南武蔵における埴輪生産の一様相一〇一 はじめに古墳の外表施設である埴輪は、六世紀を中心とする古墳時代後期の関東地方において、須恵器の焼成技術を応用した窖窯生産によって爆発的に隆盛し、中小規模の古墳にまで樹立されるようになる。墳丘の形式や規模によって明確に階層化された古墳時代社会において、葬送に関わる祭祀の道具として製作された埴輪は、被葬者の造墓活動に表れる政治的諸関係を如実に反映するものとして、その解明に欠かせない重要な遺物である。また、手工業製品としての埴輪は、作り手である工人集団が保持する製作技術や表現方法など、他の集団とは異なる独自の特徴が現出しやすい。同一の工人集団が製作した埴輪の分布や展開を追究す ることで、集団を掌握した地域の大首長とその配下の中小首長、あるいは地域間の首長同士の関係性の解明にも期待が持てる。本論で対象とする南武蔵は、現在の東京都および神奈川県の一部に当たる。関東地方の中でも、他地域と比べて埴輪樹立古墳は少ない傾向にある。その一方で、独自の埴輪生産体制を十分に保持し得ない地域事情を背景にして、在地生産によらない複数系統の埴輪が搬入され、同一古墳に樹立される事例は多い。その系統を明らかにする上で、当該地域は有利な条件を揃えていると考える(伝田二〇一一、二〇一五)。本論では、神奈川県川崎市高津区に所在する末長久保台一号墳から出土した埴輪を対象として、埴輪製作の際に表
南武蔵における埴輪生産の一様相
神奈川県川崎市高津区末長久保台一号墳の分析事例から
伝 田 郁 夫
史観第一七九冊一〇二面に残された工具の痕跡である刷毛目を中心に同工品分析を行い、同古墳における埴輪生産体制の復原を試みる。併せて、埴輪の胎土に関する既往の科学分析の成果(三辻一九八九、三辻ほか二〇一四)を援用して生産地を推定し、当該時期における南武蔵の埴輪生産の実像に迫りたい。
1
.南関東地方における埴輪生産の特徴関東地方における古墳時代後期の埴輪生産は、おおよそ六世紀第
築造された状況を看取できる。 埴輪と豊富な形象埴輪群を伴う地域最大級の前方後円墳が 掘調査の進んでいない古墳もあるが、大型多条突帯の円筒 総・千葉県山武郡横芝光町殿塚古墳などが築造される。発 市七輿山古墳、北武蔵・埼玉県行田市埼玉二子山古墳、下 古墳、下野・栃木県小山市琵琶塚古墳、上野・群馬県藤岡 る今城塚古墳とほぼ同時期に、常陸・茨城県小美玉市舟塚 など)。関東地方の各地では、継体大王の真陵と考えられ の研究で指摘されている(城倉二〇一一b、日高二〇一三 による地方支配の影響がその背景にあることが、これまで 〇一五)。また、畿内における継体大王の擁立や大和政権 窯において固定的かつ集中的な操業が開始される(伝田二
2
四半期を画期として、各地域に成立した大規模 る現地生産(図 の比企地域に本拠を置く「プレ桜山」系統の工人集団によ 輪生産の動向と機軸を同一にし、後期前半は埼玉県中央部 をまとめている(伝田二〇一五)が、おおむね北武蔵の埴 ける古墳時代後期の埴輪生産については、すでにその概略 円墳が多摩川下流域に散見される程度である。南武蔵にお 築造は終息し、後期に至って四〇~五〇mクラスの前方後 級の前方後円墳が卓越するものの、中期以降は大型古墳の 一方、武蔵・相模といった南関東では、前期に一〇〇m1
・ 類から、少なくとも二基の供給古墳が想定され、うち第Ⅰ る。「刷毛目共通類型」(城倉二〇一一a)に基づく三群分 から六世紀初頭にかけて操業していた埴輪の製作遺跡であ 内で唯一発見されている、南関東では数少ない五世紀後半 一一)に携わる機会を得た。前者は、これまでに神奈川県 市高津区諏訪に所在する諏訪天神塚古墳の整理(伝田二〇 井坂埴輪窯跡の整理(伝田二〇〇九)、二〇〇九年度に同 筆者は、二〇〇八年度に川崎市宮前区犬蔵に所在する白 連動すると考える。 革する時期は、上記の関東地方における埴輪生産の画期に になったと考えた。現地生産から搬入品へと生産体制が変 出塚窯をはじめ、複数の生産地から埴輪が搬入されるよう 埼玉古墳群へ主体的に埴輪を供給していた埼玉県鴻巣市生2
)、後期後半は、二子山古墳以降の南武蔵における埴輪生産の一様相一〇三 群については、高津区梶ヶ谷に所在する西福寺古墳との需給関係が立証されている(図
枝状に発達した狭小な台地上に展開している。また、沖積 いった埴輪出土古墳が所在し、多摩川と沖積低地を臨む樹 墳・稲荷塚古墳・久本山古墳・日向古墳・桃之園古墳と 高津区内には、前述の西福寺古墳のほか、末長向台一号 れたと推定した。 輪が、河川や東京湾を利用することで南武蔵までもたらさ 安山岩を混入する特徴から、利根川中流域で製作された埴 胎土に群馬県榛名山の噴火活動の噴出物に由来する角閃石 一方、後者は六世紀後半の横穴式石室を有する円墳で、 業を行っていたと想定される。 ており、古墳に近在して臨時的に製作遺跡が設営され、操 白井坂窯跡と西福寺古墳は直線距離にして約三・八㎞離れ ながら「プレ桜山」系統の工人集団の関与が考えられる。 古墳(小出一九八五)でも確認されており、断片的な資料 では類例が少ないものの、多摩川対岸の東京都狛江市亀塚 を示す第Ⅱ群の三条突帯四段構成の円筒埴輪は、周辺地域 企地域との関係性がうかがえ、また第Ⅲ群と協業の可能性 面T字形を呈するタテガミの馬が出土していることから比 ず、単発的な操業形態であったと結論付けた。第Ⅲ群に断 周辺古墳の様相からみて継続的な埴輪生産体制は想起し得
3
)。しかし、遺構の状況や■
■
■ ■
■
1 2 2 34
5
6 7
8 9 10 10 11
12
13 14 14 15
16 17
1819
20 21
22 23
24
1:桜山窯跡群 2:和名窯跡群 3:姥ヶ沢窯跡群 4:権現坂窯跡群 5:埼玉二子山古墳 6:岩鼻3号墳 7:下松5号墳 8:柏崎27号墳 9:古凍根岸裏7号墳 10:新屋敷古墳群 11:月輪古墳群 12:広木大町41号墳 13:大宮西高校校庭 14:柊塚古墳 15:一夜塚古墳 16:白井坂窯跡 17:御嶽塚古墳 18:亀塚古墳 19:浅間神社古墳 20:堤方権現台古墳 21:荒塚1・2号墳 22:西福寺古墳 23:末長久保台1号墳 24:登山1号墳 荒
川
多 摩川
50km 0 (S=1/1,600,000)
は需給関係を示す は需給関係を示す
図1 古墳時代後期前半における「比企系統」埴輪の分布
史観第一七九冊一〇四低地にも諏訪天神塚古墳・諏訪浅間塚古墳といった埴輪出土古墳(伝田二〇一一)が存在する。白井坂窯跡第Ⅰ群との需給関係が証明されている西福寺古墳(竹石一九八四)は、円筒埴輪の外面に二次横刷毛調整を有することから川西編年(川西一九七八、一九七九)のⅣ期に位置付けられるほか、末長向台一号墳(相川ほか編二〇〇三)も白井坂窯跡第Ⅱ群との共通性が高く、六世紀前葉までの年代が与えられる。一方、稲荷塚古墳(浜田一九九二)・久本山古墳(増子一九八八、浜田一九九七)・日向古墳(伊東・大坪一九七九、浜田一九九七)については生出塚窯産、桃之園古墳(滝澤亮ほか二〇〇二)についても「下総型」人物埴輪が出土していることから、六世紀後半を中心とした築造年代が考えられる。このように、南武蔵における埴輪生産は、六世紀前半を「人が動く時代」・六世紀後半を「モノが動く時代」(城倉二〇〇九)としてとらえることができるが、円筒埴輪の形態的特徴や形象埴輪の表現方法の検討といった従来の研究方法に加えて、刷毛目の照合や胎土の科学分析(三辻二〇一三)などの成果を総合することで、より詳細に埴輪の生産体制を復原できる可能性を持っており、事例の蓄積が今後の課題となろう。
0 (S=1/30) 50cm 1: 二子山古墳
2: 岩鼻3号墳 3: 新屋敷古墳群 4: 月輪古墳群 5: 柊塚古墳 6: 御嶽塚古墳 7: 登山 1 号墳 8: 広木大町 41 号墳
9: 白井坂埴輪窯跡 10: 古凍根岸裏 7 号墳 11: 柏崎 27 号墳 12: 大宮西高校校庭出土 13: 末長久保台1号墳 14: 亀塚古墳 15: 下松5号墳 16: 原山1号墳
断面T字形のタテガミの馬
扉表現のある家 足にトゲの表現がある力士 弓を貼り付けた板を持つ人物
赤彩斑点の帽子を被る人物
1 2 3
4
5 6
7
7 7 7
4
8 9
5 4
10
11 12
13 14
15 16
波状ヘラ記号を施す円筒埴輪
3
図2 「比企」系統埴輪と南武蔵における類例
南武蔵における埴輪生産の一様相一〇五
西福寺古墳
未周知古墳 第Ⅰ群
第Ⅱ群
第Ⅲ群 協業?
第Ⅱ群+第Ⅲ群
40cm 0
(S=1/18)図3 白井坂埴輪窯跡と周辺古墳の需給想定図
史観第一七九冊一〇六
2
.末長久保台一号墳と出土埴輪の概要(
末長久保台一号墳は川崎市高津区末長に所在する(図
1
)末長久保台一号墳の概要 号墳が六世紀第 土した土器の年代観から、四号墳が五世紀前半~中葉、三 墳には陸橋部を有することが判明している。周溝内から出 が、発掘調査の結果、直径二〇m前後の円墳で、二~四号 り、埋葬主体部の構造や副葬品に関する情報は皆無である ずれも墳丘上部の盛土は後世の削平によって失われてお 二〇〇八)が、一号墳以外から埴輪は出土していない。い れており、末長久保台古墳群と呼称されている(大坪ほか 周辺では、これまでに一号墳を含む四基の古墳が確認さ 盛土を失った円墳と考えられている(大坪ほか二〇〇八)。 土したことから、現在では、周溝外形二八~三〇m程度の 開発事業に伴う発掘調査に際して、周溝の一部と埴輪が出 ついては不明であった。しかし、二〇〇〇~二〇〇一年の 古墳の痕跡は認められなかったこともあり、遺構の性格に 集家によって埴輪が採集されてきたが、その時点ですでに 地の平担部に位置する。一九八〇年代半ば頃から地元の収4
)。多摩川の沖積低地を北に臨む標高約四五mの舌状台2
四半期に位置付けられている(大坪ほか3 ㎞ 0 (S=1/60,000)
末長向台1号墳●
日向古墳●
●白井坂埴輪窯跡
●西福寺古墳
●稲荷塚古墳
桃之園古墳
末長久保台1号墳
諏訪浅間塚古墳
●
●● 諏訪天神塚古墳
★
★
●● 久本山古墳
多
摩 摩
川 川
図4 川崎市内の主な埴輪出土古墳
南武蔵における埴輪生産の一様相一〇七 二〇〇八)。一号墳は、小規模な円墳で構成される末長久保台古墳群で唯一、埴輪を有する古墳として評価できる。埴輪以外の出土遺物や遺構に関する情報に乏しく、古墳の築造年代を積極的に位置付けるのは難しいが、円筒埴輪の透孔の形態などから、新旧二時期の要素を有することがこれまでにも指摘されており(鈴木一九九〇、浜田一九九二、一九九七)、おおむね六世紀初頭から前葉に位置付けられる。
(
土の経緯から、大きく三つの資料群が知られている(図 (伝田二〇一一)でも述べているが、これまでの採集・出 末長久保台一号墳から出土した埴輪については、旧稿
2
)末長久保台一号墳出土埴輪の概要5
・6
)。①.
能登昭吾氏が採集し、鈴木重信氏が紹介した資料(鈴木一九九〇)。②.
岡道孝氏が採集した資料(浜田・長谷川一九九五)。③.
二〇〇〇~二〇〇一年の開発事業に伴う発掘調査で出土した資料 )1
(。
このうち、①と②、①と③で接合関係が認められること から、採集場所がほぼ③の発掘調査地点の周辺であることが分かる。器種としては、円筒埴輪(普通円筒埴輪・朝顔形埴輪)のほか、人物・馬などの形象埴輪が確認されているが、後者は全体的に遺存状態が悪く、その構成を詳らかにすることは難しい。普通円筒埴輪については、確認できた完形品はすべて二条突帯三段構成であり、中間段の第二段に一対二孔の透孔を有する。三条以上の突帯を有する普通円筒埴輪の完形品を確認できないことから、三条以上の突帯が残存するか三段目に透孔を有する円筒埴輪については、朝顔形埴輪である可能性が極めて高い。朝顔形埴輪については、次章で詳述するが、五条突帯六段構成に復原できると考える。胎土としては、顕著ではないものの、結晶片岩・白色針状物質(海綿状骨針)が含まれる一群が存在する。群馬県藤岡市に所在する本郷埴輪窯跡群・猿田埴輪窯跡群(志村二〇〇四)の胎土組成と近いことから、多摩川流域で生産されたものではなく、群馬県など他地域で生産された可能性が高いと考えられている(大坪ほか二〇〇八)。もう一群については、肉眼観察による限り、右記の混入物や雲母・角閃石安山岩といった地域的特徴を示す鉱物や岩石などは含まれていない。末長久保台一号墳の埴輪の系統については、これまでに
史観第一七九冊一〇八
50cm
0 (S=1/10)
D類
能 7 能 6
C類
能 4-3 能 4-2 能 3-4 能 3-5 能 4-1 能 4-4
能 4-5 能 4-6
B類
能 3-2
能 3-3
A類岡 438
能 3-1 能 4-7 能 5
図5 末長久保台1号墳出土埴輪①(能登・岡資料)
南武蔵における埴輪生産の一様相一〇九
50cm
0
(S=1/10)
C類
7
8 11 10 9 12
B類
2
4 5
6
16 14 17
A類
1 13 3
15
図6 末長久保台1号墳出土埴輪②(2001年発掘調査資料)
史観第一七九冊一一〇も「プレ桜山」系統の埴輪に属すると考えられてきた(城倉二〇〇九、伝田二〇一五)。その最大の根拠は、図
考える上で重要である。 先行する可能性が高く、「プレ桜山」系統の埴輪の展開を は、円筒埴輪の透孔の形態などから、厚木市登山一号墳に 能性が高いとされる。末長久保台一号墳から出土した埴輪 土の上からも峻別され、異なる製作遺跡から供給された可 (城倉二〇〇九)、二群・一六類型に細別される埴輪群は胎 登山一号墳の同工品分析を行った城倉正祥氏によれば との高い共通性が指摘できる。 物、扉表現のある家などが出土しており、比企地域の埴輪 は、波状ヘラ記号を施す円筒、赤彩斑点の帽子を被る人 所在する厚木市登山一号墳で確認されている。同古墳から て珍しく、関東地方では、同じ神奈川県内の相模川流域に 足の甲にトゲ状の粘土塊を貼付する人物埴輪の類例は極め あるように「足にトゲの表現がある力士」の存在である。
2
に3
.末長久保台一号墳出土埴輪の分析(
いて、刷毛目共通類型に基づいて分類を行う。同古墳出土 本章では、まず末長久保台一号墳から出土した埴輪につ
1
)刷毛目共通類型に基づく同工品分類 の四種類 2) 筆者が行った刷毛目原体の同定作業では、A~D類まで いる。の断面形状の突出度から、両群の間に時期差を想定して もあるが円形の透孔を有している。またこれに伴う突帯 態にある。甲群は半円形の透孔、乙群はややいびつなもの 分類されている(鈴木一九九〇)が、その基準は透孔の形 の円筒埴輪は、かつて鈴木重信氏によって甲・乙の二群に
(が抽出できた(図
7
・ 埴輪の各属性を示したものが表 C類に伴う形象埴輪の破片も確認できない。 えて、形象埴輪の大半はD類に属すると考えられる。また め、原体を復原できなかった。刷毛目や胎土の特徴から考 そのほかの個体については全体的に遺存状態が悪かったた 類、「足にトゲの表現がある力士」にD類を確認できたが、 きない。形象埴輪については、「曲刃鎌を持つ人物」にA で確認できたのはA~C類の三種類であり、D類は確認で8
)。このうち、円筒埴輪本的には二稜を作出しようという意図で横ナデ調整を行っ いる。一方、C類も突帯下端の調整はやや甘いものの、基 はほとんど未調整に近く、全体的に粗雑なつくりとなって 面が三角形を呈するものが多い。特にA類は、突帯貼付後 に、突帯の調整においては下端のナデ付けが不十分で、断 は、突帯の断面形状と調整方法である。A類・B類とも
1
である。特徴的なの南武蔵における埴輪生産の一様相一一一
0 2cm
(S=1/1)
A類 2001-13
能3-1 能4-7
A’類 岡438
2001-3 2001-15
2001-18 2001-19 能4-7
能5 2001-1
B’類 2001-06
2001-14 能3-2 B類
2001-02
2001-04
2001-05
2001-06 2001-16 2001-17
2001-18
2001-19 能3-3
図7 末長久保台1号墳出土埴輪の刷毛目集成①(第Ⅰ群)
史観第一七九冊一一二ており、断面形態は上稜がやや突出した低平な台形を呈している。こうした突帯の特徴はD類においても同様であり、同一刷毛目が施された埴輪は、全体的な器形、突帯の断面形態や調整方法、透孔の形状、内外面調整などにおいて、比較的良く一致していることが分かる。ただし、A類・B類・C類ともに、口縁部付近の斜め刷毛調整が右上がりに施される個体が存在する。内面調整の方向は製作者の利き手に左右される可能性が高く、それぞれの類型に複数の工人が関わっている可能性は否定できない。しかし、現状ではその他の属性から積極的にその存在を推定することは難しい。上記の分析結果から、末長久保台一号墳の埴輪製作における工具の属人性は高いと考えられる。したがって、ここに抽出したA~D類の刷毛目の使用者に関しては、それぞれ四人の工人(工人A~D)の存在を想定できる。次に朝顔形埴輪について検討を試みる。末長久保台一号墳から出土した各類型の朝顔形埴輪を示したものが図
を用いて製作されている。A類・B類は第二・三段それぞ 形埴輪は、いずれも残存範囲内において単一の刷毛目工具 帯六段構成の復原案が妥当である。図示した三個体の朝顔 筒埴輪との形態の比較から、前章でも述べたとおり五条突 ある。底部から口縁部まで完存する資料はないが、普通円
9
で0 2cm
(S=1/1)
C類
2001-10 2001-9 2001-8 能4-4
能4-3
能4-2
C’類
2001-12 2001-11
2001-10 2001-7
能4-6 能4-5 能4-2 能3-5
能3-4 能4-1 D類
能6 能7
図8 末長久保台1号墳出土埴輪の刷毛目集成②(第Ⅱ群)
南武蔵における埴輪生産の一様相一一三
A ? a a b
A,A' - a - -
- A' - - - -
? A' - b a b
A' ? a a b ×
A' ? b b c
A R b b c
- A' - - - -
? B' - - d
? B - b b b
B - b a b ×
? B L b,c - d
B ? ? - d
No.6 B,B' - b b c ×
? B' ? b - b
? B - b - d
B - b b b
A',B - ? - -
A',B - ? - -
C' R? d c a
C' ? d c b
C' R d c b
C,C' R? d - b
C ? d - b
- C - - - -
C' - - - -
- C' - f - b
C' ? e - c
? C R? d - b
C R d c a
C,C' R? d d b
C' R? d - a
C' R f - b
D R f - -
D R? f - -
C
D A
B
a b c d e f
突帯の断面模式図
a b c d
口縁部の断面模式図
※内面調整a=底部から上面に向けて縦刷毛調整
b=底部から上面に向けてナデ調整後、口縁部付近まで左上がり斜め刷毛調整 c=底部から上面に向けてナデ調整後、口縁部付近まで右上がり斜め刷毛調整 d=底部から残尊崇範囲でナデ調整のみ
表1 末長久保台1号墳出土埴輪の属性分析表
史観第一七九冊一一四
A類
B類
2001-18
A類
B類
2001-19
第2・3段に半円形透孔A類
第3段に円形透孔 C類 B類
第2・3段に半円形透孔
25cm 0
(S=1/8)15cm 0
(S=1/5)図9 各類型毎の朝顔形埴輪の形態(上)と複数の刷毛目を有する破片(下)
南武蔵における埴輪生産の一様相一一五 れに半円形透孔を一対、C類は第三段に円形透孔を一対穿孔している。また、朝顔形埴輪の第四段(肩部)およびその直下の第三段が残存する破片資料が出土しており、第三段にB類、第四段にA類の刷毛目が確認できる。これらの資料については、すでに浜田晋介氏が、複数工人の関与もしくは工具の共有という二つの可能性を想定しつつ、A類・B類それぞれの胎土に含まれる砂粒の違いなどから、前者の可能性が高いことを指摘している(浜田ほか二〇〇六)。資料はいずれも完形品でないため断定は難しいものの、埴輪の諸特徴や工具の属人性からみて、浜田氏の見解は妥当であり、工人A・Bはそれぞれ単独で朝顔形埴輪を製作する一方で、二人で協業しながら一個体の朝顔形埴輪を製作する状況があったと想定される。上記の分類から、本古墳から出土した埴輪には、工人A・Bと工人C・Dからなる二つの埴輪製作者のグループが復原できる。両グループの埴輪は、前章でも述べたが、胎土の含有物に違いが見られる上、A・B類は全体的に胎土が砂質で、焼成も甘く軟質な仕上がりとなっているのに対して、C・D類は焼成が堅緻で、色調も橙褐色から灰褐色を呈するなどの特徴がある。残存する資料からの推論であるが、両者の間には工具の 共有が見られないことなどから考えて、それぞれ二人一組のグループが、異なる場所で埴輪製作に従事していた構図を想定できる。本論では、工人A・Bを第Ⅰ群、工人C・Dを第Ⅱ群と呼称する。末長久保台一号墳出土円筒埴輪の中で、全形が復原できた個体のプロポーションについて、北関東における二条突帯の円筒埴輪(城倉二〇〇九)と比較すると、A類はⅡ群(半円形透孔、縦刷毛)、C類はⅢ群a(円形透孔、縦刷毛、第三段が長い)およびⅢ群b(円形透孔、縦刷毛、各段均等)と共通した特徴を有する。本古墳の埴輪は、古墳時代後期の北関東において定着・展開した埴輪生産と密接な関係性を有し、こうした地域の工人集団の関与によって製作されたものと考える。(
図 の埴輪の産地を推定する。三辻氏の分析に供された試料は た蛍光X線分析の成果(三辻一九八九)に基づいて、両群 も同様に峻別される。ここでは、かつて三辻利一氏が行っ の間には刷毛目の共有はなく、肉眼観察に基づく胎土から ら出土した埴輪を二群四類型に分類した。第Ⅰ群と第Ⅱ群 前項では、埴輪共通類型に基づいて末長久保台一号墳か
2
)蛍光X線分析値との比較検討10
に提示した十二個体である。破壊分析のため、原試料史観第一七九冊一一六
A類
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
C類
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
B・D類 蛍光X線分析試料
51 52 53 54
55
56 57
51 53 58
59 60
61 62
10cm 0 (S=1/5)
図10 末長久保台1号墳出土埴輪の蛍光X線分析レーダーチャート
南武蔵における埴輪生産の一様相一一七
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
埼玉県本庄市宥勝寺・赤沼窯跡群
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
群馬県藤岡市猿田窯跡群
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
埼玉県鴻巣市生出塚窯跡群
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
埼玉県東松山市桜山窯跡群
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
埼玉県熊谷市姥ヶ沢窯跡群
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
埼玉県熊谷市権現坂窯跡群 図11 群馬県・埼玉県における埴輪窯跡の蛍光X線胎土分析レーダーチャート
史観第一七九冊一一八
蛍光X線分析資料(西福寺古墳)
10cm 0 (S=1/5)
▽西福寺古墳
▽白井坂埴輪窯跡
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
白井坂埴輪窯跡
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 K
Ca
Fe(1/10) Rb
Sr
西福寺古墳 蛍光X線分析資料(白井坂埴輪窯跡)
44 45 42 43
40 41 39
38 37 35 36
34
図12 白井坂埴輪窯跡・西福寺古墳出土埴輪の蛍光X線分析レーダーチャート
南武蔵における埴輪生産の一様相一一九 の確認・照合はできていないが、一覧表に記載された刷毛目密度および拓影図を原寸に拡大して計測した上で、刷毛目の類型を推定した。その結果を表示したレーダーチャートを見ると )3
(、A類は
Sr
とCa
が突出する領域、C類は図 すれば、より確度が上がるものと考える。 思われる。刷毛目の原体を確定した上で、再度分析を実施 の峻別(B・D類)がされていないことに起因するものと がって分布している。これは分析当時、対象試料の刷毛目 度が七~九本/㎝の個体については、両方の領域にまた 採取地)が複数存在した可能性を指摘できる。刷毛目の密 した二種類の胎土があり、埴輪の生産地(もしくは粘土の 少なくとも末長久保台一号墳の埴輪には、二群大別に対応 見られた胎土の違いが蛍光X線分析にも反映されている。 し、明らかに異なる胎土組成を示している。肉眼観察上で
Fe
がやや突出する領域に属利根川中流域周辺の窯跡から出土した埴輪と近似した組成 群(A類)の胎土は、群馬県藤岡市周辺から埼玉県北部の を特定することは難しいが、分析結果に基づけば、第Ⅰ 跡のレーダーチャートである(三辻ほか二〇一四)。窯跡 長久保台一号墳の胎土組成と類似した数値を示す製作遺 関東地方各地の埴輪窯跡や古墳の蛍光X線分析の中で、末
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は、近年、三辻利一氏と埴輪研究会が実施してきた もたらされた可能性を指摘できる(図 る二地域から、河川や東京湾を利用して、多摩川流域まで ら、末長久保台一号墳から出土した埴輪は、北関東の異な 比企地域から出土する埴輪と特徴が一致する。このことか を示している。一方、第Ⅱ群(C類)については、埼玉県線分析の事例(三辻一九八九)を図 なお、参考として白井坂埴輪窯跡と西福寺古墳の蛍光X
13
)。分析などの事例を蓄積していくことが重要である。 する必要がある。今後、埴輪の系統を重視しながら、胎土 と異なることから、多摩川流域以外に製作地の存在を想定 析値は、南武蔵において現地生産・供給された右記の事例 によって賄われてきた。末長久保台一号墳の埴輪の胎土分 南武蔵では在地の埴輪生産はほとんど定着せず、搬入品 違いを反映していると考える。 は、おそらく製作遺跡に近在する粘土の採取地点の微妙な 埴輪と同様の領域に収まっている。視覚上の胎土の差異 異は見られない。また、西福寺古墳出土埴輪も、窯跡出土 軟質な焼成になっているが、第Ⅱ・Ⅲ群との間に著しい差 から西福寺古墳に供給された第Ⅰ群の胎土は、砂質が強く
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に掲載する。同窯跡史観第一七九冊一二〇
4
.まとめ本論では、主に円筒埴輪を対象として、刷毛目共通類型に基づいて同工品分析を行った。その結果、末長久保台一号墳の埴輪は、少なくとも二群四類型に分類され、二人一組の二グループ(合計四人)の工人の関与によって製作されており、うち二人には協業が認められることが分かった。また、二つのグループは製作場所を異にしていることから、両者の間には積極的な技術交流や情報交換はなかったと考える。そして、末長久保台一号墳の埴輪は、多摩川流域ではなく、群馬県・埼玉県など、北関東で製作された可能性があることを指摘した。冒頭にも述べたとおり、これまで、筆者は南関東における埴輪生産の画期は、北武蔵と同じく六世紀第
ら、当該時期の埴輪生産のあり方には、現地生産に拠らな ちらも「プレ桜山」系統の工人の関与が考えられることか 窯跡において単発的な埴輪の現地生産が行われており、こ ては修正を要しない。しかし、ほぼ同時期には白井坂埴輪 輪と考えて問題なく、大筋において埴輪の系統関係につい 台一号墳の埴輪について、第Ⅱ群を「プレ桜山」系統の埴 にあると考えてきた。今回の分析成果によれば、末長久保
2
四半期頃摩 川 多
荒 川 利 根 川
1:末長久保台1号墳 A:猿田埴輪窯跡群 B:宥勝寺・赤沼窯跡群 C:生出塚窯跡群 D:桜山窯跡群 E:姥ヶ沢窯跡群 F:権現坂窯跡群 A類型+B類型
第Ⅰ群
C類型 D類型 第Ⅱ群
A B
C D E F
1 0 50km
(S=1/1,600,000)
図13 末長久保台1号墳出土埴輪と胎土組成が類似する埴輪窯跡の分布
南武蔵における埴輪生産の一様相一二一 い他地域からの搬入という事例も存在する可能性を考慮する必要がある。これまで、南武蔵における六世紀前半の埴輪生産体制は、工人が現地に移動する「人が動く時代」(城倉二〇〇九)とされてきたが、現地生産によるか搬入品によるかは、対象古墳の立地などに影響された単純な結果であるどうか、今後、様々な面から詳細に検討する必要がある。また、小規模の円墳と想定されながら、複数の製作遺跡から埴輪の供給を受けている点は重要である。第Ⅰ群の半円形透孔の円筒埴輪は、製作地を群馬県藤岡市周辺と想定した場合、猿田埴輪窯跡群にも類例は存在する(山田二〇〇四)。しかし、本古墳の円筒埴輪は、A類のような寸胴の円筒埴輪の形態や半円形の透孔は、どちらかといえば埼玉県本庄市金鑽神社古墳(増田ほか一九八六)出土の円筒埴輪など、児玉郡域の中期古墳に樹立された埴輪と類似する要素が強い。もちろん、中期古墳の埴輪であることから年代的な懸隔は大きく、タタキ技法を有するなど製作技術の違いもあり、直接的に系統関係を比較することはできない。しかし、城倉正祥氏が整理した埼玉古墳群の埴輪編年(城倉二〇一一a)において、五世紀後半に古墳群が成立する端緒となった稲荷山古墳に樹立された埴輪に見られる三つの系統(①黄白色系統、②橙褐色系統、③赤褐色系 統)のうち、①の「生産地は特定できないが五C末~六C初に集約された場所で生産された埴輪群」は半円形の透孔との類似から末長久保台一号墳の第Ⅰ群に、②の「比企・大里の複数窯の生産品。六C前半の「プレ桜山」の展開が特徴」とされた埴輪群は第Ⅱ群との共通性が高い。稲荷山古墳の埴輪は、児玉郡域や比企地域における中期の埴輪生産を母体としている可能性が高いこと(城倉二〇〇九)から、南関東地方において小規模な古墳に複数系統の埴輪が搬入され樹立された背景には、こうした北武蔵の大型古墳群の成立が関係していると考える。
おわりに本論では、南武蔵の多摩川流域に所在する末長久保台一号墳の埴輪について、古墳時代後期初頭から前葉にかけて複数の生産地から供給されたものであることを明らかにし、胎土の蛍光X線分析の成果を援用して製作地を推定した。周辺地域に目を向けると、同じ高津区桃之園古墳では「下総型」人物埴輪と別系譜の人物埴輪の二種類、久本山古墳でも生出塚窯産の円筒埴輪と別系譜の人物埴輪の二種類、多摩川の対岸に位置する東京都大田区浅間神社古墳(滝沢ほか一九九二)では二次横刷毛調整を有する円筒埴
史観第一七九冊一二二輪と一次縦刷毛調整のみの円筒埴輪の二種類など、複数系統の埴輪が出土する古墳が散見される。また、これらの古墳から出土した埴輪については、三辻利一氏の一連の研究において、胎土組成に明瞭な差異が存在し、異なる製作遺跡から供給されたことが示唆されている(三辻一九九二、一九八九)。遺構の状況が詳らかでない古墳が多く、同一古墳から出土したものであるか検討する余地はあるが、南関東では、千葉県市川市に所在する法皇塚古墳(山崎ほか二〇〇二)から、「下総型」円筒埴輪と生出塚窯産の形象埴輪が出土している事例を挙げるまでもなく、複数の生産地から埴輪がもたらされることは数多く見られる。もちろん、こうした事例は南関東に限ったことではなく、古墳の規模に応じて、複数の工人集団による生産体制が編成されることは珍しくないが、本論で検討したように、当該地域では小規模な古墳でも複数の生産地から埴輪が供給されていること、生出塚窯群による広域流通網の確立以前にも、工人の移動を伴わない遠距離供給が存在した可能性が示唆された。一方、工具(刷毛目)や埴輪の原材料(粘土や混和材)を携えて工人集団が移動すれば、結果として製作された埴輪は同じであるという主張もあろうかと考える。同一古墳から出土した埴輪に見られる型式学的な差異をどのように 捉えるべきかなど、今後の課題とすべき事項も多い。埴輪の系統を念頭において、生産地と古墳間における刷毛目の照合などの分析事例を蓄積し、胎土分析などの科学分析を援用することで、拠点的な製作遺跡で行われた大規模生産とは異なる、地域の小規模な埴輪生産や遠隔地供給に迫ることができると考える。その作業を努めて継続することを期して擱筆する。
註(
(
1
)本論では二〇〇一年発掘調査資料と称する。〇九)を確認できた。本論ではAおよび の刷毛目(A~C類)で、正・逆のパターン(城倉二〇
2
)末長久保台一号墳で確認できた刷毛目のうち、D類以外( いと考えられる。 て、同一原材から作られた兄弟工具が存在する可能性は低 る。復原した工具の本数やそれぞれの埴輪の特徴からみ
A’
のように表記す析は基本的にK・ 『埴輪研究会誌』第一八~二一号を参照)。三辻利一氏の分 X線分析をテーマとした研究大会を実施している(詳細は て、関東地方の埴輪窯跡群・古墳から出土した埴輪の蛍光
3
)埴輪研究会では、二〇一三年度から二〇一六年度にかけCa
・Fe
・Rb
・Sr
・しているが、末長久保台一号墳、白井坂埴輪窯跡および西
Na
の六因子をベースと南武蔵における埴輪生産の一様相一二三 福寺古墳の分析では、
して表示した。 から、本論では、レーダーチャートもそれに合わせて改変
Na
を除く五元素で示されていること謝辞
本論は、二〇一七年一〇月三〇日に早稲田大学戸山キャンパス三九号館考古学研究室において、文学研究科考古談話会第一六九回例会(第四回博士後期課程研究発表会)「南武蔵における埴輪生産の一様相:川崎市高津区末長久保台古墳出土埴輪の分析事例から」の発表内容を骨子として、新たに起稿したものである。発表に際しては、早稲田大学大学院文学研究科考古学コースの大学院生諸氏から有益なご教示を戴いた。
本論に関わる資料分析は、筆者が川崎市市民ミュージアムで臨時職員を勤めていた二〇〇九年当時の学芸員であった浜田晋介氏(現・日本大学文理学部教授)のご高配により、川崎市内出土埴輪の整理に携わる機会を与えて戴いて行ったものである。本論の起稿に併せて再度実施した資料調査に際して、能登昭吾氏および岡道孝氏の旧蔵資料については川崎市市民ミュージアムの古家満葉氏・村山翠氏、二〇〇一年発掘調査資料については川崎市教育委員会の新井悟氏に便宜を図って戴くとともに、写真などの掲載にも ご許可を戴いた。二〇〇一年発掘調査資料の掲載については、有限会社吾妻考古学研究所の大坪宣雄氏のご配慮により、未公表の実測原図を一部トレースして使用することにご許可を戴いた。
朝顔形埴輪の実測図については、早稲田大学文学部考古学コースとの協定に基づいて、三次元計測データに株式会社ラングのPEAKIT処理を施して作成した。また三次元データの整理および図版の作成に際しては、早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程の渡邊玲氏、同修士課程の谷川遼氏にご助力を戴いた。
末筆ではございますが、お世話になった皆様に深甚より感謝を申し上げる次第です。
最後に、日頃からご指導を戴いている早稲田大学文学学術院准教授の城倉正祥先生をはじめ、発表の機会を与えて戴いた考古学コースの諸先生にお礼申し上げます。
引用・参考文献相川 薫・恩田育夫編 二〇〇三『川崎市高津区末長向台遺跡発掘調査報告書』宮崎№四遺跡発掘調査団伊東秀吉・大坪宣雄 一九七九「川崎市下作延日向横穴墓群の調査」『第三回神奈川県遺跡調査・研究発表会』発表要旨、第三回神奈川県遺跡調査・研究発表会準備委員会
史観第一七九冊一二四
大坪宣雄・杉本靖子・渡辺昭一 二〇〇八『川崎市高津区末長向台遺跡第三地点・末長向台古墳群発掘調査報告書』吾妻考古学研究所川西宏幸 一九七八・一九七九「円筒埴輪総論」『考古学雑誌』第六四巻第二号・第四号、日本考古学会小出義治 一九八五「亀塚古墳」『狛江市史』狛江市志村 哲 二〇〇四「藤岡産埴輪の供給について」『猿田Ⅱ遺跡の調査』(『国立歴史民俗博物館研究報告』第一二〇集)国立歴史民俗博物館城倉正祥 二〇〇九『埴輪生産と地域社会』学生社城倉正祥 二〇一一a『北武蔵の埴輪生産と埼玉古墳群』奈良文化財研究所城倉正祥 二〇一一b「武蔵国造争乱―研究の現状と課題―」『史観』第一六五冊、早稲田大学史学会鈴木重信 一九九〇「川崎市高津区末長久保台出土の埴輪」『川崎市文化財調査集録』第二五集、川崎市教育委員会滝沢規朗・門脇伸一ほか 一九九二『浅間神社古墳』浅間神社古墳遺跡調査団・東京急行電鉄滝澤 亮・滝澤友子 二〇〇二『青砥山ノ下第一号墳とその時代』(『盤古堂考古資料室展示図録』一)盤古堂考古資料展示室竹石健二 一九八四『県史跡西福寺古墳―保存整備報告書―』 川崎市教育委員会伝田郁夫 二〇〇九「まとめ」『白井坂埴輪窯跡』(『川崎市市民ミュージアム考古学叢書』六)川崎市市民ミュージアム伝田郁夫 二〇一一「諏訪天神塚古墳出土の埴輪をめぐって」『諏訪天神塚古墳―多摩川低地の遺跡群研究―』(『川崎市市民ミュージアム考古学叢書』七)川崎市市民ミュージアム伝田郁夫 二〇一五「古墳時代後期における埴輪生産の変革とその背景―南武蔵を中心に―」『月刊考古学ジャーナル』№六六七、ニューサイエンス社浜田晋介 一九九二「川崎の埴輪」『川崎市市民ミュージアム紀要』第四集、川崎市市民ミュージアム浜田晋介 一九九七「川崎の埴輪Ⅱ」『川崎市市民ミュージアム紀要』第九集、川崎市市民ミュージアム浜田晋介・小坂延仁 二〇〇六『古墳の出現とその展開』川崎市市民ミュージアム浜田晋介・長谷川祐紀 一九九五『川崎市市民ミュージアム収蔵品目録 考古資料』第一集 岡道孝コレクション、川崎市市民ミュージアム日高 慎 二〇一三『東国古墳時代埴輪生産組織の研究』雄山閣増子章二 一九八八「大蓮寺裏出土人物埴輪」『川崎市史 資料編』一 考古・文献・美術工芸、川崎市
南武蔵における埴輪生産の一様相一二五 増田逸朗・佐藤好司 一九八六「児玉町金鑽神社古墳」『埼玉県古式古墳発掘調査報告書』埼玉県史編さん室三辻利一 一九八九「綱島古墳、及び、その周辺の古墳出土須恵器、埴輪の蛍光X線分析」『綱島古墳』横浜市埋蔵文化財調査研究委員会・横浜市教育委員会事務局社会教育部文化財課三辻利一 一九九二「埴輪の胎土分析」『浅間神社古墳』浅間神社古墳遺跡調査団・東京急行電鉄三辻利一 二〇一三『新しい土器の考古学』同成社三辻利一・犬木 努・近藤麻美 二〇一四「関東地方の埴輪の蛍光X線分析(一)―窯跡群の分類―」『埴輪研究会誌』第一八号、埴輪研究会山崎 武・山路直充 二〇〇二『市川市出土の埴輪』(『市立市川考古博物館研究調査報告』第八冊)市立市川考古博物館山田俊輔 二〇〇四「円筒埴輪」『猿田Ⅱ遺跡の調査』(『国立歴史民俗博物館研究報告』第一二〇集)国立歴史民俗博物館
図版出典図
1
・(伝田二〇一五)を一部改変して作成。
2
図
(伝田二〇〇九)を一部改変して作成。
3
図
もとにArcGISを用いて作成。
4
国土地理院が提供する基盤地図情報の数値標高モデルを 図(鈴
5
木一九九〇)、(浜田・長谷川一九九五)をもとに作成。図
図 レースして作成。
6
二〇〇一年発掘調査資料の実測原図を一部デジタルト7
・図
8
資料調査の成果をもとに作成。(鈴
9
木一九九〇)、二〇〇一年発掘調査資料の実測原図を一部デジタルトレース、およびデジタル三次元計測の成果にPEAKIT画像処理を施して作成。図
10
・11
(三辻一九八九)の分析成果をもとに作成。図
12
(三辻・犬木・近藤二〇一四)の分析成果をもとに作成。図
13
資料分析の成果をもとに作成。表出典表
(鈴木一九九〇)および資料調査の成果をもとに作成。