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「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

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﹁消費者の権利﹂から﹁生活者の権利﹂へ

一商法・企業法・経済法のサイドからの連関の法構成を求めて

池 島 宏 幸

 目次

一 はしがき

二 はじめに

三 生活者の権利︵生活者権︶の史的背景

四 生活者権の確立の現代的意義

 ︵一︶ 消費者法から生活者法へ

 ︵二︶ 生活老権概念の時系列的検討

 ︵三︶生活者の﹁生活﹂のレベルの展開

五 生活サイクルと生活者の権利

六 包括的法概念としての生活者の権利

七 連帯の基礎をなす生活者の権利

八 まとめ一現代生活とは?

早稲田社会科学研究 第35号(S62.10)

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一 はしがき

 本稿は︑本一九八七年︵昭六二︶五月九日︵土︶〜一〇日︵日︶に早稲田大学で開催された日本法社会学会におい

て︑同学会での三年間にわたるシンポジウム﹁権利の形成と展開﹂の三年目の総括のシンポジウムで︑とくに﹁新し

い権利の形成と展開﹂について︑同学会企画委員会として︑企画委員の一人である池島が商法・企業法・経済法の側

面から担当・報告した部分﹁生活者の権利i商法・企業法・経済法のサイドから一﹂︵同学会機関誌﹁法社会学﹂四

〇号所掲は︑その要旨で二〇〇字詰原稿用紙二〇枚程度に圧縮してある︶について︑その要旨を︑補足し︑説明等不充分な

点を追加したものである︒現代商法・企業法・経済法における法主体について︑憲法で保障する﹁人権﹂問題との関

わりを視野において︑補足的にまとめてある︒充分な検討は後日を期したい︒

二 はじめに

 企業・商事・経済生活者に限定して述べる︒とくに現代企業・商事の経済生活者の側面を中心にすえて︑現代の

﹁権利の多様化﹂の下での︑現代的﹁生活者の権利﹂︵以下︑﹁生活者権﹂︵国骨窪Oh着く曾︶︶の必要性の再確認の意

義について︑若干の提言をする︒ ︵前回の第二回シンポジウム︵八六年五月一一日於龍谷大学︶でのフロアーからの

発言︵同学会機関誌﹁法社会学﹂三九号四五頁以下︶についての追加・補足にもなるものである︒︶

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「消費老の権利」から「生活者の権利」へ

 一般的に︑生活者には︑人権・生存権としての生活者権があり︑それは︑文化生活権︑文化を享受しうる権利−

文化権︑ひいては現代生存権である︒

 かつて︑消費者の概念は経済的な概念とする一般的見解に対して︑消費者を単純に経済的な概念と割り切らず︑広

く一般に﹁生活者﹂に重点をおいて理解する見解が提案されている︒

 この見解によると︑私達は︑消費するために生活しているわけではないとする前提から︑消費者の概念は︑波打ち

際︵供給者と消費者の取引︶から︑その内陸部︵生活そのもの︶へと拡大して︑把握すると︑ ﹁生活の全般﹂が︑消

費者政策と関連し︑広く経済政策︑さらには︑文教政策︑福祉政策︑交通政策等が︑消費者政策としての意味をもも

ち︑これが消費者政策のカテゴリーの前提とされる見解︵金沢良雄・経済法︹新版︺三九八頁以下︶である︒ これらの見

解を現時点で︑再点検して見たいと思う︒

 近時の国会では︑ ﹁生活情報環境整備法﹂ ︵レジャー法︶1二億円支出? とか︑ ﹁総合保養地域整備法﹂ ︵リ

ゾート法−国土︑農水︑通産︑運輸︑建設︑自治の六省庁︑税制優遇で基本方針をまとめた一日経八七・九・一五︶

が︑成立し︑体制的にも︑現代的生活者権の登場を予定しつつある︒ただこれが国民サイドのものとなりうるか問題

であろうが⁝⁝︒

 現代社会が︑ ﹁情報化社会﹂から﹁高度情報社会﹂へ︵中曽根内閣﹁経済計画﹂昭和六〇年代展望と指針︶との下では︑

ME革命一産業の情報化︵産業・企業内部のコンピューター化︶に始まり︑これと情報の産業化︵情報関連産業の

出現︶が︑さらに家庭内への﹁生活﹂の情報化︵OAからHAへ︶︑キャッシュカード化による社会の情報化︵社会

全体の情報依存度が高まる︶へとの予測がなされる今日においては︑現代的に︑生活者権の再検討は︑必須である︒

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 近時︑日本学術会議では︑一九八六年︵昭六一︶一〇月二二日から二四日の第一〇一回総会︵第=二期の四回目の

総会︶の第二日目午後﹁自由討議﹂で﹁高度情報社会の展望と課題﹂として︑﹁これまでの﹃人﹄と﹃物﹄の社会に︑

これらと独立して﹃情報﹄が生まれた︒情報の処理︑通信︵電送︶︑記憶の超高速︑巨大化と認識・識別の高度の発

展により︑労働形態・教育・医療も含めて社会を大きく変化させるζとが予想される一面︑人権︑人間疎外を始めと

する影の部分にも十分に配慮する必要量﹂が強調された︵日本学術会議だより三号︶︒

 しかし︑このような状況をつくりだす法主体の一方が常に企業とくに巨大企業・巨大独占体である点であること

は︑とくにこう手傍観しえない問題が登場しつつある︒

 例えば︑NTTの民営巨大化︑労働の集中・集約としての情報資本主義の下︑生活者のアクセス権から情報独占の

禁止権へ︑国民・生活者サイドでの︑そのコント4ールが必須となっている︒

 昨今の民営化ブーム︑商品・サービス・情報の多様化と相対的に︑権利の多様化に眩惑されて︑本来の生活者の権

利は︑実質的に弱められ︑後退してきてはいないだろうか︒       ヘ   へ 現代において︑法人・株式会社の権利n資本サイドの権利というものによって︑人権・生存権が蚕食ないし浸食さ

れている事実を目の当たりにして︑株式会社の基本的人権は原則として否定さるべきであろう︒本来︑自然人の人権

の神聖性と並列的に比較すべきではない︵人権の主体は︑歴史的に自然人を意味し︑大企業である株式会社の権利主

体性の根拠は︑自然人と違って憲法でなく法律−商五四条一項︑民三三条等によっている︶点︑後順位的評価であ

るべきであるし︑企業の社会的存在は︑人間の生活手段としての存在意義が認められるのみであろう︒︵下山瑛二﹁企

業の自由と国民の権利﹂法と民主主義八八号三頁以下︶︒

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「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

 消費のための消費であってはならない︒消費は︑本来︑生活のための消費であり︑生活を考えない消費は︑本来の

消費ではないはずである︒

 企業のための︑あるいは企業のイニシアチブによる﹁造られた消費﹂ではないか︒本来︑生活型の生活のための消

費でなくては︑ならない︒

 では生活とは何か︑生活者とはなにか︒

 単なる経済過程の消費ではない筈であった︒現在の消費者の保護行政は︑生活者権を前提としていないために︑企

業のための消費であり︑あったのではないか︒入間のゆとりある生活者権を回復すべぎであろうし︑従来からの﹁賢

い消費者から︑ゆとりのある生活老︵平和なユトリスト︶へ﹂との提案がされながら︑従来の消費者・生活者と事業

者・企業と行政・国家の三者・三つの側面において︑特に企業にはメーカー︑ディーラー︑金融企業等が︑それぞれ

経済過程を分担・担当し︑あるいは支配・統括している現状を注視し︑法構成を試みる必要がある︒従来から︑消費

者被害の﹁類型化﹂が試みられているが︑生活者の視点から︑テスト訴訟的・小額事例︵北川善太郎﹃消費者法のシス

テム﹄一〇六頁︶から︑悪徳商法の現代的事例への検討が必要でもあろう︒

 では︑生活老の具体的な現代的カテゴリーは? 生活者の具体的な現代的カテゴリーの内容は何か? これが問題

となる︒ 現代の企業社会における企業レベルでの生活者とは︑カテゴリーとしては労働老そのもの︵いずれは企業年金受給

者となる者︶であり︑家庭・家族レベルでの生活者では︑まず経済・消費生活者︑公共機関利用生活者でもあり︑小

額投資生活型︑最近流行の財テク生活老等々の多様な側面があり︑それぞれの生活主体に提供される企業からの客体

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は︑様々な商品・サービス・証券さらには︑情報等々によって︑別々の客体それぞれに﹁供給のチャンネル.システ

ム﹂が︑企業主導的に構築されている︵供給独占−独占資本の支配・統括︶のが︑現代である︒

 生活者は︑これらを現代的生活の多様化として︑ある場合には︑経済文化の高度化としての﹁権利の多様化﹂と受

け止めさせられ︑受け止めることを甘受しなければならないこととなっている︒

 経済過程に限定してこれを見ても︑通ないし四に分けて︑①生産過程・②流通過程.③分配過程と④その末端の消

費点とでは︑それぞれ担当する生産企業︵いわゆるメーカー︶︑流通・サービス企業︵いわゆるディーラー︶とそれ

ら全経済過程を支配・統括する金融・証券・情報企業が企業活動していて︑現代生活者は︑それぞれの企業に労働者

︵従業員︶としても︑所属し︑労働老であった生活者は︑ゆくゆくは企業年金生活者ともなってゆく︒

 その過程には︑現代生活者は︑地域的生活者として︑かつ生涯的・時間的には︑時系列的生活者となって立ち現れ

る︒ 現代経済法学では︑これらの各側面での具体的関係当事者を抽象的当事者として一般的に抽象化している︒例え

ば︑ ﹁一般消費者﹂ ︵独占禁止法一条︑ジュース訴訟の判例等︶として︑せいぜい独禁法上の消費者保護どまりで︑

﹁生身の生活者﹂としては︑いまだ捉えられていないようである︒

 とくに例えば︑従来の多種多様な消費者概念では︑現代的資本・企業攻勢・独占大企業権力の攻撃には︑消極的な

極めて弱い保護の対象としてしか︑理論構成しえないという限界があるように思われる︵池島宏幸﹁企業社会の中小企

業﹃イジメ﹄の構造﹂早大憲法懇話会ニューズ四〇号︑同﹁平和憲法の下での﹃イジメの構造﹄の国際化?﹂早大憲法懇話会﹃憲

法と私たち﹄九頁︶︒

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「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

 また例えば︑家族としての生活者は︑家族の在り方が︑国家との距離︵生活者と国家の関係は後述する︶において︑

極めて影響されやすいという︑そういう意味で︑現代は︑企業が従来の﹁家﹂制度にとってかわって︑生活老を統括

している企業社会ともいえる︒

 少なくとも︑現代企業・商事生活における生活者の概念には︑一般に言われる﹁権利の多様化・複雑化﹂に眩惑さ

れず︑基本権的な側面を中心に︑法的構成がなされることが必須である︒

 それが文化的平和的な生活者権の確立へ繋がると思われるからである︒

 生活者と国家との関係において︑附言すれば︑生活者は︑通例︑①時系列的に︑②地域的に︑家族・家庭としての

生活者である︒

 家族としての生活者であると同時に︑消費者・利用者としての生活者︑地域住民としての生活老︑高齢者としての

生活者でもある︒

 それは︑家族と国家との関係︵利谷信義﹃家族と国家﹄はしがき︶のように︑その距離は以外に近い︒いや近すぎて︑

余りにも日本の生活者は国家の都合によって左右されすぎていないか︒

 もっと生活者自体の都合を主張し︑それを国家の法や政策に反映させた方がよい︒そうしないと我々自身の生活が

行ぎづまるし︑何のために国家があるのかわからなくなるということに帰する︵柔順.非自律性︶︒

 国家は︑生活者のためにある︒個性・人間性ある生活者・人間を作るために存在する︒消費生活のための生活者で

はなく︑人間性充足の生活における生活者でありたい︒

 ﹁豊かな社会﹂の国際化︑高齢化︑さらには社会の成熟化により︑日本は歴史的転換期にさしかかっている今日︑

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(8)

﹁新しい貧困﹂︑﹁生活の社会化﹂への状況の進展︑生活者権の内容となる法意識も︑大きく転換を迫られつつある︒

 イタリアに例をあげると︑イタリアの一人当たりの国民所得は︑日本の三分の二であるそうだが︑イタリア人は︑

日本人と比較して︑年間二か月分くらい労働時間が短く︑労働時間当たりのGNPはイタリアの方が大きいかもしれ

ない︵岡本義行﹁現代イタリア生活考︵上︶﹂書斎の窓三六〇号一六頁︶︒

 日本人は︑その生活意識や生活スタイルを変える必要があるのではなかろうか︒

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生活者の権利︵生活者権︶の史的背景−契約自由と対法人権.対企業権としての

生活三権i安全権︑情報・表示権︑選択権︑意思表明・参加聖堂について

 戦後︑消費者法の形成・展開が初めて始まった︒これを現代生活適法へと繋げていけないであろうか︒

 消費者主権の実現︑経済憲法である独占禁止法の下︑ ﹁消費者保護行政﹂が︑ケネディ教書︵六二年三月一五日︶

の﹁消費者の四つの権利﹂︑①安全を求める権利︵安全性︶︑②知らされる権利︵情報・表示︶︑③選ぶ権利︵公正競

争市場性︶︑④意思を反映させる権利︵意見表明・参加︶等を︑いかに保障して︑その体系化を図るものとして︑国

際化時代として︑企業の世界への進出の時代にさしかかる一九六八年︵昭四三・五︶消費者保護基本法が成立する︒

 これを起点として︑具体的には︑一九七五年目昭五〇︶一一月の第八回消費者保護会議で︑消費者行政推進の基本

的方向を﹁消費生活の省資源・省エネルギー・新時代への対応︑とくに﹁行政︑消費者︑事業者の三位一体的相互信

頼関係が強調され︑その確保とそれに立脚した円滑な合意形成﹂へと方向づけされつつある︒

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「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

 それは︑消費者概念の定着化と同時並行して︑消費者権がその体制内的従属性を顕在化しつつある︒ ︵産業経済へ

の﹁従属的概念﹂となりつつありはしないか?︶︒

 例えば︑消費生活コンサルタント・アドバイザー・ヒーブが︑消費者と企業とのパイプ役として︑パイプとして恒

常化し定着していく︑したがって︑ ﹁いま一歩踏み込めない﹂ことがマスコミなどに報道されている︵朝日新聞八七.

四・一六︑﹁生活﹂研究一日経新聞八七・四・一五夕︶︒

 その反面で︑コーポラティブな権利の多様化一戦後アメリカ法から継受された権利である少数株主権︑累積投票

権︑差止め請求権︑代表訴訟権道も衰退しつつある︒それに対して近時展開しつつある株式買取請求権は︑今後あら

ゆる形で展開しそうな権利である︒

 また︑従業員持株会参加権一自社株購入に従来は限定してきたのを︑八一年︵昭五六︶商法大改正後︑上場株式

であれば関連会社株式も取得でき︵拡大持株会が定着して︶︑その後︑持株会のグループ化へと︑その議決権のグル

ープ的コントロール化へ向かっている︵池島宏幸﹃大企業支配体制の法構造﹄二四四頁︶︒

 その延長線上に︑企業年金権︑共済子等の多様な権利が登場して︑いわゆる﹁権利? の多様化﹂のメニューが百

花練乱にあり︑生活老は眩惑されているわけである︒

四 生活三権の確立の現代的意義

       63人類は︑近代市民法において人間である﹁自然人﹂に対して﹁法人﹂を法的に創設し︑この人間の産み出した﹁法

(10)

人﹂を有用に活用しているうちに︑ 一九世紀末には﹁法人﹂企業はむしろ反対物的な存在となってきていた︒現代

は︑とくにそれらの法的存在のうち︑とくに独占的﹁大企業﹂法人によって﹁自然人﹂である我々人間は被従属的に

﹁生活﹂してきているが︑あるいはこれらなしでは生活をいとなみえない﹁高度資本主義経済﹂︑﹁国独客﹂︑﹁企業社

会﹂などといわれるような状況のなかに︑包括的かつ従属的に生活している︒むしろ︑これらによって︑管理・支配

されている︒

 これらに積極的に管理・支配されない権利としての﹁生活者権﹂が確立される必要があろう︒あたかも﹁現代の自

然権的抵抗権の現代版としての生活聖書﹂が積極的に提唱されてはどうであろうか︒

 このように現代は︑本来とは逆転していて︑独占的大企業法人によって我々の生活が管理・規制されてきている︑

あるいはそれなしには生活を営みえないような高度資本主義の下にある︒それを本来の姿である生活者が管理.支配

する形態に少しでも近づける権利の法構成を必要とする︒

 この生活者権は︑つぎのような内容をもつ四点からなる複合的な権利である︒

 ①対法人権−法人企業︵とくに独占的大企業等︶に対抗・請求権一生活.生存防衛権1として︑

 ②ME技術革新による情報化・国際化での社会の多様化に対抗・対応しうる権利一対管理.対支配権︑対権力

  的権利として︑

 それは︑現代の商品・サービス・情報の多様化で︑むしろ﹁多様性の反逆﹂︵今井賢一﹃情報ネットワーク社会﹄八○頁︶

といわれるように︑同時に生活者の商品等の﹁選択の意思を衰弱﹂︵今井・前掲書八二頁︶させるどころか︑やがてはそ

の選択権そのものを喪失さぜる状況を醸成する︒

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「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

 したがって︑生活者は︑あたかもファッション性の豊かな多様な商品・情報等に眩惑されつつ︑自動的にコンベア

ベルトに乗せられたように︑大企業の管理・支配の対象に︑もともと消費者は消極的にその流れに身を任すどころ

か︑むしろそれらに対して消極的になること︵無関心雨無批判的︶に︑皮肉にも逆に積極的になっていきつつある状

況であるからである︒

 ③連帯的・コーポラティブな権利として考えてみたい︒

 ④基本的には︑アトム的な個人権︵自然権︶︑単独独立権として︑法構成すべきであろう︒

 ある単位にならないと認められないような権利ではない︒一︒h.商法上の単位株としてではなく︒

 商事生活の場においてこそ︑企業に対して︵対企業︶の従属的なる﹁消費者・利用者﹂という消極的な法概念の手

.段的性質︵手段性的概念︶を止揚して︑労働者たる・そして生活者たる消費者・利用者の内実が必要である︒

國実在的構成によって︑現代法人企業の資本集中性︑継続性︑資本的必然的に恒久性などに︑対抗しうる﹁人間の主

体性﹂を︑ ﹁生活者権﹂によって︑生活者に取り戻すべく︑ ﹁人間の尊厳﹂に基づき︑その法構成が急務である︒

(一

j 消費者法から生活者法へ

 戦後四〇年︑定着してきた﹁消費老法﹂は︑そのシステムは開かれた体系︵北川善太郎﹃消費者法のシステム﹄三頁以

下︶として︑複合法域として︑展開されつつある︒

 しかし︑国民生活優先が︑国民生活白書では提唱されながら︑消費老行政・生活者行政では伝統的警察行政の域を

出ていないといわれる︵北川・前掲書︶︒

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 消費者保護が経済の発展との調和で具体化されている現実に︑目に見えない事業・企業との﹁調和条項﹂が︑山積

して︑それが一定の規範的機能を果たそうとしている︒

 やはり︑企業優先から︑人間中心へと︑戦後の消費者保護の軌跡を再点検すべきであろう︒

 消費者法の形成の初期においては︑労働者としての消費者の概念が︑消費者保護立法の形成・展開に︑一定の役割

を果たし︑多様な消費老保護特別法が誕生してきている︒しかし問題が拡散しむしろ不透明性が増大している︒

 したがって︑この消費者概念の不透明性を少しでも透明化する必要があろう︒

 長寿社会を前提として︑労働者であった年金生活者を含めて︑ ﹁労働者としての消費者﹂︵正田彬﹃消費者の権利﹄︶

から︑ ﹁人間としての生活者﹂の法的概念が確立されねばならない︒

 生活者法の法概念は︑開かれた体系であることは︑確かであり︑複合法領域でもあるだけでなく︑強いて述べれ

ば︑生身の人間法︵人権法︶そのものの法体系とならざるをえまい︒

︵二︶生活者権概念の時系列的検討

 −商法・企業法・経済法のサイドからの連関の法構成を求めて一

消費者から生活者へという方向で︑人権・生存権問題との連関を探る︒

まず時系列的検討として︑歴史的背景との関わりを探ってみる︒

七〇年代ケインズ主義の成長と破綻−新自由主義の復活による競争︵自由化︶へと向かう︒

七〇年代までは︑競争を調整するケインズ主義i予想もしなかった経済成長で競争基盤の拡大により︑七〇年代

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に行き詰まる一二〇世紀半ばの大企業体制の調整︵雇用調整︶だった︒

 八○年代には︑新自由主義による競争︵自由化︶一規制緩和︑調整を外す一国有化・公有化から民営化・民活

化一民間企業の活力−社会的費用としての軍需中心? となる︒

 例えば︑七九年サッチャー︑八一年レーガン︑八二年中曽根の政策にこれが顕著である︒

 軍拡経済による税制改革−一〇年前からの公共投資による財政破綻と成長率鈍化で大型付加価値税.間接税への

導入の方向が暗示されている︒

 しかし︑ ﹁売上税法案﹂の廃案︵池島宏幸﹁﹃売上税制﹄は大学人にも無関係ではない!﹂早大生協ニュース教職員版れいん

ぼう四〇号︶ともあいまって︑今後の国家・税財政政策の動向性には︑国民生活・国民階層間の不公平感が発生させ

るトレンドの下で︑生活者の権利の法構成を︑いかになすべきか︒大きな課題となるであろう︒

「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

      ︵三︶ 生活者の﹁生活﹂のレベルの展開

以下に︑戦後を年表式に検討すべき節づけをしておく︒

ω 敗戦直後

一九五〇年︵昭二五︶生活保護法レベルー生活困窮の程度に応じ︑

② 昭和三〇年代

一九五九年︵昭三四︶国民年金法−国民生活の安定・維持・向上

㈲ 昭和四〇年代 最低限度の生活の保護・自立・助長

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 一九六八年︵昭四三︶消費者保護基本法レベルー国民の消費生活の安定・向上・確保

 ω 昭和五〇年代

 一九七七年︵昭五二︶独占禁止法の強化改正・赤字国債・資本救済立法

 オイル.ショック時の一九七三年目昭和四八︶国民生活安定緊急措置法−国民生活の安定と国民経済の円滑な運

営の阻害防止

 生活関連物資等の供給不足

 一九七八年︵昭五三︶無限連鎖講の防止に関する法律

 一九八四年︵昭五九︶割賦販売法改正︵クーリング・オフー無条件解約権一一週間の生活サイクルを前提︶︑

訪問販売法改正

 ㈲ 昭和六〇年代

 一九八五年︵昭六〇︶以降︑前述の﹁情報化社会﹂から﹁高度情報社会﹂へと︑ ﹁生活の情報化・国際化﹂へと向

かう︒ このような時代の変遷によって︑生活者の﹁生活﹂のレベルのそれぞれの検討が︑必要であろうことを指摘し℃お

くにとどめる︒

五 生活サイクルと生活者の権利ークーリング・オフ権等

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 無条件解約権は︑割賦販売法改正で三日から七日に延長された︵池島宏幸﹁割賦販売法﹂今村他編﹃注解経済法﹄︹下巻︺

九二四頁︶︒それは一週間の中には︑日曜休日が必ず入るし︑ふっと生活者は我に帰るとの理由もあったといわれる︒

 従って︑生活意識や生活のあり方とそれにもとつく生活者権というものも変化していく現在︑特に労働時間当たり

のGNP等の点検が必要であろう︒

 社会の多様化に対応しうる権利として︑ライフ・スタイル選択権︑生活様式のDB権︑生活システムを考える状況

選択権がでてきている︒

 対法人権︑対支配権︑対権力権として︑その本質的担い手は︑労働者であり︑労働者であった人間であり︑国民概

念とは違う﹁生活者﹂であると言えるかもしれない︒

「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

六 包括的法概念としての生活者の権利

 ﹁生活﹂のための消費から︑生活者自身による消費へ︑その主体的役割へとの転換を考えている︒

﹁①対法人︑即ち企業︑国家︑地方公共団体等に対して請求しうる権利︒

②社会の多様化に対応しうる権利︒

③連帯権︒

④基本はアトム的個人権であり︵自然権︶︑単独権であるとともに︑連帯しうる権利である︒﹂等の現代的な特質を有

する︵この点︑後述する︶︒

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 消費者・利用者権の補強のための︑現代包括的権利としての生活老権として︑それを具体化すべきであろう︒

 現代の貨幣価値の実体は︑ ﹁労働﹂とともに︑さらにそれに加えて﹁情報﹂へとなりつつある︵情報資本主義︶︒消

費面のみでなく生産・流通・分配等までも包摂する概念が必要である︒人権・生存権を対企業権として具体化の必要

がある︒

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七 連帯の基礎をなす生活者の権利

 消費者センター・消費者生活・消費生活という用語は︑経済流通過程との対応のみに閉じ籠もった﹁閉ざされた概

念﹂として︑一人歩きしている今日︑﹁開かれた概念﹂が︑法・経済・政治・国家との連関を包括する新概念として

法構成さるべぎであろう︒

 ≦Φ=⇒Φωωウエルネスーσ①一︒⇒ρ≦Φニーげ①のように肉体的健康のみでなく︑精神的︑情緒的︑社会的に全て満た

される健康状態が二一世紀には希求さるべきである︒

 ﹁生活者﹂の連帯の輪の必要に︑先を見出す︒しかし連帯によって︑権利が薄められたら︑またそれに対応して︑

検討して行く必要がある︒広義においての﹁権利のための恒常的な闘争﹂の必要が語られるべきであろう︒

八 まとめi現代生活とは?

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「消費者の権利」から「生活者の権利」へ

。 で    は     、最後に︑現代生活とはどういうものかということになるが︑概括的な今後への流れを簡単にまとめておきた

 現代の生活の基盤となる必要な部分︑それは窮乏生活を支えるというものではなくなっており︑生活内容の多様性

とか︑豊かさという質的な高さが要求される︒

 質量ともに生活の内容の豊かという訳であり︑情報化・コピー文化時代といわれる今日での︑質的な成熟.内容あ

る生活・創造的な生活をさすものであると思われる︒

 単に消費生活の側面だけではなく︑生活を豊かにして創造してゆく︒例えば︑大学生活︑家庭生活︑文化生活等︒

物質的だけでなく︑精神的内容の豊かさへと⁝⁝︒

 社会生活における﹁生活者﹂の﹁オー︒フン・ライフ﹂とか﹁コーポラティブ.ライフ﹂という協同の心を育むこと

によって︑時系列的な協同︑生涯を通じての連帯性の意識のある生活︑生活老権︑生活感情の基礎づくりというよう

なことになってゆくと思われる︒

 日常的な連帯感ある生活の場の提供︑確保のために︑消費生活とか︑社会生活を活性化させる必要がある︒

 これは︑ローカルな連帯像につながり︑単なる消費者と異なる生活者の概念というふうに考︑兄ている︒

 とくにこの場合に︑単純な立法によって生活老婦を確立する︑あるいは従来の流れを変革するということだけでは

なくて︑今後の消費者教育と同じように︑生活者教育は行われなければならないと考えている︵例えば︑日経新聞社説

﹁生活者教育に転換しよう﹂八七・五・三一等︶︒

 現代生活者権の法・法意識についての確立と変革には︑最終的には立法が必要であり︑ ﹁権利の上に眠るような怠

71

(18)

け者のために法を作る訳にはゆかないしというボーリイとダイヤモンド︵ボーリー・ダイヤモンド﹃消費者保護﹄新井.

池上訳はじめに皿︶の言葉を借りるまでもなく︑然りであろう︒どんな法律を作っても︑それが一夜にして我々生活者

を物知りで︑用心深く︑識別力をも持つ︑買い物客に︑変えることは不可能であろう︒

 法改革には︑常に︑生活者教育を伴わねばならないことは︑消費者教育と同様である︒

 例えば︑イギリスでも消費生活者教育がその法改革に恒常的に平行しており︵ボーイスカウトの消費生活者教育

等︶︑過去の伝統的な価値が︑現行法体制を︑二〇世紀の比較的人口の多い島国の産業社会の新しいニーズに徐々に︑

多様な形で順応させている現状に注視すべきであろう︒

72

 以上︑ ﹁現代の権利の形成・展開﹈に関して︑企業あるいは経済︑

まりにくい問題ではあるが︑提言した次第である︒ 企業法あるいは経済法の側面に傾斜して︑まと

参照

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