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義経精鋭 70 騎が 急峻な断崖を臨んで皆が躊躇するところ 義経は鹿が崖を降りるのを見て 鹿も 4 本 馬も 4 本の脚である 西国の武士ならいざ知らず 東国の武士には日々のこと と各将に檄を飛ばすと まず三浦党の佐原十郎義連が進み出て 義連先陣仕らん と言って 手綱をあやつり只一騎で真先に崖を下っ

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Academic year: 2021

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畠山重忠像 1

別冊:畠山重忠像

目次: ひよどり越えの馬背負い像:畠山館跡畠山重忠公園(大里郡川本町大字畠山) 菅谷館重忠像:菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町菅谷) 清廉の武将畠山重忠像:武蔵御嶽神社(京都青梅市御岳山176) もくせい館畠山重忠像:高齢者福祉青少年活動複合施設もくせい館(埼玉県深谷市)

壇浦兜軍記・琴責めの段の畠山重忠

Web 文化デジタルライブリー、壇浦兜軍記 考証前賢故実

考証前賢故実(第八巻)菊池武保輯著 雲水無尽庵出版 明治元年 北条軍を臨む畠山重忠:栗原勇著「畠山重忠」、日本戦史研究会、1927 年発行 畠山重忠の最期:相鉄瓦版第114 号平成 15 年 2 月 畠山重忠と巴御前:東京矢先稲荷神社 英雄百人一首(全)竹内栄久編 小森宗次郎版 国立国会図書館デジタルコレクション 英雄三十六歌撰、佐々木豊吉/刊 国立国会図書館デジタルコレクション 本朝百将伝 大西与左衛門、明暦2 年出版 国立国会図書館デジタルコレクション 星月夜鎌倉見聞録第五 高井蘭山著 鶴声社 明治 17 年発行 国立国会図書館デジコレ 絵本鎌倉北条九代記 福井淳編輯 濱本出版 明治19 年発行 国立国会図書館デジコレ 源氏雲浮世画合桐壷 一勇斎国芳 国立国会図書館デジタルコレクション 〇ひよどり越えの馬背負い像:畠山館跡畠山重忠公園(大里郡川本町大字畠山) 寿永3 年(1184 年)2 月 7 日を期して平家軍を攻撃することを定め、義経軍は京を 発し、平家の陣を迂回して六甲山の北から丹波路へ向かった。途中、要害三草山では清 盛孫・平資盛率いる平家軍別働隊が待ち伏せしていた。義経は迷うことなく平家軍に夜 襲をかけた。平資盛軍を破った源義経は軍を土肥実平に預け、自らは精鋭70 騎で特殊 作戦部隊を編成し鷲尾義久に道案内をさせ「ひよどり越え」へ向った。 大手軍も搦め手軍も既に激戦に入り、両軍とも平家軍を攻め倦んせ め あ ぐ んでいた。そこへ、脇 から義経軍が攻め込んできて、形勢は一挙に逆転した。

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畠山重忠像 2 義経精鋭70 騎が、急峻な断崖を臨んで皆が躊躇する ところ、義経は鹿が崖を降りるのを見て、「鹿も4 本、馬も4 本の脚である。西国の武士ならいざ知ら ず、東国の武士には日々のこと」と各将に檄を飛ばす と、まず三浦党の佐原十郎義連が進み出て、「義連先 陣仕らん」と言って、手綱をあやつり只一騎で真先に 崖を下った。義経はこれを見て、「義連討たすな、み なの者続け」と下知して、義経自身が落ちていった。 畠山重忠は三日月と言う栗毛の愛馬に乗っていたが、 崖の上にて馬より降り、「ここは大事の悪所、馬を転 ばしては悪しかるべし。今日は馬をねぎらわん」と言って、愛馬を肩に抱え岩壁をし づしづと降りた。「重忠は坂東八箇国の大力と言われるが、かゝる振舞、人倫には非 ず、誠に鬼神の所為」と皆は舌をまいた(出典:源平盛衰記巻三十七「義経鵯越落 し」)。 ○菅谷館重忠像:菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町菅谷) 東部東上線武蔵嵐山駅から歩いて15 分、菅谷小と菅谷中の間を抜けると直 ぐ、国道254 号線沿いに菅谷館跡があ る。広大な屋敷跡(旧城跡)が残されて いる。その城址内の重忠像がある。ま た、館内には動き語る重忠人形がある。 菅谷館は菅谷台地の南端に位置し、 槻つ き川が わと都幾川と き が わの合流点を背後に控える 急崖の上にあって、館の東西にはそれ ぞれ侵蝕谷が入り込み、平城とはいえ天然の要害を控えた城である。現在の菅谷館跡は、 重忠以降に造成されて大きなものとなっているが、重忠館は菅谷城の本郭部分程度のも のと考えられる。 ○清廉の武将畠山重忠像:武蔵御嶽神社(京都青梅市御岳山176)

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畠山重忠像 3 武蔵御嶽神社は、紀元前90 年、崇神 天皇の時代に創建されたと伝えられ、 山岳信仰の興隆とともに鎌倉の有力な 武将たちの信仰を集め、厄除け・延命・ 長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参 拝によって栄えた。 武蔵御嶽神社の宝物館の前には、有 名な長崎の平和祈念像を制作した北 村西望氏の「清廉の武将畠山重忠(S56 年制作)」がある。北村西望氏は、JR熊谷駅 の「熊谷直実像」や、岐阜市岐阜公園の「織田信長像」など武将像を制作している。 井之頭公園動物園内の北村西望氏アトリエには、「清廉の武将畠山重忠像」が二体展 示されている(撮影禁止)。 〇もくせい館畠山重忠像:高齢者福祉青少年活動複合施設もくせい館(埼玉県深谷市) 埼玉県深谷市にある高齢者福祉青少 年活動複合施設もくせい館(埼玉県深谷 市菅沼401 秩父鉄道武川駅から 700m約 7 分)の入口にも重忠像が置かれている。 重忠像はもくせい館入口の屋根の下ため、画像が屋根の陰で暗かった。 看板の説明には、「坂東武者の像 畠山重忠公 畠山重忠公は長寛2 年(1164 年)畠山 荘(埼玉県川本町)に生まれました。桓武天皇の血筋をひき、坂東八平氏の中でも有力 な武将で、木曽義仲討伐、平氏追討、奥州の藤原氏討伐などに参戦し、大いに活躍し、 その名を天下にとどろかせました。特に、元暦元年(1184 年)義仲討伐のため、冬の宇 治川を歩いて渡った“先陣争い”や、一の谷の平家攻略では険しいひよどり越えに愛馬 三日月を背負って下ったという豪勇ぶりは後世に語り継がれております。頼朝に最も信 頼されていた武将でしたが、北条時政の陰謀により、元久二年(1205 年)二俣川(横 浜市)で戦死しました」とあった。

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畠山重忠像 4 ○

壇浦兜軍記・琴責めの段の畠山重忠

壇浦兜軍記とは、1732 年(享保 17)9 月大坂・竹本座初演、 文耕堂・長谷川千四せ ん し合作の浄瑠璃。近松門左衛門作の『出世景清』 を基に、平家の侍大将悪七兵衛景清が主家滅亡後、源氏への報復 を企てる話に、愛人五条坂の遊女阿古屋との情話を絡ませた作 だが、三段目口の「堀川問注所」だけが後世に残り、人形浄瑠璃 でも歌舞伎でもしばしば上演される。通称「阿古屋の琴責め」ま たは「阿古屋」。景清の行方を探す鎌倉方の岩永左衛門は、阿古 屋を捕らえ拷問しようとするが、畠山重忠は阿古屋が愛人のあ りかを知っているかどうかを探るため、琴・三味線・胡弓の三曲 を弾かせ、その音色にすこしも乱れのないことから彼女の無実 を知り釈放させる(写真:Web 文化デジタルライブリー、壇浦 兜軍記:栗原勇「畠山重忠」付録、壇浦兜軍記琴責之段)。 ○考証

前賢故実:

考証前賢故実(第八巻)菊池武保輯著 雲水無尽庵出版 明治元年 考証前賢故実(第八巻)には、藤原兼実、源頼朝、源義経、源範頼、静、僧弁慶、佐藤嗣 信、佐藤忠信、伊勢義盛、千葉常胤、那須宗隆、三浦義澄、土肥実平、熊谷直実、下河辺行 平、佐々木盛綱、佐原義連、畠山重忠、曾我祐成、曾我時致、阪額女、諏訪盛澄、仁田忠常、 舞女微妙、小山朝政、結城朝光、和田義盛、平政子などが絵と共に紹介されている。 重忠の項では、重忠が「天徳を備え無私無欲で勇敢な 仁者である」と述べ、吾妻鏡巻第十六 1200/2/2 及び 1200/2/6 の逸話を取り上げ、「波多野盛通が、梶原景 時の与党であり筋力に優れる勝木則宗を捕えようと した。しかし、一瞬かわされてあわや腰刀で盛通が 刺されようとしたとき、傍に座していた畠山重忠が 座ったまま則宗の腕をつかむと、則宗の腕は折れて しまった。頼家が盛通に褒美の賞が与えられると、 盛通と不仲の真壁某が頼家に告げ口をした。頼家が 重忠に正すと、“知らぬこと”と言った。その後重忠 は“盛通ほどの坂東の勇士は、重忠などの力を借り ず彼が取り押さえたのである”と真壁に言った。重 忠とは、賞を争うような人物では無いのである」と ある。 更に、曽我物語第八「富士野の狩場への事」の「頼朝が富士裾野での巻狩りを明日にも終

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畠山重忠像 5 わろうとする時、曽我十郎・五郎は仇敵工藤祐経に近づくことも出来ないでいた。重忠も子 を持つ親の身、他人事には思えなかった。この状況を知らしむべく詠んだ歌」を掲げている。 まだしきに 色づく山の 紅葉かな この夕暮れを まちて見よかし ○北条軍を臨む畠山重忠:栗原勇著「畠山重忠」、日本戦史研究会、1927 年発行 陸軍歩兵大佐栗原勇氏は、畠山重忠の顕彰 運動に活躍され、鶴ヶ峰の慰霊碑の原文、著 書「畠山重忠」なそ役立つ資料が多い。栗原 大佐は軍人としての立場から、「畠山重忠の 武勇」を当時の軍人や国民に知らしめそうと した。 〇畠山重忠の最期:相鉄瓦版第 114 号平成 15 年 2 月 相鉄沿線時代物語鶴ヶ峰の巻「畠山重忠―死をもって義時を動かす」戸崎仙吉は、次のよ うに重忠の最期を語る。 (前略)重秀も、近常 も 、口を 揃えて 重忠 を ( 国元へ 帰って 軍勢 を 立て直すように)説きつ けにかかりました。重忠 は 頑とし て受け つけ ま せん。「一万騎もの大軍 を率い、たかが百鬼を一 揉 みにす るのは わけ な かろうに、義時殿はわれらの出方を眺めているではないか。恐らくわが心を試さんとしての ことであろう」。 重忠はわが子重秀に述懐し、「ここで引き返せば、重忠にはやはり謀叛の 心ありと唱える牧ノ方の讒言に味方するも同然、汚名を後世にまで残すばかりか、義時殿の お心も惑わすことになろう。義時殿を信じて死に花を咲かそうぞ」。(中略)勇壮な鬨をあげ、 主従百三十五騎は万余の敵の真つ只中へ突入したのです。 北条義時はそれを見ておもわず、「見届けたり!」 馬上から会心の叫びを挙げ、逸る将 兵を諭しました。「鎌倉武人の鑑と戦う誉れを得たのじゃぞ。だれであろうと卑怯な振る舞 いはゆるさぬぞ。正々堂々と戦えよ」(後略)。

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畠山重忠像 6 (注)重忠がなぜ 134 騎の従者のみで戦ったか、それは畠山重忠の最大の課題である。戸 崎仙吉氏はそれを意識して書かれているように思われる。なお吾妻鏡では、重忠は軍装をし て鎌倉に向かったのではなく、兵装のままだったとある。栗原勇「畠山重忠」の絵は、その 様子がはっきりと描かれている。 〇畠山重忠と巴御前:東京矢先稲荷神社 矢先稲荷神社は丁度新嘗祭のお 祭りであった。本殿にお参りして、そ の脇の社務所で「矢先稲荷神社格 天井 日本馬乗史絵」矢先稲荷神 社 務 所 、 平 成 26 円 12 月 発 行 ¥1200 円を購入した。 同書「ごあいさつ」には、「矢先稲荷 神社は江戸時代、浅草三十三間堂の守護として鎮座し、弓馬の術 を表す馬乗史とはとても縁の深いものであるます」とあり、同書に海老根駿堂画伯の神代より昭 和に至る 90 枚の矢先稲荷神社天上絵が掲載されていた。 〇英雄百人一首(全)竹内栄久編 小森宗次郎版 国立国会図書館デジタルコレクション 畠山重忠を「智仁勇を兼ね、強気をくだき弱気 を助く」と評し、「科あらん時、、、」との歌を載せ る。 〇英雄三十六歌撰、佐々木豊吉/刊

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畠山重忠像 7 国立国会図書館デジタルコレクション 〇本朝百将伝 大西与左衛門、明暦2 年(1656 年)出版 国立国会図書館デジタルコレクション 畠山重忠は、勇にして力あり、源頼朝の御家人として生涯そ の先陣を勤めた。宇治川の戦い、一の谷の戦い、奥州藤原氏征 伐と参陣して軍忠を果たした。後に北条時政により冤罪を蒙り 殺された。 〇星月夜鎌倉見聞録第五 高井蘭山著 鶴声社 明治17 年発行

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畠山重忠像 8 国立国会図書館デジタルコレクション 畠山次郎平重忠は、平高望王の子・鎮守府将軍良文七 代秩父十郎武綱の四代畠山重能の子である。 無双の剛力で、仁に厚き君子である。 元久2 年 6 月 22 日、冤罪のため戦死、享年 42 歳。 〇絵本鎌倉北条九代記 福井淳編輯 濱本伊三郎 明治19 年発行 国立国会図書館デジタ ルコレクション 「文武両道は天下治世の経緯、国家安眠の綱紀なり。 時乱れ良将逞しく武威をして四海を静め、、、」と始ま る絵本鎌倉北条九代記に畠山重忠が登場する。 頼朝軍三万隅田川を渡り相模国に入る。畠山治郎(マ マ)重忠先陣、千葉介常胤後陣なり(絵本鎌倉九代記「鎌 倉草創の事」)。 畠山次郎重忠は銅拍子を仕り白雪の袖を廻らし黄 竹の静の歌と歌舞のありさまたぐいなくおぼされけ る(絵本鎌倉九代記「義経の妾白拍子静の事」)。 頼朝卿は大手に向い中路より責め下り給う。先陣は 畠山次郎重忠なり(絵本鎌倉九代記「頼朝卿奥州入り の事」)。

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畠山重忠像 9

〇源氏雲浮世画合桐壷 一勇斎国芳 国立国会図書館デジタルコレクション

参照

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