• 検索結果がありません。

アドヴォカートゥスとパトロナートゥス について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "アドヴォカートゥスとパトロナートゥス について"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

アドヴォカートゥスとパトロナートゥス について

ーシトー会修道院の小教区教会所有の一側面一 Advocatus t e s t u n a r o a t P

乎 伊 佐 雄 I

s a

o TAIRA

【要約】

修道院の所有物であった教区教会に関する 3 1 世紀の史料は,修道院のパトロ ナート権を明確に修道院のアドヴォカートゥス権から区別していたとされる.

この区別には,歴史的なアドヴォカートゥスの変遷が絡んでいる.シトー会修 道院の研究では,フランスの領域の修道院にはアヴォエ ) e u o v A ( は存在しな いとして,パトロナージュの問題がしばしば議論され,他方ドイツの修道院で はフォークト

(Vogt)

問題が盛んに議論されて,教会所有の問題はその中心 テーマとなった. しかし,私有教会の研究においては,地域差はあるものの,

それらがアドヴォカートゥスから発したものであることを示している.

本稿では土地と教会所有の関係を改めて探ることを目的として,現在のベル ギーに設立されたオルヴァル修道院とドイツ西部に設立されたヒンメロート修 道院を取り上げ,これらの点を検証した.

[キーワード】

シトー会,アヴェ,フォークト,パトロナート,パトロナージュ

(2)

7

4

立正大学経済学季報第

0 6

1 号

1

. 問題の所在

かつてアドルフ・ヴァースは,彼のフォークタイに関する研究において, ド イツにおけるパトロナート s ) n a t u a t r o ( P とフォークタイ u s ) o c a t ( a d v が互 いに関連のあるものと見なされていないとして,その関連について整理を行っ た

.1

当 時 , パ ト ロ ナ ー ト は 私 有 教 会 法 か ら 発 生 し た も の で あ り 釘 s u i p

e t i t i o n i s

, s u i p a t r o n a t u s (教会保護権)も, 2 1 世紀のうちに統一的な私有教 会権が分解したものの一つであったとする見解をシュトゥッツが示していた.

彼による私有教会制度についての研究は,この分解した権利に加えて, s u i f

u n d i

, fundationis (土地の権利), s i u conductus (貢租徴収権), u s i p

r a e s e n t a t i o n i

s (司祭推崩権), donum, r a u t i t e s v n i a e i e s l c e c (教会の譲渡)

などの権利もあったとしている色シュトゥッツ日く「このような展開は,古 米の教会支配権が教会に適用されたゲルマン的土地所有権にほかならない」と の見解を示し,教会支配権の新たな発展に際して,アレクサンデル 3 世が,

P a t r o n a t r e c h

t (独:教会保護権)を形成したとしていた. しかし,古来の法 とは異なってこの新しく生み出された保護権は,「霊的なものに結びつけられ た世俗的権利と解されるもの」

4

であり,この点においてシュトゥッツは,「私 有教会権に認められていた教会からの独立性は, もはや教会保護権には存在し ないこととなった.」

5

と私有教会権の変遷を論じたのである.

ヴァースは,フォークタイとパトロナートがシュトゥツの見方からして,単 に同じ幹の晃なった枝と見なし得るし凡 Patronus は,保護領主であり,フォ ークト(アドヴォカートゥス)であることを示して,フォークタイとパトロナ

1 A.

a s , W a i e t g o V und a d e B n i r e d n e h c s t u e d . t i e z r e s i a K r e t s r E , l i e T , 9 1 9 1 . 6 9 - 3 9 . p p

2

W a a s , . 3 9 . p ; シュトゥッツ,増淵・淵共訳『私有教会・教会法史』創文社昭和4 7 年 3

1 頁

3

シュトゥッツ『私有教会・教会法史』 54 頁

4

シュトゥッツ『私有教会・教会法史」 55 頁

5

シュトゥッツ『私有教会・教会法史」

56

a a s , W i e t g o V und , e d a B . 3 9 . p

(3)

ートは,両者の権利の同種性はその内容において顕著なものであって,総じて 同じ領主の立場の名称として交互に使用することができることを示した

.7

パ トロナートは教会の創設を通じて,あるいは教会領の寄進を通じて生起し,フ ォークタイをもつ創設者たちの家族に継承される.パトロナートは寄進された 土地の付帯物として物権的にもあり得るし,教会フォークトのように教会の聖 職者たちに与えられる権利を持っている.パトロナート所持者は,教会財産

( c u r

a i ) i c f i e n e b の管理について影響を持ち,教会の土地の譲渡もその者が同 意を与えねばならなかった.そして,今 B o s i e n i f d あるいは advocatia と言 い表すところの教会を保護する義務を負ったs . このような点からヴァースは,

フォークタイ(アドヴォカートゥス)とパトロナートの類似点を示した. しか し

, 2 1 世紀以降の史料ではアドヴォカートゥスとパトロナートという語は互い に用いられたから,その明確な区別はたやすく理解されるところではないとす るものの,教会に関しては,司祭推煎権 ) r e c h t i o n s e n t a t p r a e s ( を含むパト ロナートを教会の土地に関するアドヴォカートゥスから区別していたとしたの である,.修道院においては,修道院所領に直接関係するフォークタイは大き な影響力をもっていたから

,01

アドヴォカートゥス問題は重要であった.その 意味では,シトー会の修道院がアドヴォカートゥスからの自由を企図したのも 理解できるだろう. しかし,わずかな所領しか持たない小さな教会においては,

その支配権の主たる内包物は,教区主任司祭の praesentation であれ,パトロ ナートという用語を使用したし,他方で修道院のアドヴォカートゥスの裁判権 も小さな教会においてはほとんど欠けていたとはいえ,やはり影響を与えずに はいられなかった.その場合には両者は同じ教会に対して互いに存在し得てい たのである.ただ,そこでは両者の区別が重要となったため,二つの異なった 支配権として区別されたとするのである.よって, 3 1 世紀の修道院(あるいは,

7

W a a s , i e t g o V und , d e a B . 3 9 . p

8

W a a s , i e t g o V und , e a d B . 4 9 . p , W a a s , i e t g o V und , e a d B . 6 9 . p

10

修道院長をアドヴォカートゥスが自由に任命できる権利は次第に取り上げられていたが,

アドヴォカートゥスの修道院内への影響は無視できなかった. W a a s , i e t g o V und B

a

d

e

, . 6 9 . p

(4)

7

6 立正大学経済学季報第60 巻1号

司教区)の所有物である教区教会に関する史料は,修道院のパトロナート権を 明確に修道院アドヴォカートゥスのフォークタイ権から区別しているというの である

.11

今 H でも一般にパトロナートは,「パトロナートは一定の負担と結ぴつけら れた特権の総体のことであり,特権は教会の容認を通じてカトリック教会の律 院,礼拝堂,あるいはその法的継承者の利益の権利を持つ」とされ,この権利 は教会法学者の法知識と 12・13 世紀の教令法の複合作用によって成立したもの であると考えられている

.21

グレゴリウス改革が教会の所有と教会の利益に関 する処分権を争い,後にグラティアヌスは私有教会主の処分権に制限を設けた.

そこで俗人による教会の土地に対する売却の権利,寄贈の権利,あるいは私有 教会の用益の権利を取り決め,私有教会の支配を甚にして聖職禄者推薦権(司 祭推薦権),苦境の際に教会諸収入による支援権を俗人に承認したというわけ である

.31

本国における岡崎の整理においても, 1 1 世紀には小教区教会収入の 全て,司祭に対する支配は,他の物件と区別されることなく俗人によって支配 されており,俗人から修道院へ教会が譲渡されてもその内容は変わらなかった.

それでも, 2 1 世紀にはそのうち司祭に対する支配が司教への推廊権として変質 し,これを中核としてパトロナートが法理化された.俗人には司祭推廊権のみ が認められ,修道院には十分の一税を含めた教会関係収入の受益が認められる

ようになったと通説をまとめている

.41

このような過程を見てゆくと, 12・13 世紀においては私有教会制度から照射 されるパトロナートの性格について分析する,あるいはパトロナートを狭義に 解釈して(司祭推旗権)分析することに限定せず,パトロナートとアドヴォカ ートゥスの両者の問題を教会保護権の変遷として再確認する考察も無駄ではな いように思われる.そこで,以下においては,現在のフランス語圏のシトー会

11 Waas, ietgVo und ,deaB .79-69.pp

ヴァースは修道院のパトロナート権と修道院フォ ークトのフォークト権をマールプルク近郊のゼールハイムの教会について例を挙げて指 摘している.

Waas, ietgoV und ,deBa .79.p

12 onkxiLe fur eigoolehT und ,ehcirK

. £ 1 8 4 1 . p

13 ,dibi

. £ 1 8 4 1 . p

(5)

修 道 院 で は パ ト ロ ナ ー ジ ュ と し て 注 目 さ れ , ド イ ツ 語 圏 の シ ト ー 会 修 道 院 で は 私 有 教 会 制 の 継 続 か ら 発 し た フ ォ ー ク ト 問 題 と し て 検 討 さ れ て き た 修 道 院 所 領 と 教 会 所 有 の 問 題 を ト リ ー ア 大 司 教 区 に あ っ て ほ ぼ 同 じ 年 代 に 設 立 さ れ た ふ た つ の シ ト ー 会 修 道 院 オ ル ヴ ァ ル と ヒ ン メ ロ ー ト を 取 り 挙 げ , パ ト ロ ナ ー ト の 成 立 の 通 例 的 な 見 解 を 甚 に 比 較 検 討 し て み た い.51

2

.

シ ト ー 会 修 道 院 の ア ド ヴ ォ カ ー ト ゥ ス と バ ト ロ ナ ー ト ゥ ス

を . 1

オ ル ヴ ァ ル 修 道 院

オ ル ヴ ァ ル 修 道 院 は そ の 設 立 経 緯 に 関 し て こ れ ま で に い ろ い ろ と 議 論 が 上 下 し た 修 道 院 で あ る.61 シトー会修道院としては,

2 3 1 1

3 月 9

日 に ト ロ ワ フ ォ ン テ ー ヌ 修 道 院 か ら 修 道 士 の 一 団 が 到 着 し,71 その歴史が始まったとされる.

し か し , 寄 付 行 為 文 書 が 失 わ れ て い る 関 係 で , オ ル ヴ ァ ル 修 道 院 創 設 に 関 す る 情 報 は , 修 道 院 創 設 時 の 所 領 を 再 確 認 し た と さ れ る

3 7 1 1

年 の 証 書 の 記 述 に 頼 る

"岡崎 敦「サン・マルタン・ドゥ・ボントワーズ修道院のserueirp と小教区21-11( 世

紀)」 r文芸と思想』(福岡女子大学) 45 0919 年 56 頁からほぽ引用.なお.フランスの

修道院が所持する小教区教会に関する研究にて岡崎は,パトロナートを「私有教会返還 の動きによって,大部分の小教区は次第に俗人の手を離れ,中世末までには様々な教会 機関のいわゆるパトロナージュの下に入ったとされる.」 83 頁,「パトロナージュとは,

伝統的な小教区教会の管区司教への従属という原則と,事実における主として俗人の教 会関係諸権利所有を整合的に説明するため, 21 世紀後半以降教会法学者が提出した法概 念であり, suj usatronatp として,例えば,文書中にもしばしば現れる.具体的には,

司教への司祭推薦権,小教区収入の受益,教会における上席権,教会その他の維持義務 などを含むと考えられている」としている. 14 頁 . 岡 崎 敦 r中世パリ地方における修 道院の小教区所有と司教裁治権』史學雑誌 史學雑誌)7(401 5991 年

1

5 シトー会の修道院はフォークト(アドヴォカートゥス)離脱を行い得た條道院とされて いるが,このテーゼはそのまま全ての修道院に当てはめるわけには行かない.拙稿「シ トー会修道院のフォークトについてートリーア大司教区,ヒンメロート條道院を例にし

てー」 r経済学季報』第 53巻3•4

8002 年を参照

16 D.G py,es aetfC dans sel Ardennes : aux senigiro d'O ,la Economies teseteicos au moyen .ega geselanM selreffo liEdouard ,yorrPe ,siraP ,3791 .;00-609.5pp N.R l,eo Les d

e b u t

s esnastiqumo

a

lOrva Avant-reponse e

a

lcitra'! de C.rh ,eirogreG Le Pysa g

a u m e s

, alerret tesel hommes, .93-83 ,87-7791 .911-711.pp

(6)

7

8 立正大学経済学季報第60 巻1

他はない.81 当該文書はシニィ伯ルイ

2

世が妻ソフィーと共に,シニィ伯オッ トン

2

世がオルヴァル修道院創設について寄与していることを明確に記してお り , シ ニ ィ の 伯 オ ッ ト ン が 創 設 者 で あ る こ と を 想 起 さ せ る も の で あ る 既 実 の ところ,オットン

2

泄 の 死 去

H

は正確には分からず,彼の兄弟であるアルベロ ンがヴェルダンの司教の座についた時,つまり,

1 3 1 1

4

月時点で既にオット ン

2

泄 は 死 亡 し て い た と さ れ て い る か ら

3 1 1 ( 1

3

月?) ,02 オットン

2

世 は オルヴァルヘのシトー会士たちの到着の前の年に修道院創設に関わったことに なってしまう.このようなところからも,シトー会修道院設立以前の修道院創 設についての議論

(3

段階創設説等)が出てくるのであるが,ディスピィが指 摘したように,修道院の建立に関する史料

4 2 1 1 (

年の証書)は,後年の創作で あ る と も 考 え ら れ て お り 叫 修 道 院 の 起 源 に つ い て は 未 だ に 不 明 確 な ま ま で あ る. しかし,この点については本論ではこれ以上踏み込まない2.2

オルヴァル修道院は保護の内実は別にしても創設時からシニィ伯によって保 護 さ れ 究 無 償 で こ のAvoue の下に存在していたと考えられている礼ただ,

17 T.R,ereilli eriotsiH de leyabba' ,lavrO'd sniotidE ,tolucud Gembloux, ,8591 .52-42.pp ; D

e s p y

, xtteauC dans se! s,nneArde .295-095.pp ; P.C-. ,eirogreG Que sons-nousav esd p

r e m i e r

s temps de leaybab' alrvOd' ,?Le Pysa es,umga alerret tese! hommes, ,93-83 1

9 7 7 - 7 8

, .31-1111.pp ; P.C-. ,eirogeGr Les senigiro de yeabbal' ,lvarO'd Revue 'd h

i s t o i r

e lcce ,eu

qitsai .46 ,9691 ;.977.p .C-.P e,rioegrG yebaabL' alvOrd' au fli sed s

i e c l e s

, soniitEd ,esionepres Metz, ,2002 .73-52.pp

18 ,tenifofG.H erialutraC ed ,lavrO d

iuenigiro'l de ec ,reestnamo au'qusj enen'al

1 3 6 5

, ,sellexurB .9781 n°29.

19 ,reiogeGr yebaab'L ,lavrO'd .82-72.pp

20 アルベロンは1131 年の4月l9B にヴェルダンの司教に就いている.オットー2世の死去 は

, 1311 年3月と推定されている..C-.P ,reiogreG eaybabL' ,lavrO'd .72.p

21 erialutraC ed ,lavrO n°3.

22 大貫のドイツでの研究報告,現時点での研究中の内容から,氏によるオルヴァル修道 院・ヒンメロート修道院の最新の研究成果の刊行が期待される.

23 ,reiogeGr yebaab'L ,lavrO'd .58.p ; 舟橋倫子「12・13 世紀修道院領における森林係争 ーオルヴァル修道院(シトー会)・フロレフ修道院(プレモントレ会)の場合」,田北廣 道編著『中・近世西欧における社会統合の諸相』九州大学出版会0002 年 341 頁.;大貫 俊夫「ドイツ王権による修道院保護とシトー会総会」,鈴木,高谷,林,屋敷,編著『法 の流通』慈学社 9002 年 6505-50 頁.

(7)

シニィ伯による保護は 1226 年に伯家の男系が絶えてしまったため,その後はロ ース伯による保護に移った空件のルイ 2 世による証書の中では,アドヴォカ ートゥスという言葉が用いられ当事者の権限が示されるような記述は見うけら れないものの, , e f e n s o r d conservator と言う言葉から,オルヴァル修道院が

シニィ伯によって保護されている状況は確認できる筑 しかし,オルヴァル修 道院はシニィ伯による保護の他,教皇や司教,国王,司教などの保護も受けて おり,特にパトロナートの問題を考察する上では, トリーア大司教などの教会 領主との関係が重要であると思われる

.72

オルヴァルのカルチュレールに含まれている証書を見てゆくと,修道院の保 護に関する記載があるのは, 1141 年 4 月1 2 B の教皇インノケンティウス 2世に よる証書に保護 i o ) c t t e r o ( p

,82

1153 年の卜'リーア大司教ヒリンによる所領確 認 証 書 に お い て 伯 ア ル ベ ー ル の 保 護 ( c o n s e r v a t o r ) と庇護 s o r ) d e f e n (

,92

1178 年の教皇アレキサンデル3世の保護 o ) t i e c o t p r ( , 0 3 1193 年にはトリーアの 大助祭ヴィルヘルムの庇護 r ) f e n s o ( d e と保護 (conservator) が見て取れる

3 1

.

これはシニィのアドヴォカートゥスであるギョームとランスの聖堂参事会 員プリアールがジャモワーニュの教会のパトロナートをオルヴァルに寄進した ことをヴィルヘルムが確認した文書中に記されているものである. 1206 年と 1209 年にオルヴァルはインノケンティウス 3 世による保護 ) i o c t t e r o ( p 証 書 を獲得している玖その後の保護証書では, 1276 年の国王ルドルフ 1世の保護3 3 とオルヴァルの保護のフランス王フィリップヘの委託が注目すべきものであ

2

4

Tilli~re,

e r i o t s i H e d e y a b b a ' l , l a v r O ' d . 3 0 1 . p 2

5 , e r i o g e r G e y a b b a ' L , l a v r O ' d ; . 5 0 1 . p p 大貫「ドイツ王権による修道院保護とシトー会 総会」 6 0 5 5 - 0 5 頁 .

2

6 証人の中には, u s c a t d v o a d e i , n w L o , u s l m h e i l W t u s c a d v o a C d e i e n i h という肩書き を持つ騎士の存在が確認できる.

27

舟橋 倫子「シトー会修道院の所領形成と周辺社会ーオルヴァル修道院 2 1 世紀文書の分 析」 'r 社会経済史学」 2 - 5 6 2 6 頁 .

2•

e r i a l u t r a C e d , l a v r O n ・ . 8 2

9 e r i a l u t r a C e d , l a v r O n ・ . 1 6 3

° l u t r a C a i r

e e d , l a v r O n

. 2 6

31

e r i a l u t r a C e d , l a v r O n ゜ ; . 9 6 n ゜ . 1 7

3

2 e r i a l u t r a C e d , l a v r O n ・ 6 . 0 1 ; n ゜

.411

(8)

8

0 立正大学経済学季報第60 巻1号

.43

1 1 9

3 年になされたジャモワーニュの教会のパトロナートの譲渡は,狭義の意 味あるいは

ius patronatus

の内容を含んだ教会の諸権利の譲渡であり,この 形でのパトロナートの例は,オルヴァル修道院については 3 1 世紀前後から見て 取れるようになる.ちなみに,このジャモワーニュのパトロナートの譲渡は同 年 , トリーアの大司祭のヨハンも確認し

,53

5 9 1 1 年にはシニィの伯ルイ 4 世も 当バトロナートを再確認している

.63 1200

年にはシャテイロンのギョームとそ の妻,寡婦のアリクスとその息子たちがモンメディの教会のパトロナートをオ ルヴァルに寄進し

,73

イゼルのオリヴィエも同じくモンメディの教会のパトロ ナートをオルヴァルに寄進した

.83

この寄進については, トリーアの大助祭ヴ

ィルヘルムと大司教ヨハンが証書を残している筑同年,シニィ伯ルイ 4 憔は,

ジベルシィとトランプロワ,シャムーイリィの教会のパトロナートをオルヴァ ルに寄進している例オルヴァル修道院の小教区教会のパトロナートの獲得は 既に舟橋によって,

12

世紀に末になってパトロナートの獲得は急激に増加し,

オルヴァル修道院の所領の把握の一手段として小教区教会が支配されたと解さ れている

.14

この場合のパトロナートは庇護や保護という概念ではなく,私有 教会の権利分散後,あるいはアドヴォカートゥスによる教会の所有の問題であ り,先に示した司祭の推薦権の問題になるのだが,ここでの議論では,この小 教区教会の支配は小教区教会の領域に関する諸権利をアドヴォカートゥスから

33 erialulraC ed ,lavrO n

.764

ルドルフは皇帝戴冠を行い得ず,証書においてもローマ の王と名乗っているため(文言に

semper sstuuga

を付帯させていても),ここでは国王

とした.

34 erialulraC ed ,lavrO n

.864

この問題については大貫の前掲論文が詳細に扱っている ため,氏の論文を参照.

35 Ca erialu de O,lavr °n.70

3s Ca erialu de ,lavrO °n.75

31 Ca erialu de ,lavrO n

.28

38 erialutraC de ,lavrO °n.83

39 Ca erialu de ,lavrO n゜;.78 n°88.

•• Ca erialu de ,lavrO n゜.39

シニイ伯ルイ

4

祉は,

4021

年にシニィのアドヴォカートゥ

スであるギョームがジャモワーニュとヴァランサールの十分の一税をオルヴァル修道院

に寄進したことを確認している.

Ca eialu ed ,lavrO n°03.1

(9)

手に入れた形をもっていると解釈して検討する必要があるだろう.そもそも所 領の寄進者は,アドヴォカートゥスの諸権限を持っていたはずであり,何らか の事情でその権利行使が限定されていたからだと考えられるからである.

たとえば,先の

0120

年に発給されたトリーア大助祭ヴィルヘルムのモンメデ ィ教会に関する証書

42

やシニィ伯の寄進証書は

,34

パトロナートが土地である ことを示唆しているし,ジャモワーニュに関する

3119

年の証書からは,シニィ のギョームがジャモワーニュの教会の土地をかつてから所持しており

,44

彼こ そシニィのアドヴォカートゥス権者であることが分かる

_54

しかも,この教会 所領はそもそもシニィ伯からこの者に与えられたものであるため帆法行為に おいてはシニィ伯と無関係という訳には行かなかったし

,74

この教会の権利が ギョームの兄弟で司祭であったプリアールにも属していたから帆厳密には諸 権利が分解したままで当教会がオルヴァルに寄進されたことになる.また,

1 2 0

0

年のシャティロンのギョーム等によるジャモワーニュ教会の寄進について は,アペルモントのゴドフロワがそれを確認し,証書は当該地がゴドフロワの 封であったことを示している偲

このようにオルヴァル修道院は,一方でアドヴォカートゥスや庇護者,保護

“舟橋「シトー会修道院の所領形成と周辺社会ーオルヴァル修道院1 2世紀文書の分析」 5 - 7

5

3世紀修道院領における森林係争」 1 1 4 頁.「オルヴァル條道院の小教区 4 教会のパトロナージュ所有は,小教区教会に属する世俗収入の受益及び司教への司祭推 煎権と規定される,狭義のパトロナージュを核としながらも,小教区の士地を対象とし たかなり包括的な支配と捉えられていたようである.」「1 2・ 1 3 世紀修道院領における森 林係争」 1 0 頁註2 7 . 5

“ く

P a t r o n a t u m , e a i s e l c c e t e c i l i c s d o n u m f u n d i > e r i a l u t r a C 0 d e

, n・ l a . 8 7

“ く

P a t r o n a t u m , h o c e f t s u n d u m s i a e c l e e c d e G e i , e r s i v d e T r e m b l o i t d t e e C

h a m o u l h e i > e r i a l u t r a C 0 d e

, n・ l a . 9 3

" C e r i a l u t r a d e O , l a o r n・ . 6 9 ; n・ 5 . 7

“ギョームは,シニィのアドヴォカートゥス(守護[職]) W , u s l m l e i l a t u s a d v o c d e C

h i s n e

i であり,他の証書にも証人として常に現れている. C e r i a l u t r a d e O , l a o r n・ 5 8 , n゜6 . n・ 4 7 , 6 n・ . 8 9

•• e C r i a l u t r a d e 0

, n・ l a 7 5 .

”舟橋,「シトー会修道院の所領形成」 5 8頁 .

•• e C r i a l u t r a O d e , l a o r n・ 9 . 6

•• e C r i a l u t r a 0 d e

, n・ l a 2 . 8

(10)

8

2

立正大学経済学季報第

06 巻l号

者によって保護を受けている状況にあり,他方で同じ所領に付属していた教区 教会の支配をパトロナートを通じて獲得してゆくという過程は,「所領の重層 的な分割支配」の状況から諸権利を段階的に獲得する過程と理解するだけでな く,通説的ではあるが教会と所領に関する諸権利の分解過程の中で現れた対応 であって,こうせざるを得なかったと解する必要があるだろう.その意味では,

オルヴァル修道院の所領支配は,この分解過程を逆にたどる方向で権利を獲得 したと言わねばならない.

を . 2 ヒンメロート修道院

ヒンメロートは

1134

年にトリーア大司教アルベロの後ろ盾によって創設され,

1138

年以降はアイフェルの森林地帯にザルム河畔に居を構えた修道院である判 オルヴァル修道院からはおよそ

100

キロメートルほど東に位置して存在してい る.当修道院の設立に関する記録の一つである

1138

年の寄付行為証書にはアド ヴォカートゥスや保護に関する直接の記述はない

.15

しかし, トリーア大司教 アルベロによって設立されたがゆえに,事実上の第一の保護者としてはトリー ア大司教が挙げられるだろう.ヒンメロート修道院が保護を与えられているこ とを示す証書としては,教皇関係では

1152

年の教皇エウゲニウス

3

世による保 護

)ectioprot(

と所領確認

,25 1177

年のアレクサンデル

3

,35 1184

年のルキ ウス

3

,45 1190

年のクレメンス

3

泄の保護

)tiotec(pro ,55 1219

年のホノリ ウス

3

,65 1237

年のグレゴリウス

9

,75 1245

年のインノケンティウス

4

50

基本的な研究文献は以下の著作である.

s,elki.WC DieietbaresneizretsiZ Himmerode im 1.2 und .31 ,rtendurhh]a egatrie(B ruz techhicesG esd netla Monchtums )21 Munster .4291 ; A,rdeinehSc. ieDietbaresneicretsiC Himmerod im S,retlalettimtap

S p e y e r .4591

51 r,ye.BeH ,retsetlE.L ,rzoeA.G Urkundenbuch rzu ethcihcseG rde tztej eid-sissuerp c

h e

n eiegR ekrizebsgn zenblCo und erirT endneldib nehcsiniehrlettiM Ter

ot

,ne 1 (,)0681 ,)5681(2 ,)4781(3 z.enblKo ,I .rN .625

(以下,

MRUB

と略記.)

52 MRUB. ,I.365.rN

エウゲニウスは,シトー会修道士出身の教皇である.

53 MRUB. ,II .52.rN

"MRUB. ,II .76.rN

55 MRUB. ,II .501.rN

(11)

の保護

o)ectiprot(

がある到

教皇による保護の獲得は,俗人のアドヴォカートゥスによる修道院所領に対 する不当な要求,修道院内への干渉に対して,修道院の権利を立証し,保護す るために利用されたと考えられるが

,95

それでも教皇による証書だけでは,当 該地域の紛争において実質的な防衛能力を即座に担保できるものではなかった から,近隣の有力者による保護を当てにすることになった.それ故, ヒンメロ ート修道院はトリーア大司教や伯に頼ったし,それぞれ問題が発生する場合に

皇帝の保護に入ることも検討しなければならなかった例おそらく,

先のオルヴァル修道院ではその役割をシニィ伯が中心となって果たしていたと 考えられる.

ヒンメロート修道院に関する俗人の保護者としては,ルクセンプルク伯ハイ ンリヒがまず挙げられるだろう.ハインリヒによる保護はヒンメロート修道院 のヴィットリヒの所領に関するもので, 9 年のヴィットリヒの所領の権利と 1 1 6 保護を確認した証書において修道院の加害者に対する保護 d u s ) ( W a r a n を示

している

.16

1 1 8 4 年の教皇ルキウス 3世の所領確認証書において,ヒンメロー ト修道院が司教アルノルトからラントシャイトの農場を獲得し

,26

その地の聖 ニコラス教会もそこに付帯している旨が記されているが丸当地はもともと大 司教アルノルト 1 世がイゼンプルクのゲルラッハ,ハインリヒの両兄弟から購

•• MRUB. ,III.401.rN

ホノリウス

3

世からの文書には,他にメッテインハイムの所領確

認(MRUB. ,III ,)N .501.r 十字軍要請(MRUB. ,III).021.rN

などもある.

57MRUB. ,III.195,385.rN

その他,答申

(MRUB. ,III,).366,065.rN 調 停 (MRUB. I

I I

, ).556.rN

もある.

•• MRUB. ,III.438.rN

59s,elkWi Himmerod, .97.p

60

拙稿「シトー会條道院のフォークトについて」参照.

61 MRUB. N,I.;65.6r C.Wampach, Urkunden -und Qhucnbelleu Gzuretihcihcse der a

l t

! 四enchisrgbuem neirotirreT zsib ur bheniscgundur ,tieZ B.01,.ed Luxemburg 1

9 3 5 - 4 9

. N ,I.384.r

ただし,これらの保護は決して無償であったわけではなかった

W

i l k e s

, Himmerod, .fOOl.p

62

ラントシャイトは,ヒンメロート

1f

多道院の南部,アルテンホーフのグランギアと先に挙 げたプロッホとの間に位置し,ザルム河畔にある所領である.

63 MRUB. N,II.76.r

(12)

8

4

立正大学経済学季報第

60

1

入したもので, 8 1 1 1 年のアルノルトの証害では全てのアドヴォカートゥスを排 除し,修道院に寄進したものであることが分かっている吐つまり,もとはゲ ルラッハ,ハインリヒが自由にできた土地が寄進されたため,そこに付帯する 教会についての問題を司教側とで整理した形になると思われる.おそらく,こ の所領のパトロナート権は両俗人に付帯していたのであろう.ちなみに, 9 0 1 1 年の教皇クレメンス 3 世の確認証書においては,グランスドルフのパトロナー

トも含めて確認されている

.56

なお,この所領は後にグランギアとなる

.66

1 1 9

1 年にシュパイアー近郊のアルトリップの教会が国王ハインリヒ 6世によ ってヒンメロート修道院に譲渡された. もちろんパトロナート権も付帯したも のである飢 1 1 2 0 年にはトリーア大司教ヨハン 1 世がカイルの農民とヒンメロ ート修道院が修道院所領の用益をめぐり農民たちと争った問題について調停し,

マンダーシャイトのテオドリヒによって修道院による所領の取得と森や放牧地 の共同利用を認めさせ,修道院所領を彼が保護

)ntioefe(d

する旨を証明した

6 8

.

2 0 9 1 年にはライン宮中伯ハインリヒが,ヒンメロード修道院とミーゼンハ イムのグランギアを彼の保護

sio)efen(d

においた

.96

その他, 1 2 5 7 年 5 月に はルクセンプルク伯ハインリヒがピットプルクのスターペニヒのルドルフに修 道院所領の保護を委託している吼

1 2 0

9 年にシュパイアーの大司教コンラートがメッテンハイムの教会の十分の

•• <ab omni erui eticavoad umeribl te absolutum> MRUB. ,II .74.rN

65 <Predium Lniithescgean cum erui usatontrpa Gnirpdestoran qteiducqui sitbeah ni l

o c i

s eilli subitnneitrep cum lalepac .s.ialohciN que memoratus uspcospiehicar

Amoldus a quibusdam usbilibon acor!Ge te enricoH Ide .>chborens MRUB. ,II r.N 1

0 5

.

ヴィルケスは,グランスドルフのバトロナート権もこの教会と結びついていたと考 えているが,

2121

年にこの所領のどちらかのパトロナート権は放棄されたとしている.

W i l k e s

, Himmerod, .131.p

66 MRUB. ,III .401.rN

67 .XF. Remling ,).gsrH( Urkundenbuch zur etchihcesG rde feohsciB zu ,reyepS .2 E

d e .

, Mainz .2581 0)79.1dN( ,I.011.rN

(以下

Rem.

と略記.)

68 <in suam defensionem> MRUB.II, .391.rN

69

<…

ni erstno sinoitiut defensionem cum sius sitinenitta suscepimus.maxime grangiam ipsorum de Miesenheim.> MRUB. ,II .542.rN

10 MRUB. ,III .6931.rN

(13)

一税の 3 分の 1 をヒンメロート修道院に委譲しており

,17

1 2 1 1 年には,同じく 大司教のコンラートによって同所のパトロナート権と十分の一税権を寄進した が , もとの所有者である貴族・騎士に代償を支払わねばならなかった

.27

引き続きヒンメロートは 1 2 3 1 年に国王ハインリヒ 7 世によってシュパイアー 近郊のアルトリップのパトロナート

,37

5 6 1 2 年にはダーレムとトリンポートの パトロナートを獲得している礼

ヒンメロート修道院は,創設時の大司教アルベロが修道院創設に関する

defensio

を占めていたことによって,寄進や購入を手段にして,ヒンメロー

ト修道院の所領の拡充を行う際に世俗人によるアドヴォカートゥスの排除を可 能にする場合があった.これは,大司教アルベロがヒンメロートの所領を大司 教の領邦政策的な行動のための基点として利用したことによるもので,その後 の保護もそのレールに載ったものであった阿修道院所領のアヴォヴォカート

ゥスは,教会の支配権も持っていたので,アドヴォカートゥスの放棄の際には,

教会収入に関する取り決めを小教区教会,管轄司教,修道院の間で再度行わね ばならなかったはずである.そのために 2 1 惟紀中には土地や教会の譲渡という 形が史料に記され, 3 1 世紀前後からは同じ所領においても(小教区教会の)パ

トロナートの譲渡という文言が現れるようになったと推察される.特に遠方に ある所領の場合には,それが顕著に現れている.

3

. まとめ

以上パトロナートという文言の用例を上記の二つの修道院に関して簡単に見 てきたが,ここで分かったことは,一見オルヴァルはアドヴォカートゥスによ る関与がなく,修道院が所領の寄進を受けた後にグランギア以外の所領におけ

71 Rem. ,I.721.rN

12 Rem. ,I N r.251.

元の所有者は,

Oll

マルクの銀の支払いとう l き替えにその権利を放棄した.

73 MRUB. ,III .634.rN

74 MRUB. ,III .7631.rN

75 .R.] ,reliUM irVsoigiler ac soreblA-stzunert onv ,liuertnoM fochsibzEr von rierT

( 1 1 3 2 - 1 1 5 2 )

, rieTr .6002 .822.p

(14)

8

6 立正大学経済学季報第60 巻1号

る小教区教会の把捏のため,教会のパトロナート権(この場合は,司祭推薦権 を主とする小教区教会の支配)を握るという段階を経ているように見える.確 かに,修道院所領の拡充や把握の観点から見るとそうならざるを得ない. しか し,所領の権利の獲得は,アドヴォカートゥスの権利がそのまま残るか,狭義 のパトロナートに分解されて委譲,獲得される形として現れるだけであり,ア ドヴォカートゥスの権利が全く消え去ったわけではない.オルヴァルの所領に 関してはシニイ伯のような,保護者よりも他の俗人たる諸貴族が所領に関する 諸権利を主張したことが多い.騎士たちの要求は,そもそも土地の寄進に端を 発しており,その意味では元米のアドヴォカートゥスに基づく権利主張であっ たはずである.ただし,オルヴァル修道院に関しては, ドイツにおけるような アドヴォカートゥスからの離脱を示す証書は見い出せない.

フランスのアドヴォカートゥスに関しては,貴族(領主)のアドヴォカート ゥス

(avourie ale)eurieigns

custodia

の存在があり,権力のある君主が保護 者

(defensores)

として修道院の保護を引き受けていたとされる

.77

レーゼナー によれば,ロタリングーフランドルの諸修道院でも,

defensio

advocatus

との間の相違がすでに広範に貰徹されていたとし,そこではすでに領邦侯(ラ ンデスフュルスト)のような教会支配が存在していたとする

.77

つまり,ロタ リングの公とフランドル伯は彼らの領地において多くの修道院の保護主であっ た.本山であるシトーに関してもプルゴーニュ諸公,ポーニュの副伯,あるい はその他の貴族君主のアドヴォカートゥスは存在しなかったとされる.プルゴ ーニュの諸公はランデスヘルとして公式にフォークト自由の修道院に関する保 護を行使していたからである阿

フランスの例のようにアドヴォカートゥスから自由になる場合,それは,

defensio

の形態になるが,

defensio

advocatia

とは異なって保護者による

恣意的な要求あるいは,定められた貢租の徴発等の権利と結びついていないよ

76 .F ,nneS noitutitsni'L sed seireuova lcce seu

qitsai en ,ecnraF ,siraP .3091 53-p.1p

1 7 8

.

センは,アドヴォカートゥスと保護君主の間の区別を強調していた.

11 W. Rr,neeos ietbashcieR .emlaS Ve ガndngs-uassu zu/cstriW 体gethcihcse sed-neizretsiZ s

e r k l o s t e r

s anv erd Gndung sib rzu ettiM sed .41 terndhuhr]a eagtror(V und F

o r s c h u n g e n

, .dS ,)31 .4791 .41.p

(15)

うに思われる.他方,すでに指摘したようにヒンメロート修道院のような比較 的私有教会制度の残存形態として修道院が支配されるケース,そして,アドヴ ォカートゥスからの離脱と言う問題設定がされやすい地域に属するシトー会修 道院の場合は,保護の実質的な意味が異なる場合があった.それ故, ドイツの 地域において重要な役割を果たしたと考えられるアドヴォカートゥスについて は,フォータイの問題としてしばしば取り挙げられたのである阿帝国の領域,

本稿ではトリーア大司教領に関してとなるが,ここでの保護者 o ) i s e n f d e ( の 場合には事実上,保護権者は修道院にとって好ましくない弊害を引き起こした

りしていた楓

ヒンメロート修道院の場合には,修道院創設後に修道院所領に関係した費族 や教会関係者のアドヴォカートゥス権をそのまま抱え込むようになり,それら の諸権利を修道院側が買い取ったり,放棄させたりするケースが目立つ

.18

そ して, 3 1 世紀頃からは,パトロナート(小教区教会の所有)を獲得する形とな った.オルヴァル修道院の場合には,伯とトリーア大司教の緩い保護の下で諸 貴族の土地に関する問題を解決し,小教区教会に関しては,やはり 3 1 世紀前後 からパトロナートの問題として権利の整理を行っている.

以上,かなり端的な処理であることに懸念を感じつつも,パトロナートの問 題をこのように見てゆくと,私有教会が教会や修道院に還ってゆくなかでアド ヴォカートゥスが形を変えることになったことを両修道院に捉えることができ た.これは実に通説通りという結果となるが,シトー会修道院に関するこれま での研究視角は地域性を特化して扱うか,あるいは概念整理型で捉えていたと いうことを再確認する機会となったことは間違いないだろう.

78 ,dibi .51-41.p

79 Waas, .dibi

00 r,eliUM rolbeA van ,iluertnoM .822.p

81

拙稿,「シトー会修道院のフォークトについて」

47-1091

頁を参照.

参照

関連したドキュメント

について最高裁として初めての判断を示した。事案の特殊性から射程範囲は狭い、と考えられる。三「運行」に関する学説・判例

現在、当院では妊娠 38 週 0 日以降に COVID-19 に感染した妊婦は、計画的に帝王切開術を 行っている。 2021 年 8 月から 2022 年 8 月までに当院での

(※)Microsoft Edge については、2020 年 1 月 15 日以降に Microsoft 社が提供しているメジャーバージョンが 79 以降の Microsoft Edge を対象としています。2020 年 1

北海道の来遊量について先ほどご説明がありましたが、今年も 2000 万尾を下回る見 込みとなっています。平成 16 年、2004

 学年進行による差異については「全てに出席」および「出席重視派」は数ポイント以内の変動で

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

のニーズを伝え、そんなにたぶんこうしてほしいねんみたいな話しを具体的にしてるわけではない し、まぁそのあとは

二院の存在理由を問うときは,あらためてその理由について多様性があるこ