九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
河内重雄著『日本近・現代文学における知的障害者
表象 : 私たちは人間をいかに語り得るか』
長野, 秀樹
長崎純心大学人文学部 : 教授
Nagano, Hideki
Faculty of Humanities, Nagasaki Junshin Catholic University : Professor
https://doi.org/10.15017/27419
出版情報:九大日文. 20, pp.98-101, 2012-10-01. 九州大学日本語文学会
バージョン:
◎書評
河内重雄著
『日本近・現
代文学に
おけ
る
知的障害者表象
―
私たちは人間をいかに語
り得
るか
―
』
長
野
秀
樹
NAG AN O H i d e k i 河内重雄著『日本近 ・ 現代文学における知的 障害者表象―
私た ち は 人間を い か に 語り得 る か―
』 (九州大 学出版会 、 平 二四・三月) は 、 氏によ っ て 九 州大 学に 提 出 された同題の 博士論 文に 加 筆 訂正 さ れ て 出 版 さ れ た もの で あ る。 まず は そ の 目 次 を 紹 介 する (各 章 の 副題 は省略 す る )。 序章 第 一 章 國 木 田 独 歩 「 春 の 鳥 」 論 第 二 章 芥 川 龍 之 介 「 偸 盗 」 論 第 三 章 石 井 充 「 白 痴 」 論 第 四 章 山 下 清 の 語 ら れ 方 第 五 章 大 江 健 三 郎 『 静 か な 生 活 』 論 第 六 章 青 来 有 一 「 石 」 論 終章 知的障 害 に 関 す る 記述を含む 作 品 ・ 事 項 一 覧 四 二 〇 ペ ー ジ に及 ぶ本 書の中で「 作品・事項 一 覧」は 上 下二 段組みで 二〇 〇ペー ジ を 超 え 、その 緻密 な作 業に 驚 か さ れ るが 、 そのことに は 、後程 、 触 れ るこ とにして、 ま ずは取り 上 げ られ た作 品を見て み よ う。 明治 三 七 年初出の 「 春 の鳥」から 、 平成十七 年初出 の 「石」 まで 、取 り上げ ら れた作品の 時 代は 幅広い が 、 「知的 障害者」 像の 変遷 を追 い な が ら 、 河 内氏の視 点 は 一貫してい る こ と が、 まず 本著の特徴 で あろう。そ れ は 副 題に も よ く 表 れている が、 河内 氏は 「 序 章 」 で 「 どの よ う な学問領 域に お い て も 、「 白痴 」 につい て 語ること は、 間 接 的 に 人 間 につい て 語 る こと であ る 」 と述べ、 さらに文学と の関わりにお いて 、次のよ うに述べ て い る。 例え ば哲学 で は、 はる か 昔 か ら 人間と は 何 ぞ やと 問わ れ 続 け て き た が、 「白 痴 」 を持 っ て く る こ と で人 間と は何 ぞ や と 問 う の は、文学的な問いであ る と 言 っ て も 、過言ではな いのでは あるま い か 。も ち ろんこうした 視点 が成立 す る 基 盤に は、河内氏 も 指摘する よう に 、 近 代 的 「 人 間 観 に おい て は 意志 が中心的な 要 素 で あり」 「理性 、 特 に 意志 あっての 人 間 で あ り 、 意志が あ るこ とは 、 人 間で あ る ことの 必 須 条 件 と され」 る よ う な、 人 間 観があ る 。そ し て 、こう し た 人 間 観 の反 対 側 に「白 痴 者 」 を「理性 や 意 志を 持たぬ」 者として見 る 「白痴 」 観 が 、 「 人間 観 」 と 「 二項対立 ( 人間/「白痴者」 ) 」する形で成立 し て い る の である。 河 内 氏 は 「 春 の鳥」 の 語り手 で も あ り、 主 人 公 で も あ る 「 私」 が六 蔵を見 る 視 点 にもこうし た 視点が 潜 んでい る ことを、明 ら か に して いる。 特 に 「 私 」 が「 数学」と 「英語 」 の 教 師で ある という設定 の 重 要 性の指 摘は、大 きな意味 を持って いる。数学 とい う科学の基 礎となる学問と 英 語 と いう 言 語 の 翻 訳に係わ る 学 問 の専門 家 とし ての「私 」が六 蔵 を 当 時 の 「科学的 」な「 人 間観 」 の 範 囲 で 理 解 す る 一 方 、 六蔵 の意 志 を 「 私 」た ち の 共通 の言語へと「翻訳」すること が 「 私 」に はで き な い 。 それは、 結局 、 「 意 志 があっての人間なのであれば、 そ の 意 思 を翻 訳 し 得 な いと いうこ と は、 六蔵は 人 間 で は な いと いうこ と を意 味す る 」 という こ とになろう。 もちろん 、これ は 「春 の鳥」とい う 作品 が、 語り手と主 人 公が 連 続 す る 、 一 人 称 回想 形 式 をとって おり 、 作 品 世 界を 「私 」 が、語り 手と主人公とい う 、二 重 の 「権力者」 と して、 律 し て いると い うこ とと も関係して く る 問 題で も あ る 。 一 般 的に言え ば 、 翻訳不 可 能性の責任 を だれ に求 め る か は 、 原話者 (六蔵 ) の問題であると同時 に 翻 訳 者 (私 ) の問題 で も あ るか らであ る 。 さ らに 言 え ば、 それは 語 り手の 視 点と重 な り合 って しま う 読 者の 視 点 の 問 題 で もあ る。 六蔵 の 言 葉 を 翻 訳 で き ないま ま に 満 足 し てしま う 語 り 手・主 人 公の 「私 」と は、 そ の まま 読者であ る 「 私 た ち」 の謂 いで あ る 。 第二章の 「偸盗」 論では、阿漕 が 母 に な るこ との 意味が中 心的に論じられてい る 。 「 白痴者」 に近い「阿呆」で ある阿漕 に「無垢 なる母」 を見る論と大正期の「社 会 ダーウィ ニ ズ ム 」 の文脈の 中で 、倫 理観念を持 ち えず、 犯 罪 に 走りや す いとさ れ る「 白痴 者」像 と の 対 比か ら、 論は展開 さ れ るが 、 「 母 に なれ る 」 喜 び を前面に示す 阿漕の内面 を 直 接 に 語 っている 点に お い て「 偸 盗 」 は 「 春 の鳥 」 の 語り手 の 「一 歩先 に 進 んでい 」 て、 「 「 白痴 者 」 は 人 間 だ と い うメ ッセー ジ が 読 み と れると 考 える」 と河 内氏は結 論付けてい る 。 た しかに、 内面 と い う、いわ ば理 性や知性に係わる面は 確かに語られ て い る 。 そうした 点 に おい て、 「 人 間 」 に「 近い 」 と 言 え な く も な い だ ろ う 。 し か し 、 人 間とは 何 かと いう問いに 対 す る 答えとしては 、 「 偸 盗 」の「阿 漕」 の姿は大 き な 枠組 み の 変化 を示 しえ て は い な い。強 調 され るの は 無 垢 な る 「 母 性 」 だ か ら で あ る 。 さ ら に 、 意思 疎 通 の レ ベル が 六 蔵 と 阿漕 と で は 異 な っ て い る。 障 害 の 「 程 度 」 と い う 問題に つ いては 、 河内 氏も著 書 の 後 半 部 で触れて いるが、 こ こ でも慎重な 判 断が求められる ので はない だ ろうか 。 第 三 章石井充「白痴 」 論 で は、 主人公「謙介 」が医学 部 の 学生 時代に 脳 病 に 侵さ れ、 帰 省 を余儀 な くさ れたの ち 、「 百姓」
と し て生 き る 姿 と 昭 和 初 期 の日 本 の 思 想 、 社 会 体 制 に も 大 きな 影響 を 持 った 農 本 思 想 が 比 較、 論じ ら れ て い る 。 農業と 「 白痴 者」 との 関連 は河 内 氏 も 指 摘 す るよ うに 、 ド ス ト エ フ ス キ ー の 「白 痴」のムイ シ ュキ ン公 爵やトルス ト イの「イ ワンの馬鹿 」 におけ る イワンな どに 原型が 認 められる だ ろ うし 、宮 澤賢 治 の 「 デ クノボー」などとも相通じ る 所 謂「聖なる 愚 者」観が反映 されて も いよ う。 それが加 藤 完 治な どが 中心的 な 働き をなし た 戦前 期の 農本 主 義 と の 関 連 で 論 じ ら れて い る と こ ろ に 本 論 の 特 徴があ る 。当 時 の 特徴と し て 、 農業は さ ほ ど 知的 能 力 が 高 く な くて も 、 体 が 丈 夫 で あ れば 、 従 事で き る 職 業 だ と 考 え ら れ て い たこ とを 河内 氏は、ま ず 指 摘す る 。 そしてそ れが、 教 育 不 可能 な 存 在 と 考え られて い た 「 白 痴 者 」 で も、 「学 校教 育を 否 定 し 、 実際の 農 業体験を 重視す る 農本 主義 の 人 間 観 」 と 合致したの で はないかと考えている 。 こうし た 指摘 は 、 大変重 要 な指摘 で あ ろ うと 思わ れる 。 「 聖 な る 愚者 」としての「 白痴者 」が、勤勉な「 百 姓」と し て描か れることは、 先 の 例 か ら も 古今 東西を問 わずに 多 い。現 代 農 業 が 、 肉 体 労働か ら 知的 労働 へ と 転 換 して いること は 論 を俟 た な いが 、 農 業の 持 つ 生 産 性 と 自然 への 近 接 性は 、 未 だに 「 聖 なる 愚 者 」とし て の「知的 障害者」を 再 生 産 さ せているともい える からで あ る。 後半の 三 本の 論 文 は 、 昭和三 〇 年代以 降 の 知 的障害 者 表象 を 代 表 す る三 作 品 に つ い て の 論 で あ る 。 こ れ らの 主 人 公 た ち に は知的障害 と い う 以外に共 通な特 徴 を 持 ってい る 。そ れ は 、彼 らは知 的 障害を 持 つと同時に 、 大きな才 能 を 持って い ると い う ことで あ る 。 山下清は む し ろ 、 知的障害 と い う側 面より も 、 時 と し て 「 天 才画家」 という側面が強 調 される 。 また、 「 イーヨ ー 」の物語 は『 静 か な 生 活 』 (平二 ・ 一〇 月 、 講 談 社 ) が中 心に 論じ ら れ るが 、 『個人 的 な体験 』 (昭 三九 ・ 八 月、 新潮 社) から『 新 しい人よ 眼ざ めよ 』 (昭 五八 ・ 六 月 、 講談社 ) などの主 人公と し て 、 作曲 家と し て独 自 の 才能を 持 つ人物 と し て も 周 知 で ある。また、こ う した 実在の 人 物を モデ ル と す る 「物語 」 とは 違 い 、 青 来 有 一の 「石 」 の主 人 公 に 特 定の モ デ ルが あ る かど う か は 、 詳 ら かにし な いが 、 主人 公修 には 異 常 な 記 憶 力 がり 、そ れが サヴ ァ ン 症 候 群 と 呼ば れる 症例で あ る こ とを、 河 内氏 は指 摘している 。 山下 清も また、 「イデ ィ オ・ サ ヴ ァン」 (賢 い 馬 鹿) の「 主 要 な 例 」 で ある とさ れる。映 画 で は 「 レイ ンマ ン 」 (昭和六三) でダ ステ ィン ・ ホ フ マ ン が 自 閉症で驚 異 的 な記憶 力 を 持 つ主 人公 レイ モ ン ド を 演じ て、 知 られるよ う になっ た 。 そう した 意味 では 、それ ぞ れ の 主 人 公 は 、 き わ め て個 性 的 な「 知的障害者」で あ るとい っ てよ いの だ ろ う。 「個 性的」と 言うの は 、い わ ば 彼 ら を カ テゴ ライ ズ し て い る 「 知的障 害 」と いう医 学 モ デ ルか ら、ず れ た部 分を 持ち、そ れらが 彼 らの社会 的存在 意 義 と な っ てい ると い う 意 味 で あ る 。 そう した意味 では、日 本 の 社 会 は 、 昭和 三〇 年代以降 にな って 、 漸 くス テロ タ イ プ な 「 知 的障害 者 表象 」 か ら 個 性 を 持 っ た 「 知的 障害者表象 」 を 持 つ よ う に なっ たと言って よ い の かも
しれ ない 。 特に山 下 清 に お い てその個性は 式場隆三 郎という、精神科 医によって見出され、プロデュース される こ と に よ っ て 、 社会 的 に 「受容 」 される こと になっ た 。その過剰 な 関与 の在 り方は 第四 章に 具に 論 じ ら れ て い るが 、そ の 功 罪は ひ と ま ず 措 く とし ても 、現在 で も 山 下清 が 日 本の 社 会 の中で、も っ とも 認知 され た画家のひとりで あり、 同 時にもっと も 知られた 「 知 的障害者 」 の一人 で あること は間違いがない だ ろう。 また、 「 受 容 」 の 物 語 は「 静かな生 活 」 主人公とそ の 家族 に とって も その通りであ る こ とを河内氏は指摘 して いる。第五章 で所 謂「障害 受 容 の モ デ ル 」は 「個人的 な体 験 」 に も 触 れ なが ら、詳 し く述 べら れているの で 、ここで は 繰 り 返 さ ないが、 そ うし た 「 受 容 」 の 物語の 中 での 主人 公 の異 質性に 河 内 氏 は注 K 目し て い る。 た だ し 、 先ほ ど も 述べたよ うに最 後 の 三 章の主 人 公た ち は 、 サヴァ ン 症候群 (あ る い は特 異 な 才 能 を 持 つ) 知的障害者で ある 。 これが 河 内 氏 の意図的 な選 択による のか、 そ もそも昭 和 三 〇年 代以降の 「 知 的障害 者 表象」 の 一般的傾向を 表すものなの か を 、 河内氏に問うてみたい気が するのであ る 。もし、 一般的傾向 で ある ならば、新 た なステロタイ プ の 出 現 の萌芽 が そこ には見 え るの で は な い か と 思 う か ら で あ る 。 また 、もう 一 つ気になる の は、知的障害 をコミュニケーシ ョン障害とと らえる視点 か ら 、 これらの作品を 論 じた時に どう なる かと いうことで あ る。知 的 障害 は社会モデル と し て は 、様 々 な 視点か ら 意味づ け が 可能な 障 害 で あろう 。 第一 章に論じら れ た 六 蔵 の意志が翻訳 不可能 だ っ た こと を、六蔵 の 知 的障害 の 問 題 とし て 論 じ る の で はな く、 「 私 」 と 六 蔵 の コ ミ ュ ニ ケ ― シ ョンの 不 可 能 性 と し て 、捉えた時、その 責任 は 「 私」にもあ る ことは、 すで に の べ た 。 同 様に 他の 主人 公た ち も 他 者 との 双方 向のコ ミ ュニ ケー ションの問 題 として 捉 え直すこ とが可 能 なの では な い かと思 う ので ある。 最初に も 述べた が 、本書の 後半 部は 明 治 以 降 の 知 的障害に 係わる文学作品 、 文献、新聞記事などの 「一覧 」 である。おそ らくは 一 次 資 料 や マイ クロ フィルムに 直 接あた る ことでの み 、 こ の 膨 大 な 資 料は 確認され たの だ と 思う 。それ に かけ られた 時 間と 情熱は大変なも の が あ った こと だろう 。 ただ、 こ こに資料はそろ っ ている 。 さら に本書 の 各 章 の隙 間を埋 め る論が、河 内 氏によ っ て続 く こ と を 期待して、終わり とし たい。 (二〇 一 二 年 三 月 九 州 大学 出版 会 四二 〇頁 六六 〇〇 円+ 税) (長崎 純 心 大 学人文 学 部 教 授 )