保険の原理原則に基づく事業展開と 保険活用
⎜⎜ 保険金不払いから生命保険売買訴訟まで ⎜⎜
石 田 重 森
■アブストラクト
保険制度は,原理原則に基づいて組成され,その原理原則に則って事業経 営が展開されるはずである。
ところが金融・保険を取り巻く環境が大きく変動し,規制緩和の実施,自 由競争の激化,業界再編成の進展などの状況下にあって,保険事業の本来的 な理念から逸脱した現象が多く見られるようになった。保険金の不適切な不 払い,給付金の支払い漏れなどで,保険事業のコンプライアンスが厳しく求 められている。
一方,保険を活用する消費者・加入者サイドでも従来から問題とされてき た逆選択,モラル・ハザードに加え,生命保険の売却を希望し,生命保険買 取り業者の出現で,これが社会問題ともなり訴訟が行われた。この解決策の 一つが生前給付特約の拡充と考えられ,保険業界も検討する価値はあろう。
いずれにしろ,保険を提供する側も加入する側も,保険の原理原則に則っ た正しい活用が望まれる。
■キーワード
保険の正しい活用,生命保険売買訴訟,生命保険の生前給付
*平成18年1月14日の日本保険学会九州支部例会(福岡大学)報告による。
/平成18年12月25日原稿受領。
1.保険事業のコンプライアンスと保険の正しい活用
保険は,厳密な保険数理に基づく保険料率と緻密な保険法理とによって保 険商品として構成されている。これをベースに,信義誠実の原則に則り,給 付反対給付均等の原則を始めとする原理原則のもとに保険取引が行われ,保 険加入から保険金支払までの一連のプロセスが存在する。
こうした基本認識のもとに,保険学者・保険教育関係者は大学での講義を しており,保険学理・保険理論と保険事業・保険経営を関連づけて,総合保 険学から保険各論まで講述している。また保険事業の公共性や福祉性に論及 しつつ,保険思想の普及の一助に努めている。
ところが近年,保険事業をめぐりこうした基本認識に反する事態が多数続 発しており,保険業界はもとより保険関係学者,有識者は真剣に反省し,保 険事業のコンプライアンス,保険の正しい活用などにつき論議を重ね,保険 事業の正しいあり方を示して,国民の保険不信を払拭する必要が生じている。
生命保険,損害保険を問わず1企業・1業界の問題を超えており,不祥事 を起こした保険企業のトップが辞任したり,協会や企業の役員が頭を下げて 陳謝すれば済む問題ではないのである。
以前,生命保険協会長が顧客への責任について, 利便性や規制緩和,自 由化がよくいわれますが,それは倫理観や責任感,良心といった人間的な基 本が基礎になっての話です。(中略)責任を明確にしないと,社会全体が不 信感を持ちます。 (週刊東洋経済・臨時増刊2004.7.28)と述べ,原理原則の 再生,責任の自覚を強調していた。
保険企業は,原理原則に則した適正な保険事業を行い,保険加入者も保険 理解・保険認識を深めたうえで,正しい保険の活用をすることが求められて いる。
⑴ 保険金等の不適切な不払い問題
約款に基づいて保険事故の発生に際し,適正に保険金その他の給付金を支
払うのが保険であり,これだけコンプライアンス・法令遵守が厳しく言われ ている中で,生命保険事業・損害保険事業において大量・多額の保険金等の 不払いが発生したことに国民,保険加入者は不信を募らせている。
一般的に保険金支払いに際し厳正なチェックは必要であるが,営業の段階 で多少の問題があったとしてもそれは別に解決すべきことで,支払うべき保 険金・給付金を支払わなかったのは論外である。保険企業のコンプライアン ス体制はどうなっているのか疑問に思われる。
保険金等の不適切な不払いと支払い漏れは,生命保険に始まり,自動車保 険,火災保険さらに第3分野の医療保険へと広がった。生命保険の告知義務 をめぐる不払い,自動車保険・火災保険の特約での代車費用,見舞金,臨時 費用等手続き上のミスと支払い漏れ,医療保険の始期前発病による不払いな どが主要なものとされ,さらに火災保険での超過保険や割引率の不適用など による保険料過払いまで問題とされている。
いずれにしろ契約時の適正な対応と事故発生・保険金支払い時の適切な処 理が不十分なために発生した問題である。 単なる支払い漏れ とか 手続 き上のミス とかではなく,常態化しているのもあり,厳しく言えば,管理 体制の問題,構造上の問題として解決しなければ,保険加入者は納得しない し,国民の保険不信は解消されない。
ところで,これまで逆選択やモラル・リスクに関して,保険学者間にあっ て 情報の非対称性 論を援用して,保険加入者・被保険者は情報が多く優 位で,保険者・保険企業は情報が少なく劣位にあるとして理論的に論究する ことが多かった。筆者は,こうした考え方には賛同できなかった。なぜなら,
1対1の取引きならともかく,保険企業は極めて多数の人を対象として,さ まざまなリスクへの対応策を考え,告知義務や危険著増の通知義務など約款 に詳細に規定している。そこには危険度の高い対象も保険に加入することを 前提に,標準下体保険やメリット・デメリット制など危険度に応じた保険料 率を採用し,あるいは契約解除権を保険者に認めるなど,種々の予防策を採 っているはずだからである。
今回の保険金等の不払いは,その逆で保険者に情報が多く,被保険者・保 険加入者に情報が少ない状況の中で発生した。保険加入者に情報が十分にあ れば,保険金・給付金の支払い請求も可能であり,こうした意味で保険企業 による情報公開・情報開示そして説明義務の履行が強く要請される。
リスク発生時の経済的保障のために,長期間にわたって保険料を支払い続 けて,保険事故発生後に保険金等支払ってもらえないのでは保険の機能が果 されない。保険商品の複雑化で,保険企業の社員が理解できていなかったと か,支払い査定部門の未整備などが言われたが,保険企業におけるコンプラ イアンスの軽視,ガバナンスの欠如と指摘されても仕方あるまい。保険企業 は経済的強者であり,保険加入者は弱者とも言われてきたが,加入者も約款 を良く理解し,保険内容の認識を深め,保険金等の不払いを防ぐ方策を講じ ることも大切で,保険教育・保険思想の普及が重要なことが示された。
⑵ 保険販売をめぐる諸問題
まず,個人年金保険の銀行窓口販売に際して,販売時の説明不足の問題 である。生命保険の銀行窓口販売が盛んになるにつれ,後日苦情が多数発生 し,銀行および生命保険会社ともトラブルが増加している。とくに個人変額 年金保険で,運用成果によって元本割れのリスクが加入者負担であることが 周知徹底されず,トラブルとなることが多い。
その理由は,①銀行は顧客として高齢富裕層を対象としており,高齢な顧 客が変額年金保険の理解不足であったり,銀行の売る商品は元本保証と思い 込んでいる,②銀行の担当者が変額年金保険を扱い慣れてないため,リスク の説明が不十分であったりする。
高齢顧客に関しては,リスクの説明と同時に家族への説明も必要とされ,
この二つの要件が必須とされている。ところがこの2要件さえ満たせば良い とのことで,中には80歳を超えた後期高齢者に10年運用・据置の個人年金を 販売している例もある。銀行では説明要件は満たしており,相続に活用する からとしているが,それなら相続用の保険を販売する方が適切である。
銀行窓口販売担当者の教育の強化,研修の充実,正しい保険活用のための 販売が望まれる。
つぎに,火災保険における超過保険の問題である。
通常の火災保険では,保険価額は火災が発生した時・場所で査定されるが,
契約はそれ以前に締結され保険金額が定められる。実際には,住宅の新築 時・購入時に火災保険に加入し,毎年の更新時には,建物は年数が経過する につれ減価するのに,保険金額は以前のままにしておくことが圧倒的に多い。
こうして超過保険が常態化してしまい,火災が発生して始めて超過保険と判 明し,超過部分は無効,当該年度前の超過部分の保険料は過払いとなってし まう。
火災保険加入時・更新時の適切な説明と対応が必要であり,これは火災保 険加入者への大切なサービスであろう。
また超過保険の改善策としては,特約による新価保険や価額協定保険をさ らに改良して,火災保険ではすべては再調達価額を支払うようにするのも一 つの方策であろう。
さらに問題となるのは,新規加入時の営業社員や代理店の対応である。
保険会社の中には,新規加入に際して,病歴・前歴を告知しなくてよいと か,簡略に記入させて,死亡保険や医療保険に加入させ,その後の保険事故 発生に際し,査定を厳格にして告知義務違反とか始期前発病の免責事由によ り,保険金や医療給付金を支払わない事例が続出した。
また,新規契約勧誘に際して,初回の保険料立替販売など違法な行為も行 われた。
コンプライアンスの問題であると同時に,モラルの問題でもあり,ここで も教育・研修の強化が求められる。
モラルの問題と言えば,信販会社とクレジット契約を締結したり,消費者 金融から借りる際に,顧客に生命保険に加入させ,信販会社や消費者金融会 社が受取人となり,顧客・消費者が死亡した場合に返済額に充当する事例も 多数発覚した。中には自殺をした例もかなりあって, 命が担保 の生命保
険として問題とされた。発覚当初は金融庁も生命保険加入を顧客・被保険者 に同意を確認するよう指導していたが,世間の批判も強まり,後にはこうし た生命保険を廃止するよう検討された。金融庁もさることながら,生命保険 会社がこうした契約を引き受けたことは大きな問題である。かつて,生命保 険会社が消費者金融に多額の融資をし,役員を送り込んだ後,監督官庁から 問題とされ廃止したこともあった。
保険業界は,こうした問題で後手・後手にまわることが多いが,生命保険 が悪用された例であり,適正な保険の活用を常に心懸けていればこうした事 態は発生しないはずである。
2.生命保険売買に関して
⑴ 生命保険売買訴訟
発端は,生命保険の加入者が がん を宣告され,治療費や生活費を得る ために加入していた生命保険=死亡保険を第3者である生命保険買取業者に 売却することを希望した。売却のためには,生命保険契約の契約者ならびに 保険金受取人の変更が必要で,その変更申請をした。殆どの生命保険会社は,
契約者等の変更に関し会社の同意・承諾を約款で定めているからである。
この契約者と保険金受取人の変更申請に対し,加入していた生命保険会社 は, 被保険者が役員や従業員としては帰属しない法人への契約者変更手続 きは取り扱っていない として買取業者への契約者変更を拒否した。
これに対し当該契約者は,米国では1980年代以降,約半数の州でViatical Settlements・生命保険買取り事業として普及していることを引き合いに提
訴した。
1審での裁判では, 生命保険が売買の対象となると種々問題が生じる可 能性がある。米国では不当に安く買い取られる危険性も指摘され,保険会社 の同意拒否は不当とは言えない として契約者の請求を棄却する判決が下さ れた(平成17年11月17日東京地裁)。
同判決では,①名儀変更に同意するかどうかは保険会社の自由であり,②
保険金の支払いを請求する権利を担保に融資を受けることも可能であると附 言し,さらに, 生命保険の売買が患者にとって有効な方法となり得ること もうかがわれ,今後是非について議論を尽くすべきだ とも指摘した。
当該の生命保険売却申込みの背景には,契約者・被保険者は終末期のがん 患者で治療費に困窮しており,①保険継続のための保険料支払いに支障があ る,②保険を中途解約すると解約払戻金は極めて少額となる,③リビング・
ニーズ特約は,余命が6ヵ月以内と診断されれば生前給付金が支払われるが,
余命診断が6ヵ月を超えると支払われない,などの事情から生命保険の売却 を希望した。
生命保険の売却が容認され,成立すれば,患者である被保険者は,おおま かな余命期間に応じた代金を受け取り,以後新しい契約者となった買取り業 者が保険料を支払い,被保険者=原契約者が死亡すれば死亡保険金が受領で きる。
ただし,生命保険買取り業者の求める条件も厳しく,
① 加入している生命保険会社のソルベンシー・マージンが一定以上であ ること
② 生命保険の加入期間が5年以上経過していること
③ 民間生命保険と簡易保険のみを対象とする
④ 被保険者が病気で終末期であるとの医師の診断が必要なこと
⑤ 家族ならびに相続人全員の合意がなされていること 等の条件をすべてクリヤーする必要がある。
なお,訴訟の事例では60歳以下の末期患者に限定しており,加えて5年以 内に被保険者が死亡した場合には,買取代金に上乗せして逓減的な弔慰金の 支払いも契約内容に含まれている(図1+α参照)。
なお,この生命保険売買訴訟については,1審判決後に高裁判決(平成18 年3月22日)ならびに最高裁判決(平成18年10月22日)においても生命保険 売買は認められなかった。
⑵ 生命保険売買の問題点と今後の課題
生命保険売買そして生命保険買取りビジネスをめぐって,次のような問題 点を指摘できる。
生命保険は,保険者・保険会社と契約者・被保険者との契約・取引で,
契約者が前もって保険料を支払い,被保険者の身体・生命が害された場合す なわち保険事故が発生した際に,保険者は保険金を支払うのである。その保 険料は,厳密な保険数理に基づいて算出されている。生命保険制度として,
契約者・被保険者は他人のためでなく,まず自己・家族のために生命保険に 加入するが,結果として保険団体が形成され,相互扶助的な機能が働くので ある。
生命保険を第3者の買取り業者に売却することは,買取り業者が利益のた 図1 生命保険売却申込みと裁判
めに行う業務に加担し,生命保険の本質から逸脱した,異質な売買・取引と なってしまう。
生命保険契約で家族以外の第3者を被保険者とする場合には,犯罪を防 止するために被保険者の同意を必要とするように,倫理・モラル面での制約 がある。買取り業者は,新たに契約者となって保険料を支払うことになるが,
被保険者とは第3者であって,倫理・モラル面での制約の 外である。
さらに,末期患者である被保険者は,経済的弱者であり,買取り業者や仲 介業者から不当に安い価格での買取り・売却を強要される可能性もある。
米国の場合には,買取り業者がさらに別の投資家に転売したり,証券化 して利益を上げたりすることも多く,生命保険証券・生命保険契約が保険と は異なった単なる金融商品として取引きされてもいる。
ここにもまた,モラル・リスクの発生,犯罪誘発の恐れも生じている。
細部にわたるが,買取り業者が 死亡保険金の一部を支払う とパンフ レットに謳ってあるが,保険業法で認められた保険会社ではないので 死亡 保険金の一部 という表示は正しくない。買取り価格の代金とも考えられ,
監督官庁の公正な規制が望まれる。
ところで,終末期の患者が自己の加入している生命保険を売却することは,
患者救済の有効な方法ともなり得るので,生命保険の売却・買取りに関して 議論を尽くすべきと1審判決でも指摘されている。生命保険売却ニーズが顕 在化し,外資系生命保険会社を中心に,米国で市民権を得ている 生命保険 買取りビジネス が,望ましいとは言えないが,日本で将来的に認められる 可能性が全くないわけでもない。
そこで,もし生命保険買取りビジネスが認められることがあるとしたら,
買取り業者やその市場に関してどのような法整備や規制が必要なのか考えて おくことも大切であろう。その際重要な視点は,契約者・被保険者の保護で あり,終末期患者の治療や生活に関し,生活の質の向上に役立つことである。
それに生命保険事業の適正な遂行を妨げない範囲でということになろう。
① 生命保険の買取り業者を免許制などで指定し,悪質・悪徳な業者の参
入や関与を厳しく排除する。
② 買取り価格については,保険数理に基づき余命年数に応じた適正な標 準価格を設定し,不当な安値取引きを禁止する。
③ 余命年数に関しては医師の診断が不可欠であり,医師・医療機関の協 力が是非とも必要である。
④ 買取り価格は,保険金額の範囲内で,しかも最高限度額・制限金額の 設定も必要である。
⑤ その他契約者・被保険者の年齢や家族構成・生活状況なども考慮の対 象となろう。
⑥ 米国のように,さらに転売を認めるかどうかは極めて難しい問題であ るが,これは生命保険買取りビジネスの次の課題であろう。
さて, がん などの終末期患者に対する方策として,一つは,生命保険 証書や保険金請求権を担保として,金融機関による融資制度は成り立たない かどうか,検討の価値はあろう。二つ目には,保険会社は3大疾病や特定疾 病について,医師による病名診断・告知後に保険金の一部前払いや特別給付 金を支払うようにできないものであろうか。こうした医療保険・特定疾病保 険の開発や,特約による弾力的な保険金支払い方法の考案などが求められよ う。勿論,支払い保険金・給付金の上限設定や保険会社の診査医を含めた複 数医師の診断を必要条件とするなど,種々の条件整備を前提としてのことで ある。
三つ目は,リビング・ニーズ特約・生前給付特約の拡充と弾力的運用であ り,これについては次に詳述する。
3.生命保険の生前給付
⑴ リビング・ニーズ特約
高齢社会・長寿社会の進展のなかで,公的な医療保険に関し自己負担・患 者負担も増え,また高度先進医療や新しいがん治療薬など公的医療給付の対 象とならない医療もあり,これらを補完するために民間の医療保険,医療費
用保険,特定疾病保険などが広範に普及している。なお,公的医療保険に関 し,混合診療の解禁拡大が求められ,少しずつ実施もされている。
こうした中で,10数年前から生命保険会社は,死亡保険金のリビング・ニ ーズ特約,生前給付特約をつけた保険商品を販売してきたが,この生前給付 をめぐり医師の余命告知を中心に,種々の問題が発生しており,本来の主旨 が十分に活用されていない嫌いがある。
この生前給付特約は,定期保険,長期生活保障保険,終身保険,養老保険 など多くの生命保険に,特約として付加するもので特約保険料は必要としな い。そして,がん,エイズなどの疾病で末期症状にある患者・被保険者が,
余命6ヵ月以内と診断された場合に,3,000万円を限度として死亡保険金の 一部または全部を生前給付金として存命中に支払う特約である。
もともとは,米国でエイズ患者・HIV感染者が発病後,残りの余命期間中 により高度で十分な治療を受けたいとか,尊厳のある死を迎えたい,あるい はいくらかでも子供にお金を分けてやりたい,といった希望に応えるために 開発されたものである。じつは,こうした希望を叶えるために,前述した生 命保険買取りビジネスが出現したことに対抗して,生命保険会社がリビン グ・ニーズ特約を考案した。
わが国でも1990年代に,米国でのリビング・ニーズ特約の普及をみて,生 命保険会社が生前給付特約を売り出し,ある程度の契約数に達している。そ れは,特約保険料なしで高度先進医療の治療が受けられたり,他の医療費や 生活充実費の一部に充当できるということから需要が増大したようである。
保険とは別に,終末期医療のあり方もさまざまに論議されており,長寿社 会にあって公的医療保険を補完する生前給付つきの民営医療保険の意義は高 まるであろう。
現在一般的となった がん保険 でも,当初日本の保険会社が売り出した 際にはあまり注目されなかったが,米国の保険会社が独特のマーケティング 手法で売れ行きを伸ばしたのと同様のようである。しかも第3分野保険とし て医療保険・医療費用保険が関心を集めていることもあって,生前給付特約
付きの生命保険加入者が増加しているのであろう。
ところで,実際の生存給付金の支払いをめぐって,医師の余命診断・余命 告知という大きな壁があって,思った程スムーズにはいかないようである。
わが国では,生前給付金の支払われたケースの約95%が がん の末期患 者で,米国とは異なりエイズ患者は少なく, がん の病名告知が難しい上 に,給付の条件である余命6ヵ月以内の診断・告知が極めて難しいのである。
医師は,余命6ヶ月以内の告知に非常に慎重であるため,生前給付金の支払 いに至ることが少なく,生前給付特約の主旨が生かされていないことも多い。
⑵ 余命告知をめぐって
通常の生命保険では,死亡,生存を条件として,確定した事象に対し保険 金が支払われるが,生前給付特約では余命6ヶ月以内という診断で不確定な 事象に給付がなされる。もっとも死亡保険金の前払い,しかも利息を割り引 いての前払いと考えれば,保険会社としては採算が採れる。
ところが,生前給付のために保険者と被保険者以外すなわち保険契約当事 者以外の第3者である医師の余命診断・余命告知が必須条件とされ,医師の 果たす役割が極めて重要とされる。
実状では,医師・医療機関サイドでは,これに慎重な姿勢であり,医師は 患者との信頼関係が損なわれることを懸念し,また医療機関では多くの患者 のなかで特別扱いをすることを好まない。医師にとっては,確実に余命6ヵ 月以内と診断して告知できるのかどうか,心理的負担感も大きく,プレッシ ャーがかかる。末期患者は少しでも早く,元気なうちに生前給付金を受け取 って,高度な治療を受けるとか新薬を使った治療をすることや自分の望むこ とを果たして安らかな最期を迎えたいと願うからである。
ところが6ヵ月以内の余命診断は非常に微妙で,医師の方は慎重な姿勢を 崩さない。余命3ヶ月以内なら精度も高く,診断書に自信をもって記名・捺 印できるという。だが3ヶ月の余命・最末期で給付金を受け取っても遅く,
殆ど何もできない。こうして生前給付特約の本当の活用が妨げられている。
わが国でも, がん などの病名告知は徐々に増加する傾向にある。疾病 の種類や患者の性格・心理状態さらに家族状況などによって異なるが,患者 は,ある程度察知すると,余命期間を充実して生きたいとの希望をもち,他方 ではインフォームド・コンセントの考え方が浸透してきたからであろう。
なお,生前給付特約では,指定代理人請求制度を設けてあり,実際に給付 のなされたケースのうち,指定代理人に告知がなされていることが多い。
米国では,ターミナル・ケアを受けるためホスピスに入所する際,余命診 断が義務づけられるなど余命告知も日本よりは一般的なようである。とはい え,告知された患者が当初大きなショックを受けるのは日本でも米国でも同 様であり,だからこそ,その後の精神的・心理的ケアが大切であり,臨床心 理士の果たす役割は大きい。
また,米国のリビング・ニーズ特約では,余命12ヶ月以内で給付金や貸付 金が支払われるのが約70%で,1年以内が一般的な点は日本より条件が緩や かである。余命12ヶ月以内の診断は,不確実要素がより多くなり難しい点も あるが,その代わり医師に厳密さを求めたり負担を課することはない。12ヶ 月以上延命の場合には保険金を一部減額したり,割引利率を高くするなど保 険の仕組みの中で解決するようにして,医師の心理的負担感を緩和するよう にしている。生前給付金によって,高度な治療をしてもらったり,新薬のお 蔭で,精神的にも安定して,診断より延命するケースは十分考えられ,まさ にリビング・ニーズ特約・生前給付特約の効果でもあるからである。
こうした米国での事例は,わが国でも見習い,取り入れるべき点も多いは ずである。
わが国では,生前給付特約をめぐって,医師も保険会社も適用に慎重で,
大いに活用されている状況ではない。ただし今後は,生前給付金を利用・活 用したいとのニーズは増加すると考えられ,前述の生命保険売買訴訟の問題 もあり,生前給付特約を前向きに取り組むべきであろう。社会問題として,
医師・医療機関にも十分に理解・認識してもらう必要があるし,保険会社も 商品内容の改善や弾力的な運用に努力すべきであろう。
すなわち,余命告知の6ヶ月以内を12ヶ月以内と条件を緩和するとか,給 付金について6ヶ月以内で5割,12ヶ月以内で3割にするなど,余命期間と 給付金のリンクした段階を設けるなどの工夫が考えられる。また,余命診断 に差異が生じた場合も,保険の方で対応して,医師のプレッシャーを和らげ るなど,この特約の主旨を生かすようにすべきである。
保険会社にとっては,近い将来支払うであろう死亡保険金を,少し時期を 早めて,利息分を割り引いて支払うのだから損失にはならないはずである。
末期患者への福祉,保険サービスの拡充となって,保険への信頼が増大し,
新たな需要増加・新契約の増加にも結びつくことになるはずである。
がん患者などのターミナル・ケアをどうするか,その際の費用をどう賄う かなど,まさに保険の効用発揮の場であり,生前給付特約の大きな魅力でも ある。
民間生命保険に,医療・医学の余命診断・余命告知の問題が絡むのである が,他に長期介護給付型保険でも保険事故・保険給付をめぐり同様な問題の 発生も考えられ,保険業界全体として取り組むべき課題と思われる。
(筆者は福岡大学商学部教授)
<主要参考 献>
石田重森 生命保険の理論 東洋経済新報社,平成3年4月
石田重森・石田成則 自由競争時代の生命保険経営 東洋経済新報社,平成9年 12月
石田満 保険業法 損害保険事業総合研究所,平成8年12月 江澤雅彦 生命保険会社による情報開示 成文堂,平成14年3月 庭田範秋 新保険学総論 慶應通信,平成7年9月
宮澤健一 制度と情報の経済学 有斐閣,昭和63年10月 吉澤卓哉 保険の仕組み 千倉書房,平成18年5月
週刊東洋経済 臨時増刊 生保・損保特集 2004年版,2005年版,2006年版