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北朝系文学者による「六朝懐古詩」

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北朝系文学者による「六朝懐古詩」 ―盧思道と李百薬を中心に―

住   谷   孝   之

  中国古典詩には、過去の遺跡や遺物を現に踏まえて、「過去の繁栄と現在の荒廃の対比」「時の流れの中における人為のはかなさ」を詠じる「懐古」という主題が存在している。この懐古を主題とする詩(懐古詩)は、中国文学史の通説では、六朝時代には未だ確立せず、本格的に作られるようになるのは、唐代に入ってからであるとされている。実際に唐代の文学作品を見てみれば、懐古詩(及び懐古を主題とする文)は、それ以前の時代に比べて作品数自体が格段に増加しているのみならず、名作と評価されるに十分な質を備えたものが作られていることが判然としている。言うなれば懐古詩とは、唐詩によって中国古典詩の重要な地位を一気に占めることになったのである。さらに主題としての懐古詩の成立は、詩中に詠じられた土地にその土地固有のイメージをまとわせ、その土地自体が詩的イメージの連想や情緒を喚起する機能をもつ「詩跡」 を生み出す要因の一つにもなっている。

  以上は中国文学史上の通説であり、その認識自体に根本的な間違いがあるわけではない。ただ、唐代以前の、懐古詩が様式的に確立するに至るまでの具体的な過程について、従来の研究では、それほど詳しく論じられてきたわけではなかった。

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これまで筆者は、唐以前の魏晋南北朝時代における文学作品に注目し、唐代に懐古詩が成熟する以前の時代において、懐古を主題とする文学作品が、いかなる形成過程を経てきたかを論じてきた。

  本論文では、これまでの研究成果を承け、北朝末期から隋代にかけての懐古を主題とする詩を扱い、それが文学史的にどのように位置づけられるかを論じることにしたい。 

  本論に入る前に、唐代より前の魏晋南北朝の懐古を主題とする文学作品の形成について概括する。

  中国文学史において、歴史を扱う作品として比較的早くから登場するのは、「詠史」である。詠史を主題とする文学作品は、歴史上の人物や事績について論評することを目的とし、歴史を論ずる詩、いわゆる「詠史詩」は、漢代の頃にはすでに存在が確認できる 。続く魏晋南北朝期において、詠史詩は詩歌の主題としての様式を確立した。当時を代表する詩文集である『文選』の中でも、「詠史」として部が立てられ、魏の王粲や曹植、西晋の左思の作品が収録されるなど、比較的早い段階で代表作と呼べる作品が登場している。このように唐以前における詩の重要な主題の一つとして、詠史詩は詠まれ続けてきた。

  だが同時に、魏晋南北朝時代の文学者の中には少数ながらも、歴史的遺跡を目にして、詠史とはやや異なる詩的感興に誘われた人々がいた。彼らは、既に廃墟と化した遺跡を実際に訪れ、かつて栄華を極めた地として、または歴史上の偉人の偉業が繰り広げられた舞台として、後世の人々に記憶されるその土地が見る影もなく荒廃した姿となっているのに衝撃を受けた。そして彼らは、そのような現在の荒廃の中から、失われた過去への哀惜や時の変遷のなかで崩れさる人為の儚さに対する感慨を抱き、それを作品の素材として取り上げるようになった。こうした後世の「懐古詩」の原初となるべき

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作品が萌芽しつつあったのもこの時期である。

  後者のこうした懐古を抒情の主軸とする作品は、江南を支配する南朝で発展した。劉宋の顔延之の詩「北使洛」では、西晋末の戦乱により廃墟となった洛陽の都の姿をうたう箇所(在昔輟期運、經始闊聖賢。伊穀絶津濟、臺館無尺椽。宮陛多巣穴、城闕生雲煙)がある。これは、顔延之ら南朝の人々が実際に現地を訪れ、かつての栄華の面影を完全に失い、荒涼たる廃墟としての姿をさらしていたのを目の当たりにして、それまで追憶の中にあった洛陽の過去の栄華に満ちた美しいイメージとの落差に衝撃をうけたことから生み出されたものであろう。そしてこのような衝撃から、過去のイメージと現在の情景とを截然と隔てる時間というものの存在を否応なしに意識せざるを得なかったのではないか。さらにこうした「時の断層」が喚起する過去への哀惜や懐旧の情というものが、以後の中国文学作品における主題となり得ることが自覚されるようにもなったのである

  時代が下り、劉宋後期から南斉にかけての詩人、江淹・謝朓・沈約らによって、懐古の情をうたう文学は一層の深化をみせる。この傾向は次の梁陳の時代にも継承された。南朝後期の時代に当たる詩人たちによって、懐古詩の祖形ともいうべき作品(本論文では、これら南北朝後期に現れた懐古を主題とする詩を「六朝懐古詩」と呼ぶことにする)が従来以上に作られるようになったのである

梁・何遜「行經孫氏陵」(孫氏の陵を行経す)昔在炎靈厭神器若無依昔 在  炎霊(漢朝)厭 ふさがり神器  依る無きが若し逐兔爭先捷掎鹿兢因機兔を逐 ひて先捷を争ひ鹿を掎 きて因機を兢ふ呼噏開伯道叱咤掩江畿呼 噏(呼吸)して伯道を開き叱咤して江 畿を掩ふ

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豹變分奇略虎視肅戎威豹変  奇略を分かち虎視  戎 じゅうい威を粛 ただす長蛇衂巴漢驥馬絶淮淝長蛇(蜀)  巴漢に衂 くじかれ驥馬(魏)  淮 淝に絶たる交戰無内禦重門豈外扉交戦  内禦(内乱の備え)無く重門  豈に外扉あらんや成功舉已棄凶德愎而違成功  挙げて已に棄てられ凶德  愎 もとりて違 たがふ水龍忽東騖青蓋乃西歸水龍  忽として東に騖 せ青蓋  乃ち西に帰す朅來已永久年代曖微微朅 けつらい来(去来)  已に永く久しく年代  曖として微微たり苔石疑文字荊墳失是非苔石に文字あるを疑ひ荊墳に是非を失す山鶯空曙響隴月自秋暉山鶯  空しく曙 あけぼのに響き隴月  自 おのづから秋に暉 かがやく銀海終無浪金鳧會不飛銀海  終に浪無く金 鳧  会 かならず飛ばざらん閴寂今如此望望沾人衣閴 げきせき寂として  今  此 かくの如し望望として  人衣を沾 うるほす   ここにあげたのは、南北朝時代後期の梁の何遜の詩である。本詩の前半では、三国呉の孫権の陵墓という歴史的遺跡を実際に訪れた詩人によって、孫権という英雄の事績と呉の興亡の歴史が述べられている。続く後半では、詩人が今目にしている陵墓が、往時の栄華を失い荒廃した姿をさらしていて、それによって催された作者の盛者必衰の悲哀が詠われる。先述の通り、懐古詩の基本的な詠い方は、過去の遺跡や遺物を現に踏まえて、「過去の繁栄と現在の荒廃の対比」「時の流れの中における人為のはかなさ」を詠じるというものであるが、こうした作例の存在は、唐代に成熟した懐古詩に見られる基本的様式が、この時期の六朝懐古詩の時点で既に形成されつつあったことを示している。

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三   前節で見たとおり、南北朝後期の南朝の文学者たちの六朝懐古詩では、懐古という新たな主題の可能性を開拓し、唐代懐古詩の祖型というべき様式をすでに形成しつつあった。一方で、同時期の華北を支配していた北朝の文学者たちについてはどうであろうか。

  周知の通り、北魏の孝文帝は、親政を開始後(四九〇)、平城から洛陽への遷都・漢化政策の実施・南朝風の貴族制の導入と、様々な方面の諸改革を行った。これによって北魏は、従来の北方遊牧民(胡族)の王朝という政治体制から脱却し、胡漢の両民族が融合した新たな中華帝国を志向する王朝へと変貌することになる。こうした政治・社会面の変革を受けて、文学の方面でも、南朝の貴族文学が北朝文学者の間で広まった。

  北魏分裂後の東魏・西魏の禅譲をうけて成立した北斉(五五〇―五七七)・北周(五五六―五八一)両王朝の文学は、いずれも南朝の文学者たちがもたらした詩風に多大な影響を受けた 。さらに北周による北朝再統一を経て、五八一年に成立した隋朝は、五八九年、南朝最後の王朝である陳を征服し、後漢滅亡以来、三百数十年間にわたった中国の分裂に終止符を打った。この隋の再統一後、南北の文化の融合が加速した。

  そうした北朝末~隋代を生きた詩人の六朝懐古詩の例として、盧思道及び李百薬の作品に注目し、彼らの作品を論じることにする。最初に本節では、盧思道の作品を見てみよう。

  盧思道(五三四―五八六) 、字は子行。范陽涿(現河北省涿州市)の人。北斉・北周・隋の三朝を生き、文学者としては、同じく北斉~隋を生きた薛道衡と並んで北朝末を代表する文学者の一人として知られる。詩は南朝斉梁の詩風の影響を受け、代表作「従軍行」は七言詩の発展史上重要な位置を占める。文章の代表作では、「北斉興亡論」「後周興亡論」の史論がある。特に王朝興亡を論じた史論を著していることは、彼の歴史意識の強さを示唆するものである。

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  彼の「春夕經行留侯墓」は、現存する北朝文学者による懐古詩では最も古いものに属する。なお本詩の制作年代については、隋の開皇元年(五八一)、隋の宰相だった高熲による陳討伐の遠征に従軍した時とする説がある 。今この見解に従って本詩を論じることにする。

隋・盧思道「春夕經行留侯墓」少小期黄石晩年遊赤松少小に黄石と期し晩年に赤松と遊ぶ應成羽人去何忽掩高封応に羽人と成りて去るべし何ぞ忽として高封に掩われん疎蕪枕絶野邐迤帶斜峯疎蕪として絶野に枕 のぞみ邐 迤として斜峰を帯ぶ墳荒隧草没碑碎石苔濃墳荒れて  隧草に没し碑砕けて  石苔濃し狙秦懷猛氣師漢挺柔容秦を狙いて猛気を懐き漢に師たりて柔容挺 ぬきんづ盛烈芳千祀深泉閉九重盛烈  千祀に芳 かんばし深泉  九重に閉ざさる夕風吟宰樹遲光落下舂夕風  宰樹に吟じ遅光  下 かしょう舂に落つ遂令懷古客揮涙獨無蹤遂に懐古の客をして涙を揮 ふるひて独 ひとり蹤 したがふこと無からしむ   (通釈)

  張良は若いときに黄石公から兵法書を授かる約束をし、晩年には仙人赤松子と遊ぶことを願って道術に励んだ。(死にあたっては)羽の生えた神仙となってこの世を去ったに違いなく、どうして高い盛り土の下に埋められることがあろうか。(今、その墓のある土地を訪れてみると)人気の無い荒れ果てた平原を見下ろし、うねうねと斜めに傾く峰がどこまでも続く。墳墓は荒れて墓地の草むらの中にうずもれ、碑石は砕けて苔がびっしりとおおっている。(そのむかし張良は)猛々しい心

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を懐いて始皇帝の命を狙い、婦女のような柔和な容貌で漢の高祖の軍師となった。盛んなる功績は千年の後も伝わり、その墓は丁重に埋葬され幾重にも閉ざされた。(しかし今では)夕べの風が墓上の樹に音を立てて吹き、夕暮れ時に沈みかけの夕陽の光がさすばかり(過去の偉業を示すものは消え失せた)。かくして古をしのぶ旅人の私は、涙をふるって古人の跡を追えずにいるのである。

  詩題にある「留侯」とは、前漢の高祖劉邦の軍師として活躍した張良(字は子房)のことである。張良は劉邦の天下統一の事業を助け、劉邦が皇帝に即位した後、功績により留(現在の江蘇省沛県)の地に封ぜられたので、後世この呼び名がある。

  詩の構成を見てみよう。本詩は全十六句によって構成され、四句ごとに内容が「過去(少小期黄石~何忽掩高封)→現在(疎蕪枕絶野~碑碎石苔濃)→過去(狙秦懷猛氣~深泉閉九重)→現在(夕風吟宰樹~揮涙獨無蹤)」と交互に入れ替わって歌われる。全体の内容を要約すれば、「過去=張良の事績」は作者の生きる現在にも伝わりながらも、「現在=墓の荒廃した様子」からはそれを彷彿させるものは無く、そのことが張良の偉業を慕う作者を悲嘆に暮れさせる。

  本詩は、前節で取り上げた何遜の詩と非常に似通っている。まず両者ともに詩題に共通性があり、「行經~陵」「經行~墓」と、過去の英雄の墓に立ち寄った際に作られた詩であることを明示している。また、詩の内容についても、過去と現在を詠う構成面では多少の相違はあるものの、「歴史的に著名な人物(孫権・張良)の偉業」を述べ、その後、「現実に訪れた彼らの墓が、後世にも赫々と伝わるそうした偉業とは対照的に、すっかり荒廃し寂寞とした姿をさらけ出して」いる様を描写し、「もはや過去を偲ばせるものが何一つ残されていないという事実に、悲哀の涙を流す」という基本的な要素が、ともに一致している。

  ところで盧思道の詩以前に、張良の遺跡を詠じた作品としては、劉宋・謝瞻の「張子房詩」(張子房の詩) がある。これは、

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東晋末期の義熙十三年(四一七)正月、劉裕(後の宋の武帝)による後秦北伐の遠征の途上、項城(現在の河南省)にあった張良廟を修復した際、劉裕の幕僚の一人として、彼の命に応じて詠んだものである 。この謝瞻の「張子房詩」にもまた、盧思道の詩と共通する要素が存在している。とりわけ謝瞻詩の以下の部分において、

  宋・謝瞻「張子房詩」より

……婉婉幙中畫輝輝天業昌婉 ゑんゑん婉たり幕中の画 はかりごと輝たり天業の昌 さかえ

鴻門消薄蝕垓下殞攙搶鴻門に薄蝕(日食)を消し垓下に攙 ざんさう搶(彗星)を殞 とす爵仇建蕭宰定都護儲皇仇 あだ(雍歯)に爵して  蕭宰(蕭何)を建て都(長安)を定めて  儲皇(皇太子)を護る肇允契幽叟翻飛指帝郷肇 はじめ允 まことに幽叟(黄石公)に契 ひ    翻飛して帝郷(神仙の世界)を指す……

  と、張良の事績を詳述するあたりは、盧思道の詩と同様であるといえよう。あるいは謝瞻の詩の同時代的評価(劉裕らに絶賛され、『文選』にも収録される (1

)から想像を逞しくすれば、盧思道の詩は、この謝瞻詩を念頭に置いて作られたものであったかもしれない。

  だがそうした類似にもかかわらず、謝瞻の詩には盧思道の詩に見られるような懐古詩的な感慨(過ぎ去った過去への哀惜)は見られない。詩の後半の中で、現在の張良廟の様子を描写する際、「鑾 旍(天子の車駕)もて頽 寢(くずれた廟)を歴 、飾像に嘉 嘗(お供え)を薦む」と、確かに廟を荒廃した「頽寝」と詠んではいるが、これは文脈上、荒れ放題だった廟が、劉裕の手によって修復され、立派に祀られたことを称賛する趣旨でそう書かれているだけであり、懐古詩的な過去の栄華

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への哀惜によるものではない。謝瞻の詩は、『文選』で「詠史」の部に収録されるように、あくまでも旧来の歴史批評を主題とする「詠史詩」の範疇から逸脱することのない作品である。そしてこの相違点こそが、盧思道の詩が、謝瞻詩のような詠史詩が持ち得なかった、「六朝懐古詩」の新たな領域に踏み込んだことを示しているのである。

  盧思道による六朝懐古詩の例として、もう一篇の詩「遊梁城」も少しだけ見ることにしよう。この詩は、「梁城」すなわち前漢の梁の孝王の故城を訪ねた時に作った詩である。こちらは「春夕經行留侯墓」と異なり、制作時期を確定できる材料はなく、いつ作られたかは全く不明である。今は仮に盧思道の生卒年から、北斉~隋初の作としておくことにする。

隋・盧思道「遊梁城」(梁城に遊ぶ)揚鑣歷汴浦迴靶入梁墟鑣 くつばみを揚げて汴浦を歴靶 たづなを迴らして梁墟に入る漢藩文雅地清塵曖有餘漢藩  文雅の地清塵  曖 あいとして余り有り賓遊多任俠臺苑盛簪裾賓遊  任侠多く台苑  簪 しんきょ裾盛んなり歎息徐公劍悲涼鄒子書徐公の剣に歎息し鄒子の書に悲涼す亭皐落照盡原野沍寒初亭皐に落照尽き原野に沍寒初なり鳥散空城夕煙銷古樹疎鳥散じ  空城夕べに煙 けむりえて  古樹疎 まばらなり東越嚴夫子 ((

西蜀馬相如東越  厳夫子西蜀  馬相如脩名竊所慕長謠獨課虛脩名  竊 ひそかに慕ふ所長謡して  独 ひとり虚に課す

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(通釈)  馬に乗って汴水の岸辺を廻り、梁城の遺跡に入った。(むかし梁の孝王の時)漢の藩国たるここ梁は文雅の地として栄え、その清雅な遺風は余りあるほどにこの地に広がっていた。多くの任侠の士が賓客としてここを訪れ、梁王が築いた宮苑に高貴なる人々が盛んに集っていた。呉の季札が徐君に捧げた剣を見ては嘆息し、鄒陽が獄中で梁王に捧げた書を読んでは悲しんだ。(今この土地は)はるかに広がる汴水のほとりに落日の光が消えかけ、原野には凍てついた冬の景色が訪れたばかり。人気の無い城跡の夕暮れの中鳥が飛び立ち、夕暮れのもやが消えると老木がまばらに立ち並ぶ景色が現れる。東越の厳忌・西蜀の司馬相如はいずれもこの地で辞賦の名手として名を馳せた。私は彼らの名声をひそかに慕い、ひとりこの長い詩を詠じるのだ。 

  本詩の構成は、前半(揚鑣歷汴浦~悲涼鄒子書)は作者が梁城を訪れ、孝王在世の時に文雅の士が集った全盛時を歌い、後半(亭皐落照盡~長謠獨課虛)は現在の冬の故城の蕭条とした姿を詠じながら、かつての孝王の文士たち(厳忌・司馬相如)に心を寄せる思いを歌う。ここに過去と現在が切断され、その間を懐古の情が往来する。ここでもやはり盧思道の懐古詩には、懐古詩たるべき基本条件が備えられていることを確認しておきたい。

  以上、盧思道による北朝系の六朝懐古詩二篇を見てきたが、これらの作品からは、北朝でもすでに北斉の時期には、南朝の六朝懐古詩の影響が及んでいたことがうかがえる。 

  前節までは、北斉~隋初の時代の盧思道による六朝懐古詩を見てきたが、次に隋末唐初の時代を生きた文学者である李

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百薬の懐古詩を見ることにする。彼もまた、この時期の北朝系文学者の中で、六朝懐古詩を残した人物として、盧思道と並んで特筆すべき存在である。

  李百薬(五六五―六四八)、字は重規。定州安平の人。父の李徳林は、北斉・北周・隋の三朝に仕え、特に隋の文帝(楊堅)が北周の静帝から禅譲をうけた際、詔勅・策書・上表などの一連の文書の執筆を担当するなど、隋建国の功臣として知られる (1

。李百薬も父と同じく隋の文帝・煬帝に仕えたが、隋末から唐初の戦乱時には、長江下流域(江南)に割拠した群雄たち(沈法興・李子通・杜伏威・輔公祏)の間を転々とした後、唐に帰順し、最後は太宗李世民の側近兼宮廷文人となる。貞観二十二年(六四八)、八二歳で死去。歴史家としては、父が未完で終えた北斉の歴史書の執筆を引き継ぎ、『北斉書』を著したことで知られる (1

。彼もまた、前節の盧思道と同様、歴史の著作を残すなど、歴史意識の強さをうかがわせ、これもまた、彼が懐古詩を残すことになった背景の一つといえよう。 

  ている。   『全唐詩』によると、李百薬は、懐古を主題とする、あるいは懐古的要素が詩の一部に見られる作品を以下のように残し   ・「郢城懷古」

  ・「登葉縣故城謁沈諸梁廟」

  ・「秋晩登古城」

  ・「王師渡漢水經襄陽」

  ・「謁漢高廟」 (1

 

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  『全唐詩』

に収録された李百薬の詩は、断片を含めて二六首が残るが、そのうちの五首が懐古に関連した作品となっている。当時の詩人の中で、これほどの割合で懐古の作品が残されているケースは他にない。この点からも、彼の詩は、隋~唐最初期の詩人による懐古詩の実態を検討するのに最も相応しい例といえる。

  ここではまず、彼の「郢城懷古」を紹介しよう。本詩は、唐代懐古詩に関する先行研究でも、唐詩の最初期における懐古詩として取り上げられており (1

、懐古詩の形成を論じる上で重要な作品とみなされている。全三十六句におよぶ長篇詩であるが、以下にやや詳しく論じることにしたい。

唐・李百藥「郢城懷古」客心悲暮序登墉瞰平陸客心  暮序を悲しみ墉 よう(城壁)に登りて平陸を瞰 る林澤窅芊綿山川鬱重複林沢  窅 えうとして芊 せんめん綿たり山川  鬱 うつとして重複す王公資設險名都拒江隩王公  設険を資 たすけとし名都  江隩に拒 まもらる方城次北門溟海窮南服方城  北門に次 ならび溟海  南服を窮む長策挫吳豕雄圖競周鹿長策もて呉 豕を挫き雄図もて周鹿を競ふ萬乘重沮漳九鼎輕伊穀万乗  沮 しょしゃう漳を重んじ九鼎  伊穀を軽んず大蒐雲夢掩壯觀章華築大蒐  雲夢を掩 おほひ壮観  章華に築く人世更盛衰吉凶良倚伏人世  盛衰を更へ吉凶  良 まことに倚伏あり遽見鄰交斷仍睹賢臣逐遽 にわかに隣交の断たるるを見仍つて賢臣の逐はるるを睹 る南風忽不競西師日侵蹙南風  忽として競はず西師  日 ひび  侵 しんしょく蹙す

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運圮屬馳驅時屯恣敲朴運圮 やぶれて  馳駆を属 つづり時屯 ゆきなやみて  敲朴を恣にす莫救夷陵火無復秦庭哭夷陵の火を救ふ莫 く秦庭の哭を復する無し鄢郢遂丘墟風塵俄慘黷鄢 えんえい郢  遂に丘墟となり風塵  俄 にはかに慘 さんとく黷たり狐兔時遊踐霜露日霑沐狐兔  時に遊 いうせん踐し霜露  日に霑 てんもく沐す釣渚故池平神臺層宇覆釣渚  故池は平らかにして神台  層宇は覆 くつがへる陣雲埋夏首窮陰慘荒谷陣雲  夏首に埋 うづもれ窮陰  荒谷に慘たり悵矣舟壑遷悲哉年祀倏悵たるかな  舟 しうがくうつ壑遷り悲しいかな  年祀倏 しゅくたり雖異三春望終傷千里目三春の望と異 ことにすと雖も終に千里の目を傷 いたましむ

(通釈)  旅人である私の心は夕暮れの訪れを悲しみ、城壁に登って平原を眺める。林や水辺は薄暗がりがどこまでも続き、山や川は幾重にも重なる。かつて楚の王公は要害の地をたのみとし、長江の隈であるこの地を守りとして名高い郢の都を築いた。郢都の北門には長城(方城)が連なり、南方の地の果てには大海が広がる。その昔、楚はすぐれたはかりごとで呉の侵攻を挫き、雄大なはかりごとで中原に覇を競った。万乗の大国として沮水漳水の流れる自らの国土を重んじ、天子の宝物たる九鼎の軽重を問うて、伊水穀水の地にある周の王室の権威を軽んじた。雲夢沢を掩わんばかりの大規模な狩猟を催し、章華の地に壮麗な台を築いた。しかし、人の世は盛衰が交互に訪れ、吉凶は因果となって互いに生じる。突然、楚は隣国の斉との交わりを断ち、それによって賢臣屈原は王宮を追放されることとなった。楚の勢力はにわかに衰え、西の秦の軍勢が日々国土を侵していった。国運は尽きて「載馳」の詩を綴り、時勢は行きづまり秦がほしいままに横暴を振るうにま

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かせるようになった。秦の白起が夷陵の王の墓所を焼くのを救うすべもなく、申鮑胥が秦の朝廷で泣いて援兵を請うて滅亡から救うことももはやなかった。かくして郢都は廃墟となり、たちまち風塵が暗く吹きすさぶ荒れ地となった。狐や兔が時に遊び歩き、霜や露があたりを潤す。釣り場であったかつての池は平地となり、みごとな章華台も倒壊し姿を消した。幾重にも重なった雲は夏首の地を掩うかのように湧き、陰鬱な気が荒涼たる谷間に暗く立ちこめる。世事が遷りゆき、年月の過ぎ去るのが早いことは、何といたましく悲しいことか。暮春の眺めと異なるとはいえど、(この情景もまた)千里の果てを見る目を悲しませずにはおかない。

  詩題の「郢城」とは、春秋戦国時代、長江中流に強国として栄えた楚の都城(紀南城。現在の湖北省荊州市の中心である荊州城〔江陵城〕の北に位置する)である。詩中の内容から、作者が旅の道中に楚の郢城遺跡 (1

に立ち寄り、往時の楚の繁栄と滅亡とに感慨を抱いてこの詩を作ったと推測される。もっともそれ以上の具体的な制作時期や経緯については、『旧唐書』および『新唐書』の「李百薬伝」のいずれにも、李百薬が郢城の所在地であった江陵及び長江中流域を訪れたとする記述は確認できないため、残念ながら不明であるとしか言いようがない。ただ、『旧唐書』本伝の「時煬帝出鎮揚、嘗召之。百藥辭疾不赴。煬 帝大怒、及 即位、出 為桂州司馬……其後、罷州置郡、因解職還郷里」の記述から、隋の煬帝が即位した大業の初年(六〇五)、李百薬が桂州(現広西チワン族自治区桂林市)の司馬に左遷され、都の大興城(長安)から任地の桂州に赴く道中に江陵に立ち寄った時の作であるとする指摘がある (1

。その場合、本詩は隋代の作ということになろう。以下、この見解を考慮しつつ本詩を論じることにする。

  本作の内容を追ってみよう。冒頭の「客心悲暮序~山川鬱重複」は、詩の序奏ともいうべき部分に当たる。恐らくは失意の旅にある詩人が、夕暮れ時に郢城の城壁跡に登り、周囲の情景を眺望して自らの思いを馳せるという、中国古典文学における「登覧」の典型的パターンが踏襲されている。また、ここで用いられた「林沢 」の語によって、楚が栄えたこの

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地が中国南方の湿潤な風土であることを印象づけている。

  ついで詩人は過去へと思いを巡らす。「王公資設險~壯觀章華築」と、楚がここに国都を築いた後、周囲の敵国を退け、中原を脅かすほどの勢力を伸ばした上、雲夢沢での狩猟や章華台の建築といった壮挙に言及し、その全盛の様子をうたう。ここまでが詩の前半である。

  以下は詩の後半部となる。まず「人世更盛衰~風塵俄慘黷」と、秦の侵略による楚の滅亡の過程が述べられる。秦の張儀の策謀により、「鄰交」斉国との同盟を破棄した楚は、それに反対する「賢臣」屈原を追放してしまうという致命的失策を犯した。これによって楚の国力はたちまち衰退し、以後は秦の侵略に国土を蚕食されつづけた。ついには都である郢も、名将白起率いる秦軍によって蹂躙され、廃墟となった。楚の滅亡の原因となった失政を述べたこのくだりは、当時の楚の政治に対する詩人の批評(批判)が込められた箇所であり、懐古よりもむしろ「詠史詩」で歌われる要素といえる。

  この後の「狐兔時遊踐~終傷千里目」の部分は、過去の回想から、ふたたび現在の郢の荒廃した情景へともどって結びとなる。往時の栄華をすっかり失い、人々が営んだ釣場や高殿も姿を消した郢城の地は、狐や兎が遊びまわる自然の原野へともどってしまった。結びの「終傷千里目」からは、周囲を見渡しても往時の栄華はことごとく消え去った情景と、茫漠たる原野の中で佇む詩人の悲哀とが、読む者の胸に強く刻み込まれる。

  なお、この結びの箇所、「狐兔時遊踐」「終傷千里目」の表現は、同じく戦乱により荒廃した都市を詠じた劉宋の鮑照「蕪城賦」における表現「野鼠城狐」「直視千里外、唯見起黄埃。凝思寂聽、心傷已摧」を連想させるものである。さらに言えば、前半の城の全盛時の様子と現在の荒廃した姿を対比させるという本詩の構成自体も、「蕪城賦」の構成と類似しており、本詩が鮑照の名作に影響を受けていることは確実であろう (1

  ところで李百薬の「郢城懐古」における楚の興亡に関する歴史叙述はたいへん長大であり、とりわけ後半の楚の衰亡についての記述が置かれることで、過去の歴史の特質を批評する要素がより強まっていることに気づかされる。このような

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衰退の過程やそれへの批評は、後述するように、「過去の繁栄と現在の荒廃の対比」を抒情の源泉とする懐古詩の場合、必ずしも不可欠というわけではなく、むしろ詠史的要素というべき内容である。こうした詠史的要素は、後述するように、六朝懐古詩が詠史詩から完全に脱却できずにいたことが大きいだろう。

  同様のことは、次の作品「謁漢高廟」でも言える。

唐・李百藥「謁漢高廟」(漢高廟に謁す)纂堯靈命啟滅楚餘閏終堯を纂 いで  霊命啓き楚を滅して  餘閏終る飛名膺帝籙沈跡韞神功飛名  帝籙を膺 け沈跡  神功を韞 つつむ瑞氣朝浮碭祥符夜告豐瑞気  朝に碭に浮かび祥符  夜に豊に告ぐ抑揚駕人傑叱吒掩時雄抑揚して人傑を駕し叱吒して時雄を掩ふ締構三靈改經綸五緯同締構  三霊改まり経綸  五緯同じくす干戈革宇内聲教盡寰中干戈もて宇内を革め声教もて寰中に尽くす運謝年逾遠魂歸道未窮運謝して  年逾遠く魂帰して  道未だ窮らず樹碑留故邑抗殿表祠宮樹碑  故邑に留まり抗殿  祠宮を表す沐蘭祈泗上謁帝動深衷蘭を沐して  泗上に祈り帝に謁して  深衷動く英威肅如在文物杳成空英威粛として在るが如きも文物杳として空と成る竹皮聚寒徑枌社落霜叢竹皮  寒径に聚まり枌社  霜叢に落つ蕭索陰雲晩長川起大風蕭索として陰雲晩 れ長川に大風起こる

(17)

  この詩でも、前半では漢の高祖(劉邦)が天命を承けて王朝を開いた偉業を長々と歌い、後半で廟の現在の姿を詠じるというかたちで過去と現在が対比されており、この時期の懐古詩の基本的なあり方を備えている。「英威肅如在」の句から察するに、廟自体は荒廃するまでには至っていないようだが、直後に「文物杳成空」とその事績が消滅したことを述べる点では、やはり懐古の基本様式を備えていると考えてよいだろう。

  以上、「郢城懐古」「謁漢高廟」の詩二首を見てきたが、いずれの詩も、前節で紹介した何遜の懐古詩と比較してみても、内容や構成の点で、両者に共通する要素が容易に見て取れる。それは即ち、

①作者が直接遺跡(李詩=郢城、何詩=孫権陵)を訪れて詩を詠じている。②詩の前半では、遺跡に刻み込まれた「歴史」への懐古が詠じられる(李詩=楚の興亡、何詩=孫呉の隆盛)。③詩の後半では、廃墟と化した現在の姿を描写し、過去の栄華との対比を際立たせることで、時の変遷の中で滅び去ったものへの哀悼の情が詠じられる。 

  という点であろう。このように見ると、これら李百薬の「郢城懐古」「謁漢高廟」という詩は、南朝の鮑照や何遜らによる懐古的作品を念頭に置いていたということがいえるのではないだろうか。言い換えるならば、李百薬は「郢城懐古」や「謁漢高廟」という懐古詩を作る際、その様式的模範に南朝文学者の作品を念頭に置いていたということである。

  このような長篇懐古詩の歌い方は、李百薬より少しあとの詩人王績(五九〇?―六四四)の「過漢故城」においても、継承して歌われている (1

。以上から、北朝後期~唐初の時期の懐古詩における南朝由来の六朝懐古詩の影響力の大きさがうかがえよう。

(18)

結語   以上、北斉・隋~唐最初期における六朝懐古詩の主要作品を見てきた。この時期の懐古詩の特徴としては、今まで見たとおり、過去の偉人や王朝の事績を詩中において詳述するものが多く、その結果、十六句~数十句にもわたる比較的長篇の作が大部分を占めていることが指摘できる。これについての表面的な理由は、既に述べてきた通り、北朝系の詩人たちによる懐古詩の多くが、南朝の詩人たちの様式を継承した上で作られていることによると考えられる。その意味では、これら北朝文学者の手による長篇懐古詩は、文学史上の通説通り、南朝文学の模倣の域を出るものではなかったということになろう。

  しかしながら、これら長篇の六朝懐古詩を唐代の成熟した懐古詩の様式比較して見た場合、それ以上に本質的な理由が明らかになろう。それは、これら六朝懐古詩が、懐古を主題とする点で、唐代懐古詩の祖型というべき作品であることは確かでありながらも、やはり唐代懐古詩「未満」の段階にある作品だと評せざるを得ないからである。以下では、唐代の成熟した懐古詩の様式を基準に、南北朝期~唐初期に形成された六朝懐古詩を比較することで、その相違を概略的に確認することにしたい。

  まず唐代の成熟した懐古詩は、短篇であることを特徴としている。懐古詩の名手となった李白を例にとれば、代表作となる「蘇台覧古」「越中覧古」は七絶、「峴山懐古」「夜泊牛渚懐古」は五律であるように、近体詩(絶句・律詩)という比較的短い詩型によるものが多い 11

。つまり完成された唐代懐古詩は、歴史事実に対する記述や論評を避けることで、史跡と向かい、そこで感得された慨嘆を(その頂点において)純粋に取り出すことに本質を有するものなのである。

  こうした成熟した懐古詩との対比において、南北朝後期・隋~唐初期の六朝懐古詩の特徴はおのずと明白なものとなる。本論文で紹介した六朝懐古詩の多くが、過去の偉人の事績や遺跡にまつわる歴史的事実を長大に詳述するのは、歴史批評

(19)

を主題とする「詠史詩」の残映ともいうべき要素を引きずっていたことによるからだろう。詠史詩は、懐古詩と同じく歴史を主題とするものであるが、廃墟となった歴史的遺跡から過去と現在の超えがたい時間の断絶を見、それに対する詠嘆を抒情の基礎とする懐古詩と異なり、過去の偉人や王朝の事績についての是非を論評する内容で、詩の主題としては懐古詩に先んじて既に六朝の初期から確立していた。六朝懐古詩において、過去の偉人や王朝の事績を詳述するという、本来詠史詩にこそ相応しいはずの部分があることは、それはまさしく懐古詩というものが詠史詩から派生したものであることを現しているのと同時に、そうした詠史詩の要素をこの時期の懐古詩が未だ切り落とせずにいたことをも示している。

  このように唐代の成熟した懐古詩を基準として考えた場合、例えば第三節で本質的な違いを指摘した盧思道の懐古詩と謝瞻の詠史詩が、こうした「詠史詩」的残映の存在によって、今度は逆に両者の近しい関係が見えてくる。また前節の李百薬の「謁漢高廟」も、謝瞻の詠史詩との関係で言えば、古人の廟を訪れるという状況や、さらには前半の長大な歴史記述の仕方など、両者が極めて類似していることに気づかされる(あるいは李百薬がこの詩を作るに当たって、謝瞻詩を参照した可能性も否定できない)。前節まで述べてきたとおり、確かに南北朝後期・隋~唐初期の六朝懐古詩は、懐古の情を作品の中心主題とした点で、従来にない程度にまで懐古詩の基本的様式を形成することは達成できた。だが一方で、六朝懐古詩は、こうした詠史詩的要素を残していることによって、自らの中心主題を純化し、懐古詩の様式を完成するには至っていないのである。

  ただ、そうした詠史詩的要素を色濃く残した長篇懐古詩がこの当時多くを占めている中で、李百薬は、次にあげる「秋晩登古城」のように、比較的短篇の懐古詩も残している。これを最後に見ることにしよう。

(20)

唐・李百藥「秋晩登古城」(秋晩  古城に登る)日落征途遠悵然臨古城日落ちて  征途(旅路)遠く悵 ちゃうぜん然(失意のさま)として  古城に臨む頽墉寒雀集荒堞晩烏驚頽 たいよう墉に寒雀集い荒 くわうてふ堞に晩烏驚く蕭森灌木上迢遞孤煙生蕭 せうしん森(生い茂るさま)として灌木上り迢 てうてい遞(高く昇るさま)として孤煙生ず霞景煥餘照露氣澄晩清霞景(夕陽の光)  余照(残照)を煥 らし露気  晩清(清らかな夜)を澄ます秋風轉搖落此志安可平秋風  転 うたた揺落す此の志  安 いづくにか平らぐべし   本詩の詩型は、五言十句 1(

と、これまで見てきた六朝懐古詩の中では目立って短いものとなっている。さらにその詠いぶりも、従来の六朝懐古詩とは異なる側面を現している。

  本詩で李百薬が訪れた「古城」がどこを指すかは、具体的には不明である。ただ、詩中の「頽墉」「荒堞」(いずれも「荒れた城壁」の意)という語からみて、この城(都市)が、廃墟となった遺跡であることは明かである。本詩と前節の「郢城懐古」を比較すると、冒頭の「作者が旅の道中に都市の遺跡を訪れる」という歌い出しや、その後の「荒廃した遺跡の描写」、そして結びの「遺跡の周りの寂寥とした情景に心を傷める」という要素はいずれも一致している。だが、本詩では、「郢城懐古」のような詠史詩的残映ともいうべき遺跡にまつわる歴史叙述は一切無い。詩中では、この「古城」がいかなる城であるか全く不明であり(あるいは作者自身分からなかったのかもしれない)、この城の過去(来歴)は詩中に一切言及されていない。従って、この「古城」の過去にいかなる栄華や事績があったのかよく分からない。そのため、成熟した懐古詩の典型的様式からすると、過去の栄華の姿と現在の荒廃した姿との対比が今一つ不鮮明で、両者の間に隔絶する時間への深い慨嘆が、本詩ではいささか弱いように感じるのは否めない。だがそうした未成熟さをまだ残しつつも、本詩は、

(21)

従来の六朝懐古詩にまま見られた詠史的な要素を捨象することで、遺跡を目の前にした詩人の心揺さぶられた懐古の情が、より純化されたかたちで詠じられていると評することに注目しなければならない。即ち、李百薬の「秋晩登古城」において、これまでの懐古詩にまま見られた、歴史事績の詳述という詠史詩的残滓が整理されたことで、唐代における成熟した懐古詩の典型が基礎づけられたということなのだ。それは、詩中において歴史事実を詳述することよりも、現在の廃墟となった遺跡への詠嘆の情に重点を置いたこうした作品によってこそ、唐代懐古詩の完成が促されたのだということ意味しているのではなかろうか 11

  南北朝後期・隋~唐初期にかけての六朝懐古詩は、未成熟ながらも懐古を主題とする新たな文学作品の様式の確立に成功した。そして、唐代懐古詩の完全な様式が出現するには、ここからあと一歩という段階であったということを確認した場合、その文学史的意義の大きさは自ずと明らかだと言えよう。

( 1) 本 論 文 で 扱 う「 詩 跡 」 と は、 所 謂 日 本 文 学 に お け る「 歌 枕 」「 俳 枕 」 に 相 当 し、 中 国 古 典 詩 歌( 漢 詩 ) に 歌 わ れ る 名 所 旧 跡 を意味する語である。より詳細な説明については、植木久行編『中国詩跡事典』 (研文出版、二〇一五年三月)を参照。 (2)現存する最古の詠史詩としては、後漢の班固の作品がある。 (3)拙論「顏延之『北使洛』と『懷古』の抒情の形成」 (『中国詩文論叢』第三五集、二〇一五年一二月)を参照。 (4)拙論「六朝後期の詩における懐古の主題」 (『人文学報』五一三、 首都大学東京人文科学研究科人文学報編集委員会、 二〇一 七年三月)を参照。 (5)北斉の例としては、 『顔氏家訓』文章編には、 「邢子才(邢卲) ・ 魏收俱有重名。時俗準的、以為師匠。邢賞服沈約而輕任昉、 魏 愛 慕 任 昉 而 毀 沈 約。 每 於 談 讌、 辭 色 以 之。 鄴 下 紛 紜、 各 有 朋 黨。 祖 孝 徵( 祖 珽 ) 嘗 謂 吾 曰、 『 任・ 沈 之 是 非、 乃 邢・ 魏 之 優

(22)

劣也』 」と、邢卲 ・ 魏収の北斉文壇の両派が、南朝梁の文学者である沈約 ・ 任昉の優劣をめぐって争ったことが記されている。 ま た、 北 周 の 例 と し て は、 『 周 書 』「 王 褒 庾 信 伝 」 に は、 「 唯 王 襃・ 庾 信 奇 才 秀 出、 牢 籠 於 一 代。 是 時、 世 宗 雅 詞 雲 委、 滕・ 趙 二 王 雕 章 間 發。 咸 築 宮 虛 館、 有 如 布 衣 之 交。 由 是 朝 廷 之 人・ 閭 閻 之 士、 莫 不 忘 味 於 遺 韻、 眩 精 於 末 光。 猶 丘 陵 之 仰 嵩・ 岱、 川流之宗溟・渤也」と、南朝梁の文学者であった王褒・庾信の作品が、北周の朝野の人々に敬仰されたことが記されている。 (6)盧思道の生卒年については、祝尚書『盧思道集校注』 (巴蜀書社、二〇〇一年六月)の附録二「盧思道年譜」に従う。 (7)曹道衡・劉躍進『南北朝文学編年史』 (人民文学出版社、二〇〇〇年一一月)を参照。 (8)詩題は、 李善注『文選』 (胡刻本)による。逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』 (中華書局、 一九八四年)では、 詩題を「經張子 房廟詩」に作る。 ( 9) 『 文 選 』 李 善 注 所 引 の 沈 約『 宋 書 』 の 記 述「 義 熙 十 三 年 正 月、 公 以 舟 師 進 討、 軍 頓 留 項 城、 經 張 良 廟 也 」、 及 び 王 倹『 七 志 』 の記述「高祖(劉裕)遊張良廟、並命僚佐賦詩。瞻之所作、冠于一時」から。 な お、 『 文 選 』 五 臣 注 は、 本 詩 の 制 作 状 況 に つ い て、 「 良( 劉 良 ) 曰、 …… 瞻 時 豫 章 太 守、 遙 以 和 此 」 と、 当 時、 謝 瞻 は 遠 く 豫 章( 現 在 の 江 西 省 南 昌 市 ) の 太 守 の 任 に あ り、 劉 裕 が 北 伐 の 途 上 で 執 行 し た こ の 祭 祀 に は 参 加 し て い な か っ た と し、 現 行 の 日 中 の『 文 選 』 訳 注 書 ほ ぼ 全 て が こ れ に 従 っ て い る。 だ が、 袁 行 霈『 陶 淵 明 集 箋 注 』( 中 華 書 局、 二 〇 〇 三 年 )「 於 王 撫 軍 座 送 客 」 の「 編 年 」 で「 劉 裕 還 彭 城 在 義 熙 十 四 年 正 月、 宋 臺 之 建 在 此 年 六 月。 據『 宋 書 』 巻 四 四「 謝 晦 傳 」 及『 宋 書 』 巻 五六「謝瞻傳」……則謝

瞻之任豫章太守必在義熙十四年之六月以後」と述べる通り、 謝瞻の豫章太守赴任は、 義熙十四年(四 一八)六月以後と見るのが妥当であろう。 (

( 10 )注(9)所掲の王倹『七志』の記述より。

( 11 )原文「厳子陵」 。ここでは『盧思道集校注』の注に従い、 「厳夫子」の誤りとする。

( 12 )『隋書』巻四二「李徳林伝」 。

( 13 )『旧唐書』巻七二、 『新唐書』巻一〇二「李百薬伝」 。

( 14 )詩題及び本文は『全唐詩』巻四三による。

15 )趙望秦『唐代詠史組詩考論』 (三秦出版社、 二〇〇三年八月) 「一、 緒論」 、 及び陳建華『唐代詠史懐古詩論稿』 (華中科技大

(23)

学出版社、二〇〇八年九月)第三章「初唐的詠史懐古詩」第一節「唐太宗時期的詠史懐古詩」 。 (

( 16 )もしくは秦の征服後、新たに建設された秦漢代の郢城遺跡(楚の郢城と後の荊州城の間に位置する)か。

( 17 )陳尚君「 『全唐詩』誤収詩考」 (『文史』第二四輯、一九八五年四月) 。 18 )本作と鮑照「蕪城賦」との類似性については、 注(

( 関しては、拙論「鮑照「蕪城賦」に見る「懐古」主題の形成」 (『中国詩文論叢』第三十三集、二〇一四年一二月)を参照。 15 )所掲の陳建華論文を参照。また「蕪城賦」に見られる懐古的要素に 19 )『全唐詩』巻三七より。詩の本文は以下の通り。

唐・王績「過漢故城」 大漢昔未定、強秦猶擅場。中原逐鹿罷、高祖鬱龍驤。經始謀帝坐、茲焉壯未央。規模窮棟宇、表裏浚城隍。群后崇長樂、 中朝增建章。鉤陳被蘭錡、樂府奏芝房。翡翠明珠帳、鴛鴦白玉堂。清晨寶鼎食、閒夜鬱金香。天馬來東道、佳人傾北方。 何其赫隆盛、自謂保靈長。暦數有時盡、哀平嗟不昌。冰堅成巨猾、火德遂頽綱。奧位匪虛校、貪天竟速亡。魂神吁社稷、 豺虎鬥巖廊。金狄移灞岸、銅盤向洛陽。君王無處所、年代幾荒涼。宮闕誰家域、蓁蕪罥我裳。井田唯有草、海水變為桑。 在昔高門内、於今岐路傍。餘基不可識、古墓列成行。狐兔驚魍魎、鴟鴞嚇獝狂。空城寒日晩、平野暮雲黄。烈烈焚青棘、 蕭蕭吹白楊。千秋并萬歳、空使詠歌傷。

( は歴史的人物(張良・禰衡)に論評を加えることを主眼とする点で、むしろ伝統的な詠史詩の流れをくむものとなっている。 20 )一方、 「経下邳圯橋懐張子房」は五古十四句、 「望鸚鵡洲懐禰衡」五古十六句のような短篇とはいえない作品もあるが、 これ

( へと近づきつつあることがうかがえよう。 唐 代 の 成 熟 し た 懐 古 詩 の 詩 型 は 多 く が 近 体 詩 で あ る こ と は 先 述 し た が、 こ う し た 詩 型 の 面 か ら も、 本 詩 が 唐 代 懐 古 詩 の 完 成 21 )本詩の詩型は一応五言古詩に分類されるが、 この後に完成する近体詩の詩型(律詩 ・ 排律)にかなり近いものとなっている。

や 陳 子 昂「 白 帝 城 懐 古 」( 五 排 十 二 句 ) な ど の よ う に、 近 体 詩 に よ る 成 熟 し た「 唐 代 懐 古 詩 」 の 名 作 が 生 み 出 さ れ て い る。 こ 22 )実際、 李百薬よりさらに時代が下った、 初唐後半期の高宗~則天武后(武則天)の時代になると、 駱賓王「易水送別」 (五絶)

(24)

れ ら の 作 品 は、 い ず れ も 六 朝 懐 古 詩 が 持 っ て い た 冗 長 な 歴 史 記 述 の 部 分 を 切 り 落 と し、 過 去 と 現 在 の 超 え が た い 時 の 断 絶 に 作品の焦点を当てた短篇として作られている。

※本論文は、市原国際奨学財団の研究助成を受けて行った研究成果の一部である。

参照

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