Yod Chiangrai 王と Tapodārāma の建立
古 山 健 一
1.はじめに
本稿は、以前にこの論集に公表した 2 本の拙稿
(古山 2010.; 古山 2011.)の続編で
ある。特に前者において紹介した Setangamani 仏像の来歴譚
(ตำ�น�น
)(1)に対する
考察の一環として、マンラーイ王朝第 10 代の王 Yod Chiangrai
(ยอดเชียงร�ย
, Jkm.: Jaṃrāyagga)の治世期の事績について、とりわけ、Jinakālamālī
(Jkm.)(2)において
同王が建立させたと伝えられる Tapodārāma
(3)について、その建立の理由・経
緯を考察することを目的とする。
Yod Chiangrai は、「ラーン・ナーの黄金期」
(The Golden Age of Lān Nā)(4)と呼ばれ
る時代に属する国王である。この時代の王は、仏寺の改修や拡張、新規建立、
僧団への大規模な寄進などに熱をあげ、積徳と仏教興隆に尽力するのであるが、
Yod Chiangrai の場合は、在位期間が 10 年にも満たなかった
(Chronicle. によれば 9年、Jkm. によれば 8 年)
ためか、史書においては、その事績がごく僅かしか伝えら
れていない。Yod Chiangrai が「非道非法の王」として臣下に廃位させられたと
語る『チエンマイ年代記』
(Chronicle.)(5)に至っては、同王の積徳行為や仏教興隆
事業について何も言及していない
(6)。Tapodārāma の建立は、Yod Chiangrai が
その在世期に為した唯一の大々的な仏教的事績と言って良いものである。
Setangamani 仏像の来歴譚には、Yod Chiangrai は、Tapodārāma にこの仏像を
移そうとしたが、比丘としてチエンマイに逗留していたアユタヤの王子により
仏像が持ち去られたことを知り、アユタヤに対して仏像奪還戦争を起こし、こ
れに勝利して仏像を取り戻した、と語られている。しかしながら、筆者
(古山)は、「土地の人々がそこでいま語っている歴史」としての意義や価値を否定は
しないが、この事件については、史実性という観点からはその信憑性が限りな
く疑わしいことと考えている
(7)。今はその議論に立ち入らないが、それが史実
に根差していようと、来歴譚の作者による完全な託けであろうと、何故にこの
仏像と Tapodārāma が結び付けられているのかについては、一度は考えてみる
必要があるのではなかろうかと思う。本稿は、筆者の斯様な問題意識から、同
寺建立の理由・経緯を考察せんとして草されたものである。以って、未だ完遂
していない Setangamani 像来歴譚に対する分析の一部にしたいと考える。
2.Tapodārāma とは?
Tapodārāma とは、Yod Chiangrai 王の治世期に当たる C.S.854
(A.D.1492)年に、
Yod Chiangrai とその王妃の支援により、チエンマイ都の南西方、チエンマイの
霊山の 1 つドーイ・カム
(ดอยคำ�
)の麓に建立された寺院であり、現在のチエン
マイ県ムアン・チエンマイ郡のタムボン・ステープ
(ตำ�บลสุเทพ
)内にある
(8)。
筆者はこれまで計 2 回、2011 年 3 月 18 日と同年 12 月 28 日に同寺を訪問し
ている。現在ある礼拝堂等の主要施設は、A.D.1972 年以降に再築されたもの
である。目下はチエンマイでも有数の大規模な瞑想修行道場となっており、
ミャンマーのマハーシ瞑想法系統の修行がおこなわれている
(9)。
この寺院は現在 “Wat Ram Poeng”
(วัดร่ำ�เปิง
。Wat Rampueng とも。Setangamani 像の来歴譚のタイ語部では
“วัดรำ�พึง”
と記されていた)と呼ばれている。この寺院の呼称が Tapodārāma
から Wat Ram Poeng に変わったのがいつのことかは筆者には分からないが、寺
誌に語られる創建縁起の成立と関わっているのではなかろうかと思う。中村
2015. は、同寺の寺誌に記述されていることとして、
〈…ワット・ラムプーンという名前の由来については、一説にはパヤー・ヨートチェンラーイが亡くなった両親のことを思い起こし、
2 人を追善供養したいと思い、新しく建立した寺院の名前をワット・ラムプーン
วัดร่ำ�เปิง
と名付けたと伝えている。ラムプーンとは追憶するという意味のラムプン
รำ�พึง
に相当する〉(p.183)と述べ
ている
(10)。なお、“Tapodārāma”
(tapoda + ārāma)という寺名の語義に関しては後
に触れるであろう。
この寺院には、A.D.1886 年に同寺で発見された碑文がある
[Cf, NThSI-C. p.61 (JM13); Tapodharam-Isc.]。これは、この寺院の建立当時に作製されたものであり、
Tapodārāma の歴史の研究においては、第 1 次史料とされるべきものである。
そこには、建立の経緯と、寺院維持のためになされた Yod Chiangrai による寄
進の詳細等が刻銘されている
(11)。
なお、この寺院については、Yod Chiangrai が創建したのではなく、それ以前
に存在していたとする見解がタイ人により示されている
(12)。それは、『ヨー
ノック年代記』
(Y-Chronicle.)に、何に拠って斯様に述べているのかは分からな
いが、
〈C.S.854 年、子年、暦年末尾が 4 の年、チエンマイなるピン川のムアンの Phra Yod Chiangrai様は、Tapodārāma と呼ばれる 1 僧園を建立させ、Ñāṇamaṅgala 長老が結んでおいたところの、古い結
界標識(
ลูกนิมิตสีม�ของเก่�
)を掘り出して移し、それをさらに浄化して、新しい baddha-sīmā(พัทธสีม�ใหม่
)を結んだ〉
云々
(p.353)とあることに基づいている。Yod Chiangrai が Tapodārāma
を建立させた時に、古い結界標識を取り出して浄化
(再生)したのであれば、
そこには既に布薩堂と思しき施設があったということになる。既に僧園があっ
たということになるであろう。
大変興味深い記述であるが、同寺の建立時の経緯に関しては、先ずは上述の
碑文に拠って理解すべきであろうし、また、編述年が建立年に近いため同時代
資料として扱うことのできる Jkm. の記述が、碑文に次いで重要視されるべき
であろう。Y-Chronicle. は、A.D.20c に入ってから編纂されたものであり
(13)、
史実の解明においては 1 次的史料には位置付け難いものである。1 次的史料た
る碑文と Jkm. には、Y-Chronicle. が述べるが如きことは記されていないので、
この寺院が Yod Chiangrai 治世期よりも以前に存在していたかどうかについて
は疑問が残る。Y-Chronicle. の述べるところは、Wat Ram Poeng の寺誌
(HWR.)が語る創建縁起
(14)とは相性が良いが、史実か否かに関しては再考の余地があ
ろうと考える。
3.Yod Chiangrai 王の治世期
Tapodārāma 建立について考察する前に、同寺の建立者とされる Yod Chiangrai
王の生涯を、後代の Chronicle. 等をも資料として用いるが、前代・次代の王の
治世期の関係事項も含めつつ、可能な限り詳述しておきたい。
Yod Chiangrai 王の父は、 マンラーイ王朝第 9 代の王 Tilokarat
(ติโลกร�ช
, Jkm.:Bilakarāja)
の実子にして唯一の男子である Si Bun Rüang
(ศีรบุญเรือง
)であり、Tilokarat
王はこの息子をチエンラーイの統治者に任じていた
[Chronicle. p.106; Chronicle-tr.pp.107-108]
。Jkm. では、この子は太子
(yuvarāja:a crown prince)と呼ばれているので
[Jkm. p.104]
、将来の王位継承者に指名されていたと言えよう。
Si Bun Rüang の母親については、筆者
(古山)には詳らかでない
(15)。
Si Bun Rüang は、チエンラーイの統治者であった時期の C.S.818
(A.D.1456/57 頃)Wat Ram Poeng の 寺 誌 に よ る と、 母 親 が チ エ ン ラ ー イ の 山 Yod Dok Bua
(ยอดดอกบัว
)に出かけてそこに滞在していた時に産まれたので、父親はその息子
を「チエンラーイの頂上」を意味する “Yod Chiangrai”
(16)と命名した、と述べ
られている
[HWR. p.1(英訳頁 p.10)]。
Chronicle. は、Tilokarat 治世期の晩期に近い頃、チエンマイ都の宗教的守護
力の弱力化を画策する南部
(アユタヤ)の王に雇われたプカーム
(ミャンマーのパガン)
の僧 Mang Lung Lwang
(มังหลุงหลวง
)が、Tilokarat を騙してチエンマイ都を守
護する霊樹を切り倒させたため、国や王室、貴族たちに種々の不幸が降り注い
だ、と言う
[Chronicle. pp95ff.; Chronicle-tr. pp.97ff.](17)。
Chronicle. はさらに、この「不幸」の 1 つとして、ある事件が起きたと語っ
ている。すなわち、Hò Muk
(หอมุก
(18))という名の Tilokarat の妃
(19)が、王に Si
Bun Rüang には邪心があると讒言した、と語っている。すると父であるTilokarat
は、この妃の讒言を真に受けて、息子を Muang Nòi
(เมืองน้อย
:現メーホンソーン県パーイ郡内)
へ配流してしまった
[Chronicle. p.98; Chronicle-tr. p.99]。彼女は、さらに讒言を
重ねて、Tilokarat をして Si Bun Rüang に死を与えせしめた
[Chronicle. p.98;Chronicle-tr. p.99]
。具体的な理由は判然としないが、Hò Muk は Si Bun Rüang を嫌って、
抹殺してしまったのである。
この Si Bun Rüang の冤罪処刑事件は、C.S.832
(A.D.1470/71)年に起きたと考え
られる。Chronicle. には、Tilokarat と Hò Muk が Muang Pan
(เมืองปัน
:現ミャンマー・シャン州内)
と Muang Nai
(เมืองน�ย
:前同)に遠征した
(20)C.S.832 年に、チエンラー
イの統治者である Bun Rüang が
“เมืองเยียว”
(21)で亡くなったとの記述がある
[Cf.Chronicle. p.100; Chronicle-tr. p.102]
。この Bun Rüang は、位階は “หมืน” とされているが、
職名や死亡地から推定するに、Tilokarat の息子と見て良いのではないかと思う
[Cf. Hans 2004. 94]
。この時、Hò Muk は 2 度目の讒訴を行い、Tilokarat は息子に死
を与えたのであろう
(22)。
ちなみに Hò Muk は、その翌年の C.S.833
(A.D.1471/72)年に没している
[Cf.Chronicle. p.100; Chronicle-tr. p.102; SHR-Chronicle. p.86]
。死因は伝えられていない。
なお、Yod Chiangrai は、C.S.824
(A.D.1462/63)年に弱冠 6 歳ながら王命をうけ
て Muang Nai への遠征に参軍している
[Cf. Chronicle. p.99; Chronicle-tr. p.101]。
このことについて M.L.Manich Jumsai は、Tilokarat が無実の罪で実子を殺し
てしまったことに悲しみ、それが Yod Chiangrai との仲を親密にしてこの遠征
に参軍せしめることになった、という趣旨のことを述べている
[Manich 1967.่
้
pp.68-69]
。Chronicle. によれば、チエンマイの守護霊樹を切り倒させたとされる
のは C.S.828
(A.D.1466/67)年である
[Cf. Chronicle. p.97; Chronicle-tr. pp.99]。氏の説にお
いては、Si Bun Rüang の冤罪処刑事件は、霊樹伐採よりも前の出来事であると
いうことになり、Chronicle. の語るところとは齟齬が生じる。
Tilokarat は、Dam Phra Khot
(ดำ�พร�โคต
、Jkm.: Sīha(la)gotta)に命じて、C.S.837
(A.D.1475/76)
年より 4 年の歳月を費やして、チエンマイ都にある Wat Chedi Luang
(
วัดเจดีย์หลวง
、Jkm.: Mahādhātu-cetiya)の大仏塔の拡張工事をおこなわせた
[Chronicle. p.101; Chronicle-tr. p.102; Jkm. pp.95-96]。Jkm. によれば、この大仏塔
(龕と推定される)にはラン
パーンから運ばれた宝石像
(Ratanapaṭimā、いわゆるエメラルド仏)が祀られた
(23)。
Setangamani 像の来歴譚によれば、上述の如くその真偽は定かでないが、こ
の時にこの仏像も同じくこの仏塔に安置された
[Cf. 古山 2010 p.306]。
C.S.849
(A.D.1487/88)年の第 9 月、白分第 3 日目の日曜日に Tilokarat は崩御し、
同年第 10 月の満月日に、Tilokarat 王の直系の孫に当たる Yod Chiangrai が第 10
代の国王として即位した
[Chronicle. p.105-106; Chronicle-tr. pp.107-108]。この時、彼は 32
歳であった
(Jkm. p.103 では 31 歳としている)。
即位直後のことと考えられるが、Yod Chiangrai は、先代 Tilokarat 王の遺体
を金の棺に納め、Mahābodhārāma
(วัดโพธ�ร�ม
=วัดเจ็ดยอด
)において荼毘に付し、同
寺の境内に塔
(stūpa)を建立して、その中に王の遺骨を埋葬した
(それを常に供養 した、とも述べられている)[Jkm. p.103]。
また、これも即位後間もなくのことと考えられるが、Yod Chiangrai 王は、高
官貴族の中から 3 名を昇位させ、このうち 2 人を新たな軍司令官
(เสน�
)とチエ
ンマイ都の執政官
(กินนคร
、※ SHR-Chronicle. ではกิจนคร
と記している)に任命している
[Chronicle. p.106; Chronicle-tr. p.108; SHR-Chronicle. p.91]
。
翌 A.D.1489 年、Yod Chiangrai 王は、中国・明の弘治帝に朝貢の使節を派遣
して「祖職」の継承許可を求め、承認されている
(24)。
この A.D.1489 年には、Yod Chaingrai とその母
(すなわち Si Bun Rüang の妻)と思
しき人物による仏教寺院への寄進活動がなされており、そのことが碑文から確
認される。その中に注目すべき寄進がある
(25)。チエンマイ県サムパートーン
郡 に あ る Wat Thung Tūm
(วัดทุงตูม
)(26)に は、Phra Cao Si Bun Rüang
(พระเจ้�ศีรบุญเรือง
)と呼ばれる仏坐像が安置されている。その台座には、C.S.851
(A.D.1489)年に、
“พระเมืองแม่ลูก” と呼ばれる女性と子が当該の仏像を造像して Wat Yāng Köm
(วัดย�งเกิม
)に安置し、Si Bun Rüang と名付け、そこを “พระเมืองแม่ลูก” の寺とした旨が刻まれて
้
่
いる
(27)。ここには、Yod Chiangrai を指すとしか考えられない人物と、“แม่”
(母)と呼ばれる女性が登場する。筆者
(古山)はこの女性を、Yod Chiangrai の母親、
すなわち Si Bun Rüang の妻であると考える。そして、この寄進行為には、讒
言により刑死させられた Si Bun Rüang への追善供養的な意味合いが込められ
ているのではないかとも想像する。殊に Phra Cao Si Bun Rüang の造像と寄進に
ついては、斯様に見ることは十分に可能であろう。筆者の想像が的外れでなけ
れば、即位直後の Yod Chiangrai〔とその母〕には、Si Bun Rüang のことが強く
意識されていたと言えるであろう。
C.S.854
(A.D.1492)年、チエンマイの南西方に Tapodārāma
(ตโปท�ร�ม
)を建立し
た
[Jkm. p.104; Tapodharam-Isc 1492.]。このことについては、次節で詳しく触れる。な
お、Setangamani 像の来歴譚によれば、この時に Setangamani 像を Wat Chedi
Luang から Tapodārāma へ移そうとしたが、比丘としてチエンマイに逗留して
いた南
(アユタヤ)の王子 Suriyavaṃsa
(สุริยวังสะ
)により仏像が持ち去られたこと
が露見した、と言う
[Cf. 古山 2010 pp.306-307](28)。
翌 C.S.854
(A.D.1492/93)年には、Pallaṅkadīpa
(29)にあった、先王 Tilokarat 時代
に Ñāṇamaṅgala 長老が定めた部分結界
(khaṇḍa-sīmā)を、「王の叔父であった大臣」
(rañño mātulamahāmacco)
と、長老比丘の Veḷuvanta、Ñāṇabodhi-mahāsāmi、Sūrasīha、
Nārada、Dhammasaṇṭhira らとともに浄化
(再生)した
[Jkm. p.104]。
ここに挙げられる「王の叔父であった大臣」であるが、Wat Ram Poeng の碑
文 に は、 同 寺 建 立 の 監 督 者
(หัตถกรรม
)の 筆 頭 と し て、 王 の 叔 父
(ร�ชม�ตุละ
=น้องของแม่
:母親の弟)でチエンラーイの太守であった Muang Yi
(เมืองญี
)の名が見ら
れるので
[Tapodharam-Isc. p.53]、この Muang Yi を指していると思われる。王室の
仏事たるこの Tapodārāma の建立と Pallaṅkadīpa の結界浄化においては、母の弟
である叔父が大きな役割を果たしていたと言えるであろう。
何年のことかは分明でないが、多分 Pallaṅkadīpa の結界浄化の後に
(30)、ラン
プーンの Wat Phra That Haripunchai
(วัดพระธ�ตุหริภุญชัย
)の大仏塔
(Haripuñjaya-mahādhātu)を 10 万の幢幡でもって供養した
[Jkm. p.104]。この行為の背景については述べ
られていないので、よく分からない。
ところで、話は前後するが、Yod Chiangrai には、即位前に婚姻した、Pong
Nòi
(ปงน้อย
(31)、Jkm.: Siriyasavatī)という名の妃がいた。この妃との間には C.S.844
(A.D.1482/83)
に男の子が生まれており、Rattana
(รัฅน
)と名付けられた。しかし、Yod
子で、養子にして育てていた、Phrao Salang
(เพล�สล�ง
)という男子のほうを寵愛し、
この養子に Muang Phrao
(เมืองพร้�ว
:現チエンマイ県北部内)を統治させていた。将軍・
大臣らは、王のこの振舞いを快く思わず、王に諫言したが、王は聞く耳を持と
うとしなかった、と言う
[Chronicle. p.106; Chronicle-tr. p.108]。
Yod Chiangrai が実子よりも養子にしていた Hò の子を寵愛した理由は詳らか
でない。雲南地方との関係を良好にするための策であった可能性が考えられる
が、養子を実子以上に愛したとなると、王妃 Pong Nòi〔やその一族〕との不和
ということもあったのかもしれない。
Chronicle. は、Hò の子を寵愛した話に続けて、Yod Chiangrai はムアン
(=王都チエンマイ)
の名にとって不吉な状態
(ก�
(33)=ก�ลกิณี
)となる月曜日に即位式を挙
行したためムアンに繁栄がなく、さらに王は「国王の道たる王族の習慣」
(
รีตท้�วคลองพญ�
)にしたがって〔政務を〕運営せず、また「十王法」
(ทศร�ชธรรม
)(34)にも合致しなかった、と語っている。そして、こうしたことから将軍・大臣ら
は主君に不満を抱くようになり、C.S.857
(A.D.1495/96)年に、臣下の者らが挙っ
て Yod Chiangrai を退位させた、としている
[Chronicle. p.106; Chronicle-tr.p.108](35)。
ちなみに Y-Chronicle. では、Hò の子を寵愛した話の前に、Setangamani 像が
アユタヤの王子により持ち去られた話とこれを奪還した話が置かれている
(pp.353-354)
。Y-Chronicle. はこの仏像盗難の話も王の非道非法に起因している
と語りたいのではないかと筆者
(古山)には思えてならないのであるが、この
仏像が Yod Chiangrai の治世期にチエンマイに存在したのかは定かでないため、
それがクーデターの理由の 1 つに数え上げられるのかは疑わしいと言えよう。
これまでに述べた如く、Yod Chiangrai は、先王 Tilokarat を懇ろに弔ってい
るし
(Tilokarat も即位後に同様のことをしていた)、母親と思しき女性が主導していたよ
うであるが、積徳行為や仏教興隆事業にもまったく無関心ではなかった。こう
した点を勘案すると、Chronicle. の述べる如く Yod Chiangrai が非道非法の王で
あったのか疑問が残る。少なくとも「非法」とは言えないであろう。しかしな
がら、「非道非法の王」との烙印を押す妥当性はさておき、王族や貴族らに何
らかの強い反感を懐かれたのであろう。Hò の子の寵愛という問題は大きかっ
たのであろう。それだけならば退位させられるまでに及ぶ理由とは考え難いが、
寵愛の度が過ぎて、王朝の創始者 Mangrai 以来の血統を受け継ぐ実子 Rattana
を廃嫡して、Hò の子を王位継承者に指名し直そうとしているのではないかと
思わせるが如き振る舞いがあったのであれば、王族や貴族たちの間には相当な
反発心が生じたものと思われる。恐らくは、斯様なことがあったのであろう。
退位させられた Yod Chiangrai は、Muang Samat
(เมืองซะม�ศ
。Muang Nòi の近く(36))に追放されることとなった。チエンマイ王としての在位期間は、僅か 9 年
(Jkm. p.104 によれば 8 年)
であった。その後、Muang Samat で 10 年
(Jkm. p.104 では 11年)
の余生を送り、C.S.868
(A.D.1505/06)年に 50 歳で没した
[Chronicle.pp.106-107;Chronicle-tr. p.109]
。
Yod Chiangrai の廃位後、高官貴族たちは、Pong Nòi との間に生まれた実子の
Rattana を次の国王
(第 11 代)に就けた。C.S.857
(A.D.1495)年のことであり、こ
の時 Rattana は 14 歳
(Jkm.では 13 歳)であった。即位の際に彼は “Bhūtādhipatirājā”
(
ภูฅ�ธิปฅิร�ช�
)と贈名された
[Chronicle. p.106; Chronicle. p.108]。
この Rattana は、Phraya Kæo
(พระย�แก้ว
:「Kæo 王」の意)とも呼ばれる
(37)。また
Jkm. では “Bilakapanattādhirāja”
(Tilokarat の曾孫である王)と呼ばれている。
Kæo は、父 Yod Chiangrai が亡くなると、その亡骸を配流地の Muang Samat
から運んで「大菩提樹の場所」に横たえ、1 ヶ月の時間を費やして葬儀をおこ
ない、荼毘に付した。その後、父への追善供養のためと考えられるが、その場
所に布薩堂を建立する。その際に父の遺骨・遺灰を建立予定地の上に撒いた
[Chronicle. p.107; Chronicle. p.109]
。Jkm. には、祖父 Tilokarat の眠る Mahābodhārāma に
おいて Yod Chiangrai の遺体を荼毘に付し、大規模な布薩堂を建立した、とあ
る
[Jkm. p.105]。Chronicle. の言う「大菩提樹の場所」とは、Mahābodhārāma を指
すと解して良いであろう。Kæo は、Tilokarat と Yod Chiangrai を、Mahābodhārāma
において合祀したということになる。
C.S.873
(A.D.1511/12)年、Kæo は、支配地域の各地から長老比丘を多数招いて、
Mahābodhārāma に新設された布薩堂のための結界認定羯磨を行わせた。そして、
父 Yod Chiangrai と母の大福徳の等流を祈願して、そこで僧団に授具足戒式を
おこなわせた
[Jkm. p.107]。さらに、それ以後、Tilokarat と Yod Chiangrai の大福
蘊を増大させるために、この布薩堂において毎年の雨安居に僧団儀式を行わせ
ることにした
[Jkm. p.107]。すなわち、両王に対する定期的な追善供養を行わせ
ることにしたのである
(38)。
Jkm. に見られる、Kæo によるこの両王の Mahābodhārāma への合祀と定期的
な追善供養実施の記事は実に興味深い。その解釈は様々になし得るであろうが、
筆者はこれを
(あるいは Jkm. の語りの意図を)、Kæo が自らの王権の正統性並びに血
養によって内外に示そうとした行為ではないかと推定している
(39)。むろん、
自分を愛さず、「非道非法の王」の烙印を押されて臣下に廃位され配流された
父 Yod Chiangrai を、子の Kæo が、マンラーイ朝最盛期の大王 Tilokarat と同列
扱いに祀り供養したところには、思慕の念などの情がはたらいていたことも否
めないであろう。
Kæo は、C.S.887
(A.D.1526)年に 44 歳で崩御している
(Jkm. p.127 では 43 歳)。Jkm. で
は
〈天国に赴いた〉としか述べられていないが、Chronicle. では、腐った馬肉を食
べて嘔吐したのが死因である、と語られている
[Chronicle. p.110; Chronicle-tr. p.113]。
Jkm. によると、Kæo が亡くなって間もなく、C.S.859
(A.D.1497/98)年生まれの
「年長の息子」がその後を継いだ。この時、この「年長の息子」は 28 歳であっ
たという
[Jkm. p.127]。Chronicle. では、Kæo の父 Yod Chiangrai には、退位後の
時期に当たる C.S.859
(A.D.1497/98)年に産まれた
(40)、Kæo の弟に当たるもう一
人の息子がいて、Kæo が崩御すると、将軍・大臣らはこの男子を次の王に選
び、C.S.888
(A.D.1526/27)年、30 歳の時に即位した、と述べられている。
Jkm. と Chronicle. におけるこの相違を如何に考えるか。成立時期や性質の異
なる史書の記述を不用意に会通すべきではないが、筆者
(古山)は、Jkm. に言
われる Kæo の「年長の息子」とは、Kæo の弟を指しているのではないかと考
えている。すなわち、Kæo は、自らの弟を養子にし、かつ、王位継承者
(yuvarāja)としていた、ということである。いずれにせよ、この男子が、マンラーイ朝第
12 代の王にして、「ラーン・ナーの黄金期」の最期の王である Ket
(เกศ
)である
[Chronicle. p.111; Chronicle-tr. p.113]。
4.Tapodārāma 建立の経緯と理由
それでは、何故に Yod Chiangrai は、廃位される 3 年前の C.S.854
(A.D.1492)年に、Tapodārāma すなわち現在の Wat Ram Poeng を建立せしめたのであろうか。
先ず Wat Ram Poeng 碑文を見ると、そこには以下の如く記されている。
…孫に当たる者である「大地の守護者たる最高の王」(
อรรคร�ชภูมิบ�ล
= Skt. Agrarājabhūmipāla)という御名の王様(
พญ�เจ้�
)がいる。〔玉〕座を継承して、「吉祥正法大最勝転輪浄法王」(
ศีรสัทธรรมมห�บรมจักรวรรคิธรรมร�ชบพิตร
= Skt. Śrī-saddharma-mahāparamacakravartidharmarājapavitra) と名のり、ピン川のムアンなるチエンマイの王となった。最高の王妃様は、御名を「無熱妃」(
อะตะป�เทวี
= Skt. Atapā-devī)という。この時、無熱妃はというと、大勢の僧団へ招請(อ�ร�ธน�
) をなした。総勢 100 僧がおり、〔ワット・〕パーデーン住持の Mahāsāmī-Ñāṇabodhi、〔ワット・〕 マハーポーティ住持の Surasīha 大長老、〔?住持の〕Dhammasenāpati 大長老、〔ワット・〕プ ラーサート住持の Saddhammaṭhira 大長老、筆頭としてアーラーミカサラの主(41)Ñāṇasāgara 大 長老がいて、この場所での集会に来た。無熱妃はというと、王様の許可を乞うた。王様はとい うと、許可を与えた。その後、ここに〔寺〕域(ประเทศ
)を設置する〔許可を〕与えた。安置 する〔ために〕3 つの宝物(แก้ว 3 ประก�ร
)を置き、入れて(ใส่)
、Tapodārāma(ตะโปท�ร�ม
)と 名付けた。監督者(หัตถกรรม
)となる大臣がおり、筆頭として Muang Yi という名のチエンラー イ都の大守にして王の叔父なる者、…(他 7 名の貴族の名)…。[Tapodharam-Isc. pp.53-54]まず、この碑文の記述から、この寺院は、“Atapā-devī”
(無熱妃)と呼ばれる
Yod Chiangrai の王妃の発願により建立されたことが分かる。この王妃とは、
Chronicle. に現れる Pong Nòi を指すと見て良いであろう。
この “Atapā-devī” には、既にここに寺院を建立したいとの希望があったよう
である。その理由は仔細に述べられていないが、「3 つの宝物」があり、これ
を安置しようと考えていたからのようである。この「宝物」が具体的に何を指
しているのかは分からない。しかしながら、直後に「入れて」と述べられてい
ることから、仏舍利などの聖物を指しているのではなかろうかと推定される。
この碑文には、Yod Chiangrai が寄進した費用の詳細が目録的に記されている
のであるが
[Cf. Tapodharam-Isc. p.54]、そこには仏塔
(พระเจดีย์
)への言及が見られるの
で、当時そこに仏塔が建設されたことは確かである。また、その寄進目録の最
初に仏塔が挙げられていることを勘案すると、この事業は仏塔を中心的な存在
とする「仏塔寺院」の建立ではなかったかと思われる。となれば、碑文に言わ
れる「宝物」を、仏塔内に入れて祀ろうとした仏舍利と捉えることは十分可能
であろう。
ちなみに、Wat Ram Poeng の寺誌では、1 人の遊行僧がこの地で樹木の根元
から光が発せられているのを目撃し、この報告を聞いた Yod Chiangrai がそこ
でチエンセーン様式の容器に入った仏歯を発見した、という話が、寺院建設の
契機として語られている
(註 (14) 参照)。神話的色彩の濃い話ではあるが、寺院
建立にまつわる「原初の記憶」が投影されているように思う。
“Atapā-devī” は、何らかのかたちで身近に存在していた仏舍利と思しき「宝
物 」 を 祀 る べ く、 仏 塔 寺 院 を 建 立 し よ う と し て、Ñāṇabodhi、Surasīha、
Dhammasenāpati、Saddhammaṭhira、Ñāṇasāgara といった長老比丘
(42)含む 100 僧
もの比丘を、当該の場所に集めたのであろう。かなり大規模な集会であるが、
これは当該の場所を寺院用地として僧団に布施するための儀式ではなかったか
と思われる。そこで “Atapā-devī” は、その場に共に列席していたと思われる
Yod Chiangrai に寺域設置の許可を求め、王はこれを認めた。そして、恐らくは
少し後に寺院が完成してからのことであろうが、その寺院は Tapodārāma と名
付けられた。
Yod Chiangrai は、仏塔や仏像、本堂、布薩堂の建立費用の一切を負担してお
り、堂塔伽藍の人的・経済的維持基盤をも寄進している。それは、総計 305 万
1000 ビア
(เบีย
:原意は「貝」で貨幣単位を表す)にのぼる、莫大なものであった。発
願者は王妃であったが、Yod Chiangrai 王にもこの寺院建立には相当の関心の
あったことが窺がわれる。招かれた長老比丘の中に、「新ランカーウォン派」
の中心寺院であり、先王 Tilokarat が熱心に支援した
(43)Wat Pā Däng の住持
Ñāṇabodhi や、Tilokarat が 建 立 し た Mahābodhārāma と 思 し き 寺 院 の 住 持
Surasīha の名があることに着目すると、これらの大寺院とも比肩しうる壮大な
王立寺院の建立が意図されていたと見ることもできよう。つまり、壮大な寺院
の建立によって、自身の政治的・宗教的威光の増加を試みようとしていた、と
いうことである。
ここで、別の角度から Tapodārāma 建立の経緯を考察してみたい。如何なる
ところからかというと、それは寺名の意味からである。
Tapodārāma とは、パーリ語乃至サンスクリット語の “tapoda” と “ārāma”
(僧園)から成る複合語である。問題は複合語前分の “tapoda” である。この語もまた複
合語であり、“tapo
(tapas)+ uda” または “tapo
(tapas)+ da” に分解し得る。前者で
あるならば「温泉」の意となるが、後者であれば種々に解し得る。ここで浮か
ぶ疑問は、寺名においてはいずれの意味で用いられているのかということであ
る。
このことを考える上で、筆者は、寺院建立の発願者として碑文に登場する
“Atapā-devī” という人物の名前に注目すべきと考える。と言うのは、碑文にお
いては、Yod Chiangrai の妻の名を、タイ語名の Pong Nòi と呼ばず、また Jkm.
に見られる Siriyasavatī とも呼ばず、敢えて “Atapā-devī” と呼んでいるからであ
る。ここには意図的な何かがあるはずである。
この人物名に現れる “atapā” とは “tapa
(tapas)” に否定の接頭辞 “a” を前接し
た語の女性名詞形であり、「tapa のない女」を意味する。寺名中の “tapoda” の
意味はこの “a-tapa” の語の意味に関係しているのではなかろうか、というのが、
目下の筆者の見立てである。例えば、“anala”
(fire)と “da”
(<√ do : to cut, divide,reap, mow)
から成る “anala-da” は、「鎮火」や「消火」を意味するが、筆者は、
ここに言われる “tapo + da” も同様に解せるのではないかと思う。すなわち、こ
の語は「熱の抜除」を、より踏み込んで言えば「苦しみの除去」
(※この語には “pain” や “suffering” という意味もある)を、意味するのではないかと考えるのである
(44)。
いまだ仮説の域を出ないが寺名に「苦しみの除去」を意味し得る “tapoda” の
語が含まれていて、発願者の王妃が殊更に “Atapā-devī” すなわち「無熱妃」
(= 無苦妃)と呼ばれていることを考えると、この寺院建立には、発願者の Pong
Nòi にあった何らかの苦しみを取り除くことも意図されていたと言えるのでは
なかろうか。
それではその「苦しみ」とは何か、ということになるが、そのことは碑文か
らは導き出し得ない
(45)。ゆえに、具体的なことは何も分からない。しかしな
がら、Chronicle. に語られているところの、Yod Chiangrai が Hò の子を寵愛し、
Pong Nòi との間にもうけた実子を愛さないということがあり、しかも、そのこ
とによって王族・貴族らの反感が渦巻いていたのであれば、どうであろうか。
そうした状況が Pong Nòi を深く苦悩させたということは十分に考えられよう。
筆者
(古山)の言う王妃の「苦しみ」について、目下のところその真相を明ら
かにすることはできないが、蓋然性のある解釈は幾つか可能かと考える。
ところで、Wat Ram Poeng の寺誌には、真偽のほどは定かでないが、以下の
ことが述べられている。すなわち、Yod Chiangrai は、即位後に、父親である
Si Bun Rüang を死に至らしめた
(このため母親は精神異常になるほど心を憂欝にさせたと も)ところの事件の首謀者を探し出すべく勅令を発し、これを捕えて処刑した
のだが、仏教に信仰を寄せる王は、この罪人処刑という行為が罪業
(เวรกรรม
= P.vera-kamma)になるであろうと心配し、その悪業
(บ�ป
= P.pāpa)を軽減しうる道
を模索した。そして、その折に遊行僧からの報告を聞き仏歯を見つけた、と
[HWR. pp.1,10]。
上述の如く、即位直後の Yod Chiangrai には亡父のことが強く意識されてい
て、追善行為をなしたと考えられる痕跡がある。そうした亡父への思いが復讐
心をも生み、先代王の時期に起きた冤罪処刑事件の関係者を厳しく処罰したと
いうことは考えられなくない。しかしながら、斯様なことは碑文の記述から窺
がうことはできない。先述のように、この寺院建立の発起人は王ではなく王妃
のほうであり、また「苦しみ」がなくなったのはその王妃であるから、Yod
Chiangrai の罪業軽減が寺院建立の動機であるとする寺誌の語りは、一定の蓋
然性のある解釈の 1 つとすることはできるが、筆者
(古山)には強い疑念が残る。
以上、Wat Ram Poeng の碑文を中心に、この寺院が建立された背景と理由を
検討してみた。碑文の記述からは、Tapodārāma は、仏舍利と思しき「宝物」
を祀るべくして建立された寺院であり、かつ、Pong Nòi にあった何らかの「苦
しみ」の除去を目的として建てられた、とひとまず推定される。
5.むすび
最後に、本稿の結びとして、何故にこの Tapodārāma がこの Setangamani 像と
結び付けられているのかについて述べてみたい。
まず、Tapodārāma は、碑文中に現れる「3 つの宝物」
(แก้ว 3 ประก�ร
)という言葉
の解釈にもよるが、これを仏舍利と推定する目下の筆者には、Setangamani 仏
像
(พระแก้วข�ว
)を Wat Chedi Luang より移転して安置し直すべくして建てられた
寺院であるとは考え難い。
Jkm. におけるこの寺院の建立に関する記述中にも、Setangamani 像のことは
まったく触れられていない。拙稿で述べた如く
[古山 2012. p.316]、そもそも Jkm.
は、この仏像について何も言及していないのである。このことは、Jkm. が著
された A.D.16c 初頭には、この仏像が存在していないか、知られていないこと
を示唆するであろう。付言すれば、成立が Jkm. と同時期に属する Cāmadevīvaṃsa
にも言及は確認できない
(目下のところ Mūlasāsanā からも見つけられていない)。
A.D.15c 後期から A.D.16c 初頭に編まれたと推定されている『ランプーン年
代記』
(46)の冒頭部には、Setangamani 像と思しき水晶仏像の造像因縁譚が示さ
れており、これは Setangamani 仏像の来歴譚と内容的に一致しているが、Wat
Chiang Mun にある現存の Setangamani 像はバンコク王朝初期に現れた仏像であ
る可能性があるため
(47)、『ランプーン年代記』において言及される水晶仏像と
同一であるとは言い切れない。
Carol Stratton は、Wat Chiang Mun の Setangamani 像は A.D.16c 初期に造像さ
れたものと推定している
(註 (7) 参照)。
ていたとは見做し難く、また、この仏像の来歴譚における語りの史実性には限
りなく疑問符が付くと言わなければならないであろう。A.D.15c 末期にこの仏
像をめぐって、アユタヤとの間に奪還戦争が実際に起きたという話も、その史
実性には霞がかかる状況にある
(48)。
斯かる状況を鑑みれば、当該の来歴譚の語りは後代の託けと考えるのが妥当
なように思える。仏像の由来については古資料の『ランプーン年代記』から取
材していたとしても、仏像奪還戦争〔とその前段の Tilokarat の話〕の部分は
託けであろうと思うのである。
それでは、「託け」であるとするならば、何故に斯かることがなされたと考
えられるであろうか。来歴譚における仏像奪還戦争のくだりは、「他国」に持
ち出されたムアンの守護像
(palladia)の如き仏像を国王が取り返すことの正統
性を示し、そのことの義務性を訓誡するためにあるものと筆者は考えている。
それは「非ラーン・ナー」的な発想
(49)かもしれないが、当該の来歴譚がバン
コク王朝初期
(※ A.D.1779 年)にラオスからタイへ取り戻された
4 4 4 4 4 4水晶仏像に対し
て付与された語りと見るならばどうであろうか。その時代とは、現ラオスの
ヴィエンチャンからエメラルド仏を「奪還」しバンコクに王朝国家の「守護
仏」として祀り始めた時期である。さらに言えば、この仏像がエメラルド仏と
と も に タ イ に 取 り 戻 さ れ た と さ れ て い る 点
( 註 (47) 参 照 )を 考 え る と、
Setangamani 像は「エメラルド仏」との絡みが強い。来歴譚には、このことが
投影されているのか、Tilokarat が Wat Chedi Luang に「エメラルド仏」ととも
に Setangamani 像を祀ったとする語りも見られるし、この 2 つの仏像の来歴譚
には共通性を指摘できる部分がある。「非ラーン・ナー」的か否かという議論
は措くとして、当時はチエンマイがバンコク王朝の支配下に入りつつある時代
であった。仏像奪還戦争の語りは、こうした種々の状況において必然的に作り
上げられたものではなかろうか。
それが Yod Chiangrai 治世期の出来事に設定されている理由は、多分、この
王が、やはりバンコク王朝草創期に完成した Chronicle. において、「非道非法
の王」として描かれているため、素材として使い易かったからではないかと思
う。前に触れた Y-Chronicle. の語りにおいては、仏像盗難事件を王の非道非法
に起因していると語ろうとしているようにも見える。別途子細な検討が必要で
はあるが、国王が仏教の説く「十王法」に合致した存在でなければ守護仏像は
他国へ逃げていってしまうという観念が、来歴譚の作者にはあったように思う。
兎に角、その作者には、自らの主張において好都合な歴史的人物と見做された
のだと思う。
Tapodārāma への仏像移転の話については、語りを Yod Chiangrai 治世期の出
来事に設定した結果として生まれたものと考える。冒頭でも述べた如く、同寺
の建立は、Yod Chiangrai がその在世期に為した唯一の大々的な仏教的事績と
言って良いものであるからである
(50)。
来歴譚は、史実として確認し難いアユタヤとの戦争の話を語り、Yod Chiangrai
に奪われた仏像を取り返させている。しかしながら、この王が「非道非法の
王」のゆえにムアンの守護仏像を失ったのであるとするならば、何故に仏像が
チエンマイに戻ってきたのかの合理的な説明はつかないであろう。来歴譚の語
りは、この点は不問に付している。戦争を厭わず勇敢にこれを取り戻した、と
いうことさえ示せれば十分であったのかもしれない。
引き続き重ねて検討を試みたいが、以上が目下の筆者の所見である。
本稿に使用した略記C.S.:Cūla-sakkarāja(
จูลศักร�ช
:タイ小暦) B.E.:Buddhist Era(พุทธศักร�ช
:タイ仏暦)参考・参照文献と略号
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古山 2011. : 古山健一「タイ・チエンマイ Wat Chiang Mun の Phra Sila(石板像)について」(『駒澤大 学仏教学部論集』第 42 号、2011 年 10 月所収)
L-Dict. :
พจน�นุกรมภ�ษ�ล้�นน�,
The Lanna Dictionary. Chiang Mai :สถ�บันภ�ษ� ศิลปะแลวฒนธรรม
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อรุณรัตม์ วิเชียรเขียว และคณะ. พจน�นุกรมศัพท์ล้�นน� เฉพ�ะคำ�ที ่ปร�กฏในใบล�น,
The Northern Thai Dictionary of Palm-leaf Manuscripts. Chiang Mai : Sikworm Books, B.E.2539.タ日 .:冨田竹二郎編『タイ日大辞典』、日本タイクラブ・めこん、1997 年 タ辞 .:松山納『タイ語辞典』、大学書林、1994 年
註
(1) 古 山 2010. に お い て 使 用 し た Setangamani 仏 像 の 来 歴 譚 は、A.D.1996 年 に Wat Chiang Mun (
วัดเชียงมัน
) の 創 建 700 年 記 念 と し て 刊 行 さ れ た 小 冊 子 で あ る。Donald K. Swearer が、 同 寺 が A.D.1975 年にこの仏像の来歴譚を発行していると述べていたので(Donald K. Swearer. Becoming TheBuddha, The Ritual of Image Consecratation in Thailand. Princeton & Oxford: Princeton University Prerss,
2004. p.288 footnote 122)、これを見るべく、その後に調査を継続した。大阪の国立民族学博物館の 図書室に、A.D.1960 年代に Wat Chiang Mun から発行されたとしている同種の小冊子が所蔵されて いることを知り、同図書館を訪れてこれを閲覧した(請求記号 : AO2/704.948/Phr。冊子内にあるペ ン書きによると A.D.1978 年に入手したようである)。これが Donald K. Swearer の言う A.D.1975 年 刊の冊子であるかは分からないが、その内容は A.D.1996 年発行の冊子と同一であった。ゆえに、
古山 2010. で用いた来歴譚は、少なくとも A.D.1960 年代に編纂されたものであるということにな るであろう。
(2) Wat Pā Däng(
วัดป่�แดง
、Jkm.: Rattavanavihāra)派(新ランカーウォン派とも)の Ratanapañña によるパーリ語の仏教史書。A.D.1516-1517 年に著し、A.D.1527 年に増補。詳細は Jkm-Ind. の Preface を 参 照 さ れ た い。 ま た、Ratanapañña に つ い て は、Hans Penth. ‘Which Ratanapañña Composed The
Jinakālamālī?’ The Journal of the Siam Society 83 (1995): pp.215-220 を参照されたい。
(3) Jkm. pp.103-104:… catupaññāsādhike aṭṭhasataparimāṇe mūsikasakarāje tapodārāmaṃ kāresi. … (4) Hans1994. pp.43ff.; Hans2004. pp.80ff.。Hans Penth によれば、“The Golden Age of Lān Nā” とは A.D.
1400-1525(Hans 1994.)あるいは A.D.1401-1526 年(Hans 2004.)の期間を指す。これはマンラー
イ王朝第 8 代 Sam Fang Kæn(
ส�มฟังแกน
)から第 11 代 Kæo(แก้ว
)までの 4 代の治世期に当たる。Hans Penth は、この時代について、〈…この期間、ラーン・ナーは最大の版図に、もしかすると最 高の経済状況にも到達しており、…そして、文化の普及と宗教的絶頂の達成にも到達していた〉 (Hans 2004. p.80)と述べている。 (5) Chronicle. は A.D.19c の成立である。成立に関しては、新谷忠彦編『アジア文化叢書 黄金の四 角地帯 ―シャン文化圏の歴史・言語・民族』(東京外語大学アジア・アフリカ言語文化研究所歴 史・民族叢書 II)、慶友社、1998 年 pp.117-123(飯島明子「第四章 ラーンナーの歴史と文献に関 するノート ―チェンマイの誕生をめぐって―」)により簡便に知ることができる。 (6) 言及の無い理由は、Chronicle. が専ら仏教史を扱う史書ではないため逐一を語らなかったためか もしれないが、Yod Chiangrai を「非法王」として描こうとしたがゆえとも考えられなくはない。 なお、Jkm. は、Ratanapañña が知っていた、あるいは評価した事績に限られているであろうが、 Tapodārāma 建立のほかに、チエンセーンの Pallaṅkadīpa にあった結界の浄化(再生)やランプーン の古仏塔 Haripuñjaya-mahādhātu への大供養のことも伝えている。「正法王」的な、あるいは、少な くとも「非法王」ではない為政者として扱っているように見える。
(7) Carol Stratton は、Setangamani 仏像はロッブリーのモン様式あるいはハリブンチャイの伝統に属 しておらず、ナーン、チエンラーイ地方で造られたものであろう、と述べている。また、像の特 徴から A.D.16c 初期のものであろうと述べ、この年代は A.D.1515 年頃のアユタヤからの仏像の再 現(reappearance) に 一 致 し て い る、 と 言 っ て い る(Carol Stratton. Buddhist Sculpture of Northern
Thailand, Based on a Manuscript by Carol Stratton and Miriam Mcnair Scott. Chiang Mai: Silkworm Books,
2004. p.276)。
(8) 所在地:Tambol Suthep, Amphur Muang Chiang Mai 50200, Thailand
(9) Cf. Guide to Buddhist Monastries and Meditation Centers in Thailand. Ed. The World Fellouship of Buddhists. Bangkok : Printing House of Thammasat University, 2004. pp.52-56
(10) 辞書によれば、ラーン・ナー語の
“รำ�เพิง”
は標準タイ語の“รำ�พึง”
に相当するようである[Cf.L-Dict. p.429b]。中村の紹介する寺誌が言う如く、
“รำ�เปิง”
が“รำ�พึง”
に対応するのか否かは、筆者には分からない。なお、KMN. では
“ลำ�เปิง”
と表記している(p.94)。(11) 碑文内容の詳細については、Tapodharam-Isc. のほか、Hans Penth. ‘On Rice and Rice Fields in Old
Lan Na : Text, Translations, Interpretations’ The Journal of the Siam Society 91 (2003): pp.139-141 や HWR.
(pp.15-19 に全文掲載)より知ることができる。また、同寺の仏塔横には、“The Stone Inscription of
Wat Tapotaram A.D.1494” と題される金属製案内板(タイ語・英語)が設置されており、現地を訪れ
่
่
่
れば容易に概略を知ることができる。
(12) Cf. HWR. pp.12-13: … There is other evidence telling how Wat Rampoeng was built. A pamphlet was written by Mrs. Mookda Ai-yasen and Mr. Poungkham Tui-khew dated Saturday, November 26, 2509 B.E. Mrs. Ai-yasen claimed that her written pamphlet was told by Chao Phraya Pracha-kijkornchakkra. Mr. Tui-khew said that he got his information from the Annals of Yo Nok Chronicle. Both of these writers claimed that Wat Rampoeng was founded before King Yod Chiang Rai ordered his wife, Phra-nang Proung Noi, to be the director of rebuilding the Wat. …
(13) Y-Chronicle. は A.D.1907 年に編まれたものである。この年代記については、石井米雄『タイ近 代史研究序説』、岩波書店、1999 年 pp.285-287 と、飯島明子「シャム近代歴史学における『ポン サーワダーン・ヨーノック』」(『国際基督教大学学報 III-A アジア文化研究』第 22 号、1996 年所収) を参照されたい。 (14) HWR. pp.1-2(英訳部 p.11)。寺誌の創建縁起には以下のような話が語られている。Yod Chiangrai が寺院建立について考えていた時に、ドーイ・ステープの麓の、現在 Tapodārāma がある地に、1 人の遊行僧(
พระธุดง
:原意は「頭陀僧」)が逗留していた。この僧は、そこで樹木の根元から光が 発せられているのを目撃し、このことを王に報告した。Yod Chiangrai は象に乗ってそこを訪れた。 王が仏舍利が見つかるよう願掛けをすると、当該の樹木のところからチエンセーン様式の容器に 入った仏歯を発見した。王は、仏歯を持ち運び、盛大な祭典を開催した云々。(15) M.L. Manich Jumsai は、母親は Tilokarat 王の正室であったが、反逆の嫌疑がかけられ処刑された、 と言う[Manich 1967. p.71]。如何なる資料に依ったのかは明示されていない。
(16) “Yod”(
ยอด
)は「頂上」の意で、“Chiangrai”(เชียงร�ย
)は「チエンラーイ」を指す。なお “Chiangrai”の “chiang”(
เชียง
)は「城壁都市」を意味し、“rai”(ร�ย
)はこの町の建設者である Mangrai(「Rai 王」)の意である(Cf. Hans Penth. ‘On the History of Chiang Rai’ The Journal of the Siam Society 77.1 (1989): p.11)。 パ ー リ 語 の 対 応 語 “Jaṃrāyagga” は “Jaṃrāya” と “agga” の 複 合 語 で あ り、“Jaṃrāya” は “Chiangrai” に、“agga” は “Yod” に対応する。
(17) 話の全体は Chronicle. pp.93-99; Chronicle-tr. pp.94-101 にある。そのあらましは、加納寛「15 世紀 タイにおける精霊戦争」(日本タイ学会『年報タイ研究』第 5 号、2005 年所収)に紹介されている。 なお、ここに言う「チエンマイ都を守護する霊樹」とは、都城の東北方にそびえていた大樹を指 す。Mangrai(
มังร�ย
、Jkm. では Maṅrāya)王がチエンマイを建都しようとした際に、大きな白ネズ ミが 4 匹の従者とともに東方から現れ、この樹木の穴に入った。これを瑞祥と見た王は、この樹 木を都の守護精霊として崇め供物を捧げて都の長久を祈願した[Chronicle. pp.44-46; Chronicle-tr. pp.45-46;Cf. Zinme. pp.24-25]。なお、この樹木があった「東北方」の地区は吉祥なる場所と考え られている。 (18) SHR-Chronicle. では“หอมุข”
と綴り、Y-Chronicle. では“หอมุกข์”
と綴っている。 (19) HWR. には“พระสนม”
すなわち「王妃」(英訳のほうは “his consort”)とある(pp.1,10)。Jkm-Ind. は Tilokarat の母としている(p.204)が、王妃と見るほうが妥当なように思われる。M.L.Manich Jumsai は、やはり如何なる資料に依ったのかは明示されていないが、この Hò Muk なる女性は Tilokarat の側室(his second queen)であり、嫉妬心から正室の子を死に追いやったのである、と述 べている[Manich 1967. p.68]。これは、恭順の意を示して差し出した人質と貢物であると解することができる。ゆえに、Tilokarat が Muang Pan と Muang Nai へ出掛けたのは、現・ミャンマー・シャン州方面への一種の遠征と見 做すことができるであろう。
(21) SHR-Chronicle.(p.86)と Y-Chronicle.(p.341)は
“เมืองเงียว”
と綴っている。Chronicle. における綴り
“เมืองเยียว”
がラーン・ナー語のものであるのに対し、SHR-Chronicle. および Y-Chronicle. のそれは、標準タイ語(中部タイ語)のものである。いずれの綴りであれ、これは、ミャンマー・シャン州 およびタイ・メーホンソーン県などに居住するタイ・ヤイ族のムアンを意味する[Cf. Hans 2004. p.94 footnote 38]。Chronicle-tr. は “Shan domains” としている。
(22) Tilokarat は、Si Bun Rüang の印判(seal)が押された手紙に、Tilokarat への謀叛が述べられてい たことを理由に Si Bun Rüang を処刑したが、この手紙は偽物であり、印判は盗まれたものであっ たことが、後に判明した、と言う[Hans 2004. p.94]。
(23) Chronicle. では C.S.837(A.D.1475/76)年から C.S.841(A.D.1479)年にかけてこの拡張工事がお こなわれたとするが、Jkm. は、C.S.840(A.D.1478/79)年から C.S.843(A.D.1481/82)にかけてな さ れ た と し、 さ ら に こ の 年 に Khelāṅganagara( ラ ン パ ー ン ) か ら 無 量 の 威 光 と 神 通 を 持 つ Ratanapaṭimā(宝石の仏像=エメラルド仏)を運び Rāja-kūṭa に安置した、としている(pp.98-99)。 Zinme. には〈C.S.840 に Lakhon(ランパーン)から運ばれたエメラルド仏を都に安置し崇拝した。 エメラルド僧院(The Emerald Monastery)は今日もなお存在する〉(p.49)と述べられている。 (24) Cf. Foon Ming Liew-Harres, Volker Grabowsky , Aroonrut Wichienkeeo. Lan Na in Chinese Historiography,
Sino-Tai Relations as Reflected in the Yuan and Ming Sources (13th to 17th Centuries). Bangkok : Institute of
Asian Studies Chulalongkorn University, 2008. p.124
『明史』:弘治二年、刀攬那孫刀整賴貢方物、求襲祖職。兵部言「八百遠離雲南、瘴毒之地、宜 免勘予襲」従之、仍給冠帯。(※文中の「刀攬那」は「ラーン・ナー王」を意味し、具体的には Tilokarat を指す。「八百」はラーン・ナー王国を、「刀整賴」は Yod Chiangrai を指す)。なお、同書 p.33 の表によれば、Yod Chiangrai 王は A.D.1493 年にも明の皇帝と交渉の機会を持っているようで ある。
(25) 他には、C.S.851(A.D.1489/90)年に、Mahāsāmi の位にあった Saddhamma-rājaratana という長老
比丘が、Wat Sī Köt(
วัดศีรเกิด
)という寺院に仏塔・本堂を建立している。そのことを記した石碑が、Muang Pai(現メーホンソーン県パーイ郡内)にあるWat Nòng Bua(
วัดนองบัว
)で発見されている[Cf.NThSI-C. p.119 (MS01)]。そこには、
“พระแม่ลูก”
と呼ばれる、寄進者と思しき王族の女性と子の功徳が称えられている。女性のほうは “Mahādevī”(大王后)とも呼ばれており、Saddhamma-rājaratana 長老は彼女から布薩堂用地と寺奴の寄進を受けている。Hans Penth は、この「子」については Yod Chiangrai であろうと述べ、「女性」については、Tilokarat の未亡人や Yod Chiangrai の正室である可 能性も示唆しつつ、Yod Chiangrai の母親であろうと述べている(Cf. Hans Penth. ‘Historical Notes on
the Region WEST of Chiang Mai’ The Journal of the Siam Society 65.2 (1977). pp.180-182)。
なお、A.D.1489 年に、“Mahārājadevī” と呼ばれる女性が、Muang Khuak(
เมืองควก
、ランプーン県)の Wat Khuang Chum Käo(
วัดข่วงชุมแก้ว
)への寄進をおこなっており、そのことを記した碑文が遺されていることも付言しておきたい(Cf. NThSI-C. p.100 (LB23); Corpus of Lān Nā Inscriptions vol.3
Inscription in the Lamphūn Museum,
ประชุมจ�รึกล้�นน� เล่ม ๓ จ�รึกใน พิพิธภัณฑ์ๆ ลำ�พูน.
Chiang Mai : Archive of Lan Na Inscriptions, Social Research Institute Chiang University, 1999. pp.71-81)。้