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「似セモノ(偽物)」と「写し」の価値転換

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『人文コミュニケーション学科論集』17, pp. 127-139. © 2014茨城大学人文学部(人文学部紀要)

 昭和30年代の「永仁の壺」事件と荒川豊蔵作《随縁》をめぐって   

藤原 貞朗

要約

 本稿は、昭和35年に社会問題となったいわゆる「永仁の壺」事件をめぐって、なぜ30 間も称賛されてきた加藤唐九郎窯による古陶の似セモノが、一転して贋作として問題化した のかを芸術社会学的に分析する。そこには単なる科学的な真贋問題のみならず、日本の似セ モノ(偽物、贋作、写し、など)に対する美的価値観の変動が暗示されている。特に注目す べきは、昭和29年の重要無形文化財の指定による古陶の写しとその象徴としての荒川豊蔵 による志野の写しの価値の急上昇である。唐九郎窯の似セモノが偽物として糾弾されたとき、

対照的に、それまでは評価されなかった荒川による写しが新たに国家が認定する芸術となる。

この転換には、「妖怪」のような魅惑的な偽物から、「亡霊」のように過去の伝統に囚われた 写しへと価値判断が切り替わってゆくさまがみてとれる。怪しい/妖しい焼物に理想を投影 した美的価値観が、伝統芸術という既成のコンセプトを権威とする価値観に屈し、古陶の写 しに対する日本人の美的価値観が劇的に変化したのである。

1 はじめに

 昭和35年に問題化したいわゆる「永仁の壺」事件をめぐって、今日の美術史研究者が不 可思議に思うことがある。それは、加藤唐九郎の工房が作った古瀬戸の「似セモノ(偽物、

贋作、写し)」のうち、戦後には「永仁の壺」を含む3点が重要文化財に、そして戦前には少 なくとも7点が重要美術品に指定されたという事実である1。骨董や古美術の世界に偽物がつ きものだが、重要文化財や重要美術品に指定された偽物はほとんどない。どうして、唐九郎 窯の似セモノだけが、数多く国家指定の美術品と認定されたのであろうか。

 古瀬戸の蒐集家だった高橋茂によれば、唐九郎窯からは昭和12年に少なくとも20点の偽 物の完品が出たという2。また、『永仁の壺事件 偽作の顛末』(1990年)を発表したジャー ナリストの松井覚進によれば、昭和2年と昭和12年に少なくとも二度似セモノが制作され、

50点ほどが市場に出たらしい3。100点以上の「写し」を作ったという加藤嶺男(唐九郎の 長男)の証言もある4。いずれも不確かな情報だが、唐九郎窯から出た似セモノがかなり高 い確率で、昭和10年代〜30年代前半に重文や重美に指定されたことは間違いなく、なぜ、

と問わずにはおれない。

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 この疑問については、事件発覚当時から、東洋陶磁の専門家の鑑識眼がなかったとか、あ るいは陶磁研究の水準が低すぎたとか説明されてきた。しかし、研究水準の低さを理由に、

この事件が単なる真贋問題と理解されては、事件の核心を取り逃がしてしまうだろう。とい うのは、唐九郎窯の似セモノを高く評価した当時の専門家たちは、ただ真贋鑑定をして本物 に間違いないという理由で重要文化財に指定したわけではなかったからである。例えば、日 本陶磁協会の会長であった佐藤進三は昭和21年に唐九郎窯の似セモノに対し、それが鎌倉 時代に瀬戸で焼かれた「どの窯をも凌駕する」と極めて高い評価を与えている。さらには、

「感のにぶい人にはこの松留窯の製品〔唐九郎窯の偽物のこと〕は他の類例のないものがあ つて不思議にさへ思はれ、まづまづいけないとするに越した事はないとしてしまう」のだが、

「いいものをいけないとするのは、いけないものをいいとするより罪が重い」と言い切って いる5。佐藤に言わせるなら、自らに「見る目」があったからこそ重要美術品や重要文化財 にふさわしいという価値判断を示したのだった。

 このように当時の専門家は、唐九郎窯の似セモノに対して、真贋問題よりも作品の美的な クオリティを優先し、そのうえで優れた美術品と判断している。彼らのスタンスは今日の我々 の態度とは正反対だったと言えよう。我々は、もはや唐九郎窯の似セモノを美的観点から見 ることができず、もっぱら真贋のみを問題にしているきらいがあるからである。おそらく我々 は、かつての専門家が持っていていた「見る目」を失い、偽物の疑いのある作品に対しては、

積極的に美的な見方を出来ないようになっている。本稿で問題としたいのは、この我々が失っ たであろう「見る目」についてである。事件を引き起こす原因のひとつとなった「過去の目」

を非難する前に、偽物(似セモノ)を美的に鑑賞できなくなった我々の目を再検証してみた いと思うのである。過去の専門家たちは、いかなる観点から唐九郎窯の似セモノを観察し、

称賛したのか。そして、その評価した目は、なぜ、いつごろ失われてしまったのか。こう問 うことで、近代日本(とりわけ戦後の日本)における似セモノに対する見方の変化を、歴史 的に検証することができるだろう。

2 昭和1020年代の理想の古瀬戸、「唐九郎窯の似セモノに日本人は何を見たのか」

 まず、当時の陶磁器研究者が唐九郎窯の似セモノに何を見たのかを確認したい。先の佐藤 の言葉にあるように、専門家は似セモノを「松留窯」の作品と呼んだが、「松留窯」とは過 去の文書に記載はあるが所在不明の瀬戸の古窯で、加藤唐九郎はその窯址を発見し、そこか ら古陶を発掘したと偽証していたのだった。松留の古陶と称されて流通した偽物は、有名な

「永仁の壺」に代表されるように黄色の光沢ある釉薬が流れ、今窯から出たばかりのような 美しさを際立たせていた。一見して本来の古瀬戸、例えば昭和2年に国宝に指定されていた 正和元年銘を有する灰釉瓶子よりも状態がよく、完成度も高く感じられる。唐九郎窯の似セ

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モノを称賛したのは、よく知られるように、小山富士夫ら日本陶磁協会の専門家たちだった が、彼らはその美しい釉調に加えて、装飾の独創性も特記している。例えば小山は昭和22 年に『國華』誌にこう書いている。

  松留のものは頗る異色がある・・・。特に型押や彫文様に他に類例のない稀らしいものが あり、・・・瀬戸にはめずらしい葡萄唐草文だとか、游魚波濤文だとか、沢潟文様だとか、

かつて松留以外の古窯址から発見されたことのない珍しい陶片が沢山発見されている。

・・・松留は何といふ陶工の窯址かよくわからないが、よほど意匠力に富んだ陶工らしく、

器形文様ともに頗る変化に富んでいる。また当時支那朝鮮から渡来した陶磁器の影響を 最も敏感にうけ、龍泉の青磁、景徳鎮の青白磁、高麗の青磁など模したものがいろいろ ある6

有名になった「永仁の壺」は唐九郎窯が世に出した似セモノの中では例外で、多くは《黄釉 印花梅華唐草文瓶子》(昭和12年頃制作、東京国立美術館所蔵)や《魚藻文瓶》(『美術研究』

昭和33年11月号に図版掲載)のように、「類例のない稀らしい」「頗る異色」な装飾をほど こした壺であった。専門家はこうした作品を「意匠力に富んだ陶工」の古陶として歓迎した のである。

 美術研究所(現・東京文化財研究所)にいた中川千咲もまたその一人で、古瀬戸の装飾を 主題にした学術論文「古瀬戸の文様」を昭和33年に発表している7。取り上げた作品の多く は唐九郎窯の似セモノであった。例えば《魚藻文瓶》について、「文様がなかなか面白く、

古瀬戸の中でも珍しく好ましい作」で、「澤潟や波」のモチーフは「日本的なもの」と述べ、

高く評価している。また、《蓮唐草文四耳壺》に対しては、その装飾が「宋磁系のものとも 趣を異にし」、「鎌倉期の金工などに見る蓮唐草」に通じ、「中国に倣つたとしても、可成日 本化」された作品だと分析した。昭和30年代半ばまでの専門家が何を評価したのかがよく 分かるだろう。中国や朝鮮の先例に倣いつつ、日本独自の装飾を創造した点を特記し、「創 意に富む」「好ましい」作品と称賛したのである。こういうものが存在して欲しいという理 想の古陶の姿を見出したと言ってよかろう。

 件の《蓮唐草文四耳壺》について言えば、高さ44cmという大振りの四耳壺で、この寸法 でこれほど豊かな装飾を持つ四耳壺の先例は存在しなかった。今日ならば真っ先に偽物の嫌 疑がかかるだろう。だが、当時の専門家は「好ましい」作例として歓迎した。それほど自分 たちの審美眼と研究にとって都合のよい作例だったのである。これを最もよく示すのが再び 佐藤進三の言葉である。先述のように、彼は唐九郎窯の似セモノを「よいもの」と言い切り、

次々と世に広めたのだが、昭和21年には次のように書いている。曰く、「作品の変化、種類 の多種多様で然も吾々の気持にぴつたり来る点では松留はどの窯をも凌駕する8」、と。「吾々 の気持ちにぴつたり来る」とは、当時の専門家の知識と期待に応える近代的魅力を有した作

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品ということである。この言葉をみれば彼が、本物の古瀬戸と唐九郎窯の似ニセモノが様式 的にも美的にも異なると見抜いていたことがわかる。だからこそ、「いいもの」として重美 や重文に指定したのである。

 当然ながら、異例の焼物であるがゆえに贋作ではないかと疑った研究者もいた。昭和20 年代になると、唐九郎窯の似セモノが国立の博物館や美術館に展示され、大手出版社の陶器 図録などにも次々と紹介されるのだが、この時期のことを、久志卓真は永仁の壺事件発覚後 に回想して、こう証言している。

  〔戦中から戦後にかけて〕この解らん利口な意識の透徹した名品らしい手のもの〔唐九 郎窯の偽物のこと〕が相当出て来て、鎌倉瀬戸瓶子の手と全く違つた感じの、いはば近 代的意識を持つものが現はれ、何かしら不安な感じが襲つて来たのである。本来瀬戸瓶 子の手は頭の悪い重厚な感じのものであつて、すつきりした感じのものがある筈がない のである9

久志曰く、「本来瀬戸瓶子」は「頭の悪い重厚な感じ」であるのに、それとは異なる「利巧な」

「近代的意識を持つもの」が出てきて危ないと思ったという。興味深いことに、久志もまた 唐九郎の似セモノの美的価値を高く評価していた。優れた作品だから怪しいと感じたのだっ た。しかし、彼は「なにかしら不安な感じ」を公言することはない。彼によれば、「若し私 が今日を待たずして唐九郎窯のことを云々したならば、私は周囲から排斥され飛んだことに なつてしまつた」であろうからだった。偽物である可能性を表明できないほど、名のある専 門家は、異例の古瀬戸の出現に熱狂し、反論を許すような状況ではなかったのである。

 当時の熱狂ぶりを代表的に示しているのが《陽刻蓮弁文花瓶》(『陶説』昭和285月号に 図版掲載)に対する専門家の評価である。当時においても、いかにも素性が怪しいと感じら れる類例なき壺であった。専門家も制作年代も制作地もまったく分からなかった。それにも かかわらず、日本陶磁協会の雑誌『陶説』は二度も写真入りでこれを紹介している10。所有 者であった本多静雄はこう解説する。「今日の知見からして何処で何時代のものと云ひ切る ことは出来ない」が、「壺の器形や肉の厚い陽刻面からは唐代の水瓶を連想させる。人に依 つては西域の匂まで嗅ぐかも知れない。しかし、よく見て居ると、日本で製作されたものと 感じられる」、と。これほどロマンティックな解説はあるまい。冷静に見れば極めて疑わし い作品というほかないが、それよりも、この種の古陶が日本に存在して欲しいという想像力 が勝った。この想像力は陶芸界全般に広がっていたと思われる。この作品は昭和28年に鎌 倉で開催された「古瀬戸展」に出品されているが、この展覧会を訪れた陶芸家の板谷波山も 独創的な装飾に魅了され、この壺をスケッチしている(『板谷波山素描集』第一巻所収)。

 このように、唐九郎窯の似セモノは、実在する古陶の写しやコピーではなく、理想の古瀬 戸と形容すべき想像上の産物であった。そして、専門家も愛好家もその想像力を共有したの

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である。先に紹介した久志は事件発覚以前の昭和21年に、いみじくも当時の「熱狂」ぶり を「瀬戸ファンタジーアパシヨナタ(瀬戸熱情幻想曲)」と呼んでいた11。「ファンタジー」

といっても純然たる空想ではなく、当時の研究者や鑑定家、そして作陶家の知識に裏付けら れた学術的な想像力で創造された作品だったと言うべきだろう。第二次世界大戦時に骨董蒐 集にはまっていた文芸評論家の小林秀雄は、「真贋」(昭和26年)と題するエッセイにおいて、

「鑑賞も一種の創作だから、一流の商売人には癖の多い人が多い」と書いている12。「商売人」

のみならず、当時の専門家も研究者もまた「癖の多い人」だったといえよう。彼らは「鑑賞」

という行為を通じて、唐九郎窯の似セモノを理想の古瀬戸へと「創作」してみせたのである。

3 昭和30年代の「似セモノ」の変容、もしくは荒川志野をめぐる神話の創出

 さて、専門家たちが唐九郎窯の似セモノに理想の古陶の姿を想像し、少なくとも10点を重 要美術品や重要文化財に指定したのは昭和10年代から30年代前半にかけてのことである13。 その間、専門家の一部には真贋に疑念を抱く者もいたが、おおやけに問題化することはなかっ た。それが昭和343月の「永仁の壺」の重要文化財指定を契機に真贋問題が浮上し、翌年 にはこの壺が古瀬戸でないことがほぼ確実となり、昭和36年3月の指定解除へ至る。ここで 新たに問題提起したいのは、なぜ偽物であることが昭和35年まで問題とならなかったのか ということだ。逆に言えば、20年間も古瀬戸の名品だと称賛された美術品が、どうして昭 和30年代の半ばに突如として偽物だと糾弾されることとなったのか。永仁の壺を主題とし た先行研究では、この点について特に分析をしていない。しかし、「似セモノ」や「写し」

に対する日本人の意識を考察する本稿では、この点にこだわりたい。研究者や愛好家が理想 とした名品が一転して偽物として断罪される、その背景には単に科学的な真贋問題だけでな く、似セモノをめぐる美的価値観の変化を想定する必要があると思われるのである。

 この価値観の変化を考察するにあたり、唐九郎窯の似セモノとは対照的に、この時期に芸 術的価値が急上昇した陶芸家の作品を分析の遡上にのせたい。荒川豊蔵による古志野の「写 し」である。荒川豊蔵は志野の伝統継承者として、昭和27年に無形文化財、昭和29年には 重要無形文化財の保持者(人間国宝)に認定されている。彼が桃山時代の志野茶碗の復元を 目指して「写し」を制作し始めたのは昭和5年(1930)のことである。唐九郎窯が古瀬戸の 似セモノを制作し、それが誤って古瀬戸の名品として称えられた時期に、荒川もまた志野の 写しの制作に励んでいたのであった14

 しかし、荒川の制作した「写し」、いわゆる「荒川志野」は、唐九郎窯の似セモノが専門 家に歓迎されたのとは対照的に、昭和30年代まであまり評価されなかった。昭和16年10月 に初めての個展を梅田阪急で開くも店頭価格は50円で、それでも買い手はつかなかったと いう15。荒川に限らず、当時は「写し」に対する芸術的評価は低く、古陶の復元を目指した

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陶芸家は多かれ少なかれ生活に苦労したという話はよく伝わっている。だが、一方で、荒川 の写しのクオリティが低いと見られていたことも指摘しておかねばならない。戦前から荒川 志野に関心を寄せていた上口作次郎(愚郎)によると、荒川による写しもまた、古志野と称 して骨董市場に出回ることがあったらしい16。しかし、それは唐九郎窯の似セモノとは違い、

『陶説』などの雑誌や展覧会で古志野として紹介されることもなければ、重要美術品に指定 されることもなかった。専門家の眼には、荒川志野であることが容易に分かったからである。

上口によれば、荒川志野は「志野釉が独特で、焼きが甘いから高台が茶で黒づんで」おり、

「それ位のことは常識として誰でも知っている」ことだったのである17。古志野の復元は今 なお完遂しえない至難の業だが、ここで確認したいのは復元のレベルではない。上口の言葉 にみられるように、荒川志野は単に古志野に似ていなかっただけではなく、焼物としてのク オリティに問題があり、少なくとも、古志野を知る専門家や愛好家の目には、魅力的な作品 だとはみられなかったのである。「好ましい」理想的な古瀬戸として評価された唐九郎窯の 似セモノとはまったく対照的だったのである。

 こうした荒川志野に対する評価が好転し、「写し」に買い手がついたのは、いわゆる人間 国宝の制度が出来てからの昭和30年代のことである。それまでは出来の悪い「写し」とさ れていたものが、国のお墨付きを得て芸術へと格上げされたのだと言えようか。いずれにせ よ、「写し」や「似セモノ」の見方は、昭和28年の無形文化財と昭和29年の重要無形文化財 の制度化を通じて、大きく変わったのではないかと仮定できるだろう。意地悪な言い方だが、

人間国宝の制度とは、「伝統工芸」というコンセプトのもとに、特定の写しや似セモノを選 定し、特権的価値を授与することにほかなるまい。国家が認める制度的な写しが誕生したと いう意味において、人間国宝制度は新たな「似セモノ」の価値観を創出する出来事だったと 考えることができる。

 じっさい、昭和20年代末まで写しへの評価は非常に低かった。たとえば昭和20年代末の 無形文化財の制度発足当初、無形文化財保持者の写しを冷ややかに見る専門家も多かった。

昭和28年に行われた「選定無形文化財工芸技術内示展」(東京国立博物館)を訪れた内藤匡は、

展覧会場には「熱心に見て居る人は一人も居ません」と述べ、さらに「技術保存の陶工はど んな標準で選ばれたのか訳が分からない」と批判している18。内藤は昭和33年に至っても人 間国宝の存在意義には懐疑的で、認定された陶工は「何れも茶人や道具屋の一部には知られ て居たが、創作を重じる展覧会には列べられていないので、一般には余り知られて居なかつ た」人々だと揶揄してみせた19。彼にとって、人間国宝は下手なコピーを作る職人に過ぎな かった20。これは極端な例だとしても、同種の見解は他の論者にも散見される。第1回「無 形文化財日本伝統工芸展」(日本橋三越)が開催された昭和29年、川喜田半泥子は名指しこ そしないが「黄瀬戸、織部、志野」の「写し」の制作を批判し、「昔の陶工が不焼や出来そ こないで捨てたものを発掘して、それをお手本で作って喜んで」いるようでは、「昔のもの 以上に優れた物の出来よう筈がありません」と苦言を呈している21

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 こうした否定的評価が劇的に変化するのは昭和30年代半ばである。それは例えば、重要 無形文化財保持者の作品を展示した「日本伝統工芸展」の目録に確認することができる。第 2回展(昭和30年)の目録によれば、無形文化財制度の目的は「衰亡の危機に瀕している」

工芸を救済することにあった(荒川豊蔵の例は、まさに救済された最たる例だといえるだ ろう)。だが、それは間もなく、微妙だが決定的に軌道修正される。展覧会は昭和32年の第 4回から高松宮殿下を総裁に仰ぎ、続く昭和33年の第5回展で次のような宣言文を公にする。

曰く、「極めて特徴ある素質をもった日本民族は、他からの余儀なき変移を受けることなく 存続した。・・・さまざまな外来文化の導入が幾たびとなく繰り返されたが、これらのいずれも、

ほとんど血肉として消化、吸収しわが工芸独特の美をつくりあげ・・・世界的に冠絶したもの として認められるにいたっている22」。日本の「伝統」は世界に誇ることができる、そして、

その誇りを担うのが人間国宝であると規定し、人間国宝が作る「写し」を伝統芸術として明 確に位置づけたのだった。

 唐九郎窯の永仁の壺が昭和34年に重要文化財に指定される背景には、こうした戦後の伝 統意識の高まりも間接的に作用していたことだろう。そしてさらに、この壺の真贋が大きな 社会的問題となり、偽物であることが発覚した背景にもなっているだろう。本物か否かが一 部の研究者や愛好家にとっての関心を越え、日本の文化、日本の社会全体に関わる問題とさ れることにより、大きな「事件」にならざるをえなかった(当時、加藤唐九郎もまた無形文 化財保持者の認定を受けていた)。戦後の文化財保護制度の見直しのなかで、戦前に与えら れた評価もまた見直されることになったのだった。

 一方、昭和30年代の伝統意識の高揚と写しの評価の機運をみごとに利用した(あるいは 利用された)のが荒川豊蔵だった。ここで彼の伝説的作品、古志野の写し茶碗《随縁》を取 り上げたい。この作品が制作されたのは昭和36年(39年という説もある)のこと、まさに 写しや似セモノの価値転換が起こる時期のことだ。

 荒川の《随縁》の由来は今ではよく知られ、愛好家なら誰もが知る伝説、さらには神話に すらなっていると言ってよかろう。昭和5年(1930年)、荒川は北大路魯山人と名古屋を訪れ、

関戸家所蔵の《志野筍絵茶碗 玉川》を実見した。その際、彼は高台に付着した道具土から、

これが美濃で焼かれたと直感する。すぐに美濃の大萱へ向かった荒川は、その地で幸運にも 同じ「筍絵」の陶片を発掘することに成功し、この地に窯を築いて志野の「復元」を開始し た。この物語を作品として具体化したのが筍絵を描いた《随縁》である。「随縁」の銘は、《玉 川》の実見と陶片発見の「縁」に「随って」、荒川が志野の復元に従事したという思いを表 現している。

 ここであらためてこの記念碑的作品が昭和36年に制作されたという事実に注目せねばな るまい。陶片の発見から30年以上を経て、荒川はこれを作った。さらに昭和39年には陶片 発掘の現場に文字通りに記念碑を建立し、昭和5年の陶片発見を日本陶磁史上、さらには日 本文化史上の大事件として顕彰している。こうした荒川の昭和30年代後半の行動をどう理

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解すればよいのだろうか。発見から顕彰までの30年ものタイムラグをどのように説明でき るだろうか。

 おそらく荒川は、昭和30年代半ばまで、30年前の「発見」を顕彰する《随縁》のような 作品を作ることができなかったのだろう。作ったとしても出来の悪い写しみなされるだけで ある。人間国宝の写しが芸術としてお墨付きを得た昭和30年代半ばに至って、ようやく自 らの志野の「写し」を桃山時代の正統な伝統を継承する芸術として位置づけ、それを自負で きたのだと考えられる。また、三井記念美術館所蔵の志野茶碗《卯花墻》が昭和34年に国 宝に指定されたことも、《随縁》制作と陶片発見の顕彰の追い風となったかもしれない。現在、

日本の古陶磁で国宝指定されているのは5点で、そのうち茶碗は2碗しかないが、そのうち のひとつがこの志野茶碗である。そのような極めて稀な出来事が、まるで荒川志野の評価上 昇の機運と連動するように昭和34年に起こった。荒川にとっては千載一遇のチャンスとなっ たはずである23

 荒川はさらに昭和52年に随筆『縁に随う』を発表し、《随縁碑の図》(昭和51年)、《陶片 発見の図》(昭和54年)、《古窯発見端緒の図》(昭和55年)を制作した。次々と自らの陶片 発見の物語を伝説化してゆくのだ。件の写し茶碗《随縁》には付属の袱紗に「これだけは手 ばなすでない」と書かれ、妻に捧げられている。荒川は、この作品を明確に伝統の継承者の 証、ないし象徴的存在と意識していたのである。

 《随縁》の制作は、永仁の壺が重要文化財指定を解除され、唐九郎窯の似セモノが国家の 美術制度と(古)美術界から追放された直後のことであり、この事件に対する荒川の反応が 暗示されているように思う。唐九郎窯の似セモノが偽物とされ、国家の芸術から追放された とき、その穴を埋めるかのように、荒川による「写し」が、国家が認定する新たな芸術的な 似セモノとして名乗りを上げたのである。こうして、それまで評価の低かった荒川志野が伝 統芸術の代表として称揚される一方、質の高さを絶賛された唐九郎窯の似セモノが偽物とし て否定された。定かでない日本の焼物の理想を見出そうとする価値観から、伝統芸術という 既成のコンセプトを権威とする価値観へと転換がなされたのである。

4 「化け物」としての似セモノ、あるいは亡霊と妖怪

 唐九郎窯の似セモノと荒川豊蔵の写しの相違について考察を重ねよう。ここで、先の上口 作次郎の美的価値判断を再び取り上げたい。上口は自ら「雲谷斎(うんこくさい)愚朗」と 名乗り、独自の研究のもとに志野や井戸の「写し」を焼いた、ある種の奇人のように語られ る論者でもあり、その言葉を引用するには細心の注意が必要である。しかし、昭和30年代 に荒川志野の問題点を明確に指摘する一方で、唐九郎窯の似セモノのクオリティと芸術性を 認めた上口は、似セモノと写しに対する当時の価値転換に敏感に反応し、抵抗を示した人物

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であり、貴重な歴史的証言者であると私は思う。

 上口もまた、戦前・戦中の専門家と同じように、唐九郎窯の似セモノの芸術性を高く評価 した。彼は永仁の壺事件発覚後の昭和36年になっても、「本物」の古瀬戸は「貧弱」で、唐 九郎窯の「ニセモノの方が力強く芸術的価値が高い」との問題発言をした24。その一方で、

彼は先に紹介した通り、荒川志野は「釉調が独特」で「焼きが甘い」ので、古志野とは似て 非なるものという明解な意見を昭和34年に表明した。さらに彼はそれ以後も荒川志野を評 価するどころか、質はさらに低下しているのではないか、と発言している。人間国宝になっ てからの荒川の作品が「急速に変わつて」悪くなったと言うのである。曰く、「〔荒川志野は〕

初期のもの程桃山古典に忠実で人工火色を出し、釉が光っていた時もあつたが、次第に光を 消すために焼を甘くし、火色の出し方も最近急速に変つてきた。昨年末〔昭和33年〕三越 の個展を見て感じた事は荒川氏が余りにも有名になつて、有名さにおびえてか苦心とあせり が感じられた25」。

 もしかしたら、この上口のような批判に反応して、荒川は《随縁》を制作したのかもしれ ない。しかし、上口はさらに昭和39年にも荒川志野への批判を先鋭化させる。「桃山志野の 陶片中に、荒川志野に類似したものがないことは、桃山志野の再現でないことを実物が証明」

しており、荒川の写しは「姿だけの古式ではダメ」、「姿だけの猿マネではその要点はつかめ ない」ことを明確に示していると強い言葉で非難した26。先述のように昭和39年には、荒川 は陶片発見を顕彰する石碑を大萱に建立した。荒川に対する称賛の高まりのなかで、ここま で荒川志野を公然と批判したのは上口くらいだろう。奇人と言われるゆえんだが、上口は似 セモノに対する価値観の変動にも揺らぐことなく、戦前・戦時に唐九郎窯の似セモノに理想 の古陶の姿を見出した世代の感性をなお維持し続けていたと考えられる。

 さて、ここで注目したいのは、上口が昭和30年代の荒川志野に「おびえ」や「苦心」や「あ せり」を感じ取った点だ。荒川の作品にこうした感覚が表出していると実証的に証明するこ とは出来ないとしても、陶片発見の事跡を写しによって顕彰するという行為や記念碑を建立 する行為に「おびえ」や「あせり」を読み取ることはさほど不当ではなかろう。月並みな言 い方になるが、過去を偉大な伝統と規定し、自らをその継承者と任じたときから、荒川はそ れを重みに感じ、「亡霊」のようにつきまとわれたのではないか。「筍絵」の写し茶碗を作り、

石碑を建て、その事跡の物語を絵を描き、文章を発表する。大萱の石碑は、古志野という「亡 霊」に捧げられた墓碑に見えなくもない。

 古志野の「亡霊」としての荒川志野。この空想は、すぐさま昭和22年に発表された川端 康成の『千羽鶴』へと誘ってゆく。多くの陶磁研究者がすでに分析を行っているが、この小 説では茶会に出された志野茶碗に重要な役割が与えられ、茶会の席で主人公の亡き父親の亡 霊を文字通り呼び出している。主人公はこの亡霊を追い払うために茶会の後、茶室で背徳的 な行為に及ぶのだが、興味深いことに、主人公は茶を冒涜するために「ニセモノ」だけの茶 席を設けることも夢想している。川端がどんな偽物を想定していたのか不明だが、昭和20

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年頃ということを考慮すれば、もしかしたら古志野として出回っていた荒川の作品などを念 頭に置いていたかもしれない。いずれにしても、この場面において、川端は古陶が呼び起こ す亡き父の亡霊を払拭するために、古陶の亡霊というべき写しで対処するというホメオパ シー(同属療法)的な場面設定を行っている。

 この舞台設定は川端の独創だが、古陶や写しを亡霊のように比喩する手法は古美術の世界 ではしばしば用いられるものである。この点に関して、骨董を愛好する文人の美学を主題 にした松原知生は『物数寄考 骨董と葛藤』(2014年)において興味深いエピソードを紹介 している27。たとえば骨董屋から「呉須赤絵の大皿」を購入した小林秀雄の実話だ。小林は 買った大皿を友人の青山二郎にみせたところ贋物だといわれるのだが、それを受けて小林は 心でこうつぶやく。「この化け物、明日になったら、沢庵石にぶつけて木っ端微塵にしてや るから覚えていろ」。小林が初めて自分一人で骨董品を買った昭和10年代半ばのことである。

小林の口からとっさに「化け物」という言葉が出た。偽物を「化け物」と類比してみる愛好 家の心性があったとみてよかろう。この心性は少なからず現在もなお残存している。本稿の 冒頭で言及した松井覚進は『永仁の壺 偽作の顛末』において、唐九郎窯の似セモノを「偽 作」と呼んで糾弾しつつ、「陶芸に限らず美術の世界には美とは裏腹の魑魅魍魎、妖怪が徘 徊する」と書いている28。得体の知れない贋作を「魑魅魍魎」ないし「妖怪」と呼ぶことは 比較的一般的なものだが、あらためて唐九郎窯の似セモノを評するのに「妖怪」と形容する のは言い得て妙だろう。まさに、出自が「怪しい」ながら「妖しい」魅力で専門家たちを虜 にしたからである29。ここでは、乱雑に「亡霊」、「化け物」、「妖怪」の比喩を列挙している だけであるが、とりわけ「亡霊」と「妖怪」(近代以前は両者をまとめて「化け物」の呼ん だ)の対比は、荒川豊蔵と加藤唐九郎の制作した似セモノを対比するのに、有効な比喩とな るのではないかと思われる。前者が「亡霊」的であることはすでに記したとおりである。で は、後者はいかに「妖怪」的なのか。

 よく知られるように、日本の妖怪は動物や草木が化けて生まれるだけでなく、人間が作り 出した物が古びて変化して生まれることもある。いわゆる「付喪神」である。伊藤若冲の《付 喪神図》(福岡市博物館所蔵)をみれば、茶道具もまた妖怪となり、ひょうきんな姿で現れ たことが分かる30。たとえば唐九郎窯の《陽刻蓮弁文花瓶》はこの絵の妖怪に匹敵する「妖 しさ」を湛えているだろう。あるいは、昭和元年に唐九郎が制作した近代的創作の《辰砂壺》

(『荒川豊蔵と加藤唐九郎』展目録〔平成16年〕に所収)を想起してよい。装飾がいっそう 擬人的で、若冲が描くぎょろりとした眼の妖怪さながらである。《陽刻蓮弁文花瓶》の制作 年は定かでないが、おそらく、この《辰砂壺》を制作した昭和元年頃の作(おそらく昭和2年)

だろう。唐九郎は、この近代的創作によって、二年後の妖怪の出現を予告していたのではな かろうか。

 晩年の唐九郎はしばしば「壺」と揮毫した。彼らしい悪戯だが、彼自身もまた壺そのもの がもつ妖気に囚われた人だっただろう。先の小林秀雄もとりわけ壺に嵌ったことで知られ

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る。小林は言う。「壺中の天という言葉がある。焼き物にかけては世界一の支那人は、壺の 中には壺公という仙人が棲んでいると信じていた。焼き物好きには、まことに真実な伝説だ。

・・・私が、美しいと思って眺めている時には、私の心は壺中にあるようである31」。また、同 じ文章で彼は「一番好きな焼き物は、私が一番見てはゐないものだ」とも述べた。壺中にあ る人は、目に見えるものも目に入らず、うつろな空洞のうつわのなかに理想を遊ばせ、仙人 となって、妖怪と戯れたのだった32

 昭和35年の永仁の壺事件は、妖怪のような似セモノとの戯れに終止符を打つ事件となった。

唐九郎窯の妖怪は美術界から追放され、今なお、少なくとも国立の美術館で展示されること はほとんどない。河童や人魚のミイラが近代にたどった運命と同じく、美術館から追放され たのだといえよう。そして、おそらく、美術館という神殿が丁重にお出迎えしたのは、妖怪 ではなく亡霊なのだった。先述のように、荒川豊蔵は陶片を掘り出してそれを顕彰し、記念 碑を作り、さらに絵画化までして、志野の発掘を歴史的大事件とする20世紀の神話を創出 した。伝統という亡霊に囚われた20世紀の美術を象徴する行為だといってよいだろう。

1 いわゆる「永仁の壺」の他、一般に加藤唐九郎が作ったとされる偽物の作者については唐九郎で はなく、長男である嶺男であるとする説も有力であるため、本稿では、唐九郎の作とはせず、唐 九郎窯の作と記述することとした。

2 高橋茂「松留窯陶片について」、『陶説』、昭和364月(「古瀬戸総合研究」号)。

3 松井覚進『永仁の壺 偽作の顛末』、朝日出版社、1990年。本稿での引用は文庫版(講談社、

1995年)による。

4 「〈松留ガマ〉は夢想のカマ?」、『中部日本新聞』、昭和3595日。

5 佐藤進三、「古瀬戸二題」、『古美術』、194611月  6 小山富士夫、「古瀬戸の瓶子」、『國華』、昭和225月。

7 中川千咲、「古瀬戸の文様」、『美術研究』、東京国立文化財研究所、昭和3311月。

8 佐藤進三、「古瀬戸二題」、『古美術』〔『茶わん』改題〕、昭和2111月。

9 久志卓真、「瀬戸の復習」、『陶説』、昭和364月(「古瀬戸総合研究」号)。

10 『陶説』、昭和285月、口絵、および、同誌、昭和326月、カラー口絵。

11 久志卓眞、「瀬戸随想」、『古美術』、昭和2111月。「瀬戸の発掘が盛になつてから、瀬戸の研究は

一時進歩したけれども、すぐ足踏みせざるを得なかつた。どんなに窯跡の発掘をしたからといつて、

さうたやすく瀬戸の全貌ははつきりしてくるわけはない。・・・商人の言による商品の経路、発掘過 程など一として正確なもの少く、これには全く閉口させられた。・・・それは空中楼閣よりもまだ空 しきものであり、瀬戸ファンタジーアパシヨナタ(瀬戸熱情幻想曲)に過ぎぬ。それが神話的人 物加藤唐四郎にからんで熱演されるときの息苦しさ、辛抱といつたらお話にならぬものであつた。

・・・筆者は誰をか信頼せんといひ度い気持でいつぱいであつた。/加藤唐九郎氏の瀬戸研究は充分 首肯すべきもののあることいふまでもないけれども、それを以つて瀬戸の知識の根幹を得ること はむづかしく、一つの意見として聞より道は〔ない〕・・・。」

12 小林秀雄、「真贋」(昭和26年)、『小林秀雄全集 第九巻』、昭和42年。また、「癖の多い人たち」

については以下を参照。秦秀雄「悠々、忘却」(昭和25年)、瀬津伊之助「非常識の常識」(昭和43

(12)

年)、ともに小林秀雄第四次全集別巻II『批評への道』(新潮社、昭和54年)に収録。

13 これが戦中・戦後の国家のアイデンティティの再構築を課題とした時代だったことは重要な問題

である。前章で確認したように、専門家は一様に偽物を前に中国や朝鮮半島には例のない日本独 特の装飾文様の特質を見出し、その独創性を称えた。また、唐九郎窯の偽物が指定された重要美 術品とは、古美術品の国外流出を危惧して昭和8年に制定された「重要美術品等ノ保存ニ関スル法 律」の産物であり、そこに愛国的な当時の美術環境を読み取ることは容易だろう。こうした戦時 の文化史ないし精神史と、唐九郎窯の偽物との関連を明らかにするためには、より精緻で周到な 実証的研究をする必要がある。本稿の主題を超える大きな問題であるため、これらの点については、

今後の研究課題としたい。

14 荒川と同じく昭和29年に人間国宝に認定された陶芸家の中には金重陶陽(備前)もいるが、彼も

古備前の復元に取り組み始めたのは昭和10年頃のことといわれる。

15 上口愚朗、「古志野焼成技法と荒川志野」、『陶説』、19594月。

16 同誌。その価格は「二十万円」程であったらしく、「写し」として販売する際と4000倍の格差がつ

いていたことになる。唐九郎窯が似セモノを市場に流通させた要因のひとつも、「写し」の相場と 古美術市場での間での価格差にあったとみてよいだろう。

17 同誌。

18 内藤匡、「リーチ展について」、『陶説』、昭和285月。

19 内藤匡、「オーストラリア、ニュージーランド巡回現代日本美術展」、『陶説』、昭和3311月。

20 内藤匡は古陶の礼賛者で、「写し」を全く評価していなかった。永仁の壺事件が起こったとき、彼

は「贋せ物は本物には及ばない」、違いはすぐに分かると豪語している。「いくら力んだつて贋せ 物は本物には及ばないよ。・・・お手本より美しい物はありつこなしだ。・・・現代物が古い物に敵わ ないのは、小僧つ子だつて解るさ。議論の余地はてんでないよ。近頃さわがれている贋せの鎌倉 時代の壺と、博物館に列んでる本物の鎌倉時代の壺とを比較して御覧なさい。片つ方のまづさつ ちやあ、ありやあしない。真偽のほどは知らないが贋せの作者は無形文化財の瀬戸のC氏だと云 われている。若しそうだとすれば、無形文化財に指定された陶工だつて、昔の無名の陶工の足元 にも及ばない」。(内藤貧狂、「現代焼物論いろいろ」、『陶説』、昭和3512月。)

   ところが、こうした内藤の発言には興味深い指摘もある。贋物と本物の写真を掲載して比べ、違 いがすぐ分かると言う内藤が掲載した「本物」に、唐九郎作のニセモノが含まれているというので ある。そう言ったのは上口愚朗である。「『日本美術工芸』九月号に、地質学の内藤匡氏が、『永仁 のつぼ、ニセモノ見破り方』と題して、私の疑問にしている蓮刻文壺《古瀬戸鎌倉時代飴釉壺 国 立博物館蔵》の写真を、これが本物でニセ物は永仁の壺でと、対照のために両方の写真をならべ、

十ページの長い論文をかかれている。これを読んだ私は、なんともいえないヘンテコな気持ちだ。

・・・/・・・蓮刻文壺には、現代用具で削り取った陶土の残片が壺の下部に何個かついている。・・・松 留窯の刻線を片っぱしから拡大してみれば、現代製であることがすぐわかる」。(上口愚朗、「破陶 濁音」、『淡交』、昭和363月。) また、上記の引用文中にある以下の文献も参照のこと。内藤匡、

「永仁のつぼ、ニセモノ見破り方」、『日本美術工芸』、昭和359月。

21 川喜田半泥子、「陶工乾山」、『陶説』、昭和295月。

22 5回「日本伝統工芸展」目録、昭和33年。以下の文献を参照のこと。辻成史編著『伝統 その創

出と転生』(新曜社、2003年)を参照のこと。

23 昭和30年代半ばの荒川志野の評価上昇と《卯花墻》の国宝指定の関係については、実証的研究を

行う必要がある。興味深いことに、当時、《卯花墻》の国宝指定について、疑問の声が上がってい た。昭和37年に上口(愚朗)作次郎は次のように書いている。「志野の王座は国宝の卯花墻だが、

優れた点はどこか? 国宝だから優れているのか? 歴史的価値ならどんな伝説があるのか? (・・・)

昨年〔昭和36年〕の国宝展で実物を見て、想像以上のゲテモノで、あきれた。製作は初期に近く、

高台作りが削り出しだが、型破りで、深い茶碗は初期のものには少ない。ゲテモノ志野で、野獣 陶ではなく、国宝の価値はどこにあるのか伺いたい」。(上口愚朗、「日本名陶」をきる」、『日本美

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術工芸』、昭和373月。) 本稿では、上口の主張ばかりを取り上げている点で偏りがあることは 否めないが、傾聴に値する数少ない証言であると思う。この証言は、荒川志野を評価するに至っ た昭和30年代の観点と(「ゲテモノ」だという)《卯花墻》を古志野の最高峰とみなす観点に何ら かの共通性があることを暗示している。古志野の標準的な茶碗からは外れているという点で両者 は一致しているのであり、「写し」に対する目の変化は、「本物」に対する鑑識眼の変化も伴って いたことを暗示している。

24 上口愚朗、「化学と実験による古瀬戸研究」、『陶説』、昭和364月。唐九郎に関しては、人を食っ

たような次の上口の発言もある。「古代の本物までも自作といいかねない唐九郎さんだ。本物をニ セ物だとして肩書を外させ、実はあれは本物だと、また重文にすることもあり得る。そうなると 面白い」。(上口、「破陶濁音」、前掲誌。)

25 上口、「古志野焼成技法と荒川志野」、前掲誌。

26 上口愚朗、「伝統工芸展にもの申す」、『花道』、昭和3911月。上口の文章の本意は、荒川批判よ

りも、むしろ、上口自身の志野の写しの科学性を認めない伝統工芸展の審査員の態度を非難する ことにあった。この文章は以下のように続く。「すでに何度も提出した私の研究論文と(その実物 作品としての)応募出品は全部認められず落とされた。・・・伝統工芸展の審査員達は、私の提出し た論文を読まなくも、今までに誰も実現しなかった古い伝統技術で再現された作品であることは、

ひと目見ただけで判明できるのである。・・・ところが私の応募した古志野釉再現の作品と、論文 とを(桃山時代の志野を再現した正しいものとして)入選させたとしたら、荒川氏の現代式ペン キ志野と、同じ会場へ並べることは、重要無形文化財の手前、できないのである(人間国宝だけ は、土俵上の実力角力とは違うらしい)。伝統工芸展にもの申す。重大問題は、荒川氏の志野は、

どの点が、桃山時代の技法再現の作品であるか、具体的に化学で解説、発表してもらいたいことと、

私の提出した論文つきの作品が、どの点が悪くて、落選させたのであるか、この二つの点を文化 国家と自認している、文部省ならびに伝統工芸展に関係する文化財保護委員会・東京都教育委員 会・日本放送協会・朝日新聞社・日本工芸会に対し、良心的なお答をお待ちしている・・・」。

27 松原知生、『物数寄考 骨董と葛藤』、平凡社、2014年。

28 松井、前掲書。

29 さらに言葉遊びを続けるならば、「あやしさ」は「あやうさ」につながる。白州正子はこう書いて

いる。「〈名人は危うきに遊ぶ〉といわれるとおり、真物の中の真物は、時に贋物と見紛うほど危 うい魅力がある。正札つきの真物より、贋物かもしれない美の方が、どれ程人をひきつけることか」

(白州正子、『遊鬼 わが師 わが友』)。また、白州によれば、「贋物のあるところ、必ず秦あり」

と言われたという秦秀雄は、「贋物を怖れるな。贋物を買えないような人間に、骨董なんかわかる もんか」と豪語していた。唐九郎の似セモノは、まさに「危うきに遊ばせた」妖怪だったといえ るだろう。

30 小泉八雲が『骨董』(1902年)に収録した未完の怪談「茶碗の中」も想起してよいだろう。

31 小林秀雄、「信楽大壺」、『小林秀雄全集 第九巻』、新潮社、昭和42年。

32 残念ながら、小林秀雄が「永仁の壺」事件をどうみたかについては、文章はなく、分からない。

一方、小林の骨董趣味の指南役だった青山二郎は、事件以後の唐九郎を擁護し、その芸術性を高 く評価し続けたことで有名である。

参照

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