産衣服(thiyāb Kanjī [sic])[47]とある(Nūr al-
Ma‘ārif, I: 418)。匿名のペルシャ語地理書によれば,そこではあらゆる種類の毛織物を生産してい
たという(Ḥudūd al-‘Ālam, 144)。cf. Serjeant 1972: 69-70.
38)イラン中部の都市イスファハーンIṣbahānのこと。『知識の光』には絹製イスファハーン産衣服
(thiyāb Iṣfahānī ḥarīr [sic])[81],イスファハーン産クフル(kuḥl Iṣbahānī)[328]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 422, 450)。イドリーシーは「イスファハーンにはアッタービー風の衣服(thiyāb al-
‘Attābīya)や紋様入り衣服(Washī),そして絹織物の全てや綿織物を生産する工房があり,商人た
ちはこれ(織物)をその町から運び出すためにその町に向かい,そしてそれを携えて諸地方へゆく」
としている(al-Idrīsī, Nuzhat, 677)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 422-3; al-Dimashqī, Nukhbat, 183; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 362-3; Ibn Rusta, al-A‘lāq, 151-63; Ya‘qūbī, Kitāb al-Buldān, 274-5; Yāqūt, Mu‘jam, I: 292-8; E. I. 2nd ed., IV: 97-107 (IṢFAHĀN); Serjeant 1972: 84; 『大旅行記』2: 310-3.
39)イランの一地方都市。『知識の光』には絹製ヤズド産衣服(thiyāb Yazdī ḥarīr [sic])[80]とある(Nūr
al-Ma‘ārif, I: 422)。なお,ラスール朝後期の838/1435年に,同王朝によって捕らえられた侵犯船
(marākib al-mujawwarīn)に積載されていた物産の一つに,高級ヤズド産亜麻織(al-bazz al-‘ālā al-Yazdī)があった(A Chronicle, 175)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 330-1; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 266; al-Idrīsī, Nuzhat, 430; Yāqūt, Mu‘jam, IV: 1017-8; E. I. 2nd ed., XI: 302-9 (YAZD); 『大旅行記』2: 330; 家島1993: 219.
40)ファールスFārs地方の首邑。『知識の光』にはシーラーズ産衣服(thiyāb Shīrāzīya)[50]とある
(Nūr al-Ma‘ārif, I: 418)。 ムカッダシーはシーラーズの産物として「シーラーズからは,そこ以外
に他のどこにも見出しえない魅惑的な外衣(al-aksiyat al-barrakānāt)や,素晴らしさやかわいら しさにもかかわらず着心地において他に類をみない二重の織物(munayyarāt),そして素晴らし い着物や,さらに絹やブローケード織,良質亜麻織や外套がある」と記している(al-Muqaddasī, Aḥsan, 442)。またラスール朝時代末期のスルタン・ザーヒルal-Sulṭān al-Ẓāhir Yaḥyāの治世に 関する記録によると,834/1431年にアデン港からスルタンに宛てた商人たちやナーホダーたち
(nawākhīdh)の贈物(hadīya)のなかに,シーラーズ産の亜麻織(al-bazz al-Shīrāzī)が含まれ ていたとある(A Chronicle, 142)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 328-9; al-Dimashqī, Nukhbat, 119; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 279-81; al-Idrīsī, Nuzhat, 405; Yāqūt, Mu‘jam, III: 348-51; E. I. 2nd ed., IX: 472-9 (SHĪRĀZ) ; 『大旅行記』2: 318-9.
Baghdād42)・アッタービー‘Attābī43)・シン ジャールSinjār44)・カンダルal-Qandal45))
エジプト地方:(エジプトMiṣr46)・アレキ サンドリアal-Iskandarīya47)・クースQūs48)・ ダビークDabīq49)・ダミエッタDamyāṭ50))
地 中 海 北 岸・ 東 岸 地 方:(ベ ネ チ ア Bunduq51)・アンティオキアAnṭākīya52)・シ
チリア島Ṣiqlīya53))
東アフリカ地方:(エチオピアal-Ḥabasha54)・ ザ ン ジ ュal-Zunūj55)・ ム ガ デ ィ シ ュ ー Maqdishū56)・マリンディMalindī57)・バル バルBarābir58))
東南アジア地方:(ジャワJāwa59)・カーク ラーQāqullā60)・クマールQumār61)・サン
41)『知識の光』にはイラク産縞紋外套[7],一般イラク産縞紋外套(abrād ‘Irāqīya muqāraba)[9],
イラク産オカヒジキ(ushuna ‘Irāqī [sic])[16],イラク産紙(kāghid ‘Irāqī)[321],イラク産バ ラ水(mā’ ward ‘Irāqī)[342]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 411, 412, 450, 452)。ラスール朝スルタ ンへの贈物の一品としてイラク産亜麻織(al-bazz al-‘Irāqī)がみいだされる(A Chronicle, 142)。 としてイラク産の物産については,al-Muqaddasī, Aḥsan, 128を参照。cf. E. I. 2nd ed., III: 1250- 68 (‘IRĀK. ).
42)『知識の光』には高級バグダード産白色絹布(naṣāfī Baghdādīya rifā‘ [sic])[400],バグダード産 白絹布(naṣāfī Baghdādī wasṭānīya [sic])[403]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 458)。匿名のペルシャ 語地理書には「バグダードは木綿,絹織物を生産する」と述べられている(Ḥudūd al-‘Ālam, 138)。 cf. Yāqūt, Mu‘jam, I: 677-93; E. I. 2nd ed., I: 894-908 (BAGHDĀD).
43)バグダードの街区の一つ。イブン・ジュバイルは「(バグダードの)街区の名前の一つはアッター ビーヤであり,アッタービー織物は絹や色とりどりの木綿からなるが,それはそこで製造される」
としている(Ibn Jubayr, e Travels, 226)。一覧表にはアッタービー産衣服(thiyāb ‘Attābī[sic])
[52],一般アッタービー産衣服(thiyāb ‘Attābīya muqāraba)[74]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I:
419, 421)。
44)モスル西方の急峻な山岳地帯。『知識の光』にはシンジャール産杜松子油(sandarūs Sinjārī)[175],
シ ン ジ ャ ー ル 産 固 形 杜 松 子 油(sandarūs Sinjārī mulabbas)[176] と あ る(Nūr al-Ma‘ārif, I:
434)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 282-3; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 220; al-Iṣṭakhrī, Masālik, 73; al- Muqaddasī, Aḥsan, 137, 140, 145; Yāqūt, Mu‘jam, III: 158-60; E. I. 2nd ed., IX: 643-4 (SINDJĀR);『大旅行記』3: 52-3.
45)ヤークートは,バスラal-Baṣraにある場所と記す(Yāqūt, Mu‘jam, IV: 183)。『知識の光』にはカ ンダル産弓用ナツメヤシ材(‘aydān Qandal)[262]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 445)。
46)『知識の光』にはエジプト産ガラス器[158],エジプト産明礬(shubb Miṣrī [sic])[189](明礬は
shabbであるが,原文のまま翻字した。[187〜8]も同様),大型エジプト産ターバン(sharābiyāt
Miṣrī kibār [sic])[192],エジプト産銅(ṣifr Bayrawa [sic])[210](Bayrawaは意味不明。それ ゆえここでは『知識の光』の校訂者ジャージムの解釈Nūr al-Ma‘ārif, I: 439, n. 3255に従う),高 級エジプト産亜麻布(maqāṭi‘ Miṣrīya rifā‘ [sic])[366],エジプト産毛布(malāḥif Miṣrīya)[375]
とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 430, 435, 436, 439, 456)。このほかに,ラスール朝年代記によるとエジ プト産亜麻織(al-bazz al-Miṣrī)が外国商人たちの贈呈品としてラスール朝スルタンにもたらされ ていたことがわかる(A Chronicle, 142, 150)。またエジプト産の物産については,al-Muqaddasī, Aḥsan, 203を参照のこと。
cf. E. I. 2nd ed., VII: 146-86 (MIṢR).
47)『知識の光』にはクース・アレキサンドリア産腰布(fūṭa Qūṣī Iskandarī [sic])[301]とある(Nūr
al-Ma‘ārif, I: 448)。イエメン・ラスール朝史家ハズラジーは「(788/1386年)エジプト[・マム
ルーク朝]の地から贈物がスルタン(=アシュラフ・イスマーイール)のもとに到来した。また その贈物に伴ってアレキサンドリアの絹織物職工たち(‘ummāl al-ḥarīr min al-Iskandarīya)の 一団が来訪した」と記述し(al-Khazrajī, al-‘Uqūd, II: 158),アレキサンドリアの織工が集団でイ エメンに送られていたことがわかる。また,817/1414年のスルタン・ナーシルの治世には,アレ キサンドリア産の上等な亜麻織(al-bazz al-fākhir al-Iskandarānī)がメッカより届けられ,また
837/1434年および838/1435年にはいずれもメッカから到来した二人の商人(khawāja)からの贈
物の一つとしてアレキサンドリア産布(qumāsh al-Iskandarānī)がそれぞれ献上されている(A
Chronicle, 92, 169, 170)。またウマリーはアレキサンドリアで生産された多種多様な織物を列挙し
ている(al-‘Umarī, Masālik, 89)。
cf. Yāqūt, Mu‘jam, I: 256-6; E. I. 2nd ed., IV, 131-7 (AL-ISKANDARIYYA).
48)ナイル河東岸に位置する上エジプトの一都市で,紅海の港クサイルから約200キロのところにある。
アブー・アルフィダーやヤークートは,クースはアデンから来る商人の港としている(Abū al- Fidā, Taqwīm, 110-1; Yāqūt, Mu‘jam, IV: 201)。『知識の光』には一般クース産長衣(sawāsī Qūṣī muqāraba)[186],クース産ターバン(‘amā’im Qūṣī [sic])[255],クース産刺繍入ターバン
(‘amā’im muṭarraza Qūṣī [sic])[256],クース・アレキサンドリア産腰布[301],大判クース産腰 布(fūṭa Qūṣī kibār [sic])[302],小判クース産腰布(fūṭa Qūṣī ṣighār)[303],無漂白クース産 腰布(fūṭa Qūṣī muḥshā [sic])[304],クース産亜麻布(maqāṭi‘ Qūṣī [sic])[369],クース産肩掛 け(malāwāt Qūṣī [sic])[383],クース産ハンカチ(manādīl Qūṣī [sic])[391],クース産編込み ハンカチ(manādīl Qūṣī mushabbaka [sic])[392]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 435, 444, 448, 456, 457)。 cf. al-Dimashqī, Nukhbat, 232; Ibn Rusta, al-A‘lāq, 334; al-Idrīsī, Nuzhat, 128; al-‘Umarī, Masālik, 86-7; E. I. 2nd ed., V: 514-5 (K. ŪṢ);『大旅行記』1: 114.
49)ヤークートが「ファラマーal-FaramāとティンニースTinnīsとの間にあった地で,エジプトの行 政州に属し,ダビーク産織物はここに由来する」と述べているように(Yāqūt, Mu‘jam, II: 548), 毛織物産業でよく知られた地。『知識の光』にはダビーク産金刺繍入亜麻布[196],ダビーク産肩 掛け(malāwāt Dabīqī [sic])[384]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 436, 456)。
cf. E. I. 2nd ed., II: 72-3 (DABĪK. ).
50)ナイル河河口付近東側入り江にある下エジプトの一大織物業の都市。『知識の光』にはダミエッタ 産金刺繍入亜麻布(maqāṭi‘ Damyāṭī mudhahhaba [sic])[370),ダミエッタ産漂白亜麻布(maqāṭi‘
Damyāṭī maqṣūr [sic])[371],ダミエッタ産無漂白亜麻布(maqāṭi‘ Damyāṭī khām [sic])[372]
とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 456)。イドリーシーは「ティンニース とダミエッタの町にはダビーク
風の織物や亜麻(sharb),そして染色織物(muṣabbaghāt)があるが,それは世界中にその美し さや価値において近づき得るものはないのである」としている(al-Idrīsī, Nuzhat, 338)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 116-7; Ibn Khurdādhbih, al-Masālik, 82; Ibn Rusta, al-A‘lāq, 338; al- Muqaddasī, Aḥsan, 201-3; al-‘Umarī, Masālik, 93-4; Yāqūt, Mu‘jam, II: 602-6; E. I. 2nd ed., II:
292 (DIMYĀṬ); Serjeant 1972: 143.
51)『知識の光』には高級ベネチア産衣服(thiyāb Bunduqī jiyyād [sic])[62],標準ベネチア産衣服
(thiyāb Bunduqī wasaṭ [sic])[63],一般ベネチア産衣服[64]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 420)。 cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 210-1; al-Dimashqī, Nukhbat, 143; Serjeant 1972: 113.
52)北シリアの都市アンティオキア。『知識の光』には標準アンティオキア産衣服(thiyāb Anṭākīya wasaṭ [sic])[60],一般アンティオキア産衣服(thiyāb Anṭākīya muqāraba)[61],アンティオキ ア産小判ハンカチ(manādīl ṣighār Anṭākīya)[396]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 420, 457)。イドリー シーは「アンティオキアにおいては良質の単色衣服(al-thiyāb al-muṣmata)やアッタービー風の 織物やタスタリー風の織物(Tastarī),そしてイスファハーン風の織物が作られている」と記して いる(al-Idrīsī, Nuzhat, 645)。
cf. Yāqūt, Mu‘jam, I: 382-8; E. I. 2nd ed., I: 516-7 (ANṬĀKIYA); 『大旅行記』1: 223.
53)『知 識 の 光』 に は シ チ リ ア 島 産 タ ー バ ン(‘amā’īm Siqlīya)[258] と あ る(Nūr al-Ma‘ārif, I:
444)。『知識の光』では「Siqlīya」と表記されているため,一覧表でもそのように表記したが,本 文ではより一般的な表記に従う。イブン・ハウカルによると,この島の羊毛や山羊毛で織った織物 は素晴らしく,エジプトにて売買されているそれよりもより良品であるとし,またシチリア王国君 主ルジェーロ2世に仕えていたイドリーシーは,同島のミーラースMīlāṣにおいて良質亜麻が生 産され,輸出されていたとしている(Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 131; al-Idrīsī, Nuzhat, 595)。 cf. al-Dimashqī, Nukhbat, 260; Yāqūt, Mu‘jam, III: 406-10; E. I. 2nd ed., IX: 582-91 (ṢIK. LLIYA);
Serjeant 1972: 191-2.
54)『知識の光』にはエチオピア産家内奴隷(raqīq al-Ḥabasha khādim)[147],エチオピア産男奴隷
(raqīq al-Ḥabasha ‘abd al-faḥl)[148],エチオピア産女奴隷(raqīq al-Ḥabasha jārīya)[149],
エチオピアからもたらされた男奴隷(‘abd al-faḥl min al-Ḥabasha)[150],エチオピア産樹脂(qāṭir Ḥabashī)[306],エチオピア産コスタス(qusṭ Ḥabashī)[311],エチオピア産肩掛け(malāwāt Ḥabashī [sic])[386]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 429, 448, 449, 456)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 153; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 50, 56, 59; Ibn Khurdādhbih, al-Masālik, 45; al-Idrīsī, Nuzhat, 46; al-Iṣṭakhrī, Masālik, 29; al-Muqaddasī, Aḥsan, 241; E. I. 2nd ed., III: 2-8 (ḤABASH).
55)今日の東アフリカ沿岸をさす。『知識の光』にはザンジュ産ロバ[153]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I:
429)。
cf. al-Iṣṭakhrī, Masālik, 29; Ibn Khurdādhbih, al-Masālik, 70; Ibn Ḥawqal, Ṣūrat al-Arḍ, 59; E. I.
2nd ed., XI: 444-6 (AL-ZANDJ).
フṢanf62))
東 ア ジ ア 地 方:(シ ナṢīn63)・ ヒ タ ーal- Khiṭā64)・泉州Zaytūn65)・シラーal-Silā66))
アラビア半島地方:(イエメン67)・ザビー ドZabīd68)・ シ フ ルal-Shiḥr69)・ ソ コ ト ラ 島Ṣuqṭrā70)・ハドラマウトḤaḍramawt71)・ 56)今日のソマリアの首都。『知識の光』にはムガディシュー産檳榔子(fūfal Muqadishī)[277]とあ
る(Nūr al-Ma‘ārif, I: 446)。ヤークートは「バルバルの地(barr al-Barbar)にあるイエメンより 南部のザンジュの地の最初の都市」であり,「そこから白檀や水牛,龍涎香,象牙が輸出される」
としている(Yāqūt, Mu‘jam, IV: 602)。
cf. E. I. 2nd ed., VI: 128-9 (MUK. ADISHŪ); 『大旅行記』3: 137-8.
57)『知識の光』にはマリンディ産白檀(ṣandal Malindī)[201]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 438)。マ リンディは東アフリカにあるアラビア海沿岸の都市。イドリーシーはその町の住人は陸に豹や ジャッカルを狩り,海に鯨の一種を漁すとし,またここには鉄の鉱山があるとしている(al-Idrīsī, Nuzhat, 59)。
cf. E. I. 2nd ed., VI: 283 (MALINDI).
58)ベルベラBerberaのことで,ソマリアのアラビア海沿岸部のこと。『知識の光』にはバルバル産羊
(ghanam Barābir)(268)とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 445)。
59)『知識の光』には標準ジャワ産沈香(‘ūd Jāwī wasaṭ)[233]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 441)。 cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 368-9; Ibn Khurdādhbih, al-Masālik, 66; al-Idrīsī, Nuzhat, 81; E. I. 2nd ed., II: 352 (DJĀBA) ;『大旅行記』6: 394-5, 403.
60)『知識の光』には高級カークラー産沈香(‘ūd Qāqullī jayyid)[232],一般カークラー産沈香(‘ūd Qāqullī muqārab)[234]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 441)。カークラーは,カークラQāqula,カークッ
ラQāqullaとも言う。カークラーの場所はマレー半島付近であると考えられるが正確な場所は不明。
なお家島は,イブン ・ バットゥータの伝えるカークッラをマレー半島の東海岸のシャム湾に面した クラ地峡付近の港としている(『大旅行記』6: 432)。
cf. al-Idrīsī, Nuzhat, 207; 『大旅行記』6: 407; 家島 2006: 514.
61)今日のカンボジアにあたる。真臘のこと。『知識の光』にはクマール産沈香(‘ūd Qumārī)[243]
とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 443)。イドリーシーによれば「サンフ産沈香がそこ(クマール)にある が,それはクマール産沈香よりも良質である。なぜならばそれはその上質さゆえに水に沈むからで ある」とある(al-Idrīsī, Nuzhat, 83-4)。
cf. al-Dimashqī, Nukhbat, 155; Ibn Rusta, al-A‘lāq, 132-3; Ibn Khurdādhbih, al-Masālik, 68;
Yāqūt, Mu‘jam, IV: 173; 家島 2006: 513-4.
62)今日のヴェトナム中部に繁栄したテャンパCampa(Champa)を指す。『知識の光』にはサンフ産 沈香(‘ūd Ṣanfī)[240]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 442)。ヤークートは「サンフ産沈香とはそこ に由来する」としている(Yāqūt, Mu‘jam, III: 429)。なおイドリーシーによればそこでは沈香以 外にディーバージュ織やシナの絹,米,ココヤシなどが生産されているとある(al-Idrīsī, Nuzhat, 84)。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 369; al-Dimashqī, Nukhbat, 153, 168-9; Ibn Khurdādhbih, al-Masālik, 68; E. I. 2nd ed., IX: 17-8 (ṢANF). 家島 2006: 514-5.
63)『知識の光』 にはシナ産大黄(rāwand Ṣīnī)[142],シナ産竜脳(kāfūr Ṣīnī)[319],シナ産紙(kāghid Ṣīnī)[322],シナ産ヒッチョウカ(kabāba Ṣīnī)[324]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 428, 450)。 cf. Yāqūt, Mu‘jam, III: 444-58; E. I. 2nd ed., IX: 616-25 (al-ṢĪN);『大旅行記』7: 15-57.
64)ヒターは北東アジアのこと。『知識の光』にはヒター産ブローケード紋絹衣服(thiyāb dībāj Khiṭā’[sic])[53]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 419)。『大旅行記』7: 49-50.
65)一覧表に泉州積出磁器深皿[211],泉州積出四脚磁器壺[217],泉州積出鼎磁器壺[221],泉州 積出磁器皿[223]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 440)。これら以外にも,シナ産の陶磁器として,大 型磁器茶碗[212],有孔磁器深皿(al-mathārid al-bikār [sic])[213],磁器椀(khawāfi q)[214],
陶磁水差[215],有孔磁器水差(anṣāf al-bikār [sic])[216],標準陶磁茶碗(al-aqdāḥ al-wasaṭ)
[218],有孔四脚磁器壺[219],有孔標準磁器茶碗(al-aqdāḥ al-wasaṭ al-bikār [sic])[220],有孔 鼎磁器壺(al-athlāth al-bikār [sic])[222],有孔磁器皿(sakārij bikār)[224]などがみいだされる。
cf. Abū al-Fidā, Taqwīm, 364-5; E. I. 2nd ed., XI: 487 (ZAYTŪN); 『大旅行記』7: 26.
66)『知識の光』にはシラー産檳榔子(fūfal Silā)[279]とある(Nūr al-Ma‘ārif, I: 447)。シラーとは
シーラー(al-Sīlā)の誤記か。なおシーラーについては,アブー・アルフィダーが「それはシーラー
Sīlāといわれ,シナの最上方に位置する。…(中略)…それは東シナ海(baḥr al-sharq)にある島々 に属する」と記している(Abū al-Fidā, Taqwīm, 367)。
cf. E. I. 2nd ed., IX: 440-1 (AL-SHĪLĀ or AL-SĪLĀ).