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社会 主義 的 現代 化 建 設 路 線

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論 説

商経論叢第22巻第1号

昭和61年11月

中 国 の 文 化 大 革 命 と 今 日 の

社 会 主 義 的 現 代 化 建 設 路 線

中 村 平 八

中 国 の文 化大 革 命 と今 日の社会 主義 的 現代 化 建 設 路 線 41

はじめに

1最初の路線ー1新民主主義社会建設の路線

2第一次路線論争ー﹁過渡期の総路線﹂への急転回

第一次五力年計画の成功

毛沢東と﹁大躍進﹂

34 第二次路線論争1﹁文化大革命・路線﹂

劉少奇の﹁調整政策﹂と毛沢東の反撃

文化大革命‑毛沢東思想の敗北

中国共産党の文革総括

中国共産党の文革総括の問題点

文革の展開と学生

棺案と出身血統主義

文革と農村

労働者と﹁赤い貴族﹂

文革と中国経済 への突進

(2)

5第三次路線論争‑中国の特色をもった社会主義の建設

文革派の内ゲバ

議論されなかった﹁一国一党制﹂の問.題

中国社会の発展段階をめぐる論争

過渡期についての三つの説

おわりに

資料1社会主義社会の発展法則に関する問題の討論(一九七九年︑

資料21毛沢東﹁社会主義社会﹂論の批判(一九七六年︑中村)

はじめに 中国)

一九四九年一〇月に中華人民共和国が建国してから今年で三七年が経過した︒この間に中国では︑三回の路線論争

があり︑四度の路線の転換があった︒したがって現在展開されている﹁四つの現代化﹂路線は︑第四番目の路線であ

る︒路線の転換にさいしては︑それぞれの時期の中国社会の基本矛盾の把握をめぐって︑中国社会の政治・経済情勢

の評価をめぐって︑またとるべき政策の選択をめぐって︑大闘争が展開され︑この闘争を主導した共産党関係者だけ

でなく︑広範な勤労民衆までもが︑敵味方の闘争の激流に翻弄された︒そのたびに多数の死者がでたし︑人生が一変

した者も多い︒中国一〇億の勤労民衆は︑激動の三七年間の中国社会の曲折︑その曲折に左右されざるをえなかった

己の人生を︑今どのような感慨をもって回顧しているだろうか︒われわれは外国の一介の社会主義研究者にすぎない

が︑静かに一夜︑中国の民衆と酒でも酌み交わしながら︑中国の来し方︑行く末について語り明かしたい気持ちでい

っぱいである︒

小稿は︑最近第三回目の路線論争およびその論理的帰結としての﹁社会主義的現代化建設﹂路線H第四番目の路線

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中 国 の文 化 大 革 命 と今 日の 社 会 主義 的 現 代 化 建 設路 線 43

の意義と問題点を明らかにすることを課題にしている︒だがこの課題にただちに着手する前に第一回目の論争と第二

の路線︑第二回目の論争と第三の路線︑第三回目の論争と第四の路線について︑簡略に一覧しておきたい︒

第一回目の論争は︑毛沢東(一八九三ー一九七六)の主導のもとに︑建国後まだ日の浅い一九五二i五三年の時期に行

われた︒この論争の結果︑中国共産党および毛沢東自身がそれまで堅持していた﹁新民主主義社会﹂建設の路線︑つ

まり中国人民政治協商会議﹁共同綱領﹂の路線は否定され︑新たに﹁社会主義社会﹂への移行を直接の政策課題とす

る﹁過渡期の総路線﹂が採用されるに至った︒この論戦によって︑第一の路線︑新民主主義社会建設の路線は否定さ

れ︑第二の路線︑すなわち社会主義社会の諸前提の創出を直接の課題とする﹁過渡期の総路線﹂が登場したのである︒

しかし﹁過渡期の総路線﹂なるものは︑新民主主義派と急進派との妥協の産物にすぎなかった︒急進派は︑党内多数

派が主張する﹁過渡期終了﹂説に反対するとともに︑一九六〇年前後に始まる中ソ論争を契機に︑再度論争を党内多

数派にいどんだのである︒

第二回目の論争は︑同じく毛沢東の主導のもとに︑一九五五‑六二年に行われた︒毛沢東に代表される党内急進派

は︑妥協の産物としての﹁過渡期の総路線﹂を破棄すべく︑劉少奇に代表される党内多数派の﹁過渡期終了﹂説を攻

撃し︑巻き返しに成功し︑勝利を収めた︒勝利した毛沢東派は︑中国革命の勝利から﹁共産主義﹂の実現に至るまで

の社会を︑過渡期社会としてとらえ︑この過渡期社会が社会主義社会にほかならない︑と規定した︒彼らは︑過渡期

11社会主義社会の基本矛盾は︑労働者階級とブルジョァジ!との階級矛盾であり︑この社会には﹁共産主義と資本主

義との二つの道の闘争﹂が終始存在し︑﹁資本主義復活の危険性﹂が終始存在する︑と主張した︒このような認識に

もとついて毛沢東らは︑第三の路線︑﹁階級闘争と継続革命の路線﹂を提唱し︑中国はプロレタリア文化大革命とい

う名称を冠する大動乱(一九六六‑七六)の一〇年に突入していったのである︒しかし一九七六年の毛沢東の死ととも

(4)

に︑いわゆる文革路線は破産を宣言される︒

毛沢東の死後︑一九八〇年前後に行われた第三回目の論争は︑第三の路線11文革路線否定の儀式として︑また毛沢

東思想葬送のセレモニーとして挙行され︑今日の中国は第四の路線を採用するに至った︒この﹁社会主義的現代化建

設﹂路線は︑否定の否定をつうじて︑建国当初の新民主主義社会建設の路線に復帰したものといえよう︒

1最初の路線ー新民主主義社会建設の路線

一九四九年の中国革命の勝利によって誕生した中華人民共和国は︑中国の統一と独立の確保︑旧中国の遺した貧困

と無知の一掃︑勤労民衆の物質的文化的生活の改善と向上を基本的政策課題にしていた︒二〇世紀の世界システムの

もとで︑中国のように巨大な人口をかかえ︑政治的にも経済的にも立ち遅れている国家が︑これらの課題を実現する

ことは容易でなく︑三回の路線論争︑四度の路線変更を経験してきた今日なお︑中国は建国当初と同じ課題に直面し

ている︒言い換えれば︑基本的政策課題の実現の困難さが中国の政治をゆさぶり︑三〇年にも満たない期間に︑三度

の路線論争︑四回の路線変更を要請したのである︒

相対的に正しい路線があらかじめ決められていて︑はじめて実現困難な課題もなんとか解決していくことが可能と

なる︒路線が誤っていたり︑たえず変化していては︑課題を実現することは不可能であるか困難である︒しかし︑正

しい路線は既設既知でなく︑みずからの試行錯誤のもとで設定・建設していかなければならない︒試行の期間は短け

れぽ短いほどよく︑錯誤の幅は狭ければ狭いほどよい︒諸外国の社会発展︑経済発展の道筋を批判的に摂取すると同

時に︑なによりもまず中国自身の具体的諸条件を全面的発展的に研究し︑中国の社会発展︑経済発展に資する相対的

に正しい路線を自主的に決めることが大切である︒そのためには︑まず第一に︑中国の広範な勤労民衆がいかなる状

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中 国 の文 化大 革 命 と今 日の 社 会主 義 的 現 代化 建 設 路 線 45

態にあり︑何を要求しているかを︑階級別︑階層別︑民族別︑地域別︑職業別︑世代別︑性別に︑比較的詳細に知ら

なければならない︒現存社会主義諸国の政策当局者たちに欠けているのは正にこの点である︒社会科学︑とりわけ社

会学︑社会調査がきわめて重要な意義をもつ︒

まだ権力の高みに鎮座していなかったころの中国共産党は︑広範な勤労民衆の具体的要求を実によく把握していた︒

だからこそこの党は︑中国革命を勝利に導く路線をもつことがでぎたのである︒中華人民共和国建国後の最初の路線︑

つまり新民主主義社会建設の路線は︑一九四九年の中国革命の勝利以前に準備されていた︒たとえば毛沢東は︑﹃中

国革命と中国共産党﹄(一九三九年)︑﹃新民主主義論﹄(一九四〇年)︑﹃人民民主主義独裁について﹄(一九四九年六月)な

どの著作で︑また中国共産党は︑﹃第七期第二回中央委員会総会報告﹄(一九四九年三月)などで︑中国の当面する革命

は新民主主義革命であること︑この革命の勝利によって誕生する国家は﹁革命的諸階級の連合独裁の国家﹂︑つまり

﹁人民民主主義独裁の国家﹂であること︑その社会は新民主主義社会︑その経済は新民主主義経済であること︑を明

らかにしていた︒このような認識は︑一九四九年九月二一日︑中華人民共和国建国直前の中国人民政治協商会議で採

択された臨時憲法﹁共同綱領﹂にも明記されている︒

そのころ毛沢東は︑革命後の中国社会の発展方向についてこう構想していた︒﹁中国革命の歴史的進展は二歩に分

けなければならない︒⁝⁝すなわち︑第一歩は︑この植民地・半植民地・半封建の社会形態を変えて︑ひとつの独立

した民主主義の社会にすることである︒第二歩は︑革命をさらに発展させてひとつの社会主義社会を打ちたてること

である︒⁝⁝この革命の第一歩︑第一段階は︑決して中国ブルジョァジーの独裁する資本主義社会を建設するもので

はなく︑また樹立できるものではなくて︑中国のプロレタリァートを先頭とする中国の革命的諸階級の連合独裁によ

る新民主主義の社会を建設することであり︑それによってこの第一段階は終わるのである︒その後にさらにこれを第

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二の段階に発展させ︑それによって中国の社会主義社会を建設するのであるL︒第一段階の国家形態は革命的諸階級

の連合独裁︑社会形態は新民主主義である︒

それでは第一段階の新民主主義社会の経済形態はどのようなものであろうか︒当時毛沢東は︑新民主主義経済は次

の五つのウクラードから構成される多ウクラード国民経済である︑と考えていた︒﹁国営経済は社会主義的性質のも

のであり︑協同組合経済は半社会主義的性質のものであって︑これに私的資本主義経済を加え︑小私有経済を加・兄︑

国家と私的資本の協力する国家資本主義経済を加えたものが︑人民共和国のいくつかの主要な経済要素であり︑これ

らが新民主主義の経済形態を構成するものである﹂︒毛沢東が述べているごとく︑新民主主義経済の特微は多ウクラ

ード制である︒毛沢東の議論は︑レーニンがソ連で一九二一年にネップの導入にさいして行った議論を想起させる︒

一九一七年一〇月革命後のソ連と同様に︑中国でも﹁革命勝利後もかなり長い期間︑国民経済の発展に役だたせるた

め︑都市と農村の私的資本主義の積極性をできるだけ利用する必要がある﹂︒中国の﹁農業と手工業は︑その基本形

態からいえば︑今日でもやはり︑分散した小私有経営のもの︑すなわち古い時代に似かよったものであるし︑また今

後もかなり長い期間にわたってそうしたものであるだろう︒この点を無視したりする者は︑"左"の日和見主義の誤

りをおかすことになる﹂︒

国家権力を掌握した毛沢東と中国共産党は︑革命後の中国社会が﹁資本主義から社会主義への過渡期社会﹂ではな

く︑相対的に自立し﹁かなり長い期間﹂存続する﹁新民主主義社会﹂である︑と考えていたのである︒したがって経

済政策面では︑①国営企業︑②協同組合企業と並んで︑③私的資本主義企業と富農経営︑④農業.手工業.商業にお

ける小私有経営︑⑤国家資本と私的資本との合弁による国家資本主義企業を﹁かなり長い期間﹂存続させ︑それらを

活用しようと考えていた︒すなわち新民主主義権力は︑私的・半私的ウクラードとしての③④⑤を一定の統制下にお

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中国 の 文化 大 革 命 と今 日の社 会 主義 的 現 代 化建 設 路 線 47

くとはいえ︑これを早急に国有化するとか︑協同化することは︑意図していなかった︒総じて当時の毛沢東と中国共

産党は︑新民主主義国家とその社会経済の積極的側面を発展させ︑否定的側面を抑制して︑動労民衆の生活向上をは

かるという穏歩前進の理にかなった路線を構想していた︒

最近の(八〇年代の)中国事情に通じている読者は︑この新民主主義社会建設の路線が︑およそ三〇年間の"左"の

日和見主義の時代をへて︑今日まさに﹁四つの現代化﹂の名のもとに︑中国全土で広範に実施されていることに気づ

くであろう︒人民公社(協同組A口)は解体され︑④農業・手工業・商業における小私有経営が復活し︑発展している︒

個人が資金.資材.労働力を用いて③私企業つまり私的資本主義企業を設立することが許可されている︒⑤国家資本

と私的資本(華僑資本︑外国資本)との合弁による国家資本主義企業が創設され︑経営を開始している︒建国当時のき

びしい内外情勢を反映して︑新民主主義経済建設の方針のなかでは予定されていなかった外資企業︑一〇〇%外国資

本の企業も︑今日では経済特区で活動を開始している︒現在中国では︑かつて左翼急進路線の台頭で早々に葬られて

しまった新民主主義の路線が︑すくなくとも経済建設の分野ではほぼ完全に復活しているのである︒

2第一次路線論争ー﹁過渡期の総路線﹂への急転回

一九五二年ー五三年︑毛沢東の主導のもとに第一次路線論争が発動された︒新民主主義社会建設の路線は否定され︑

"左〃への軌道修正がはかられた︒新たに社会主義への﹁過渡期の総路線﹂が採用された︒第一次路線論争の特徴は︑

劉少奇および旧毛沢東に代表される新民主主義派と︑新毛沢東に代表される急進派とが論争し︑両派の政治的妥協の

産物として︑社会主義への﹁過渡期の総路線﹂が採用されたことである︒ではなぜ新民主主義の路線は否定されたの

か︒この路線の理論的弱点はどこにあったのか︒旧毛沢東は︑中国革命を社会主義革命ではなく︑新民主主義革命と

(8)

認識していた︒そして革命に直接に接続する社会は新民主主義社会であり︑この社会の後に社会主義社会を展望して

いた︒つまり︑中国革命(新民主主義革命)←新民主主義社会←社会主義社会←共産主義社会という段階的発展図式を

旧毛沢東はいだいていた︒毛沢東らにしてみれば︑中国革命の勝利は最終目的ではなく︑共産主義社会の建設こそが

最終目的である︒そうであれば︑新民主主義社会は社会主義社会への過渡的社会であり︑社会主義社会は共産主義社

会への過渡的社会である︒ここに﹁新民主主義社会‑‑社会主義社会への過渡期社会﹂︑﹁社会主義社会,共産主義社会

への過渡期社会﹂という解釈が可能となる︒新民主主義社会の相対的自立性を重視するか︑それとも新民主主義社会

の過渡的性格を重視するか︑これが問題である︒毛沢東は最初︑前者を重視したが︑第一次論争を開始するにあたっ

て︑後者を重視するに至った︒劉少奇らは引きつづき前者を重視した︒対立は必至である︒

両派の政治的妥協の産物であり︑それゆえに短命に終わらざるをえなかった社会主義への﹁過渡期の総路線﹂とは︑

いったいどのような路線であったのだろうか︒なによりもまず︑当時の中国の内外情勢をみておく必要がある︒国内

的には中国は︑一九五二年ころまでに︑国民経済の復興が順調にすすみ︑北京政府のもとへの全国の統一が完了し

(台湾を除く)︑土地改革も全国的規模で終了していた︒国際的には︑朝鮮休戦会議が進行中であり︑中ソ両国の友好

が宣伝され︑﹁ソ連に学べ﹂という官制運動が大々的に展開されていた︒友党ソ連共産党の歴史を学ぽうということ

で︑スターリン版﹃全連邦共産党(ボ)史小教程﹄(ソ連で一九三八年に出版)が学習され︑ソ連の社会主義建設に学

ぶということで︑スターリン﹃ソ連邦における社会主義の経済的諸問題﹄(ソ連で一九五二年に出版)が学習された︒

﹁ソ連に学べ﹂という官制運動が組織された政治的背景には︑ソ連の先例にのっとり︑中国もまた祉会主義建設に

ただちに着手することが可能であるという毛沢東の意向が反映していた︒毛沢東は︑彼自身がこれまで主張してきた

新民主主義経済建設の方針を捨て︑いわゆるコ化三改﹂の政策︑すなわち社会主義的工業化︑農業.手工業.資本

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中国 の文 化 大 革命 と今 日の社 会 主 義的 現 代 化 建 設路 線 49

主義的工商業の社会主義的改造の政策i﹁過渡期の総路線﹂の経済政策1ーを提唱したのである︒これは驚天動地の

路線転換であり︑中国各界の人士に大きな衝撃を与えた︒﹁ソ連に学べ﹂というキャンペ1ンは︑この衝撃をいくらか

でも和らげるとともに︑新路線への地ならしを意図したものである︒周知のようにスターリソ時代のソ連では︑伊シア

一〇月革命(社会主義革命)←社会主義への過渡期←社会主義社会←共産主義社会︑という社会発展図式が採用されて

おり︑この図式にもとついてソ連の社会主義建設が説明されていた︒一〇月革命直後の戦時共産主義時代という異常

な時期(輔九一八‑二一)をへて︑ネップ前期(一九二一i二七)の経済政策で国民経済を復興させ︑ついで一九二八年

に始まるネップ後期の経済政策︑つまり第一次五力年計画(一九二八ー三二)と第二次五力年計画(一九三三‑三七)で

資本主義から社会主義への過渡期を終了し︑一九三八年以降ソ連は社会主義の時代に進んだ︑というのがソ連の公式

見解であった︒二つの五力年計画の一〇年間に︑ソ連では︑スターリンの地位が固まり︑中央集権的経済体糊︑つま

りスターリン型経済体制もしくは三〇年代型経済体制ができあがった︒この体制のもとで︑工業化と農業集団化が強

行され︑生産手段の私的所有は廃止され︑国有国営企業(セクター)と協同組合所有協同組合経営企業(セクター)か

ら構成される二所有制社会主義が成立したのである︒

毛沢東は︑一九五三年六月に開かれた中国共産党中央政治局会議で︑スターリソ型﹁過渡期﹂論の毛沢東版とでも

言うべき﹁過渡期の総路線﹂を正式に提起した︒この席で毛沢東は︑劉少奇ら党内多数派が引きつづき主張している

﹁新民主主義の社会秩序を確立する﹂という路線は﹁有害﹂であり︑﹁右よりの誤り﹂であると批判した︒毛沢東は︑

現在の中国社会は社会主義への過渡期社会であり︑その主要な経済的課題は︑社会主義的工業化を推進し︑農業・手

工業.資本主義的工商業の社会主義的改造を遂行することである︑と主張した︒毛沢東はまた︑この任務を完遂する

ためには一〇年ないと五年あるいはもう少し長い期間が必要である・とも述べてい(罷・蓮蚕一つの五力年計画で

(10)

実現したことを︑中国は三つの五力年計画で実現する︑実現できる︑というのが当時の毛沢東の意見であった︒中国

における第一次五力年計画は︑毛沢東のかかる構想のもとで開始されたのである︒

第一次五力年計画の成功

第一次五力年計画(一九五三1五七)の進行中の一九五四年に︑中華人民共和国憲法が制定されたが︑この憲法は︑

﹁過渡期の総路線﹂を反映していた︒憲法前文はこう述べている︒﹁中華人民共和国の成立から社会主義社会を建設し

とげるまで・これが過渡期である︒過渡期における国家の基本的任務は︑国の社会主義的工業化を一歩一歩実現し︑

農業.手工業および資本主義的工商業にたいする社会主義的改造を一歩一歩完成していくことである﹂︒一九五六年

九月に開催された中国共産党第八回全国代表大会で︑党中央を代表して政治報告を行った劉少奇は︑その報告のなか

で次の三点を強調した︒第一次五力年計画の遂行によって︑中国では第一に︑社会主義革命の任務が達成され︑社会

主義制度が基本的に確立したこと︑第二に︑国内の主要矛盾は︑もはや二つの道の矛盾︑労働者階級とブルジョァジ

差の矛盾ではなくなり︑現在の経済支化が人民の要求を満芒えていない矛盾に変化したこと︑第三に︑濃的

生産力を発展させて︑生産関係と生産力との新しい照応関係をつくりだすこと︑以上の三点が強調されたのである︒

このような認識は正しかったのであろうか︒それをたしかめるには︑第一次五力年計画の遂行によって中国社会に

どのような変化が発生したのかを検討してみる必要がある︒中国の第一次五力年計画は︑ソ連の全面的援助を受けて︑

ソ連型五力年計画の思想︑方法にもとついて策定され︑実施された︒ソ連は︑鞍山鉄鋼コンビナートをはじめ一五六

項目におよぶ重工業プラントの建設を援助した︒援助(有償)によって建設された企業への投資総額は一一〇億元で︑

工業基本建設投資総額の四四・三%を占めた︒これらの企業には数千名のソ連人専門家が派遣され︑技術指導にあた

った・庭当時約七〇〇〇名の留学生が蓮に派馨れてい(祝︒蓮型の集権的経済体禦つくられ︑資金︑資材︑

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中 国 の文 化 大 革 命 と今 日の社 会主 義 的 現代 化建 設 路線 51

労働力はすべて国家が集中管理し︑重点投資が行われた︒

中国最初のこの五力年計画は︑後に中国共産党自身が評価しているように︑中国の努力と﹁ソ連その他の友好諸国﹂

の支援によって﹁大きな成果﹂を収めた︒生産力の面では︑工業は年平均一八・○%︑農業は年平均四・五%の率で

成長し︑工業労働生産性も年平均八・七%上昇した︒このような生産力の成長を保証した生産関係の改革もまた急激

であった︒いわゆる﹁三改﹂1農業・手工業・資本主義的工商業の社会主義的改造ーーは︑一九五六年に基本的に

完了した︒すでに述べたように︑当初この改革は︑三つの五力年計画を積み重ねて︑計一五年をかけ︑一九六七年こ

ろまでに実現することを予定していたのであるが︑実際には第一次五力年計画中のわずか四年で完了してしまったの

である︒あまりにも急進的な改革の強行は︑中国社会に大きなひずみをもたらした︒

建国直後の国民経済復興期(}九四九ー五二)に︑日中一五年戦争(一九三一1四五)と国共内戦(一九四六‑四九)で

荒廃した国民経済を見事に再建したこと︑ひきつづく第一次五力年計画期(一九五三‑五七)に︑生産力の大幅拡大お

よび﹁一化三改﹂に成功したこと︑それらは︑毛沢東をはじめとする中国の指導者に過度の自信を与えた︒あいつぐ

﹁成功による眩惑﹂に熱狂した毛沢東らは︑一挙に主観主義︑極左急進主義に傾斜し︑第一次五力年計画の次のよう

な問題点を軽視してしまった︒第一の誤りは︑﹁三改﹂とりわけ農業の集団化で﹁功をあせり︑仕事が粗雑で︑変革

のテンポが速すぎ︑移行形態も単純かつ画一的でありすぎた﹂という誤りである︒第二の誤りは﹁一九五六年︑資本

主義的工商業の改造が基本的になしとげられた後︑一部の旧工商業者の扱いや処理にも妥当を欠く点があった﹂とい

(8)う誤りである︒とりわけ問題であったのは︑農業の取り扱いである︒

一九二〇年代末‑三〇年代前半のソ連の工業化の場合と同じように︑中国の工業化もまた︑その資金源を主として

農業部門に求めざるをえなかった︒第一次五力年計画期を通じて︑中国の国家財政の五四ー五八%は農業部門が負担

(12)

した︒また農業部門は︑軽工業原料の約八〇%︑輸出品の大半を提供した︒一九五三年一一月から実施された食糧の

計画買付・配給制度のもとで︑農業部門は︑工業製品にくらべて低く設定された価格で︑急増する都市人口に食糧を

提供した︒見返りに国家が配分した農業基本建設資金は︑投資総額の七・六%にすぎなかった︒農業部門のこのよう

な過重負担は︑結局は︑原料・食糧の生産減少︑機械設備輸入のための一次産品輸出能力の減退をもたらし︑工業化

のテソポを引き下げることになる︒中国もまたこの難局を︑一九二〇年代末から三〇年代初めのソ連と同じく︑農業

集団化を軸とする農業生産力の増強で打開しようとした︒一九五五年七月︑毛沢東は全国の各級党地方委員会書記を

集め︑農業集団化の問題について講演し︑次のように述べた﹁全国の農村には︑新しい社会主義的大衆運動の高揚が

おとずれようとしている︒ところが︑われわれの一部の同志ときたら︑まるで纒足をした女のようによろよろと歩き

ながら︑速すぎる︑速すぎる︑と愚痴ばかりこぼしている︒そして︑よけいな品さだめ︑的はずれの泣き言︑ぎりの

(9)ない心配︑無数の法度や戒律のたぐいが農村の社会主義的大衆運動の正しい指導方針だと思っている﹂︒この書記会

議での毛沢東の叱責以後︑農業集団化は急テンポで進展し︑わずか一年で全農家の八七・八%が高級合作社に組織さ

れた︒この動きは他の分野にも波及し︑手工業合作社の組織率もこの一年間に二七%から九二%になり︑私営工業は

一〇〇%公私合営化され︑また私営の商業は一二%に減少してしまった︒こうして﹁社会主義的改造﹂は︑所有制度

の面だけでいえば︑一九五六年末までにほぼ達成されたのである︒だがまさにこの五六年冬︑農村は混乱し︑農業生

産は急低下︑棄農した大量の農民が難民となって都市に押しょせた︒都市では食糧品の不足︑生活消費財の不足から

非合法の闇経済︑私営商工業が復活した︒

一九五六年四月二五日に招集された中国共産党中央政治局拡大会議では︑中国の社会主義建設が直面する一〇の基

本的諸問題(重工業と軽工業・農業との関係︑沿海工業と内陸工業との関係︑経済建設と国防建設との関係︑国家.生産単位.

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中 国 の文 化 大 革命 と今 日の 社会 主 義 的現 代 化 建 設 路線 53

生産者個人の関係︑中央と地方との関係︑漢民族と少数民族との関係︑党と党外との関係︑革命と反革命との関係︑是と非との関

係︑中国と外国との関係)が討議された︒そしてこの闇十士関係についてL問題提起したのは毛沢東であった︒彼は︑

ソ連や東欧諸国が社会主義建設の過程でおかした誤りとして︑重工業偏重︑農業・軽工業軽視︑食糧問題を指摘し︑

(10)ソ連に学ぶということは︑ソ連を反面教師として学ぶことでもある︑と述べた︒毛沢東の念頭には︑同じ年の二月の

ソ連共産党第二〇回大会におけるスターリン批判があった︒

しかし﹁十大関係について﹂は︑ソ連におけるスターリン批判と関連して同時期に発表された﹁プロレタリァ独裁

の歴史的経験について﹂ほどは重視されなかったようである︒﹁十大関係﹂論の学習運動は提起されなかった︒中央

の幹部も各級の地方幹部も︑内政に関しては事態を深刻視していなかった︒農業政策では︑集団化政策が維持され︑

合作社の指導上の誤りの是正が求められたにすぎない︒さきに述べた五六年九月の中国共産党第八回全国代表大会は︑

全体として楽観的雰囲気に満ちており︑中国における社会主義の勝利が宣言されるとともに︑農村については﹁自発

的意志の尊重と相互利益の追究﹂を要とする貧農・下層中農と﹁中農﹂との団結が強調されるにとどまった︒第八回

党大会で採択された第二次五力年計画草案は︑ひきつづき重工業偏重型の工業化方針を掲げており︑農業への投資は

総投資額のわずか一〇%で︑前計画の二・四%増しにすぎなかった︒

一九五七年末から五八年四月にかけて毛沢東は国内視察にでかけ︑各地で地方幹部を呼びよせて︑一五年でイギリ

スの経済水準に追いつき追いこせと呼びかけるとともに︑そのためには︑中央の決定や専門家の権威に追随せず︑大

胆に発言し︑ときには闘争も辞するな︑と激励した︒視察の目的は︑当面する農村危機を︑大衆動員による大躍進に

よって克服することであった︒劉少奇に代表される党内多数派も︑基本的には︑工業化政策を是とする点で︑また農

村危機を回避しようとする点で︑毛沢東とかわらなかった︒相異点は︑農業集団化のテンポと大衆指導方法について

(14)

であり︑両派の妥協は十分に可能であった︒

一九五八年五月︑第八回大会第二回会議が開かれた︒党中央を代表して報告した劉少奇は︑﹁社会主義建設の総路線﹂

を提起した︒それは具体的には︑﹁経済・政治・思想の各戦線で社会主義革命をつづけると同時に︑技術.文化革命

を一歩一歩実現すること︑重工業の優先的発展を前提として工業・農業の同時的発展をはかること︑集中的指導と全

面的計画︑分業と協業︑といった関係を前提として大型企業と中・小型企業の同時発展をはかること﹂を通じて︑中国

をできるだけ早く﹁現代的な工・農業と現代的な科学・文化をもつ偉大な社会主義国に築きあげること﹂を目標とし

ていた︒﹁社会主義建設の総路線﹂は毛沢東が主唱していたものでもある︒読者は︑﹁社会主義達設の総路線﹂が今日

の八〇年代中国の﹁四つの現代化﹂路線の原型をなしていることに気づくであろう︒第八回大会第二回会議﹁報告﹂

には︑劉少奇の五六年﹁政治報告﹂の内容と異なる重要な章句がつけ加えられていた︒それは﹁過渡期全体を通じ︑

つまり社会主義社会が打ち立てられるまでは︑プロレタリアートとブルジョァジーとの闘争︑社会主義の道と資本主

義の道との闘争が︑終始わが国内部の主要矛盾である﹂という章句である︒劉少奇らは︑過渡期は終了して社会主義

が勝利したと認識していたのにたいして︑毛沢東は︑過渡期の終了︑したがって社会主義の勝利を認めず︑階級闘争

の継続を主張したので輪・﹁社会主蓬設の総路線﹂という方針では両者は薮していたが︑中国社会の現状をど

のように把握するのかという点で両者は相違していた︒現状認識が相違しているのだから︑﹁総路線﹂の具体的方針

も相違せざるをえなかった︒後にこの相違は︑﹁大躍進﹂とその破綻の時期をへていわゆる調整期に発火し︑第二次

路線論争へと発展していくのである︒

毛沢東と﹁大躍進﹂

﹁大躍進﹂は︑一九五七年八月に党中央が全国の農村で社会主義教育運動を展開すべきことを指示したことをきっ

(15)

中 国の 文 化大 革 命 と今 日の社会 主義 的 現代 化建 設 路 線 55

かけに始まった︒農村では︑単位面積当たりの増収をめざして深耕密植が行われ︑大規模な水利建設がすすめられた︒

五七年冬から五八年四月までのあいだに︑一億人の農民が一三〇億労働日の労働量を投入して︑灌概面積を三・五億

畝も拡大した︒工場でも︑﹁反浪費・節約﹂運動や大衆的技術革新運動と結びつけて増産競争が行われた︒各地・各

単位の生産目漂はつぎつぎと引き上げられた︒たとえば︑一九五八年度当初の粗鋼生産目標六二〇万トソは︑五月に

は八五〇万トン︑八月には一〇七〇万トン(前年度実績の二倍)に引き上げられた︒全国の農村で土法高炉による鉄

鋼生産運動が行われ︑農業機械化に必要な鉄鋼は農村で自給すること︑﹁人民戦争﹂の工業的基礎を農村に築くこと

がめざされた︒

﹁大躍進﹂運動の過程で︑水利建設事業のための労働力動員組織として︑高級合作社(平均規模二〇〇⊥二〇〇戸)を

いくつか合わせた大型組織が河南・山東両省を中心に出現した︒婦人労働力の動員︑そのための共同炊事︑生活様式

の変更が必要になった︒毛沢東は︑この大型組織を激賞し︑隔人民公社Lと名づけ︑恒常的な生産・社会生活単位とし

て発展させようとした︒五八年八月北戴河で開かれた党中央政治局拡大会議は︑﹁農村に人民公社を設けることにつ

(12)いての決議﹂を行い︑公社化の推進を決定した︒党の督励をうけて︑公社化運動はまたたくまに全国に広まり︑わず

か三ヵ月のうちに全農家の九九%以上︑約一億二〇〇〇万戸の農家が二万三〇〇〇余りの人民公社に組織されたので

ある︒人民公社は︑数個の旧高級合作社を生産大隊とし︑その下に旧初級合作社規模(約三〇1四〇戸)の農家を生産

隊ないし生産小隊として含み︑平均規模約五〇〇〇戸の組織であった︒公社(コ︑・・ユーソ)は単なる農業生産組織では

なく︑工業・商業︑文化・教育︑軍事(民兵)をも総合して営む地方行政の単位でもあった(政社合 )︒つまり公社は︑

参加の自由を原則とする合作社のような協同組合組織とは根本的に異なり︑そこに所属することなしにはいかなる個

人の生活もありえない一種の共同体であった︒中国共産党は︑さきの決議で人民公社を﹁共産主義への移行上最適の

(16)

商 経 論 叢 第22巻 第1号 56

農 村 人 民 公 社

平 均生産 隊 人 口

糠畷

(人)

 

社・ρ

公人彷

社数角

公戸伍

産数)万生隊(

生 産 大隊数 (万) 人 民

公社数

168

101 103 109

153 156 155

161 163 166.

167 157 143 13s 139 6.4

6.2 6.8 7.9 8.7 S.7 S.3

㎜ 初 初 初 初 ロ 祖 罰 罰 隅 即 脳 部

20.4 1.9.1 12,7

9.4 8.1.

8.1 S.7

12.0 12.0 12.0 12.0 12.0 12.9 12.9 12.9 13.1 13.1 13.1 13.2 13.2 56,417

55,443

56,833 57,572 59,122 60,648

69,984 71,611 73,181 74,798 7s,389 77,71.2 78,745 79,688 80,320 80,739 81,096

..

82,799 12,861

12,745 12,662 13,199 13,410 13,424 ].3,388 13,527 13,661

15,178' 15,387 15,601 15,82」

16,139 16,443 16,303 17,107 17,347 17,491 17,673 18,016 18,279  

灘 翻 翻 窯 翻 撒 纏 翻 盤 盤

515.4 566.2 600.4 597.7 51.S

46.4 73.4

㎜ 鯉 鰯 鰯 伽 柳 碗 齪 鰯 鰯 鯉 細 銅 ㎝ 鮒

68.3 69.4 69r9 71.0 71.S 71.9  

認 罐 襯 灘 課 脚 継 蒙 購 騨 蕪 ㎜ 脚 蕪 醐 脚

1958 i959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 19so 1981 19S2

出 所)『 中 国 統 計 年 鑑1984』 よ り引 用,現 在 人 民 公 社 の 政 社 分 離 が 進 行 中.1983年 末 約1万4000の 公 社 が 政 祉 分 離,約4万 が 未 分 離

組織形態︑将来の共

産主義社会の基礎﹂

とほめたたえ︑﹁数

年の苦労で万年の幸

福を﹂をスローガソ

に大々的大衆動員を

はかり︑数年でイギ

リスの経済水準を突

破し︑早期に共産主

義を実現する︑とい

う宣伝を行った︒

このような宣伝に

こたえて蛍働[者・農

民大衆の多くは刻苦

奮闘したが︑﹁総路

線・大躍進・人民公

社﹂という三つの旗

(三面紅旗)の路線は︑

(17)

中 国 の文 化 大 革命 と今 日の社 会 主 義 的現 代 化 建 設 路線 57

まもなく破綻をむかえた︒工場長の個人責任制の廃止と労働者管理︑各単位の生産目標引き上げ競争は︑部門間の調

整を困難にし︑生産の無政府化をもたらした︒毎日一〇時間を越える労働に会議・集会・民兵訓練が加わり︑平均十

五時間を越える緊張した日々は︑労働者の疲労を蓄積させた︒昼夜兼行の操業は労働力と機械設備の消耗を高めた︒

過度の灌瀧は耕田のアルカリ化を促し︑土法高炉は大量のくず鉄をうみだして薪炭と労働力をむだにした︒急速な人

民公社化は経営・管理の混乱を招いた︒混乱を避けようとすれば︑個々の労働者や農民の差異を無視した平等主義︑

命令主義をとらざるをえなかった︒不満が蓄積され︑労働規律のみだれ︑不良品の生産︑成果のみずましが蔓延した︒

中国共産党の第八期第六回中央委員会総会(五八年=月二八日ー一二月一〇日)は︑﹁大躍進﹂運動の部分的修正をせ

まられた︒この総会で毛沢東の国家主席辞任が決定され︑翌五九年四月の第二期全国人民代表大会第一回会議で劉少

奇が国家主席に就任した︒

五九年夏には全国各地で大規模な水害︑旱魅︑病虫害が発生し︑農業に打撃をあたえた︒この年七月︑党中央政治

局拡大会議が盧山で開かれた︒鷹山会議では﹁大躍進﹂政策︑とりわけ人民公社政策の手直しが議題になった︒この

会議は︑彰徳懐(一八九八‑一九七四)が︑当時の党の活動に現れていた極左偏向を批判する書簡を毛沢東に提出した

ことで有名である︒彰徳懐は書簡のなかで︑﹁大躍進﹂運動の総路線の正しさとその成果︑人民公社化の意義を認め

つつも︑現在︑国家建設の各方面に不均衡がうまれ︑労働者と農民︑都市の各階層︑農民の各階層のあいだで緊張状

態が高まり︑矛盾は政治的性質を帯びてきている︑と指摘した︒そしてその原因は︑われわれが﹁政治優先﹂をふり

まわして﹁経済法則﹂や﹁科学的法則﹂を否定するという﹁極左﹂の誤りを犯しているからであり︑﹁右翼保守思想﹂

(13)に反対するよりも︑﹁極左主観主義﹂の誤りを正すことが急務である︑と述べている︒

毛沢東は︑彰徳懐か提起した批判の論点を巧みにすりかえ︑劉少奇︑周恩来︑朱徳︑陳雲らが彰徳懐支持の発言に

(18)

立つことを封じた︒彰徳懐を支持したのは︑黄克誠(総参謀長)や張聞天(外交部長)ら数名にすぎず︑彰徳懐は孤立

した︒翌八月の党中央委員会総会は︑﹁彰徳懐︑黄克誠︑張聞天︑周小舟らの反党集団に関する決議﹂を採択し︑彰

徳懐は政治局員︑国防部長の職を解任された︒しかしこの決議は公表されず︑林彪の国防部長就任︑羅瑞卿の総参謀

長就任が発表されただけであった︒

一九五六年のソ連共産党第二〇回大会以後︑中ソ両党のあいだでは︑スターリソ評価︑アメリカ帝国主義評価︑ソ

連の平和共存路線︑核戦争︑革命の移行形態などの問題をめぐって︑意見が分岐しつつあった︒五七年一一月︑毛沢

東は世界共産党会議出席のためソ連に赴いた︒モスクワで彼は︑持論であるアメリカ帝国主義﹁張子の虎﹂論を主張

し︑﹁東風は西風を圧している﹂︑帝国主義がしかける核戦争は帝国主義を滅ぼし世界の社会主義化を促すだけである︑

革命の平和的移行の可能性を強調するのは修正主義である︑などと演説し︑六〇年四月以後公然化する中ソ論争での

争点のいくつかξいて自己の見解を明らかにし逸㌍・六〇年四旦六日付の﹃援﹄璽部論文フよソ主義

万歳Lは︑ソ連共産党指導部を修正主義集団として批判した︒七月一六日ソ連政府は︑中国に派遣している専門家約

=二九〇人の引揚げ︑経済・技術協定の破棄を通告した︒西側帝国主義諸国との対立に加・兄て中国はソ連.東欧諸国

とも対立し︑友邦はわずかにアルバニァのみになってしまった︒国際社会における中国の孤立化は決定的になった︒

ここで重要な意味をもったのは︑五八年五月宋から七月末にかけて開かれた党中央軍事委員会拡大会議における毛沢

東の発言﹁ソ連の援助をかちとるのも必要だが︑大切なのは自力更生である﹂であった︒毛沢東があ・兄て選択した国

際的孤立化路線のなかで﹁自力更生﹂は単なるスローガソではなくなり︑毛沢東が死亡するまで︑つまり文化大革命

が終了する一九七六年まで︑中国をしばりつづける実際的原則になった︒

中ソ関係が友好から敵対に変わるというマイナスの事態に加えて︑六〇年秋から中国は三年連続の大凶作にみまわ

(19)

中 国 の文 化 大 革 命 と今 日の社 会 主 義 的現 代 化 建 設 路線 59

れた︒農業恐慌は︑農民を苦しめただけでなく︑都市の労働者の生産活動と生活を困難にした︒食糧不足から栄養失

調が広がり︑一〇〇〇万人以上もの餓死者がでたといわれる(一四八ページ︑人口統計を見よ)︒毛沢東に代わって絶体

絶命の難局の打開にあたったのは劉少奇である︒劉少奇もまた毛沢東の対ソ連認識に賛成していたため︑内政面で

は﹁大躍進﹂と﹁自力更生﹂にたよらざるをえなかった︒しかし毛沢東のやり方をつづけることはできない︒まず人

民公社政策の修正に着手した︒六〇年一一月には人民公社の採算単位を生産大隊まで引き下げ︑農民の副業経営を認

めた︒六一年五月には﹁農村人民公社工作条例﹂を公布して︑生産大隊に一定の生産ノルマ.労働力.資金を割り当

てて生産を請け負わせ︑超過達成分はプレミアムをつけて買い取る政策(三包一奨)や︑自留地を認め︑自由経営.

自由市場をさかんにし︑農家ごとの生産請負いを奨励する政策(三自一包)をとった︒六一年一月の党中央委員会総

会は重工業の発展テソポの﹁調整﹂を決め︑九月の﹁工鉱企業工作条例﹂は八時間労働︑婦人の産休など労働者の初

歩的権利を保証した︒これらの措置はいずれも︑﹁大躍進﹂時の極左急進主義︑大集団主義を是正して︑個々の農民

や労働者の生産意欲の回復をはかろうとしたものであった︒

一九六二年一月︑北京で七〇〇〇人を集めて拡大中央工作会議が開かれたが︑その席上で劉少奇は︑現在の経済的

(15)混乱の原因は﹁三分は天災︑七分は人災﹂と述べて︑﹁大躍進﹂期の急進主義を公然と批判するに至った︒このよう

な経済政策の転換と前後して︑六一年一月︑北京市副市長で歴史学者の呉晧ぽ﹃海瑞の免官﹄という京劇の脚本を発

表した︒それは明代の正義派官僚海瑞が時の皇帝世宗の暴政を諌めて下獄した故事に託して︑彰徳懐の勇気をたたえ

たものであった︒陸定一(中央宣伝部長)や周揚(中央文芸部長)もまた︑海瑞や唐の賢人魏微の故事に託して毛沢東

(16)を批判した︒六二年六月︑彰徳懐は名誉回復を求めて八万語におよぶ書簡を党中央に提出した︒六二年夏の時点では︑

劉少奇の穏健な﹁自力更正﹂路線が勝利するかにみえた︒権力は︑党主席毛沢東から国家主席劉少奇に移行しつつあ

(20)

るようにみえた︒

毛沢東は猛然と反撃に転じた︒一九六二年八月︑党中央工作者会議(北戴河会議)の席上で毛沢東は︑﹁財政・経済

関係の各部・各委員会は︑これまで報告を行っていない︒事前に指示も要請してこないし︑事後に報告もしてこない︒

独立王国だ︒年がら年中︑署名だけを強要してくる﹂と不満を述べ︑﹁私は長いこと諸君から圧力をうけてきた︒六

(17)○年以来二年以上もだ︒少しは諸君に反撃してもかまわないだろう﹂と攻勢にでた︒六二年九月下旬に開かれた党第

八期第一〇回中央委員会総会は︑毛沢東の最初の反撃が勝利を収めたことを示した︒毛沢東は総会で︑彰徳懐処分を

再確認させることに成功した︒毛沢東の﹁大躍進﹂を批判した彰徳懐と︑彼に同調した習仲勲︑張聞天︑黄克誠︑周

小舟らは︑﹁右翼日和見主義﹂﹁修正主義﹂﹁反党︑反社会主義﹂の罪名を負わされて政治の第一線から姿を消した︒

一九六六年にはじまった文化大革命で︑彰徳懐は反党修正主義者として非難攻撃され︑文革派の迫害のなかで七四年

に死んだ︒七七年に出版された﹃毛沢東選集﹄第五巻の﹁出版にあたって﹂によれば︑毛沢東とマルクス・レーニソ

主義に敵対した七人の反党修正主義者のひとりとして彰徳懐の名前があげられている︒

六二年の第一〇回中央委員会総会は︑かの文革期の評価によれば︑﹁偉大な歴史的意義をもつ会議﹂であり︑﹁毛主

席はこの総会で︑全党︑全軍︑全国の各民族人民に"絶対に階級闘争を忘れてはならない"という偉大な呼びかけを

発し︑また︑わが国と国際共産主義運動の経験を総括し︑いまではわれわれの党規約に書きこまれている︑社会主義の

全歴史段階におけるわが党の基本路線を︑いっそうかんぺきに提起したのである﹂(﹃人民日報﹄﹃紅旗﹄﹃解放軍報﹄編集部

﹁中国共産党の五〇周年を記念する﹂一九七一年七月一日付)︒この論文が述べているように︑毛沢東はこの総会で︑﹁社会主

義社会は相当長期にわたる歴史的段階である︒社会主義というこの歴史的段階においては︑なお階級︑階級矛盾と階

級闘争が存在し︑社会主義と資本主義との二つの道の闘争が存在し︑資本主義復活の危険性が存在している﹂という

(21)

中 国 の文 化 大革 命 と今 日の社 会 主 義 的 現代 化 建 設路 線 61

(18)新見解を︑採択させることに成功した︒過渡期の国家のみならず社会主義国家にも階級と階級闘争が終始存在すると

いう毛沢東の新テーゼは︑主としてソ連で発展してきた従来のマルクス・レーニソ主義にはないテーゼであった︒

3第二次路線論争﹁文化大革命路線﹂への突進

われわれはすでに︑第二次路線論争の考察に踏みこんでいる︒この路線論争は﹁大躍進﹂政策の破綻の責任をとっ

て国家主席を辞任し︑国家指導の第一線から退いた毛沢東が︑ふたたび第一線に復帰するために開始した論争である︒

毛沢東の極左急進主義にたいする明示的批判者には彰徳懐らがおり︑黙示的批判者には劉少奇らがいた︒毛沢東らの

急進的﹁大躍進﹂政策の支持者は少数であり︑毛沢東によって反党修正主義者のレッテルを貼られた彰徳懐らの同情

者︑劉少奇らの穏健な﹁大躍進﹂政策の支持者は多数であった︒したがって毛沢東の第一線復帰は困難にみえた︒し

かし六二年九月の第一〇回中央委員会総会で彰徳懐の名誉回復要求を封じこめたことは︑毛沢東の第一の勝利であっ

た︒第二の勝利は︑﹁過渡期"社会主義社会﹂論︑つまり﹁社会主義社会11階級社会﹂論を提起し︑階級闘争と継続

革命の必要性を党に認めさせたことである︒劉少奇らは多数派であることに安心して︑第二点の死活的重要性を見逃

してしまった︒当時︑劉少奇らは毛沢東とともにソ連共産党との公開論争の矢面に立っており︑ソ連修正主義反対と

いう点で一致していた︒劉少奇らは︑まさか自分たちが﹁中国のフルシチョフ﹂として断罪されようとは思ってもい

なかったのである︒毛沢東は︑総会での演説で︑あきらかに北京市副市長呉晧の﹃海瑞の免官﹄を念頭において︑こ

う述べている︒﹁いま小説を書くのが盛んになっておりはしないだろうか︒小説執筆を利用して反党活動をするのは

一つの発明である︒一般に︑ある政府を覆そうとするには︑まず世論をつくりだし︑イデオロギーを支配し︑下部構

(19)造を支配しなけれぽならない︒革命をやるにもこうするし︑反革命をやるにもこうする﹂︒毛沢東のこの発言は︑三

(22)

年後の一九六五年=月一〇日︑彼の私的な指示をうけて書かれた銚文元の論文﹁新編の史劇﹃海瑞の免官﹄を論ず﹂

が上海の﹃文涯報﹄に発表される伏線をなしていた︒いうまでもなくこの論文は︑コフロレタリァ文化大革命Lの開

始を告げる論文であった︒

盧山会議(五九年七月)で︑急進的﹁大躍進﹂政策を批判した彰徳懐らを右翼日和見主義の反党分子として処分する

ことに成功した毛沢東は︑では﹁大躍進﹂がもたらした困難の原因をどのように認識していたのであろうか︒毛沢東

によれば﹁社会主義建設の総路線を提起したのちの相当長期間︑状況に適したまとまった︼連の具体的な方針.政策︑

方法を決めるのが間に合わなかったし︑また︑決める可能性もなかった︒経験が不足していたからである﹂︒その責

任は︑﹁一般に中央が犯した誤りは︑直接的には私が責任を負うことになるし︑間接的にも︑やはりそれ相応の責任

がある﹂という形式的なものであった︒毛沢東にすれば︑真の責任者は︑﹁党内の右翼思想をもつ分子︑党に不満を

もつ分子︑党内にまぎれこんだ投機分子や階級的異分子をあおりたて︑内外反動派の誹諦に呼応して︑党の総路線に

たいして︑党中央と毛沢東同志の指導にたいして︑気違いじみた攻撃を行っている﹂彰徳懐らの﹁右翼日和見主義者﹂

(20)であった︒

劉少奇の﹁調整政策﹂と毛沢東の反撃

﹁大躍進﹂の失敗の原因は︑あまりにも急激な工業化・人民公社化にあった︒ソ連の援助打切り︑専門家の引揚げ︑

三年連続の自然災害は︑あくまで副次的原因であった︒政治家としての毛沢東の巧みさは︑経済的難局からの脱出を︑

劉少奇︑周恩来︑郵小平らに委ねたことである︒六一年一月の第九回中央委員会総会は調整政策の実施を決定し︑六

二年九月の第一〇回中央委員会総会は﹁農業を基礎とし工業を導き手とする国民経済発展の総路線﹂を決定した︒工

業基本建設投資の大幅削減︑経済的合理性を無視して作られた企業の閉鎖︑消費需要を考慮した工業製品の生産︑出

(23)

中 国 の文 化 大革 命 と今 田の社 会 主 義 的現 代 化 建設 路線 63

来高賃金制の復活などの措置がとられた︒六二年九月に公布された﹁農村人民公社工作条例﹂(第三次修正)は︑独立

採算の基礎単位をさらに生産隊の水準にまで引き下げるとともに︑公社企業の縮小︑労働点数の確定︑規定外労働へ

の賃金支給などを定めており︑それは当時の農村・農民の実態と意識によく合致していた︒﹁大躍進﹂期の軍隊的労

働強制︑自留地のとりあげ︑平等分配︑各種の無償労働への動員といった政策は︑農民の生産意欲を失わせ︑それが

農業不振︑食糧不足をうみだしたのである︒

劉少奇らが遂行した﹁調整政策﹂は︑危機対応策ともいえる応急策であり︑そこには哲学はなく︑プラグマティズ

ムがあるだけであった︒﹁調整政策﹂の上空には︑あいかわらず︑毛沢東と党の﹁三面紅旗﹂1ー﹁総路線︑大躍進︑

人民公社﹂がたなびいていた︒劉少奇らの﹁調整政策﹂は︑﹁三面紅旗﹂に代わるものではなく︑なによりもまず︑

いつ毛沢東と党によって﹁修正主義﹂の路線として攻撃されても不思議ではなかった︒

劉少奇らに路線らしきものがなかったわけではない︒たとえば彼は︑一九六三年一月に農業・工業・国防・科学技

術の﹁四つの現代化﹂を提唱している︒しかし当時の劉少奇の﹁四つの現代化﹂は︑文革以後の現在(八〇年代)の

﹁四つの現代化﹂と異なり︑毛沢東と党との﹁三面紅旗﹂のもとでの一政策であるにすぎなかった︒かりに劉少奇ら

がその路線・政権の永続化を意図していたとすれば︑党の総路線としての﹁三面紅旗﹂の破棄を明確に打ちだし︑こ

れに代わる穏歩前進の﹁四つの現代化﹂路線を天下に公表する必要があった︒劉少奇はそのようなことは︑しなかっ

たし︑するつもりもなかった︒もし彼がそのような行動にでていたとしたら︑中国共産党は毛沢東派と劉少奇派とに

分裂したであろう︒当時の国際情勢︑とりわけ中ソ関係の険悪化は︑中国を二分するおそれのある党の分裂を許さな

かった︒激化の一途をたどる六〇年代前半の中ソ論争の過程で︑劉少奇は毛沢東らとともに︑ソ連修正主義批判の先

頭に立っていたのである︒たとえば劉少奇は︑一九六〇年一二月︑モスクワでの八一力国共産党会議に出席し︑ソ連

(24)

共産党の﹁平和共存﹂政策を批判して論陣をはり︑会議の共同宣言に中国共産党の見解を併記させている︒また六三

年四月ー五月には︑イソドネシア︑ビルマ︑カソボジア︑ヴェトナム(北)を歴訪して︑反米・反ソの国際戦線の結

成に努力している︒

しかし毛沢東と劉少奇という二人の指導者のあいだには︑無視しえない個性の違いがあった︒たとえば﹁大躍進﹂

がもたらした困難の打開にさいして︑毛沢東はそれを﹁階級闘争﹂と革命的精神によって突破しようとした︒ところ

が劉少奇は政策の﹁調整﹂によって困難の打開をはかろうとする︒六三年五月︑毛沢東は党中央の名で﹁当面の農村工

作における若干の問題についての決定﹂(前十条と呼ばれる)を発表したが︑そのなかで彼は︑﹁大躍進﹂挫折後の﹁調

整期﹂の農村に現れた汚職・闇行為その他の否定的現象を﹁覆された搾取階級﹂の企てた﹁階級的報復﹂の発現とみ

なし︑﹁階級闘争を忘れるな﹂と呼びかけたが︑階級闘争のにない手は︑土地改革および農業集団化当時の貧農︑下層

中農であった︒同じ年の九月︑劉少奇らは同じ党中央の名で﹁農村の社会主義運動における若干の具体的政策につい

ての規定﹂(後十条)を発表したが︑この文書は階級区分の﹁混乱﹂を指摘し︑その大衆的再審査を指示するとともに

﹁少数の上層中農の資本主義的傾向に反対するにも︑敵対的闘争方法をとってはならず︑彼らの社員としての権利を奪

ってはならない﹂︑当面の主要な危険は﹁敵情の過大評価﹂である︑と述べている︒二つの﹁十条﹂は対照的であった︒

﹁調整期﹂(一九六三‑六五)の諸政策は一定の成果をおさめた︒国民所得成長率は六〇年︑六一年︑六二年と連続し

てマイナスであったが︑六三年からプラスに転じた︒五八‑六二年の五年間の工業・農業・国民所得の年平均成長率

は︑各△三・八%︑△四・三%︑△三・一%であったが︑六三‑六五年には好転し︑この三年間の年平均成長率は︑

各一八・二%︑=・一%・一四・五%と大きく改善された︒調整政策が成功した要因としては︑すでに述ぺたように︑

均衡成長方式がとられ︑重工業投資の大幅削減︑多くの大型プロジェクトの中止︑工業企業の約半数の操業停止︑農

(25)

中 国 の文 化 大革 命 と今 日の社 会 主 義的 現 代 化 建設 路 線 65

業投資の増加︑化学肥料・農業機械などの農業生産財の増産︑軽工業投資の増加をあげることができる︒また労働者

にたいしてはボーナス制度をとりいれて生産増大への物質的インセンティブとしたこと︑農民にたいしては生産請負

制や自留地耕作(私的生産)を許可したこと︑それらは労働者・農民の勤労意欲を高め生産の増加に寄与した︒個人

的利得に訴えるこの方式のもとで︑当然のことながら︑勤労大衆のあいだに所得格差がうまれた︒

毛沢東は別のことを考えていた︒彼は︑大衆の椚革命的精神﹂にではなく︑個人的利得に訴えて経済的困難から脱

出するやり方︑つまり劉少奇ら党内多数派のやり方に反対であった︒しかし党u国家の経済官僚の多くは劉少奇らの

やり方を支持していた︒そこで毛沢東が着目したのは人民解放軍である︒林彪が率いる人民解放軍は︑六一年以来︑

﹁憶苦思甜﹂の運動を展開していた︒それは︑過去の苦しみを思いだし︑現在の幸福を自覚して︑難難に耐え︑党と

毛主席の指導に服従し︑革命の徹底をはかる運動であった︒兵士たちは︑眼前の困難を革命的精神によって克服する

ことを学習した︒六三年二月には﹁雷鋒に学べ﹂という運動がはじまった︒雷鋒は自動車事故で殉職した青年兵士で

あるが︑死後に彼が残したものに︑悲惨だった自分の過去のこと︑衣食と教育を授けてくれた党と毛主席への感謝︑

人民への奉仕の決意と反省などを記した日記があった︒毛沢東は︑林彪と人民解放軍の教育運動を評価し︑みずから

筆をとって﹁雷鋒同志に学ぽう﹂と呼びかけた︒六四年二月﹃人民日報﹄は山西省昔陽県の大塞という生産大隊を紹

介した︒戸数八三︑人旦一一六四人のこの大隊は自力で自然を改造し︑技術を革新して︑食糧生産を五三年の三倍以上

にした︒その秘訣は﹁革命的気慨﹂と﹁科学的精神﹂であった(後に大塞の﹁偉業﹂は作為であり軍隊その他の大きな援助

があったことが暴露された)︒大塞には生産隊も自留地もなく︑分配の方法も各人の申告を隊員全体の会議で労働と﹁思

想性﹂に応じて決めるやり方をとった︒その結果︑個人への分配総額は減り︑拡大再生産のための蓄積が増えた︒毛

沢東は﹁大塞に学べ﹂と呼びかけた︒同じころ毛沢東は﹁解放軍に学ぽう﹂と呼びかけ︑軍の政治工作班を全国に送

(26)

りこんだ︒解放軍もまた﹃毛沢東語録﹄を出版して﹁毛沢東思想﹂学習運動を強化した︒毛沢東は林彪の解放軍と連

携し︑奪権のための準備に着手した︒六四年一二月の全国工作者会議で毛沢東は︑劉少奇らの﹁後十条﹂はマルクス

・レーニソ主義的でないと批判し︑六五年一月には﹁農村の社会主義教育運動のなかで当面提起されている若干の問

(22)題﹂を発表して︑今回の社会主義教育運動の重点は﹁資本主義の道を歩む実権派の粛清にある﹂と宣言した︒

しかし党主席が解放軍という暴力装置を使って党の清掃をはかることはできない︒国防部長林彪は六大軍区のすべ

てを掌握しているわけではなかった︒毛沢東は別の方法をとらねばならなかった︒六二年九月の中央委員会総会で︑

﹁小説を使った反党活動﹂に警告した毛沢東は︑六三年末に文芸界の﹁整風﹂を指示し︑六四年春には文化革命小組

(彰真︑陸定一︑羅瑞卿︑康生︑楊尚昆)を設けた︒六五年秋︑毛沢東は︑呉晧の史劇﹃海瑞の免官﹄を批判せよと指示し

たが︑党も文化革命小組も動かなかった︒当時の北京市党委員会は毛沢東にとって﹁水をさしてもはね返し︑針をさ

しても通らない﹂状態であった︒毛沢東は妻の江青に﹃海瑞の免官﹄を批判する論文の執筆者を組織するように命じ

た︒だが北京ではどうすることもできず︑上海で江青と挑文元(文芸評論家︑上海市党委員会機関紙﹃解放日報﹄編集長)

が論文の作成にあたった︒毛沢東は最終稿に三度も目を通し︑定稿にしたという︒しかしこの論文は北京で発表する

ことができず︑六五年一一月一〇日︑上海市党委員会書記張春橋の協力をえて︑上海の新聞﹃文涯報﹄に掲載された︒

後に毛沢東自身が述べているように︑挑文元の論文﹁新編の史劇﹃海瑞の免官﹄を論ず﹂は︑文化大革命の開始を告

(23)げる合図となったのである︒

4

文 化 大 革 命 毛 沢 東 思 想 の 敗 北

文化大革命とは何であったのだろうか︒﹁動乱の一〇年﹂のあの政治ドラマは︑いかなる意義︑いかなる本質をも

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中 国 の文 化 大 革命 と今 日の社 会 主 義 的現 代 化 建 設路 線 s7

っていたのだろうか︒今年一九八六年は︑文革開始二〇周年︑文革終了一〇周年にあたる︒われわれとしても一定の

総括をしておく必要がある︒まず当事者としての中国共産党の総括を紹介しておきたい︒

中国共産党による文化大革命の総括は︑一九八一年六月二七日‑二九日の第一一期第六回中央委員会総会で行われ

た︒毛沢東が死に︑文化大革命が終了してから約五年の歳月が経過していた︒総括文書は﹁建国以来の党の若干の歴

(24)史的問題についての決議﹂と銘うたれ︑全八章からなっており︑そのうちの第五章が﹁文化大革命﹂にあてられている︒

それによれば︑文革の開始時期は一九六六年五月︑終了時期は七六年一〇月とされている︒六六年五月四日ー二六日

には︑北京で党政治局拡大会議が開かれ︑毛沢東の主宰のもとで起草された文化大革命についての綱領的文書﹁五・一

六通知﹂が採択されている︒この文書や拡大会議における林彪の演説は︑呉晧(北京市副市長)︑彰真(北京市長)︑羅

瑞卿(総参謀長︑国防部副部長)︑陸定一(党宣伝部長)︑楊尚昆(党弁公庁主任)を名指しで反毛沢東・反党・反社会主義

分子として批判しており︑同じ時期に江青︑眺文元︑関鋒らも﹃解放軍報﹄や﹃光明日報﹄に彰真と北京市党委員会

を攻撃する文章を発表している︒組織的にも︑この会議で︑彰真を組長とする文化革命小組を解散し︑新たに陳伯達

を組長︑江青を副組長︑張春橋︑眺文元︑関鋒︑王力︑戚本禺らを組員とする党中央文化大革命小組の設置が決定さ

れた︒したがって六六年五月に文革が開始されたとする見解は妥当である︒文革の終期は七六年一〇月とされている︒

文革を発動し推進しつづけた毛沢東の死が七六年九月九日であり︑その直後に文革派の分裂があり︑一〇月六日︑毛

沢東の側近︑江青・張春橋・眺文元・王洪文︑いわゆる﹁四人組﹂が逮捕され︑彼らは没落する︒したがって文革の

終了を七六年一〇月とする見解もまた妥当と言えよう︒

中国共産党の文革総括

﹁決議﹂は︑﹁大躍進﹂期にはじまる毛沢東の﹁左よりの誤り﹂を指摘した︒﹁左よりの誤り﹂の根底には︑社会主義

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