批 判 に お け る 基 準 と 根 拠
ポパー︑ハーバーマスを手掛りとして
石神
豊且
一基準と根拠をめぐる予備的考察
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ヘへ通常︑批判(批判的認識)はなんらかの基準(尺度)に従ってなされると理解されている︒いま︑批判ということがらの
あ全体を反省してみると︑ここに︑ω批判される対象︑②批判する主体(通常は私)︑㈲批判の基準(尺度)という分節が可
能である︒批判は一種の判断として︑さしあたってはωと②の関係とみられよう︒つまり批判は︑私のおることがらに対
コヘヘコ する態度決定であるとみられる︒しかし︑この態度決定がたんに主観的なものではなく︑客観性を要求するとみられる場
合︑ここに客観性をもちうる③基準が︑ωと②を媒介するものとして意義をもってくるのである︒
基準をもたない批判はありうるだろうか︒いま︑判断の場合を考えてみよう︒判断(命題)とは二つの概念の一致ない
しは不一致の断定であり︑その限りにおいて基準は示されない︒しかしわれわれは日常︑判断を話題とするときに判断の
基準(あるいは根拠)をしばしぽ問う︒この事実は︑判断の形式(主語と述語の結合)において︑ある内容的な必然性が要求
されているのだとみることができよう︒つまりこの結合の必然性(判断を成立させているもの)は一種の基準的性格を意味
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しているといえるのではないか︒とはいっても︑それは端的に基準として明示され定立されているわけではない︒七かし
あらゆる判断の成立には︑こうした一種の基準性が基礎にあるのではないかと思われる︒
判断に比べて批判の場合はかなり明瞭だといってよい︒つまり﹁なんらかの基準﹂が明示的に定立されることによっ
て︑批判の客観性が保証されるとみられるのである︒批判が客観性あるいは普遍性をもつとされるのは︑この基準の定立
によるわけである︒批判はたんに私だけのものでなく︑他の人にも訴えうるものでなければならないとみられる限り︑客
観的基準がなければならないということになろう︒したがって判断の場合の消極的な基準性は︑批判にあっては積極的に
基準として定立されるのだということができる︒そしてこの基準は批判的言明(主語述語関係)における媒介として︑また
批判的認識にあって対象と主体を⁝媒介するものとして存在することになる︒
( 1 )
いまちなみに辞書をみてみよう︒﹁批判﹂とは﹁是非を分かち定めること﹂とある︒また西欧語の︿oユぼ9ωβo誌ユρ¢ρヘへ内ユ仲詩﹀は語源的にギリシア語︿}(目一什一閃O︑ω四〇一り一Φ酔Oユ一ωOΦ目︼P﹀に由来する︒両語とも識別を語っているとみられる︒ここか
ら批判とは︑対象を識別するというこの主体の作用だということもできよう︒ところでこの識別作用はある独特な距離感
ぬセ覚を伴っている︒一方では︑主体と対象との間にある分離が︑一定の遠さとして感じられる︒しかし他方︑識別による対
ららもメ象化は私の対象としてのこの対象の接近であり︑これは近さとして感じられもするのである︒この分離と接近は形式的に
は相反するものであるが︑いわばこの矛盾において識別作用が成立しているといえるのである︒
しかしこの分離と接近は︑たんに心理的に解されるべきではない︒識別作用は︑対象の対象化であるとともに主体の主
体化という︑この相互定立作用である︒ここに対象と主体が同時に定立される必然性が含まれているといえる︒そしてこ
の必然性は論理的関係において捉えられるべきであり︑批判的命題における前項と後項の結合の必然性が中項として示さ
れるべきである︒この場合︑判断は推理となるが︑まさしくこの推理における中項すなわち媒介項が識別を客観的に成立
させるのである︒批判における基準とはこうした意義をもつと考えられる︒
批判における基準 と根拠
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こうして基準(o蜂ΦユoP国降興葺旨)が批判において重要な論理的意義をもつものであることが理解される︒批判にとっ
て基準の定立は決定的な意義をもつといってよいだろう︒いま少し︑この基準の性格について考察を加えたい︒
まず︑基準は一定の普遍的性格をもつものであるといえる︒このことはたとえば物差しをもって長さを計ったり︑体重
計で体重を測定したりすることを考えてみればよい︒あるものについて何セソチメートルとか何キログラムとかいう計量
が可能になるのは︑メー}ル︑グラムという普遍的基準(単位)が存在するからである︒また校則によって学生指導をし
たり︑あるいは同年代のサラリーマソの平均給与をもって自分の給与の高低を判断したりすることも同様である︒実際に
計測あるいは適用が可能か否かはとにかく︑こうした基準には一定の普遍的性格が求められているわけである︒この意味
セカでいわゆる理論は基準となりうる︒帰納的に導かれたものにせよ︑仮説的なものにせよ︑理論は一定の普遍的性格を備
え︑個別的な事象を判定する評尺ともなりうるのである︒上の例でいえば︑長さや重さの計測は物理学的理論にもとつい
ているし︑給与計算は統計学的理論にもとついているということができよう︒
へぬセ.問題は︑この基準が絶対的なものなのか︑それとも相対的なものでしかないかということである︒まず︑基準が絶対的
だという場合︑なにがそこに主張されているのか︒絶対的という表現は︑すでにそれ以上のも・のが存在しないという主張
を含意していゐとみられる︒しかし︑この上位基準の排除はいかに正当化されうるのか︒思うに︑絶対的という表現は絶
対的にしか︑つまり端的なものとしてしか理解できないものである︒﹁相対に対する絶対﹂とはそれ自身形容矛盾であろ
う︒相対に対するものはやはり相対的なものである︒したがって絶対は端的に絶対でなければならないが︑ここで主観的
に(たとえば信念として)主張されるものをもって絶対的ということは︑たんなる主張・断言とみられ︑少なくとも客観的
には証明できないものである︒
コヘへ つぎに基準が相対的なものだという場合はどうか︒この場合は上のアポリアは免れている︒しかし︑基準が相対的であ
るという限界設定がなされることによって︑他の同格の諸基準の存立︑あるいは上位の基準の存立が消極的にせよ容認さ
〆
"
カカれているということができる︒するとたちまち︑並立する同格の諸基準のあいだでの比較︑あるいはさらに上位の諸基準
へ︑つまり基準の基準の基準⁝⁝という無限の上昇という問題が生じてくる︒比較は同一面上のヨコの無限であり︑上昇
もタテの無限であり︑ともにとどまるところがない(いわゆる悪無限である)︒
ここにみられるのは︑基準の性格づけにおける周知の問題系である︒この問題系は︑みるところ︑基準が第三者的なも
のとして︑つまり批判において外的なものとして定立されているところに生起している︒ここにはある重要な観点が脱落
しているといわざるをえない︒基準の考察において重要なことは︑基準の定立をその定立において問題にすること︑その
成立の事態を洞察することである︒基準は一定の普遍性をもつ︑とさきに述べた︒基準をその成立においてみることは︑
すなわち普遍性それ自体を問題とすることである︒ここにこそ基準の由来が明らかになる場があると思われる︒基準が基
ヘヘヘマほも準としてありうる条件の問題︑これは根拠づけの問題である︒
根拠(冨ωβぴqδ琶鼻O歪民)とは何か︒ここでライプニッツのいわゆる充足根拠律︑﹁何ものも根拠のないものはない﹂
という命題が当面の指標となる︒根拠とは︑あるものの存立の由来︑あるものがまさにそのものであるところの理由であ
る︒たしかに﹁根拠﹂という表現は︑なにか絶対的なものがそこに示されているというニュアンスをもった言葉である︒
あえてこの絶対という言葉を用いるならば︑これは相対的絶対ではない︒端的に存在する絶対とみられなければならな
い︒この意味で根拠は絶対的なものである︒しかし他方︑根拠はたんなる信念とは異なるものである︒根拠は主観的なも
のではなく︑真に普遍的なものでなけれぽならない(ここではまだ主張にすぎないが)︒いったいこういうものが認めら︑れる
だろうか︒
カうこうした普遍的な根拠というものを仮に認めるとしても︑しかしわれわれはそれをどのように把握しうるのか︒少なく
ともそれにどのようにアプローチしうるのかとさらに問うことができる︒根拠の存在を前提にするというとき︑それは独
へぬヘヘヘカカヘヘヘへあヘヘへあヘカ断論となる︒根拠は前提ともいえない︒つまり根拠は自らを根拠づけなければならないのである︒しかしいかにしてそれ