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︱ ルソー ﹃ エミール ﹄ のストア 主義 を 巡 る 一視座︵一︶ ︱

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︽ Sa na bili bu s aeg ro tam us m ali s ︾

︱ ルソー ﹃ エミール ﹄ のストア 主義 を 巡 る 一視座︵一︶ ︱

1

馬   場     朗

問題の所在一七六二年にジャン=ジャック・ルソーは︑﹁サヴォワの助任司祭の信仰告白﹂の名高い弁神論を含む﹃エミール﹄

を世に問う︒近代教育論確立期における言わば記念碑的著作である以上に︑作家としての成熟期を迎えたルソーによる質量ともに最も充実した思想的業績でもある︒その﹃エミール﹄冒頭でラテン語引用されるのが︑哲学者セネカの言葉であり本論題目にその一部を掲げたものに他ならない︒ルソーによる引用文を以下に示しておく

2

﹁治癒可能な悪︵=病気︶に我々は病んでいる︵

Sa na bili bu s aeg rta m us m ali s

︶︒正しく生まれついた我々を︐我々が治りたいと望むならば︑自然自身が助けてくれるのだ︵

ips aq ue nos in rec tum geni tos na tura, si em en da ri velim - us, j uva t

︶︶︒︵

IV , 239

︶﹂

古代ローマの哲学者ルーキウス・アンナエウス・セネカの﹃怒りについて﹄ 3の一節だが︑その意味するところは後の第二節で具体的に検証したい︒ともかくも︑この古代ストア派の哲学者の引用が﹃エミール﹄冒頭に掲げられるこ

(2)

と自体︑この著作全体の基本理念にセネカの言葉が連なるであろうことは充分に予想できる︒そもそも︑ルソーの同時代人ディドロの証言︵﹃クラウディウス帝とネロ帝の治世についての試論﹄のこの著者は﹁ジャン=ジャック﹂つ

まりルソーが︑﹁至る所でセネカを想起させた﹂と言う

してプラトンと並ぶ彼のお気に入りの古代作家の一人であった︒更に言えば︑少なからぬ研究者達もまたセネカが属 ︶からも伺える様に︑セネカはプルタルコスやタキトゥスそ 4

するストア哲学自体のルソー思想への影響に着目してきた

た西洋近代思想におけるストア派復興の文脈の重要性が前提とされよう︒我々もまたこれらの先行研究に依りなが ︒ルソー研究者達のこの関心には︑従来から指摘されてき 5

ら︑改めてルソーにおけるストア哲学との親近性を別の角度から確認することになろう︒無論︑ルソーの思想がストア主義からの影響によって言い尽くされる訳ではない︵ストア主義との関連で本論がしばしば言及するアウグスティ

ヌス主義によっても尚更そうでない︶︒むしろ︑﹃エミール﹄への直接の影響関係でまず決定的なのは︑シャラクが強調する様にコンディヤックの経験論哲学であろう

い︒研究者達が全くと言っていいほど触れて来なかった︑その二重性がルソーの美学的思索に与えた潜在的意義︑こ 論が最終的に接近しようとするのは︑従来の研究では必ずしも充分な分析が当てられなかったこの二重性だけでな れはまたルソーにおける美学的思想を見極めんとする本論者にとっても極めて示唆的な差異でもある︒即ち︑この小 ﹁情念﹂を巡る﹃エミール﹄倫理論のうちに言わばストア主義と反ストア主義の二重性があることを強調したい︒そ ある︒即ち︑ストア派そしてセネカに対してルソー思想が根底において一つの決定的な差異を孕んでいたこと︑特に 代表される﹁自律的人間﹂の理想をある程度迄共有しつつも︑これに単純に還元できぬ立場を打ち出していることで が本論者の能力を超えているのは明らかである︒むしろ本論が着目したいのは︑﹃エミール﹄の著者がストア主義に 用を中心として本論が着目するのは︑その﹃エミール﹄への影響の網羅的検討を行いたいからではない︒また︑それ ︒とは言え︑ストア主義との関係にそれも特に冒頭でのセネカの引 6

(3)

れである︒

第一節セネカの読者としてのルソーと一七世紀以後のストア主義復興の文脈そもそも︑ルソー自身によるストア派受容は具体的にはどのような形態によるものであったのだろうか︒研究者達

の間でこれまで議論されてきたのは︑まずはルソーによるストア派関係の文献の参照の実態である︒要するに︑古代ギリシア語やラテン語によるストア派の一次文献にルソーが直接に当っていたのか︑そうではなく仏訳を主に使って

いたのか︑更にはストア派の思想についての二次文献に基づいていただけなのか︑ということである︒ルソーが古代ギリシア語は勿論のこと︑ラテン語に関してもそれ程精通していなかったこと

を考えると︑仏訳の一次文献や仏語に 7

よる二次文献をむしろよく参照したであろうことは容易に想像できる︒特に仏語の二次文献に関して本論でも重要なのは︑ルソーが自らの数々の著作でも度々言及するモンテーニュであろう︒単にその﹃エセー﹄がフランスにおける

ストア哲学復興を告げる記念碑的著作というだけではない︒その著作でモンテーニュは︑﹃エミール﹄の著者同様に︑ストア派の中でもセネカをより高く評価したからであり︑更には﹁怒り﹂を巡ってセネカも引きながら一章をあてる

からである

した様に ︒とは言え︑一部の研究者による主張とは反対に︑ルソーのセネカやストア派理解は︑ピールが特に強調 8

モンテーニュの﹃エセー﹄の単なる焼き直しでは決してない︒ピール 9

そして同じく研究者のロッシュ 10

特にセネカの思想を︵仏訳も含めて︶その直接の原典から汲み取っていた可能性はかなり高いということである︒特 ﹃エミール﹄は無論のこと︑ルソーの﹃学芸論﹄﹃不平等論﹄にセネカの思想との直接的関連を指摘する︒ストア派や は︑ 11

に︑ルソーはセネカの著作の二つ︵﹃生の短さについて﹄と﹃アポコロキュントーシス﹄︶をラテン語原典から仏訳しようとしていたことが知られている︒つまり︑︵﹃アポコロキュントーシス﹄のルソーによる仏訳の試みをラテン語原

(4)

文と照らし合わせながら詳細に検証したトルッソンによればルソーの高度なラテン語読解力に問題はあるにせよ

ソーがセネカのラテン語原典にある程度は直接なじんでいたのは議論の余地がない︒ ︶ル 12

それでは︑ルソーが活躍した一八世紀フランスにおいて︑セネカそして彼の属する古代ストア派の哲学はどの様なかたちで受容されていたのか︒ディルタイの古典的研究﹁一六︑一七世紀の文化における人間学の機能﹂

が示唆する 13

ところでは︑古代ストア派の哲学はルネサンス以後の西洋思想・文化の形成に極めて重要な役割を演じたという︒特に教会分裂後の宗教戦争によって極度に不安定化した一六世紀から一七世紀の西欧世界は︑古代ストア派の哲学の内

にこの激動期を生き抜くための確固たる基盤を見出した︒中でもディルタイが着目するのは︑オランダ・ライデン大学におけるリプシウスらによるストア派復興が近代思想に及ぼした影響である︒特にリプシウスのセネカを中心とす

るローマ・ストア派の再評価にはディルタイによれば二つの着目点があり

義の帰趨を見極めんとする本論には重要である︒第一に︑古代ストア派が知性的な自己統御に基づく自律的な人間像 ︑いずれも﹃エミール﹄におけるストア主 14

を理想としたことである︒本論でも後で触れるが︑﹁非情念︵

ἀπάθ εια

︶﹂というストア派の最も有名な立場もこの理知的な人間観に由来する︒第二に︑第一の着目点と不可分だが︑宇宙全体の生成・維持・消滅に関る﹁摂理﹂という客観的法則性を︑身体・物質次元だけでなく精神次元においても冷静に把握すること︑これを重視したことである︒即ち︑ストア派の賢者の理想とは︑単に自己の内部に独我論的に自閉することでは必ずしもない︒むしろ︑世界もし

くは宇宙の全体性の必然的な法則・連鎖の相のもとで自己と周囲の位置付けを知的に把握した上での正確な判断︑これに基づく実践主義によってもストア主義は多くの人々を捉えた︒成る程︑ヒュリウングが言う様に

が実は有能な政治的実務家でもあったのは紛れもない事実である︒少なくとも︑近代西洋におけるストア派再興には 分的に受け継がれよう古代ストア派の厭世主義はマルクス・アウレリウスやセネカにも顕著であろう︒しかし︑彼ら ︑ルソーにも部 15

(5)

より積極的な実践主義的側面がある︒実際︑安西信一は

超越的・伝統的権威に盲目的に従属することなく︑理知的な自律的存在として現実世界の実践を遂行するこのよう

in un da run t

︶﹂︒ 17

orb em t er rae

小川で喉を潤していたのだが︑それらは豊かな巨大な流れとなって世界を覆い尽くしたのであった︵

ex h ort orum s pa ttis

着目している︒﹁庭園の空間からは︵︶知恵の豊かな幾つもの小川が溢れ出し︑我々はこれらの の庭﹂の隠遁的﹁閉鎖性﹂が︑むしろ外部世界での実践を行使するための積極的な精神補給地として機能することに ︑リプシウスの新ストア主義では﹁瞑想の庭﹂たる﹁ストア 16

なストア主義的人間観は︑カッシーラーによれば︵﹃デカルト︑コルネイユ︑スウェーデン女王クリスティナ﹄︶︑デカルト哲学による近代的人間観を一七世紀の西欧人達が抵抗なく受容しうるための確固たる素地になったという

︒し 18

かしその古代哲学に由来する人間観は︑近代政治思想にも深い影響を与えることになったともされる︒先に挙げたディルタイは︑リプシウスと同じくライデン大学で活動した近代政治学の祖グロティウスのストア主義者としての側面に既に着目していた

愛﹂に基づく基本的権利であり︑第二に本性的な他者性つまり自然な社会性である︒ディルタイは明言せぬものの︑ ︒そのグロティウスの﹁自然権﹂思想の二つの根幹が︑ディルタイによれば︑第一に﹁自己 19

ルソーにおけるストア主義とアウグスティヌス主義の相剋を指摘した研究者ブルックは︑グロティウスがここでも古代ストア派に多くを依っているのだと言う

︒即ち︑グロティウス自身が以上の二つの根幹のそれぞれに関して古代ス 20

トア派の﹁親近性︵

οἰκ είω σις

︶﹂概念に明示的に依拠する事実をブルックは強調する︒そのグロティウスらの自然法思想にルソーが強く影響されつつこれを乗り越えようとしたことは周知のことであろう︒そもそも︑ルソーがおそら

くは古代ストア派で最も親しんだセネカの中でも特に熟読したと思われる彼の﹃道徳書簡﹄の一つでも﹁親近性﹂概念に由来する論点が取り上げられもする

︒本論は︑このストア的概念がルソーにおいて及ぼした影響の可否の検証に 21

(6)

拘るものではない︒また︑確かにルソーは﹃不平等起源論﹄以来﹁自然な社会性﹂より正確には﹁自然状態で既に現実化している社会性﹂という非現実的な仮説に一貫して批判的だったし︑かかる否定的な﹁社会性﹂の真の発現は︑他者との比較や秩序認識に必要な知性を欠く形ではあり得ないことが繰り返し強調される︒とは言え︑事態はそれ程単純ではない︒取りあえず以下の点を指摘しておこう︒﹃エミール﹄以後の著作で指摘される様になるのは︑逆にそ

の様な他者関係と知性の漸次的な獲得によって現勢化される原理が︑﹁自然﹂によって潜在的な良心の母胎として与えられていることである

とは言え︑ルソーが活動した一八世紀仏においてストア主義は必ずしも常に好意的に受容されていた訳ではなかっ 底で﹃エミール﹄における﹁自己愛﹂概念と繋がる可能性を確認することにもなろう︒ ︒我々は第三節において︑﹁親近性﹂概念に基づくとされるセネカの書簡の指摘が︑その根 22

た︒それは︑一七世紀中期以後の特にアウグスティヌスに潜在するストア派批判を発展的に継承した宗教側から手厳しい批判がなされたことに大きな原因があるとされる︒ここでは再び研究者ブルック

の指摘によりながら大きな流れ 23

を押えておこう︒そもそも︑古代ストア派復興がむしろキリスト教と融和的に為されるべきことをリプシウスら近世のストア主義者達は自覚していた︒偽作であるセネカのパウロとの書簡をヒエロニムスが敢えて許容したことからも伺える様に︑キリスト教会は従来から反ストア主義を表立って唱えていた訳ではなかった

者達は︑カッシーラーの発言を借りるならば︑﹁おそらくその対立をさほど意識していなかったか︑さもなければそ ︒それ故に︑新ストア主義 24

の重大性を十分感得していなかった﹂ 25︒キリスト教側からのこの反ストア主義の象徴的存在が︑古代最大の教父の一人であるアウグスティヌスである︒確かに︑彼もまた殊更に反ストア主義を唱えた訳ではなかった

最大の教父の一人である彼の﹃神の国﹄には︑特に﹁悲しみ﹂の情念の評価を中心として ︒とは言え︑古代 26

に対するキリスト教的立場からの根底的な批判が確かに存在していた︒このアウグスティヌスの反ストア派見解が︑ ︑ストア派の自律的人間観 27

(7)

無視できぬ強力な流れとなる契機を作ったのが︑コルネリウス・ジャンセニウスの﹃アウグスティヌス﹄︵一六四〇年︶であるのは知られている︒ジャンセニウスは単純にアウグスティヌスによる︵古代キリスト教では未だあからさ

まには表面化してはいなかった︶ストア派批判を反復したのではない︒ブルックが強調するのは

るペラギウス派批判をジャンセニウスが︑ストア主義批判のうちへと統合したことである︒そもそもベラギウス派 ︑この古代教父によ 28

が︑信仰上の自由意志に傾く限りで︑アダムの原罪とその子孫達への必然的継承そして恩寵による救済を蔑ろにする危険があること︑これをアウグスティヌスは警戒していた︑とブルックは指摘する︒無論︑アウグスティヌスはそれ

をストア派に結びつけていた訳ではない︒ブルックによると︑このペラギウス派とストア派の同一視こそ︑一七世紀のジャンセニウスが齎した新たな決定的論点である︒ジャンセニウスに従うならば︑古代ストア派もまた︑﹁意志の同意・不同意﹂を理知的実践の基本におく限りで︑ペラギウス派と同じ危険をもつ︒つまり︑原罪と恩寵を介しての人間の徹底的﹁受動性﹂を強調するキリスト教信仰の根幹に抵触するというのである︒ジャンセニウスが新たな装い

のもとで強化し先鋭化させたアウグスティヌス的なストア主義批判は︑パスカルやニコル等のジャンセニウス派だけでなく︑アウグスティヌスを教義の基本におく多くの教会側の人間にも共有された︒その一人は︑アウグスティヌス

の教えを模範とするオラトリオ会に属し︑ルソーを初め一八世紀の哲学者達に大きな影響を与えたとされるマルブランシュである︒マルブランシュもまた︑例えば主著﹃真理探究﹄においてストア派の自律的人間観を原罪に象徴され

る人間の根源的弱さを忘却する﹁驕り︵

orguei l

︶﹂として強く批判したのである

律的人間観こそが従来のキリスト教的倫理に基づく社会の根幹を破壊するとして︑たとえ﹁原罪﹂という問題含みな 一方には︑言わば近代的な自律的人間観を予見させるストア思想を積極的に受容する立場がある︒他方には︑その自 とすれば︑ルソーが主に活動した一八世紀仏ではストア派が相反する二重の受け止め方をされていたことになる︒ ︒ 29

(8)

概念に依りつつも︑むしろ人間の﹁非自律性﹂を蔑ろにせぬ観点から批判する立場がある︒無論︑誤解すべきでないが︑ストア派支持者と批判者とを賢明な進歩派そして蒙昧な保守派の様な安易で単純な二項対立に還元したいのでは

ない︒そもそも︑一八世紀の啓蒙的知識人が必ずしも常にストア主義に賛同していた訳ではない現実がある様に︑事態はより複雑である︒例えば︑セネカに傾倒したディドロが編集に関った﹃百科全書﹄にさえ︑項目﹁哲学者﹂の様

な辛辣なストア派批判の文面を見出すことが出来る︒﹁ストア哲学者達の示す情念を脱した賢人の姿は︵

le s ag e in - sen sib le des s toïcien s

︶︑我々の哲学者の完成度からはかけ離れている

﹂︒この指摘に着目したヒュリウングは︑﹁社会 30

の愛﹂を不可欠なものとして持つ百科全書派の理想の哲学者像の逆像としてストア主義の賢人の理想を認める

り︑﹁民衆﹂を侮蔑した自律的賢人というストア的理想は︑社交界や社会に積極的に関ろうとする﹃百科全書﹄に ︒つま 31

とって全面的に肯定できるものであったとは限らない︒そしてこれは︑第四節でも触れるが﹁民衆﹂と彼らが主たる構成員たる﹁社会﹂の重要性を決して軽視しないルソーが共有しうる批判的態度でもあろう︒だが本論にとってより根本的なのは︑このルソー本人が︑上記の言わば相反する二つのストア派受容をその思想内部で同時に引き受けた可能性である︒既に﹃エミール﹄冒頭の引用が余りにもあからさまに示している様に︑ルソーにある種のストア主義が存在するのは事実である︒とは言え︑マルブランシュからの強い影響が指摘されることもあるルソーが︑ストア派の高らかに謳う理知的で自由な主体の﹁自律性﹂の楽天的な擁護者では必ずしもないことを我々はほぼ予想できる︒

とは言え︑本論が中心的検討の対象とする﹃エミール﹄において冒頭引用のかたちで受け入れられたセネカの発言はそもそも如何なる思想的基盤に立つものであったのか︒主にセネカの﹃怒りについて﹄に即しながらこの点をまず

は次節で確認しておきたい︒

(9)

第二節セネカの﹃怒りについて﹄とルソーによる引用箇所が前提とするストア派情念論セネカのあの発言が﹃エミール﹄にとって持ちうる含意の射程とは如何なるものだろうか︒まずは︑セネカのこの発言それ自体が言わんとするところを︑それが属するセネカの著作全体の文脈の内でフィヨーン・ライーユら研究者達 ナのその息子ネロ帝即位迄に執筆されたと推定されている︵クラウディウス帝即位直後の短い時期に執筆されたとい

D e Ir a

﹃怒りについて︵︶﹄は︑セネカがクラウディウス帝即位後からこの皇帝の死後に彼を抜擢したアグリッピー の指摘によりつつ簡略にせよ押えておこう︒ 32

う立場も強い︶︒よって︑それは彼の執筆活動初期に属する著作ということになる︒特にこの時期に彼が体験した過酷な体験︵カリグラ帝の不興を買ったことによる命の危機︶がゼノンやクリュシッポスら古代ストア哲学へのセネカ

の傾倒を更に深めた可能性も高いだろう︒さて︑そのストア哲学が既に触れた﹁非情念﹂を賢人の理想に掲げたのは周知のことである︒セネカがこの著作で取り上げるのは︑﹁非情念﹂の理想に基づき排除すべき諸情念の中でも︑少

なくともセネカによれば最も忌まわしく危険な﹁怒り︵

ira

︶﹂に他ならない︒確かに︑﹁怒り﹂を巡るセネカのこの著作は三部から成るものの︑厳密な前後の論理構成に基づいた上で全三巻が展開されているとは言い難いとされる︒

よって︑最後の第三巻が先行する二巻とは執筆時期がやや後にずれている可能性さえ指摘されるほどである︒とは言え︑フィヨーン・ライーユによれば︑この著作は内容的に第二巻一八節の﹁以上で怒りに関して諸々の論じられてい

ること︵

qu ae de ira q uaer un tur

︶を扱い終えたので︑その治療に︵

ad r em edi a

︶向うことにしよう﹂という発言を境に全体として大きくその前後の二つに分かれる︒この発言が示す様に︑第一巻から第二巻一七節までが﹁怒り﹂の本性と正当性を巡る理論的考察︑第二巻一八節から第三巻がこの情念の治療プログラムの呈示にそれぞれ向けられる

また︑同じくこの研究者によれば︑第三巻は先行する二巻を踏まえた結論的な部分でもあり︑内容的にも時期的にも ︒ 33

(10)

決して後から無理に付加されたものではないとする

り﹂という情念に対する徹底的批判であり︑その批判のよって立つストア派的根拠︵フィヨーン・ライーユによれば ︒ともかくも︑﹃怒りについて﹄全体で顕著なのは︑やはり﹁怒 34

これが特にこの著作前半部に集中する︶の雄弁なまでの呈示であるのは確かである︒では︑何故セネカは﹁怒り﹂をこれ程迄に危険視せねばならないのか?  無論︑それはセネカだけに限定されるこ

とではないのだろう︒セネカのこの著作が他の︵現在では失われた︶他の複数のストア派の著作を参照したらしいこと

を考えると︑やはり彼の属したストア派の思想自体に﹁怒り﹂の排除を必然化するものがあったと考えるべきであ 35

ろう︒実際︑セネカが﹁怒り﹂を批判するのには以下の三つの理由があると思われるが︑そのうちの第二と第三の理由は正にストア派独自の情念論に深く根ざしている︒

セネカが﹁怒り﹂の除去もしくは抑制をかくも訴える第一の理由として︑セネカ個人が耐え忍ばねばならなかった古代世界の余りに過酷な権力的・政治的状況をまずは指摘すべきだろう

︒そこでは︑大衆以上に何よりも為政者の心 36

に巣食うこの情念の排除が古代の権力体制を左右する程の喫緊の政治的課題でもあった︒彼ら権力者らの﹁怒り﹂以上に多くの無辜の人々にとって破滅的で最悪な情念は存在しなかったからである︒逆に言えば︑ここにはこの著作に

おける権力者達への積極的提言という政治的側面が存在するのだろう︒実際︑例えばフィヨーン・ライーユそして邦訳者の兼利氏も︑セネカがこの著作の読者として特に暴君カリグラ帝死後に即位したクラウディウス帝を念頭におい

ていた可能性を指摘する

﹁怒り﹂の暴政により混乱に陥ったローマ帝国を立て直す希望を︑セネカはクラウディウス帝に見出したと言うので ︒初代皇帝アウグストゥスの﹁怒り﹂を排した理想的統治への回帰によって︑カリグラ帝の 37

ある︵これはセネカの流刑という皮肉な結末によって打ち砕かれるが︶︒既に近世のストア主義復興に即して確認した様に︑ストア主義が決して自閉した厭世主義ではなく政治の世界に積極的に関る公共的実践主義の側面を持つとい

(11)

うことである︒それは政治権力の場に長兄ノウァートゥスに続き敢えて身を投じ始めていたセネカにとってある意味で必然的選択だったろう︒

これに対して︑既に予告した様に︑残りの二つの理由は共にストア派の情念論それ自体に根ざしたより内在的なものである︒まず︑第二の理由とは︑﹁怒り﹂を巡る古代世界の人々のある種の共通了解によって︑賢者と呼ばれる人々でさえしばしば取り憑かれる忌むべきこの﹁怒り﹂を安易に肯定する傾向への強い警戒である︒ここにおいて︑セネカの議論はプラトン派やアリストレス派等の他の哲学学派による古代情念論へのストア派による独自な批判を受

け継ぐ論争的なものとなる︒セネカが論敵として直接言及するのはアリストテレスだが︵﹁アリストテレスは言う︒﹁怒りは必要である︒それなくしては︑それが心を満たし精神に火をつけねば︵

ni si i lla im plet a nim um et s pir itum accen di t

︶︑戦闘は不可能である︒﹇中略﹈﹂これは誤っている︵

Q uo d es t fa lsum

︶︒﹂ 38︶︑セネカが尊敬の念を隠さぬプラトンによる﹃ティマイオス﹄の良く知られた見解も重要だろう︒﹃ティマイオス﹄でプラトン・ソクラテスが語る ところの︑﹁神的なもの︵

τὸ θ εῖο ν

︶﹂であり﹁魂の不死なる原理︵

ἀρ χή   ψυ χῆς ἀθ άν ατ η

︶﹂としての﹁理性︵

λόγ ος

︶﹂の宿る頭部から共に切り離された︑胴体上部の横隔膜を境に上下にそれぞれ位置する二つの﹁魂の可死的種族︵

τὸ τ ῆς ψ υχ ῆς θ νη τὸ ν γ έν ος

︶﹂を巡る指摘である︵

69e-70d

τὸ χ εῖρ ον ἐπ ιθυμί α

︵︶﹂たる﹁欲望︵︶﹂を制御するものに他ならない︒即ち︑より頭部に近い側にこの﹁勇気と気概﹂

φιλ όν ικον ὄν τὸ τ οῦ θ υμοῦ μέ νο ς

︶﹂こそ︑﹁気概の怒り︵︶﹂を介して頭部の神的な魂の指令を補助し﹁より悪いもの

ἄμει νο ν τὸ μετ έχο ντ ῆς ψ υχ ῆς ἀ νδ ρεί ας κ αὶ θ υμοῡ ,

︶﹂としての﹁勇気と気概をそなえ負けず嫌いの魂の部分︵

τὸ

︒このうち横隔膜上部の﹁より善いもの︵ 39

の部分がおかれたのは︑それが︑﹁理性の言葉に良く聞き従うものとして︑欲望が城砦から指令され言われたことにどうしても自発的に従わない場合︑それに与して共にその欲望の種族を力ずくで押える︵

βί ᾳ κ ατ έχο ι τ ὸ τ ῶν

(12)

ἐπ ιθυμι ῶν γ έν ος

︶﹂ために他ならない︒つまり︑﹁気概の怒り﹂は﹁神的なもの﹂たる﹁理性﹂の頼もしい協力者だというのである︒

この従来の古代情念論への批判的観点という第二の理由こそ︑本論が特に着目したい第三の理由を成す︒セネカにとって﹁怒り﹂の徹底した排除は︵多大の困難を伴うにせよ︶原則的に可能であり︑それ故にこそ﹁怒り﹂の排除は

ストア的賢人の理想が最も試されるべき機会に他ならぬということである︒そしてこれこそが︑ルソーが﹃エミール﹄冒頭に引用したセネカの発言が直接に前提とするものに他ならない︒即ち︑﹁怒り﹂とは何よりも﹁治癒可能な︵

sana bilis

︶﹂ものであるし︑それ故に必ずや治癒し根絶すべきものに他ならぬということである︒ストア派情念論の独自性はまさにこの情念の治癒可能性を論理的に必然化する点にある︒この第三の理由としてのセネカのストア派情念論に特有のこの観点を︑﹃エミール﹄冒頭で引用された彼の発言を中心に︑もう少し詳しく見ておこう︒﹁怒り﹂を含めた﹁情念﹂の治癒可能性についてのセネカのその発言は︑﹃怒りについて﹄第二巻一三節に置かれて

いる

ること︑これが我々には極めて重要である︒セネカは︑そこで他の情念と同様に﹁怒り﹂が﹁治癒可能な病﹂であ ︒このルソーによるセネカの引用部分が︑﹃怒りについて﹄全体を貫くストア派情念論の基本理念に基づいてい 40

り︑その根拠を﹁自然﹂そして人間たちの﹁意志﹂におく︒﹁まっすぐあるべく生まれた我々を︑我々が自らを改善する意志を持てば︵

si em en da ri v elim us

︶︑自然そのものが助けてくれる︵

ips a n atura j uva t

︶﹂︒つまり︑ルソーによ

るセネカの引用を正確に理解するためには︑﹁自然﹂と﹁意志﹂を巡るセネカおよびストア派の考えを押えておく必要がある︒

まず︑彼らの﹁自然﹂概念から検討しよう︒ここでの﹁自然﹂は二重の意味で理解する必要があろう︒第一に︑事物それ自体が﹁人為︵

ar s

︶﹂によって歪められる以前のありのままの姿である︒セネカは︑他のストア哲学者と同

(13)

様︑高度な﹁人為性﹂や発展した﹁社会﹂性とは無縁な原初の素朴な人間や動物たちの本能的な生を︑それらの﹁自然﹂性故に擁護する︒﹁その頃よりも人類が幸せだったことがあろうか︒人々は共同で自然の恵みを享受していた︵

na tura f rue ba ntur

︶︒それ﹇=自然﹈は母親の様に申し分なく全ての人間を保護していた﹂ 41︒言わば︑ルソーが﹃不平等起源論﹄で雄弁に呈示した﹁自然状態﹂のごときものであって︑ここでもルソーとストア派との思想上の類縁性

は明らかであろう︒実際︑既に述べた様に︑ロッシュは﹃不平等起源論﹄の記述と極めて近似したセネカの他の発言の存在を指摘していた︒すぐ後でより詳しく論じる﹃エミール﹄との関連で更に言えば︑大人の社会や﹁臆見﹂そし

て何よりも﹁情念﹂を持たぬ﹁まっすぐあるべく生まれた︵

in r ect um g eni tu s

︶﹂ばかりの﹁子供﹂もまたこの﹁自然﹂により近しい存在でもあろう︒無論︑セネカもストア派もこの第一段階の﹁自然﹂の幸福や﹁無垢﹂性が儚いも のであることを強く意識している︒特に彼らが強調するのは︑この第一段階が確固たる﹁理性︵

ra tio

︶﹂を欠くという致命的な短所である︒セネカの発言を聞こう︒﹁しかし︑彼らの暮らしがいかに優れた罪のないものであったにせ

よ︑彼らは賢者︵

sap ien tes

︶ではなかった﹂し︑﹁彼らは物事の無知ゆえに無垢だったのだ︵

ig no ra nti a r er um inn o- cen tes era nt

︶﹂︒何故ならば︑﹁賢者﹂とは﹁最も偉大な営み︵

op era m axim a

︶に与えられる名だから﹂だし︑﹁自然 が美徳を与えるのではなく︵

no n da t n atura vir tut em

︶︑善をなすことは人間の技である︵

ars es t b on um fier i

︶﹂からだ

juv are

そ︑堕落した社会においてさえも彼らの﹁理性﹂に語りかけ︑その﹁助けとなる︵︶﹂のである︒セネカは言 性﹂によって観取されるべき宇宙全体の﹁摂理﹂や﹁秩序﹂の如き第二の意味を含むと言うべきだろう︒だからこ 一段階の﹁自然﹂が貶められた後も︑実はこの﹁自然﹂は常に人間たちに語りかける︒いやむしろ︑﹁自然﹂は﹁理 強調しようとする︒即ち︑人間たちの高度な人為性や社会の臆見や悪徳によって以前の理想状態に回帰できぬ程に第 ︒しかしながら︑セネカはそこで﹁自然は美徳を与えない﹂と言うものの︑﹁自然﹂のより根底的な働きを改めて 42

(14)

う︒﹁自然は十分に我々に理性を装備してくれた︵

sat is n os in str uxi t ra tio ne n atura

︶︒この堅固で常に忠実な︑諸刃ではなく︑主人に刃向かうこともあり得ない槍を与えたのだ﹂ 43︒ストア派にとってより重要なのはこの第二の意味で

の﹁自然﹂であるのは︑そこに︵第一の本能的に感得される﹁自然﹂以上に︶真に確固たる﹁幸福﹂の基点があるからである︒

とは言え︑﹁理性﹂に基づき判断され選択された意識的な行為としての﹁意志する︵

ve lle

︶﹂ことが不可欠であると示唆されることを見逃すべきではない︒人間の﹁意志﹂があれば﹁自然﹂が理想的に支えてくれるという単純な話し

ではない︒ストア派の考えでは︑この﹁意志﹂は﹁理性﹂と結び付きつつ意識的な﹁同意﹂という﹁判断﹂となるものに他ならないが︑この﹁判断﹂は必ずしも正しいとは限らず︑これがストア派情念論の独自な主張に繋がる︒何故

なら︑その誤った﹁同意﹂や﹁意志﹂こそ﹁情念﹂の母胎だからである︒即ち︑ストア派にとって﹁怒り﹂を含めた全ての﹁情念﹂は︑我々の誤った﹁臆見﹂という﹁誤った理性的判断﹂による﹁同意﹂や﹁意志﹂が生んだ人為的で意識的な産物に他ならない︒だからこそ︑セネカやストア派はプラトンやアリストテレスらによる﹁怒り﹂の許容を︑﹁怒り﹂を理性的判断の意識的な誤謬とする自らの立場から︑決して共有しえない

︒そもそも︑ストア派は人間 44

が外的事象から直接に受け取る﹁表象知覚﹂や直接的な衝動それ自体を︑﹁情念﹂とは明確に区別しようとする︵アウグスティヌスの明快な紹介によれば﹁ストア派の哲学者が表象︵

pha ntas ia

︶と呼ぶ心の知覚像︵

animi v isa

︶があ り︑それらが精神に起こるかどうか︑起こるとしてもいつ起こるのかは︑どちらも私たちの精神の力の内にはない︵

ne c in p otes tate es t

︶﹂ 45︶︒彼らにとって︑﹁表象知覚﹂や直接的で自然な身体的衝動は︑そもそも﹁情念﹂ではない︒彼らの言う﹁情念﹂とは︑それらの﹁表象知覚﹂そして﹁衝動﹂に対して︑誤った﹁判断﹂たる﹁臆見﹂を与えることに﹁同意・意志﹂するという﹁理性の誤謬﹂の齎す忌むべき結果なのである︒それは人間の知性・意志の側に本来

(15)

的原因のある誤謬であり愚者の証しであるが故に︑常に回避しうるし︑︵ストア的賢人であれば尚更︶必ず回避すべきものに他ならない︒﹁彼らストア派は︑そうした承認︵

adpr ob ari

︶なり同意︵

co nsen tir i

︶なりは人間の力の中に ある︵

es se in p otes tate

︶と考えている︒﹇中略﹈愚者の魂は︑そうした感情に服従し︑精神の判断を感情に委ねてしまうのだ﹂ 46︒つまり︑セネカの引用が言う﹁我々が自らを改善する意志を持つ︵

em en da ri v elim us

︶﹂とは︑あくまで

も﹁正しき理性﹂に基づく﹁同意・意志﹂を持つことが︑﹁怒り﹂という﹁情念﹂を﹁自然﹂の﹁摂理﹂に従って治癒し除去することへ繋がる︑ということである︒﹃エミール﹄の著者にとって︑以上の﹁怒り﹂を巡るセネカの発言とそこで前提とされるストア派情念論は受け入れ易いものであったろうと推測される︒何よりも︑﹃エミール﹄冒頭でその発言が引用されること自体がそれを証し

ている︒次節では︑セネカの発言とそれがよって立つストア派情念論が﹃エミール﹄に対して具体的にどのように連続しうるのか︑これを丁寧に検証して行きたい︒

1

︶本論は︑紙幅の都合上︑二部に分けて掲載される︵後半部は次号以降に掲載する予定︶︒

L A min ot, d an s les Œ uv res com pl ète s , P aris et G en ève , S latk in e et C ha m pio n, 2012, t. VII–VIII. ʼ J.-J . R ou sse au , Émi le , é d. p ar A. C ha rra k, Ga rnier -Fl amm ario n, 2009; Émi le , é d. p ar T an gu y

ミノによる版も逐次参照した︒ 一部変更したところがある︶︒尚︑本論で中心的に扱う﹃エミール﹄に関しては近年の以下の二つのシャラクとタンギー・ラ

Œ uv res com pl ète s , Pa ris Ga llim ard , 1959–95, 5 v ol.

︵︶邦訳は白水社の﹃ルソー全集﹄の訳を使わせていただいた︵文脈により

J.-J . R ou sse au , 2

︶ルソーの原典と参照では以下のプレイアド版全集に依りローマ数字で巻数をアラビア数字で頁数を示す︒ 下のロエブ版を参照した︒セネカ︑﹃セネカ哲学全集﹄︑東京︑岩波︑二〇〇五〜二〇〇六年︵全六巻︶

3

︶セネカについては以下の邦訳を中心としつつ︵本論の文脈の都合上一部訳を変更させて頂いたところがある︶原典については以

Ep itle s; T rage die s , L oe b C las sic al L ibra ry, H arva rd U ni v. P r., 1917–2004, 9 v ol.. Sen eca, M ora l E ssa ys;

(16)

p. 266. D eni s Dider ot, Ess ai s ur l es r ègn es d e Cl au de e t d e N ér on , in Œu vre s c om plè tes d e D ider ot , H er m an, 1975–2004, 25 vo l., t.X XV , 4

Pet er J im ac k, «L a G en ès e et l a r éd ac tio n de l

ピール以外では︑以下に挙げるものを主に参照した︒

fluen ce de S én èq ue s ur les t hé ories p éd ag og iq ues de J .-J . R ou sse au», in An na les d e l a s oci été J .J.-R ou sse au , 1953–55 vo l. 33 .

︵︶

es Pir es, Sto ïci sm e e t p éd agog ie: d e Z én on à M arc-A urè le , d e S én èqu e à M on taig ne e t à J .-J . R ou sse au , P aris, Vr in, 1958; «D e l in - ʼ G eor g-

関しても極めて重要である︵尚この﹃ルソー年報﹄の論文は彼の最初の著書の第四部第三章に加筆したものである︶︒ セー﹄のセネカ主義の言わば剽窃に過ぎないとする解釈への正当な客観的反論とセネカの﹃エミール﹄への関係︑いずれに

5

︶古い研究だが以下のピールの︵﹃ルソー年報﹄に掲載された︶二つ目のものは︑ルソーのセネカ的な発言がモンテーニュ﹃エ

Stu die s o n Vo lta ire an d the 18t h cen tur y , 1960 vo l. 30

︵︶

Émi le de J .-J . R ou sse au», in ʼ

ibid ., p p. 350–353

︵︶︑同じく説得力がある︒ 響︵ルソーがモンテーニュから強い影響を受けているのは周知である︶の重要性も含めてよりやや慎重な立場を示していて に︵仏訳が主であるにせよ︶セネカの文章から直接に影響を受けているとする︶を念頭に置きつつモンテーニュ経由での影

los op hy , 1996 vo l. 34 n.3 .

︵︵︶︶ピール以外では最初のジマックの研究が︑ピールの指摘︵ルソーはモンテーニュの影響無し

& C o L td, 1972; A m élie O ks en ber g R ort y, «Th e T w o F aces o f S toici sm: R ou sse au a nd F reud», in Jou rn al of t he H isto ry o f P hi- Kenn ed y F . R oc he , Rou sse au : S toi c a nd R om an tic , L on do n, M et huen ; A ndr é C ha rra k, D e l 6

em pir ism e à l ʼ

exp ér ien ce , V rin, 2013. ʼ

Let tres, 1990, p p. 139–140. Tro uss on, «R ou sse au t rad uc teur de S én èq ue», in Tra va ux d e l itt ér atu re o ffer ts en h om m age à N oém i H epp , P aris, L es B elles Ra ymo nd 7

︶ルソー自身による一連の︵﹃告白﹄を中心とする︶証言については︑トルッソンが簡潔に指摘してくれている︒ こと︵短い直接の引用であるセネカの﹃道徳書簡﹄︵ を前提とする複数の箇所が存在する︒これについては︑以下のガリマールの文庫版﹃エセー﹄の編者達の適切な註を参照の

8

︶モンテーニュの﹃エセー﹄第二巻第三一章がそれで︑セネカの﹃道徳書簡﹄からの直接の短い引用や彼の﹃怒りについて﹄

︵ く引用されているため︑セネカの﹃怒りについて﹄からの影響はやや限定的でもあろう︒

M on tag in e, Es sais , 3 v ol., P aris, Ga llim ard , t.II, p p. 795–796.

しかし︑プルタルコス等のセネカ以外の著者も頻繁にかつより長

56 M ic he l de

︶以外は﹃怒りについて﹄に関る六ヵ所が指摘される︶︒

D om C aj ot Les p lag iats d e M. J .-J . R . d e G en ève s ur l 9

︶ピールがその論文の註で挙げているルソーの同時代の︵

H aye , 1766

︶や︑その論文の補遺で挙げている

éd uc atio n , L a ʼ

Pir es, a rt.ci t, p . 58 not e 1 et p . 86.

て批判的に捉えているという︵本論著者は二つとも未読である︶︒︵︶

da gog iq ue s de L oc ke e t de R ou sse au , P aris, 1911, pp . 174–175

︶が︑特にルソーのセネカからの影響をモンテーニュ経由とし

20 P. Vil le y L infl uen ce d e M on taig ne s ur l es i dée s

世紀初めのの著作の指摘︵

ʼ

10 Sto ïci sm e e t p éd agog ie , ou vr.ci t ., P art ie IV , C h. 3, p p. 180–188; a rt.ci t., p p. 63–70.

(17)

11 R och e, ou vr.ci t. , c h.3.

Pir es, a rt.ci t., p p. 87–90.

にほぼ十全な指摘がある︒

12 Tro uss on, a rt.ci t., p p. 142–150.

︶セネカを参照する際のルソーのラテン語の素養については︑トルッソン以前のピールの論文

︵ 野英二他篇︑法政大学出版︑第七巻︵二〇〇九年︶︒

13

︶ディルタイ︑﹁一六︑一七世紀の文化における人間学の機能﹂︵初出一九〇四年︶︵斎藤太郎他訳︶︑﹃ディルタイ著作集﹄︑牧

14

︶同上論文︑三九九〜四〇〇頁︒

pa r M. H ulli un g, N ew B run sw ic k et L on do n, T ra nsac tio n Pu bli sh er s, 2016, p . 163 et s ui v.. 15 M ark H ulli un g, «S toici sim f or R ou sse au a nd O th er B ele aguer ed M oder ns», in Ro uss eau a nd t he D ilem m as o f M od er nity , é d.

Ju stu s L ipsi us, Tra ité d e la C on sta nce , t rad . f r. p ar L ucien D u B ois, B rux elles et L ei pzig , 1873.

参照した︒ 初版︶については︑安西による私訳の他に一九世紀のデュ・ボワという人によるラテン語原文と仏語対訳つきの以下の版を

16

︶安西信一︑﹃イギリス風景式庭園の美学﹄︑東京大学出版︑二〇〇〇年︑三〇〜三三頁︒リプシウスの﹃不動心﹄︵一五八四年

17 Ibi d. , p . 294.

︵ 〜八九頁︶を参照のこと︒ 子でもあったともされる︶ピエール・シャロンの新ストア主義からデカルト哲学への連続性を指摘する箇所︵同上書︑八八 第三章︵﹁一六世紀と一七世紀におけるストア主義の復興﹂︶︒例えば︑特にこの第三章における︵モンテーニュの友人で愛弟

18

︶エルンスト・カッシーラー︑﹃デカルト︑コルネイユ︑スウェーデン女王クリスティナ﹄︑朝倉剛他訳︑工作舎︑二〇〇〇年︑

19

︶ディルタイ︑前掲︑四〇五〜四〇六頁︒

seau , é d. p ar P . R ile y, C am bridg e et c., C am bridg e U ni v. P r., 2001, p p. 97–100. 20 Chr isto ph er B ro ok e, «R ou sse au s p oli tic al p hi los op hy : S toic a nd A ugu stini an Or ig in s», in Th e C am br idg e C om pa nion to R ou s-

ʼ

ib id . CX XI, p . 402 et p . 404

五〜三七六頁︵︶︶︒

Epi stle s , in M ora l E ssa ys; Ep itle s; Tra ge die s , ou vr.ci t. , t.VI, CX VI, p . 332 et 334

︵︶︒尚︑書簡一二一も参照のこと︵同書︑三七

21

︶セネカ︑﹃道徳書簡﹄︑﹃セネカ哲学全集﹄︑東京︑岩波︑二〇〇五〜二〇〇六年︵全六巻︶︑第六巻︑書簡一一六︑三三六頁

IV , 936 se dé velo pp e et n

ある︵︶︒すなわち︑﹁人間の知恵と共にしか発達せず作動しない︵ 向かう﹁感覚的存在﹂の原理に基づく﹁自己愛﹂と共存するもう一つの﹁自己愛﹂が指摘されるのは︑この文脈においてで

22

︶例えば︑ルソーの﹃ボーモンへの手紙﹄において﹁自然の最初の衝動﹂たる﹁自己愛﹂が二重化され︑自己の身体の保全に

l ho m me l êt re in tellig en t

︶﹂︑﹁知的存在︵︶﹂の原理に基づく﹁自己愛﹂である︒

ʼ ʼ ag it q u ave c les l umièr es de ʼ ʼ

てはジャンセニウスの立場の独自性やその︵後述するペラギウス派と同一視されることになる︶ストア派批判や新プラトン

23 Bro ok e, ibid .. grâce

︶一七世紀の特にフランスの教会側からのストア派批判の鍵になるのは﹁恩寵︵︶﹂だが︑この概念につい

(18)

派的側面そしてすぐ後の世代への影響も含めて︑以下の研究が簡潔かつ示唆に富む︒

A nth on y L ev i, Fren ch M ora lists: t he t he- ory o f t he p as sio ns 1585 t o 1649 , O xf ord , Th e C lar en do n P r., 1964, c h. 8.

«T er tu llien et d

知っていた可能性が高い︒ は︑一八世紀の無神論・唯物論的哲学者であるディドロも指摘しているから︑彼の︵以前の︶親友ルソーもこれについては

24

︶興味深いことに︑異教徒であるセネカをむしろ教会側に組み込もうとした古代のキリスト教者達の親セネカ的態度について

an cien s P èr es de l ʼ

Ég lise , t ouc hés de l ʼ

écl ata nte p iét é de S én èq ue , s e l ʼ

l ap pe lan t n ôtr e: tam clar œ p ietan tis , u t T ert ull ian us , e t p risci a pp ella nt n ost ru m . .... A u s en tim en t d

﹇﹈

ʼ on t a sso cié en ʼ

um , scr ip sit c hri stia ne » Dider ot, Ess ai s ur l es r ègn es d e Cl au de e t d e N ér on , ou vr. ci t ., p p. 217–8 .

︵︶

co mm e un a ur e p aïen, v ou s le t ro uv er ez c hr ét ien: S i lega s i llum u t p aga num, v ou s le t ro uv er ez c hr ét ien: Si l egas i llu m u t p aga n- Era sm e, si vo us le li sez ʼ 25

︶カッシーラー︑前掲書︑

86

頁︒

同様に︶かなり寛容な態度を取っている︒アウグスティヌス︑﹃神の国﹄︵茂泉昭男 関しては︵今しがた本文で述べた様なセネカをむしろ自分達の側に引き入れようとしたヒエロニムスら古代キリスト教者達

26

︶例えば︑本論がアウグスティヌスのストア主義批判の興味深い文面を見出す彼の﹃神の国﹄は︑同じストア派でもセネカに

C om bès, B iblio th èq ue A ugu stienn e, P aris, D es clé e de B ro uw er , t.X X XIV , 1959, li v. VI, x. .

Augu stin us, D e C ivit ate D ei , d an s les Œu vre s d e S ain t A ug ust in ,text e l atin et t r.f r. p ar D e G.

第十二巻︵第六巻︑第一〇章︶︵ 町啓訳︶︑﹃著作集﹄︑東京︑教文館︑

; 野

27

︶同上書︑第一三巻︵第一四巻︑第八章︶︒

28 Bro ok e, a rt.ci t., p p. 103–105.

29 N ico las de M ale bra nc he , D e l a r ech er ch e d e l a v ér ité , in Œ uv res com pl ète s ,t.II, p p. 134–135.

30 A rt.«P hi los op he», in En cyc lo die , é d. p ar Dider ot et D

AL em ber t, t.XII 1765 , p . 510.

︵︶

ʼ

︵ この文章を﹃百科全書﹄に掲載した事実は重要だろう︒ 行動主義的側面について余りにも盲目的なところがあるだろう︒但し︑ヒュリウングが指摘する通り︑ディドロがそれでも 判はかなり一七世紀後半以後のアウグスティヌスに依拠する教会側のそれに近いとも言えるし︑ある意味ではストア主義の

31 H ulli un g, a rt.ci t., p . 163.

︶彼は︑この項目の︵無記名の︶著者をデュマルセだとしている︒ちなみにこの項目のストア主義批

Janin e Fi llio n-L ahi lle , Le D e i ra d e S én èqu e e t l a p hilo sop hie s toïci en ne d es p as sio ns , P aris, K lin cksie ck, 1984.

に従う︒ がき﹂の指摘︵﹃セネカ哲学全集﹄︑前掲書︑第一巻︶と︑そこで主に参照されているフィヨーン・ライーユの以下の研究書

32

︶セネカの﹃怒りについて﹄の基本的情報としては︑﹃セネカ哲学全集﹄の﹃怒りについて﹄の訳者である兼利琢也氏の﹁あと

33 Fi llio n-L ahi lle , ib id. , p . 284.

34 Ibi d ., p p. 287 -288.

35 Ibi d ..

︶フィヨン=ライーユによると︑主に第一巻はクリュシッポス︑第二巻はポセイドーニオス︑第三巻はセネカの同時代人

(19)

達それも特にソーティオンの議論に依っていると言う︒執筆時期の特定に関しては︑同上書の﹃セネカ哲学全集﹄第一巻の﹁年譜﹂に簡潔に複数の立場が示されている︒兼利氏は︑執筆時期については慎重に上限四一年︵カリグラ帝暗殺とクラウディウス帝即位そしてその後のセネカの流刑の年︶〜下限五二年︵献呈者のノウァートゥス五一年〜五二年にアカイア総督となっている︶を呈示している︒︵

︵ とされるが︶カリグラ帝死後もクラウディウス帝の﹁怒り﹂によって過酷な流刑さえ耐え忍ばねばならなかった︒

36

︶カリグラ帝からの﹁怒り﹂と不興に起因する不遇の体験がまず指摘されるし︑セネカは︵その反映はこの著作には殆ど無い

︵ ディウスが理想とするアウグストゥス帝への賛辞等︶︒ 配慮した文面らしきものがこの第三巻では登場してくる︵クラウディウスに辛酸をなめさせたカリグラ帝への批判︑クラウ な視点の導入﹂を第三巻で主張するものの︑フィヨン=ライーユの示唆に従って読んでみると︑かなりクラウディウス帝を

Fi llio n-L ahi lle , ou vr.ci t. , p p. 278–284.

著作の形を取ったもの︶としての性格を強力に主張している︒実際︑兼利氏が﹁普遍的 的提言︵但し直接に皇帝に進言できる政治的立場には未だ至っていなかったが故に長兄のノウァートゥスに献呈する形での から流刑までの短い間に執筆されたというかなり明確な立場をとるため︑このクラウディウス帝を主に念頭に置いての政治

37

︶特にフィヨン=ライーユは︑﹃怒りについて﹄の執筆時期に関して兼利氏とはやや異なり︑四一年のクラウディウス帝即位後

ἀν δρε ῖο ι

気ある人々︵︶ではない﹂という点をむしろ強調している︒︶︒

ὀρ γιζ όμε νο ι

者は思う︵少なくともそこでアリストテレスは︑﹁怒りに駆られる人々︵︶﹂が﹁戦う力の強い人であっても︑勇

1117a

げている﹃ニコマコス倫理学﹄の箇所︵第三巻第八章︵︶︶は︑このセネカによる引用とはかなり含意が異なると本論

ix, p . 128

︶︒但し︑セネカ研究者達によっても︑アリストテレスの発言は特定できないらしいが︑少なくとも兼利氏が註で挙

38 Sen eca, D e i ra , in M ora l E ssa ys; E pitl es; T rage die s , ou vr.ci t. , t. I, li v. I,

︶セネカ︑﹃怒りについて﹄︑前掲書︑第一巻九︑九四頁︵

︵ 文脈上︑一部訳を変更したところがある︒

Timae us , in Timae us , Cr itia s , Cle ito ph on , M en ex en us , E pi stle s , L oe b C las sic al L ibra ry, H arva rd U ni v. P r., p . 178, 180, et 182

︶︒

39 Pla to,

︶プラトン︑﹃ティマイオス﹄︵種山恭子訳︶︑﹃プラトン全集﹄︑岩波書店︑第一二巻︵一九七五年︶︑一二七〜一三〇頁︵

︵ に疑問の余地がある︒ て︑どれほど彼のこの著作において重要な役割を担うか︑そしてどれほどルソーに影響を与え得たか︑以上については大い あるこの二一節のセネカに依る教育論的指摘に着目していた可能性はあろうが︑あくまでもセネカのそれは短いものであっ

40

︶この第二巻は二一節で子供の教育における﹁怒り﹂の除去の必要性に触れており︑﹃エミール﹄の著者が引用箇所と同じ巻に

41 Sen eca, Epi stle s , ou vr.ci t. , t.V , X C, p . 422 et 424

︶セネカ︑﹃道徳書簡﹄︑前掲書︑第六巻︑書簡九〇︑一一七頁︵︶︒

42 ib id. , p . 428

︶同上書︑書簡九〇︑一一九頁︵︶︒

43 Sen eca, D e i ra , ou vr.ci t. , li v. I, xv ii, p . 150

︶﹃怒りについて﹄︑前掲書︑第一巻︑一七節︑一〇七頁︵︶︒

(20)

︵ 指摘すべきだろう︒ な﹁欲望的部分﹂に専ら帰属させつつ﹁気概的な部分﹂を救い出す様な理屈を展開することが必然的に不可能であることも

44

︶更にストア派は魂の分割を認めない立場に立つが故に︑プラトンの様に魂を三分割することで﹁情念﹂の誤謬をより身体的

354 et p . 356

︶︒

45 Augu stin us, D e C ivit ate D ei , ou vr.ci t. , p .

︶アウグスティヌス︑﹃神の国﹄︑前掲書︑第一二巻︵第九巻︑第四章︶︑二四四頁︵

46 ib id. , p . 356

︶同上書︑二四五頁︵︶︒

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