カボタージュと船の国籍 : 海運政策の法制的側面
その他のタイトル Cabotage and Ship's Nationality : Legal Aspect of the Shipping Policy
著者 東海林 滋
雑誌名 關西大學商學論集
巻 28
号 1
ページ 154‑186
発行年 1983‑04‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00020804
154(154) 関西大学商学論集 第2礫 第1号 (1983年4月)
カボタージュと船の国籍
ー 海 運 政 策 の 法 制 的 側 面 ー 一
東 海 林 滋
目
I I
皿
l V 次 はじめに カボクージュ 船 の 国 籍 おわりに
ー は じ め に
われわれが海運を学ぶ場合,いわゆる国際物流の主軸をなすものとしてこ れを捉え,いわば「世界海運」として客観的な分析を目指す立場もありうる し,それももちろん重要ではあるが,しかし,他方,わが国の国民経済の成 り立ちゃ,現実にわが国の海運業が1つの産業としてその一翼を担っている 事実に注目するならば,この場合の関心が,おのずから日本海運業,あるい やや古めかしい表現ではあるが「日本商船隊」の現状と今後の見通しい かんを離れ得ないのも,また当然のことといえよう。日本の海運業を通して 世界の海運を眺めるとき,われわれは,よりいっそう確かに後者の現実と動 向を理解し得るのである。
その「日本商船隊」とは今日何を指すのか。およそ10年程前ま は,
ところで,
このような問いを発する必要はなかったし,事実誰もそのようなこと はいわなかった。日本商船隊とは日本船の集団であり,日本海運業は日本船 では,
カボクージュと船の国籍(東海林) (155)155 を運航している企業の集団であることがはっきりしていたからである。いう ならば, 日本船と日本商船隊と日本海運業とは「三位一体」であった。しか し,今日ではそうではない。仮に後の2つをくっつけて,日本海運業の運航
(1)
している船隊を日本商船隊だというならば,日本船は日本商船隊の中核をな すものであっても,逆に日本商船隊は日本船で構成されている,とはいえな いのである。
そればかりではない。多くの人は,日本船には日本人が船員として乗って いるものと普通考えている。ところが,昨 (1982)年1月 (15日)にフィリ
ピンのミンダナオ島沖で同国空軍機の銃撃を受けた「へっぐ」は,船長は日 本人であったが,他の船員の多くはそうではなかった。しかも,船籍は日本 にあるという。つまり,れっきとした日本船である。日本船は,乗組員全員 が日本人でなくてもよいのか(法律上は,後程述べるように,日本人が1人 も乗っていなくても,日本船でありうる)。新聞の報道では, このように外
(2)
国人船員の乗っている日本船のことを「マルシップ」と称している。そもそ も,「丸シップ」あるいは「丸ボート」とは, 通常船名に「丸」を付けてい
(3) ・・
る日本船の別称ではなかったか。それなのに,マルシップ「へっぐ」とは一 体どういうことなのか。たしかに,今日の海運は,船の国籍と船隊の構成か (1) 最近では,政府の「海運白書」がこういう概念規定の仕方をしている。たとえ
ば,「日本海運の現況」(海運白書), 1982, 12‑13, 43ページ。
(2) 「へっぐ」事件と「マルシップ」については,「朝日新聞」1982.1.19, 2.10な どを参照。
(3) 「丸シップ」 (Maru‑ship)は, 戦前外国人が日本船につけた呼び名である。
戦前は,日本船は例外なく船名に「丸」をつけていた。これは,明治33(1900) 年に船舶法取扱手続に関する通達によって,「民間所有の船舶には丸をつけるこ とが好ましい」とされたことによる。また,この通達は,日清戦争後外国航路の ある商船に宛てて乗組員の家族から打った電報が,銚子無線局から問遣えて同名 の軍艦に届けられ,ちょっとしたハプニングを生じた結果,以後軍艦との区別 を明らかにする必要が重視されて,このような通達が出された,という。高梨正 夫「海法講義:主要国内法編」
. . . . . .
1.
97.
9,.
9‑10.
ページによる。今日では, 「丸」を つけない日本船は,マルシップでなくても多い。156(156) 第 28巻 第 1 号 らして複雑である。
いささか,学術論文にふさわしくない,いかにも素人向けの書き出しでは あるが,実は,私はここ数年,大学での講義を始めるに当たって,まず船舶 の国籍から説明することにしている。いま,その背景にある問題意識を要約 すると,ほぼ以上のようなことになる。しかし,船舶の国籍というような問 題は,本来海商法ないし国際法の問題であって,われわれが正面から取り上 げるのにはいささかふさわしくない。すぐにボロを出すのではないかという 危惧が,余りにもつよいからである。
そこで,本稿では,同じような問題をひっくり返して,まず自国船に与え られる沿岸航路独占(カボタージュ)の特権から入って,この特権を享受し うる船の国籍は,一体どのような条件によって付与されるのか。そして,そ れに関連して今日どのような問題があるのか。そういったことを,つまり,
海運政策の手段としてのカボタージュとそれに伴う船の国籍の問題を,多少 歴史的な変化・発展ひいてはそれらの経済的背景といったものを考えなが ら,論じてみたいと思う。ただし,そのために叙述が多分に啓蒙的なものと なり,またいたずらに紙幅を費やして,現下の問題には及び得なかった。こ れらの点をここでお詫びしておきたい。
II カ ボ タ ー ジ ュ
1. "cabotage"の語義と法制上の概念
辞書によると, cabotage'はおそらくスペイン語の cabo",すなわち,
英語の cape"(岬)から来ている,といわれる。岬から岬へ,陸地を見失 なわないように陸岸に沿って航海する。 それが, フランス語の動詞の ca‑ boter"であって,そこから cabotage"が出来,英語はそれを借りてきた,
(4)
というのである。必らずしも語源にこだわる必要はないかもしれないが,要 (4)研究社「新英和大辞典」第5版, 1980年。また同書によると,英語の文献にこ の語が初めて現われるのは, 1831年のことであるという。意外と遅いのである。
フランス語がもとであるから,ここでは少し気取って,フランス語読みに「カポ
カボクージュと船の国籍(東海林) (157)157 するに「カボクージュ」とは,もともと「沿岸航海」 (coastalnavigation) あるいは「沿岸貿易」 (coastingtrade)または「沿岸輸送」の意味である。
しかし,海運政策の問題として,あるいは一ーしたがって一一国際法上の 用語として問題となるのは,この語が単に「沿岸輸送」というよりも,すす んで「沿岸輸送独占(の権利,または制度)」を意味する場合である。つま り,今日では世界の海洋国家の多くは,自国の沿岸航路を排他的に自国船に 留保しており,したがって,外国船が自国のある港から他の港へ貨物や旅客
(5)
を輸送することを禁止している。 このような制度を「カボター9ジュ」とい う。また,このような制度を規定した法律が cabotagelaws"である。
たとえば,わが国の場合,明治32(1899)年制定の船舶法において,その 第3条に「日本船舶に非ざれば日本各港の間において物品または旅客の運送 をなすことを得ず」と定めている。この場合には,もはやもともとの「カボ クージュ」が意味した「沿岸」という限定は考えられない。北海道から沖縄 へ直航する場合でも,この規定の対象となることは明らかだからである。要 するに,カボタージュはいわゆる「国旗差別」 (flagdiscrimination)の一 種であり, 広い意味での「航海条例」 (navigationacts)の一部だといって
もよい。
それでは,本来「陸地沿いの航海」という意味であったカボタージュが,
海運法制上の概念として用いられるとき,一体どのような経緯を経て拡大・
変質していったのであろうか。われわれは,その説明を代表的な国際法の書
タージュ」と書く。なお,カポクージュの語源について,佐波宣平博士の「海の 英語一イギリス海事用語根源一ー」 1971, 85‑86ページには,この他の面白い 話が紹介されている。結局「語源が定かでないため,種々の臆説を生んでいる」
とのことである。 しかし,後に述べる Jantscher,infra, p. 45, n.1などもこ の説を採っているし,あとあとの説明のためにもこの説の方が都合がよいので,
ここではそうしておく。
(5) 航空機についても同様に「カボクージュ」がいわれる一aircabotage。吉永 栄助・坂本昭雄「最新国際航空法要論」増補改訂版, 1976, 81‑88ページ。
158(158) 第 28巻 第 1号
(6)
物に求めることができる。すなわち,つぎのようである。
カボクージュは,はじめは,同じ国の同じ海岸にある港の間で,人や貨物 を船で輸送することを意味した。このような,いわば文字通りのカボクージ ュは,早くから沿岸国の船舶だけに許された。ところが, 1793年の航海条例 (I'Acte de navigation)において, フランスは,同じ国の同じ政治的地 域にある港の間で, 人や貨物を船で輸送することもカボクージュであると し,これをフランス船舶だけに許した。つまり, 地中海側のマルセーユか ら,大西洋側のルアーブルまでの輸送も,カボクージュの対象とされたので ある。そして, このように拡大された意味でのカボクージュを「大沿岸輸 送」 (grand‑cabotage)といい, それまでのものを「小沿岸輸送」 (petit‑ cabotage)と称した。
他方,アメリカでは, 1817年にやはり航海条例 (navigationlaws)の一 部として,最初の沿岸航路法が制定されている。すなわち, 「その全部また は一部を外国人が所有する船舶に積載されて,合衆国の甲港より乙港へ運搬
(7)
される商品は,これを没収する」というのである。しかし,この時期,アメ リカは太平洋岸に一片の土地も有していなかった。ただ, メキシコ湾にわず かばかりの海岸線を有していたにすぎない。ところが,その後アメリカの領 土がつぎつぎと拡大されるにつれて,この法律は次第に重要な意味をもつよ
うになった。
すなわち,メキシコと戦争の結果, 1848年にカリフォルニアがアメリカの (6)横田喜三郎「国際法. II」(法律学全集56)新版,1972,54‑56ページ。蛇足な がら, 1793年はフランス革命の最中で, この年の1月にはルイ16世が処刑され た。クロムウエルの航海条例を連想させる立法時の政情ではある。
(7) 佐波宜平訳:ボール・マックスウェル・ジェース著「アメリカ海運政策」 1943 年, 61ページ。以下, その61‑65ページを参照。佐波博士の「海運理論体系」
1949年, 251‑55ページにも, アメリカにおけるカポクージュ概念の拡大の過程 が巧みに要約されている。ただし, Zeisの原著では cabotage"の語は使われ ないで, coastaltrade"とか coastal(trade) monopoly", "coastal act(また はlaw)"となっている。
カボクージュと船の国籍(東海林) (159)159 領土となり,しかも同年そこに金鉱が発見されると,人ぴとは争って西へ向 かった。パナマ地峡を横断して東西に二分された航海も,はるばる南アメリ
(8)
カの南端を回る航海も一一つまり,荒野を幌馬車で突走る以外は一ーすべて この法律の対象とされたのである。ついで1867年, 当時のロシアから (720 万ドルで)アラスカを購入すると,翌年の法律で,アメリカはこの飛び地と の航路をもカボタージュに組み入れた。これらの段階では,アメリカは「北 米大陸に属し, かつ共通の政治制度を有する領土にこれを適用するのであ る」と説明し,そう説明することによって「曲がりなりにも理窟をとおすこ
(9)
とができた」のである。
しかし, 1898年に,米西戦争の結果フィリピンとプエルトリコをスペイン から譲り受け,また同じ年にハワイを手に入れると,アメリカは1898‑99年 に , ハ ワ イ と プ エ ル ト リ コ の 航 路 を も カ ポ タ ー ジ ュ に 含 ま せ る こ と に し た
(フィリピンについては,種々の事情により, 1946年に独立するまで事実上
(10)
カボクージュから外されていた)。要するに, 同じ国の港の間であれば,た とえ異なる政治的地域の間でもカボクージュだ,というのである。プエルト (8)有名な「フライング・クラウド号」が帆船史上不減の快走記録を樹立した
(1851年)のも,この航路である。杉浦昭典「大航海前代—快速クリッパー物 語一」中公新書, 1979, 66ページ。
.(9) 佐波訳:ジェース「前掲書」61‑62ページ。なお,アラスカが準州となったの は1912年のことであり, 1959年に第49番目の州に昇格した。
(10)講和条約において,批准後10年間 (1909年まで)はスペイン船に対してアメリ カ船と同じ条件でフィリピンに入港することが認められていた。また,当時すで に佐波博士のいわゆる「第1型」に転落していたアメリカの商船隊をもってして は,カボタージュの強行はいたずらに運賃の上昇をもたらすだけであった。そし て,何よりも「太平洋の彼方7,000マイル遠隔の属領との貿易を coastaltrade"
と断定するのには,あまりにもたくましい想像力が必要であった。」佐波訳:ジ ェース「前揚書」63‑64ページ。 1908年,膜会はフィリピンをカボクージュから 外した。 1920年の商船法(ジョーンズ法)において,大統領はこの航路を宣言に よって米国船に留保する権限を与えられたが,それは1946年に至るまで行使され なかった。 GeraldR. Jantscher, Bread upon the Water: Federal Aids to the Maritime I叫ustries,Washington, D. C., 1975, p. 47, n. 6.
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リコ航路に関連したある係争に関して,最高裁はこの点について何ら異議を 唱えなかった。つまり,「これらの沿岸輸送法規は, すんなりと国旗に従っ て,新しい植民地に拡大されていった (thecoasting laws duly followed
(11)
the flag to the new colonies)」のである。
このようにして,カボクージュは,アメリカの領土の膨張とともにその概 念が拡大され,いわば「ウル.トラ・グラン・カボクージュ」ともいうべき,
「最広義の沿岸輸送」(横田)を意味するようになった。' そして, アメリカ がこのような政策を採ーったとき,他の国でこれに反対するものが少なくなか ったけれども,その後,結局は他の国もこれにならうようになった。たとえ ば,日本の場合, 1899年に上述のように船舶法で大沿岸輸送主義を採ったの であるが,その後, 1911年に大蔵省は,大連も「日本の沿岸線にある」とし た。 1925年には逓信省は,日本内地と大連・台湾•朝鮮・樺太・委任統治地
(12)
域との輸送は「沿岸貿易に属する」と声明した。戦前の日本も,最広義のカ ボクージュを採用したのである。
2
.
カポタージュと航海条例上記アメリカの1898‑99年の立法について, P. M.ジェースはつぎのよ うに述べている一「かくして,クロムウエル時代のイギリス,コルベール 時代のフランスにおける重商主義政策とほとんど同じ政策がここに再現され
(13)
た」と。これら重商主義政策の中心をなすものは,いうまでもなく航海条例 であった。
ところで,航海条例は,もちろんクロムウエルのそれ (1651年)が有名で ーはあるが,それとほとんど同じものは,ィギリスでははるか以前から存在し たのである。そのもっとも古いものは,かの百年戦争中エドワード 3世の出 した法律 (1368年)で,フランスにおけるイギリス領ガスコーニュのぶどう 酒の積み取りは,イギリス船に優先すべきことが定められた。さらに,つづ
(11) Jantschef, ibid., p. 47.
(12)横田喜三郎「前掲書」55ページ,注3。 (13)佐波訳:ジェース「前掲書」62ページ。
カポクージュと船の国籍(東海林) (161)161 くリチャード2世の治世 (1381年)には, 「いかなるイギリス国民も, イギ リス船以外の船舶をもって商品を輸入すべからず」と定められた。 もっと も,当時の事情から,これらが完全に守られたわけではなかったが,それは ともかくとして,後の航海条例に匹敵する政策はすでに中世の頃から存在し
(14)
ていたのである。
そこで,ここで改めて海運政策の方法について,佐波宣平博士の示された
・ (15)
分類を表示すると,それはつぎのようになる。
海運政策の方法 {法制による特権の付与 金銭的給付による補助
{
a)一般的航路独占(1) 航路独占 b)植民地航路独占 法制による特権/ C)沿岸航路独占
l ( 2 ) 差 別 取 扱 { : : : : : : ] : :
C)
そ の 他 差 別 取 扱
この分類にしたがえば, 1368年の法律は,当時の政治情勢からすれば,植 民地航路独占というよりはむしろ沿岸航路独占‑後世のいわゆるグラン・
カボクージュー_ーに属するものと思われる。それに対して, 1381年のそれは 勇敢にも一般航路独占を企図したものであった,といえよう。クロムウエル やチャールズ2世 (1660年)の航海条例が植民地航路の独占を主眼としたも のであったことは,いうまでもない。この間, 1562年には,エリザペス女王 のもとで明確な沿岸航路独占の法律が制定されており,それはクロムウエル やチャールズ2世の航海条例にも引きつがれ, 1849年にいわゆる航海条例が 廃棄されたのちにも生き延びたが,ついに1854年に至って廃棄された。
(14) この点も佐波博士の諸論文に詳しいが,私自身もかつてトン数制度の生成に事
よせて,•その略史を述べたことがある。拙著「海運論」 1971, 13‑16, 17‑19ペ ージ。
(15) 佐波
n
里論体系」 236, 240ページ。162(162) 第 28巻 第 1 号
佐波博士によれば,それは一切の保護政策を放棄—硯代風にいえば,す べての国の船舶に市場を開放ーーして,あえて第3型の海運に脱皮しようと
(16)
するイギリスの積極的な海運政策の現われであった。この点,すでに述べた ように,第1型のアメリカがカボクージュに汲々とし,他方,対外航路にお いても,国旗差別による貨物優先積取制度を海運政策の重要な柱としている
(17)
のと,まさに対照的である。
それはともかく,要するに問題は,国を異にし,時代を異にすることによ って,政策の考え方あるいはそこで用いられる概念そのものが内容的に変化 するという,およそ古今東西の歴史に共通して見られる特性が,この場合に も見られるという点である。より端的にいえば,政策上の概念あるいはその よって立つ「理論」といえども,実は,そのときの権力者に都合のよいよう に作られたもの(さもなくば反対に,これに挑戦する新しい権力層の作り出
(18)
したもの)といってよい。
そもそも,以上に述べたような航海条例ないしはカポタージュにおいて,
海運政策上保護の対象となる自国船とは,何をもって自国船と規定したので あるか。自国船の規定,いいかえれば船舶に対する国籍付与の条件は,当然 これら政策の手段と表裏一体の関係になければならないからである。後者が
(16)佐波「同
J :
書」241‑51ページ。(17) 「海運政策の本質は,ナショナリズム(国家エゴ)である」一とは,加地照 義教授の言葉である。そこには,対内政策が即対外政策となる海運政策の特性が よく示されている。ナショナリズムのおもむくところ,国土膨張の欲求には限度 がない。それと同様に, カボクージュの範囲も地球規模に広がろうとする。事 実,アメリカでは, 1914年にサンフランシスコ港庁は,ニューヨークを出港して 世界一周後サンフランシスコに入港したあるドイツ船をカポクージュに遮反する ものとして提訴したし, 1930年代のある法案の中にもこの種の要求が見られると いう。佐波「同上書」252, 254‑55ページ。
(18) 「法の目的は,正義である」という。しかし,かのパスカルはいわく一~「笑 止なる正義よ,河一つによって仕切られるとは。ピレネーのこちらで真理である ことが,向こう側では虚偽なのである。」由木康訳「パスカル冥想録」白水社,
1936, 205ページ。
カボタージュと船の国籍(東海林) (163) 163 ナショナル・ペーシスでの船舶運航の問題であるのに対して,前者は同じく 船舶所有の問題である,といってもよい。はじめに述べたようなわれわれの 関心も, もちろんこれに関係している。そこで,次節「船の国籍」の問題に 移る。
m 船 の 国 籍
1. ヘンリー 7世の航海条例
上述のように,問題は,基本的には国家の性格ないしそのあり方に関連す る。現代のような主権国家とそれによって構成される国際政治体系は,近世 ヨーロッパに誕生した近代国家を核として形成されてきた,といわれる。海 運に関しても,そのとおりのことがいえるのであって,それを物語る表徴的 な法令がヘンリー7世の航海条例 (1485年)である。
イギリスにおいて,広い意味での航海条例が中世にまでさかのぼり得るこ とは,すでに述べたとおりである。ヘンリー7世の登位第1年に出されたこ の条例も,やはりガスコーニュのぶどう酒を対象としていた。 また,「次期 国会の開催まで」という限定的なものではあった。 しかし, 注目すべきこ とは,この中で自国船の規定として, 所有者のみでなく船員 (mariners) の大多数がイギリス人であることを要求している点である。
さらに,その後3年して, 1488年に再び発せられた航海条例では,積荷の 対象を同じくフランスのツールーズ産の大青(染料)にも拡大するととも
(19)
に,乗組員の国籍について, 船員のほかに船長 (master) をも明示した。
いま H. C.ハンターによって,これら航海条例の意義を要約すれば,すな (19) あえて原文を示すと, つぎのとおりである。 4thHenry VJI., Ch. 10 ……in
Ship or Ships where of ye Sovereign Lord, or some of your subjects of this Realm of England, Ireland, Wales, Calais, or Berwick be owners, possessors, &proprietors, and Master, under God, and the mariners of the same Ship or Ships, English, Irish, or Walsh, or men of Berwick, or men of Calais or of the marches of the same, for the more part;‑・・", Henry C. Hunter, How England got its Merchant Marine, 1066‑1776, 1935, p. 39.
164(164) 第 28巻 第 1 号 わちつぎのようである。
「ヘンリー7世の航海条例は,数こそ少なかったが,先王達のそれよりも強力でし かも永続きした。そればかりでなく,これらの航海条例は,一国の船舶には当該国の 国民を配乗させるべきであるという重要な原則を確立した。かくすることによって,
戦時における安全保障を高め,かつまた自国船員の供給を増大する備えができたので ある。以後,歴代の王は相ついでこの原則を継承し,もって英国海運政策の基本的要
(20) 素 (abasic factor in British shipping policy)としたのである。」
いかにも好んで古い話をもち出すようであるが,われわれはこ'こに,現在 国連の場において問題になっている船の国籍問題の原点を見る想いがするの である。すなわち,今日おおよその国について,その船舶登録制度 (shipre‑
gistry system)を見るに, 船締を付与する条件としては,大別して所有主 義・操縦主義および建造主義の3つ ― そ の い ず れ か , ま た は そ の 組 み 合 わ
(21)
せ—がある。上記ヘンリー 7 世の航海条例は,このうち所有主義と操縦主 義の2つを併用したものであり,その後引き継がれてクロムウエルの航海条 例に至った。
1660年,政治的には王政が復古し,そこではクロムウエル時代のものはす べて意識的に破棄されたが, しかし海運政策についてのみは, それを踏襲 し,むしろ一歩拡大した。すなわち,この年,チャールズ2世登位第1年の 航海条例では,操縦に関して,船長および船員の 4分の 3以上がイギリス人 であることを要求するとともに,さらに当該船舶の建造もイギリス国内で行
(22)
なわれるべきこと (English‑builtshipping)を要求したのである。法律家 のいわゆる property", "seamen''; および origin"(国籍の3要件)の
(20) Hunter, ibid., p. 43.
(21) 佐波「理論体系」 238ページ。なお, その前後237‑40ページを参照。博士は ここでも,各国の船舶登録制度を「海運経済の3類型」に関連づけて説明された のである。
(22)佐波宣平「イギリス海運史上のアメリカ」「経済論叢」第53巻第4号, 1941. 10, 8‑9ページ;Hunter, op. cit., pp.143‑48, 177‑si:i.
カポクージュと船の国籍(東海林)
(23)
いわば「3点セット」方式が,ここに法制化されたことになる。
(165)165
前記フランスの1793年の航海条例もこれにならった。ただし,イギリス自 身は航海条例の撤廃後,所有主義のみを残して他を放棄したし,フランスも 1866年には建造主義を放棄した。アメリカでは, 1789年に差別トン税法規の 中で,所有主義と建造主義が要求され,その後船舶職員については操縦主義 も付加された。しかし, 1912年の PanamaCanal Actにおいて,外国貿易 船については外国建造(輸入)船についてもアメリカの国籍が与えられるこ とになり (freeship policy),このシステムは, 1920年の商船法(いわゆる Jones Act)にも引き継がれた。部員の4分の3についても操縦主義を採用 するようになったのは, 1915年 の 船 員 法 (Seamen'sAct)以降のことであ
る 竺
もちろん,船舶登録制度ないしは各国の採用する船籍法規について,その
(25)
発展と変遷を詳らかにするのがここでの目的ではない。ただ,上記のような 考察からして,われわれは,この制度がイギリスにおいて,近代的主権国家 の形成とともに生成し,政治と経済とがもっとも強力に結ぴついた重商主義 の時代に,もっとも厳重な形に仕上げられたこと,そしてそれは,つねに一 (23) 大抵の海商法の書物では,クロムウエルの航海条例において,この「3点セッ・
ト」が要求されたとしている。たとえば, 石井照久「海商法」(法律学全集30) 1964, 97ページ。しかし,正しくはない。細かいことであるが付け加えておく。
(24) 詳しいことは,佐波訳:ジェース「前掲書」;Jantscher,op. cip pp. 46‑48を 参照。このようにして,今日でもアメリカは沿岸輸送においては建造主義を固守
している。国防用の艦船についてはもちろんであって,先頃 (1980‑81年)シー ランドの超高速コンテナ船SL7 (33ノット) 8隻を国防省が買い上げた際,国 内造船業者が挙って反対したのもこのためである(同船は, 1972‑73年に西ドイ ツとオランダで建造された)。 Jantscherは, このような海運・造船保護政策を 批判をして, costsof cabotage"を計算した。 ibid.,pp. 49‑53.なお,同書の 全体については,拙稿「米国における海運政策批判論」「海運」1976.9を参照さ れたい。いずれにせよ,アメリカについては,後に述べる便宜置籍船との関連に おいて,別に改めて取り上げられるべきであろう。
(25) 前世紀の後半から戦前にかけて,各国法制の実状については,田中誠二「船舶 の国籍に就て」「海商法上の諸問題」 1928所収を参照。
166(166) 第 28巻 第 1 号
国海運政策の目的を暗示するとともに,他方それのよって立つ経済基盤をも 反映したものであったことを知るのである。
2
.
日本の船舶法とノルマントン号事件わが国は,西欧近代の主権国家がひたひたと全世界を侵食し,最後の空白 地として極東へ押し寄せたとき,明治維新によって独立を保ち,あやうくそ の仲間入りを果たした。 しかし,真に独立を遂げたのは, 「第2の開国」と もいうべき条約改正の実施(明治32年: 1899)以後のことだといってよい。
そして,実にこの年に,さきに見たように日本船のカボタージュを明定した 船舶法は制定され施行されたのである。
この年,現行のいわゆる新商法は, 3月9日法律第48号として公布され,
同年6月16日から施行された。船舶法は,その1日前3月8日法律第46号と して公布され,商法と同日施行に移された(同年の法律第47号は船員法であ
(26)
り,公布・施行日は船舶法と同じである)。 この船舶法(現行)の第1条に は,日本船舶の条件がつぎのように定められている。すなわち,
左の船舶をもって日本船舶とす。
1 日本の官庁または公署の所有に属する船舶 2 日本臣民の所有に属する船舶
3 日本に本店を有する商事会社にして,合名会社にありては社員の全員,合資会社 にありては無限責任社員の全員,株式会社および有限会社にありては取締役の全員 が日本臣民なるものの所有に属する船舶
4 日本に主たる事務所を有する法人にして,その代表者の全員が日本臣民なるもの の所有に属する船舶
明らかに, 日本はこのとき所有主義(のみ)を採用し,現に採用している のである(もっとも,より詳しくいえば,所有主義とともに営業の本拠地が 日本国内に所在することを要求している)。上述のように, 改正条約は一―•
それより 5年前に調印され一一同年7月17日をもって実施に移された。横山 (26) これら3つの法律の体系上の相互関係については, 萩原正彦「傭船契約論」
1980, 160ページを参照。
カボクージュと船の国籍(東海林) (167)167 源之助のいわゆる「内地雑居」がはじまったのである。内地雑居とは,要す
るに•それ以前の居留地の枠を超えて,資本と労働が原則的には自由化される
ことを意味する,当時, 外資導入の可否や起こり得べき労働問題等につい て,さかんな議論があったという。当然,船舶ー~海運業一ーについてもそ れが問題とされたであろうことは想像に難くない。それに対する国家の決断
(27)
がこれであった,といえる。
このようにして,わが国も,遅ればせながら近代国家の仲間入りをし,関 税自主権と平行してカボクージュを確保した。「かくて同〔明治32J年6月
(28)
16日より,外国船はわが沿岸貿易から全く影を消した」のである。では,そ れ以前はどうであったか。当然のことに,外国船が日本の沿岸で貨客を輸送 した。その実状は,不完全ではあるが利用可能な資料を尽して,富永祐治博
(29)
士によって示されている。私としては,ここで,あえて読者の印象に訴える ために,かのノルマントン号事件を例に引きたい。
明治19(1886)年10月24日,イギリス船 Normanton号 (1,530総トン;
船籍港はロンドン)が紀州勝浦沖の岩礁に乗り揚げ,沈没した。同船は,横 浜居留地36番館アダムソン・ペル商会所有の貨客船で, 日本人旅客25人と 茶•海草などの雑貨 600 トンを積んで,前日横浜を出帆,神戸に向かう途中 であり,乗組員はイギリス人船長ジョン・ウィリアム・ドレーク以下,イギ
リス人,インド人,中国人など39名であった。
(27)実は,明治23年に制定されたいわゆる旧商法の中にも,その第2篇「海商」第 1章「船舶」の冒頭第824条において, 日本船舶の条件とその権利が記されてい る。前者は,船舶法の第1条と内容的にほぼ同じであり,後者としては,日本の国 旗を掲げる権利が示されている(硯行船舶法第2条の規定と同じ)・。この法律は,
結果的には明治31年7月1日から約1カ年施行されたが,成立直後から問題が多 いとして,本来施行の意図が乏しいものであった。それと,条約改正前のことで カボタージュの規定も見えていない。いいかえると,主体的な海運政策の体をな していない。したがって,ここでは,この法律の存在を一応議論の外におく。
(28) 富永祐治「交通における資本主義の発展」1953, 86ページ。
(29) 富永「同上書」87‑89ページ。沿岸貿易就航船の 中では,イギリス船がトン数 で約70%を占めていた。