Title
生存権論考
Author(s)
森田, 友喜
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(3): 69-97
Issue Date
1980-06-10
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6485
近代初期の基本的人権は、周知のように、「国家からの自由」を標傍しおり、国民の権利・自由を擁護する自由権的
基本権がその中心をなすものであったといえる。ところが、資本主義の高度な発展にともなって、経済生活における失
業や貧困のさまざまな病弊を生ぜじめ、いわゆる自由権の保障のみにては、人間の幸福はまっとうされえない社会的、
経済的情況が顕著となって、これまでの自由放任の仮説はくずれ、「権利や経済の社会化を要求する思想が支配虹」と
なり、あたらしい人権が求められるようになった。この要望に答えて登場してきたのが社会権的基本権である。この社
会権をはじめて採用したのが、いわゆるワイマール憲法であって、この懲法は二○世紀懸法の噴矢をなすものといえる。 ワイマール憲法は第五章に「経済生活」をもうけて、その冒頭で、「経済生活の秩序は、何人に対しても、人たるに値 する生活(の旨日①ロ:ぽのロゴ胃Sm:C:の】ロ)を保障することを目的とする正義の原則に、適合することを要する。この限度内において、各個人の経済的自由が保障される」(一五一条一項)、と生存権の基本原則を定め、
取引および営業の自由(一五一条一一一項)、契約の自由(一五一一条一頃)、所有権の保障(一五一一一条一項)などには、す べて「法律の笛保」によるものとされていたことや所有権への「義務づけ」、さらには、「公共の福祉」への適合性などは、自由放任主義経済を修正する規定であったといえぬ。
古典的生存権の効力生存権論考
森田友喜 69このことは、憲法が従来の伝統的な自由権、とりわけ財産権や経済活動の自由を否定したのではなく、自由競争の結 果生じた自由の空洞化を防止し、国家の正当な行為により、自由を実質化ならしめるための修正原理であるとされたの というのも、「ワイマール憲法の生存権に関する第五章の規定は、個人主義と社会主義、私有財産権の保障と生存権の (4) 確立という全く相対立した異質の要素の闘争と妥協によって成立したもの」、すなわち、第一次大戦の敗戦後のドイツ 保障も一種の綱領であって、権利として付与されたものではなく、いわゆるプログラム規定にすぎなかったのである。 しかし、ワイマール憲法の生存権は、いみじくもモーレィ(シ・四・三.二二)が指摘するように、経済生活に関
する多くの条項は、まったく法的強制力をもたず、たんなる政策の声明にほかな霊、「人間が人間に値する生活」の
の複雑な政治情勢の産物であったことや生存権規定上に、明確な「権利(幻:三)」の文字がみられなかった》」と、川
さらに、このことを裏づけるものとして、国民の義務について、「すべてのドイツ国民は、その精神的及び肉体的な力 を公共の福祉を促進するように、活用する道徳的義務を負う」(一六一一一条一項)と高らかに政治道徳的宣言をしていた ことなどに、その一端をうかがい知ることができるであろう。 ところで、日本国憲法の生存権について、二五条一項は、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む 権利を有する」と定めている。この規定の解釈について、註解日本国憲法は、「積極的意味における生存権の確保とい ●●@●●⑧●●⑨●●●●o●●●●● う点については、国が常に、その}」とにつき努力すべきであるという将来の政治や立法に対する基本的方向を指示した ●● ものである。もとより、このような努力を国が怠った場合、即ち、生存権に対するいわば消極的な侵害に対しては、特 ●⑥●●●●●●●●●● 別の法的救済は予定されていない}」とから、それは法律的にはプログラム的な意義のものであるということにもなるが、 である。●●●●●●.●①●●
国の政治的・道徳的義務を明らかにした}」とに重要な意義がある。このような恵味の国の債務の宣一一一一口のうちに、すべて
{瓜J}の国民に期待される国民としての利益ないし地位を生存権と呼んだわけである」と述べている(傍点は筆者)。ようす
るに、生存権はプログラムであって、政治的道徳的宣言にすぎないというのである。これを裏からいえば、国民の国に 一A)}たいする「具体的内容をもつ請求権ではない」ということであって、従来からい又配的兇解とされてきた。その理由は、
第一に、実質的前提の欠如をかかげ、私有財巌制を騒盤とする資本主義経済のもとでは、労働権が具体的権利として認
(7J} められないこと、第二に、法律上の保障規定の欠歓が指摘され、第三には、財雁上の問題があげられている。判例も、いわゆる朝日訴訟において、上告人の死亡を理由に訴訟の終了を宣一一・一口した後、傍論としてではあるが、「憲
そプログラム規定説を確認し、定着させたものといえるだろう。。.
たプログラム規定とみているといってよい(傍点筆者)。 判、昭和四一一。五。二四、民集一一一巻五号一○四一一一瓜)と述べているところから、叱存権規定を政治目標としてかかげ憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によって、はじめて与えられているというべきである」(蚊
責務として宣一一二口したにとどまり、直接個々の国民に対して、具体的権利を賦与したものではない。具体的権利としては、
②@。o●CO法一一五条一項は、……すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるように国政を運営すべきことを、国の
一口U}この判決は、リーディングケースとされた食糧管理法事件を踏襲したものであって、生存権の効力については、おょ
これらのことを総合すると、わが国の生存権も、「私有財産制という現在の経済ないし法律秩序の存続を一応、前提
{。〃) 〈犯)としつつ、そのもとに生存を可及的に実現」しようとする立場上、国民に対する国の「政治的・道徳的義務ないし責務」
を宣言したものにほかならないのであって、さきのワイマール憲法の生存権と同じく、いわゆるプログラムとして把握
71〈川)
されるのである。これは二○世紀前期憲法としてのワイマール憲法の流れをくむ古典的・伝統的生存権の思考形態とい
えるだろう。 注 工斎藤寿憲法の財産権の保障と「正当な保償」(駒沢大学法学部「研究紀要」第一一一○号)一一一頁。(2)その他、清水望編比較憲法講義一三四’五頁は、労働力の保護(一五七条)、さらには、労働者の権利と
して団結権ならびに経営参加権二五九条、’六五条)をも承認し、しかも、社会保障および社会政策の指 針としては、家族の共同生活の保護(一一九条以下)および少年の保護(一二一一条)を定め、また教育およ び学校の保護助成(一四二条以下)についても一連の新たな規定を導入していたことを指摘している。 (5)シ、:、因の亘一目】二・『のご》、二の月君この曰:『“三・つ・口のご目【】。:。{ロロ『・己の.旧・、『① くし吉田力雄生存権と朝日訴訟(法経学会雑誌四七号)二○頁。 (5)法学協会編註解日本国憲法上巻四八八’九頁。 {△宮沢俊義憲法Ⅱ〈新版〉四三四頁。(7)法学協会編前掲書四八七’八頁。中村睦男生存権と生活保護基準(別冊ジュリスト五六号)九頁。
水木惣太郎生存権(日本法学一一一一巻一号)一九頁も、個人が財産や労働の機会を得ることはただ可能性 にすぎず、国家がこれをすべての人の具体的な権利として保障することは困難であると述べ、また、田上穣 治憲法撮要一四一頁は、法律の規定する限度において現実の権利が成立するといっている。 -72-前項でみたように、一一五条一項はたんに政治的道徳的綱領をしめした、いわゆるプログラム規定にすぎないとすると、 生存権のもつ意義の多くは失われることになろう。この人権をプログラムとする理由は、通常、資本主義経済体制にあ ・ること、予算をともなう財政上の問題があること、憲法上具体化する規定が欠けていることなどに基因するものとされ {し ているが、これらのことが生存権の権利性を否定する原因とならないことは、すでに論証されているので、あらためて 触れないことにする。そこで、そのほか生存権の権利性を無力化ならしめる要因のひとつとして、生存権の人権体系上 の位置づけにも問題があるようにも思われる。 二生存権の人権上の位置 (8)この事件の判旨はつぎのとうりである。すなわち、「憲法一一五条一項は、・・::積極主義の政治である社会 的施設の拡充増強に努力すべきことを国家の任務の一つとして宣言したものである。そして同条第一頃は同 様に積極主義の政治として、すべての国民が健康で文化的な最低限の生活を営み得るように国政を運営すべ きことを国家の責務として宣言したものである。」「国家は・・::個々の国民に対して具体的、現実的にか かる義務を有するものではない。言い換えれば、この規定により直接の個々の国民は国家に対して具体的、 現実的にかかる権利を有するものではない。」(最判、昭和一一一一一・九・一一九、刑集一一巻一○号一二一一一五頁)。 (9)法学協会編前掲書四八三頁。 布)佐藤功生存権の保障。法律と予算(清宮・佐藤編「憲法演習」)六○頁。 (U宮田豊他基本憲法一四○頁。 73
隼 一般に、生存権的基本権は、憲法上自由権的基本権し」同様、権利の保障という表現をとっているが、その法上の意味 はかな》らずしも同様に解することはできない。わが国のように、自由主義的色彩の濃い憲法のもとでは、もともとそ ●●●o●①⑥。●o●o●o の基調をなす自由権的秩序のなかで、それがもたらした矛盾を修正するために、いわば補充的な意味で付加された基本 (2) ● 権であるといわれる。このことは人権体系上、自由権がその中枢的地位をしめ、生存権は自由権の補充的地位にすぎな いことをあらわすものといえる。まえにみたように、二○世紀前期憲法は、「所有の自由を中心とする近代社会が、そ
の後に起った社会的課題に対応するために、生存権中心の人権保障に転値」し、一応生存権は人権の主座を占めたかの
ような外形を呈したのであるが、実は形式的な主人公であって、実質的には自由権の装飾品にほかならず、人権の属性 的権利として追随せざるをえなかったのである。 しかるに、一己世紀後期忠法はこれを天質化ならしめる使命を負い、名実ともに、「生存樅中心の人椎保障に転化」した4 7 にもかかわらず、生存権をやはり人権のサイド的存在としてとらえようとするところに、空洞化ならしめるひとつの要 因があるともいえるのではなかろうか。いいかえれば、’八’九世紀憲法における口由権中心主義の人権思想に胚胎し、 その延長線上に位置させた二○世紀前期憲法の伝統的生存権を二○世紀後期憲法の生存権としてすえおき、そのままの 形で定着化させようとしたところに問題がひそんでいるように思えるからである。 かつて、自然法思想家たちにより、主張された所有権をはじめとする財瀧権の不可侵性や経済活動自由の権利も次第 に、自然権の世界から脱落するはめになったのは、なによりも人間が人間らしく「生きる」ことの尊さをあらためて認 識するにいたったからである。この「生きる」ということは、「生命」の維持に価紡されたひとつのパターンであって、 人間にとってもっとも本質的なものであり、一」の本質を生命本能とでもよびうる。これは人間の生存の基礎をなすも(4) のであるから、人間社会においては、いつの時代でもなんらかの形で問題となる。
生命本能はそれ自体権利ではないとしても、法の世界への出発点であるということができ、判例もいうように、「人
の生命は、全地球よりも重く、尊いものである」(最判、昭和一一一一一・五。一一一、刊集一一巻一一一号一九一頁)がゆえに、
(5)究極的には、法の中心命題とされなければならない。このことを実定法的に考察すると、二つの側面が考えられる。|
つは、生命への直接侵害にたいする排除または予防を内容とするものであり、生命権といってもよい。この種にたいし
て、何入も侵害しえないし、国家といえども個人の生命権を剥奪することは許されない。これは国家との関係でいえば、
不作為を要求する権利であって、憲法上の人身の自由がこれにあたるといってよい。二つは、生命の維持をはかること
を内容とするものであって、これが日常の経済生活と密接な関連性をもつ生存権である。この権利は国家の不作為の面
とを併有するものであるが、憲法上とくに要求されるのは後者の側面といえる。ところで、この生存権の実現化とみられる社会福祉思想は、現代憲法に端を発したものではなく、遠くは、近世自然
法の父といわれるグロチウス(国・○:二:)や中世後半期の神学。新学者トーマス。アクィーナス(目百日:
萱三目の)などの極窮状態における「生きる権利」(且、三片。」ゴの)に、近くは、一〈世紀フラ
ンス革命の指導理念であった「友愛」精神のなかに認めることができる。このことは、裏をかえしていえば、
人間が人間として生きるということは、人間が生れながらにして有する固有の権利、すなわち、自然権としてすべ
て各人が、保有するものであることを物語るものといえるのである。また、かかる生存の保障を理性国家(くの目:岸の〔:戸)に求めてフィヒテ(]・○・国・盲の)は、
●●●●●@①●COo⑨COCOCO●●CO。●①、CO●◎COCOo◎●●◎。CO●@●●●●生存の継続なくして[曰由も人格も存在しえぬので、あらゆる自由な活動の最高かつ普遍的な目的は、最終的には、
75フィヒテにみられるように、「生きる」ことの尊厳は思想のみならず、実定法上も当然に遵守されなければならない。
いうまでもなく、二○世紀憲法の人権は「生きる」こと優位の法体系を構成し、その軌道上において他の権利は容認さ
れうること、ほかのことばでいえば、他の権利は「生きる」人権の補助的権利にすぎず、もしこれを侵害するようなば
あいは認められないということである。憲法はかかる原理を個人の尊厳(一一一一条)とか公共の福祉(一一一条、一一一一条)
など一般的に宣言しm具体的には、財産権や職業選択の自由を制約(一一一一条、一一九条)しているのはそのあらわれであ
(7)る。しかし、法規上これらの条項のみではかならずしも十分とはいえないから、運用の面が重視されることになろう。
|万、国家目的からすれば、近代憲法にあってはまぎれもなく、自由国家をめざすものであったのにたいして、現代
憲法においては、社会国家(の:旨-,国【の.m・園冨]のの〔:[)を指標とするものである。この社会国家とは、
「生活窮乏の原因となる社会的矛盾を除去し、社会的な正義の回復と確保をとおして、社会秩序の積極的な形成を義務
(8)づけられた国家」、別の表現をすると、「単に社会秩序の安定の保持者にとどまるものではなくて、さらに社会的な利
(9)害の対立を調整し、その原因を除去するために、国家の積極的な施策を意図する国家」なのである。
ょうするに、国家存立の目的は、人間主義といわれるロック(]・P・具の)によると、「より大きな安全を保つこ
(Uとをつうじて、相互に快適で安全で平和な生活を送る」ためであるといい、ラ1トプルフ(⑦。”且耳:房)も注
の目的と諸種の概念形成にまとめた書のなかで、「国家および法は、個人の保障および向上のための制度にすぎな
(川)い」と述べている。これらの主張が示すように、国家や憲法は人間、すなわち、その牝命や生存を保障するためにこそ
●●●●●@●●●●●「生きる」ということにあるからして、この目的が達成されなければ、白H由および人格の存続はまったく不可能である
(工o) 旨を指摘している。 76このような点から、恵法との中心的人椎は、いわゆる牝命権および牝存椛であり、山行は炎褒一体の権利として、人 権体系の核心的地位を占有するものといわなければならない。ことばをかえれば、}」のことは懲法解釈上、国家の国民 にたいする生存維持義務を政治的・道徳的以上のものとして、解釈しなければならないといってまちがいない。 存在するということになる。 注 (こ水木惣太郎生存権(日本法学一一一一巻一号)三頁は、生存樵を消極Ⅲと枇極面に分け、後者を生椚権として の構成原理三一一一一一頁。 (7)たとえば、田上編前掲八○頁は、西ドイツの基本法における人権でも、やはり自由権に関する規定が多 くみられ、生存権に関する規定と思われるものに、一一○条一項および一一八条一項の共和的・民主的・社会的 (△]。O・句】のザ[のCD①『ぬ①②。三.;のロの国回目」の一切白色[ぬご』、。句】◎ず奇①②②四日目【・三の円穴四・国」。の。四m①. ●● ]・の・国・旨の。の『巨且]眉の」の、Z貝日の『のC旨の》程「①①雪の割弄四・国」の.国桿画.小林直樹憲法 こ鵜飼信成基本的人権(憲法講座I)一○四頁。
(4池田政章生存権(田上編憲法事典)三八五頁。
二俵静夫行政と基本的人権(行政法講座第一一巻)一一一一一一一頁。
(したとえば、大須賀明憲法上の不作為(早稲田法学第四四巻一・一一号)|丘一一頁以下。 とらえているo 77このことについて、「新憲法が無謀にも生存権をすべての国民の具体的権利として、宣言したものとはとうてい解しえ (5) ない」とのことばに代表されるように、判例をはじめ通常法的権利性を認めがたい立場にあるように思われる。しかし、 (4) 鵜飼教授のいわれるように、「そのようなものが、はたして、基本権の一つに数えられ得るものであろうか」疑問なき をえない。生存権の生存権たるゆえんは、要保護者も国の保護のもとに、「人間らしく生存」できること、いいかえれ ば、「人間らしく生きられる」ことを国に対して、権利として請求しうるところに意義があるといえるのである。した する生存を確保するために、必要計費を積極的な形において、国に請求しうる権利を有するか否かということである。 の学説も生存権の自由権的側面については、その権利性を否定しない。この意味では、生存権はたんなるプログラムで (2) はないといえる。しかし、重要なことは社会権的基本権的側面として、老令や疾病などによる生活困窮者が、人間に値 (1) みぎにみてきたように、生存権の法的性格について、一般的に、プログラム規定とみられる傾向を有するが、いずれ 一一一生存権の法的権利性 {U]◎言P:戸の.目須『・曰『2百の⑰。{○・ぐのヨョの日・宮川透訳一一五一一頁。 ● {Uの:曰く用且ケ『口。ず》宛のo三m己二・:ご言の・田中耕太郎訳一八一一頁。 法治国家を宣言し、わずか六条に婚姻、家庭、母性の保護、九条に労働権の保障、一四条および一五条に財 産権の公共の福祉のための制限があげられるくらいであるにもかかわらず、基本権の実際上はこれら社会権 の適用が重視され、実質的には、社会権の保障を充実させようと運用面に力点がおかれていると述べている。 (8)二田上編前掲八一頁。 78
がって、生存権は、アントン。メンガー(シロ[・ロ三の。mの『)も指摘しているとおり、「椛利」(二m三・宛の○三・
号&〔)とみるのが正当であり、すでに検討したように、人権の体系化からも、また、幽法の規疋上「権利」と明一一口
している点からみても、このことはあきらかである。
(5)こんにちでは、生存権を法的権利とみる兇解も次第に増加しているが、その学説の多くは性質について抽象的権利で
あるとする。この権利の内容について、学者により多少の差異がみられるが、おおむね、「第一万条第一項は抽象的な
規定にすぎないから、立法によってこれを具体化することを要し、国民はそれによって具体的な生活保障を要求する権
利を保障されることになる。そのような立法がない場合に、この規定を根拠として訴えによって具体的権利を主張する
(6)ことはできない」ということでは一致している。したがって、この説は唯存椛規疋に椛利性を認める結栄、もし、「法律
(7)の不存在。不完備の場合は、国民がこの権利が保障されていないのであるから、悶家の不作為による憲法違反である」
とする点において、プログラム説よりもすすんだものとして高く評価しうる。
しかし、法律が制定されていないのは憲法違反だとしても、具体的にだれを被併とするか、手続上どのような訴訟形
態をとるのか、違憲判決の効力の実行性はどうかなどの点については定かではなく、生存権の権利性は、「法律によっ
て具体化されるものであるから、法律がなお存在しない場合、あるいは法律があってもそれでは不十分な場合は、実際
(8) (9)上具体化されえない」とする見解にいたっては、結果的にはプログラム説と変らないことになろう。もっとも、抽象的
(巾)権利説とプログラム説とでは、「憲法の明文の規定に対する基本的態度という点では全く反対である」かもしれないが、
(M} ●●●●●●●●●●●「この権利は法律上のそれであって、憲法から直接に(無媒介に)出てきたものではない」のであれば、やはりプログ
ラム説と大同小異である(傍点は筆者)bこの理論にしたがえば、憲法二五条のもとに法律が制定されているばあいは
79らないが、もしその施策がなされないときは?どのような救済手段をとりうるのか明確ではない。救済処置を有しない
権利ははたして法的権利といえるかどうか疑問である。 くりかえすまでもなく、生存権は要救済者が人間に値する生存をなしうるために、必要な諸条件の確保を具体的に要 求する権利が保障されることによって、はじめて現代的生存権としての存在価価をもつものといえるのである。 自由にできることとなっていて、立法万能主義といわざるをえない。とは立法部の恐意専権を意味することであり、国会の意思いかんでは、憲法上の権利を制限することも否定することも
を是認するのでなければ、論理的矛盾をきたし国民の法的安定性を害することになろう。別の角度からみれば、このこ
ぬがれざるをえない。生存権の法的権利を認める立場にたてば、法律の存在・不存在にかかわらず、一貫して法的効力
になる。このように、憲法の下位にある法律の有無によって、憲法上の権利が左右されるのは、本末転倒のそしりをま
権利が発生し、法律が存在しないときには権利性が否定されるという}」とになって、はなはだ奇妙な論理をまねくこと
また、抽象的権利説では生存権の権利を、「国家の積極的施策を国民が要求し得る権利をもつという意味において
{枢)可権利Lである」との主張もある。この説によると、国は被保護者の要求にしたがって積極的な施策を行ぜなければな
注 工池田教授は.プログラム規定の積極性、消極性とを区別して、日本国魎法のプログラムとワイマールのそれと は、本来性質を異にすると説かれている(プログラム規定における消極性と積極性〔立教法学一一一号〕一一一五 頁 、.= 0 80(&橋本教授は、「プログラム規定説を採る論者も、第一一五条も法的拘束力を一部承認することを意味するから、 その限度で破綻を下すものであろう」と述べておられる(過法〈現代法律学全集2〉三一一一○頁)。 三法学協会編註解日本国憲法上巻四八八頁。 工鵜飼信成基本的人権(清宮・佐藤編「憲法講座I」)一○○頁。 (5)松本昌悦環境破壊と基本的人権一五七頁は、環境権の社会的側面、すなわち二五条に依拠する生存権そ のものが、プログラム性を克服し、具体的な請求権としての法的権利性の学説判例の上で定着しつつあると (U横川博生存権の保障(渭宮・佐藤編「憲法講座2」)一一○一一一頁。 ご奥平康弘生存権と人権(奥平・杉原編「憲法学3」)六一頁。 (△橋本公亘前掲書一一一一一七頁。 1 {L覚道豊治憲法〈改訂版〉一一八九頁。橋本一別掲書、「もし立法機関が生存権を具体化するための何ら立8 法をしないときは、それは第二五条に違反するとみるべきである」と同旨。 (8)覚道豊治前掲書二八九頁。 (9)大須賀明社会権の法理(公法研究一一一四号)一一五頁は、この説(抽象的権利説)では、・・:・・生存権 はその社会権的効果においては、憲法上無内容のものであることが明らかであり、積極、消極の程度の差異 はあれ、第一説(プログラム説)と同様、プログラム規定説の範囲を少しもでないものであるといえようと きびしく批難している。 指摘している。
はないといわれる。なぜな》わ、 (2) たないという理由にもとづく。
抽象的権利説にあきたらず、もっと積極的に生存権の権利性を主張しているのに具体的権利説がある。この説は、憲・
法の保障する生存権の内容や手続などを詳細に定めた法律が存在しないばあい、またはその法律が不備のばあいには、
当該国民は憲法上の具体的権利にもとづいて、不作為もしくは不十分な国家活動につき、違憲確認訴訟を提起し、ひい
ては国会が、立法措置を講ずるよう司法救済を求めることができるとするところに、その特色をみることができる。
ところが、具体的礁利説は権力分立や法治行政、違憲確認や法律制定を求める訴訟手続の困難性に逢着する。もっと
{1}も、本説のいうように、法律手続規定の欠歓をもって、ただちに基本権の法的権利を否定することにならないのはいう
までもないが、具体的実現の方法として、つぎのように考えることがベターではなかろうか。ひとつの試論として検討
してみよう。しかし、このことは、裏をかえしていえば、規範内容が明確になると内閣にも該当する法規範、すなわち、要求の相
■まず、具体的権利説によると、憲法一一五条一頃は国会に対して直接適用される法規であって、内閣に妥当する法規で
ないといわれる。なぜなら、生存権規定は行政機関が一定の行政処分をなしうるほどに、明確で詳細な規範内容をも
四生存権の実効性 (必佐藤功佐藤・西原編「社会保障判例百選」一九頁。 円 82そこで、ちなみに、「最低限度の生活」は内容的に具体的な確定性を有しえないものかどうかについてみると、大須
(5)賀教授はおよそつぎのように説明されている。すなわち、生存権に対しては絶対的確定説と相対的確定説があって、後
説が「最低限度の生活」の水準を確定する場合に、低所得者層の生活水準、国家財政、国民感情などの不確定な政策的
要素を考慮し、決定させるべきであるから、それと無関係に絶対的水準が存在することはありえないとするのにたいし
て、前説では特定国家の特定時期においては、「最低限度の生活」の水準も後説と同じく、当該国家の歴史的社会的条
件により規定されるが、相違点は客観的に現実に存在し、その具体的内容は科学的に算定することができ、したがって、
生存権の権利内容は客観的に認識しうるほどの明確さをもっているとして、前説の正当性を主張されている。この絶対
的確定説は、生存権規定が直接行政部への妥当性を促進せしめる要素になるといってよかろう。
また、生存権規定の形式的方法について、憲法と法律(生活保護法)とでは具体的顕著な相違があるだろうか。憲法
●●●●●●● ●●●●●●●では、「健康で文化的最低限度の生活」と規定するのにたいして、法律(生活保護法)でも、「最低限度の生活の保障」
●●●●●●●(一条)とか、「最低限度の生活の維持」(四条。一一一条以下)などの定めをするにとどまり、その内容や水準につい
ては特別数値などをもって示されていない。このように、生存権の内容の定め方については、憲法も法律もともに規定
上、特別の変化はみられないといってもよい。したがって、生活保護法上の「最低限度の生活」の内容水準の具体的判
断が、第一次的に行政庁にまかされているならば、憲法上のその判断も一応、行政庁にもまかされうると考えてもいい
れる。 されることになり、生存権の重要な本質が見失われる危険性があるといえる。やはり、ここでも一貫した態度がのぞま手方になりうるということのように読みとれる。もしそうだとすると、態法上の権利が外形的規定の方法によって左右
83それでは判例の立場はどうか。河川附近地制限令違反事件において、鹸筒哉判所は、「同令(河川附近地制限令)四 条一一項による制限について、同条に損失補償に関する規定がないからといって、同条があらゆる場合について一切の損 失補償を全く否定する趣旨とまでは解されず、本件被告人も、その損失を具体的に庄脹立証して、別途、、接慰法一一九 条一一一項を根拠にして、補償を請求する余地が全くないわけではない」(昭和四一一一・二・一’七、刊集一一一一巻一一一号一四 ○二頁)と判示して、直接憲法にもとづき請求する権利のあることを認めている。 本件判決は法律の定めがないばあい、仇接懲法にもとづく損失補償の請求を是認したリーディング・ケースであり、 きわめて示唆ににとんだ画期的判決と評されてよかろう。 また、下級審の判決ではあるが、借地樅確認土地引渡等請求事件において、来京両等叔判所は、「地方、治法一F( たるの性質を有するに止まるものではなく、それ向体実定法としての性質を有するものと解すべきであるから、これに (4) 基いて現実に正当な補償を請求することはもとより許されるべきである」とか、今村教授の「各突定法の定めによるべ (5) きであるが、補償規定を欠くときは、直接、憲法二九条一一.項に基いて請求をなしうべきものと觜える」などの主張、そ (6) れに、後述の判例の影響もあって、こんにちでは請求権発生説が次第に優勢となってきている。 要救済者は直接憲法二五条一項にもとづき、行政庁にたいして生活保障費を求めうることになる。 ように思われる。もし、こうしたことが許されるとすれば、一一五条の法的権利性はいっそう明確性をおびることになり、 これに関連して、憲法二九条三項に直接もとづく補償請求が大変参考になる。しかし、学説はこぞって賛成している わけではなく、立法指針説、違憲無効説、請求権発生説とに分かれていて、従来の学説の主流は違憲無効説に傾いてい たのであるが、近来、田中(二)博士の早期からの主張、すなわち、「日本国憲法第一一九条第三項は、単に立法の指針 84
条の四第五項は、行政財産の使用を許可した場合において、公川もしくは公供川に供するため必要を北じたとき、また
は許可の条件に違反する行為があると認められたときは、池川通地力公壮〈剛体の圧・・・……は、その許呵を取澗すことかで
きると規定し、損失補償の要否については、何ら触れるところがない。………しかし、忠法.、九条二一収に……規定する
のは、いわゆるプログラム規定ではなく、もし使用許可の取消しにより、財朧化の犠牲が一般的に閂然に受忍すべき制
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●限の範囲をこえ、特別の犠牲を課したものとみられる場合には、、接忠法一一九条:.収を根拠に衲償の北川求をすること力
●●●できるものと解するのが相当である」(昭和四四・一一一・一一七、高裁民集一一一一巻一号一八一頁)と判断をくだしているの
(7}も請求権発生説を肯定するものであって、注目に他する判決であり、さきの蚊岡裁の判決を蹄聾したものといえる(傍
これらの判決住いずれも憲法二九条三蝋に関する事業についてではあるが、火際、幽法化の椛利から血接に諦求権がひ
(8)きだされた実績の例をわれわれはもっていることに目をそむけることはできない。ほかのことばでいえば、懸法の権利
規範が行政機関に、直接妥当することをあらわしたものといってよかろう。
かつて、西ドイツのラントのハンブルグ上級行政故判所(○ケの【ぐの愚三m}日長叩頭の10言)において、基
本法にもとづき、国に直接具体的な一定額の生活保護の給付ができるかについて、判断をくだしたことがある。同裁判
●●●●●●●●●●●●●●●●●所によると、基本法一条一二項は直接に適用される法であり、ひとりひとりの国民に公法上の権利もあたえるものであっ
て、生活を守るために、賦与された権利は積極的な内容をもつものである。けだし、腿本法二条二項はたんにプログラ
ムとして宣言したものではなく、権利的効力を有するものであって、たんなる忠法上、立法政策上の要請にすぎないも
のではない。なぜなら、直接に適用される法であるとした一条三項によって、それ以下の基本権も、同様に、直接に適
点筆者)。 85しかるに、わが最高裁は憲法二五条一項について、当該国民が具体的現実的に、直接請求できる権利を有する規定で
はないとして、生活保護を求めることを認めていないが、両者では、規範内容、規定の方法にそれほどの顕著な相違が
●●⑦●oみられるだろうか。ちなみに、一一九条一一一項は、「私有財産は、正当な補償のドに、これを公共のためにⅢひることがで
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●きる」と規定するのにたいして、一一五条一項は、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有す
る」と定め、前者にくらべて後者の方が、規定の仕方においては、はるかに権利性、具体性、内容の点で明確性をもっ
ているように思われる。かりに、百歩譲って、双方とも規範内容の規定の仕方は変らないとしても、両規定はともに金
銭給付を求めるものであるのに、前者のばあいは是認されるが、後者においては、しかも化命維持に肛接かかわりをも
つ事項であるにもかかわらず認められないのは、「憲法解釈上バランスを失すぬ」ことになりはしないだろうか・
ようするに、損失補償(一一九条一一一項)と生活保障(一一五条一項)との不均衡を、「憲法上矛盾なく解釈するためには、
直接憲法に基づくことは許されないという立場は、せっかく最高裁判所が国民の利益を考えて出した判決の趣旨に反す
るので採用できず、直接憲法に基づくことは許されるという立場で解釈するほかに山」という結論に到達することにな
り、もしこの立場を貫くとすれば、「制定法によって明記されている場合にのみ請求権の形成が存在するという必要は
用される法規範となるからである。公法上の権利である個個人の生活権は、消極的内容しかもたない防禦権以上のもの、
●●●●● ●●●●●●いわゆる積極的権利であって、生存を否定するような侵害の排除を請求できる権利であるだけではなく、積極的な作為、
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●すなわち、最低生活の維持に必要な扶助の給付を要求できる権利である。一一条一一項をそう解するのでなければ、この基
(9)本法規定の意義はほとんど失われてしまうと判旨しているのは、わが国生存権規定への直接の適要を暗示するものと解
されよう。 86この主張のように、「法律による行政」(&目三の【日二○口P:。『」旨、【・一:『.、①の①日日凹匡、のご①『君四一(目、)
は原則として、こんにちでも行政作川を支配する原卵といってもよい。この原川は、旧家樅〃ことに行政権 力が国民生活に介入し、国民の権利向山を侵宵する瞥察旧家を否定して、向山国家の立場にたち、「法」により一 できるだけ行政権の自由かつ盗意的活動を抑制し、封じることによって、国民の権利自由を保障しようとする要請にもとづくもので、いわば、「自由権的基本権の尊重確保」を中心概念としたものといえる。この「法」とは、国民の代表
者で構成する議会によって制定された「法律」(]曾弓・○⑦の①:)を意味し、法律に定めたばあいにのみ、国民の権
利自由の制約や国民に対する義務の賦課行為が許されるとするのである。 このように、法律による行政は、国民の「国家からの自由」、とりわけ「行政からの自由」を目的とする自由主義的・ 民主主義的政治原理にねざした自由国家における行政の基礎をなすものであって、自由国家の行政観であった。そのた めに、国家権力を立法、行政、司法に分立せしめ、行政権の作用を立法権のもとに、あるいは司法権のコントロールの もとにおくことになる。このことは、伝統的な法治主義の要請にもとづくものであって、「具体的には、国民の自由権 あげている。というのは、 (⑫ を要するというのである。 (枢) なくなる」のである。 つぎに、具体的権利説は憲法一一h条一項が行政機関に妥当しえない理由に、法治行政ないしは法律による行政の原理を □ている。というのは、行政庁が一定の権限を行使するばあいには、かならず法樺によることの喫請にもとづくこと ロ 87このような自由国家における行政は、国防、外交、秩序維持を目的とする警察行政や租税徴収の財政行政が中心であ
って、これらの目的を実現するために、国民に命令、強制する権力的行政がその中核をなすものであったから、法律に
よる行政は、まさにこのような行政作用においてこそ理想的な形で支配するといいうる。しかし、自由放任主義の矛盾による失業や貧困などの増加は、白山国家にかわって、礼会国家ないしは棡祉旧家
(急の|{四『のの国(の.ヨニの『口の三○三{二『の(:(の)を出現させ、国家の消織的作用にとどまらず、積極的
(北)国家活動の要請をうみだし、行政領域において、国家は、「国民の細祉の向上発展のために、横極的な行政活動」を行
なう必要にせまられる。いわゆる編祉行政の向上発展の強い要請は、漸次、行政の複雑化や多様性をもたらし、行政の
はたすべき役割も次第に変化せざるをえなくなり、やがては行政にたいする態度も、「すべて、行政活動は冗令な司法
(Ⅳ一 律の支配Lをうけ、単に法律の具体化、執行にすぎないとする建前をとるものとはいえない」結果をみちびくにいたる。別のいいかたをすると、従来の「市民的自、主義の伝統的な原卵が否疋され、あるいは修脈されるようになると、可法
律による行政Lの原理もまた変容を蒙らざるを得なくなるのであ麺」。
|般に、法律による行政の原理には、「法律の優位」(ぐ・「『:ね」の⑫○の“の一:鞭)および一法律の笛保」
(二〕『すの冨旨」の四○の:庁:の)がその内容をなすものといわれているが、これらの原則を機械的に行政のす
べての領域に適用せしめるのは、現代の行政にあっては、狭きに失するきらいがおころう。というのは、打政はことごと
く国会の定立した法律にのみもとづいて行なわれるとする「法作の箭保Lの脱川は、陥祉国家における汀政の分野においては、 (Uを保障するための自由主義的原理」を具現化したものであり、かかる制度のもとにおける個人の生存の維持向上も、お
(帽) のずから、「国家権力の干渉の外で、各人の自由な活動に任さるべき」であるという結論に達する。 88行政にあっては、一八。九世紀的な市民的。自由主義的平面な行政の領域のものとしてではなく、立体的な、「いわば
司与える行政Lという別系列の品」に属するものといえる。
(、) をえない。 ぬ給付行政は、積極的に国民の福祉の増進を目的としているがゆえに、憲法上の法律事項の指定、その他政策上の理由 (四一 から法律に根拠を定めることがあっても、理論上は法律の根拠を要しないといわれるようになって、これまでの「法Ⅱ 傾向が強くならざるを得ないのである。さらには、直接には法律の具体的規定に基づかない行政活動も行なわれるよう (”) になる」と、伝統的な法律による行政の原蝿が完全な形で支配することが困難となり、多かれ少なかれ修服をうけざる 的に行政の役割を促進しうるような対策を行ずることが要求されるからである。 しうるためには、法律は行政を罪悪視して封じこめるのではなく、ばあいによっては行政に授権をし、あるときには積極 ることにより、本来、期待された行政の機能を完全には発揮しえないことにもなりかねない。行政の効果を十分に期待 妥当性を欠くように思われるからである。行政作用をすべて法律で束縛してしまうのがはたして適当であるか、そうす このように、福祉国家の生成進展にともなって、法律と行政との関係はすくなくとも、行政作用にたいして変化をお よぼすことになり、従来の行政にたいする法律の厳格な拘束も緩和の傾向をたどらざるをえなくなる。かかる状況のも とで、「行政の機能をよりよく発揮させるために、行政に裁量の範囲を広くし、多様な合目的的活動を許容するような くりかえすまでもないが、「行政活動が複雑多岐となり、専門技術化してくるにつれ、行政権の自由な判断に委ねざ (、) るを得ない場合が少なからず生ずることは、今日一般に承認されている」のであるから、非権力的管理作用にほかなら こんにちの行政活動の動向をみるに、「積極的に国民の社会経済生活に関与し、その福祉を増進」せしめていく給付 89ころであるから、国家機関は当然にこれに拘束される。ことばをかえていえば、国家機関は憲法に宣言された国民の意
思を立法に、また行政に具体化せしめる任務を負っているのである。このことを生存権についていうと、生活困窮者に
対する救済対策の責務は、立法機関のみならず行政機関にも該当するものといえる。ただ、憲法が代議制をとっている
(前文、四一一一条)関係上、代表者すなわち国会の制定した法律にもとづき行政が行なわれることを原則とする(四一条、
七一一一条一号)ため、第一次的には国会がまずこれに該当し、立法策を講ずる使命をになっている。しかし、ここで問題のように、国会が法律の定立を放置しておくばあいには、事情が異なり第二次的に内閣がこれに
当る一」とになる。その法的根拠は、憲法が生存する権利を自然法的権利として、その前文に、「欠乏から免れる権利」
として基本理念を宣言し、本文では、国家にたいして総論的に、個人の尊厳l化命や幸柵追求を国政上最大の任務と
すべきこと(一一一一条)、さらに、個人を他と同様に平等に生存ならしめるように取計うこと(一四条、一一五条)、各論
として具体的には、要保護者が人間として生き、生命の維持ができるように生活保障費を支給するため(二五条一項)、
内閣にたいして、政令を制定すること、すなわち、「この憲法………の規定を実施するために、政令を制定すること」
(四)法律の論理にも多かれ少なかれ、実質的変容」をきたすことになる。しかし、このことは法的根拠を不要とし、行政機
関の盗意を許すということではなく、あくまで直「法」つまり「需潅」の繍冒にもとづさ人権の完全な保障をきすことを意 味するのであって、これこそまさに一一○世紀後期の実質的法治主義の行政といってよかろう。 そもそも、憲法は国民が厳粛な信託によるものであって、その福利を国民が享受しうるために行なわれることを命じている(前文)。したがって、立法権の行使はいうまでもなく、「行政権の行使(も)、国民の意志にもとづい
て、国民のためになされなければならな(咽」。この意思は、国民主権の原理を基盤として制定された憲法の明言すると
90たしかに、同教授のいわれるように、立法権を国会に専属的に賦与せしめている点からみて、憲法の規定を実施する 1 ばあいには、法律をまって行なうのが原則であるに違いない。しかし、憲法も立法について、例外を認めないわけでは。9 ない。たとえば、議院に規則を制定する権利を認め(五八条一一項)、地方公共団体に条例の制定権を賦与し(九四条)、 量員裁判所に規則制定権を与えている(七七条)のがその例である。 もっとも、憲法がこれらの例外を認めたとしても、これらの事項に関して、国会による立法を完全に排除する意味で はないであろう。最高裁の規則制定に例をとれば、「訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務に関 する事項」(七七条)について、最高裁が規則で制定することもできるが、また国会が法律により定めることもできる 趣旨と解せられよう。したがって、憲法が国会以外に立法事項を認めた例外にも法律の入る余地を残しているといって よい。ようするに、憲法は、立法に関していえば、原則と例外をきびしい条件のもとに同時に認めたものと解すること ができる。 (七三条六号)を明文化し義務づけていることにみられる。 ところが、憲法七三条六号から、法律の介在をまたず政令を定めることに学説は反対する。宮沢教授はその理由を、 「憲法は、|般に立法権を国会に与えている。これは、憲法の規定を実施するために、必要な規定を設けることは、原 則として、国会が法律によってなすべきだとする趣旨と見るべきである。そうでなく、法律の媒介をまたずに、憲法の 規定を実施をするために政令で規定を設けていいことになれば、すべての立法(実質的意味)は、憲法の規定の実施の
ための法規範の定立だといえるから、憲法が国会に立法権を排他的に与えようとした趣旨がまったく失われてしま廼」
ためだと説明されている。以上検討したことから、生活困窮者は直接憲法一一五条一項の規定にもとづき、生活保護を求めうると解し、もし、そ の要求がなされたばあいには、行政の皷高責任機関である内閣は、生活関連法案を国会に提出する(憲法七一一条、内閣 法五条)とともに、みずから生存権規定を施行するために政令を制定(憲法七三条六号)して、要救済者の佗存を可能 ならしめるための処置をとらなければならないことになる。これは、憲法がまさしく化存権を法上の「権利」として認 めるがための帰結である。
個人を保障し向上させる制度であって、死滅に陥るものではないはずである。したがって、国家機関たる行政部は、人朋
ず、かかる行為は生存権の意義を躁麟するものといわざるをえない。ラートブルフのいうように、国や法というものは 一m) 理由にこれを拒絶し殉うんぬんすることは〃溺れるものへの説教〃であり、不作為に国民の生命を奪うことにほかなら 一 間の生存を維持発展せしめるためにこそ存在し、作用しなければならないのである。 この論理を生存権にあてはめると、国会の制定した法律によって具体化するのが原則であるが、国会の不作為により 立法策が行なわれないで、しかも、要救済者の要求があったばあいには、一定の条件のもとに内閣が一一五条一項を実施 するために、政令を定立し困窮者の生存の維持をはかりうるとするのが、七三条六号の趣旨と解せられ、このことは人権の保障に合致こそすれ、けして憲法の精神にそむくことにはならないだろう。かさねていえば、内閣のかかる行為は法
律による行政の例外をなすものではあるが、法治主義や法治行政を否定するものではない。憲法は被保護者に生活保障
をすべきことを命じているにもかかわらず、その要求にさいして、内閣の法治行政の名のもとに、法律の欠畝や不備を ()もし、要保護者の申請にしたがい、内閣が政令を制定して給付を行なわないときは、行政庁の不作為にたいして提起
される給付訴訟、すなわち、行政庁が一定の処分を行なうように命ずることを求める、いわゆる無満抗偽訴訟を起すこ
とができると解されよう(行訴法一一一条、七条)。もっとも、このような給付訴訟や莪拐づけ訴訟について、通説は否定
的傾向であるが、戦争未亡人の年金を求める事件において、東京地方裁判所は、「申諭に対し行政庁のなすべき行為の
内容が一義的に明白であるという場合には、.…・….あらためて行政庁の判断を総る必喫性も合剛性もないことは明らか
●●●● ●●●●●●●●●であるから、かような場合には、裁判所は、行政庁の第一次的判断をまつまでもなく、ただちに、《、政庁に一定の作為
●●●●●●●●●●●●義務がある旨を判断し得るものといわなければならない」(昭和一一一七。一一・一一九、行裁集一一一一巻一一号一一一一一七頁)
(ごとしていることは、行政庁の不作為にたいする作為の義務を認めた判決であり派uされてよい(傍点筆者)。
なお、右判決は義務確認訴訟に関するものであるが、「司法裁判所が特定処分をなすべき行政庁の義務を判決するか
(”)ぎりでは、義務確認判決と給付判決とは行政法論上ほとんど同じ問題」であるといいうるから、東京地域の認めた義務
づけ訴訟の意義は大きいといわざるをえない。また、実際、給付訴訟を叫能とする東京地裁の判決もあるのである。す
なわち、「行政庁の第一次的判断を重視する必要がない程度に明白で、かつ事前的な創法審査によらなければ、国民の
●●●●●●●権利救済が得られず、回復し難い損害が生ずるというよ)っな緊急の必要性があると認められる場合は、行政庁に対し行
(和) ●●●o●●●●●●●●●●●●●●●●政処分についての作為………を求める訴訟(給付訴訟):……・も許されないわけではない」(昭和四○・四。一一一一、行
裁例集一六巻四号、五七○頁)と判示していることから、給付訴訟が可能であることをあきらかにしているといえよう。
注 93(Lこれらの判決のほか、都営住宅の使用許可を取消すぱあいに、「使川省の質に帰すべき嘱由、もしくはそのM
債務不履行に基づかないで、もっぱら公益目的のためにその使用許呵を取り消す場合には、原告においても、 それによって公益的目的に供された居住の利益に対し、相当の補償とすべきことは憲法一一九条一一一項の趣旨な らびに行政処分撤回の法理に照し、当然であるといわなければならない」(収京地判、昭和四○・六・一五 下裁民集一六巻六号一○○五頁)との判決もある。Tl下山瑛一一健康権lそ。概念確立。必要性と可能性li卜璽三八号]二・三
(9)三目、。一旦【一の】pCDm②因oppの、の『巨口二mの②の:。⑭ロの口ロンロニ・の。】、の. 小川政亮権利としての社会保障一九六’七頁。もっともこの判決は、連邦憲法裁判所により棄却された けれども、その意義は大きいといえよう。ご大須賀明憲法上の不作為(早稲田法学第四四巻第一・二号)一五七頁。
二宮坂・北野編豊かに生きる権利二四○頁。 亘大須賀前掲一七四’五頁。 (4)田中二郎行政上の損害賠償及び損失補償一一六四頁。下山瑛一一国家補償法一一九○頁。 (5)今村成和財産権の保障(憲法講座2)’一○○頁。z今村成和行政判例百選〈新版〉’八八頁。下山前掲書一一九八頁も、学説としては判例を契機とし
て、直接に請求権を発生せしめうるとする説がほぼ公定性をえてきているといいうると考えると述べて
いる。五山田幸男給付行政法の理論(現代の行政〈現代法4〉)一一八頁。 室田中前掲書一一一○頁原前掲書一一一○頁も同趣旨。 丙)成田頼明他現代行政法九’一○頁。 、}雄川前掲五頁。 命)杉村敏正編行政法概論〈総論〉四九頁。 垂宮沢俊義Ⅱ芦部信喜補訂全訂日本国憲法五七一一頁。 ⑪原前掲書一一四頁。 (U雄川前掲一○頁。
亟雄川一郎現代における行政と法(現代の行政〈現代法4〉)八頁。
(u原龍之助公物営造物法三○頁。
C田中二郎行政法総論〈法律学全集6〉一九一頁。(辿俵静夫行政と基本的人権(行政法講座一巻)一一一一九頁。
(U我妻栄編新法律学辞典八七九頁。 (宿)大須賀前掲一七九頁。同社会権の法理(公法研究一一一四沼)一一ヒロ。 行}下山前掲書一一九九’三○○頁。 己高原賢治憲法学3〈人権の基本問題Ⅲ〉一一一九頁。 (四高原賢治憲法判例百選〈第一二版〉一○九頁。同慰法の判例〈第一二版〉一一三口。 95付 また、最判昭和四七。||・三○民集一一六巻九号一七四六頁も、「:::鴇後的に義務の否定を争ったので は回復しがたい重大な損害を被るおそれがある等、輻前の救済を認めないことを著しく不相当とする特段の