近世初期銀貨考
‑リチャード・コックス日記を中心に
‑
榎本宗次
(1)リチャード・コックス日記の記載は一六一五年(元和元年)から一六二二年(元和八年)にわたっており'それは(2)丁度、各領国貨幣の最盛期ともいうべき時期に相当している。その点、この日記では寛文から元禄期あたりの史料に(3)は見られない事実が検出されるように考えられる。しかもコックスの貨幣に関する記録は極めて詳細であり、そのう(4)え日本国内における行動半径も平戸から長崎・京・大坂・堺・江戸と広‑、この時期の貨幣事情を知るための恰好の
史料と云うことが出来よう。そこで従来多方面から研究されてきたこの日記を主として近世初期の領国貨幣に念頭を
おきながら検討してみることにする。
最初に'いわ9る丁銀についてみることにする。コックスの日記中にはplatebars或いはptate.fbars
なる名称が散見する。これらは従来、殆んど「丁銀」と訳されている。例えば「大日本史料第十二編之二十五」の欧
近世初期銀貨考(榎本)
史料館研究紀要第五号
文材
料第
十 1 号 訳 文でabarは
pltctainiaeonn g3mco.を4ta.a.8
四 十 三
匁八
分に
相当
する
丁 銀 1 枚、
(5
)
5t
a i s
ptatebarsを
丁 銀 五 十
匁と
訳てし
おり「、
長崎
県 史 史 料 桐 第 三
」
や「法
政史
学
」第
二 十 1
号から
掲
載さ
(6
)
れている
武田
万 里 子森睦彦両氏にチスよるコク日リャドッ・rー・「 記
J試訳
」様訳つで同なけていもをる。
丁銀は
そも
そも
挺
銀・
鑑銀銀挺すのかpあいはないはであるるしをさら‑tsaebar
ps語にそateofbarなるlし‑
ていう
限り
通訳いことうと
がでるき。
幕 府 丁
銀が
鋳
造れ以さる
前
から
丁鋲の
形
状の
銀のあたこはとっ「 三
貸図
案
」巻十七慶長六に「
年、是慶長銀始ナノ
リ'
是ヨリ
前 丁
銀ノ
形 チ
アレド
モ' 諸 侯回国ニテ/自
分コレヲ
作ム'ラシ
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英 銀 ( 譲 葉 銀
)‑
云テヒ
数晶アリ
(7
)
‑
‑
右ノ
室 町 殿 丁 銀 ハ
未ダ
銀
座ナモ無ド
之
」あかこるとらもと
知れ、元和たらま
期の史
料にも「
平判田
」丁銀か萩と
(8
)
丁
銀と
か が 散 見
する。
(9
し)
かし
普 通' 近
世において
丁
銀いえばと
次のによう
幕 府 丁 銀 ( 幕 府 灰
吹による
公 儀 丁
銀貝と
灰
吹に銀るよ
座 丁 銀 ) を
指ていしる。
諸○
国
灰吹
之上中
下 取
合'銅ヲ
加'
下銀に吹
立因玄'‑・・・‑
慶 長 六
年辛巳
五天月
下1統丁銀迫に
相定
(銀
座
初り
之
次第
)
○関ケ原以後に銀座出来て'丁銀と云もの出来
○慶長十四己酉年九月廿九日 (黒川道祐「遠碧軒記」)
1唐人共前々より銀を吹ぬき南録にして取候所に、向後不吹して丁銀にて直に可取旨'駿府より黒船に御下知(通航1覧巻四)
また「梅津政景日記」にも早‑より諸銀と区別され芋銀の名称が散見され,(ポ肝丁銀の名称は「丁鋭」に固定して
いったようである。ではコックス日記の中で丁銀と訳されているplatebarはすべて幕肝丁銀かというと'fyftytaisplatebars)wher.itbarShr.ng.(七頁参照)とかInpla
te ba
rs.fJapa n
Nahrites (
九頁参照)といった3仰 E
表現が示すよ‑に必ずしもそうではないようである。まずはじめ七1六1六年八月八日の条を引用し量目の検討をしてみるO
WepaidtotheKingsbarkmenandourowneasfolloweth:I
TothemasterlofKyngesbark.1barplate.containing
Tothepi)otandstersmanofsame,︼ykeptate.tbar
To42menmarirL
er S
.Sameba
rk.)barTomariners.Ourbark.saョep一ateSomtotattallamountesunto la.7na.
C
O.3
0
0∽00
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9
6
0ここにみえるようにtbarplateと明記して'夫々三〇匁'二二匁、1四匁の量目のbarplateのあ
っ
たことが知られる。日記中の銀の記録にはすべてtb
a
rplateの量目が記載されているわけではない。例えば8
0taisinp)atebars(Åug.2).)6)7)とか300taisinplateofbars(Åug.)3.)6)6)などの場合にはtbarptateの量目は不明で
ある。そこで明らかにーbarp︼ateのもので量目の判明するものを拾ってみると次表のようになる。なおこの表にみ
られるtbarptate.abarofplaIeや)p
late oI bar
が日本での「銀1枚」の概念でないことは断わるまでもない。これらのtbarplateは切迫いされずに1本ない
し は
一枚として使用されたもののようで、より少銃の銀の場合には小玉銀・小粒銀⁚言がね・こま銀・つゆ銀などに相当するsmap‑ateを使用し、またそのためにbarp‑ate(̲2)をSヨaニp‑ateに両替している。
近世初期銀貨考(榎本)
1 abarofplate
2 abarofplate
3 abarplate
4 abarofsilver
5 1barplate
6 1bar
7 anotherbar
8 1barplate
9 abarplate
10 abarplate
ll 1barplate
12 abarplate
13 abarplate
14、 1barplate
15 abarofplate
16 abarplate
17 1barplate
18 ・lplateofbar
19 twobarsofplate
ta. nn. co. Cocks,Diary
4÷
Jan.3.16162 1 Jan.23. 〝
4 3 8 Aug・6・ 〟
3 0 0 Nov・11・ JJ
3 1 0 Aug.29.1617
3 2 5 Sept.5・ JJ
3 9 3 ル ル
2 4 2 ※Mar.18. ∫/
4 3 0 0ct.5. J/
4 3 0 0ct.7. J/
3 6 6 0ct.9. JJ
3 7 0 0ct.20. ∫/
4 3 0 Nov.3. 7/
2 3 0 Aug.29.1618
4 3 0 Dee.6. /∫
4 0 0 Dec.9. J/
4' 3 0 Jan.25.1621
4 3 0 Apr.18. 〃
8 6 0 Ja.n.9. Jf
※ Peter pratt.HistoryofJapan
史料館研究紀要第五号四
このように
ba
rp‑ateは一本ないして枚のままで使用されたとすれば'上の表
にみられるように種々の量目の
ba
rplateがあったわけである。
この表にある十九例のうちJ二〇匁から四
三匁のものが多‑'なかでも四三匁の量
目のものは
9 ・ 1
0・13・15・17・ 1
8および19と七例もあるが、これらを四三匁前
後の量目を持っといわれる幕府丁銀と直
ちに断定することは出来ない。それは領
国貨幣でも中世以来の「京目」銀一両
‑
四匁三分したがって銀一枚(十両)四三
匁の仕来りを採用する場合があったから(13)である。一万、三〇匁や二三匁であって
も'領国貨幣と速断することも出来ない。
特に慶長丁銀の場合には量目が種
々
で、(14)必ずしも四三匁前後ではなかったと
いう。というわけで'この表にみえるー
b
arp︼ateは'すべてが慶長丁銀とも或いは領国銀とも判定できないのである。また後にみるよ‑に忌日だけでな‑'銀の
含有率の異なった種々のbarp‑ateがあったようである。
註(1)DiaryofRichardCocks,LCape・merchantin‑heEnglishFactoryinJapan,)615・)62212vots.London.)883
本稿では主としてEdwqrdMaundeTh.mpsjによ
って編集されたHak‑uytSeries・本によったが'部分
的にはPeIかrpra‑‑・Historyoニapan.compiledfromtherecordsoEtheEnghtshEastIndiaCompanyattheInstanceoftheCourtofDirector.KoL)e.)931によった。1八二二年に相集された本番にはHaktuyt
版に記載されてない部分も載っている。また草稿の段階で
村上本(1八九九年村上直次郎氏が更に補訂して垂泉で刊
行した)をも参照した。なお原本は大英博物館の所蔵にな
るが'刊行本との比較検討については岩生成一氏の「リチ
ャード・コックス日記について」(神田博士迎暦記墓誌
学論集・昭和三十二年)に詳しい。(2)領国貨幣についての史料として'すでに紹介されている「灰
吹迫之国々より出申候灰吹丁銀に吹立申覚」は寛文八年の
昏上であり'また銀座苔留の「諸国灰吹位付」は元禄頃と
推定されている。なお拙稿「近世前期における領国貨幣に
ついて」(史料棺研究紀要・第一号)の中で寛文期の津軽
近世初期鋭北考(榎本) 銀について述べた。(3)各福での宿泊代、食事代'踊子・歌舞伎・道化踊などへ
の花代'傭人代から渡船料、親筆にいたるまで細かに記
してある。ちなみにハ一八年の夏'平戸から江戸に上っ
た時の各宿での常用は次のきっであった。
文00銭0074
分
金当1r: 000000002331 00000000日U==:
分'5
銀匁12299406009540=‖H
戸多閲見坂津
嗣
平博下伏大草 慕 5406633121
石 部
五 土 山
関の地蔵 薬 師
5463ll
名田鮒崎坂
鯉
石桑熟地岡赤
史料館研究紀要 銭
分 700文
200 200 20 0 300 20 0
1000 、
300 30 0 1000
000800003093685
銀㌘諾S"3 9
田松附川谷枝川河原原島根原磯川川部田奈
吉浜見掛金藤安駿蒲吉三箱小大神品(4)コックスが平戸を立って江戸に上ったのは前後三回に及
ぶ。江戸滞在はハハ年八月二七日から同年九月二六日
迄、ハ1八年十月四日から同年二月一八日迄'そして1六二l年一二月二八日から翌年三月十八日迄。(5)ハ一五年六月から同年九月までの四ケ月分が掲載されている。(6)現在(法政史学第二四号)1六1六年七月までの分が掲 六
載されている。(7)伊東多三郎「細川小倉藩の鉱山と貨幣」(「日本歴史」二四七号)(8)伊東多三郎「長州藩成立期の鉱山A]貨幣」(森克己博士還暦記念論文集r対外関係と社会経済J所収)(9)田谷博吉r近世銀座の研究二二九頁(10)例えば元和三年四月十二日の条に「右大筒ノ代銀‑‑‑
比内手付こ、丁銀六貫三百六拾目ノ代二上級六貫め、但京目こて渡申候」とあり'元和五年三月六日の条には「江
戸御着則明日占之御便銀請取申債分'灰吹拾貫目'是ハ丁
銀二替可申由」とあり、また寛永八年二月廿九日の条には「寛永七年正月朔日占同八年正月八日迄江戸御雑用金銀請
取御算用‑‑⁚但小判三百七拾仁両壱歩・丁銀拾六貫百八
十壱匁壱分壱厘・上銀百拾九匁九分・京銭千六百三拾六貫
首六十文‑‑」などとあり諸銀と区別された丁銀記載がみられる。(大日本古記録「梅津政景日記」)(11)Cocks.Diary.Vot.I.p.)59(1)PeterPratt.HistoryofJapan.VoI.tt.p.43
(1)r三貸図菜Jr金銀図録Jによれば「皇町殿時代銀」「加州花降銀」「石見挺銀」など量目四十三匁のものがあった。(14)郡司勇夫氏談'なお量目四十三匁以上の丁銀を大根と呼