元朝治下におけるモンゴル軍人と漢人奴婢
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(2) . 第1 7巻. 第1号. 北海道教育大学紀要 (第一 部B). 昭和4 1年6月. 元朝治下におけるモン ゴル軍人と漢人奴蝉 海. 老. 沢. 哲. 雄. 北海道教育大学函館分校史学教室. Tet suo ER鵬A・VA :. M[ongoI So l d i er s and Chinese. S1aves under the Yt ian Dynasty. 元朝政権がその異民族支配を維持して行く上に, 軍隊が大きな役割を果していたと 考 え ら れ る. そ の 軍 隊 の な か で 中 枢 を な し て いた の が, 本 稿 で と り あ げ よ う と す る モ ン ゴ ル軍 で あ る. モ. ンゴル軍に関しては, 現段階では何一 つ明かにされていないといっても過言では ない, 本稿では 草原で遊牧生産 に依存していたモ ンゴル人が, 中国に駐屯すること になったとき, 遊牧 に代るも のとして何を経済的な 基礎としていたか, これが第一の課題である. また大規模な征服戦争は, 各地に深刻な影響を及 ぼし, それと同時にモ ンゴル社会をも変容させた, その一契機として, 戦 争捕虜が多数流入して隷属民となったことがあげられる, その多く は支配層の掌中に帰したが, 被支配層の奴蝉 にな ったものも少くない. 中国に駐屯するモ ンゴル軍人も多かれ少なかれ奴蝉を もつにいた ったと考え られる, その場合, 奴蝉は軍人にいかなる型態で隷属し, いかなる役割を 果していたのか, これが第二の課題である, 主に以上の二点にしぼっ て考察を試みる, ここでと りあげるのは中国におけるモ ンゴル軍人の問題であって特殊な事例に属するが, 今後, 13 , 4世 ゴ 紀のモ ン ル社会を考察して行く上の一つの拠点を得たいと思う, なお本稿でいう奴蝉 は, 法的 身分としての良に対する騰であり, 文献上には駆口, 駆戸, 軍駆とも記されている.. 元朝の軍隊には, モ ンゴル軍のほかに, 漢軍・旧南宋の新附軍・中央ア ジアのキ プチ ャク軍や アス軍な どがある. これ らの軍が中国の各地に駐屯して治安の維持 にあた っていた. そのうち, モ ン ゴ ル軍 は, 主 と し て どん な 地 域 に 駐 屯 し て い た の か. こ の 点 を ま ず 明 かに し て お こ う, 元 朝. の諸民族の軍は, 元史99 , 兵志, 宿衛の条に, 「元の制, 宿衛の諸軍は内に在り, 鎮成の諸軍は 外に在り」 とあるように, 宿術軍として首都の大都・上都ある いはその近辺にある軍と, 鎮成軍 として地方 にある軍とがあった, そのうち, 前者の宿術軍は, 次の二つより成る, 一 つは皇帝の s i k〕 の軍で, 千戸・百戸な どのモ ン ゴル官人の子弟により構成されるモ ン 身辺に仕える怯蘇 〔ke ゴル軍である, もう一 つは, 大都・上都の近郊 にあってその警備にあた っていた諸軍団で 右衛 , ・左衛・中衛・前衛・後衛のいわゆる五術をは じめ, 世祖至元年間末までに十数箇の軍団が配置 さ れ て いた, そ の 後 さ ら に数 を 増 し た が, こ れ らの 諸 軍 団 の う ち, 元 史99, 兵 志 によ る と, モ ソ ー 46 -.
(3) . 元朝治下におけるモンゴル軍人と漢人奴蝉. ゴル軍の軍団として右都威衛・左朝蒙古侍衛・右朝蒙古侍衛・ 東路蒙古侍衛の五 つをあげること ができる. 一方, 地方 における鎮成軍 に関して, 元史99 ,兵志,鎮成 に次のように記されている. 世祖の時, 海宇混一す. 然る後, 宗王に命 じ, 兵を将いて辺徽襟喉の地に鎮せしむ, 而して 河洛山東は天下の腹心に拠れば, 則ち蒙古の深馬赤軍D を以って大府を列し, 以っ て之に屯 佳江以南, 地の南海に尽るまでは則 ち名藩列郡, 叉僕軍及び新附等の軍を以 って成 せしむ. マ らし む.. 「宗王に命 じ……」 は, 揚州の鎮南王トガソや長安の安西王マ ンガラのように, 宗主=諸王す なわち皇帝の一族に対して王号を与え, 軍隊とともに鎮守させたことを指 している. その場所は 「辺徽襟喉の地」 すなわち辺境の要所であり, 元女類4 1 , 経世大典序録, 屯成は, 「和林・雲南 ・回回・畏吾・河西・遼東・揚州」 をその例に挙げている, その軍隊は, おそらくモ ンゴル軍・ 漢軍・新附軍か ら成っ ていたのであろう. 上記の兵志の一節によると, 諸王の軍を除けば, 椎河 以北にはモン ゴル軍, 以南には漢軍・新附軍がそれぞれ駐屯していたという. 逆に漢軍が准河 以 北に, モン ゴル軍が以南に全くいなかったとは考えられないか ら, 上の説明は, 大体の傾向をい っ た も の で あろ う, マ ル コ に ポ ー ロ は, 江 南 の よ うな 湿 地 帯 に は, 騎 兵 で あ る タ ルタ ル 人 す な わ. ちモ ンゴル軍人が住めないので, カタイ 人・マ ンジ人の兵すなわち漢軍・新附軍が派遣されてい たと説明 している (青木一夫訳, 東方見聞録198頁). このような軍の配置は, より根本的には, )に 信頼度の高いモ ンゴル軍 を政治的中心地の近くにおき, 平時には武器の所持を認めないこと2 示されるように信頼度の低い漢軍・新附軍を遠くにおく という配慮によるのであろう. モン ゴル 軍を中国の北部に主として配置したことは, 元史99 5年11月の条にも, 次の , 兵志, 鎮成, 至元1 よ う に 記 さ れて い る,ー. 軍民異属の制及び蒙古軍屯成の地を定む. ……是に至り, 軍民をして各々属を異 らしめ, 初 制の如くす, 土卒は万戸を以って率と為 し, 屯す可きの地を択びて之に屯ず. 諸そ蒙古軍士 に して南北に散処し, 及び各奥魯に還る者も亦皆収票し, 四戸方の領する所の衆を して河北 に屯せ しめ, 阿求の二万戸は河南に屯せ しめ, 以 、って調遺に備う. 余丁は其の版籍を定め, ) 行値に編入 し, 各々所属有 らしむ, 征伐に遇えば, 則ち之を遣わす3 , 5年には, 対南宋攻撃がほぼ完了している. 軍官が民官を兼ねるという戦時の この記事の至元1 制が, 軍・民異届すなわち軍官と民官を別にするという平時の制に切りかえられたように, そ れ まで戦闘に従事 していたモ ンゴル軍を, 一定の地域に駐屯させ, 平時 の体制をとることに したの 4 )(すなわち軍人の郷里・本拠地) である, そこで, 中国の各地に散在し, あるいは奥魯〔ばu ruq〕 に帰 っていたモン ゴル軍人を再び集め, 黄河南北の中・下流域に駐屯させることにした, 元史86 , 百官志に見える蒙古軍都万戸府, のち大徳7年にそれが分れた河南准北蒙古軍都万戸府・山東河 北蒙古軍都万 戸府は, 上述のモ ンゴル軍 を管する官司であろう. また元史99 , 兵志, 鎮成, 泰定 4年12月の条に, 「設若河南省, 果 して軍を用いれば, 則ち不塔刺吉所管の四万戸の蒙古軍の内 三万戸は黄河の南河南省の西に在り, 一万 戸は河南省の南に在り, 脱別台所管の五万戸の蒙古軍 は倶に黄河の北・河南省の東北に在り. 」 とある, ここに見えるモン ゴル軍も, 元代中期の泰定年 間であるが, 系譜をた どれば, おそ らく上述の黄河流域に駐屯することにな ったモ ンゴル軍に連 なるものであろう. 本稿で以下引用するモン ゴル軍に関する記事がほとんど黄河流域のものであ る こ とも, モ ン ゴ ル 軍 が 主 と して そ の 地 域 に集 ま っ て い た こ と を 反 映 して い る に 糊 塗な い, 以 上. のように宿術軍のモンゴル軍は, もとより大都・上都およびその近郊に配置されており, 地方鎮 守軍のモ ンゴル軍も主として 黄河の南北に駐屯していたと見 られるか ら, 元朝の中国におけるモ ー 47 -.
(4) . 海. 老 沢. 哲. 雄. ソ ゴル軍の大半は, 中国北部にあったということができる. 中国北部に駐屯するモ ンゴル軍は, 一時的な駐屯軍であったのか,そ れとも半永久的な駐屯軍で あ っ た の か, この 点 を 念 の た め 明 らか に して お こ う, も し前 者 で あ る と す れ ば,モ ン ゴ ル の 草 原 を. 本拠地 にして一定期間 ごと に交代で中国へ移って きたのであろ う し, 後者であるとすれば,モ ンゴ ルの草原か ら切り離され, 本拠を中国に おいていたのであろう, この問題に関 しては, 通制条格 かか 18-2b濫給女引の条に,「蒙古軍人の, 凡そ軍馬の調度・逃亡軍人を勾補することに関凝わる一 切の よ 大小の軍中の勾当は, 合に蒙古奥魯の官司に従り差割を出給す べきである」 と, 元典章51-26a 捕鋼墓比強痢盗責罰の条に, 「曹州路の備えた状申に, 蒙古奥魯総管府の牒該に……」 と, また 経世大典, 急逓鋪, 至元26年11月 の条 (宋元駅制記事55頁) に 「脱忽鉄木児万戸下の蒙古奥魯官 安 帯 の 申 に … …」 と見 え る. こ れ らの 記 事 か ら, モ ン ゴ ル 軍 に も, 万 戸 ・ 千 戸 ・ 百 戸 な ど とい う. 軍官のほかに奥魯 、官が設置されていたと考え られる. 奥魯官の存在は, 中国の駐屯地域に家族が あ ってそこが奥魯すなわち本拠地にな っていたことをものがた る, 因みに漢軍の軍戸の場合 にも 奥魯官が設け られていたが, 軍戸に指定されても軍人はともかく家族が特別の地 に移住するわけ ではなく, 村落の中で従来通りいわゆる民戸と混在しているので, その奥魯官は, 一般の管民官 が兼任することにな っていた. 黄河の南北におけるモ ンゴル軍人がその駐屯地に家族を有してい たことは次の点か らも裏 づけ られる. 元史1 28, 土土略伝に, 「河東諸路の蒙古軍の子弟四千六 百人は籍 して其の魔下に隷す」 とある. これは, 元史98 , 兵志の序におけるモンゴル軍の説明中 に「核幼, 梢々長ずれば, 叉之を籍 して漸丁軍とEB」 と見えるところの漸丁軍にほかな らない, また元史3 2 , 天暦元年9月 乙酉の条に 「河南の蒙古軍の老幼五万人を調 し, 京師を増守す」 と見 え る. こ のよ う に 河 東 か らモ ン ゴル 軍 の 子 弟 を, 河 南 か らそ の 老 幼 を 徴 発 して い る こ と は, そ の. 地においてモ ンゴル軍人が家族生活を営ん でいたことの証左である. 従 って, モ ンゴル軍の中国 駐屯は, 草原を本拠地に して一時的に出征 してくるのではなく, 半永久的なものであったのであ る. ただ, モ ンゴル軍 人は, 中国内の駐屯地, いいかえれば奥魯に絶えず駐屯 していたわけでは ない, 元典章2-19a撫軍±の条に 「蒙古探馬赤の諸翼の軍人は四方に 征成し多く労苦を負う」 と見え, モン ゴル軍人が奥魯を離 れて各地に出征 し, かつそれが大きな負担になっていたことが 窺われる. 元史134, 和 尚伝に, 「〔和尚〕上疏 して言わく, 『蒙古軍の山東・河南に在る者, 往 きて甘粛を成る……』 と。」 がある. これは, 山東・河南に奥魯をもつモ ンゴル軍人が, 辺境の甘 粛にまで出征 していたことを意味 している. 各地への出征は, おそ らく, 多く の場合, 長期にわ たることなく, 交代で辺地での軍役に従 っていたのであろう. 元史12 , 至元19年7月 庚午の条に わるが 力 も 「蒙古軍の江南を守る者をして, 更番わる家に還 らしむ」 とあるのは, 黄河流域に奥斜のあるモ ン ゴ ル軍 人 が 江 南 に 交 代 で 出征 して い た こ と を も の が た っ て い る.. ところで, 中国に駐屯することにな ったモ ンゴル軍人は, か つて草原において遊牧生活を営ん でいた. そ れが家族とともに, 遊牧生産の不可能な農耕地帯 に移住 して きたとき, いかなる手段 で生活の資を得ていたか. 千戸・百戸な どの官人の場合は, 永楽大典194 17一8b (経世大典飴赤 至元12年11月 の条) に 「蒙古の千戸・百戸は倶に常俸が有る」 と見えるように, 官・ 棒が支給され て い た, 一 般 の モ ン ゴ ル 軍 人 に関 して も, 通 制 条 格16-27a 軍 馬 擾 民 の 条 に 「今, 叉 体 知 した とこ もと. ひそか. ろ, 随処に多く屯駐する蒙古等の軍馬が有り, 往々に して諸めた糠料を私下に巣売し, 却 っ て百 姓の処で糠料・人夫・一切の物件を強行取要 している. 」 とある. また元典章純一51b, 軍人麦塩 いま さき 糠例の条に, 「『……如今, 俺らが商量 したところ, 新附の軍人には貼戸が無い, 在先に体例に依 たち. 、 たし. カ って正身に六斗の米と一助の塩, 家口には四斗の米. 蒙古・僕軍毎に根底しては五斗の米と一角 ー 48 -.
(5) . 元朝治下におけるモンゴル軍人と僕人奴蝉 ば. どう. ところ. よる. そう. よ. の塩を与えれ可, 宏生か』 と奏 した回, 『是 しい, 郡般せ者』 と聖旨があった 此を欽む 」 とあ , . る, 以上の二つの記事は,し ・ずれも,モ ンゴル軍人に対して粗食の官給が 行なわれたことを示す . ただいかなる場合に支給されたのかが問題である, 後者の記事について考えよう. 新附軍は別と して, 漢軍の軍戸の場合, 和雇・和買などの差役や4頃以上の土地に対して地税がかけ られるが 逆に軍 戸自体に食糠その他が支給されることは, 織鐘でもない限り絶えて見 られない その点か , ら考えて, 前掲の記事にあるように,漢軍とモ ンゴル軍に対し, 食糠が支給されると ・しても, そ れ は軍人が奥魯を離 れて遠隔の地に出征している場合であろう. 前掲の記事において, 奥韓 、を有 し ない新附軍の場合には家口にすなわち家族に対する支給額が記されているのに, 漢軍とモ ンゴル 軍に関 してはその記載がない. 後者の場合, 奥魯 、ではなく して出征先 で支給するので, 家族には 支給する必要がないか らであると考えられる. は じめに掲げた通制条格の一節は 中統4年とい , う世祖クビライ の即位後間もない時期の聖旨である, そのころは, 漢人世侯 の李壇の反乱もあり 支配体制がいまだ固まっていない草創期であった, モ ンゴル軍の半永久的駐屯の地も定ま てい っ ない時期であった, 必ずしも糠食の支給が定制化 していたことを意味するものではな い と 考 え ) る5 , もし奥魯に おいてモ ンゴル軍人およびその家族に対し, 糠食を支給することが制度化され てい れば, 「河間・真定・済南等処の蒙古軍 機す, 之を賑わす」 (元史27 占7年4自己巳) , 延ネ あるいは 「山東・河北の蒙古軍, 織を告ぐ, 官を遣わして之 を賑わす」 (元史22 大徳11年7月 , 丁亥) というように, 織僅かおこることはなか ったのではなかろうか, 根食の官給は 奥魯を離 , れて出征地にあるモン ゴル軍人に限られていた と考えられる. 次に, モ ンゴル本土か らの物資供給が考え られる. この点に関 しては, 元典 6-22b侵使軍 .章4 そ. ゆ. とき. 人盤費の条に 「張和という小名の百戸が差わされ, 本の奥魯に 軍の気力を取りに去く回 軍人の , もと 盤費一百九十五定二十両と四十四領の畔襖を, 要めて己に入れ侵使した」 とある 張和は ある万 , 戸府の官人であり, 奥魯については この前段に 「泡北奥魯」 と見え, 趣北が普通 の用例と同 じく 漠北を意味 しているのであれば, モン ゴル草原における軍人とその家族の出身地である奥魯 のこ とになり, そこへ 「気力」 すなわち物資をとりに行ったことになる. 管見の限りでは 上に引用 , した一節以外にモ ンゴルとの往来を示す記事は見 出せなかった, かりに往来が行なわれた と仮定 しても, 地理的距離か らいっても, その物資の供給 の量には大きな限界があったに相違ない , 以上 のよ う に’ 奥魯におけるモン ゴル軍人とその家族にと て他からの供給が問題にな らなか っ ったとすれば, 奥魯において何 らかの生産を営み自給 していたと見 られる, その生産は, 次の二 ・三の点から農耕と推定される, 第一に, 宿術軍において農耕が 行なわれた, すなわち, 元史98 , 兵志, 兵制, 中統4年2月 の 条に, 「統軍司及び管軍 の万戸・千戸等に詔す. 太祖の制に遵い, 各官をして子弟を以 て朝 に っ 入れ, 禿料花〔 t 質子 〕 u r に充つべ し 其の制 万戸は禿鱒 qa 花一名 馬一十匹 、 牛二具 , , , , , , 種田人 ゴ 四名 r …・ とある 」 , モ ン ル統一以来,千戸・百戸の子弟を人質として宿衛にとり, 官人層の背 反を防ぎ, 皇帝直属 の軍隊を強力にし, 同時にその子弟を官人として養成 した 宿術軍は官人の , 供 給 源 に な っ て い た, 世 祖 ク ビ ライ の 即 位 後, 改 めて 上 の よ う に 指 示 さ れ た の で あ る チ ンギ ス ,. =カ ソ時代の規定は, 元朝秘史9によると, 次の通りである, 「千戸の子弟を入れさせるには , t i 10人の従者 〔n6k 〕とそ の弟1人を従えて来させよ, 百戸の子弟を入 れさせるには, 5人の従者 r とその弟1人とを従 えて来させよ. ……初めから馬と資財とを整えて来させよ」 世祖の時の規定 . をこれと比較するとき, 前者においてのみ, 牛と種田人が備えるべ きものになっていることに注 意される, 牛は, 農耕用 の役畜にほかな らず, 種田人は, その文字か ら見て 社会的性格は別に , 一 49 -.
(6) . 海 老 沢. 哲. 雄. して, 農耕労働の従事者である. チ ンギス=カ ソ時代の規定には見えないその牛や種田人が世祖 時代の規定に見えていることは, 後者の時代において は宿衛の怯蒔軍という特殊なモ ンゴル軍で あるが, その軍のもとで農耕を営ま れるようにな ったことをものがたると考えられる, そのこと は ま た 一 般 の モ ン ゴ ル 軍 の も とに お い て も, 農 耕 が 営 ま れ る こ と が あ り 得 る こ とを 示 す も の で あ. る, 第二に, 漢人農民の勧農組織である社にモ ンゴル軍人を編入 しようと企てたことに注目 した い, すなわち元典章23-7b 蒙古軍人立社の 条に次のように見える. もとう 枢密院の呈に, 蒙古都万戸府の塁に拠ると, 「原准けた河北河南道按察分司の省会に 『株馬 しら 赤軍人を諸人と一体に社に入れ, 例を二依って勧課せよ』 との事. 府司 〔蒙古都万戸府〕 が照 とも. べたところ……若 し本管の蒙古軍人を却って僕児の民戸 と一同に社に入れれば, 其の各処の もと 管民官司 が卑府 〔蒙古都万戸府〕 の見蒙古軍数を備知Lて しまう, 叉, 本管の蒙古軍人は目. もといち. 来曽 ども漢児の民戸と一同に社に入 れていないか ら,公に於いても不便で ある. 若 し本管の蒙 古軍人に将いては別に社を為ることを行ない, 見設の本管の奥魯官をして 一体に農事を勧論 てきとう 」う. させ れば, 相応 の似である. 呈を具す, 服詳されん」 との事, 此を得た. 蒙古軍都万戸府 に対し, 河北河南道按察分司か ら, モ ンゴル 軍人を漢人と一緒に社に入 れるよ う指示 があっ たが, それに対して都万戸府は, もしそのようにすれ ば, 秘密事項に属するモ ンゴ ル軍人の 数が一般の路・府 ・州・県の管民官に知られてしまうし, また前例もないから, 不都合 で ある と し, そ し て モ ン ゴ ル 軍 人 だ け で 社 を つく る こ と を 提 案 し て き た. また 元 典 章23一 1 a 復. 立大司農司の条には, 「探馬赤等の軍戸が椎避し肯えて社に入らず, 叉義根を存留せず, 亦肯 えて諸人と一体 に水利を開興しない」 とあり, 社において軍人が非協力的であると報告されてい .されたものである. 原則的には農民100戸で一つの社を る, 社制は, 世祖至元7年 ごろから施行 つくり, 社長を定め, その社の組織を通して作物栽培・ 水利・養魚・荒地開拓等の指導を徹底さ ) せ, 農業生産力の向上をはかり, あわせて治安の維 持を意図したのである6 . こうした目的 で作 られた社にモン ゴル軍人を編入しようとした, これは, モン ゴル軍人が漢人農民の村落内 に居~住 れた こ と :を 行 な っ て い た と 見 る ほ か は な い, 以 1 し, か つ 農科 、上 の 二 点 の ほ か に も, 農 耕 が 行 な わ. を示す記事がある. すなわち道園学古録24 , 曹南王勲徳碑に 「世祖皇帝, 既に海内を定む, 蒙古 一軍を以 っ て河上 に留鎮し, 民と雑耕し中原を横亘す」 とある, 元史6, 至元2年正月 乙酉の条 」 とあり, 元史19 に 「河南北の荒田を以 って蒙古軍に分給し耕種せしむ. , 大徳2年3月 庚寅の条 に は 「両 准 の 閑 田 を 以 っ て 蒙 古 軍 に 給 す.」 と ある. こ の よ う に, モ ン ゴ ル 軍 に対 し て 土 地 を あた. えて耕作させようとしたこともあったのである, さらに元典章34-29a蒙古軍駈条画の第5項に は, 「寿州等処で軍馬が攻打したとき, 蒙古軍人で功の有るものには, 投拝戸の内より種田戸計 を機与し, 家に将到れ妻 室を配与し牛具を分付して種養させ, 出軍の気力を供給させた」とある. モン ゴル軍に投 降 した漢人を, 限られた場合であるにせよ, モン ゴル軍人に対し, 種田戸(計)と ・る. これはモン 排具をその種田戸に持たせてし い う名で与え, その上, 農耕用の役畜である牛と詩 ゴル軍人 のもとで農耕を行なわれることを前提にしなければ, 理解できないことである, 以上の 諸点から, モン ゴル軍人は, 中国内の奥魯 において農耕を営んでいたと推察される, モ ン ゴル軍人に対して土地を支給したことは, 前掲の元史本紀の一節に見えるだけである, 土 地が組織 的・計画的に支給されたとは考えがたい, 軍馬のための 牧草地の場合と同 じように, 土 ) 地を占拠することによ っ て確保したのではなかろ うか7 , 開種両准地土事状にある , 秋欄文集91 ように, 「黄河趣南, 大江趣北」 の地は 「居民有り と錐ども耕種は甚だ稀少」 であった, こうし た地域では土地の占拠も極めて容易であったろう. 0- -5.
(7) . 元朝治下におけるモンゴル 軍人と漢人奴女卑. 註 6 6年3月) で論じたように, モンゴル 1) 探馬赤軍については, 別稿 (「元朝探馬赤軍研究序説」史流7号,19 株馬・探馬臣やラシー むしろ元朝秘史の 兵志序の解釈は疑問である . 軍とは別個に編成された軍とする元史 , ドの集史のt am餐と同様に, 鎮守軍という広義に解した方が妥当であり, 単に探馬赤軍とあるときは, 例外 もあるが, モンゴル軍を指している, 以下, 本稿でもこの解釈に従って史料を利用している. なお, 蒙古株 馬赤軍は, 蒙古人の探馬赤軍の意である. 2) 例えば, 元奥章3 5-8a探馬赤軍給引懸帯弓箭の条に 「……及行移河南等路宣慰司, 厳切禁約漢軍人等, 不許懸帯弓箭軍器, 相応, 」と見える. 3) 同じことが元史10 , 至元15年11月壬辰の条に 「江東道宣慰使嚢加帯言, 江南既平, 平民宜各置官属, 蒙古 軍宜分屯大河南北, …」 とあり, 兵志の 一節にある河南・河北は広義の黄河南北の意であることがわかる. 0 4) 岩村忍 「元朝奥魯考」 (北亜細亜学報1号) ,村上正 二 「元朝兵制史上における奥魯の意義」 (東洋学報3 巻3号) 参照. 5) 前掲の軍馬擾民の条は, そのあと次のように続く. 「及有裸馬赤人毎, 将自己養種収到物賊愛情, 却行営 於百姓処, 取要掻優, 這言是実那是虚, 如聖旨到日, 仰省会万戸・千戸・百戸毎, 体究問当者. ……」 と. ここに見える探馬赤人は, 管軍官である万戸・千戸・百戸の管下にあったことは確かであるが, 前段の 「屯駐 蒙古等軍馬」 とどう区別されているのが明らかでない. もし後者が一時的に駐屯する軍で, 前者の裸馬赤人 が永く駐屯していたモンゴル軍を指すとすれば, 「物納」 を 「養種」 しているから, 後に本文で述べるよう に農耕を行なっていたことになる, 5巻1号) 参照. 6) 井ノ崎隆興 「元代社制の政治的考察」 (東洋史研究1 7) 牧草地に関しては, 元史5, 中統4年7月 壬寅の条に,「詔阿ボ, 戒蒙古軍, 不得以民田為牧地」 とある. また元史20 、鄭近官田, 如数給之」 と, , 大徳4年9月 壬戎の条に 「曹州深馬赤軍与民訟地百二十頃. 詔別以 鴫赤与百姓相争地土的七十余頃有, 在先幾遍省裏枢密 7b互争不結絶地租官収の条に 「各処探, 元典章新集刑5 院裏経世監裏義人交帰断去回,. 他毎遷延不即予決, 直至務停回還不得杜絶, 交多人毎生受有」 とあるように モンゴル軍人と僕人農民の間に土地をめ ぐる紛争がしばしば生じた,. 周 知 のよ う に, 朝 鮮 ・ 中 国 ・ 中 央 ア ジ ア ・ 西 ア ジ ア ・ ロ シア の 諸 地 域 で は, 侵 入 し て きた モ ン. ゴル軍によ って無数の住民が殺数された, 同時におびただしい住民が戦争捕虜にされた, こうし ) 2 )手工業・( 3 1 1 )軍役・( た戦争捕虜にされたものは, いかなる労役に駆使されたのであろうか1 .( すで 領 に占 狩猟と遊牧の三つをあげることができる, 第一の軍役は, ある都市を攻撃するとき, し た 都 市 の 住 民 を 駆 り 出 し て 従 わ せ る も の で, こ の 隷 民 を ジ ュ ワイ ニ ー な どイ ラ ン側 の 資 料 で は. ha r〔補助軍〕と呼んでいる, その軍役は, 戦闘準備の作業, 戦術上必要な土木作業, あるいは sha 戦闘時において最も大きな犠牲を伴 う最前線での戦闘である, 第二の手工業生産に従 う職人は, 普 通, ある 都 市 の 住民 を す べ て 殺 す 場 合 で も 取 り 除 か れ る, そ し て モ ン ゴ ル の カ ラ コ ル ム や ト ル. キスタソの都市などに送 られ, あるいは現地で, 織物や武器な どの生産を強いられた. 第三の遊 牧や狩猟に駆使されたものも少くなか った, 南宋からウゲデイ =カソ朝 に使いした 彰大雅は 黒縫 ga さ i l 〕 と謂い, 回々其の三に居り 事略で 「然る後, 其の 水草 に縦 って牧する者, 之を江刺赤 〔u ゴ のなかでも, 支配層, とくに がモ ン ル人 こうした戦争捕虜 と記している 僕人共の七に居る」 , 帝 室 や そ の 一 族 の 手 に 集 中 した で あ ろ う こ と は 容 易 に 想 像 さ れ る. ウ ラ デ ィ ミ ル ツ ォ フ の い うよ. うに 「遊牧生活の諸条件の下に あっては, 奴隷労働が主と して大侯や権門勢家 の屯営・野営で用 僕を多勢使うことが出来たかどうか疑 い られたことである. 小侯や 『平民たる兵士』 が奴隷=奴, わ しい」 (外務省調査部訳蒙古社会制度史275頁). 元朝時代の中国でも, 支配層 が多く の奴蝉を 63 掌中におさめたことは, 極端な例であるが, 元史1 , 張雄飛伝に 「是より先, 荊湖行省の阿里海 ) 牙, 降民三千八百戸を以って没入 し家奴と為す」 とあることからも窺われる2 . しか しな が ら, ゴ がなか たわけではない 一般のモ ン ル軍人のもとに戦争 捕虜が隷属すること っ , 元典章34一1ob 切の諸物は, 各自が 省諭軍人条画二十三歎の一項に 「出軍の時, 軍人が討虜した人口・頭匹・一‐ 1- -5.
(8) . 海 老 沢. 哲. 雄. けつ. 主と為る, 本 管の頭目人等は並 して指名・袖分 ・拘収 してはならなし・ , ……」 とある, この規定 ゴ は, 元朝至元1 5年のものでモ ン ル軍のみを対 象しているわけ ではないが, 個々の軍人が戦闘の 際に獲得 したものは, 捕虜を含めその軍人が持ち主にな ることに している. 実際にそのようなこ とが行なわれていたと推察される, また元典章17-2a戸口条画の五投下 軍姑戸の項に次のよう に 見 え る,. 至元二年に中書省が欽奉 した聖旨に, 「紬陳謝馬・帖里干鰯馬・頭鱗帯国王・ 鍛真・忽都虎 つ. の五投下の戸計に拠いては仰せて官を差わ し, 各投下の頭目や各州県の管民官と与に元主井 まこと かす びに服 戸を勾集 して一同に対証 し, 委に各人が出軍 した時に馬後に積めてきた 人口で, 達々 ば. そ. よ. の数目に有れ1 可, 本の投下に分付せ者, 当差の額内より除籍する. 如 し対証 して委に好ん そ で投拝 した民戸及び外に在 って投属 したもの, 或は本の投下の招収 した人戸であれば, 民と し. 作て当差する,」 とあり, 此を欽む. こ の 聖 旨 で対 象 と さ れ た と こ ろ の モ ン ゴ ル 軍 が い か な る 軍 で あ る か 明 か で な い が, こ のよ う な. 聖旨が出されたのは, モ ンゴル軍人下の奴蝉について, 果 して奴娩であるべきか, それとも民 戸 に して差発に当てるべきか, という身分を再確定する問題が生じていたか らである. この時の裁 定によ って戦闘の時に 捕虜に してきたもの以外は民戸と して差発を負担させることに した. これ と似た規定は, 同 じく 戸口条画の駆良蒙古甲戸駆の項にも見える,「達々・回々・契丹・女真・僕 もし. とら. 児人等を論せず, 如是軍前 で虜えた人口であれば, 家に住坐するものは無口と し, 外に住坐 して いたため, 随処で附籍されたものは,便ち皇帝の民 戸であるか ら, 随処で差発に応当させる」 と. これは, 太宗ウゲディ の聖旨 で, モ ンゴル軍人の奴岬所有をいかなる範囲で認めるか, を示 した ものである. 戦闘時に捕虜になり,軍人と居を同 じく している奴蝉は, 従来通りに奴蝉と認定 し, 独立した 戸と して版籍に登録されたものは, 奴鉾とは認めず, 民戸と して扱うことに している, 以上, モ ンゴル帝国時代から元朝 時代にかけての奴鉾に関する聖旨を引いた, その実効性はどう であろうと, いずれもモ ンゴル軍人の奴鱒所有を前提と してのみを理 解できる規定である. 元朝 成立後, 中国に駐屯することにな ったモ ンゴル軍人も, 中国各地で転戦 し捕虜獲得の機会もあっ わけ で, それぞれ少数ではあっても奴蝉を有 していたものと考えられる. 軍人は捕虜と して奴麹 を入手 したケースが最も多 かったに相違ないが, そのほかにも手段がいく つかあった, 前掲の戸 かす 口条画の五投下軍姑 戸の項によると, 「馬後に稲めてきた人口」 すなわち戦闘時の捕虜のほかに, 戦闘時以外にもモ ンゴル軍人下に投 じたいわゆる投拝戸, あるいはモ ンゴル軍人によ って粒致さ れたものもあったことが知られる. それが奴婦と して公認されるか否かは別問題であり, 実際問 題と して奴蝉のなかに含まれていたことは否めない. また元典章34-29a蒙古軍駈条画の第‘ 1項 のこ そ まこと には, 「枢密院が議 したところ, 既に正駈の地下 した妻・男が伊の父が委に本人〔本便=軍人〕の ひきわし 虜質・撒花 〔贈りもの〕 の人口であると承 伏 しているのであれば, 合に 〔軍人に〕 分付を行なう べきであるとの事」 と見え, 奴女 1のなかに購入 したものや購入 したものや贈与されたものもあっ 呉 た こ と が う か が わ れ る, 以 上 の よ う に, 中 国 に 駐 屯 す る モ ン ゴル 軍 人 の も と に も, 戦 争 捕 虜 に な っ た た め あ る い は そ ,. の他の理由か ら奴女 !にな ったものかいたと推察 される. おそらく その多くは漢人農民 であったも 痔 の で あろ う. こ う した 奴 麹 は, い ず れ も モ ン ゴ ル 軍 人 に 隷 属 し 同 じ 法 的 身 分 に 属 して い て も , ,. 現実の存在型態は極めて多様であり, そこには大きな偏差が見 られたに違いない. この点に関 し ては抽象的・断片 的な史料 しか得られないが, 以下大雑把な考察を試みる, もし とら さきに引用 した太宗ウゲデイ の聖旨に, 「如是軍前 で虜えた人口で, 在家住坐 していれば, 駈 -5 2-.
(9) . 元朝治下におけるモンゴル軍人と漢人奴ゑ 卑. 口と し, 在外住坐 していたため, 随処で附籍されたものは便ち皇帝の民戸であるから 随処で差 , 発に応当させる,」 と. 前述したように皇帝権力の側 で, いかなる場合に戦争捕虜が奴婚と して軍 人に隷属する ことを認め, また逆に認めずに民戸と して差発にあてる かを規定したもの である , 権力側の意向とはかかわりなく, この聖旨は, 現実において奴碑には 「在家住坐」と「在外住坐」 との二つの居住型態があったことを示 している 前者は 主人たる軍人と同居し 後者は別居 し . , , ていること を表現 したものであろう. この点につい ては, 元典章34-2 9a蒙古軍駈条画, 第3項 に, 「前件, 一同が講究 したところ, 投拝戸計と 称し顕逃の有る者は 別に定奪が無いと して除く , とら 外, 虜えられて来て使長と同居 し, 或は在外住坐 し,本使の軍銭を津貼 し 〔及び〕 3 )妻室を配与さ , ひきわたし れた戸計に 拠いては, 別に争差が無ければ, 合に〔本使=軍人に〕 分付を行なうべきである 」と見 . える, ここでは奴娩が4種に分けられている, 第一は, 投拝戸すなわち自らモ ンゴル軍に降り , そのまま隷属することにな ったものである, 第二は, 純然たる戦争捕虜で 奴娘とな て使長つ , っ まり主人たるモ ンゴル軍人と同居しているものである 第三は やはり戦争捕虜か ら奴蝉にな , , っ たものであるが, 主人とは居を異に しているものである 第四は妻室を配された戸である これ . , が前三者となぜ区別されたのか疑問である 妻室の配与 自体は 前三者においてもあり得 べ きこ . , とである, 同 じ蒙古軍駈条画の第5項に, 前に引用 したが, 投拝戸が戦功をあげたモ ンゴル軍人 に対して褒賞と して授け られ, 妻室 を配 されたヶ‐スが見えている 第四はその種の ヶ‐スを指 , してい るのかもしれない. 前掲の太宗の聖旨と同様 この一節からも 第二,第三の場合 のよう , , に居住型態に 同居と異居とがあったことが示 されている 第一 第四の場合に しても 居住型態 . , , によ って分ければ, 同 じように二分されよう . 「在外住坐」 という表現が, 奴蝉が主人のモ ンゴル軍人とは別の家屋に 居住することを意味 し ているとすれば, 奴蝉が家族的結合をもっていたことが推察される 逆に家族があるか らとい , っ て別居 していたとは限 らないであろうが, 奴蝉の家族に関 しては 次節で引用する元典章56-6 , b李蘭藁逃駆不得隠歳の条には奴蝉が逃亡すると き その 「娘婦核児毎」 を連行 したことが見え , ている. 前掲蒙古軍駈条画の第5項には, モ ンゴル軍人側から妻室を配 して奴蝉 の再生産をはか った例が見 える. また通制条格3-20b収継嬢母の条には, 「蒙古軍躯の王火体赤が病故 した. 其の妻の張秀児は 守服すること六年である. 本使 の菊米の娘子が有 て 秀児を強要 してリt体赤の っ , 親姪の王保児に配与 して妻に しようと している」 とある モ ンゴル軍人側で進んで王りぐ体赤とい . う未亡人の奴蝉を再婚させようと して いる. その相手の王火体赤の親姪という王保児も やはり , 同じモ ンゴル軍人の奴蝉であったのかも しれない, 奴輝が家族を有すること自体は決して異とす るに足りない. 家族をもち, 主人とは居を異にするというだけでは その奴蝉が主人の家計にお , いて 給 養 さ れる こ と なく, 独 立 した 家 計 を 営 んで い た と は い い 切 れな い しか し そ の 上 に 前 蒙 , ,. 古軍駈条画第3項にあるように 「本使の軍銭を津貼」 していたということは その奴蝉の独立性 , を示す証左ではないか, すなわち, この一句を文字通りに解す れば 主人のモ ンゴル軍人が軍役 , に服するのに必要な 費用を, その奴蝉が分担・補助 していたことを意 味する 第3項は一般的規 . もともと 定であるが, 第6項の張四十五等の奴蝉の場合, 「前件, 一同が講究したところ 既に目来 軍銭 , を津貼 し, 曽て当差 していないのであるか ら, 蒙古軍人の駈口である 別に争差が無ければ 枢 . , し力 も るべ 密院の擬する所に依准 して相応きである」 とある, 枢密院の擬する所とは 雲南に出征 したモ ン , ゴル軍人に対し, 「家に在 って軍銭を津貼する」 ことである この場合の奴鱒は おそ らく 以前 . , から 「在外住坐」 し, 主人に対して銭物を納めていたのであり 主人が雲南に出征 したのちも奥 , 稽 、にあ って従前通り主人の家に銭物を納めること にな ったのである. 「軍銭を津貼する」 という - 53 -.
(10) . 海 老 沢. 哲. 雄. 表現は, 漢人軍戸における貼 戸の存在を想起させる. 漢人軍戸は二戸あるいは三戸から成り, そ のうち一戸は正軍戸と して実際の軍役に当り, 他は貼 (軍) 戸といい, 正軍戸に対して銭物を給 することにな っていた. 漢人軍戸の役には, 「軍前で応役する こと及び軍銭を津貼すること」(元 ) 典章34-8b) があったが, 正軍戸は前者の役に, 貼戸は後者の役にあたる4 , 一般的にい って モ ンゴル軍人と奴韓の関係を, 本来的に支配隷属関係を欠く正軍戸と貼戸の場合と同列に論 ずる ことはできまい, ただ 「軍銭を津貼する」 という点で奴蝉の中にも漢人の 貼戸と同じ役割を果す ものがあったといえる, その場合, 軍銭は定額化さ れていないから, 無制限の収奪を受ける可能 性が存 したことになるが, 奴蝉はやはり津貼を行 なう主体であり,主人の家計から独立 していたと 見なければならない. こう した奴娩の存在は, 次の元典章34-29a蒙古軍駆条画 第1項にもうか がえる. 「深馬赤の告争する駆口内に 己に湊軍並びに姑戸に簸されたものが有り, 或は養馬の姑 戸・人匠 ・急逓鋪兵等の戸計が有る」 と. この頃に見える奴蝉は, 一方ではモ ンゴル 軍人に隷属 し, 他方では軍戸・姑戸・匠戸・ 急逓鋪兵な ど諸種の役労働に専従する戸に 指定されていたため, いずれか一方を取消す べく中央に裁定を仰いだのである. 戸・兵・刑部の裁 定には, もし後者を 取消 して しまうと 「走逓・造作を失誤することを切に恐 れる」 とあるから, 名目だけでなく, 姑 戸や匠戸な どの役を実際に負担 していたと見 られる. 従ってこの場合の奴鳩は, モ ンゴル軍人に 労役あるいは銭物を提供 しつつ, その上に夫々 諸種の役労働に従っていたことになる, 特に軍・ 姑戸の役は 重いので, 富強な戸があて られるの が普通であった. この場合の奴 蝉は, 一般的なタ イ プではないであろ うが, 主人の家計において給養されるのではなく, 経営の主体と して夫々の 役を負担 し得る経済力を有していたに違いない. 銭物を主人に納付するタイ プの奴蝉は, 草原の モ ン ゴ ル 人 の も と に も あ っ た. す な わ ち元 典 章17- 2 a戸口条画, 駆良蒙古牌甲戸駆の項に 「今. 次, 取勘した駆戸で, 壬子の年に別に附籍されたと難っても, 当時より 〔差発を〕 開除され, 止 だ本使にのみ銭物 を納め, 今に到るまで曽て係官の差発に応当 していないものは, 旧に依 って除 部 し, 収差を行なわない」 とある, ここに見える駆戸=奴蝉 も, 一つの戸と して独立 した生活体 をな し, 主人には単に銭物を納めるという関係にあり, 上述した, 軍人の奴蝉のタイ プと同 じも の で あ ろ う.. 1中の一類型のみを抽出 し強調 したが, 現実の奴蝉には, 上述の類型以外の ものも 曇 ここでは奴女 多か ったに相違ない. 大雑把にい って上述のように 主人とは別居 し, おそらく一定の土地を保有 し叉ある程度の動産をも ち, 独立 した家計を営み,主人には銭物を納付する隷属度の弱い農奴的存 在と, それとは対照的に主人とは同居し, その家計において給養 され, 諸種の労役に駆使される 隷属度の強い奴隷的存在とがあったと見 られる, このことはやはり捕虜とな った工匠にも, 一方 には自分の家族と 住居をもち, 自分自身の仕事も してもうけることのできるものがあり, 他方に )のと同様である, 奴 は主人の家に住み苛酷な生活条件下で労役を強い られてい たものがあった5 iに見 られる上述の類 型に関 しては, 以前か らモ ンゴル 遊牧社会における ポゴルと関連づけて歴 痔 衣 史的位置 づけ を行なう必要があるが, この点は今後の課題と し稿を改めて論じたい. 註 l i i c‐ i -zade s a no-ekonomi n A1 e l r 1) こ の問題については本格的研究はまだない. とりあえず, AbduHく ,Sot B k t 9 1 3 1 参 1 2 - i dzhana X皿-XI 1 9 5 6 r 照 なお i j V VV s heskayai po l i t t a u cheskayai s or . . ya A7erba , , , , , 5 7年8期) は末見. 超華富 「関千元朝従事耕作的駆ロ之身分問題」 (史学月刊, 19 2) なお, 元朝時代の中国では, モンゴル貴族層, とくに帝室とその一族は, 隷属民として多くの工匠や打補 ・勝房戸 (狩猟・鷹飼いに従う) を掌握し, その経済的基盤としていた, 拙稿 「元朝の封邑制度に関する一 6 6年5月) 参照. 考察」 (史湖95号, 19. - 54 -.
(11) . 元朝治下におけるモンゴル軍人と湊人奴蝉 3) 同じ項の前段に, ほぼ同様の交があり, そこ では 「或在外住坐, 津貼一本使銭物, 及配与妻室戸計」 のごと く 「及」 があるので, それに従った, 4) 正軍戸, 貼軍戸の制度に関しては, 前掲の村上正二氏の論文参照, この制度が生まれた社会的背景につい ては, まだ充分に解明されていない, I t s ‐ 54頁, Chri pher Dawson , The Mongo 5) 護雅夫訳 「カルピニ・ルブルク中央ア ジア・蒙古旅行記」53 i N 1 i s on s ,42一‐43 , pp , ,1955. 前節で述べたように, 奴蝉の実際の存在型態は さまざまであったと考えられるが, それにして も, 奴蝉は一般にいかなる種類の労役 を負い, モ ンゴル軍人に対していかなる役割を果 していた のであろうか. 元典章56一6b 李蘭累逃駆不得隠蔽の 条には,モ ンゴル軍の官人による奴蝉に関す て行きたい. ) る比較 的詳細な報告 文が含まれている1 , 以下, それを手がかりにして考察を進め う 至大元年三月, 江漸行省 か准けた枢密院の 客. さき 見 大徳十一年七月 二十五日, 本院 〔枢密院〕 の官が奏した, 「在先に探馬赤の按的忽都蛤・月 たち 完不花等の方 戸毎が奏してきた, 『軍人が蛮子 〔江南〕 の田地に出征 した時に得た駈口の一. き些小業人品 箇の蛮子の和尚が該説した (俺らの父親毎が嚢子盈田地に出征し義時’手人毎々 を得てきた, 去年一個の和尚が)<蛮子の百姓毎を他の本の地面に廻 らせ者〉と 説った河 (説 ため くだ 司, の文書を行 した上頭), 他毎の奴蝉 毎が白日 に他〔奴蝉〕の娘婦・核児毎を将れて逃走する1 そのよ ~ もの むか と おいか 城 他の便長 〔=軍人〕 毎が根 ける河, 迎敵 ってゆく 的も有る, 似那般に逃 走する的毎で, ひ そ かく 子や村坊にある和尚,先 生の寺観や人匠の局院に隠戯れてゆく 的も有る. 船や筏を用いて愉 いま. ここ. あいだ. かに黄河」大江を波過してゆく 的も有る, (如今, 這幾年か頻りに出征 している其間裏に軍 ので おそ とき 人毎の気力 が消乏する 噸, 人口の娘婦・核児を典売するのを避泊 れる噂, 牒閃する的も多く あなど. 有る). 更に他毎の使長が出軍 してしまう噂, 他毎〔使長=軍人〕の鳩婦・核児を欺負って逃走 さき はなは そのため する的が多い・ 為那上頭, 軍人の気力が眼だ消乏している・ 在先 年世祖皇帝の 聖 旨 に く幸 )の (人口,頭疋) ,鷹犬を隠蔵する人毎も罪過が有るとせ者>と 聖旨を遍行した, 如 蘭異2 ところ だ れで よ くだ きき ま・ 今, <在先の聖旨 の体例 に依って文書を行させ者〉と奏した可, く不様誰も隠蔽 することを ものたち よ や 可, 転送して他の本主に 休め者, 隠蔵する的 毎は 罪過が有るとせ者. 逃走する人を掌住えた1 くだ ので とど よ 与け者 >と完沢禿〔成宗〕皇帝の聖旨が有 った『, 外処に文字を行し排門粉壁させた, 如今, 城子を管する官人毎が肯えて用心提調しない上頭, 逃走する 駈口毎も首して来ない. 家に在 くる ので まね る人 〔奴徳〕 毎も倣学して逃走する上頭, 軍人の気力が暇だ 生受しみ, 消乏 している』 と万 、 し. 戸 毎が 説 っ て い る, … …」. 上の文書は, 黄河流域の蒙古軍都万戸府管下のモ ンゴル軍に関する報告であると見 られる, こ ゴ の文書によると, かつての江 南への遠征 (世祖朝前期の南宗攻略であろ う) の折りに, モ ン ル 軍人はそれぞれ少数の捕虜を得てきて奴姫にしていたという. そして奴蝉の逃亡の 実態が報 じら れているが, こうした逃亡する奴婚は, 奴麹中の一 僧侶が代弁 している ように, 異国人のもとに おける異常な環境をのがれて南方の郷里に帰えることを意図していたに相 違ない, モ ンゴル軍人 モ によ っ て 他に売却されるおそれのあることも, 逃亡に拍車をかけること になったので あろう. モ ンゴル軍人が軍役に出て奥魯を留守に しているときが, 逃亡によい機会であったのである. ン ゴル軍の官人は, こうした奴蝉の逃亡が軍人に打撃を与えていると訴えて きた. 文中のこと ばで は, 軍人が 「気力消乏」 した. この場合の気力については適確な訳語を示すことができないが, -- 5 5 --.
(12) . 海 老 沢. 哲. 雄. 「 ・ …妻室を配与 し牛具を 分付して種養させ, 出軍の気力 を供給させた」 (元典章34-30b) 署 , ゆ とき 「本の奥魯に気力を取りに去くー 6-22b) の場合と同 じく, 物資,資力を意味し, 可, ……」(同4 「気力消乏」 は 「比年以来, 田禾収めず, 因 って軍人が気力消乏している」 (同34-1 7b) の場 合と同 じく, 物質的・経済的に窮することを意味する. 奴蝉の逃亡を防くた め 前掲 の報告文書 , にもあるように, 世祖時代か ら逃亡奴蝉をかくまうことには禁令が出さ れている 前掲のモン ゴ , ル官人か らの報告があってか らのちも, 大徳5年に枢密院が上奏 して 逃亡奴蝉をかく したもの , に財産没収 の刑を加えること, 知りつつ官に連絡 しなか った場合に処罰することな どが定められ た (元奥 .草34-32b) . その後, 大徳8年に, 逃亡奴奴 蝉を捕えた場合に持ち主に届ける こと, 補 えた者に対する 賞金, 逃亡奴蝉・かく まった者・知りつつ連絡 しなか た者に対する刑罰その他 っ が 決 め ら れた (同34一33a) 大 徳11年 に は 逃 亡 して 100 日以内に自首 した場合に罪を免 ずるこ , .. と, その他逃亡 奴徳の処置に関する刑罰・褒賞が改定さ れた (同56-7b) さ らに延祐6年末に . は, 一層詳細な刑罰・褒賞の規定がつく られている (同新集刑77a) このように奴蝉の逃亡に関 . して年を追い次第に精細な刑 法的規定がつく られてい った 以上か ら モン ゴル軍人の奴蝉が頻 , , りに逃亡 を企てたこと, そのため軍人が痛手を被 ったこと, 元朝政権は軍人を保護すべく 奴蝉 , の逃亡をおさえるために刑法 的規定を制定施行した こと, しかもそれが実効性に乏 しいた め何回 も改定された こと がうかが われる. 同時にこれらのことは 奴蝉は モン ゴル軍人に対 して重要 , , な役割を荷ない, 必要な存在であ ったことを示 している, それな らば, いかなる意味で奴蝉はモ ンゴル軍にと って必要な存在であったのか, 具体的に考えてみよう , まず考えられることは, 奴蝉が軍役に当 っていたことである 例えば 元史1 62, 李忽蘭吉伝 , , には, 「今, 蒙古漢軍, 多く は正身に非ず. 半ばは駆奴を以って代う 宜 しく 之を厳禁すべし」 , , とあり, 元史1 9 , 元貞2年2月丙午の条に 「軍将の檀ままに侍衛軍・蒙古軍を易うるを禁 じ, 家 奴を以 って代役せ しむる者は, 之を罪す, ……」 とある, 前述のように モ ンゴル軍人は奥魯を , 離れて各地に 出征することが あった し, その他, モ ンゴル軍人自身が当たるべき軍役に 上の二 , 例には, 奴鯨をあてたことが示されて いる, 元典章34-29a蒙古軍駆条画 の第8項に「曹州の那 去 千探馬赤の駈口張四十五等が 告げるには, 本使が合刺章〔雲南〕に出軍 し 叔々 は淵端赤〔k6 tm視,馬 , 〕 丁 に充て られ, 四十五等は落後さ れた, ……」 とある このように軍役の補助に奴 蝉が使われ . たこともあったのであろう. 軍役そのものに奴蝉をあてることは 前掲の記事にもあるように , , 公認されてお らず, たびたび禁令が出されていた, 奴女 !が車役にあたることは否定できないが, 曇 軍役が最も重要な労役 であったか どうか疑わ しい, さきに推定したように, モ ンゴル軍人のもとで農耕が営まれていた′ とす れば, 奴蝉がその労働 力に充当さ れたことは考えることができる, 以下 この点を検討 しよう 口節で引用 した元史98 , . , 兵志, 兵制,中統4年2月の条によると, モ ンゴル官人が自己の子弟を質子と して宿衛に入 れると き, 馬・牛とともに種田人なるものを4名乃至2名随伴させること にな ている 農耕労働に従 っ , 事 したと見 られる種田人は, その社会的性格が明かでなく, 本稿でいうモ ンゴル軍人下の奴蝉に 相当するものか否か, 確言できない. 種田人を伴 って 来る宿衛の軍人のもとでの土地経営につい て知る由もない, ただモ ンゴル高級官人の子弟というやや特殊な場合であるに せよ 農耕 を行な , うために家族以外にも労働力 をもとめている, これは, 一般 のモ ンゴル軍人の場合も 奴蝉が上 , の種田人と同様に農耕に従事 したことを示唆 しているの ではあるまいか 前掲 元典章34-29a . , 蒙古軍駆条画の第5項 によると, 寿州な どの攻略の際に, 戦功のあ たモン ゴル軍人に対 し 投 っ , 拝 戸すなわち自 らモ ンゴル軍に降 ってきた戸を種 田戸として与え 妻室を配 し 農具を与えて耕 , , 一 56 -.
(13) . ぇ 珪 元朝治下におけるモンゴル軍人と僕人奴女. 作させ,モン ゴル軍人が軍役に出るのを経済的に援助させようと した. この場合の種田戸は,モ ン ゴル軍側に自 ら投 じた投拝 戸である点, モ ンゴル軍人に対し上 から褒賞として与え られたもので ある点, 種田戸と称されている点で, 一般のモン ゴル軍人下の奴蝉 とは異なる. いわゆる投拝戸 )ところか ら見て, 投拝戸 が, 軍人に奴蝉と して隷属することは, 原則的には公認されていない3 は戦闘時に捕虜にされ奴蝉にされたものと身分上区別され, ここでも特に種田戸 と称したのかも しれない, いずれにせよ,妻室と牛具を与え られることも一般の奴蝉と区別し得る指標ではなく, モン ゴル軍人に隷属 し搾取される限り, この種田戸が一般の奴鯨と本質的に異なるものとは考え ら れな い, そ のよ うな 種 田 戸 が モ ン ゴ ル 軍 人 に 与 え ら れて い る. そ れは,モ ン ゴ ル 軍 人 側 に,農 耕. 労働に当たる隷属民を従え, 「出軍の気力」 を提供させる必要性があったか らではないか, とすれ ば,たとえ種田戸を与えられなくても, 自 ら獲得した奴蝉を農耕労働にあてたのではなかろうか, ) な お, 参 考 ま で にイ ル= カ ン国 に お け る モ ン ゴ ル 軍 人 の 場 合 に つ い て 付 記 して お こ う4 , ガザ ン= カ ンの 時代に な っ て か ら, 窮 乏 す る モ ン ゴ ル軍 人 の 救 済 策 と して イ クタ ー 制 が 採 用 さ れ,個 々. のモン ゴル軍人に 土地が支給さ れることにな った, その土地には, 二種類があった. 一つは農民・ つ きの 耕 地 で あり, も う 一 つ は 農 民 つ きで な い 荒 廃 地 で あ る. 後 者 に 関 して, ガ ザ ン= カ ンの 聖. l i an〕・奴蝉たち〔ghu am亘n〕・牛・農具・ 種子を以 って耕作し, s r 旨によると 「自 らの捕虜たち〔a ) 」 と 定 め ら れ, ま た こ のイ ク タ ー 制 に よ っ て モ ン ゴ ル 軍 人 は 「各 自 が 自 そ の 収 穫 の す べ て を とる5. らの分前と食糠とをそこか ら入手するので, 毎年国庫か ら彼らの経費を支出する必要がなくなり そ れ以上 の 耕 作に は 自 らの 捕 虜 た ち 〔usara〕・,馬丁 〔kntalchi , mong, k6tal浅〕・ 牛 ・ 種 子 が 彼 ら )」 ことになった. 上に見える捕虜・奴岬・馬丁は, それぞれ実体を異にするものか の 役 に 立 つ5 どうか 明 か で な い が, やは り 西 方 のイ ルカ ン国 に お い て も, そ こ に 駐 屯 して い た モ ン ゴ ル 軍 人 の. 奴蝉が, 農耕に使役されていたことに注目 したい. 中国におけるモン ゴル軍人の奴蝉は, 前述のように軍役を負担したこともあったであろう し, また史料上には見えないが, 諸種の家内労働にも従事したであろう. ただ, 上にあげた二・ニ の 点か ら見て, 決して明証があるわけではないが, 農耕が奴蝉にと ってより一層重要な労働ではな か ったかと推察される , も しもそうだとすれば, 前節で述べた主人と居を同 じく するタイ プの奴 保有地を得て 蝉は, いわば直営地の労働力となり, 主人と居を異にするタイ プの奴徳は, 一定の・ ・で農耕を営 いたかもしれない. ロ節で考察 したように, 中国におけるモ ンゴル軍人は, その奥角 み, 経済的にそれに依存 し自給 していた, 奴蝉がその農耕の労働力であ ったとすれば, 奴鯨はモ ン ゴル軍人にと って重要な存在であったに相違ない, 前掲のモン ゴル官人の報告文に見えるよう に, 奴蝉の逃亡がモン ゴル軍人の 「気力消乏」 を招いたのは, 上記の点に大きな原因があったと ) 察せ られる. また元代中期になると, モン ゴル軍人の窮乏が しきり訴えられている6 , 窮乏の主 したので その窮乏・弱体化を促すように作用 要な原因は, 過重な軍役に あるが, 奴蝉の逃亡も, は な か ろ う か,. モン ゴル軍人の奴蝉に関 しても, 例えば一方では奴蝉とされなが ら他方では良民の民戸と して 登録されているというように, 奴蝉か否か身分を再確定 しなければな らない問題が しばしば生 じ ‐-29aの蒙古軍駈条画の条は, この種の問題をとあげ, 一 た. これまで何度か引用 した元典章34 般 的 な ケ ー ス ・個 別的 な ケ ー ス 合 わ せ て 9件にそ れぞれ裁定を下したものである. 身分再確定の. 問題は, 関係官司がとりあげたものもあったに違いないが, 本人の訴えが契機にな ったケースも 少くなか ったと考えられる, それは当時のこと ばでいえば 「訴良」 であり, 奴蝉であるこ とは不 )ことである, 蒙古軍駈条画の第4項には 「探馬赤の見 当であっ て, 良民のはずであると訴える7 - 57 -.
(14) . 海 老 なく. 沢. 哲. 雄. のこ. に争う駈口に, 正駈が身死な って地下された妻・男が多く有る」 とあり, この種のケースに関し のこ かれ まこと 枢密院は 「既に正駈の地下 した妻・男が, 伊の父が委に本人 〔モン ゴル軍人〕 の虜買・撒花の人 ひきわたし. 口であると承伏 しているのであれば, 合に 〔軍人に〕 分付を行なうべきである. 」と裁定 した. こ の場合, 奴蝉の家長が死んだあと, 残された家族員が, 家長の死とともに自分たちの奴蝉身分は 消滅するはずであると訴 え出たのである. 同 じく第8項 では, 張四十五等の奴蝉が, 主人の軍人 が雲南 に出征 し, 主人がいなくな ったことを申 し出ている, これも奴蝉身分か らの解放を期待 し ての行動であったに相違ない, 同 じく 第1・2項において, 奴蝉であると同時に, 軍戸・民戸・ 姑戸な どにな って いるケース がとりあげられて いるが, そのなかには奴稗自身が奴 蝉身分を免 れ る べ く 訴 え 出 た ケ ー ス も あ っ た の で は な か ろ ぅ か, こ の よ う な 身 分 の 再 確 定 を 行 な う と き, 一 般. 的にどのような方針がと られていたのか. 漢人軍 戸の奴蝉の場合と比較 してみよう. 元典章1 7- 2 a戸口条画(至元8年)の軍戸駆の項は, 漢人軍戸の奴婚を対象にする規定で次の通り である. 「乙末・壬子の二年に, 本使の戸下 に附籍された人口で, 各年の軍籍内に曽て 損報されなかった ・ ものは, 仰せて収係当差する」 「乙未・壬子の二年に, 本使の戸下に漏籍された人口で, 外に在 のち ったため別 に籍され, 或は曽て附籍されず, 在後に本使が却って 軍籍内に駆と して損擬 した人は し. 即ち仰せて良と為, 貼軍 戸計に充てる」 と. 前段では乙末 (大宗7年) と壬子 (憲宗2年) の両 次の戸口調査のときに版籍 に奴簿と して登録されていても, 軍籍に奴蝉として登録していなけれ ば, その奴蝉を良民に 解放 し, 民戸と して差発にあてる. 後段では逆に軍籍 に登録 してあっても 戸口調査のとき版籍 に登録してなければ, やはり良民 に解放される. ただこの場合は貼戸として 今まで主家であった軍戸に対 し銭 物を津貼することになる, 要する に, 現に奴蝉であっても, 版 籍 と軍籍の両方 に奴蝉として登録していない限り, 良民に解放される. モ ンゴル軍人の奴蝉の場 合は どうか, 戸口条画の五投下軍姑戸の項に見える聖旨でも 「元主弄びに駆戸を勾喚 して一同に 対証」 して一方が捕虜にした者であり, 他方が捕虜にされた者であることが認められれば, 奴蝉 と認定 している, 蒙古軍駆条画 (至元6年) の第2項には 「探馬赤の見に争う駈口に, 乙未の年 の後壬子の年己前, 各路で収差 した戸計が有る」 と見える. 収差 した戸計とは, 良民の民 戸とし て差発にあたる戸を意味する, 一度民 戸として登録された戸でも, ここでは 「主・奴を対証させ 」, 関係が認められれば, 奴熱とすると裁定 した, 第5項でも 「壬子の年」 に民戸として登録きれ た戸を, 主・奴の関係があれば, 奴蝉にすることにしている. また通制条格3-23a良騰為婚の 条には 「懐孟路が奥魯赤万 戸の争躯の事理を申 してきた. 本部が議 したところ, 楊格は, 元奥稗 とら. たが. 赤が虜えた駆口である. 乙末・壬子の二年には曽て附籍されなか ったが, 今, 主・奴が相いに認 ー 断 した の で, 楊 格 を 旧マニ依 っ て 住 坐 さ せ た. … …」 と あ る, 以 上 の よ う に, モ ン ゴ ル 軍 人 の 奴女 婁. の場合には, さきに一例をあげた漢人軍 戸の場合 と異なり, 過去の版籍・軍籍における登録の有 無を問題にせず, 過去において良民の民戸として登録されていても, 考慮 しない. 双方を相対さ せ, 一方が主人であり, 他方がその奴嫌であることが認め られさえすれば, そのまま奴蝉と認定 している. 決 して厳密な比較を行な った つけではないが漢人軍 戸よりもモ ンゴル軍人の方におい て, 奴蝉の良民への解放に消極的であり, 主・奴の身分制を維持 しようとし, 従 って軍人を保護 する意図がうかがわれる, も しこのようにモ ンゴル軍人の奴麹が漢人軍戸のそれとは差別されて い た とす れ ば, 後 者 よ り も 前 者 の 役 割 が 重 視 さ れてし・た こ と を 示 して い る の で は な か ろ う か.. 註 4一3 1扇句刷在逃軍駈の条第1歓(B) 1) 率爾笑逃駆不得隠蔵の条 (A) のほか, 元奥章3 , 同条第3欺 (C) にも見える. AとCは, ともに宮人の報告を枢密院が大徳11年に上奏しにもので, 両者間に異同はほとんど -5 8-.
(15) . 元朝治下におけるモンゴル軍人と漢人奴蝉 ない, ただBは同じ報告を枢密院が大徳5年に上奏したもので, A・Cとの間にかなりの異同がある ここ , ではAによって訳文を示し, Bのみに見える特に注意すべき箇所を括孤内に示した. 2) 李蘭奨は, 所有者の手から離れたもの, 遺失物を指す. 人間の場合, この文書に見られる, 主人のもとか ら逃亡した奴蝉がそれに該当する. 中央に闘遺監という官司があり, 李蘭実の人間・家畜を一定期間保護・ 保管し, 所有者の手に帰するようにとりはからっていた, 率蘭笑 (不蘭笑) がいかなるモンゴル語から訳さ れたのか明かでない, なお, このことばは bu垣r gh百として同時代のイラン文献にも見え, それについては i ldin Tus ミ ノ ル ス キ ー の考証がある (V, Minor i on nnance sky , Nasr a ,IRANICA,1964, pp .82-84) 3 ) 元奥章3 4-29a蒙古軍駆条画の第3項に 「……因経壬子年抄上, 作好投拝民戸籍過当差」 とあるように軍 人の奴姻であっても,戸口調査の際に投拝戸と認められたため, 奴蝉ではなくして独立した民戸と見なされ , 差発 にあてられた場合もあった, また元史13 8, 相威伝に 「〔至元〕十九年叉奏, 『阿里海牙, 占降民一千八 百戸, 為奴』,阿里海牙, 以為征討所得, 有旨, 果降民也, 還之有司, 」とある. ここ では 「征討所得」 の戦闘 時の捕虜でなく, 降民嚢投拝戸であったため, 奴蝉と見なされず, 民戸として有司=管民官の管 下 に 帰 し た.. ‘ 制に就いて」 (北海道大学文学部紀要7) 参照 4) 本田実信 「イルカ ソ国に方 やける i t g q . ‘at-Tav豆rTkh t m Baku 1957 str 510 513 5) 廟mi ,, , , , , , . 6) 例えば, 元史13 4, 和尚伝に, 成宗時代のことであるが, 「〔和尚〕上疏言, 蒙古軍在山東河南者, 住成甘 粛, 践渉万里. 装藁鞍馬之資, 皆其自弁. 毎行必灘田産, 甚則売妻子. ……」 とあり, 元興章2-19a撫軍 士の条, 大徳1 1年の項に 「蒙古探馬赤諸翼軍人, 四方征成, 多負労苦. 以管軍官員・奥魯官司, 非理侵漁, 消乏者来, 」とある. また元典章新集戸42b探馬赤軍興売草地の条に 「『軍人毎年差調, 置備軍需什物的上頭,. 将根原分罷与来的草地, 典与了人的, 不交回付原価, 将地分分溌, 与軍人毎者』 慶道, 在前枢密院一面上位. 根底奏了来. 若交這般行1可, 動揺有. 」と見え, モンゴル軍人が馬の牧草地を典売したことにも, 枢密院がそ の土地を再び無償で軍人の手に帰せしめょうと上奏したことにも, 軍人の窮乏がうかがえる . 7) 奴蝉 の訴良について, 二・三の例を挙げておこう. 滋漢文稿1 1 , 故少中大夫同食枢密院事郭敬簡侯神道碑 銘に 「当国初用兵, 有近臣承詔賜民十家, 為兵前駆, 既久情勢, 没為奴蝉, 而十家子孫, 陳訴不己. 」と, 元 史1 70王利用伝に 「都元帥塔海, 抑盛山県民数百口為奴. 民屡訴不決, 利用承激覆問, 尽出為民 」と 上の . . 二例はモ ンゴル官人の奴蝉の場合であろう. 漢人軍戸の奴蝉については, 通制条格2-24a以 、籍為定の条に. 「腿路争差正軍序貼戸津済, 駆口訴良等事, 不見委的悪堆是何年分軍籍帰断」とあり, 奴蝉の訴良を軍籍に. よって 裁 定 し よ う と し て い る.. V. 1 1・ m ・I V節 で 述 べ て きた こ と は, 次 の よ う に 要 約 き れよ う, 元 朝 治 下 の 中 国 に お け る モ ン ゴ. ル軍人は, 主に黄河南北の流域・大都近辺に駐屯し, そこに本拠地をおいて軍役に従 事 し て い た, 本拠地におけるモ ンゴル軍人とその家族は, 社という漢人農民の勧農組織へのモン ゴル軍人 の編入が企て られたことその他から, 農耕を営んで自給 してと考えられる, モ ンゴル軍人は, 少 数なが ら戦争捕虜に した漢人を奴蝉として従えていた, 奴蝉には, 大雑把にいえば, 一方には 主 人と別居 して独立 した家計を営み, 主人に銭物を納める 農奴的タイ プが あり, 他方には主人と同 居しおそらくは主人の家計において給養さ れると見 られる奴隷的タイ プが あった, 奴蝉は軍役に も出たが, 戦功のあったモ ンゴル軍人に漢人を種田戸として与えた例もあり, 農耕がそ の主要な 労働であった と推察される, 奴蝉が しばしば逃亡 したことは, 農耕に依存するモ ンゴル軍人には 痛手であり, 元朝政権はそのため細かい法規を定めてその逃亡を取り締ろうとしたと考え られる. また奴蝉自身の訴えなどにより, その身分を審査し再確定するときも, 漢人軍戸の奴碑の場合よ りも厳しく, 容易に奴蝉身分か らの解放を認めなかったようである. 本稿は, 推論に推論を重ね論証の不十分なところが少くない. またいくつかの現象をただ羅列 するだけで終 って しま った, 後日, 奴蝉の問題を, モ ンゴル社会の ポゴル や貴族層下の工匠な ど の隷属民と関連 づけ改めて考察 したいと考えている. その時に本稿の不備未熟なところを補正 し たい, 6 (19 6 .4 , 29 . 稿了) 」 59 -.
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