Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒澤 大 學 佛教學 部研究紀要 第
41
號 昭 和58
年3
月 (37
)『
勝
鬘
経
』
の
一乗
思
想
に
っい
て
一乗 思
想
の研 究 (
III
)
松 本
史
朗
は じ め に本 稿は ,
r
勝 鬘経 』 の 一乗 思 想1) の 基 本 的構 造
とその思想史的 意味
に つ い て, 筆 老 な りの 解 釈を述べ る もの にす ぎない 。『勝 鬘
経
』 は, 「一乗を以 っ て宗 となす」 2) と言わ れ る よ うに , 「 一乗 」 を その 中心的テ ーマ とす るが , そ の 一 乗 思 想 の 構 造は 未だ解 明され てい な い よ うに 思わ れ る。 『勝
鬘 経』 は 一 般 に , そ の『
勝鬘
師 子吼 一 乗 大 方 便 方 広 経 』とい う漢 訳の タ イ トル
等
か ら, ある い は また如
来 蔵 思 想は 一乗 真 実 説1) で あ る とい う様 な 理解 か ら, 一乗 真 実 説を 説 く もの と単純
に考
え られ て い る 様であるが , 『勝鬘 経
』 の 一乗 思 想が , 一乗 真 実 説で あ る か , そ れ と も唯 識派的な三乗 真 実 説D で あ る か と い うこ とさえ,簡 単
に 決め るこ との でき
ない 問題であろ うと思われ る。例 えば, 『大 乗 荘厳 経 論釈 』 3) と, 慈恩大 師基
(
632
−682
) の 『勝 鬘 経 述記 』4) に お い ては , 『勝 鬘経
』 は 三乗真
実 説 の立 場か ら解釈されて い る し, ま た 『勝
鬘 経』 に全 面 的 に依 拠 し て い る と思わ れ るr
宝 性 論 』 に も, 既 に 指 摘 され てい る通 り 5) , 「一乗 」 とい う語は 一度 も現 れ ない 。 ま た,漢訳
者
の 一 人 で あ る 求 那跋 陀 羅
(
Gupabhadra
,394
−468
)
は , 『解
深密
経』 の 一 部分6) の訳 者で もあ る か ら, 三 乗 真 実 説を標 榜 する唯 識 派 と深 く関っ て い た もの と思われ る 。筆
者は, 結 論 と し て, 『勝 鬘 経 』 は 三 乗 真実説
で あっ た と言 うつ もりは ない が, 『勝鬘経
』 に は 三乗真 実説
の典
拠 ともな りうる よ うな 要 素が存
在 して い た こ と も事
実だ と思わ れ る。 従っ て , 後 代 の解
釈や伝承 を離れ て, 『勝 鬘 経』 の テ キ ス ト それ自体
に 即 し た厳
密 な研究
が ま ず必要で あろ う。以 下 に 本 論で論 究 す る こ とは厳 密な研 究 とは 程
遠
い もの で は あるが, 主 と して チ ベ ッ ト訳 に依 存 し 7) ,r
勝 鬘経 』 の 一乗思想 に つ い て筆
者な りの 解 釈を 示 して み たい 。 一416
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (38) 『勝鬘 経 』の 一乗 思 想に つ い て (松 本)
1
『勝 鬘 経』の一乗 思 想の構 造さて, 以下に 『勝 鬘 経』 か らい くつ か の 経文 を
引
用 し, そ れ に つ い て 考 察 す る こ とに よっ て , 『勝鬘
経』 の 一 乗 思 想の 基本
的構造
を解
明 しよ う。 結 論 よ り言え ば ,筆 者が 明 らかに しよ う とする の は,(a)『勝 鬘 経』 に お い て ,
一乗 (ekayana )は 三 乗 (yanatraya ) の
locus8
)(
基体)
で あ る。(
b
)『勝 鬘 経』 に お い て , 一乗は 三 乗 の 5tman (本 質 )で ある 。 とい う二 点で ある。こ の うち まず (a)を 証 明す る た め に , や や長い
引
用 とな るが,漢
訳で 「摂 受
正 法章
」 と呼 ば れ る部分
か ら一 つ の記 述 を示 そ う。〔
なお,和訳
に あた っ て は ,高崎
直道博
士 『大 乗 仏 典12
如 来蔵 系 経
典
』 昭 和50
年
を参
照 し,博
士 に よる翻
訳の 頁 数を末尾
に 示す
こ とにする。〕〔
1
〕 世 尊 よ, 摂 受正 法(
dam
pabi
chosyohs
suhdsin
pa , saddharmapari ・graha
)は ,一切 の
無
量の(
dpag
tu ma mchispa
, aprameya ) 仏 法
(
safisrgyas
kyi
chos,
buddhadharma
)
を完
成す
る もの(
yofis
su rdsogspar
阜gyur
ba
)
で す。 世 尊 よ, 摂 受正法は, 八万 四千 の 法 門(
choskyi
sgo)を
包
摂 する もの (sdud
pa
) です。 ・一 ・世 尊 よ, 例 えば, 大 地
(
sa chenpo
, mah 巨P1thivi
)
は, 四つ の 大 い な る重荷
(khur
chenpo
bshi
) の依
りど こ う (rten)
〔四 重担 〕 にな ります。 そ の 四つ とは
何
か とい う と,(
i
)
大 水 蘊(
chabkyi
phuh
po
chenpo )
た る大海
と, (
ii
)多 数
の すべ て の 山(
rimah
po
thams
cad ) と住み か(
gnas
pa
) と,(
iii
)
すべ て の草
(rtswa , t稗 a)・灌 木 (6in
gel
ba
,gulma
)・薬草 (
sman ,augadhi
)
・花 (metog
,puePa
)・森 林 樹 (nagstshal
, vanaspati ) と,(
iv
)すべ て の
衆
生の 群(
sems cangyi
tshogs )
, の依
りどこ ろ に な ります。 世尊
よ,大地 が こ れ ら四 つ の大 い な る重 荷の 依 り
ど
ころに な る よ うに, 世 尊 よ, 正 法を摂 受 した (
dam
pahi
chosyohs
subdsin
pa )善 男子
または善女 人
は, 大 地よ りもさ らに 大 い な る 四つ の 重荷を 担い ます。 四つ とは 何か とい う と, (
i
)
善
知 識 (kaly
御 amitra)
と離れ
, 聴 聞(
thospa
) を有
せ ず, 〔法の 器た る〕性 質
を もっ て い ない (chos can malags
pa
) 衆生 た ち を , 天 (lha
,deva
)と人
(
mi , manu §ya )
の完
成(
phun
sumtshogs
pa
, sampad)
を得
さ せ る諸 の 善 根
(
dge
bahi
rtsaba
,kuSalamtila
)
に結び つ け る(
shyorba
) 善 男子
ま た は善
女人は , 大 地 よ りもさ らに大い な る重荷
を担
います。(
ii
)〔
また〕 一415
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
『勝 鬘経 』の一乗 思想に つ い て (松本) (
39
)ある衆 生
達
(sems cankha
cig )を声 聞 (fian
thos
, §ravaka )の乗 く
theg
pa
・yana
)に結
びつ ける善
男 子 ま たは善女 人
は , 大 地 よ りもさ らに 大 い な る重 荷を担い ます。 (
iii
)〔ま た〕ある衆 生達を 独覚 (rah sahs rgyas ,pratyekabuddha
)の 乗に結びつ ける善 男子 また は
善
女 人は, 大 地 よ り もさ らに 大 い な る重 荷を 担い ます。
(
iv
)〔
ま た〕 あ
る衆 生達
を大 乗 (thegPa
chenpo
, mahayana)
に結びつ け る
善 男
子ま た は善
女 人は ,大
地 よ りもさ らに 大い な る重 荷を担 い ます
。世
尊
よ , これ ら四つ が大 い な る重荷
で す。 (SMDS
,Hi
,263a1
−b7
, 高 崎 訳PP
・76
−77
.)
こ こ で 「四重 担 」 の 比 喩 に よ っ て示されて い るの は, 大 地が大 海 ・山 ・
草木
・ 衆生 とい う四 つ の 重荷
を担 う依 りどこ ろ , 即ちIOCUS
とな る様
に ,摂 受正法 も,人 天乗
・声 聞乗 ・独覚
乗 ・大 乗 とい う四つ に 対 して10CUS
となる , とい うこ とだ と思われ る。
摂 受
正 法は, 『勝鬘 経
』に お い て , 大雲 (
sprin chenpo
, mahamegha )と大 水 蘊 と大 地 と鉱 脈 (
hbyuh
gnas
,akara
)〔とし て の 大 地 〕 とい う四 つ 9) に渝
え られ て い るが, 「四 重 担 」 の比 喩は そ の 第三 で あ り, 次 の 様な第
四 の 比 喩にお い て もま た ,
摂
受正 法が 四乗に 対 し て そ れ を生
み 出す10CUS
と して の 性格
をもつ こ と が理 解 され る の であ る。
〔
2
〕 世 尊 よ, 例 えぽ 大 地は , 四種の 宝(
rinpo
che snabshi
)
の鉱脈
です
。 これ らの 四種とは何か とい うと。 … …
。 世
尊
よ, 大 地が これ ら四種の宝 の 鉱脈
にな っ てい るの と同様 に, 正法を摂 受 し た
善 男子
また は 善 女 人に依存
しエ (
rigS
kyi
bubam
rigskyi
bu
modam
pa
阜
i
chosyohs
suhdsin
pa
la
brten
nas
)
, 衆 生達
は, 大い な る最 高の 宝, すべ ての 宝 の最
高 もの 四つ を獲 得するでし ょ う。四つ とは
何
か とい う と,善 知識た るそ の 善 男子 ま た は 善 女人 に 依 存しL(;衆生達は , (
i
) 天 と人 の 完成 を得
させ る福 徳(
bsod
nams ,p
叫ya
) の資
糧(
tshogs
, sambhara)
を獲
得 し,(
ii
) 声 聞の 道 に 進 む(
fie
bar
hgro
ba
)善
根を得させ る もの を
獲
得 し,(
iii
) 独覚
の 道 に進む 善 根の 資糧を得
させ る ものを獲 得 し,
(
iv
)
正等 覚
者 (ya 血dag
par
rdsogs pahi sa血s rgyas , samy ・
aksambuddha ) に
進
む, 非 常に崇 高な(
mthonpo
) 福
徳の 資糧を得
させ るも
の を獲 得するで し ょ う。(
SMDS
,Hi
,264a1
−7
,高崎
訳PP
・77
−78
)こ こ で , 「
摂受
正法 〔者 〕 に依 存 し て 」 とい うの は, 「摂 受 正 法を10CUS
と し て 」 と い う意 味
に他
な ら ない 。 従 っ て, 以上 の 二 つ の 記述
に おける摂 受正法 と 四 乗 の関
係 を 図に示せ ぽ, 次 の様
にな るであろ う。 一414
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
40
) 『勝 鬘経』 の一乗思想に つ い て (松本)locus
…… … … … … … … … …saddharmaparigrahasuper −
10cus
… … ・… …… … ・・catvari yanani 図一 1さ て次 に, 「摂受 正 法
章
」 の次 に 来 る「一乗
章
」 冒頭 の 次 の 記 述に つ い て考察
し よ う。
〔
3
〕
世尊
よ, 「正法」(
dam
pa 皐
i
chos , saddharma)
とい うの は, 「大 乗 」の同
義語
(
tshigbla
dags
, adhivacana ) で す。 それ は何
故か とい う と, 世尊
よ,(
i
)(
ii
) 声 聞 と独 覚 の 乗 すべ て と, (iii
)
(iv
)世 間 的お よび出世 間的な 善 法(
bjig
rtenpa
dah
bjig
rtenlas
与
das
pahi
dge
babi
chos ,laukikalokottara
.kuSaladharma
)
すぺ て は, 大乗
に よっ て 生ぜ られた (rabtu
phye
ba
,pra
・bhavita
)
10)か らです。
世
尊
よ,例えば四 つ の 大 河(
klun
chenpo
bshi
)
は ,Anavatapta
湖 (
mtshoma
dros
pa
)か ら生 じる(
bbyuh
)の で す。 世尊
よ, そ れ と同様
に ,(
i
)(
ii
)
声聞 と独 覚 の 乗 すべ て と,
(
iii
) (iv
)世 間的お よび出 世 間的善法す
べ て も, 大乗か ら生 じ るの で す。 ホ−−−ttt
世尊 よ, 例 え ば, どん な 種類 の 種 子 (sa
bon
,bija
)で も,草
・灌 木 ・薬 草 ・森 林 樹で も, そ れ らは すべ て, 大地 に依
存
し, 大 地 に 依 拠 し て(
sa chenpo
la
−・−*gnas
te
), 生 じ成長 し, 増 大 す る の です
。 世尊
よ, そ れ と同様 に ,(
i
)(ii
)声 聞 と独
覚
の 乗な る もの と, (iii
)
(iv
)世 間 的お よび出世 間的 善法 な る もの ,そ れ らすべ て は , 大
乗
に 依存
し, 大乗
に 依 拠 して
, 生 じ成 長し増
大す
るの で す。(
SMDS
,Hi
,267b2
−7
, 高 崎訳PP
.85
−86
)こ の記 述で
第
一一に 注 目すべ きこ と は , 上 来 摂 受正法 章で 説 か れ て 来た 「摂 受正 法」 の 「正法
」(saddharma)
とは,実
は 「大乗
」 に 他な らない , と説かれた こ とで ある。 こ の説 明は, 非常
に大 きな問題
をは らん で い る。 何 故な らぽ, 人天 乗 ・声
聞乗 ・ 独覚
乗 ・ 大乗
とい う四乗
を 生み だすIOCUS
となる 「摂受
正法」ま た は 「正法」 が 「大 乗」 であ る とす れば, 大 乗は ,locus
で ある と同 時に super −lOCUS
で もあ る, とい う奇 妙 なこ とに な る か らであ
る。従
っ て , おそ らくこ の様 な矛盾
を 回避 するた め に で あろ うが, こ の 記述
〔3
〕
にお い て は , 大 乗か ら生み だ さ れ る 四 つ の もの の中に,少
くと も表 面的 に は 「大 乗」 とい う語は欠 落 し て く るの で ある。し か し, 記
述
〔3
〕は , 実は 一乗 章 の 冒 頭にあ り , 既 に 見た様
な摂受
正 法章
の 説を直接受 け
て い る筈
であ
る か ら,摂受
正法章
との 論 旨の 一貫 性を 重視 す るな ら ぽ, 「大 乗」は ど う して も, 生 み だ さ れ るもの(
super ・locus
)の 中に含
ま れ な け 一一 413 一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
r
勝鬘経』の 一乗思想に つ い て (松本) (41) れ ば な らな い 。こ の 様 な観 点か ら, 大 乗を所生 の 中に 含 ませ る解釈 も存在 した の だ と思わ れ る。 即ち, 吉 蔵
(
549
−623
) は , 『勝 鬘 経 宝 窟』 (大正No
.1744
)の 中で, 自らはそ の解
釈を採
らない と しなが らも, 次 の様 な 「有 人」 の 解 釈を紹 介 し て い る。 〔4
〕 ある人 は, 次 の よ うに 言 う。 即 ち大乗か ら四乗を 出 生す るの であ る。 「声聞 ・縁
覚
」 とい うの は 二乗
で あ り, 「世 間 〔的 善 法 〕」 とい うの は 人 天 乗であ り,「出 世 間
〔
的善
法 〕」 とい うの は 菩 薩i
乗で ある。(
大 正37
,42c
)凝 念 (
1240
−1321
)は , 『勝 鬘経疏
詳玄記 』 に お い て ,聖 徳 太子作とされる 『勝 鬘経 義疏
』 もこ の 解釈 に 従 っ て い る と認め 11) , また, 普寂
(1707
−1781
) も 『勝
鬘 師 子 吼 経 顕宗
鈔』 に おい て こ の 解 釈を称 讃 す る12) 。r
宝 窟』 の 伝え る こ の 「有
人」 の 解 釈 で は , 大 乗が同時
に能 生 (locus
)
で もあ り所 生(
super −locus
)で も あ る とい う矛盾
が い か に 回避 され るの か が 明 確で は ない が , 『勝 鬘 経 義 疏 』 に お い て は , 〔5
〕「世 間 〔的 善 法 〕」 と は , 人 天 〔乗 〕 で あ り, 「出 世間
〔
的 善 法 〕」 とは ,七 地 以下 の 大 乗の こ とである。 (大 正
56
,9a
) とい うよ うに , 大乗
に 「七 地 以 下の 」 とい う限 定 語が附される こ とに よ っ て, こ の 矛盾
が除かれ て い るの である。 即ち, 大乗
を 「七 地 以下 」 と 「八 地 以 上」 に 二 分 し, 「七 地 以 下 の 」の大 乗を所 生, 「八 地 以上 」 の 大乗を能生 と規 定す る こ とに よ っ て, 上 に述
べ た様
な矛盾
か ら脱 して い るの である。 大 乗 を能生
(
IOCUS
)
と所 生 (super ・locus
) とに よ っ て 二 分 す る と い うこ の 『勝 鬘 経義疏』 の 方法 は, 実 は , 『勝 鬘 義 疏 本 義 』 (敦 煌 本, 奈93
号) に 全面
的に依 存
し た もの で あ り,r
本 義 』 に は , 既に 明らか に され て い る よ うに 13) , 記 述 〔5
〕 とほぼ 同 文が 存す る し 14) , さ らに, 〔6
〕「大 乗 〔の 同 義 語 〕である」 とい うの は,能 生で あ る摂 受 正 法が八 地 以上
の 大 乗で ある こ とを言 う15) 。 とい う 明確な表 現 も見 られ る の で ある。 おそ ら く 『宝
窟
』 中の 「有
人」 の解釈
も, 『本義』 同
様
,大 乗
を二種
に 区別す
るもの で あっ た と 思われる t6) 。 こ の様に , 「大 乗」 を能 生 と所 生 とに よ っ て二 種に 区分 する とい う解釈
は , 一見機 械
的な も の に 見え な が ら も, 実は , 能 生を , 「八 地 以上 」 と規 定す るこ とに よ っ て , そ れ を 大 乗か ら限 りな く仏〔
乗
〕に近
づ ける もの であ
るこ とを注意
すべ きで あろ う17) 。以上, 問
題
を は らむ 個所
で は あるが,筆者
は 一応 記 述 〔3
〕
の 内 容を次の 様 に ま とめ て お きた い 。 一 412 一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
42)
『勝鬘 経 』の一 乗 思 想に つ い て (松 本 )10cus
… … … …… ・一 ・saddharma − → mahayanasuper −
10cus
… … … … (catvari yanani ) 図一 2こ の 図 に お い , → 印は ,
10cus
が 厂正 法」 か ら 「大乗 」に表 面的 に は 移 行 す る こ とを示 し, ま た括
弧は 不 明確さ を 表わす。さて, 一
乗章
を さ らに読み進
め る と, 「大 乗 とは,実
は仏 乗である。」 とい う次 の様 な重 要 な 表 現 に出 会 う。 〔7
〕そ れ は
何
故か とい う と, 世尊
よ, 声 聞 と独覚
の 乗は, 大 乗 に集 ま る (bdu
ba
, samavasarapa )か らで す。即ち, 世 尊 よ, 「大乗」 とい うの は , 「仏 乗」 (sahs rgyas
kyi
theg
Pa
,bu
・ddhayana
)
の 同義語
な の です。 世 尊 よ, こ の よ うに して, これ らの 三 乗は,一
乗だけとし て数え られる
(
grahs sllbgro
ba
, samkhyAr ;iVgam
) の です。世
尊
よ,一乗 を
証悟す
る こ とに よっ て, 無上 正等 覚
(
bla
na medpa
yafi
dag
par
rdsogspabi
byan
chub , anuttarasamyaksarnbodhi )を証 悟 す るこ とにな るの です。 (
SMDS
,Hi
,274b2
−4
, 高 崎 訳P
.101
)
こ こ で, 「三 乗は, 一 乗だけ と し て数え られ る。 」 とい う表
現
が あるが, こ の 三乗
の中
に 「大 乗 」 が あ り, そし て 一乗
が 「仏乗
」 を意味す
る とす れば , この 「大 乗」 と 「仏 乗」は 同 じなの か , 異な る の か とい うこ とが, 大 きな問 題 とな る。 も し両 者 を 同 じ と見れ ぽ, 三車
家 説が成 り立ち, 異な る と見 れ ば, 四車家
説が成立 す る。 三 車 家 説, 四車
家 説 とは, 別な 言葉で言 えぽ ,二 乗 方 便 説, 三 乗方
便 説 と い うこ とで もあろ う。で は, 記 述 〔
7
〕 の , ま た は 『勝 鬘 経 』 全 体の 真 意は , い ずれ に あるの で あろ うか 。筆
者 自身
の見解
を 先 に述べ て お こ う。 筆 者の 考 えは , 『勝 鬘経
』 は ,あ
く ま で イ ン ド仏 教 的な三車 家 的 表 現18)に とどま りな が ら も, そ の 根 底 に は, 摂 受正法章
の 比 喩に 見 られ る よ うな完 全に 四車 家的
な発想
がある, とい うもの であ る。記 述 〔
7
〕の 「三 乗は, 一乗だ けとし て数え られ る。」 とい う表現
は ,漢
訳で は , 「三乗
即是
一乗 」 とあ
り,何
か 四車
家 的な印象
を 与え るが, 「一乗真実
・ 二 乗 方 便 」 とい う観 点か らこ の 表 現を解 釈 する こ と も完全 に可 能なの で あ り, 現に, 以下に考 察 する記述
〔8
〕
に お い ては , 「一乗 真 実〔
= 大 乗 真 実 〕・二乗方便
」 と い うこ とが 明 記さ れ てい る の で ある。 従っ て,r
勝 鬘 経』 の 一 乗 思 想を , 厳 密に 文献
に 即 して , 「二乗 方便
・大乗真実
」 であ
る と看破
された高崎 直
道博
士19)の 洞 察 力に は深い 敬 意 を感 じる の で ある。 し か しな が ら筆 者は, 文 献 的に は高崎博
士 の説 を 至 当 とは認め つ つ も , その文献
の背後
に ある思 想の 太い 流 れ, 即ち,経 典
一 411 一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
r
勝鬘経 』の一乗 思想につ い て (松本 ) (43
)全 体の 論 旨の 一
貫
性を信 じたい と思 う。 こ の よ うに言 うの は , 摂 受正 法章
の 比喩
, 即ち, 記 述 〔1
〕 〔2
〕 との 関 連を重 視 す る とい うこ とで あ り, そこ で は 「大 乗
」が 所 生 (super ・
locus
) に 含め られ, 能生 (locus
) と区別 さ れ てい た の で ある。筆者
は,特
に 「四 重 担」 の 比 喩 こそ 『勝鬟
経』全体
の中
心 を なす と考え る もの で あるが, こ の 比喩
の 思 想 史 的 重 要 性 に つ い て は , 第二 節で 明 らか に し た い 。 従って, こ こで は 文 献的 に は非 常 に問題が あ る が,
一
応
記 述〔
7
〕
の内容
を次
の 図の様に 四車 家 説 的 に ま と め て お こ う。
locus
… … …… … …mahayana −一→buddhayana
(ekayana )Super −
locus
・・・… 一・(yanatraya ) 図一3
さて,
最後
に ,一 乗章の末 尾
に 見 られ る。 『
勝鬘
経』 全 体の 中で も最 も重 要 と思わ れ る記 述に つ い て考 察 し よ う。 その 記 述は, 次の 通 りで あ る。
〔
8
〕
世尊
よ,如来
に対
する帰依
(
skyabs su mchiba
,6arapagamana
)
は,真実
な る (yah
dag
pa
,bhttta
)
帰 依で す 。 〔法 と僧 に対 す る〕二 つ の帰 依 もまた , 実 義に お い て は (
yafi
dag
Par
na , tattvatas)
, 如 来 に対す
る帰依
と言 われ る もの を究極 (mthah )とす る と正 し く理 解すべ きです。 そ れは何 故か とい
う と,
世尊
よ,(
A)
如来
と二 つ の帰 依 処 (skyabs , §arapa)
〔= 法 と僧 〕 とは 異 じ な っ て は い ま せ ん 。 世 尊よ, 如 来だ けが三 つ の 帰 依 処な の です。
そ れは 何 故か とい う と, 世
尊
よ, 一乗
の道 (
lam
, marga)
を説 示 する こ の法 も牡牛 の よ うな如 来の 言
葉
で あ り, 四無 碍 解 (so soryah
dag
par
rigpa
,pratisamvid )
を そ な えた如
来の獅
子吼 (
sehgehi
sgra, si 恥
han
且da
)だか ら です。世 尊 よ, 各 自の 信 解
(
mospa
, adhimukti )に 従 う者た ちに ,如来
が(B
)方便
とい う手
段に よ っ て成
立さぜ た二乗
も,大乗
とい う本質
の た め です
。世尊
よ, こ の 二 乗 とい う名
(mih , ntiman )は あ りませ ん 。 即ち, 世尊
よ, 実 義に お い て は , こ の 〔三 乗 〕中
で (hdi
Ia
) 一乗
こ そ が真 実な る乗で あ り , 三 乗は 〔 一 ノ乗 に 〕
集
ま る (yahdag
Par
hdu
ba
) の です。(
SMSD
,Hi
,275b6
−
276a4
,高崎訳 pp
.103
−104
)(
A)
de
bshin
99egs
pa
yahgshan
malags
l
skyabsgfiis
po
yah
gshan
ma
lags
tel
bcom
ldan
bdas
de
bshin
g
§egspa
fiid
skyabsgsum
lags
so
ll
(
B)
theg
Pa
ghis
po
thabs
kyi
sgrub20 )
pas
bsgrubs
pa
de
dag
kyah
theg
pa
chenpo
bdag
fiid
kyi
sladdu
lags
so
【
1
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
44
) 『勝 鬘経』 の一乗 思 想に つ い て (松 本) 筆 者は , こ の 記 述を次 の二 つ の 問題 意 識を もっ て考 察 し たい と思 う。 そ の 第 一 は , こ こで 一乗
と三乗 (
文献的
に厳密
に いえ ば二乗)
の関 係
は どの様
な もの とし て 規 定 され てい る か とい うこ とで あ り, 第二 は, こ こ で文 献 的に 三 車家
的 表現
が完
全に守 られて お り, 四車 家 的理解を導入す る余 地は 全 くな い の か とい うこ とで あ る。第一 の 問 題
意
識に対
する解 答
は , 既に本論 の 冒頭に , 「(b)『勝 鬘 経 』 に お い て , 一 乗は 三 乗の atman(
本 質 )であ る」 とい う結 論に おい て示 し た の で あるが, 何 故 こ の結論 が記述 〔8
〕 か ら導か れ るか を説 明 し よ う。 記 述 〔8
〕の 中で 特に 重 要な二 つ の 文章
に は , 和 訳に 下線を附 し, そ の チ ベ ッ ト訳 原文を別に 示 し た が, その 内のCB
)と そ の 直 後の 文章を 見 れ ぽ , そこ に ,既 に 上 に も述べ た よ うな 「二 乗 方便 ・一乗 〔
一大 乗〕真 実
」 とい う説
が説
かれて い るの は 明 白で あろ う。 そ こ に ,方便 (
upaya ) と し て の 二 乗 と 目的(
upeya)
と し て の 大 乗が対比 さ れて い る し, ま た 「こ の 中で 」 とい う語
を 「三 乗の 中で 」 と解す る な らぽ, 三 乗 中の虚偽
な る 二 乗 と, 実 在 す る大 乗が対 比 されて い る か らである。 従っ て , 既に述
べ た様に , 『勝 鬘 経』 に対 す る高崎 博士 の 「二 乗 方 便 ・大 乗 真 実」 とい う理解
は文
献的
に は 全 く正 確 で ある と言わ ざる を得
ない 。 こ の意 味で ,筆
者は , 『勝鬘経
』 を 「 一 乗 真 実 説」 と呼ぶ こ とに何 ら躊
躇す る もの で は ない 。 た だ 筆 者が こ こ で 考 察 し た い と思 うの は , 一乗
と二乗 (
あ るい は 三乗)
とは厳密
に は どの様
な関係
に あるか と い うこ とで ある。まず, 記 述 〔
8
〕の の 文 章 に 注 目 し よ う。 そ こ に 「如 来 と二 つ の 帰 依 処は 異 な っ て い ない 。」 とあ るが, 異っ てい な け れ ば 全 く同一 か とい う と, そ うで は な く, 「如
来だ け(
fiid
, eva)
が三 つ の帰依処
で ある。」 と示 され て い る。 こ こ に チ ベ ッ ト語でhid
とある の は , 明 らか に eva の 訳 であ り, こ の 限定語 があ る 以 上, 「如 来」 と 「三 つ の帰 依 処」 が 全く同一で ある とい うこ とは あ り得
な い の で ある。高 崎
博
士 は , 記 述 〔8
〕の (N
と同 じ構 文が 『勝鬘 経』 に頻出す るこ とに注 目 され , それ を 「nanyab
A
nanyahB
/Aeva
B
」 とい う形 式
で示 し, その意味
を「
A
とB
とは 別 異で は な い 。A
こ そ がB
である。」 と見な さ れ てい る21)
。
rA
こ そ がB
」 とい う博
士 の訳 の意
味は 良 く分 ら ない い が , こ れ がA
とB
の 同一性を意 味 する ならば, 筆 者 の 理解 とは 異な る。 こ の 種の構
文は, 『勝 鬘 経』 に(A
)
以 外に 五回 見 られ るが, 最 初 の 四 つ は むしろ nanyah
A
nanyabB
/Beva
A
とい う構
成 を とっ て い る22)。 しか しの 文章が,
他
の 五 つ の 例と全
く異
っ てい るの は, そ れが nanyahA
nanyabB
/A
’ evaB
とい う構
成を もつ 点である。 即ち, 経,典作 者は 何 故 形 式 に従っ て , 「
如来
だけが二 つ の帰
依 処である。」 と せず
に, 「三Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 『勝鬘経』の 一乗 思 想に つ い て (松本) (
45
) つ の 帰 依 処で ある 。」 と書い た の で あろ うか 。 『勝 鬘 経』 の こ の 個 所 で , 一帰 依 と 三帰 依 との 関 係が説かれ るの は, 実は 「一乗
真実
」 とい う主張
を打
ち出すた め の 伏 線 に他な ら ない か ら, 「如
来だ けが , 三 帰依 処 で あ る。」 とい う の は , 実は, 「一乗だ けが 三 乗 で あ る。」 とい う主 張 を な し て い るの と 同 じこ となの で あ る。 で は こ こ に , 何 故 こ と さ らに 「三 帰 依 処」 (三乗 ) とあ り, 「二 帰 依 処」 (二 乗 ) で は なか っ た の か とい え ぽ, それは 四 車 家 的 思 考が働 い た か らだ と筆 者は 言 うつ もりは な い 。 既 に論 じた の と同 じや り方
で, 三車家
的理解
に お い て も, こ の表 現
は 全 く解 釈 可能
だ か らで ある。 ただ こ こ に , 一乗 と三 乗 との 関係 を 何 らか の あ り 方 に お い て 規 定 し決 着 し よ うとす る配 慮一 こ れ は勿 論 『法 華経』 の 影 響ぬ きに は考え られ ない 一 が働
い た こ とは 確 実であろ う。「如 来だけが三 帰 依 処で ある。」 とい うの を漢 訳は 「如 来 即三帰 依」 と訳 して い るが, も しこ の eva の 訳
語
た る 「即 」 が何 ら方
向性を も た ない 同 一性
を 示す とす れ ば, こ の漢訳
は非 常に 不充分 な訳 と言わ ざる を 得 な い で あ ろ う。筆
者が 「同一性
」 とい うの は ,A
→B
(
A
な らぽB
)
,B
→A
とい うよ うに,A
,B
間 に 相互的な論理 的 関 係の ある こ とで あるが ,rAevaB
」 が 示すの は ,B
→A
と い う論理 的 関 係だけで ある23) 。rA
即B
」 がA
,B
間の 相互的な論理 的 関 係を表 示する な ら, すべ て の議 論は混 乱 し て し ま うし, も しこ れ がA
→B
とい う論 理 的 関 係 を 示 すな らぽ, 一 切 の議
論は 逆転
す るで あろ う。さて ,で は 何 故 に 「一 乗 (一 帰 依 処 )だ けが 」 とい う様 に , 「 一乗 」 の 方 に eva が附い て い るの か とい えぽ, そ の 解 答は ,
記述
〔8
〕の(B
)に お い て与
え られ て い る。 高崎 博士 は, (B
)を, 「便 宜 的に(
声聞 や 独覚 の )二 乗を実行 され た として も, そ れは すべ て , 大 乗 自体 の た め(
の 方 便 ) で あ ります。」 と訳 され てい る 24) 。 ここ で 「大乗 自体」 とい うの は
theg
Pa chenpo
bdag
fiid
に 相 当するが,
bdag
fiid
は 恐 らく atman の 訳だ と思わ れ る。 もし博土 の 「大乗
自体」 とい う訳 が, 「大乗その もの 」 即 ち, 厂大乗 と全 く同 一な もの 」 を意 味 す る とすれ ば, 経 典 作 者は こ こ に わ ざわ ざatman
とい う語を もっ て くる必要は なか っ た で あろ う。 そ の 場合は , 単に , 「方便 に よ っ て 二 乗を成立 させ た の は , 大乗
の た め で あ る。」 と吉け ぽよ か っ た 筈で あ る 25) 。 従 っ て , こ の 場 合atman
とい う語は , 「そ れ 自 体1
(itself
)
とい う様
な 再帰 代名
詞 的な意 味で は な く, 普通 「本 質」(
essense ) と訳 され る よ うな意 味だ と思わ れ る。 で は こ こ で何が何の 本 質な の か とい え ぽ, 大 乗が, 方便的
な二乗
の 本質
とされ て い る こ とは 明 らか であ り, 従っ て, (B)
は , 「二 乗を方便 に よっ て 成 立 させ た の も , 大乗 とい う, 二 乗 の 本 質 の た め で あ る。」 とい う意昧
に解
すべき
で あろ う。 大乗
, 即 ち, 一乗
が , 二 乗の 本質
であ る 一408
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
46
) 『勝鬘経』 の一乗 思 想に つ い て (松本 ) か ら こ そ, 「 一 乗だ けが, 二 乗 また は 三 乗な の で ある。」 とい うよ うに , 「 一乗」 に eva とい う限
定語
が附
さ れ る の で ある。 こ の 様な eva を伴 う, い わ ば 一定 方 向性を もつ 関 係は , 既 に 述べ た よ うに , 決 して 同 一性(
ekatva )の関 係で は な く, 二 乗(
ま たは 三 乗)
を視 点 として 一 乗を見 る とき
,tadatmya
即 ち 「そ れ を 本 質 とす る こ と」 とい う関係
で あ り, こ の 関 係は ,Dharmakirti
に お い て は ,bhava
が svabhava に 対 し て もつ 関 係, また
Kum
五rila に お い て は, 普遍
(akrti)
が 個 物 (vyakti )に 対 して もつ 関係 と同 じ もの であ る26)。さて 『勝 鬘 経』に お い て 二 乗は ,方 便で は あ るが , 一乗
(
大 乗 )を本 質 (atman ) とする と規 定 され る こ とに よっ て ,価
値 的 に 全 く否 定 し去 られ るべ き もの で は な い こ とが, 理解
され るで あろ う。高
崎博
士 の 「そこ に は , 二乗
を 単 に否 定 し去る の で な く, これを方便 的
な もの と して 包 摂 し な が ら, 究 極的 な もの を打
出 そ うとす
るく究竟
一乗〉
の 立 場が 一貫
し て い る。」(r
形 成』P
.116
)
とい う御 意見
に筆
者 も同感で あ る。さて , 記 述
〔
8
〕を 四車
家的観 点
か ら解釈 す
る必要性
が あ る か と い えば, そ れ は全 くな い と言わ ざるを得
ない 。 や や 四車家
的 表現
と見え る, 一番
最後
の 「三 乗 が〔
一乗
に〕集
ま る」 とい う文
です
ら, その 直前
の文章
との関連
で 見れ ぽ, その 三乗 中の 二 乗が虚 偽で一乗が真 実な る もの で ある か らこ そ, 三 が 一に な る, とい う意 味に 理 解 しな け れ ば な らない か らで ある。 従 っ て何 度 も言 うよ うに 文 献 的 に は , 高 崎 博士 の 「二 乗 方 便 ・大 乗真実
」 とい う理 解を批 判 す る材 料は な い 。 先 に も少
し述べ た た が, イ ン ドの 仏 教 文献
に は , 例え ぽ仏 乗(
一乗 ) と大 乗(
菩薩
乗 ) と独覚乗
と声聞乗
の 四つ を 並記す るよ うな 明確な 四車家 的 表 現は な い で あ ろ う。 に もか か わ らず, 中 国仏教
に お い て 正 に 明確
な 四車家説
が成
立 した の は , イ ン ド仏 教 思 想 自体 に既にそ れを生み 出すよ うな要
素が確か に存 在 し て い た こ とを 示 し てい る。 筆 者は , 『勝 鬘 経』 こ そ, そ の よ うな要 素を もつ 代 表 的 経 典だ と考 え る の で あ る。例 え ば,
記述 〔
8
〕
の最 後
の部分
を,求
那跋
陀羅
は,〔
9
〕若如 来随彼
所 欲而方便
説, 即 是大乗。 無有
三(
二 ) 乗。 三(
二 ) 乗 者入於一
乗
, 一乗 者即 第一 義 乗 。 (大正12
,221a
) と訳 し て い るが, こ の翻 訳が, 「第
一 義乗 」 た る一乗 と 「方 便 説」 た る大乗を 区 別 す る 四車 家 的 理解
に 立 っ て い る こ とは 明白
で ある。また
筆老
は, 記述 〔
3
〕
の冒頭
に おい て, 「正法
」は 「大 乗 」の 同義語
である, と説か れ た とき, 大 きな問 題が 生 じ る と言 っ た。 そ れは ,摂受摂
法章
で は所 生(
super −locus
)に含
め られてい た 「大乗
」がそ こ で能
生(
locus
)と規定
されて しKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
『勝鬘経』の一 乗 思想に つ い て (松 本) (47 )
まっ た か らである。 し か も,
locus
が大 乗で あ り, 二 乗は, super −locus
で あるとい うの は, 正 に 三 車 家説 に 他な らな い の で ある。 し か し奇 妙な こ とに, 求 那 跋 陀
羅
は , 記 述 〔3
〕 冒頭 の 「大 乗」(
mahtiyfina)
とい う二 つ の語
を, 「大乗
」 と意
訳 せ ずに 「摩
訶衍」 と音 写 し てい る の で ある。 そこ に は , super ・locus
と して の 「大 乗」 と10CUS
と して の 「摩
訶 衍 」を区 別 し よ うとす
る意識
, しい て言
えぽ 四車
家 的な意 識 が働 い た の で は な い か と思わ れ る。 漢 訳 者の 理解を 『勝 鬘経 』 そ れ 自体 に まで遡 らせ る の は危
険であろ うが, そ こ に は単な る誤解
と して否 定 し去 る こ との で きない重 要
な問題
が秘
め られ てい るよ うに思わ れ る。 そ れ につ い て は , 本 稿の第
二節
で再び論 じるこ とに し て , こ こ で は , 一応 『勝 鬘 経』 の 一乗
思 想の 構 造を結
論的
に 次の様
に ま とめ て お きたい 。ekay 盃na …・・…
10cus
・… … ・・… ……atmany盃natraya ・・ …super −
10cus
… ・… ・・且tmavat (?) 図一 4こ の 図 に つ い て 若 干 説明 し て お こ う。 筆 者が 『勝 鬘 経』 の一
乗
思想に つ い て , 最 も非論 理的で ある と思 うの は, 一 乗 と い う10cus
がfitman
で ある と規 定
され る点で ある。筆
者に よれ ば, atman はlocus
で は あ り得ない 。 「一乗が三 乗のatman
である。」 と言 うな ら,「三乗のatman
」 とは, 「三乗
に ある, ま た三乗が所
有
するatman
」の意味
で あるか ら,こ の 場 合は 三乗
h
:locus
で 一乗が super ・locus
に な っ て し ま うの で あ る。 筆 者が, 図 一4
の 三 乗の 所 にatmavat
とい う 造 語を 入 れ て (?)印を附 し た の は, こ の 論理的 矛 盾を 示 そ う とし た もの で ある。II
『勝 鬘 経』 の一乗 思 想の思 想 史 的 意 味さて , 本 節で は , 『勝 鬘 経』 の 一乗 思 想が大 乗 仏 教 思 想 史 上 い か な る意 味を も つ か , 特 に そ の 思想 的 系 譜 とい うこ とを問 題 と し た い 。
まず 議 論の 発 端 と し て , 次 の 図を 見て い た だ きた い 。 国ゆproduction 〔super −
locus
〕 ・・・…t
O 蕁 蔓冨
ヴ自
胄 ヨ 冖 讐団
σq 讐 甲き
母 ヨ 曽t
t
= yanatraya翻
… …ldharm
・dh
・・一 ・k
・y…i
図一5
一 406 一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (48 )
r
勝鬘 経 』の 一 乗 思想に つ い て (松 本 )こ の 図は , 筆 者が本
研
究 (II
)で 『大 乗 荘 厳 経 論釈 』 を素 材 と と し て ,唯識派
の 一乗 思 想の構 造を示 す もの として 作 成 し た もの で あ るが27) , こ の図 に 示 され る 唯 識 派の 一乗思想の 構 造 と, 図 一4
に 示 し た 『勝 鬘経』 の 一 乗思想の 構 造 とで は, そ の 骨格
が完全 に 一致 し て い る。 即 ち, 図 一5
に な ら っ て図一4
を書 き改
めれ ば, 次の 様に なるであろ う。 ■ゆproduction ぐコdissolution
〔super −10CUS
〕 〔10cus
〕 (hetu ) い 感 く艮
卑・ 愚 冨 唱 『 固 冖 《 犀 餌 げ・ く 倒 昌 尠 日普
釧鴇
蠧
曾{L
↑ 尋tU
=yanatraya
ekay 亘na =buddhayana
図一6
こ の 図で , O 印で 示 さ れ て い る の は,
中国
仏
教で , 「収
入 」 と か 「摂入 」 とか 言わ れ る よ うな, 特に 記 述 〔8
〕 に 見 られ る 三 乗(
ま た は 二 乗 )が 一乗に帰入 す る方 向を表わす。筆
者は , 本 研 究 (II
)で 「『諸法 (
suPer −locus
)
は 異な るが, 法 界(
IOCUS
)は同一 (無 差 別 )であ る。』 とい う説は ,唯 識 説 と如来蔵
思想の い わ ぽ 共有 財 産で あ る」 と述べ た が , 図 一5
と図一6
の 比較
に よ っ て , 一乗 思 想 に 関 して もこ の こ とが妥 当す る こ とが明 らか に な っ たで あ ろ う。さて
筆者
は こ こ で, 唯 識 説 と如 来 蔵 思 想が ともに 「法界
無 差 別 」を 主 張 す る点 を重視
して, 一つ の 仮 説 (hypothesis
)を立 て た い と思 う 。 それは,唯識 説
を も如 来蔵 思
想
を も包 含 す るた だ一つ のDhatuvfida2B
) (the
theory
oflocus
)という もの が あ り, そ れ が 「すべ て は空で あ り, 従 っ て
locus
も 空で ある。 」 と説 く ノ中 観 派の
Sttnyatavada
と対 立 して い た とい うの が, イ ン ド大乗 仏 教 史の 現実
で あっ た , とい うもの であ る。 で は ,筆
者 は こ のDhatuvada
な る もの の 主 張 を どの よ うに仮 定す るの か 。 筆 者が そ れ に 与え る定
義
また は特 徴は , 次の 三 つ で ある。(
1>locus
は super −locus
を生み だす。 〔locus
が因にな りうるこ とに つ い て は,既 に説 明 し た 。〕
(
2) super −locus
は 相互 に 異な り多で ある が,locus
は 同一 (無 差 別 )か つ 単
一であ る。
(
3)
super −locus
は 非 実 在であ るが ,locus
は実
在 であ る。これ を ま と め れ ぽ 「一 に し て 実在な る
locus
が, 多に して 非実在
な る super −locus
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
r
勝鬘経』の 一乗思想に つ い て (松本 ) (49
)を生 じる。」 と主 張 す る もの が
Dhatuvada
で あ る とい うこ とに な ろ う。 ただ し以 下 に おい て, 単に ,
一 な る
locus
と多な る super −locus
を対 比 的 に説 く記 述 をDhatuvada
と呼ぶ こ とがある。さて,
筆
者が こ の よ うな仮 説を 立て るの は , こ れ に よ っ て, イ ン ド仏 教 史 の 一 面を統
一的
に解
釈 し得
る と考
え るか らで あ る が, 以 下 に こ の 仮説 の 有 効 性を 示 し た い と思 う。 まず,r
勝 鬟 経』 の 一 乗思 想が, 上述 の 三定 義 を 完 備 す る 点 で ,Dhatuvada
で あ る こ とに 疑 問は ない 。 とい うよ りむ し ろ筆者
に とっ て は , 『勝鬘
経』 こ そDhatuvada
の 最 も完 璧な文 学 作品 なの で あ り, そ こ に はDhatuvfida
の もつ 論理 的斉
合 性 と論理的 破綻
が ともに 示 され てい る よ うに 思われ る。で は , 『勝 鬘経 』 の
Dhatuvada
は, ど こ に そ の 思 想的 起 源を もち, そ の後
ど の よ うに発展
し継
承 された の か。 以 下 に こ の 二 つ の 問題
を追
求 した い が, まず第
一 の 課題
を達
成す る た め に は, 大乗
仏 教 経典
,特
に 『勝鬘経 』 以 前
の そ れに 対す る充分 な知 識
が必 要 なこ とは言 うまで もない 。 そこ で その種
の 知識
を欠い て い る筆
者として は ,高崎博
士 が 「如 来 蔵 系 経 典」 として 和訳 された経 典 群 に 目星 をつ けて , そ こ にDhatuvada
の系譜
を探ろ うとす る以外
方法
を もたな か っ た。まず 『智 光明荘 厳 経』 (
JfiandlokdlamPkdrastitra
,,JAA
,P
. ed .No
.768
)に っ い て , 考察
し よ う。高
崎 博士は , こ の 経典
と 『勝 鬘 経』 との 時代
的 関 係を問 題 と され てい な い が, 博士 は こ の経 典を ほ ぼ 『如 来 蔵 経』 か ら 『不増 不 減 経』 に 至 る中間に位 置させ られ る29)よ うであ り, 従っ て ,r
不増不減経
』 は 『勝鬘
経 』 に 先 行 す る とする博士は , こ の 経を 『勝鬘 経 』 以 前 と見な され る よ うである30) 。 筆 者 もま た こ の 経を通 読 して , 『勝 鬘 経』 以 前 との 印象を もつ 。で は, こ の 経の 中心的テ ーマ とは 何か 。 そ れは, 次 の 比喩に示されて い る。
〔
11
〕 文 殊 よ , た とえ ぽ, 虚空 (
nam mkhab ,hkfiSa
)は , すべ て に 対 し て平 等(mham , sama
)
で あ り, 無分 別 であ り, 区別をせず, 不生 ・不滅
で あ る。 …… しか し
(
熱
onkyah
)
31) , 衆 生の 界 (dbyihs
,dhatu
)
の 小 ・中 ・大に よ っ て ,虚
空 も小 ・中 ・大 と して 知 られ るこ とにな る。 … …そ れ と同様 に , 如 来 ・阿羅 漢 ・正 等 覚 者 も,すべ て に対 して平 等で あ り,無
分 別で あ り, 区 別をせ
ず
, 不 生 ・ 不滅
で ある。 … … し か し(bon
kyah
)31 ) , 劣 ・中 ・ 勝 (
dman
pa
dafi
hbrifi
dah
mchog )の 衆生た ちに よっ て , 如 来 も劣 ・
中 ・
勝
と して 見 られ るの であ る 。(
JAA
,khu
,315b7
−316a8
,高崎
訳P
.316
) 高 崎 博士 は , こ の 『智 光明 荘 厳 経 』 の 性格 に つ い て , 「衆生の 側の 問題, す なわ ち, 能 力の有
無 とか, 状況 の 差別 とい うこ とは全 く視野 の 中にない 。 … …随処
で, 衆生 の 意 楽や機根
に応 じた 示 現で ある と説 くが ,意 楽や機 根 の 差 に もか か わ らず, 一404
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
50
) 『勝 鬘 経』の一 乗 思 想に つ い て (松 本) 〈 無 分 別 〉 〈 無 差 別 〉 に , とい うこ とに 重点
があ り,」(『形 成 』P
.616
)と述べ ら れ るが,筆 者
に は, こ の 経は, 衆 生 の 意楽 や 機 根 の 相違を 大 い に問題に して い る よ うに 見え る。 こ の経 の中
心的テ ーマ は ,筆者
に よれ ば, 「同 一一一ts
もの , 即ち, 如 来が, 衆生 の意
楽の 区別 に 応 じて , 多 なる もの(
別 異 な もの ) とし て現
わ れ る。」 とい うも もの で ある。 無 論, 高 崎 博士 の よ うに , こ の 後 に 「し か し,如来
自身は , 何 ら分 けへ だて をせ ず 無 差 別であ り同一 で ある 。」 とい うの を付加
しても
よ い 。 し か し, こ の テ ーマ 自体が 「衆生 の 意楽
の 区 別 」 とい うこ とを抜きに して は構
造 的に 成立 しない もの で ある こ とと は , 明 白であろ う。さて,記 述 〔
11
〕は , 如 来 の無 差別 を 示す 九 喩 の 第 九 番 目に当るが, こ の第
九 の 比 喩 と, 次 に示す
第八 の 比喩
とで は, 説 相が少
し相
違 して い る。 〔12
〕
文殊 よ, 例え ば大地
(
sa ,prthivi )
に 依存
し, 大 地に 依 拠 し て, 一切
の草
(rtswa ,
trPa
)・灌 木(
Sin
gel
ba
,gulma
)
・薬草 (rtsi , o§adhi )・森 林 樹(nags tshal , vanaspati )が成 長 し
, 増 大 し, 広大 となるけれど も, 文 殊 よ,
大 地は 構
想
せず
,分別
せず
, 一切 に お い て等
しく, 無 分別 で , 区 別せ ず, 思 惟 せず, 心 と意 と識 とを離れ てい る。文 殊 よ, そ れ と同様 に , 如 来 に 依 存 し,
如来
に 依 拠 し て, 声聞乗
の 者で あ れ,独 覚乗
の 者で あ れ, 大 乗 の 者の であ
れ, 一切の衆生
の 一 切の善根
は ,成
長 し,増
大 し, 広 大 と な る の で あ り, また 〔そればか りか〕 如 来に依 存 し, 如 来 に 依 拠
し て, ミ
ーマ ー ン サ ー派 (spyod
pa
pa
, mimarPsaka )と遊 行 者 (kun
tu
rgyu ,parivrajaka
) とニ ガ ン タ派 (gcer
bu
pa
, nirgrantha ) 等 の 一切の 外 道 の 一切の 善根 と,
最
終 的に 誤っ た もの に 決 定 した者(
tha
nalog
pa
fiid
du
fies
pa
,邪定聚 )
た ち の善根 もす
べ て , 成長
し,増
大 し, 広 大 にな るけれ ど も, しか し31)